2024年2月29日

卒業式の権威主義

 

 フェイスブックが「過去のこの日」などといって、何年か前の今日の投稿を表示してくれるのですが、そうか、今年も卒業式の季節ですね。子の卒業式に出席した日の投稿をこのブログにも再録しておきます。


 子の卒業式に出席してきました。コロナの感染防止ということで、生徒ひとりにつき保護者は1名までの出席ということで、今回は私がひとりで出てきました。

 毎度のことなのですが、開始そうそう「ご起立ください」と言われて起立すると突然テンスケをたたえる歌が流れてきたので、着席しました。戦争犯罪者とその地位を後継する一族が千代に八千代につづきますようになどというふざけた内容の歌を、500人ぐらいいる会場で(たぶんひとりだけ)すわって聞かされるという苦行に。

 校長は式辞にあたって壇上にあがると高いところにかかげられたクソ丸に真っ先に一礼するなど、なかなかスゴいものを見せられました。

 せっかくの祝福の儀式なのにこういうおかしなものを持ち込むのはやめてほしいよね。

 ほかにもひどく権威主義的な形式があちこちにみられて、いままでみた入学式・卒業式でもここまでのはみたことないという感じでした。根本には侵略戦争や植民地支配への無反省ということがあるのでしょうが、維新府政が続いていることでの教育の荒廃がすすんでいることのあらわれをみるような思いもしました。


 君が代を歌ったり日の丸をかかげたりという行為は、それ自体が侵略国家の国民の居直りとも言うべきで、悪質きわまりないものです。さらに、これを大人たちが権力をもって、さまざまなルーツをもつ子どもたちのいる学校という場所で強制しているということのろくでもなさ。今年もおなじ光景が、全国各地の学校でくり返されているのだろうということを思うに、あらためて慄然(りつぜん)とします。

 数年前に出席した卒業式(高校)では、上に書いたとおり、校長は壇上に上がるなり、まず日の丸に一礼をしました。卒業生たちやその保護者たちにではなく、来賓にむかってですらなく、一番先に頭をさげたのが日の丸に対してだったのです。

 この人は日々どこを向いて教育をやってるんだろうかと思いました。たかが儀礼的な様式じゃないかと言われれば、まあそうでしょうが、こうした儀礼的なふるまいが象徴している教師の日常や思考というのも、軽くみるべきではないとも思います。

 このときの卒業式では、卒業生の読んだ答辞は、内容としては心のこもったすばらしいものだと感じたのですが、儀式の形式がその内容とそぐわない残念なものになってしまっていました。卒業生はステージの下に立ち、壇上の校長にむかって、つまり校長をあおぎみるかっこうで答辞を読み上げる、という形式だったのです。

 校長の日の丸拝礼にしても、あおぎみての卒業生答辞にしても、これらは権威主義にほかなりません。だれが上位でだれが下位なのかを決め、その上下関係を目に見える形で表現するという儀式であるわけです。教師は生徒より上位であり、教師のなかでは校長が最上位にあり、しかしその校長より上位に日の丸が位置している。そういう上下関係を、あるべき秩序として維持しなければならない。こんな規範・価値観を儀式として表現する場にさきの卒業式はなっていたということです。

 こういう儀式への参加を学校教育の場などでくりかえし強いられると(私自身そういう教育をみっちりと受けてきたわけですけど)、それぞれが平等な立場から組織や共同体に参加し、いわば民主的に合意形成をはかっていく、みたいな能力や意思は破壊されちゃいますよね、と思います。破壊されたものを取り戻していくということを意識的にやらざるをえなくなる。これはなかなか難儀なことです。


2024年2月10日

差別は正しく「差別」と呼ばなければならない

  政府が、永住者の在留資格について、税金や社会保険料を納付しないケースなどで在留資格を取り消せるよう入管法を改悪する検討をしているとの報道が出ています。

税や保険料を納めない永住者、許可の取り消しも 政府が法改正を検討:朝日新聞デジタル(2024年2月5日 15時49分)

 記事の冒頭段落だけ引いておきます。


 政府は、「永住者」の在留許可を得た外国人について、税金や社会保険料を納付しない場合に在留資格を取り消せるようにする法改正の検討を始めた。外国人の受け入れが広がる中、公的義務を果たさないケースへの対応を強化し、永住の「適正化」を図る狙いだ。


 「適正化」ですって……!

 だれがそう言ったんでしょうか? 法務省か入管庁の役人の言葉なのでしょうけど、どういう意味で「適正化」などと言えるのか。「税金や社会保険料を納付しない場合に[永住者の]在留資格を取り消せるようにする」ことを「永住の適正化」と称するセンスには、驚愕(きょうがく)するほかありません。明白な差別ではないですか。

 これを報じる朝日新聞の記事では、「永住の『適正化』」と一応はカギカッコをつけてはいるものの、それを「適正化」なのだとする役人の言い分を、無批判にまとめるだけの記事になっています。カギカッコをつけるだけでごまかさずに、政府がもくろむ法改定が差別だということを指摘すべきではないでしょうか。

 当然ながら、「税金や社会保険料を納付しない場合」には、日本人であれ外国人であれ、おなじペナルティが科されることになっているわけです。滞納すれば督促状が送られてくる。それでも払わなければ延滞金を請求されます。預金や不動産など財産を差し押さえられることもあります。

 政府が「永住の適正化」と呼ぶ施策は、こうしたペナルティにくわえて、外国人の場合にのみ、さらに重ねてべつのペナルティをも科すということです。しかも、それは永住者の在留資格を取り消すという、きわめて重い不利益処分です。

 税金や社会保険料の未納・滞納という同一の行為について、特定の属性の住民にだけ特別に重いペナルティを科すのは、「差別」と呼ぶべき行為です。これを「永住の適正化」と言い表すのは、侵略を「進出」と呼び、敗走や撤退を「転進」、裏金作りを「収支報告書への不記載」と呼ぶのにも似た欺瞞(ぎまん)です。差別は正しく「差別」と呼ばなければなりません。

 さて、これも当然の話ですが、税や社会保険料をげんに負担しているのは、日本国民だけではありません。永住者の在留資格をもつ人もふくめ、外国人住民も、税や社会保険料の負担者です。その意味でも、日本社会は外国人をふくめた住民によってささえられているのであって、日本国民もそうした社会でささえられ生きているわけです。こうした認識からは、外国人の滞納者にのみことさら重いペナルティを科そうなどという、いまの政府のような発想がでてくるはずはありません。

 対して政府の発想は、「外国人が義務をはたさないために、国民が(日本人が)迷惑や過度な負担をこうむっている」という虚偽の、かつ差別的な認識に根ざしたものです。ここで「外国人が/国民が(日本人が)」という単純化された対立軸が設定されて、さらにマジョリティである「国民(日本人)」がいわば被害者側に位置づけられるという思考が、まさに差別的なのです。「在日特権」「逆差別」といったたわごととまさに同じ構造です。