2020年12月30日

【読書ノート】指宿昭一『使い捨て外国人―人権なき移民国家、日本』(朝陽会)


【ふりがなを つける】(powered by ひらがなめがね)


1.「コインの裏表」


 著者の指宿(いぶすき)氏は、本書のあとがきで、外国人労働者受け入れ問題と入管問題は「コインの裏表」であると述べている(135ページ)。そのコインの2つの面に対応して、本書は2つの章からなっている。「外国人労働者と人権」と題された第1章は、技能実習制度の問題を中心にして、外国人労働者の受けている人権無視のあつかいの事例が述べられ、そうした問題を生じさせている制度の構造的欠陥が解説されている。第2章は「入管政策と人権」と題して、入管の収容や送還をめぐる人権侵害、また仮放免者のおかれている問題などについて述べられている。


 いずれの章も指宿氏が弁護士としてかかわった具体的な事例を参照しつつ、制度や政策の問題点を明晰に指摘していて、技能実習制度と入管政策それぞれの問題についてはじめて学ぶ読者にも親切に書かれていると思った。


 同時に本書からは、第1章と第2章を交差させて読むことでさまざまな示唆がえられるということも感じた。技能実習制度問題をはじめ外国人労働者の「受け入れ」をめぐる問題と、入管問題。指宿氏が「コインの裏表」とするこの両者のあいだを往復しながら関連づけて考えることで、それぞれの問題についての理解がより深められるように思う。



2.外国人労働者の無権利状態


 著者は「なぜ、違法な状態で働かされている技能実習生は、権利の主張をせずに失踪してしまうのだろうか?」(28ページ)という問いかけから第1章をはじめている。技能実習生は、給与が最低賃金を下回っているなど違法な条件で働かされていることが多い。こうして不当に被害を受けているにもかかわらず、どうして実習生たちは、労働基準監督署に申告するなどして権利を主張するかわりに、失踪してしまうのか。


 このような問題提起を受けて、第1章では、実習生たちが声をあげることをできなくさせている仕組みが解説されていく。実習生の多くが送り出し機関に多額の渡航前費用を支払っており、これを借金で工面していること。職場移動の自由がないこと。また、権利主張した実習生を受け入れ企業や監理団体が暴力をもって強制帰国させるということが横行していることなど。これらによって、実習生はなかなか自分の権利を主張できなくなっている。


 監理団体などによる強制帰国が違法なのはもちろん、送り出し機関がおこなっているような渡航前費用の徴収が日本で違法であるということも著者は強調している。


 日本の労働基準法では、他人の就業に介入して利益を受けること、すなわち「中間搾取」が禁止されている。戦前に横行していた口入屋や募集人などの仲介者が中間搾取を行う悪習を排除する目的で定められた規定だが、これは日本国外には及ばない。外国人労働者の受け入れには、中間搾取という悪弊がいまだに横行しているのである。(34ページ)


 引用したくだりは、国境というもの、また国境をまたいだ人の移動を管理しようとする入管という国家機関が、どのような役割をもちどのように機能しているのか考えるうえで示唆的だと思った。労働基準法の禁じる中間搾取という行為が、国境をまたぐことで法の規制をのがれているわけだ。これまで何度かおこなわれてきた入管法の改定においても、送り出し国でのブローカーが介在する中間搾取や人権侵害に対して、実効的な規制はもうけられてこなかったのだという。


 著者は、ブローカー規制の有効な手だてとして、韓国ではすでに「雇用許可制」という仕組みが採用されていることを紹介している。これを参考にすれば、ブローカーが介在しての人権侵害はかなりの部分、防止できるはずだ。ところが、昨年の新制度導入にあたっても、この「雇用許可制」は検討すらされなかったという。著者はこれについて、「ブローカーが不利益を受けないように考慮したのであろうか」と述べている。有効な対策があるのにそれを検討しようとすらしないのだから、外国人労働者を無権利状態に置いてその労働力を安く買いたたきやすくしておこうというのは、日本の国の意思なのだと考えるほかないだろう。



3.労働者の「使い捨て」と入管の機能


 外国人労働者の無権利状態は、政策における何重もの作為と不作為によって意図的に作られた状態なのだということが、第1章を通して理解することができた。この外国人労働者の受け入れをめぐる問題と関連づけて読むことで、第2章で述べられる入管の問題についての理解も深まるのではないかと思う。


 入管の収容や強制送還の実態を具体的に知ると、入管が国外退去の対象とした外国人たちをいじめぬく、その執拗さ・苛烈さにおどろかずにはいられない。なぜ人間をここまで痛めつけなければならないのか、と。この疑問に納得できる答えなどありようもないが、入管という組織の残虐さがどこからくるのか考えるうえで、この組織が資本や国家とのかかわりでどのような機能と役割をもって動いているのかというところをみていくことは不可欠である。その点で、入管の問題を外国人労働者の「受け入れ」をめぐる問題として考察する視点は、欠かせないのだと思う。


 第1章でおもに技能実習制度にそくして述べられているように、日本の外国人労働者政策は、かれら・かのじょらが権利主張することをさまたげ、その労働力を安く買いたたこうという思想につらぬかれている。そして、著者は、技能実習制度が「定住化につながらない外国人労働者受け入れ制度」であることを指摘したうえで、つぎのように述べている。


 [技能実習制度は]日本側としては、各送り出し国で生まれ、育ち、一定の教育を受け、職業に従事してきた労働者を、家族と切り離して一定期間だけ日本で就労させてその労働力を受け入れながら、必ず帰国させることで、帰国後の本人と家族の社会保障には何も責任を負わなくてもよいという制度なのである。まさに、使い捨ての制度である。(71ページ)


 この「使い捨て」という表現は、技能実習制度だけにあたるものではない。ここで指宿氏が指摘している意味での「使い捨て」は、すくなくともこの30年ほどの日本社会の外国人労働者利用のあり方全体に通底するものだ。バブル期以降に増えた非正規滞在外国人の労働者としての利用、90年代以降の南米等の日系人労働者の「受け入れ」など。


 このような外国人労働者の「使い捨て」を下支えし可能にしてきたのが入管の制度と運用だと言えるのではないだろうか。外国人は、入管の許可する在留資格・在留期間の制約内でしか日本で在留・就労できないことになっている。外国人の日本での在留や活動は、入管によって厳しくしばられている。そして、入管の認める資格・期間をこえて在留・活動する外国人に対し、入管は退去を強制する(強制送還する)権限を法律によってあたえられている。これら入管の在留管理と退去強制の権限は実際に、外国人労働者を一定期間就労させては帰国させるという使い捨てのサイクルを回転させるのにふるわれてきたのだ。



4.日本社会の過去と現在を問い直すこと


 さて、入管問題は、難民にかかわる問題として取り上げられることも多い。諸外国と比較して難民認定率・認定数が極端に低い日本では、難民として保護されるべき人の多くが、送還対象となり、劣悪な収容施設に長期間収容されている。近年の入管政策の運用変更などもあって、常軌を逸した収容の長期化がすすんでいる現状において、入管の問題は、難民と収容・送還の問題として焦点化されている。


 もちろん、難民問題として入管のあり方を問うのは、重要かつ不可欠なアプローチだ。ただ、これにくわえて、上にみたように「外国人労働者受け入れ問題」としてもみることが、入管問題をより深く理解するうえで必要であろう。


 入管の人権侵害問題に取り組むことは、日本の国と社会が外国人労働者をどのようにあつかってきたのかという過去と現在を問い直すことだと思う。その問い直しの作業をしていくにあたり、「コインの裏表」として外国人労働者受け入れ問題と入管問題の両面を見る本書はみちびきの糸となると感じた。




2020年9月22日

ここにいる「資格」が問われるということ


【ふりがなを つける】(powered by ひらがなめがね)


 入管による強制送還の対象になっているけれどそれぞれ事情があって「帰国」できないという人たちがいる。そうした外国人たちに、半端ながらボランティアの「支援者」というかたちで私がかかわるようになって10年ぐらいになる。

 日本にパートナーや子どもがいるため、国籍国には帰れない人。あるいは、帰国すれば迫害などの危険がある人。そういった人たちが、退去強制処分を取り消され、在留資格を獲得して日本で暮らせるようになることが、支援のゴールだと思って私は活動している。いったん入管から送還の対象とされた人であっても、その後の状況の変化などをくんでこれを救済する制度がある(法務大臣の権限による在留特別許可)。しかし、この救済措置が現在はきわめて限定的にしかもちいられておらず、その運用を変えさせるための運動も必要だ。

 支援であれ運動であれ、こうして在留資格の獲得をめざしていくこと自体は、あくまでもいまの入管制度の枠組みを前提とした取り組みである。また、その枠組みのなかでの「救済」を切実に必要としている人は、まだまだたくさんいる。だから、当分は制度の枠内でやれることをやっていかなければならない。ただ、そうだとしても、その枠組みを批判的に問い返す思考をおこたってはいけないとも思う。



「資格」を問われることがないという特権


 入管法とよばれる法律(正式名称は「出入国管理及び難民認定法」)のもとでは、外国人は在留資格がなければ日本にはいられないことになっている。日本で暮らしていくうえで、在留資格があるかないかということは、文字どおり死活問題というべき切実な問題だ。しかし、在留資格のあるなしにかかわらず、外国人住民は在留に「資格」を問われる身分に置かれているということにはかわりない。

 一方で、日本に在留することに「資格」を問われることのない身分が存在する。日本人1である。入管制度において日本人を外国人とへだてている決定的に重要な差異は、日本人は日本に在留することに「許可」を必要としないということ、「資格」なしに日本で暮らしたり出入りしたりできるということだ。しかし、日本人の多くは、それが特権的なことだと意識することはほとんどないだろう。私もそうだった。

 「資格」を問われることがないという特権性について私自身、問題意識をもつようになったのは、外国人とのかかわりをとおしてであった。

 外国人の知人から、以下のような話を聞いたことがある。彼女は永住者の資格をもつ人であるが、あるとき、入管職員からこう言われたという。「ビザ(在留資格)のない人を知っていたら、教えてください」と。この職員が入管のどの部署の職員なのかはわからないが、入管という組織は、いわゆる「不法滞在者」の摘発をおこなうにあたって、このようにいわば密告をうながし、そうして提供された情報を活用している。

 この入管職員に対してどう切り返したのか、彼女がニコリとしながら教えてくれた。「『ビザがない人ならたくさん知ってる』って言ってやったんだよ。『うちのアパートのとなりの人がビザない人だよ。うちの子の学校の担任の先生も校長先生もビザないよ。日本人はみんなビザないでしょう』って」。



居住が権利として保障されないことの異常さ


 日本国籍をもった日本人住民は「資格」を問われることなく日本で暮らすことができる一方で、外国人住民は「資格」なしに日本にいることができない。そんなことは当然じゃないかと思う人も多いのかもしれない。

 しかし、外国人が外国人であるかぎりつねに在留に「資格」を問われるという、現行の入管制度のありようは、具体的な事例をみていくと、きわめて異様なものだと言わざるをえない。たとえば、日本生まれで、自身の国籍国には行ったこともないというような人でも、「外国人」であるかぎり、在留「資格」が問われることになる。ということは、場合によっては、ほとんど見知らぬ「母国」に強制送還される可能性もあるということだ(実際、私の知っているケースでも、生まれてから一度も日本を出たことがなく、「母国語」を話すことのできない人が、意思に反して送還された例がある)。

 また、外国人が在留「資格」を認められるかぎりでしか日本にいることができないということは、言いかえれば、日本の制度において外国人の永住「権」が存在しないということでもある。たとえば、在日朝鮮人の多くは「特別永住者」という在留資格をもっているが、これはあくまでも日本の入管当局が付与する「資格」であって、永住する「権利」を保障したものではない。日本の制度における「永住者」あるいは「特別永住者」の在留資格とは、3年や5年といった在留期間の制限がなく、その都度期間の更新許可を受ける申請手続きをしなくてすむということにすぎない。在日朝鮮人たちが日本に居住するようになったのは、言うまでもなく、日本による朝鮮半島の侵略・植民地支配に原因がある。そうした経緯をもって4世代5世代にもわたって日本に居住するにいたった人びとにすら、日本の国家は居住を権利として保障するのではなく、あたかも恩恵でもほどこすかのようにその「資格」を「付与」するという立場に居直っているのである。

 日本のいまの入管制度のもとでは、外国人の在留はあくまでも国が与えたりうばったりすることのできる「資格」にすぎず、しかもそこに例外はない。



排外主義を育てる土壌


 どのような経緯があって日本で暮らしているのかにかかわらず、あらゆる外国人について、ここにいてよいのかどうかをもっぱらきめることができるのは国であるという考え方が、日本の入管制度をつらぬいている。こうした制度のありようが、日本人の排外主義を育てる土壌となっている面があるのではないだろうか。

 排外主義の言説は、「日本が嫌いなら(日本に文句があるなら)日本から出ていけ」というかたちをとる。自分たち日本人には、他者としての外国人が日本にいる「資格」があるかどうかを判定してもよいとでもいうような、はなはだしい思いあがりがここにはある。こうした思いあがった思考は、意識のうえで自己を国家と一体化させることで可能になっているのだろう。外国人の在留の「許可」「資格」を与えることができるとする国家と一体化し、あるいはこれを模倣するように、日本人は「日本から出ていけ」「国に帰れ」という排外主義の言葉をはきだす。入管制度は、日本人の排外主義に栄養をあたえ、あるいはその基盤となっている。

 外国人の在留の「資格」のあるなしはつねに国が決めてよいという、現行の入管制度のよってたつ思考への批判的な意識をもっていなければ、日本人は自分たちの排外主義的な思考と行動を克服することはできないだろう。それは、外国人への「支援者」という立場にある者であっても例外ではない。



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1: 「日本人」という言葉は、通常きわめてあいまいに使われている。とくに「私たち日本人」というように自称としてのこの語が使われる場合は、だれが「日本人」でだれがそうでないのかという境界が、話し手の都合によって伸び縮みすることがしばしばである。この文章では、日本国籍をもっている者(日本国民)という意味で「日本人」の語をもちいる。