2025年2月25日

倒れたらみんなの迷惑になるから

 

 運転免許証の更新のための講習を受けてきた。

 講習が始まる前に、講師の人(警察官?)が「もし講習中に具合が悪くなったら、手を挙げて教えてください」という内容のことを言った。それが、体調がわるい人はムリしないでくださいねという気づかいからの言葉であればいいのだけど、その講師の言い方はひどく意地のわるいものだったので、びっくりした。

 記憶をたよりに再現してみると、だいたいつぎのような言い方だった。

「先月、講習中に倒れた人がいました。倒れた人が出てしまうと、救急車を呼ばなければならないことになっています。そうなると、講習をいったん止めて、ほかの受講生のみなさんには他の教室に移動してもらって続きの講習を受けてもらうということになります。講習が終わるのが予定の時間よりもだいぶ遅くなります。そういうわけで、倒れる前に、具合がわるいということをつたえてください。」

 なんでこんな言い方するのだろう? 「倒れるまでムリしないで、体調不良は早めに言って休んでくださいね」ぐらいに言うのをとどめておけば、受講者の体調を案じて言ってくれてるのだなとこちらも受け取るのだけど。なんでわざわざ、他の受講者の迷惑になるから、というようなことを言うのか。この講師が言っているのは、体調のわるい人は、他の人たちをわずらわせないよう、自分で退室できるうちに退室してくれ、ということでしょ。ひどいもんだ。

 私はこの講師の人の発言をとても不愉快に感じたのだけれど、どうしてそう感じたのかをいまになって考えてみるに、この人が人間の社会性みたいなものを低くみつもっているように思えるからだ。

 この人は私たちに対して、いわば「講習中に倒れる人が出たら、あなたたちにとって迷惑でしょう?」「迷惑に思うのが当たり前でしょう?」と同意を求めているのである。もっといえば、私たちにそれを「迷惑と思え!」というメッセージを向けていると言ってよいかもしれない。

 いや、べつに迷惑と思わないし。倒れた人がいたら、講習なんか止めてその人を助けるのがあたりまえでしょう?

 まあ、そう言ってるのは、キレイゴトではある。私だって、正直に言えば迷惑だと感じることはあるかもしれない。でも、それを口に出して言ったら下品というものである。

 さきの講師の言い方が不愉快だったのは、その人が下品な「本音」を当然の前提みたいにして、私たちに語りかけてきたからだと思う。あんまり私らを低くみつもらないでほしい。病人を迷惑者あつかいなんてしないよ。

 警察官らしい語り方といえばそうかもしれない。外から権力的な介入をしなくても私たちがときとして利他的にもふるまったりしながらたがいになんとかやっていけるのだとしたら、警察なんかいらねー、ということになるからね。

 権力的にふるまうということが習い性になってるひと(警官は職業的にそうしたふるまいを強いられている面があるだろう)は、人間の社会性、自治の能力を低くみつもりたくなるのだろう。きみら、倒れてる人をみたら迷惑だと思うでしょ、と。そうみなしたいのだ。力をふるって他者や集団をコントロールしようということが習い性になってしまえば(もちろん警察官にかぎった話ではない)、倒れてるひとを迷惑とみなさず、仕事の手をとめて当然のように助ける人間は脅威にうつるのではないか。「ほっといたら(権力的な介入なしには)、ただちに人間どうし反目し合い、対立して、社会が成り立たなくなる」という人間観・社会観がかれらのふるまいを正当化するために欠かせないのだから。


2025年2月14日

火のないところに偏見の煙を立てる


留学目的で入国し在留期間切れたまま滞在…別事件の関連で身分証提示で発覚、入管難民法違反の疑いで28歳スリランカ人の男を逮捕|HBC北海道放送(2025年02月13日(木) 19時29分 更新)


 警察には警察のおもわくがあってこの件をマスコミにリークしたのだろう。しかし、それを報道するかどうか、あるいはどう報道するのかということは、マスコミが判断することだ。北海道放送はどこにわざわざ報道すべき意義をみいだして、これを報じたのだろうか。

 記事を読んだところで、なにがどう問題なのか、私にはさっぱりわからない。問題にならないことを、あたかも問題であるかのように報じることで、偏見をばらまこうとする。そういう記事にしか、私にはみえない。

 記事を抜粋してみよう。なんでこんなものがニュースになるのか。こんなものがクソまじめなトーンでテレビで報じられているということが、つめたく狂った社会のありさまを示しているように思える。


 警察によりますと、13日、警察が別の事件に関連して男に身分証明書の提示を求めたところ、在留期間が切れていたことが発覚し、男をその場で逮捕しました。

 男は2018年4月に留学目的で、1年3か月の在留資格を得て日本に入国し、在留期間の2019年7月以降の足取りはわかっていませんが、去年7月17日までは「特定活動」の在留資格があったということです。

 取り調べに対し、スリランカ人の28歳の無職の男は、容疑を認めているということです。

 警察は、在留期間が切れた後の男の生活実態などを調べています。


 「在留期間の2019年7月以降の足取りはわかっていませんが」などと書いているが、警察であれ、これを報じている放送局であれ、そんなのおまえの知ったことかという話である。その間、どこで何をしていたかなんて、この逮捕されたかたの勝手なのであって。

 「特定活動」の在留資格が去年の7月まであったということは、このかたは入管局をおとずれて当初の「留学」から「特定活動」への在留資格変更申請をし、入管局もこれを許可したということだ。ところが、記事は、入管的な言い方をすれば「適法に在留していた」この期間についてすら、「足取りはわかっていませんが」などと書いている。外国人はその「足取り」をつかんでおかないとどんな悪いことをしているかわかったものではない、だから徹底的な監視・管理が必要なのだ、という前提がないと、こういう書き方にはならない。

 もちろん、このニュース原稿を書いた人は、警察が発表した内容を書き写しただけなのだろう。でも、そうして書き写した文章は、書き写した本人の自覚はなくても、「日本国民」ではない住民に対してこの国の治安当局がむけている視線をおぞましいほど正確に反映したものになっている。

 ニュースによると、逮捕された人は、2018年4月から6年あまりのあいだ続いていた在留資格が2024年7月に切れ、その後、7か月間ほどオーバーステイになっていたということのようだ。そりゃ入管法違反ということにはなるかもだけれど、オーバーステイなんてそれ自体はなにか悪さしたということではない。自動車の無免許運転とかだったら他人の生命を危険にさらすといえることもあるだろうけど、在留する、つまり「ここにいる」ということに国家機関の「許可」をえてなかったからといってなんだと言うのか。

 「警察は、在留期間が切れた後の男の生活実態などを調べています」なんて書かれちゃって、あんまりではないか。クソポリはそりゃ「調べ」るでしょうよ、入管体制・外国人管理制度というのはそういうクソなのであるから。でも、報道にたずさわる人は、「在留期間が切れた後の男」などと呼ばれる人間であれば、「生活実態」を調べられるのも当然なのだというような前提にたった、おぞましい文章を書かないでくれ。監視してないとなにか悪さをするだろう、悪さをするはずだという視線を「外国人」にあからさまにむけた文章を書いてることを自覚して、深く恥じ入ってくれ。相手もあんたと同じ人間だぞ。




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2025年2月2日

自由はなにより大切だ


 少し前のこと。監禁された人が解放されるためのちょっとしたお手伝いをした。その人が拘束を解かれるのに立ち会って、ほんとによかったなあと心の底から思った。

 おなじような形で人が解放されるのには、いく度も立ち会ってきたのだけれど、多くの人が言うのは、「つかまっているときのしんどさは、経験した人にしかわからない」ということ。私は「経験した人」ではないので、そのしんどさは、想像はするけれど、やはりわからないのだと思う。

 それでも、何か月かぶりで、あるいは何年かぶりに監禁を解かれて外の空気を吸う人のよろこぶ様子を目にすると、納得できるような理由もなく閉じこめられ、自由をうばわれつづける経験が、どれほどむごたらしいことなのか、いくらかわかるような気がする。解放されたその人の表情や声色、全身をのばすしぐさ、むかえる人を抱擁する姿をとおして。

 むごたらしい経験を強いられるのは、拘束された本人だけではない。通話アプリをつうじて、家族や友人たちが喜びと安堵の表情をみせ、私たちにも感謝の言葉を伝えてくださるのをみて、そのことを思い知らされた。息子・夫・弟が罪もないのに遠くの地で拘束されているのを知りながら、どれほど心配で落ち着かない気持ちで日々をすごしていたことか、と。

 人間をせまい区画に閉じこめたり、あるいは勝手な境界をひいて移動をさまたげたりして、自由をうばうこと。これは端的に言って悪である。当然と言えば当然で、あたりまえすぎることだ。けれど、急いでそのことをちゃんと言葉にしておかなければならない。いまそう思ってこの文章を書いている。

 不当な制約をとっぱらおうとすること、監禁をゆるさないこと、自由を最大限に擁護し、それをさまたげようとする力の行使にあらがうこと。それは、(留保なくそう言えるかわからないけれど)正しいことだ。私はそう確信している。

 でも、そういま確信していることを、私はあしたになったらわすれているかもしれない。だから、こうしていま書いている。

 なんでこんな大事な(と、いま思っている)ことをわすれてしまうかといえば、監禁を解かれて出てきた外の社会もまた、地獄のようなところだったりもするからだ。

 とくに、市民権から排除され、あるいは否定的なスティグマを貼りつけられた者にとって、拘束を解かれた外の社会は、生きていくための条件や可能性を極限までせばめられた場所であったりする。そういうわけで、拘束されていた人がそのひとつの拘束をなんとか脱して、いくらか自由をえたことが、ほんとによかったんだろうかなどと、ばかげた(といまは思える)疑念が生じてきたりするのだ。(人からもいろいろ言われるしね。)

 だから、わすれないうちにこうして書いておこう。自由はなにより大切なのだ、と。