運転免許証の更新のための講習を受けてきた。
講習が始まる前に、講師の人(警察官?)が「もし講習中に具合が悪くなったら、手を挙げて教えてください」という内容のことを言った。それが、体調がわるい人はムリしないでくださいねという気づかいからの言葉であればいいのだけど、その講師の言い方はひどく意地のわるいものだったので、びっくりした。
記憶をたよりに再現してみると、だいたいつぎのような言い方だった。
「先月、講習中に倒れた人がいました。倒れた人が出てしまうと、救急車を呼ばなければならないことになっています。そうなると、講習をいったん止めて、ほかの受講生のみなさんには他の教室に移動してもらって続きの講習を受けてもらうということになります。講習が終わるのが予定の時間よりもだいぶ遅くなります。そういうわけで、倒れる前に、具合がわるいということをつたえてください。」
なんでこんな言い方するのだろう? 「倒れるまでムリしないで、体調不良は早めに言って休んでくださいね」ぐらいに言うのをとどめておけば、受講者の体調を案じて言ってくれてるのだなとこちらも受け取るのだけど。なんでわざわざ、他の受講者の迷惑になるから、というようなことを言うのか。この講師が言っているのは、体調のわるい人は、他の人たちをわずらわせないよう、自分で退室できるうちに退室してくれ、ということでしょ。ひどいもんだ。
私はこの講師の人の発言をとても不愉快に感じたのだけれど、どうしてそう感じたのかをいまになって考えてみるに、この人が人間の社会性みたいなものを低くみつもっているように思えるからだ。
この人は私たちに対して、いわば「講習中に倒れる人が出たら、あなたたちにとって迷惑でしょう?」「迷惑に思うのが当たり前でしょう?」と同意を求めているのである。もっといえば、私たちにそれを「迷惑と思え!」というメッセージを向けていると言ってよいかもしれない。
いや、べつに迷惑と思わないし。倒れた人がいたら、講習なんか止めてその人を助けるのがあたりまえでしょう?
まあ、そう言ってるのは、キレイゴトではある。私だって、正直に言えば迷惑だと感じることはあるかもしれない。でも、それを口に出して言ったら下品というものである。
さきの講師の言い方が不愉快だったのは、その人が下品な「本音」を当然の前提みたいにして、私たちに語りかけてきたからだと思う。あんまり私らを低くみつもらないでほしい。病人を迷惑者あつかいなんてしないよ。
警察官らしい語り方といえばそうかもしれない。外から権力的な介入をしなくても私たちがときとして利他的にもふるまったりしながらたがいになんとかやっていけるのだとしたら、警察なんかいらねー、ということになるからね。
権力的にふるまうということが習い性になってるひと(警官は職業的にそうしたふるまいを強いられている面があるだろう)は、人間の社会性、自治の能力を低くみつもりたくなるのだろう。きみら、倒れてる人をみたら迷惑だと思うでしょ、と。そうみなしたいのだ。力をふるって他者や集団をコントロールしようということが習い性になってしまえば(もちろん警察官にかぎった話ではない)、倒れてるひとを迷惑とみなさず、仕事の手をとめて当然のように助ける人間は脅威にうつるのではないか。「ほっといたら(権力的な介入なしには)、ただちに人間どうし反目し合い、対立して、社会が成り立たなくなる」という人間観・社会観がかれらのふるまいを正当化するために欠かせないのだから。