2021年1月27日

「エリザベス この世界に愛を」 - ETV特集 - NHK


【ふりがなを つける】(powered by ひらがなめがね)

 


「エリザベス この世界に愛を」 - ETV特集 - NHK

2021年1月23日(土)23時~23時59分 NHK Eテレ

(再放送)1月27日(水)24時~24時59分 NHK Eテレ


 とてもよい番組でした。たくさんの人に見てほしい。


 日本に暮らす外国人の支援者として活動するいっぽう、自分自身も在留資格のない「仮放免」状態にある外国人として暮らしているエリザベスさん。その1年半の活動を追いかけたドキュメンタリー作品です。



~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ 



 エリザベスさんは、とにかく行動力がすごい。連日、東京や茨城県の入管施設におもむき、収容されている人たちに面会しているという。名古屋や長崎の施設に面会に行くこともある。入管に収容されている人たちからつぎつぎと電話がかかってくる。被収容者の話に耳をかたむけ、その苦しみによりそい、ときにはげます。仮放免の人やその家族にも会い、支援をしている。


 番組からは、エリザベスさんのなみはずれたバイタリティや熱意がつたわってくる。けれども、彼女がしていること、しようとしていることは、ある意味で「あたりまえの行為」だというふうにも思う。他者の苦しみによりそい、ともに泣いたり笑ったりすること。助けを必要とする人に支援を提供したり、それを提供できる人につないだりすること。問題がすぐに解決できるものでなくても、とりあえずはそばに立ち、ともに何ができるか考えること。苦しむ仲間のためにともに祈ること。


 これらの行為は、いつも簡単なわけではない。ときに私は、困っている他者をみてみぬふりをしたり、見捨てたりもしている。そうしながら生きている。手をさしのべられないことには、そのときどきで事情や理由があり、あるいは自分自身にそれを正当化する言いわけをしたりもする。でも、この番組に映されているエリザベスさんのような行動を少しでもできたらよいとも思う。


 番組では、2014年に茨城県の入管施設で病死したカメルーン人の映像も紹介されていた。遺族が国をうったえている裁判で証拠として出てきた監視カメラの動画で、この方が病室で痛がりながらころげまわる姿が映しだされている。遺族の代理人の児玉弁護士がコメントで紹介していた事実が印象にのこった。このカメルーンの方が亡くなる前に病気でくるしんでいるのをみかねて、周囲の被収容者たちは職員に対し、この人を医者に診せるまで部屋に戻らないと言って強く抗議したのだという。


 ここが収容所でなければ、自由をうばわれていなかったならば、かれらは自分たちで仲間のために救急車をよぶか、自分たちの手で仲間を医者のもとまで連れて行っただろう。施設に長期間拘束して自由をうばうということは、他者に対して「あたりまえに」かかわろうとする能力を抑圧しうばいとるということでもある。これがどんなにむごいことか。


 私はじつは、エリザベスさんふくめ仮放免者たち、あるいは入管施設に収容されている人たちと交流しかかわってきたのだけど、多くの人たちが苦悩していることのひとつはこの点である。自分自身が苦境におかれていることだけでなく、仲間を助けようとしたり家族のためになにかしてやろうとすることが、収容や仮放免の制約のためにさまたげられていること。他人をなかなか思うように助けられないというそのことが苦しいのだという言葉を少なくない人数の被収容者や仮放免者から聞いてきた。


 番組の最後、エリザベスさんは在留資格をえられたら何をしたいかと問われ、大きな家を買って外国人を支援するためのセンターを作りたいと答えていた。エリザベスさんや他の仮放免者たちの豊かな活動が、現在の入管制度やその運用によって、どれほどさまたげられていることだろうか。その大きさを思わずにはいられない。



~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ 



 エリザベスさんの言葉や行動は確信にもとづく堂々としたもので、番組もそのような存在として彼女を映していたのも、よかった。


 もちろん、非正規滞在の外国人であるからといって堂々としていてはいけないという理由なんてない。しかし、退去命令が出ていながら日本政府に対して在留資格をもとめる外国人は、自分自身が「帰国」できない事情をかかえているということを説明しなければならない立場にもある。自分は難民である、あるいはここでしか家族と暮らすことはできない、だから在留資格を認めてください、と。


 現行の入管制度のもとでは、退去命令の出ている外国人であっても、これを取消して在留を認める在留特別許可という措置がある。しかし、これは法務大臣が人道的な配慮として「特別に」在留を「許可」するという位置づけのものだ。あたかも、高い身分の者が低い身分の者に与える「恩恵」ででもあるかのように。


 でも、エリザベスさんの言葉や行動(それは番組中、仮放免で施設から出たアラン氏(仮名)や長崎の入管施設で餓死した仲間のことをエリザベスさんへの電話で語っていたかれの言葉や行動ともかさなる)は、そうした制度を成り立たせる基盤となっている考え方をうたがうことに、私たちをいざなう。その言葉や行動が映し出しているのは、国境や在留管理の制度ができあがるずっとまえからあったはずの、ひとが他者にかかわろうとするときの「あたりまえの」あり方だ。本来は、ひとが他者とよりよくかかわりあえるように助けとなるべき社会制度が、反対にそれをさまたげ抑圧しているのではないか。他者によりそいおたがいに助け合う関係をきずこうとするひとの足をひっぱっているのが現行の制度や運用ならば、そういうひとのあり方をささえるようなものに制度や運用のほうを変えていけばよい。


 作品はそれをみる人によって、そこからなにを受け取るのかちがってくるものだろうとは思うけれど、他者の姿や行動をみることの重要な意義のひとつは、他者をとおして自分のなかにもある可能性の存在に気づくことにあるのだと思う。この番組をみる多くのひとが、エリザベスさんたちの姿をとおして、自分自身のなかにもある「あたりまえの」尊い可能性にあらためて出会うことができたらよいなと思った。





番組は、

◆1月27日(水)24時(日付かわって28日の0時ということでもありますね)から再放送

◆インターネットでは、NHKプラスで、同時配信&見逃し配信で視聴できる

とのことです。


2021年1月12日

「不法滞在」「不法残留」という言葉で消去されるもの


【ふりがなを つける】(powered by ひらがなめがね)

 


1.官製用語としての「不法残留」「不法滞在」


 グラフは、「超過滞在者数の推移」をあらわしたものである。入管庁が年ごとに出している『出入国管理』という冊子(2019年版以降は『出入国在留管理』)1 で公表されている超過滞在者の数をグラフにした。



 「超過滞在」というのは、「オーバーステイ」ともいわれ、外国人がきめられた在留期間をこえて滞在することを意味する。もっとも、法務省や入管庁は「超過滞在」ではなく「不法残留」という言葉をもちいている。入管庁の公表する冊子でも、「不法残留者数」として統計が公表されている。


 「不法残留」とか、あるいは「不法滞在」といった言葉は、これを取り締まる側による官製用語であって、その行為の「わるさ」を強調、というか演出しようとの意図からもちいられているのはあきらかだろう。「わるさ」といっても、日本に「残留」「滞在」しているだけである。たんに「ここにいる」ということにすぎない。ゴミの「不法投棄」は迷惑行為だし、場合によっては他者に深刻な被害をもたらす行為だが、「不法残留」や「不法滞在」はそのようなものではまったくない。


 「不法」ということが強調されると、私たちはその行為をおこなった人がペナルティを受けるのは当然だと考えがちだ。「不法滞在者」という言葉の流通によって、私たちのものの見方・考え方が影響をこうむっていることも少なからずあるのではないだろうか。この点での私たちの常識を批判的にとらえなおす出発点として、上のグラフを手がかりに考えてみたい。




2.超過滞在者の増減をもたらすもの


 「超過滞在者数の推移」というように、たんなる統計上の人数としてその変化をみる見方では、当然ながらそのひとりひとりの個別性は消去されてしまい、見えてこない。超過滞在者、あるいは非正規滞在者(在留資格のない状態にある外国人)とひとくちに言っても、その状態にいたる過程や事情はさまざまであり、その責任や原因が本人にあると言えるとはかぎらない。なかには、「不法残留者」「不法滞在者」としてあつかわれ入管施設に収容されたり強制送還の対象とされることが、きわめて不当だと言うべきケースもすくなくはない。だから、支援の場などにおいては、ひとりひとりの事情をおろそかにしないことは大事である。その点は確認しつつ、ここではあえて反対に個別の状況を捨象した見方をしてみる。


 上のグラフは、超過滞在者数の増減をあらわしているが、この間の日本の社会・経済状況についての常識的な知識があれば、その増減の要因が何なのか推測するのはそう難しくはないはずだ。


 超過滞在者数が1990年から急増しているのは、バブル期の人手不足が背景にあったことはあきらかだろう。91年にバブルが崩壊すると、超過滞在者数は93年のピーク(30万人弱)をさかいに減少に転じ、2014年までおよそ20年間にわたって下がっていく2


 ちなみに、これは常識とは言えないけれど、2003年ごろから国はいわゆる「不法滞在者」に対するそれまでにない規模での強力な摘発にのりだしている。現在、東京入管は東京都港区にあるが、この庁舎が完成し、入管が移転してきたのは2002年のことである。収容人数800人とされる巨大収容場をそなえた東京入管のこの新庁舎がつくられたのは、直後に開始されることになる大規模摘発のためであろう。翌03年12月、政府は04から08年を「不法滞在者の半減5か年計画」に位置づけ、徹底した摘発をすすめていった。グラフをみると、この時期から08年のリーマンショックをへて、超過滞在者数の急激な減少がつづいたことがわかる。


 ようするに、巨視的にみれば、超過滞在の人が増えたり減ったりするのは、日本社会の都合によるのだと言えるのである。日本社会のなかで労働力需要が高まったときに「不法残留者」が増え、それが低くなると「不法残留者」数は減っている。「不法残留」という言葉を聞くと、「不法残留」にいたった外国人の側にもっぱらその増加の要因ないし責任があるように私たちは認識してしまいがちだ。しかし、その増減を決定的に規定している原因は日本社会の側にこそある。グラフでその推移をみることで、そのことを直感的に理解できるのではないか。




3.日本社会のあり方をこそ問う


 国境をまたいで日本にやってきて、現在「不法残留」なり「不法滞在」なりになっている外国人たちは、そのひとりひとりのたどってきた過程をみるならば、各人の主体的な選択の結果として現状にいたっているということもたしかに一面では言えるかもしれない。人身取引の被害者や元いた国での迫害から逃げてこざるをえなかった難民3 などについては必ずしもそう言えない場合もあるにしても、多くのひとはそれぞれのおもわくをもって自身の意思で国境をわたってくる。


 しかし、それらが主体的な意思にもとづいた行為だと言えるとしても、そうして日本にやってきて、ここで長年にわたって生活するということは、当人たちの力だけでは不可能である。日本社会が、その人たちを必要とし、呼びこみ、労働力などとして利用してきたからこそ、それは可能だったのである。


 これはごくごく当たり前の事実にすぎない。「不法残留」状態にある人をふくめ移住者たちは自身の意思だけでここに移り住んできたわけではない。移住者たちがもといた社会から押し出されたり、あるいは移住者自身の意思でそこから出てきたと同時に、日本社会が引っぱりこんできた結果として、移住者たちがここにいるのである。


 ところが、「不法残留者」「不法滞在者」という言葉は、そうして日本社会にやってくる者の責任のみを一方的に強調する。そのことで、「不法残留」「不法滞在」の状態を作り出しているもう一方の当事者であるはずの日本の国や社会の責任は、みえなくなってしまうのだ。


 日本社会がどのようにして労働力としての外国人を呼びこんできたのか。そこに政府の政策はどのようにかかわってきたのか。こうした過去と現在について、私たちはまだまだ十分にあきらかにできていないのだと思う。




---------------



1: 入管白書『出入国管理』は、法務省のウェブサイトで読める。 

2: グラフのとおり、1993年以降一貫して減少しつづけてきた超過滞在者数は、2015年以降増加に転じている。2016年版『出入国管理』では、15から16年にかけての2年連続での増加について、以下のように分析している。 
「これ[不法残留者数の2年連続での増加]は,継続的な不法滞在者の摘発を実施し,これまで不法残留者数を大幅に減少させてきたものの,近時その小口化・分散化が進み,大規模な摘発が困難になり,退去強制手続を執った外国人の数の減少傾向が続いているためであると考えられる。その一方で,近年,政府を挙げて観光立国推進を掲げているところ,平成25年[2013年]7月1日からASEAN諸国等への査証免除及び査証発給要件緩和措置を実施した結果,同年以降の外国人入国者数は,大幅に増加し,不法残留者数の増加に少なからず影響しているものと考えられる。」(第1部38ページ)
  観光客を呼び込むための政策が直接的な要因だというのはたしかだとしても、非正規滞在者の労働力を必要としこれにたよる職場が増えていかないと、超過滞在者の増加という現象は生じにくいように思う。2013年に東京が7年後のオリンピック・パラリンピックの開催地に選ばれたことで、首都圏を中心にした建築労働者などの労働力需要が高まったことが、これに関係していることも考えられるのではないか。
  また、『出入国管理』に公表されている2015年以降の超過滞在者の在留資格別のうちわけをみると、技能実習の在留資格をもっていた人が超過滞在になっているという数が年々めだって増えていっていることがわかる。技能実習生が実習先で違法な低賃金で働かされたりやパワハラなどの人権侵害を受けていること、また、技能実習制度がそうした被害を必然的に生じさせる欠陥をはらんでいることは、現在ではよく知られている。国のゆがんだ外国人労働者政策が、職場(実習先)からの実習生の「逃亡」を余儀なくさせ、「不法残留」状態におちいる人を生んでいるのである。
  
3: 迫害からのがれて出身国を出てきた難民についても、就労を目的のひとつとして日本を選んでやってくることはありうるし、それはなんらおかしなことではないのだということは、ここで指摘しておきたい。自分自身や家族が生活していけるだけの十分な資産があったり、あるいは支援を見込めたりするのではないかぎり、難民も生きるために就労する必要がある。したがって、より条件のよい就労機会が見込めることを理由に渡航先を選択しようとするのは、難民であっても当然なのである。就労・稼働を目的にして日本にやってきたようにみえたり、あるいは本人自身がそうだと言っているのだとしても、それはその人が難民であるという事実を否定する根拠にはなりえない。渡航の目的のひとつが就労だということと、その人が難民であるということは、矛盾することなく両立可能なのである。むろん他方では、渡航先を選ぶ余地などなく、とにかく危険からのがれてたどり着いた先がたまたま日本であったという難民のケースも少なくない。