2025年6月17日

하녀들(ハニョドゥル/下女たち)

 

イニョプの道 | サンテレビ


 すこしまえから朝鮮語の勉強をやっておりまして、まだまだぜんぜんの初学者なのだけれど、韓ドラをみてて、ときたま字幕なしに言葉が頭に入って来るようなこともあったりして、おもしろいものである。

 最近みたドラマが、「イニョプの道」という日本語の題がついているのだが、オープニングのタイトルバックでその原題が「하녀들」だということを知った。「下女たち」という意味である。

 日本語版では、イニョプというこのドラマの主人公の名がタイトルに入っている。ところが、韓国で放送されたオリジナル版は、「하녀들」(ハニョドゥル)という、そっけなくも聞こえるタイトルが付けられていたのだと知って、しかしそこに制作者の思いがきっと込められているのだろうなと想像した。



 両班(やんばん)の若い女性であるイニョプは、父が謀反の罪をきせられ処刑されたため、奴婢の身分に落とされ、かつての親友の家に下女としてつかえることになる。イニョプは、苦難に立ち向かいながら、ついに父の無罪を証明し、家門を復活させて元の身分に復帰することができました! めでたしめでたし。

 乱暴にまとめてしまえば、こういうストーリーである。

 イニョプ自身は、身分を落とされることで、それまで人間以下のモノとしてあつかってきた下女たちとはじめて「人間」として出会うことができ、自分自身も「人間」として成長し始める。

 でも、結局のところ元の両班の身分にもどってハッピーエンドだと言われても、私は釈然としない。身分回復後のイニョプはかつての下女仲間の何人かを連れてきて、「あなたたちに苦労してほしくないから」とか言って、自分の家につかえさせたりもするのだけど、それでは「幸不幸は主人しだい」という彼女たちの立場はなにもかわらない。

 というわけで、イニョプというひとりの女性の物語としてみれば、もやもやが残る結末である。時代劇なので、その時代(朝鮮時代)の限界をこえた結末にはできないという制約はある。なので、あたりまえといえばあたりまえだけど、けっきょく身分制は温存されちゃうのね、という。



 しかし、だからこそ、「하녀들」(ハニョドゥル)というタイトルを制作者があえてつけているところに意味をみいだしたくもなるのだ。たんなる「両班のお嬢さまがいっとき奴婢に落とされたけれど、苦難を克服し、身分を回復できました」というイニョプの物語としてだけみないでね、と。イニョプが最終的には身分回復することで通りすぎてしまう、下女たちの生きざまをこそみなさい、と。

 イニョプが自身も下女になって初めてかいまみた下女たちの世界には、主人の目の届かないところでひそかになされるかばい合いがあり、助け合いがあった。奴婢たちには正義感があり、そこにプライドもあった。抑圧に無念さと無力感をいだかされながらも、一矢報いようという反抗の種はそこらじゅうにある。そのひとつひとつは消費しやすい物語にはならないかもしれないけれど、かけらのようにあちらこちらにちらばっている。そんな光景がいきいきと描かれる場面がこのドラマにはいくつかあった。

 こういうふうに身分制秩序のなかに、これをゆるがす反抗の契機をちりばめて描き、いずれそれが崩壊し人間によって克服されるであろうことを暗示するという仕掛けは、韓国でつくられる時代劇によくみられるように思う。そういうドラマをつくれる社会だということは、天皇制という野蛮な身分制秩序が国家の制度として恥知らずにも堂々と温存され、身分制が克服すべきものだということすらいまだ共通の了解として成立しない社会の住民からすると、いくらかまぶしく感じてしまう。


2025年6月12日

見下している相手から道義的に正しい抗議を受けたとき


 自分が下に見ている相手から道義的に正しい抗議を受けると、パニックになって激昂してしまう、ということがある。

 抗議を受けるというのは、おまえの行為は正しくないと指摘されることなのだから、なかなか心おだやかではいられない。必要以上に防御的な態度をとってしまうというのは、ありがちである。

 たとえば、抗議をしてきた人に対して「あなただって同じようなことしてるじゃないか」とか「私だってつらいんです」とか言ってしまうのが、それだ。前者は相手の抗議する資格を否定しようとする行動だし、後者は自分も被害者のポジションをとることで自分への抗議を無効化しようとする行動だ。どちらも、抗議から自分を守ろうという防御的な行動ではあるけれど、相手をだまらせて抗議をさせないようにしているのだから攻撃的な行動でもある。

 対等な立場の相手からの批判や抗議であっても、こういう攻撃的な反応をかえしてしまうことはしばしばあるものだけれど、これが自分が下に見ている相手からの抗議となると、ほとんどパニックとしか言いようのない激しく攻撃的な反応をしてしまうことがある。その抗議の内容の道義的な正しさが疑いようのないものであれば、その攻撃性はますます激しくなりうる。

 以下は、まさにそういうケースではないだろうかと思った。


パンツ一丁で身柄拘束は「違法」、都に33万円の賠償命令 原告代理人「言うことを聞かせるための拷問だ」東京地裁 - 弁護士ドットコム(2025年06月11日 16時50分)


 これは新宿警察署の警察官たちが、留置していた人に組織的に暴行をくわえたという事件で、その内容は口にするのもはばかられるほどひどい。で、気になるのが、なにがこの人たちをこういう行動にかりたてたのかという点である。


同年7月、同じ部屋に収容されていた1人が風邪の症状をうったえ、38.9度の熱があることが判明した際、別の収容者が毛布の差し入れを求めたものの、担当の警察官に拒否された。

そこで男性が「熱がある人を1時間放置するのか」「毛布1枚くらい入れてもいいのではないか」といった趣旨の発言をしたところ、保護室に連行された。

男性はそこで約2時間にわたり、服を脱がされパンツ一丁にさせられ、両方の手首と足首を縛られた状態にされたという。

その間、尿意を催した男性がトイレに行きたいと求めたが、「垂れ流せよ」などと言われ対応してもらえず、男性は我慢できずに身体拘束を受け寝転がされたまま排尿した。

また、身体拘束を解かれたあと、便意を催した際にはトイレットペーパーを要望したが無視され、男性はやむなく手に水をつけて拭かざるを得なかったという。


 いやはや常軌を逸した攻撃性があらわれており、警官たちは集団的にパニックにおちいってるようにしかみえない。で、この人たちを激昂させた原因は、「熱がある人を1時間放置するのか」「毛布1枚くらい入れてもいいのではないか」という、留置されてる人からのどう考えても道義的にまともな抗議の発言だったようである。というか、「抗議」以前にまっとうな「提案」であって、「そうですね、毛布持ってきますわ、ありがとう」とか言って対応すればよいものを、警官たちはなぜかブチ切れるのである。

 なぜブチ切れるかといえば、自分たちが見下している相手から、まっとうな批判を受けたからだろう。警察官たちにとっては、悪いことをしていることを取り締まっているのだという自負が、自分たちの道義的な優位性の根拠になっているということもあろう。「犯罪者」が警察官のプライドをささえてくれているのである。その「犯罪者」から「熱がある人を1時間放置するのか」と自分たちの正義に疑問をつきつける抗議(それもその内容はだれも否定できないような常識的に正しいものである)をつきつけられたからこそ、警官たちはパニックになったのであろう。

 警察官が職務上こういうパニックを起こしやすい位置にいるのは確かだろうから、組織として対策をとる必要があるのではないか。

 もっともこれは、警官とかだけでなく、教師とか福祉にたずさわる人とか、あるいはボランティアふくめ支援者的に他者に関わる機会のある人とか、育児をする人とか(←こうやってひとつひとつあげていくと、この社会で生きているだれでもそうじゃないかという話になるけど)にも関わってくる課題である。

 大事なのは、相手を見下さない、自分と対等な他者として相手と関わるということになるのだろうけれど、まずは相手よりよけいに権力をもっている場合に、自分も新宿署の警察官たちのようなパニックにおちいる可能性があるのだというところを自覚するところから始める必要があるのかも、と思いました。


2025年6月7日

入管庁「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」がヤバすぎる


  5月23日、法務大臣が記者会見をおこない、「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」なるものをあきらかにした。

「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」について | 出入国在留管理庁(2025年5月23日)


 入管庁作成の資料は、以下のリンクからみることができる。

「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」(PDF)


 資料をスキャンした画像もはっておく。

【入管庁資料「ゼロプラン」1ページ】


【入管庁資料「ゼロプラン」2ページ】

 この「ゼロプラン」に対しては、またあらためて批判を書きたいが、今回はざっと読んでの雑感を書きとめておく。



1.難民審査はますます雑に

 資料の2ページ目に、「不法滞在者ゼロプランによって期待される当面の効果(目標)」と題して、3つの数値目標がかかげられている。

 第1に、難民認定申請の審査を迅速化し、2030年までに平均処理期間6か月以内を目指すというもの。1ページ目の記述などとあわせてみると、「誤用・濫用的な難民認定申請」(と入管がみなす申請)を「類型化」することで審査を迅速化するということのようだ。ようするに、「こういうものは誤用・濫用的な申請だ」という典型例をあらかじめまとめておき、その典型例に類似しているようにみえる申請は申請者本人からのインタビューも省略するなどして「迅速」に結論を出してしまう、ということだろう。

 これは、先入観をもって審査をやりますよということを、公然と宣言しているようなものだ。「誤用・濫用的な申請」にありがちなパターンに合致しているようにみえるものは、時間をかけずに処理しますよ、と。その「早期かつ迅速な処理」は不認定の結論ありきで予断をもっておこなわれることになるだろう。

 しかし本来、難民審査というのは、保護すべき人をとりこぼしてしまうことを何よりおそれなければならないものである。ある申請の内容が、これまでの不認定の典型的なパターンに沿うようにみえたとしても、当然ながらそれぞれの審査は先入観にとらわれないようにていねいになされるべきだ。「類型化」によって審査を「迅速化」しようという入管庁の発想(しかも、これはあくまでも「難民として認定しない」という結論を出すのを「迅速化」しようという話だ)は、本末転倒である。

 しかも、日本では、現状すでに、難民として認定すべき人が適切に認定・保護を受けられているとはとうてい言えない状況にある。難民申請の99%以上は不認定である。こうした状況のなかで、「類型化」による審査の「迅速化」を進めようとすれば、認定・保護を受けるべき難民申請者がますます取りこぼされることになるのは、確実である。



2.仮放免者などを「半減」させる?

 資料の2ページ目に数値目標としてかかげられている2つめが、「退去強制が確定した外国人数」について、2030年末までに半減を目指すというもの。

 ここからわかるのは、「不法滞在者ゼロプラン」とは言っているものの、入管庁が主要なターゲットにしているのがいわゆる「不法滞在者」の全体ではなく、すでに「退去強制が確定した」仮放免者など(あとで述べるように入管はこれを「送還忌避者」という言葉で呼んできた)であるということである。

 なお、「不法滞在者」という言葉は、法務省が国民向けに摘発や収容・送還を正当化するために、そのいわば反社会性・犯罪性を誇張・ねつ造してもちいているものなので、ここでは「非正規滞在者」という、よりニュートラルな語を使うことにする。

 その非正規滞在者数は、正確な実数をつかむのが難しいのだが、8~9万人といったところではないかと思う。最新の入管白書によると、2024年1月1日時点の超過滞在者数(オーバーステイ)*1が7万9千人ほど。この数字は、1993年の29万人ほどをピークに下がりつづけ、2012年以降現在まで6~7万人ほどの横ばいで推移している。

 入管庁の「ゼロプラン」が問題にしているのは、この8~9万人ほどとみられる、そのほとんどは未摘発の非正規滞在者の全体ではない。すでに摘発されるなどして退去強制処分を受けて、出国していない人びとだ。今回入管庁が出してきた資料によると、その数は3,122人。3月にやはり入管庁がおこなった報道発表*2もあわせてみると、その内訳は被退令仮放免者2,448人、被退令監理者213人、被退令収容者461人とわかる。



3.入管政策の誤りを「送還忌避者」に責任転嫁

 この、退去強制処分を受けて、しかし退去にいたっていない人を、入管は「送還忌避者」と呼んできた。2016年ごろから顕著になった入管施設での長期収容問題は、入管がこの「送還忌避者」を減らそうという目的で収容を長期化させたことで生じたものだ。

 結局、「送還忌避者」を長期収容・くり返しの収容によって帰国に追いこみ減らしていこうという強硬な政策は、収容死をふくむおびただしい人権侵害を引き起こしながら、入管にとっても思うような成果をあげられなかった*3

 すると今度は入管は、「送還忌避者」が送還に応じないから収容が長期化するのだ、また難民認定申請の誤用・濫用的な申請が「送還忌避者」増加の原因になっているのだという理屈で、入管法の改定を画策し始めた(2019年10月に法相が「収容・送還に関する専門部会」設置)。

 2021年に3回目以降の難民申請者の送還を可能にするなどをふくむ改悪入管法が提出され、反対運動・世論のもりあがりのなか一度は廃案になったが、23年に同様の法案が再提出され、同年6月に可決・成立。24年6月10日から施行されている。

 この改悪された入管法を活用して、「送還忌避者」を減らしていこうというのが、今回の「ゼロプラン」である。

 しかし、「送還忌避者」なるものがなぜ増え、あるいは減らないのかといえば、それはこれまでの入管政策に原因があるとしか言いようがない*4。「送還忌避者」が生み出されるのは、入管が在留を認めるべき人に在留を認めず、退去強制処分を濫発していることによるところが大きい。

 ひとつには、在留特別許可の基準をきわめて厳しく設定しているということ。送還を実施すれば家族分離が引き起こされるなど人権上在留を認めなければならないケースなどにも退去強制処分が出ている。もうひとつには、難民認定が適切になされていないこと。

 つまるところ、在留を認めるべきケースにこれを認めず、退去強制令書が発付されているので、帰国しようにもできないから送還を拒否せざるをえないという人が多数出てくるのは当然である。入管政策が「送還忌避者」を生んできたのである。

 ところが入管は、みずからの政策・制度運用や難民審査のあり方を反省することはいっさいしないかわりに、送還を忌避する者が長期収容をもたらしているのだ(だから長期収容問題を解決するために送還を強化するための法改正が必要である)と、あべこべな主張をする。このあべこべな責任転嫁の論理のもと進められ成立してしまったのが昨年6月から施行されている改悪入管法であり、またそれらにもとづいて策定されたのが今回の「ゼロプラン」である。



4.無理やりの送還を激増させれば何がおきるのか?

 「不法滞在者ゼロプラン」なるものが、入管のいうところの「送還忌避者」(退去強制処分を受けたが仮放免や監理措置により収容を解かれている人、また同処分を受けたが送還をこばんでいる被収容者)をおもなターゲットにしているのは、いまみてきたとおりである。では、このプランはその「送還忌避者」をどうやって減らそうとしているのだろうか。

 資料の2ページ目にかかげられている数値目標のうち、3つめは「護送官付き国費送還」について、3年後に倍増を目指すというものである。「護送官付き国費送還」というのは、入国警備官が送還対象の人を拘束し飛行機に搭乗させるなどして送還先の国まで連行するというものである。これを2024年の249人から2027年には倍の500人ほどにしようというのである。

 送還されようとする人が抵抗すれば、入国警備官はこれを「制圧」して無理やり飛行機に乗せようとするので、非常に危険である。2010年3月には成田空港で送還中の「制圧」の過程でガーナ人が死亡するという事件も起きている。

 入管のいう「送還忌避者」のなかには、自国に帰れば生命の危険があって難民申請している人や、送還によって家族がばらばらになる人、長期間にわたり日本にいるため出身国には生活基盤がまったくないなど、帰国できない深刻な理由のある人たちが多くふくまれる。こうした人たちを送還しようとすれば、上で述べたような事故の危険性が高くなるし、事故が起きなくとも、送還そのものが深刻な人権侵害をもたらす。

 無理やりの送還には、取り返しのつかない事故の危険性があり(その危険性を予測できるのに実行した送還で人が死ぬのは、「事故」ではなく「殺人」と呼ぶべきだが)、それを回避したとしても送還された人の生命・安全にやはり取り返しのつかない損害をあたえる可能性がある。そのような権力行使について、数値目標を設定するという発想がそもそもヤバすぎないか。百人斬り競争かよ。入管の幹部の役人たち、倫理観がぶっこわれてないか。「不法滞在者」とやらより、おまえらのほうがよっぽどこわいよ。



5.入管施設での地獄が再現される

 「送還忌避者」減らす方策について、「ゼロプラン」が何を述べていないかという点も重要である。

 「送還忌避者」は送還を実施することでも減るが、その退去強制処分を取り消して在留を正規化することによっても減らすことができる。入管が今回公表したプランでは、後者についての言及がいっさいない。

 もっとも、1ページめの「(6)改正入管法の新制度を活用した自発的な帰国の促進」というところに、「出国命令制度や上陸拒否期間短縮制度の積極的な活用を促し、自発的な帰国を促進する」とあるのは、この「ゼロプラン」において唯一肯定的に評価できるところだと思う。上陸拒否期間短縮制度というのは、23年の入管法改定で新設された制度で、退去強制処分の確定した人は最低でも5年の上陸拒否期間が設定されるところを、場合によってはこれを1年に短縮できるというものである。一度帰国しなければならないので在留を正規化するということとは違うが、日本人の配偶者のいる人などは、これによって救済される人もあるだろう。

 しかし、これのほかに、在留を認めることで「送還忌避者」を減らしていくという方向での方策は、この「ゼロプラン」にはない。難民認定のプロセスを適正化することで、また在留特別許可の基準を見直すことで、退去強制処分を取り消して在留を認めるべき余地のある人は出てくる可能性はあるはずだが、それらの点は検討されないようだ。

 となると、「送還忌避者」をもっぱら送還によって減らすしかない、ということになる。3千人以上の「送還忌避者」を2030年までに半減させようとするなら、さきにふれた「護送官付き国費送還」を激増させ、他方では仮放免や監理措置で収容を解かれている人を再収容し、期限の上限が設定されていない長期の収容によって痛めつけ、帰国するように追い込んでいくということをするしかないだろう。2016年ごろから2020年にかけての、各地の入管収容施設の地獄が再現されることになるだろう。収容死する人がまた出てくるのを避けるのはむずかしいだろう。

 そうならないためには、この「ゼロプラン」なるものを撤回させ、もっぱら送還のみによって「送還忌避者」を減らしていこうという入管の方針を転換させなければならない。



6.ヘイトスピーカーと公然と手を組む国家機関

 この記事の最初にリンクした入管庁のページ「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」についてには、以下のような記述がある。この「ゼロプラン」がどのような経緯で作られることになったか、説明するくだりである。


……昨今、ルールを守らない外国人に係る報道がなされるなど国民の間で不安が高まっている状況を受け、そのような外国人の速やかな送還が強く求められていたところ、法務大臣から、法務大臣政務官に対し、誤用・濫用的な難民認定申請を繰り返している者を含め、ルールを守らない外国人を速やかに我が国から退去させるための対応策をまとめるよう指示がありました。


 「ルールを守らない外国人に係る報道がなされるなど国民の間で不安が高まっている状況を受け」などと書いているのは、産経新聞や、一部のジャーナリストを自称する者らが、クルド人住民に対する差別をあおる発信を報道と称しておこなっていることなどをも指しているのであろう。

 入管庁のサイトをみると、「共生社会の実現に向けた外国人の受け入れ環境の整備」も入管行政の基本的な役割のひとつだと言っている。ならば、報道と称しておこなわれている外国人住民への差別扇動やヘイトスピーチについて、安易にこれをうのみにして差別と排外主義に加担しないよう、国民に注意をよびかけることをこそ、入管庁はすべきではないのか。

【入管庁のサイトより「入管行政の基本的な役割」を説明した図。
3点目として「共生社会の実現に向けた外国人の受け入れ環境の整備」
がかかげられている。】

 ところが、入管庁がげんにやっているのは、一部の報道機関やジャーナリストがおこなっている差別扇動・ヘイトスピーチと、それらによって育てられつつある「国民の不安」を口実にして、みずからの政策を押し通そうというものである。入管は、産経のような差別扇動者のゴロツキどもと自分らが共犯者であることをかくそうともしていないのである。税金つかってなにやってるんだ、こいつら。



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*1: 在留期間が切れて在留している人数。法務省・入管用語では「不法残留者」という。この超過滞在者数に、密航など入管が把握していないかたちで日本に来て在留している人数を足したのが非正規滞在者数の全体ということになる。

*2: 令和6年における入管法違反事件について | 出入国在留管理庁(2025年3月14日)

*4: ここでは簡潔にしか述べないが、詳しくは以下のリンク先記事などを参照。

2025年5月29日

「不法滞在天国になってしまう」だって…… 立民・藤岡議員の妄言


「〇〇のくせに」という思考

 差別扇動で商売するゴミクズ新聞のサイトには、あまりリンクをはりたくないのですが。


運転免許証に在留期間記載なく「不法滞在天国に」 外国人の金属盗巡り立民・藤岡氏が指摘 - 産経ニュース(2025/5/23 12:55)


 国会質問などで外国人への嫌悪をあおるのが、議員にとって人気取りの有効な手段になっているということなのだろう。

 それにしても、「不法滞在天国」なんて言葉、よくもまあ口から出てくるものだと、ある意味感心してしまう。立憲民主党の衆議院議員・藤岡隆雄(栃木4区)の発言である。


また、藤岡氏は「不法滞在の人が在留期間を越えていて自動車を運転しても、不法滞在以外はなんの問題もないのか」との疑問をぶつけた。警察庁は「運転という観点では無免許運転には該当しない」と語った。藤岡氏は「不法滞在で運転はオーケーなら、やはり、不法滞在天国になってしまう懸念がある」と指摘した。


 運転免許が取得でき、自動車を運転できるというだけのことがなんで「天国」なのか、さっぱりわからない。

 差別主義の考え方におかされると、たとえば外国人なら外国人が、あるいは女性なら女性が、人間としてあたりまえのことをするのが「分不相応」だとか「生意気」だとかみえるものだ。男がやれば普通とされることでも、同じことを女がやると、「女のくせに」とかそういうことを言い出す。

 こういう差別主義的な考えは、相手になにか責められるような非があるようにみえるときには、いっそう勢いづく。たとえば外国人のなかでも、「不法滞在」というルール違反をおかしている相手だと思えば、ますます「〇〇のくせに」という、まさに差別的としか言いようのない発想をぶつけてもよいのだとなる人間はいるのだ。

 そういうわけで、藤岡とかいう議員のような人間には、「不法滞在のくせに運転免許を取得できるなんて!」「不法滞在で運転がオーケーなのか!」などというばかげたことが、おどろきポイントになってしまうのである。

 この人の「不法滞在天国になってしまう懸念がある」という発言なんて、どうみても誇大妄想としか言いようのないものだけれど、こういう発言が一定の有権者にウケるという計算があるのだろう。実際、産経新聞という排外主義的な連中を読者とする新聞がこうしてくわしく国会質問の様子を記事にして宣伝してくれているわけだし。



「天国」?

 上の産経の記事によると、藤岡が「不法滞在天国になってしまう」として、懸念してみせているのは2点あるようだ。ひとつは、運転免許証に在留期間が書かれていない、また在留期間が切れても免許証としては有効であるため、本人確認のための証明書に使えてしまうこと。もう1点が、さっき引用したように、在留期間が切れても免許証としては有効なので車の運転ができるということ。つまり、(在留期間が切れていることをあかさずに)本人確認ができたり、車の運転が合法的にできたりすることが、「不法滞在天国」だと言っているわけである。

 入管庁が出している入管白書をみると、超過滞在者(在留期間が切れて日本にとどまってる人。入管は「不法残留者」と呼んでいる)は、2024年1月時点で79,000人ほど。

 この人たちの実態を私はくわしく知っているわけではないけれど、「天国」じゃないと思うよ。

 大っぴらに就労できないので仕事みつけるのも大変だし、当然そのぶん条件のよくない仕事ばかり。健康保険に加入できないので病気やケガでも病院に行くのにためらわざるをえない。警察や入管に摘発されると、送還や入管施設への収容の危険がある。このことは、どうしても帰国できないという事情のある人(8万人弱のうちのごく少数だろうけれど)にとっては、非常に深刻な問題だ。なにか困った状況になっても、こわくて警察などをたよるのも難しい。ウィシュマさんだって、DVからのがれようと警察に行ったら、入管送りにされて、しまいには殺されたではないか。運転免許証の交付を受けられるぐらいで「不法滞在天国になってしまう」とか、ばかげた言いぐさにもほどがある。

 入管庁の報道資料によると、退去強制処分を受けて仮放免状態にある人は、2,448人(2024年末現在)だそうだ。こちらは、入管に自主出頭したり超過滞在を摘発されたりなどして、収容は解かれているものの定期的な出頭義務を課して入管が住所などを把握している人の人数。この退令仮放免者と呼ばれる人びとの状況は、私もある程度具体的に知っているけれど、「天国」などと言えるようなハッピーな暮らしをしている人はいない。就労は禁止され、移動の自由は住んでいる都道府県内に制限され、国民健康保険ふくめ社会保障から排除されている。1~2か月ごとの入管への出頭日のたびに、「収容されるかもしれない」「送還されるかもしれない」との恐怖にさらされる。

 仮放免の人なんかは、難民ふくめ国籍国には帰れないという人が多いし、退去強制処分が出てから10年以上という人はぜんぜんめずらしくない。日本での生活が20年とか30年超とかの人もざらにいる。そんな人たちをこれからどうするのかという問題はわきに置くにしても、現に日本に存在し生活している人たちである。車を運転する必要のあるという場合もあるだろうし、本人確認のために運転免許証があると便利だということもあるだろう。そういう生活のささやかな、しかし切実な必要性のあることについて、「不法滞在のくせに運転がオーケーなのか」「不法滞在天国だ」などという理屈にもならない言いがかりをつけるのは、やめてほしい。

 そもそも運転免許というのは、運転の適性のある人に免許を与えることによって道路交通の安全を確保するためのものであるはずで、それを一部の人間から取り上げていじわるすることで人気取りするためのものなんかではない。



「在留活動の禁止」という理屈

 産経新聞がくわしく報じている藤岡議員の国会質問は、入管からの入れ知恵があったのかどうか知らないけれど、その思想が入管っぽいなあという感想を私はいだいた。

 10年近くまえのこと。ある仮放免の人が、役所から紹介されて図書館の蔵書整理のボランティアに参加したことがあった。仮放免には、報酬を受ける活動はしないという条件がつけられているのだけれど、報酬のない活動には参加しても問題ないだろうとその人は判断したのだった。

 ところが、その人が住んでいた地方の入管支局が、これにいちゃもんをつけてきた。仮放免は「在留活動」が禁止されるので、報酬を受け取らないボランティアでもダメなのだという。

 「在留活動の禁止」? 「在留活動」とは何なのか? 道ばたに落ちているゴミを拾うのは「在留活動」か? 来客にお茶を出したり料理をふるまったりするのも「在留活動」か。車を運転して家族を送迎するのは? 息を吸ったりウンコしたりするのも外国人が日本でやれば「在留活動」だろうか?

 結局、図書館ボランティアの件は、入管地方支局に本人と家族・支援者が抗議し、本省(当時の法務省入管)にも問い合わせるなどして、仮放免者がおこなっても問題ないということになったのだと記憶するが、この「在留活動」というのは、その中身をいくらでも拡大して解釈できるところがミソである。

 そして、「在留活動の禁止」うんぬんということは、末端の職員が勝手に言っていることではなく、入管が組織として公式に言っている理屈だ。たとえば、以下の「収容・仮放免に関する現状」と題された入管庁作成の資料*1


収容・仮放免に関する現状[PDF]


 この資料の2枚目で「収容の制度概要」を説明するところに「退去強制手続は,送還の確実な実施,本邦における在留活動の禁止の目的から,身柄を収容して行うのが原則」と書いてある。

 「身柄を収容」する目的として、「送還の確実な実施」とあわせて「本邦における在留活動の禁止」というものがあげられている。これはおそらく、送還の見込みのない人が長期間収容される事例が多々あることを正当化するために言っていることだろうと考えられる。収容は、送還の実施のためだけではなく、「在留活動」をさせないためのものでもあるのだから、当面送還の見込みのない人を継続して収容することがあっても、いたしかたがないのだ、と。

 で、仮放免によって収容を解く場合でも、退去強制手続きにおいては「在留活動の禁止」が原則であるといったところが、図書館でのボランティア活動にいちゃもんをつけた入管職員の理屈であろう。

 このいちゃもん(どうみても嫌がらせ目的の「いちゃもん」でしょ?)にあっては、その理屈は入管の組織で用意しているわけである。その理屈をつかって、末端の職員が仮放免者などにいじわるをする。「在留活動」という言葉はいくらでもその意味を拡大して解釈できるから、職員の悪意しだいで、何でも言える。報酬もらってなくても「活動」だからダメだ、と。

 さすがに食事したり就寝したり子どもが学校に通ったりすることまで「在留活動」だからダメとは言わないかもしれないが、ディズニーランドに遊びに行くとかだったら、底意地のわるい職員だったらダメだとか言いだしかねない。

 「いじわる」とか「嫌がらせ」という言葉を使うと、語弊があるようにみえるかもしれない。しかし、執行部門という部署で働く入国警備官は、退去強制処分を受けた外国人に対して、処分を受け入れて飛行機のチケットを自費で買って帰国するよう「説得」することも職務として課されているのだ。仮放免者の図書館ボランティアにいちゃもんをつけた職員は、むろん職務として「説得」をおこなったものでもあるけれど、それは職務として「いじわる」「嫌がらせ」をしたということでもある。入管は職員に「いじわる」「嫌がらせ」を職務としてやらせているのである。

 図書館ボランティアの事例では、本人たちからの抗議があって、さすがにそこまで禁止するのはやりすぎでしょということに組織としてなったようだが、抗議がなかったり弱かったりすれば、嫌がらせは成功ということになっただろう。警察や役所のような公権力とヤクザなどならず者が、一見ばらばらに行動しているようで役割分担して連携しているのはよくあることだが、入管はそういう連携を組織内でもやっている。職員にもいろんな人がおり、そこは他の集団となんら変わらないと思うけれど、人をいじめるのが好きなひどく性格のわるいやつとか、あるいはある意味きまじめで融通のきかないタイプが、職務としていじわる・嫌がらせをする役目を買ってでているようである。もちろん、職員個々の問題と言うより、組織の問題ではある。



社会の入管化、排外主義天国

 藤岡とかいう議員の国会質問に話をもどそう。

 産経の記事をみるかぎり、この人の一連の国会質問は、まさしく入管の「在留活動の禁止」という発想を体現したものにみえる。この人がもし入国警備官だったら、「仮放免者がボランティア?」「これでは不法滞在天国になってしまうではないか」と意気込んでいじわるにはげむであろう。

 「藤岡議員よく言った」とばかりに記事にする産経の記者とか、その記事読んで「不法滞在でも運転免許が交付されるなんて許せん」などといきどおる読者とかも、入国警備官になったらいや~な仕事するだろうな。

 入管がひっそりとおこなっていたことが、国会質問の場で堂々とおこなわれ、肯定的なかたちで報道もされているのをみると、入管的なものが社会全体に広がりつつあるというか、社会が入管化しつつあるという感をいだいてしまう。「不法滞在天国」というより、「排外主義天国」ですわ。



*1: 「収容・送還に関する専門部会」の第3回会合(2019年11月25日)における入管庁による配布資料。

2025年5月8日

神隠し


  5月の大型連休になると思い出すことがある。

 40年もまえのこと、東北地方にある中学校に入学したてのころだった。

 ちょうどソ連のチェルノブイリで原発事故があった時期*1だが、それは今回の話とは関係がない。学校の規則で、男の生徒は学生帽をかぶって登校しなければならないことになっていたのだが、雨の中かぶらずに歩いていたら、上級生から「おめ、頭ぬらしたら放射能ではげるど。帽子かぶれ」と注意された。その先輩も帽子はかぶっていなかった。学生帽をかぶる規則などほとんどだれも守っていなかった。先輩が言いたかったことは、1年坊主のくせに校則無視するな、ナマイキだぞ、というところだろう。

 今にして思うに、規則とかルールとかいうものについての貴重な知見をこのときに得たのだと思うけれど*2、それは今回書こうとすることとあまり関係はない。

 私が当時くらしていた地域は、例年4月の後半ごろが桜の見ごろで、それは開花時期によって変わるけれど、4月末からの大型連休に街中の公園で敷物をしいて花見をした記憶もある。屋台なども出てにぎやかだった。



 4月下旬のある日、授業時間中の余談としてだったか、教師が話し始めた。連休をむかえるにあたっての注意喚起であった。

 昔その先生の教え子だった女性の話。連休のある日、中学生だった彼女は友人たちといっしょに桜の名所として有名な公園に出かけたそうだ。ところが、その日以来、家に帰ってくることはなかった。いっしょに花見にでかけた友人たちも彼女の行き先は知らず、家族は警察に捜索願を出したが、そのゆくえはついぞわからなかった。

 何年かがすぎ、また桜の咲く季節になった。中学のときの友人がばったりと彼女にでくわした。数年前に彼女の失踪したおなじ公園でのこと。立ち並んだたくさんの屋台のひとつで、彼女はいそがしく働いていた。

 聞くと、数年前ここに花見に来たとき、屋台で働く青年からアルバイト代を払うから少し店を手伝わないかとさそわれたのだという。店の仕事は楽しかったし、青年とも気が合ったので、青年とその家族らについていくことにした。それ以来、各地の縁日や祭りをまわりながら屋台で仕事をしながら暮らしている、と。



 教師がこの話を私たちにしたのは、連休の過ごし方についての注意喚起としてであったと思う。休みになると君たちも心がうわつくものであるし、いろいろな誘惑もあるので、思わぬ大変な目にあうこともあるから注意しなさい、知らない人について行ってはいけませんよ、とか。

 先生がこの教え子の話をしたときに、もっと私たちをこわがらせようとするディテールがそこに盛り込まれていたような気もする。数年ぶりにあらわれた彼女はかわいそうにやつれていたとか、ふけこんでいたとか、不幸そうにみえたとか。そのへんは、もうはっきりおぼえていない。

 ただ、子どもの時期からぬけようとしていた私たちに対し、教師はなにかタブーの存在を伝え、おどかそうという意図をもって話していたのはたしかだと思う。



 このある種の「神隠し譚」を教室で聞いたのは、40年も昔のことである。今やもうずいぶんと年をとった。しかし、なぜか私はそのときの心持ちを――ひんぱんではないものの――くり返し、思い出してきた。

 今いるところにうんざりしていて、そこからふっと消え去ってしまいたい。そういう欲求は当時たしかにいだいていたし、それは切実といえば切実だった。教師の語った物語は、そんな欲求は持つなと禁じようとするものだったけれど、その禁じようとする行為がかえってそれの禁じようとする欲求がそうおかしなものではないということをあかしているようにも思えた。で、その欲求を実現できる可能性もあるのだなと漠然とであれ思えることは、すこし痛快でもあった。

 結果的に私は、当時の家族や学校での人間関係から蒸発するようにいなくなることを選ばなかった。でも、選ぶこともありえたんだよな、私たちは。そこは思いのほか紙一重なのではないだろうか。

 そんなことを思うのは、たんなるノスタルジーのせいでもない。いま私の出会う人たちのなかにも、「この人はかつて生まれ故郷からふらっとゆくえをくらましてきたのかな」と思われるひとも少なくはない。他者というのは、自分のかつて選ばなかった選択肢を選んだ人であったり、あるいは自分の生きなかった可能性をげんに生きているひとであったりもする。そういう他者と出会うことは、よろこばしいことでもある。




*1: 事故発生は1986年4月26日。
*2: たとえばヤフーニュースのコメント欄やSNSなどで、「不法滞在者は犯罪者だ! 強制送還しろ」というような書きこみをしているバカをみかけると、40年まえ私に「おめ、放射能ではげるど」と言ったその上級生を思い出す。上段から人を見下ろして「身のほどを知れ」といばりちらすために規則やルールが都合よく持ち出される例はしばしば観察されるところではある。しかし、そんなふうに人間関係に上下の差別をつけるということは、たんなる規則やルールの「悪用」の結果ということではなく、規則・ルールというものが避けがたくもたされてしまう機能なのではないか。

2025年4月28日

「うその難民申請」を犯罪としてあつかう???


うその難民申請をした疑いでネパール人の男を書類送検 宮城県内では初の立件|FNNプライムオンライン(2025年4月25日 金曜 午後4:45)


 仙台放送の報道ですが、県警のやっていること、めちゃくちゃである。


おととし5月、うその難民申請をして日本に在留したとして、宮城県警はネパール国籍の男を書類送検しました。

虚偽申請違反の疑いで書類送検されたのは、栃木県に住むネパール国籍の男(34)です。警察によりますと、ネパール国籍の男性はおととし8月、難民認定に関する調査などを行う東京出入国在留管理局で、難民ではないのに「宗教上のトラブルで難民になった」とうそをつき、在留資格の許可を不正に受けた疑いが持たれています。


 まず疑問が浮かぶのは、宮城県警はどうやって「うその難民申請」だと判断したのか、ということである。

 上の記事の引用しなかった部分を読むと、県警はこの男性を別件(「不法就労」あっせんの容疑)で逮捕し、調べていたようである。おそらく、その調べの過程で、難民申請の内容がうそだったという本人の供述を引き出したということなのだろう。ニュースでは、男性が「金を稼ぐためにうその難民申請をした」と容疑を認めているということも報じている(県警がプレスにそう言っている、ということですね)。

 で、かりにこの人がそう「自白」したのだとして、それをうらづける根拠となるものはあるのだろうか。

 難民申請は、申請者本人が申請書類に記入して地方入管局に提出するものなので、その申請書は入管が保有している。しかし、その内容はきわめてセンシティブな個人情報であって、本人の同意なく第三者にもらしてよいものでは、けっしてない。たとえば、政治的な主張、活動の履歴、所属している党派、信仰、セクシュアリティなど、難民申請者にとって生命にもかかわりうるような秘匿すべき情報がそこにはふくまれていることがある。

 だから、入管が警察であれ第三者に個人の難民申請の内容を勝手に伝えるということはあってはならないし、ないはず(さすがに「ない」と思いたい)である。

 とすると、宮城県警は、本人の供述だけで、この人の難民申請を虚偽申請と判断して、送検したということだろうか。



 警察がどういうふうに「虚偽申請」だと判断したのかというところも疑問なのだが、そもそも、難民申請について「虚偽申請」を刑罰の対象にしてよいのか、という問題もある。

 もちろん一般論としては、虚偽の申請によって不正に利益を得ることを防止するため、これに刑罰を科すことが必要な場面があるということは、わかる。しかし、難民申請について、その一般論がなりたつだろうか。

 まず、先に述べたように、どうやって申請内容を虚偽だと判断するのかということがある。申請書類に警察などがアクセスするなど許されるべきでないし、アクセスしたとしても、申請内容がうそであるという判断を司法がどうして下せるのか。

 また、申請内容が警察ふくむ第三者にもれることがありうるとなったら、こわくて申請をためらうという人も出てくる可能性があるのではないか。難民認定制度は、命を救うための制度であるわけで、申請のハードルを上げるような要因はできるだけ取りのぞくべきだ。

 「虚偽申請」を刑罰の対象にしようとすること自体、申請のハードルを上げるねらいなのはあきらかだけれども、命を救うための制度でこれをやるのは、どう考えてもそぐわない。難民認定制度というのは、一応は「保護の必要な人は申請してください」という制度であるはずで、「刑罰を科すぞ」とおどして申請の心理的障壁を高くするのは、まったくもってちぐはぐである。

 「うそをつかなければいいじゃないいか」と言う人がいるかもしれないが、そう思えるのは、警察などを無批判に信頼できる、おめでたい人たちだけである。

 そういうわけで、難民申請について「虚偽申請」を犯罪としてあつかい刑罰の対象にするということには、いくつもの疑問をぬぐえない。


2025年3月31日

黙認から取り締まり強化へ 2000年ごろの政策転換

 

 5年ほど前にとあるSNSに投稿した文章を2つ、このブログ記事の下のほうに転載します。

 「2003年ごろの新聞記事シリーズ」と称して、当時の新聞記事を紹介しつつ、この時期にあった非正規滞在外国人をめぐる政策の変化、そのひとたちをとりまく社会の変容について考える糸口にしたいなあと思っていたのですが。まあ、あきっぽい性格なので「シリーズ」と言いながら2回だけ投稿しただけで、あとが続きませんでした。

 この2000年ごろに始まった日本政府の外国人政策の転換をどう理解し評価するのかということは、入管収容の問題、あるいは仮放免者と呼ばれる人びとがおかれている問題を解決するために見落とせない重要な要素のひとつだと、私は考えています。そういうわけで、当時の新聞記事を調べたりといった作業をちょっとずつやってたのです。

 そうやって集めた資料の一部は、仲間といっしょに以下のパンフレット(リンク先からPDFファイルをダウンロードできます)をつくるときに、活用しました。


なぜ入管で人が死ぬのか~入管がつくり出す「送還忌避者」問題の解決に向けて~
(2022年、入管の民族差別・侵害と闘う全国市民連合事務局 発行)


 現在ではよく知られるようになった入管収容や「仮放免」をめぐる人権侵害問題がどういう機序で起こっているのか。パンフレットではこの問題が、最近20年ほどの入管の政策・制度運用の変化と連続性を参照しながら分析されています。手前みそになりますけれど、なかなかおもしろい読み物だと思います。

 以下に転載する投稿を読んで興味をもたれたかたは、上にリンクしたパンフレットも見にいっていただけるとさいわいです。


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転載(1) 2020年3月24日の投稿

『日経新聞』
03年12月24日

 写真(クリックすると大きくなります)は、2003年12月24日の日経新聞の記事です。

 ちょっとわけがあって、この時期の非正規滞在外国人に関する記事をあつめています。

 政府による「不法滞在者半減5か年計画」なるものが始まるのがこの翌年の04年。入管だけでなく警察も連携するかたちで強力な摘発は、03年ぐらいに開始されています。

 記事では「黙認のツケ」と書いてますが、ビザのない外国人の存在を一定程度「黙認」して労働力として利用する政策からの転換がこの時期にはかられたのです。

 09年には入管法が改正され、12年に在留カードが導入されることがきまります。こんどまた書きますけど、この新しい制度というのは、ビザのない外国人は日本に存在しないということを前提としたものです。この新しい在留管理制度は、ビザのない人がなんとかかろうじて生きていくためのスキマのようなところを、徹底的につぶしにかかろうという意味のものだったと思います。

 日経新聞の記事では、「来日外国人による凶悪犯罪が増加の一途をたどる中」などと根拠のない、かつ差別をあおるようなろくでもないことを書いてますが、興味深いのは、摘発強化が零細企業の経営を直撃しているというところです。日本の産業がどれほどビザのない外国人労働者に依存してきたのかということの一端がここにあらわれています。

 03年以降というのは、現在の収容長期化問題がどのような経緯で生じてきたのか考えるうえで、決定的に重要な時期(のひとつ)だと思ってます。またこんど、この時期の新聞記事などで興味深いものをここにあげていこうと思います。



転載(2) 2020年3月28日の投稿

2003年ごろの新聞記事シリーズ第2弾

『朝日新聞』夕刊
03年7月11日

 1つめの画像は、外国人登録の手続きをする非正規滞在者が増えているという記事。03年7月11日の朝日新聞夕刊です。

 80年代後半から90年代前半から日本でくらしている人も、在留期間が10年をこえてきているわけで、生活の必要上、外国人登録をする人も増えてくるわけです。すでにこの時期に、いわゆるニューカマーの外国人住民の定住がすすんでいるということが、こういったニュースにもあらわれていると思います。

 外国人登録の情報を管理していたのは市役所などの自治体です。某市役所の市民課にむかし勤めていたひとに聞いたところ、外国人登録で「在留資格なし」という人はけっこういたけれども、そんなものをわざわざ問題にする雰囲気はなかったし、いわゆる「不法滞在」を入管に通報するなんて考えられなかったといいます。

 下の記事は、その3か月後の朝日新聞(03年10月22日付)。

 入管が外国人登録証の申請情報をつかって、1600人以上の非正規滞在者を摘発したというニュース。自治体が入管に求められてビザのない人の情報を提供したというわけでしょう。住民にサービスを提供するのが自治体の仕事。そのために保有している住民の情報を、そういう目的とぜんぜんちがうかたちで入管にわたすのは、けしからんです。

 03年ごろに開始される非正規滞在者の集中摘発が、入管だけではなく、警察や地方自治体など他との機関との連携・連絡のもとすすめられのだということも、このニュースにあらわれているかと思います。

『朝日新聞』03年10月22日










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 転載は以上です。

 現在「仮放免」という生存権の否定された状態におかれている3,000人ほどのうち、一定数(正確な数字はわかりませんが、少なくない人数ではあります)は、2000年代はじめごろの政策転換をまたいで日本でくらしてきた人たちです。日経新聞の記事のいうところの「黙認のツケ」を政府は、また日本社会は、いまだ清算していない、ということだと思います。


2025年3月29日

日本テレビの差別扇動について

 

 差別によって問題がおきたときに、その関係者たちはそれがあたかも差別によっておこった問題ではないかのように処理しようとするということが、しばしばある。このことが、差別の問題に対処しようとするときのなかなかやっかいなところのひとつではないだろうか。

 日本テレビの番組がひきおこした以下の件も、典型的な人種主義的な差別扇動をやらかしたという問題なのに、テレビ局はあたかも差別とはべつの問題であるかのようにこれを処理しようとしている。


日テレ・夜ふかし謝罪 中国女性「カラス食べる」と言っていないのに:朝日新聞(2025年3月27日 22時04分)


 日本テレビは27日、バラエティー番組「月曜から夜ふかし」の街頭インタビューで、中国出身の女性が「中国ではカラスを食べる」という趣旨の発言をしていないのに、制作スタッフが意図的に編集したとして番組公式サイトでおわびした。

 サイトによると、24日の放送で、女性が中国ではカラスがあまり飛んでいないという趣旨の発言をした後、「みんな食べてるから少ないです」「とにかく煮込んで食べて終わり」といったコメントが続いた。

 しかし、実際には女性が「中国ではカラスを食べる」という趣旨の発言をした事実は一切なかったという。

 別の話題について話した内容を制作スタッフが意図的に編集し、女性の発言の趣旨とは異なる内容にしていたという。(後略) 

 


 問題を2つにわけて考えることができる。

 ひとつは、番組制作者がこの女性の発言を勝手に改変し、この人が言っていないことをまるで言ったかのようにねつ造したという問題。

 もうひとつは、こうした発言の改変・ねつ造が人種主義的な差別行為にほかならないということだ。番組制作者が中国人女性の発言をでっちあげることを通じて視聴者に発しているメッセージは、「あいつら〇〇人は、(われわれがけっして食べない)△△を食うヤバンなやつらだ」という形式のもので、人種主義的な差別扇動として典型的なもののひとつである。(最近でも、デビ夫人やトランプがこの種の差別扇動をやっていたよね。)

 さて、番組の公式サイトでは、この件で「お詫び」をのせている。


月曜から夜ふかし|日本テレビ


 ところが、この「お詫び」文には、差別に関係する問題であるとして反省していることを示す文言がいっさいない。「このインタビューは、制作スタッフの意図的な編集によって女性の発言の趣旨とは全く異なる内容となってしまいました」として、改変・ねつ造をおこなったことを謝罪するにとどまっている。

 これはとても奇妙なことにみえる。番組がおこなったのは、たんなる発言の改変・ねつ造ではなく(それだけでも十分に問題ではあるけれど)、あきらかな人種差別の扇動なのだから。そこを知らんぷりして、どうやって「再発防止に努め」るというのか。

 番組のサイトでは、「日本テレビでは、直ちに今回の事実関係及び原因の確認を行うとともに、改めて番組制作のプロセスを徹底的に見直し」ますということなので、今後の検証作業を待ちたいところではある。これが差別の問題だということを直視し、きちんとそのことに向き合う検証をしてほしい。そこがむずかしいんでしょうけど。

【番組公式サイトに掲載された「お詫び」】




追記(5月15日)


 日本テレビの番組公式サイトhttps://www.ntv.co.jp/yofukashi/で、停止していた「街頭インタビュー」を再開するとの発表が12日にあったようである。

 当番組では、様々なテーマに沿って、街行く人の個性豊かなお話を放送してまいりました。多くの方に番組を楽しんでいただけるよう、そしてインタビューに応じていただいた方に「協力して良かった」と思っていただけるよう、スタッフ一同努めてまいりました。

 しかしながら、この度、不適切な編集をしたインタビューをそのまま放送してしまい、ご協力いただいた方に多大なご迷惑をおかけし、視聴者の皆様の信頼も裏切ってしまいました。あらためて心よりお詫び申し上げます。

 問題発覚後、直ちに街頭インタビューを停止して制作プロセスを見直しました。そして、同じ過ちを繰り返さないために、インタビューでお話しいただいた内容を複数の番組スタッフ、そして番組担当外の日本テレビ社員もチェックし、適切な編集かどうか確認することにいたしました。さらに、番組内で制作モラル向上のための研修を繰り返し実施することにいたしました。

 これらの再発防止策を実施できる体制が整ったため、街頭インタビューを再開することにいたしました。


 「不適切な編集」とはどう「不適切」だったのか。また、「同じ過ちを繰り返さないために」というというの「同じ過ち」とはなにか。日本テレビや番組スタッフがそこをどう認識しているのか、この文章を読んでもさっぱり明らかでない。
 「[インタビューに]ご協力いただいた方に多大なご迷惑をおかけし、視聴者の皆様の信頼も裏切ってしまいました」という一文から、発言の改変・ねつ造をおこなったことを問題だとしているのかなとかろうじて読みとれるけれど、その改変・ねつ造が人種差別的なものであったというところへの問題意識は文章全体をみてもまったく読みとれない。
 予想通りではあるが、やはり差別の問題にはまったく向き合うことないまま、再発防止策をとったことにしてこの問題は終わったことにしようという姿勢のようだ。

【番組の公式サイトに掲載された
「街頭インタビュー再開について」
との文章】



2025年3月28日

いじのわるい蛇口


 散歩でとおった公園の公衆トイレ。手をあらうときの蛇口のいじわるぶりにおどろきました。



【動画の説明】
手洗い用の蛇口を右手でひねる様子を撮影した動画。
ハンドルをひねると水が出るが、
手をはなすとバネでハンドルがもどり、
水が止まってしまう。


 右手か左手かどちらかでハンドルをおさえていないと水が流れなくなってしまうので、両方の手をゴシゴシこすりあわせて洗うという動作ができません。もうひとりだれか手伝ってくれる人がいてハンドルを持って水を流しててくれればべつですが、そんな人はいなかったので、片手ずつ水をかけるぐらいしかできませんでした。

 どちらかの手にまひがある人とかだったら、それすらひとりではできないかもしれませんね。

 私はとくに身体傷害などないのですが、こういう蛇口では手を洗うのに非常に支障があるわけです。つまり、ハンドルをひねると水が流れっぱなしになる一般的な蛇口とくらべて、おそらく《だれにとっても》使いにくい仕様のものをわざわざ設計して設置したということなのです。

 なんでこんなものを設計・設置したのでしょうか。これは市が管理する公園の公衆トイレです。市に聞いてみないとはっきりしたことは言えませんけれど、まぁ、野宿する人を排除する意図での設計だとみてまちがいないでしょう。頭や体を洗ったり衣服を洗濯したりできなくなるようにいじわるするためにこういう設計にしたのでしょう。

 こういうものをつくる人間というのは、そういう一定のひとへの悪意をなによりも優先して大事にするんですね。その結果《多数者ふくめただれにとっても》不便なシロモノができあがってもかまわないというくらいに。

 行政などによる野宿者の排除は、「みんなの場所」「公共の場」を「一部の人」が「占拠」「独占」するのをゆるすべきでないという理屈ですすめられてきたわけですけれど、そうした公共性の意味をゆがめ骨抜きにする思考のゆきつくさきのひとつが、この公衆トイレのおかしな蛇口であるよなあと思いました。


2025年3月4日

3・6ウィシュマさん追悼アクション


 名古屋入管で収容されていたウィシュマ・サンダマリさんが亡くなったのは、4年前、2021年でした。

 今年も命日にあたる3月6日には、各地でウィシュマさんを追悼する行動がとりくまれるようです。私は大阪でのスタンディングに参加してこようと思います。


◆3・6ウィシュマさん追悼アクション in 大阪◆

3月6日(木) 19:00~20:00

梅田ヨドバシカメラ前

スタンディングアクション


3・6ウィシュマさん
追悼アクションin大阪

 ちょうど1年前の3月に某所に投稿した文章が出てきたので、あらためてここにのせておきます。


#ウィシュマさんを忘れない

 3年前の3月6日、名古屋入管でウィシュマ・サンダマリさんが命を落としたのは、まぎれもなく拷問死でした。

 「拷問死」という言葉を使ったのは、比喩(まるで……のようだ)でもなければ、誇張でもありません。ウィシュマさんは、文字通りの意味で日本の入管による拷問で、命を奪われたのです。

 送還を拒否する人に対して、無期限収容・長期収容によって、自分から帰国するように追い込む。まさに、心身をいためつけることで相手の意思を変えようとすることであり、「拷問」と呼ぶべきです。しかし、日本政府は入管施設での収容が拷問であることを隠してすらいません。

 入管がウィシュマさんを殺害した当時の法務大臣上川陽子は、収容期間に上限をもうけるべきではないかと記者から問われ、「[上限をもうければ]収容を解かれることを期待しての送還忌避を誘発するおそれもあるということでありまして,適当ではない」と答えました。無期限収容・長期収容が帰国を強要するための手段であることを、あけすけに認めた発言です。奇しくも、ウィシュマさんの亡くなる前日、2021年3月5日の記者会見でのことです。

 ウィシュマさんの命は、早期に収容を解いていれば、そうでなくても点滴治療をしていれば、あるいは救急車を呼んでいれば、失われるはずがなかった。どれもぜんぜん難しいことではないですが、名古屋入管がそれをしなかったのは、収容を継続すること、ウィシュマさんに帰国を強要することを優先したからです。

 「救えなかった」のではない。119番に電話すれば、容易に救えたのだから。名古屋入管はウィシュマさんを「拷問のすえ殺した」のです。

 あきらかに国家犯罪ですが、名古屋地検は不起訴処分としてこの国家犯罪を不問にしました。

 しかし、だからといって、殺人者たちの責任を問い、入管施設でのこれ以上の拷問死をなくすことを、あきらめるわけにはいきません。ウィシュマさんが命を奪われたことを機に、また妹さんたちご遺族が真相解明・責任追及・再発防止のために声をあげておられる姿を目にして、自国の国家機関が日々おこなっている犯罪を許してはいけないと声をあげる仲間たちがふえていると思います。私もともに、取り組んでいきたいと思います。


 1年前に書いた文章ですが、やはり今年もおなじことを言わなければなりません。

 刑事事件としては、23年9月に名古屋地検が「嫌疑なし」(「証拠不十分」ですらなく!)ということで不起訴処分で決着させました。名古屋地裁での民事の裁判(遺族が訴えた国家賠償請求訴訟)では、国側はいまだウィシュマさんが亡くなるまでを記録した監視カメラ映像(295時間分)の開示をこばんでいます。国・政府をあげて、自分たちの責任が問われうる証拠を隠蔽し、身内でかばいあって、事件の真相究明を妨害しつづけているわけです。

 そのいっぽうで、当時の上川法務大臣が「収容を解かれることを期待しての送還忌避を誘発」しないためだと公言した無期限収容による帰国強要=拷問は、いまも各地の入管施設で続けられています。

 ウィシュマさんが日本国家によって拷問死させられた事件については、国の責任を追及することがいまだ欠かせない課題としてある。国がその責任から目をそむけ、逃げまわっているため、民事訴訟をつうじて遺族がその最前線に立たざるをえない状況になっています。市民として、国の責任を問う声をあげなければならないということだと思います。


~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


 3月6日の各地でのアクションの情報をのせておきます。

【名古屋】

日時:2025年3月6日(木)10:30~11:30

場所:名古屋入管前

内容:名古屋入管へ真相究明・再発防止を求める申入れ、スタンディングアクション

主催:START~外国人労働者・難民と共に歩む会~/名古屋入管死亡事件弁護団


【愛知県愛西市】

日時:2025年3月6日(木)

忘れなの鐘つき

14:15~ 有志の僧侶によるお勤め(真宗大谷派)

14:45~ 琴の奉納演奏(約10分)

15:00~ 支援者の報告など

15:25  鐘撞き(ウィシュマさん死亡時刻)3回

のち黙祷

ご遺族の挨拶

場所:明通寺
※下に掲載したチラシ画像参照


【東京】

日時:2025年3月6日(木)13時~14時

場所:東京出入国在留管理局前

内容:入管への申入れ、スタンディングアクション

主催:BOND~外国人労働者・難民と共に歩む会~


ウィシュマさん追悼アクション
2025年開催マップ

※画像では名古屋のスタンディングアクションが
「10時~11時」と記載されていますが、
運営から10:30~11:30に変更する
とのアナウンスがありました。


「3・6 忘れなの鐘つき」チラシ



 当日は、ハッシュタグデモもおこなわれます。


3.6ウィシュマさん追悼
ハッシュタグデモ


2025年2月25日

倒れたらみんなの迷惑になるから

 

 運転免許証の更新のための講習を受けてきた。

 講習が始まる前に、講師の人(警察官?)が「もし講習中に具合が悪くなったら、手を挙げて教えてください」という内容のことを言った。それが、体調がわるい人はムリしないでくださいねという気づかいからの言葉であればいいのだけど、その講師の言い方はひどく意地のわるいものだったので、びっくりした。

 記憶をたよりに再現してみると、だいたいつぎのような言い方だった。

「先月、講習中に倒れた人がいました。倒れた人が出てしまうと、救急車を呼ばなければならないことになっています。そうなると、講習をいったん止めて、ほかの受講生のみなさんには他の教室に移動してもらって続きの講習を受けてもらうということになります。講習が終わるのが予定の時間よりもだいぶ遅くなります。そういうわけで、倒れる前に、具合がわるいということをつたえてください。」

 なんでこんな言い方するのだろう? 「倒れるまでムリしないで、体調不良は早めに言って休んでくださいね」ぐらいに言うのをとどめておけば、受講者の体調を案じて言ってくれてるのだなとこちらも受け取るのだけど。なんでわざわざ、他の受講者の迷惑になるから、というようなことを言うのか。この講師が言っているのは、体調のわるい人は、他の人たちをわずらわせないよう、自分で退室できるうちに退室してくれ、ということでしょ。ひどいもんだ。

 私はこの講師の人の発言をとても不愉快に感じたのだけれど、どうしてそう感じたのかをいまになって考えてみるに、この人が人間の社会性みたいなものを低くみつもっているように思えるからだ。

 この人は私たちに対して、いわば「講習中に倒れる人が出たら、あなたたちにとって迷惑でしょう?」「迷惑に思うのが当たり前でしょう?」と同意を求めているのである。もっといえば、私たちにそれを「迷惑と思え!」というメッセージを向けていると言ってよいかもしれない。

 いや、べつに迷惑と思わないし。倒れた人がいたら、講習なんか止めてその人を助けるのがあたりまえでしょう?

 まあ、そう言ってるのは、キレイゴトではある。私だって、正直に言えば迷惑だと感じることはあるかもしれない。でも、それを口に出して言ったら下品というものである。

 さきの講師の言い方が不愉快だったのは、その人が下品な「本音」を当然の前提みたいにして、私たちに語りかけてきたからだと思う。あんまり私らを低くみつもらないでほしい。病人を迷惑者あつかいなんてしないよ。

 警察官らしい語り方といえばそうかもしれない。外から権力的な介入をしなくても私たちがときとして利他的にもふるまったりしながらたがいになんとかやっていけるのだとしたら、警察なんかいらねー、ということになるからね。

 権力的にふるまうということが習い性になってるひと(警官は職業的にそうしたふるまいを強いられている面があるだろう)は、人間の社会性、自治の能力を低くみつもりたくなるのだろう。きみら、倒れてる人をみたら迷惑だと思うでしょ、と。そうみなしたいのだ。力をふるって他者や集団をコントロールしようということが習い性になってしまえば(もちろん警察官にかぎった話ではない)、倒れてるひとを迷惑とみなさず、仕事の手をとめて当然のように助ける人間は脅威にうつるのではないか。「ほっといたら(権力的な介入なしには)、ただちに人間どうし反目し合い、対立して、社会が成り立たなくなる」という人間観・社会観がかれらのふるまいを正当化するために欠かせないのだから。


2025年2月14日

火のないところに偏見の煙を立てる


留学目的で入国し在留期間切れたまま滞在…別事件の関連で身分証提示で発覚、入管難民法違反の疑いで28歳スリランカ人の男を逮捕|HBC北海道放送(2025年02月13日(木) 19時29分 更新)


 警察には警察のおもわくがあってこの件をマスコミにリークしたのだろう。しかし、それを報道するかどうか、あるいはどう報道するのかということは、マスコミが判断することだ。北海道放送はどこにわざわざ報道すべき意義をみいだして、これを報じたのだろうか。

 記事を読んだところで、なにがどう問題なのか、私にはさっぱりわからない。問題にならないことを、あたかも問題であるかのように報じることで、偏見をばらまこうとする。そういう記事にしか、私にはみえない。

 記事を抜粋してみよう。なんでこんなものがニュースになるのか。こんなものがクソまじめなトーンでテレビで報じられているということが、つめたく狂った社会のありさまを示しているように思える。


 警察によりますと、13日、警察が別の事件に関連して男に身分証明書の提示を求めたところ、在留期間が切れていたことが発覚し、男をその場で逮捕しました。

 男は2018年4月に留学目的で、1年3か月の在留資格を得て日本に入国し、在留期間の2019年7月以降の足取りはわかっていませんが、去年7月17日までは「特定活動」の在留資格があったということです。

 取り調べに対し、スリランカ人の28歳の無職の男は、容疑を認めているということです。

 警察は、在留期間が切れた後の男の生活実態などを調べています。


 「在留期間の2019年7月以降の足取りはわかっていませんが」などと書いているが、警察であれ、これを報じている放送局であれ、そんなのおまえの知ったことかという話である。その間、どこで何をしていたかなんて、この逮捕されたかたの勝手なのであって。

 「特定活動」の在留資格が去年の7月まであったということは、このかたは入管局をおとずれて当初の「留学」から「特定活動」への在留資格変更申請をし、入管局もこれを許可したということだ。ところが、記事は、入管的な言い方をすれば「適法に在留していた」この期間についてすら、「足取りはわかっていませんが」などと書いている。外国人はその「足取り」をつかんでおかないとどんな悪いことをしているかわかったものではない、だから徹底的な監視・管理が必要なのだ、という前提がないと、こういう書き方にはならない。

 もちろん、このニュース原稿を書いた人は、警察が発表した内容を書き写しただけなのだろう。でも、そうして書き写した文章は、書き写した本人の自覚はなくても、「日本国民」ではない住民に対してこの国の治安当局がむけている視線をおぞましいほど正確に反映したものになっている。

 ニュースによると、逮捕された人は、2018年4月から6年あまりのあいだ続いていた在留資格が2024年7月に切れ、その後、7か月間ほどオーバーステイになっていたということのようだ。そりゃ入管法違反ということにはなるかもだけれど、オーバーステイなんてそれ自体はなにか悪さしたということではない。自動車の無免許運転とかだったら他人の生命を危険にさらすといえることもあるだろうけど、在留する、つまり「ここにいる」ということに国家機関の「許可」をえてなかったからといってなんだと言うのか。

 「警察は、在留期間が切れた後の男の生活実態などを調べています」なんて書かれちゃって、あんまりではないか。クソポリはそりゃ「調べ」るでしょうよ、入管体制・外国人管理制度というのはそういうクソなのであるから。でも、報道にたずさわる人は、「在留期間が切れた後の男」などと呼ばれる人間であれば、「生活実態」を調べられるのも当然なのだというような前提にたった、おぞましい文章を書かないでくれ。監視してないとなにか悪さをするだろう、悪さをするはずだという視線を「外国人」にあからさまにむけた文章を書いてることを自覚して、深く恥じ入ってくれ。相手もあんたと同じ人間だぞ。




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2025年2月2日

自由はなにより大切だ


 少し前のこと。監禁された人が解放されるためのちょっとしたお手伝いをした。その人が拘束を解かれるのに立ち会って、ほんとによかったなあと心の底から思った。

 おなじような形で人が解放されるのには、いく度も立ち会ってきたのだけれど、多くの人が言うのは、「つかまっているときのしんどさは、経験した人にしかわからない」ということ。私は「経験した人」ではないので、そのしんどさは、想像はするけれど、やはりわからないのだと思う。

 それでも、何か月かぶりで、あるいは何年かぶりに監禁を解かれて外の空気を吸う人のよろこぶ様子を目にすると、納得できるような理由もなく閉じこめられ、自由をうばわれつづける経験が、どれほどむごたらしいことなのか、いくらかわかるような気がする。解放されたその人の表情や声色、全身をのばすしぐさ、むかえる人を抱擁する姿をとおして。

 むごたらしい経験を強いられるのは、拘束された本人だけではない。通話アプリをつうじて、家族や友人たちが喜びと安堵の表情をみせ、私たちにも感謝の言葉を伝えてくださるのをみて、そのことを思い知らされた。息子・夫・弟が罪もないのに遠くの地で拘束されているのを知りながら、どれほど心配で落ち着かない気持ちで日々をすごしていたことか、と。

 人間をせまい区画に閉じこめたり、あるいは勝手な境界をひいて移動をさまたげたりして、自由をうばうこと。これは端的に言って悪である。当然と言えば当然で、あたりまえすぎることだ。けれど、急いでそのことをちゃんと言葉にしておかなければならない。いまそう思ってこの文章を書いている。

 不当な制約をとっぱらおうとすること、監禁をゆるさないこと、自由を最大限に擁護し、それをさまたげようとする力の行使にあらがうこと。それは、(留保なくそう言えるかわからないけれど)正しいことだ。私はそう確信している。

 でも、そういま確信していることを、私はあしたになったらわすれているかもしれない。だから、こうしていま書いている。

 なんでこんな大事な(と、いま思っている)ことをわすれてしまうかといえば、監禁を解かれて出てきた外の社会もまた、地獄のようなところだったりもするからだ。

 とくに、市民権から排除され、あるいは否定的なスティグマを貼りつけられた者にとって、拘束を解かれた外の社会は、生きていくための条件や可能性を極限までせばめられた場所であったりする。そういうわけで、拘束されていた人がそのひとつの拘束をなんとか脱して、いくらか自由をえたことが、ほんとによかったんだろうかなどと、ばかげた(といまは思える)疑念が生じてきたりするのだ。(人からもいろいろ言われるしね。)

 だから、わすれないうちにこうして書いておこう。自由はなにより大切なのだ、と。


2025年1月19日

「警備」と称するデモへの妨害

 

 前回記事の末尾に案内したデモに参加してきた。

 いつものことながら、「警備」と称してやって来る警官たちがうざかった。

 まず、中之島公園での出発のとき。警官が時計をみて、「出発時間になりました。出発してください」と言って、ピーっと笛をならす。

 どさくさにまぎれて、なんでおまえが指示してんの? 「ピーっ」じゃねえよ。

 デモが始まると、最後尾につけた警察車両が拡声器から通行人に語りかける。「ただいまデモ行進がおこなわれています。青信号ですが、デモ隊が通過するまでお待ちください」。

 制服の警官たちは、横断歩道のまえで足止めされた歩行者たちに頭をさげて、「ご協力ありがとうございます。デモが通るまでお待ちください」などと声をかけてまわってもいる。

 いやはや、めちゃくちゃなことを言っている。交差点で信号が赤に変わったあともデモ行進を渡らせ、そのために一般の歩行者や車は信号が青になっているのに足止めされるという状況は、警察が自分たちの「警備」の都合で作り出しているものにすぎない。

 デモをやってるわれわれからしたら、赤信号のたびに立ち止まって信号がかわるのを待つということでも、かまわないわけ。その間、一般の歩行者が道路を横断したり、車両が通ったりするのにむかってアピールすればよいのだから。

 というか、デモは自由な表現なので、それぞれの参加者が歩きたいときに歩き、立ち止まりたければ立ち止まる、というのが本来のあり方である。しかし、警察は、デモをなるべく短時間で終わらせたい(街頭にデモを滞留させたくない)といった勝手なおもわくから、信号が赤にかわったあともデモ隊を通行させたり、場合によってはデモ隊が交差点を渡りきるまで信号機を操作して青のままにしたりする。その結果、一般の歩行者や車が足止めをくらったりするのだが、それはくり返すけど警察の「警備」とやらの都合でそうなっているのである。急いでるのに横断できないのは、デモではなく、警察のせいなのだ。

 ところが、警察は一般の歩行者や車にむかって「デモ隊が通るのでご協力をおねがいします」などと頭を下げてまわるパフォーマンスをして、まるであたかもデモが一般の通行人のジャマをし迷惑をかけているかのような印象づけをしているのである。

 急いでつけくわえておくと、デモが「一般」の通行人に迷惑をかけるのがわるいなどと言うつもりはない。デモは自由な表現なので、私たち(あなたたち)は「一般」の通行人や「普通」の人に迷惑になる表現をとりたい、あるいはとるべきだと考えれば、迷惑な表現をとるだろうし、とればよい。しかし、それはデモをおこなうわれわれ(あなた)が選択することであって、警察が決めることではない。なのに警察は勝手に通行人に迷惑が大きい「警備」のやり方を勝手に選択したうえで、「みなさんに迷惑をかけてるのはデモのせいですよ」などとほざいてまわってるのだ。ふざけんな、という話である。


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 入管問題関係でおなじ主催のデモは継続的に参加しているのだが、今回の大阪府警の「警備」はちょっと特異だと感じた。

 いままでのデモでも、警察はデモの最後尾につけた車両から「デモ行進が通ります。ご協力お願いします」などと一般の通行人に呼びかけるアナウンスをしていた。それをわりと大きな音量でやられて、デモのコールやスピーチ聞こえなくなるということがたびたびあった。露骨なデモ妨害なので、そのたびに私は仲間といっしょにその場で警官たちに抗議するということをしてきた。

 今日のデモでは、それほど大きな音量でのアナウンスはなかったので、内心むかつきながら静観してしまったのだけど、やっぱりこうして今むかつきながらブログなど書くはめになっているので、ちゃんとその場で抗議しておくべきだった。後悔している。

 今回の警察の車両からのアナウンスは、音量こそおさえぎみだったにせよ、歩きながら「警備」にあたる警官たちは、足止めされた通行人への声がけをひんぱんにおこなっているように感じた。「一般の」通行人にとってデモ参加者が迷惑になっているという状況をつくって、両者を分離・隔離しようということを組織としていままで以上に自覚的・戦略的にやってきているのかもしれない。

 そういえば、デモがおわったあとに、記者のひとから「今日はいつもよりも警察の当たりが厳しかったですね」と声をかけられた。そのひとはデモ開始前に警官から「プレスのかたですか?」とたずねられ、そうだと答えると、「プレスはデモの参加者ではないので、赤信号でデモ隊を通すときも信号を守って止まってください」と言われたそうだ。

 なんとふざけた言い分であることか。なんで「デモの参加者」かどうかを、おまえら警官が決められると思っているのか。記者が取材しながらデモに参加するということだってあるし、あるいは記者になったり参加者になったりとスイッチをきりかえながら歩くことだってあるだろう。

 でも、警察がどういう考えで「警備」とやらをやってるのかがよくわかる発言ではある。デモ参加者はあくまでもデモ参加者。「一般の」通行人はあくまでも「一般の」人。通行人がデモに合流して参加することや、デモ参加者がデモから出たり入ったりすることを規制しなければならない、規制したい。それが警察の考えていることだ。

 次回からはデモの自由へのこうした妨害にたいしては、ちゃんと抗議していきたいと思いました。反省。


2025年1月17日

「だれもが救われない」もキツイが「私だけ救われない」もキツイ


 何度かこのブログでもとりあげてきましたが、昨年6月に改定入管法が施行され、監理措置制度というものがスタートしました。この新制度のもとで起きつつある重大な問題については、以下の記事などに書きましたので、ここではくり返しません。


支援者を人権侵害の共犯者にする 監理措置制度のやばさ(2024年11月10日)


 今回の記事では、この新しい制度の問題の本質ではないけれど、収容されている人への心理的影響として、気になっている点をちょっと書きます。

 新しい入管法のもとで、収容を解除するための制度が2つ併存することになりました。新たに創設された「監理措置」と、従来からある「仮放免」の2つです。

 法改定をへて仮放免は制度として残りましたが、入管庁は、新たな制度である監理措置を、被収容者の収容を解除するための原則的な手段と位置づけています。で、上のリンク先の記事でもふれましたが、入管の職員は仮放免は重病などの被収容者に例外的に適用すると案内しています。

 私が被収容者との面会活動をしている大阪入管では、監理措置のほうは申請すればほとんど許可されているという状況です。上にリンクを貼った記事では、この監理措置という制度が、これによって収容を解かれれる人(被監理者)にとっても、その監視役をになわされる民間人(監理人)にとっても、また入管法改悪前から仮放免されている人たちにとっても、問題の大きい制度だということを述べました。しかし、入管にとってみれば、この新しい措置を早く定着させたいというような思惑があるのでしょうか。大阪入管では、家族などを「監理人」に立てて監理措置を申請した被収容者は、ほぼほぼすべて許可されて収容を解かれています。新法施行後6か月ぐらいたった現在、すくなくとも20名以上の被収容者が監理措置によって収容を解除されているはずです。

 ところが、「監理人」の引き受け手がみつからない被収容者は、監理措置を申請できません。とくに、入国しようとして空港で拘束された難民申請者は、日本に人脈などまったくないという人も当然多いわけです。こういった被収容者たちについては、従来は、支援者や弁護士が身元保証人を引き受けて、仮放免を申請して収容を解かれるということが多くありました。しかし、さきにみたように仮放免は重病などの場合にのみ例外的に適用するという方針のもとでは、支援者や弁護士を保証人に申請しても、許可される見込みはない。

 というわけで、入管が仮放免を重病者のみに適用するという方針をあらためないかぎり、こうした人たちは収容を解かれる可能性はない、という状況に置かれるのです。

 身体拘束から解放される見通しがないということ自体、本人にとって絶望的なものでしょう。さらにこれにくわえ、おなじ施設に収容されている人たちで監理措置を申請した人はつぎつぎと出所していくという状況は、この絶望感をますます深めているようにみえます。まわりの人たちは、収容期間が3か月とか4か月ぐらいでみんな出ていくのに、自分はここに残され外に出られない、というわけです。

 長期収容ということであれば、2018~19年ごろ(新型コロナウイルスの感染拡大問題で、全国の入管施設が仮放免措置により収容人数を減らすようになった2020年以前)のほうが、現在よりもひどかったとは言えます。このときは、仮放免許可がほとんどまったくと言ってよいほど出なかった。3年をこえるようなすさまじい長期収容が常態化し、4年超という人もめずらしくなかった。そうしたなか、命がけでのハンストや自傷行為があいついだということは、当時よく報道もされていたとおりです*1

 現在は、6か月をこえるような長期収容は少なくなってはいます。しかし、入管が仮放免についていまの方針を続ければ、監理措置を申請しない/できない人の収容はまちがいなく長期化していきます。そして、監理措置を申請した人が半年たたずに解放されていくいっぽうで、収容施設に取り残されてしまう人は自身の不遇さをいっそう痛切に感じずにはいられないでしょう。かつての「だれもが解放されない」という状況における絶望感もすさまじかったはずですが、「解放される人もまわりにいるのに、自分だけ取り残されてしまっている」という不遇の感覚が心身をむしばむ影響は、けっして軽視できないほど深刻です。

 私が危惧するのは、2019年ごろとは状況にちがいがあるとはいえ、現在も当時におとらず被収容者の自死や自傷行為を引き起こしかねない危険性が高まりつつあると感じられることです。収容されている人と面会しながら、ここ数か月で私が強くいだきつつある危機感です。人間を監禁しその自由を奪うということが、どれほどその人の心身に対し破壊的にはたらくのか、軽く考えてはなりません。

 その危機感を共有したいという思いもあっていまこの文章を書いているのですが、今週末(1月19日(日))には、「改悪入管法撤廃!」などをテーマに、全国各地でデモやスタンディングなどのアクションがおこなわれます。私は、大阪でのアクションに参加して、監理措置への反対などの声をともにあげようと思います。


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1.19 全国一斉アクション

改悪入管法撤廃!

人命、人権よりも送還優先の

「送還一本やり方針」を許さない!


日時:1月19日(日曜)
場所:仙台、東京、名古屋、大阪、岡山、広島、高知、福岡など
※各地の開催情報は、
ご確認ください。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 

大阪は、
集合場所:中之島公園女神像前
集会:13:00~
デモ行進:14:00出発
(デモのゴールは西梅田公園)














*1: 大村入管センターでは、通算3年半にもおよぶ超長期にわたり収容されていた人が、ハンストのすえ餓死するという事件が、2019年6月に起こっている。入管がこの人のハンストを放置して見殺しにしたこと、また、事件後も入管が反省せずに送還強硬方針を維持し、2021年3月に名古屋入管でのウィシュマさん死亡事件を引き起こしたことについては、以下の記事を参照してください。 

2025年1月3日

天皇制国家はこわいしやばい


 トイレに落書きしたぐらいで、逮捕されて報道されるなどということは、ふつうはありえない。


皇居内トイレに落書き疑い 一般参賀中、男逮捕―皇宮警察:時事ドットコム(2025年01月02日16時13分)


 なぜ警察が逮捕したうえにわざわざマスコミに情報を流して報道させるのかといえば、落書きしたのが皇居内のトイレだからだ。わかりきったことだ。

 公園のトイレや堤防の壁などに落書きをして同じように逮捕され報道されることがあるかといえば、あまり考えられない。たしかに建物などの所有者や管理者にとって落書き被害が深刻なほどになれば、警察に被害届を出すことはあるだろう。その結果、落書きした人が罰せられるということはありうる。この場合、罰せられたり逮捕されたりするのは、べつに政治的な理由からではない。

 でも、皇居内トイレの件は、そういうのとはあきらかに違う。皇居内でやったから、警察は逮捕したのだし、また警察から情報提供を受けたマスコミもいちいち記事にしたのだろう。いわば「不敬罪」が生きているということ。「不敬」とみなされることをしたら、つかまるんだぞ! 警察はそういう警告として逮捕の事実をマスコミに流し、マスコミもほいほいとこれを記事にする。

 この件は、時事通信のほか、NHK、フジテレビ、日本テレビなどが報道しているのをみたが、逮捕された人がどうなったのか、その後の経過はおそらく報じられないだろう。かくして、私たちの記憶には、皇居のトイレにいたずらをした人がいて、その逮捕されたという事実だけがなんとなく残る。

 天皇や皇族どもは、アイドルのような存在とも類比されるけれど、両者のあいだには根本的なちがいもある。アイドルの人気は(私はよくわかっていないかもだけど)、暴力や脅迫によってささえられているわけではない(ですよね?)。でも、天皇や皇族は、一部の人民たちから敬愛のような感情をいだかれているとしても、そこには暴力や脅迫が介在している。

 「不敬」とみなされる行為に対しては、たんに「不敬」だという理由によって(ほかに思い当たるような理由はない)身体を拘束されたりする。私たちは今回のような報道をとおして、タブーが侵犯され、その報いとして侵犯したものが罰せられるという劇を見させられている。こうして、私たちはそこにタブーがあることを学習させられる。

 客観的な事実として、天皇・皇族の地位と権威が、国家の暴力と右翼のテロによって支えられているのは、いちいち例をあげるまでもなくあきらかだ。連中は、自分たちにはなんの権力もありません、我が国と世界の人々の幸せを祈ることがわたしにできることのすべてです、みたいな顔している。しかし、連中が主観的にどう思おうが、「不敬」なやつらをかわりにとっちめてくれる警察組織や右翼たちの汚れ仕事のおかげで天皇や皇族としてのほほんと生きていけているのである。そうじゃなきゃあんなのとっくに打倒されてるよ。

 天皇らに敬愛の感情をいだく人がおおぜいいるのだとしても、その「敬愛」は、「不敬」をはたらけば罰してくるような相手に対する感情である。それを「敬愛」と思うのもその人たちの勝手だけれど、暴力と脅迫に屈しているのを、まるで自発的に相手に従っているかのように合理化しているにすぎない。

 というわけで、天皇や皇族がいる国はろくなものじゃないですね。とはいえ、国家の暴力機構にはひとりで立ち向かえるものでもない。心のもちようでどうにかなるものでもない。こわいものはこわい。こわがってる自分(たち)とむきあいながら、ゆるりとおたがいつながっていけたらよいなと思います(正月気分がまだぬけないので、新年の抱負っぽくまとめてみました)。


2025年1月1日

2025/1/3 新年のあいさつ行動@大阪入管前


あけましておめでとうございます。

新年早々ですが、大阪入管前にて抗議と収容されている人たちへの声かけをおこないます。


日時:2025年1月3日(金)
場所:大阪出入国在留管理局(→地図)の前

大阪入管の庁舎。2020年2月12日撮影。


年末年始は、入管局の庁舎が閉まり、収容された人は外部の人との面会ができません。

例年より長い9日間(12/28(土)~1/5(日))、入管は休みです。

というわけで、収容された人(と年末年始も勤務している看守職員のみなさん)に拡声器を使って新年のあいさつを届けにいきましょう。

よかったら参加してください。


年末年始の開庁日・閉庁日を示したカレンダー




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