2025年6月12日

見下している相手から道義的に正しい抗議を受けたとき


 自分が下に見ている相手から道義的に正しい抗議を受けると、パニックになって激昂してしまう、ということがある。

 抗議を受けるというのは、おまえの行為は正しくないと指摘されることなのだから、なかなか心おだやかではいられない。必要以上に防御的な態度をとってしまうというのは、ありがちである。

 たとえば、抗議をしてきた人に対して「あなただって同じようなことしてるじゃないか」とか「私だってつらいんです」とか言ってしまうのが、それだ。前者は相手の抗議する資格を否定しようとする行動だし、後者は自分も被害者のポジションをとることで自分への抗議を無効化しようとする行動だ。どちらも、抗議から自分を守ろうという防御的な行動ではあるけれど、相手をだまらせて抗議をさせないようにしているのだから攻撃的な行動でもある。

 対等な立場の相手からの批判や抗議であっても、こういう攻撃的な反応をかえしてしまうことはしばしばあるものだけれど、これが自分が下に見ている相手からの抗議となると、ほとんどパニックとしか言いようのない激しく攻撃的な反応をしてしまうことがある。その抗議の内容の道義的な正しさが疑いようのないものであれば、その攻撃性はますます激しくなりうる。

 以下は、まさにそういうケースではないだろうかと思った。


パンツ一丁で身柄拘束は「違法」、都に33万円の賠償命令 原告代理人「言うことを聞かせるための拷問だ」東京地裁 - 弁護士ドットコム(2025年06月11日 16時50分)


 これは新宿警察署の警察官たちが、留置していた人に組織的に暴行をくわえたという事件で、その内容は口にするのもはばかられるほどひどい。で、気になるのが、なにがこの人たちをこういう行動にかりたてたのかという点である。


同年7月、同じ部屋に収容されていた1人が風邪の症状をうったえ、38.9度の熱があることが判明した際、別の収容者が毛布の差し入れを求めたものの、担当の警察官に拒否された。

そこで男性が「熱がある人を1時間放置するのか」「毛布1枚くらい入れてもいいのではないか」といった趣旨の発言をしたところ、保護室に連行された。

男性はそこで約2時間にわたり、服を脱がされパンツ一丁にさせられ、両方の手首と足首を縛られた状態にされたという。

その間、尿意を催した男性がトイレに行きたいと求めたが、「垂れ流せよ」などと言われ対応してもらえず、男性は我慢できずに身体拘束を受け寝転がされたまま排尿した。

また、身体拘束を解かれたあと、便意を催した際にはトイレットペーパーを要望したが無視され、男性はやむなく手に水をつけて拭かざるを得なかったという。


 いやはや常軌を逸した攻撃性があらわれており、警官たちは集団的にパニックにおちいってるようにしかみえない。で、この人たちを激昂させた原因は、「熱がある人を1時間放置するのか」「毛布1枚くらい入れてもいいのではないか」という、留置されてる人からのどう考えても道義的にまともな抗議の発言だったようである。というか、「抗議」以前にまっとうな「提案」であって、「そうですね、毛布持ってきますわ、ありがとう」とか言って対応すればよいものを、警官たちはなぜかブチ切れるのである。

 なぜブチ切れるかといえば、自分たちが見下している相手から、まっとうな批判を受けたからだろう。警察官たちにとっては、悪いことをしていることを取り締まっているのだという自負が、自分たちの道義的な優位性の根拠になっているということもあろう。「犯罪者」が警察官のプライドをささえてくれているのである。その「犯罪者」から「熱がある人を1時間放置するのか」と自分たちの正義に疑問をつきつける抗議(それもその内容はだれも否定できないような常識的に正しいものである)をつきつけられたからこそ、警官たちはパニックになったのであろう。

 警察官が職務上こういうパニックを起こしやすい位置にいるのは確かだろうから、組織として対策をとる必要があるのではないか。

 もっともこれは、警官とかだけでなく、教師とか福祉にたずさわる人とか、あるいはボランティアふくめ支援者的に他者に関わる機会のある人とか、育児をする人とか(←こうやってひとつひとつあげていくと、この社会で生きているだれでもそうじゃないかという話になるけど)にも関わってくる課題である。

 大事なのは、相手を見下さない、自分と対等な他者として相手と関わるということになるのだろうけれど、まずは相手よりよけいに権力をもっている場合に、自分も新宿署の警察官たちのようなパニックにおちいる可能性があるのだというところを自覚するところから始める必要があるのかも、と思いました。


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