すこしまえから朝鮮語の勉強をやっておりまして、まだまだぜんぜんの初学者なのだけれど、韓ドラをみてて、ときたま字幕なしに言葉が頭に入って来るようなこともあったりして、おもしろいものである。
最近みたドラマが、「イニョプの道」という日本語の題がついているのだが、オープニングのタイトルバックでその原題が「하녀들」だということを知った。「下女たち」という意味である。
日本語版では、イニョプというこのドラマの主人公の名がタイトルに入っている。ところが、韓国で放送されたオリジナル版は、「하녀들」(ハニョドゥル)という、そっけなくも聞こえるタイトルが付けられていたのだと知って、しかしそこに制作者の思いがきっと込められているのだろうなと想像した。
両班(やんばん)の若い女性であるイニョプは、父が謀反の罪をきせられ処刑されたため、奴婢の身分に落とされ、かつての親友の家に下女としてつかえることになる。イニョプは、苦難に立ち向かいながら、ついに父の無罪を証明し、家門を復活させて元の身分に復帰することができました! めでたしめでたし。
乱暴にまとめてしまえば、こういうストーリーである。
イニョプ自身は、身分を落とされることで、それまで人間以下のモノとしてあつかってきた下女たちとはじめて「人間」として出会うことができ、自分自身も「人間」として成長し始める。
でも、結局のところ元の両班の身分にもどってハッピーエンドだと言われても、私は釈然としない。身分回復後のイニョプはかつての下女仲間の何人かを連れてきて、「あなたたちに苦労してほしくないから」とか言って、自分の家につかえさせたりもするのだけど、それでは「幸不幸は主人しだい」という彼女たちの立場はなにもかわらない。
というわけで、イニョプというひとりの女性の物語としてみれば、もやもやが残る結末である。時代劇なので、その時代(朝鮮時代)の限界をこえた結末にはできないという制約はある。なので、あたりまえといえばあたりまえだけど、けっきょく身分制は温存されちゃうのね、という。
しかし、だからこそ、「하녀들」(ハニョドゥル)というタイトルを制作者があえてつけているところに意味をみいだしたくもなるのだ。たんなる「両班のお嬢さまがいっとき奴婢に落とされたけれど、苦難を克服し、身分を回復できました」というイニョプの物語としてだけみないでね、と。イニョプが最終的には身分回復することで通りすぎてしまう、下女たちの生きざまをこそみなさい、と。
イニョプが自身も下女になって初めてかいまみた下女たちの世界には、主人の目の届かないところでひそかになされるかばい合いがあり、助け合いがあった。奴婢たちには正義感があり、そこにプライドもあった。抑圧に無念さと無力感をいだかされながらも、一矢報いようという反抗の種はそこらじゅうにある。そのひとつひとつは消費しやすい物語にはならないかもしれないけれど、かけらのようにあちらこちらにちらばっている。そんな光景がいきいきと描かれる場面がこのドラマにはいくつかあった。
こういうふうに身分制秩序のなかに、これをゆるがす反抗の契機をちりばめて描き、いずれそれが崩壊し人間によって克服されるであろうことを暗示するという仕掛けは、韓国でつくられる時代劇によくみられるように思う。そういうドラマをつくれる社会だということは、天皇制という野蛮な身分制秩序が国家の制度として恥知らずにも堂々と温存され、身分制が克服すべきものだということすらいまだ共通の了解として成立しない社会の住民からすると、いくらかまぶしく感じてしまう。
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