2025年8月31日

差別発言の場に居合わせたこと


 先日のこと。とある会食の場で差別発言が出るのに居合わせた。

 その人は、発言するときに口の前に人差し指を立てて、「ここだけの話なんだけど」とでも言いたげなしぐさをした。その直後に地域を差別する言葉がぽんと出てきた。

 会食の場には10人ぐらいいたのだが、その発言を聞いたのは私もふくめて近くにいた4人ぐらいだったと思う。

 差別発言やそれをした人については、ここであれこれ書くつもりはない。ただ、その発言がでたときの私たちの対応がどうだったかというと、反省しなければならない問題があるなと思い、いまこの文章を書いている。



 3人以上の人がいる場で差別発言が出たときにどうすべきか。最優先で考えなければならないのは、その人が差別発言をするのを続けさせないことである。

 その人が自身のやってしまった言動をふり返り、それが差別であることに気づき、「今後」同じような差別をしないようにしようと考えてくれれば、そりゃ一番いいのだろう。だから、まわりにいる人間は、その人がなぜそういう発言したのかを聞き、それが差別であるということをその人に納得させ、今後そうした発言をしないよう説得しようということを、ついつい試みてしまう。

 でも、差別発言が飛び出したときに、まわりの人間が最優先で対処すべきなのは、説得や議論などではなく、「いま」「この場で」おこなわれている差別発言をとにかくストップさせることである。

 ストップさせると一言でいっても、そのやり方にはいろいろと幅があると思う。こわい顔をして「だまれ」と言うものから、もう少しおだやかに話題を無害なものにずらすというやり方もあるだろう。差別発言した人と自分の力関係もあるので、つねに断固とした強い態度で「差別をやめて」と言えるわけではないだろうけれど、いずれにしろ一番の優先課題は「いま」「この場で」の差別発言をなんとかして止めるということだろうと思う。



 先日の会食では、まわりにいた4人ぐらいの人が、差別発言をした人と「議論」をしてしまった。今になって反省してみると、これはまちがいであった。

 私たちはその人に「あなたはなんでそう思ったの?」とか「どういう根拠があってそんなこと言えるの?」とか聞いてしまった。で、その質問に答えるたびに、その人はつぎつぎと新たな差別発言をくり出してくる。そのたびに「それは差別だ」と批判すれば、その人は自己正当化の理屈でまた新たに差別をぶちこんでくる。離れた席にいて当初このやり取りに参加していなかった人たちも、こちらが不穏な雰囲気をかもし出しているものだから、「なんの話してるんですか?」と会話にくわわってくる。こうして、差別発言のとびかう加害的な状況に、本来なら巻きこまなくてもよかった人まで巻きこんでしまった。

 もちろん、差別発言をするその人が全面的にわるいのだが、それをすぐに止めずに差別発言が出てくる状況を継続させてしまった責任は私たちまわりにいた者にもある。差別発言が出だした早い段階で発言を止める、あるいはその場の話題を別のものに転換させるということはできたはず。その人の考えを聞くにしても、その場から離れて別のところで話す(ゾーニング)という方法もあった。

 こうして後から考えてみると、とるべき対処というのはあきらかなのだけれど、その場ではまったく反対のまずい行動をしてしまったな、と。というわけで今後の教訓とします。


2025年8月24日

【韓ドラ感想】愛はビューティフル、人生はワンダフル


 最近みた韓国ドラマについて。


愛はビューティフル、人生はワンダフル | サンテレビ


 ドラマは立体的につくられていて、どの登場人物に注目するかによって、ちがった見え方がするのだろうけれども。私は、過去に加害行為をおこなった2人の人物に注目することで、興味深く見ることができた。

 ひとりは、裁判官のホン・ユラ。彼女は、自分の息子が老婆をひき逃げした証拠を隠滅し、その罪を他の少年におっかぶせる。老婆は亡くなり、息子は罪の意識にたえられずに自殺する。

 しかし、ホン・ユラは、息子の死が自殺によるものであることを知らない。ちょっとややこしい経緯があって、息子の死は川に落ちた少女を助けようとしておぼれた事故死として処理される。ホン・ユラはそこに疑念をいだくのだけれども、息子の死を「義死」として受け入れることにする。

 ここには自己欺瞞がある。彼女は、自身の行為が息子を自死へと追い込んだのではないかという可能性に当然ながら思いいたらずにはいられないのだが、息子の死を名誉の死だと思い込むことで、その可能性を打ち消そうとするわけである。

 このあたり、他国に対する侵略戦争にかりだして殺人と戦死を強(し)いた兵士を「英霊」などといって神格化する日本人の醜悪な姿のカリカチュアを見せられているように思えて、私にはなかなかきつかった。

 ドラマに登場するもうひとりの加害者は、ムン・ヘラン。彼女は高校時代に同級生(このドラマの主人公であるキム・チョンア)をいじめて、自殺未遂に追い込んだ人物である。9年たってムン・ヘランは被害者のキム・チョンアと期せずして再会してしまうが、自身の過去の加害を反省し、被害者に謝罪することができない。



 加害者が自分の罪に向き合ってつぐなおうとしないことで、被害者はもちろんのこと、加害者のまわりの人間も傷ついていくことになる。

 このドラマでは、2人の加害者が最終的には自分のおかした罪と向き合っていこうとするのだが、そこにいたる2人の葛藤・変化とともに、そのコミュニティの人間(家族)が加害者にどう関わっていくべきなのかという課題が提示されている。

 たとえば、裁判官ホン・ユラに対して、もうひとりの息子のク・ジュンフィ(自死した息子の兄にあたる)が寄りそいつつ、罪をつぐなうようにうながす。身内というのは、加害者にとって、自身の罪にふたをして向き合わない口実にもなる存在である(「自分の息子に自分の恥を背負わせたくない」などと言って)。しかし、ク・ジュンフィはそうやって母の共犯者に自身がなることをよしとせず、母が自身の罪を社会的に告白・公表し、被害者(息子のひき逃げの罪をきせた相手)に謝罪することを決意するのを、かたわらで待ち続け、ささえようとする。

 こういうふうに、加害者が時間をかけながらも変化し罪にむきあうことを、周囲の人間が支援していく過程がえがかれていて、娯楽作品としてそんなドラマがつくれるのはすごいなと感心してしまった。というか、現代の日本でこんな作品はだぶん作られることがないよね、というところにあらためて気づかされてしまった。社会全体で自国政府と自国民の加害の歴史にふたをしようと強迫的になっていることが、どれほど深刻にこの社会をこわしてしまっているのか、考えずにはいられない。



 というわけで、トータルな感想としては、とてもいいドラマを見せてもらいました、なのですけれど。ネガティブな感想も2つほど述べておきます。

 ひとつは、恋愛(男と女の)の要素が過剰で、それがドラマにおいてノイズに私には思えたこと。とくに主人公のキム・チョンアについて。彼女はホン・ユラの息子の自死に立ち会ってしまった人物で、それゆえにホン・ユラにとっても、またそのもうひとりの息子であるク・ジュンフィにとっても、のちに重要な役回りを果たすことになる。で、ドラマでは彼女をク・ジュンフィの恋人として登場させているのだけど、そこは恋愛的な要素ぬきの「友人」とかではダメだったわけ? という違和感はおぼえた。ドラマの中で彼女の果たした(果たしうる)役回りは、恋愛的な情緒に回収してしまうべきでない要素が多分にあるように思えたので。

 もうひとつは、高校生時代にそのキム・チョンアをいじめていたムン・ヘランをめぐって。自身の過去の加害行為に向き合おうとしない彼女に対して、その兄と父親がそれぞれビンタをするシーンがある。男性(父・兄)から女性(娘・妹)に対する暴力が、教育的指導的な目的でふるわれているからといって肯定的にえがかれてしまうのは、よくないと思った。


2025年8月6日

大野埼玉県知事、入管庁「ゼロプラン」、そして朝鮮学校排除


 埼玉県の大野元裕知事が法務省に対し、日本とトルコの相互査証免除協定の一時停止を要望したようだ。


埼玉知事「難民申請に課題」「治安悪化のファクトない」 ビザ問題で [埼玉県]:朝日新聞(2025年7月30日 10時30分)

埼玉県の大野元裕知事、外務省にトルコビザ免除協定の一時停止求める [埼玉県]:朝日新聞(2025年8月4日 20時40分)


 リンクした1つめの記事から、引用する(赤字強調はわたし。以下おなじ)。


 埼玉県の大野元裕知事が、日本とトルコとの相互査証(ビザ)免除協定の一時停止を要望する考えを明らかにした。大野知事は29日、難民申請について課題があるとし、「埼玉には難民申請を繰り返しているトルコ国籍の方が多く滞在しており、それに対する不安が(県に)寄せられていることが大きな理由だ」と説明した。

(中略)

大野知事は「治安が不安定化しているファクトはあまりないが、治安に対して不安感を抱いている方が多い」と強調した。


 知事が「トルコ国籍の方」をあからさまにやっかい者あつかいしているのにビビるのだが(思いっきり差別あおってるよね)、そのやっかい者あつかいしてもかまわないのだとこの人が主張する根拠が住民から「不安」の声がよせられているからなんだという。

 なんだそりゃ……。トルコ国籍の人によって引き起こされる治安悪化の「ファクト」はないけど「不安感」をいだく人が住民に多いから「トルコ国籍の方」は入国しにくいようにしろ、と。知事はそう国に「要望」しているのである。論理もなにもあったもんじゃない。。

 しかし、この埼玉県知事の発言、既視感ありまくりである。こういうの今までいくつも見てきたよ。

 最近では5月に入管が「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」なるものを公表した*1。そのプランをどういう経緯で作ることになったのか、入管庁のウェブサイトで説明されている。その入管庁の文章が、埼玉県知事の大野と同質のムチャクチャさなのである。


 これまで、ルールを守る外国人を積極的に受け入れる一方で、我が国の安全・安心を脅かす外国人の入国・在留を阻止し、確実に我が国から退去させることにより、円滑かつ厳格な出入国在留管理制度の実現を目指してきました。

 しかし、昨今、ルールを守らない外国人に係る報道がなされるなど国民の間で不安が高まっている状況を受け、そのような外国人の速やかな送還が強く求められていたところ、法務大臣から、法務大臣政務官に対し、誤用・濫用的な難民認定申請を繰り返している者を含め、ルールを守らない外国人を速やかに我が国から退去させるための対応策をまとめるよう指示がありました。

「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」について | 出入国在留管理庁】(2025年5月23日)


 「ルールを守らない外国人に係る報道」? 産経新聞とかが書き散らしてる差別記事*2のことか? 「ルールを守らない」に日本人も外国人もないのであって、それを「外国人」の問題として語ってる時点で人種差別以外のなにものでもない。そんな差別報道を真に受けてみせて、「外国人の速やかな送還が強く求められ」とかなんとか、めちゃくちゃにもほどがある。

 だいたい、「ルールを守らない」者は送還だ我が国から退去させるのだとか、さすがの入管法でもそんなザツなこと書いてないぞ。ヤフーニュースのコメント欄でわめいてるネトウヨの頭のなかの世界だよ、そんなの。

 「国民の間で不安が高まっている状況を受け」? 埼玉県知事とおなじこと言ってる。「ルールを守らない外国人がいる」などといって「不安」がってる人がいたら、あなたの言ってること差別だぞと指摘してやんないとダメでしょう。あんたの「不安」が外国人のせいで生じてるとみなし、実際にそう口に出して言うのは差別だよと。「国民の間で不安が高まっている」から外国人をどんどん退去させられるように「対応策」が必要だとか、なにをいってるんだか。

 埼玉県知事の大野や、入管庁の幹部役人たちがやっているように、「国民」「住民」の「不安」を口実に差別的な政策を主張していくのって、非常にタチがわるいものだから、なんかパッとわかりやすいような名前をつけられるとよいと思うんだけど。なにかいい呼び方はないだろうか。

 かつて、つねの・ゆうじろう氏が「差別のアウトソーシング」という見事なフレーズを使っていたものだけれど、大野知事らのやってることもその一種ではあろうと思う。


たとえば、岡林信康の「手紙」を思い出してください。

これは、「みつるさん」が「私」を「ヤリ逃げ」するという物語です。重要なのは、直接の当事者である「みつるさん」は差別主義者ではないことになっている点です。ここには、差別のアウトソーシングを見ることができます。差別をするのは自分ではなくて、「おじさん」なのです。「お前が部落だから結婚するのは嫌だ」というのではなくて、「お前が部落だからダメだとおじさんが言ってるからしょうがないでしょ。俺は気にしないんだけどね、そんなこと」というわけです。

手塚プロダクションの歴史主義とアウトソーシングされた差別 - (元)登校拒否系】(2008-01-20)


 みつるさんが「おじさん」にアウトソーシングしながらみずから差別を遂行するように、大野元裕や入管庁は「国民」や「住民」に差別をアウトソーシングしている。そこにみいだせる構造はおんなじである。差別主義者として想定された「国民」「住民」を口実にして、大野や入管は外国人に対する差別を遂行している。もうすこし適切に言いなおせば、「国民」「住民」を差別の共犯者にしたてあげることで、自身が差別を遂行しようとしている。

 そして、日本の行政のこういうやりかたは、「最近の傾向」などではない。日本政府が高校無償化政策から朝鮮学校を排除した差別のやり口を、いまいちど思い出しておこう。

 2010年4月に民主党政権にてスタートした高校無償化。朝鮮学校も明確にその基準をみたしていたが、政府は「審査中」などと称して朝鮮学校への適用を2年半以上にわたり保留しつづけた。

 2012年に自民党の安倍政権が成立すると、下村博文文科相は「朝鮮学校については、拉致問題に進展がないこと、朝鮮総聯と密接な関係にあり、教育内容、人事、財政にその影響が及んでいることなどから、現時点では国民の理解が得られない」と発言。翌13年2月20日、文科省は高校無償化法の施行規則(省令)を改定し、朝鮮学校がみたしていた適用の基準「ハ」をまるごと削除した。

 つまり、「国民の理解が得られない」という口実で、自分たちが作った法をねじまげて朝鮮学校を無償化政策から差別的に排除したのである。

 そのあたりの経緯は、以下のページがまとまっていてわかりやすいので、参考にしてほしい。


〈高校無償化〉朝鮮学校完全排除を狙った「改正案」、文科省が意見公募 | 朝鮮新報(2013年01月05日 16:00)


 そういえば、おなじ2010年代には、都道府県が朝鮮学校への補助金を打ち切る動きがあいついだが、その定番の口実が「県民の理解が得られない」であった。神奈川県も一例である。


 神奈川県の黒岩知事が13日、神奈川朝鮮学園に対して30年以上も続けて支給してきた補助金を突如打ち切るという暴挙に出たが、同学園に子どもを通わせている保護者らの怒りはおさまらず、県庁への要請が続いている。

 県知事は、「朝鮮学校と北朝鮮は関係ないと、県民に理解してもらう自信がない。盾になり続ける気持ちがうせた」(2月18日、神奈川新聞)と説明したが、国籍、出自にかかわらず、自治体首長には子どもを率先して守る責務がある。核実験と子どもたちはまったく関係ない。黒岩知事は最後まで子どもを守る盾になるべきで、打ち切りを撤回しない限り、子どもたちを再度、社会的な差別にさらすことになる。

黒岩知事は盾になったのか - イオWeb】(2013年2月21日)


 この黒岩神奈川県知事、最近では排外主義に対し「大変な違和感」などと言ってこれに反対するかっこうをつけたりしてて、話題になっていた。


 黒岩祐治知事は9日の定例会見で、参院選の街頭演説などで一部の政党や候補が外国人に対する排外主義的な主張を訴えていることについて、「外国人と共に生きる社会をつくることは基本であり、排外する動きには大変な違和感を持っている」と述べた。

(中略)

 県は多文化共生の取り組みを進めてきたとし、「外国人と調和しながら共に生きるのは県の特徴。しっかりと守り通したい」とも話した。

神奈川・黒岩知事「大変な違和感」 参院選、排外主義的な一部主張に懸念 参議院選挙2025 | カナロコ by 神奈川新聞】(2025年7月9日(水) 22:10)


 あれれ? 12年前に「県民に理解してもらう自信がない」といって朝鮮学校の補助金を打ち切った黒岩さんとおなじ黒岩さんだよね? どうなってるの? 「排外する動き」をになってきたのは、あなたもおなじじゃん。参政党と同類じゃないの? どうしてちゃっかり批判する側にまわってるの?

 しかし、おそらくこういう人は自身の言動に矛盾を自覚していない。みつるさんのように、自身の差別を他者にアウトソーシングしているからである。

 それにしても、私たちは、こうして黒岩や大野や文科省や入管庁などが差別の共犯者として期待する「国民」「住民」「県民」であることを拒否しなければならない。



*1: 宇宙広場で考える: 入管庁「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」がヤバすぎる(2025年6月7日) 

*2: 宇宙広場で考える: 産経新聞がクルド人へのヘイトスピーチを書き散らしている件(2023年7月31日)

2025年7月20日

参院選前日に参加したデモのことなど

 

 「悪政追放 7.19最近気になることデモ」ということで。


黄色の地に黒字で
「悪政追放 7・19最近気になることデモ」
と書かれた横断幕と
黒地に白抜きで「NO EXPO ANYWHERE」
と書かれた横断幕。

 いいタイミングでこういうのを企画・主催してくれた人たちがいたので、便乗して声をあげてきました。

 このデモを呼びかけていた人のひとりは、こう書いてました。「選挙期間、果たして選挙だけやってていいのか!?」

 おお! まさにそこをこそ問うべきだよな、選挙期間こそ。そう思って、ぷらっと出かけたのでした。

 中之島公園を午後6時に出発して、なんばまで2時間ほど20人くらいで歩きました。日が暮れていく時間帯とはいえ、熱かった。そして長かった。


この日、私がかかげたプラカード。
「日本政府&自・公・維・参など
の排外主義に反対
さべつに はんたい」
と手書きで書いてある。

 「最近気になることデモ」という名のとおり、スピーチやコールをしたい人にマイクをまわしながら、それぞれこの選挙期間中に考えたこと思ったことを話していくというスタイル。

 非常に印象深かったのは、マイクをもったどの人の言葉も(ひとりの例外もなく!)、今回の選挙について語りながらも、この選挙で語られることのないテーマ、いうならばこの選挙が抑圧しているテーマへとその語りをはみ出させていたことです。民主主義というのは、こういういとなみのことなのであって、それは制度化された選挙などというものにおさまるような小さいものではないのではないか。

 そんなことを感じながら歩いていたら、「コールしませんか?」とマイクをまわしてもらったので、その感じたことをコールで表現してみようと思いました。

 ひとつは、今回の選挙では、参政党という極右政党が大きな支持を集めており、そのことにリベラルや左派が危機感をいだくのは当然のことなのだけれども、その結果、争点が大きく右にずらされてるんじゃないか、という違和感。参政党を極右と言うと、自民党なんかは穏健右派ぐらいかなとうっかり思ってしまいかねないけど、そもそもあいつらも極右じゃん。自民党も維新も国民民主党もゼノフォビア(外国人嫌悪)をあおって有権者の人気をえようとしてきたし、2023年と24年の入管法改悪はそいつらと公明党が賛成して成立したよね。立憲民主党だって、人気取りに外国人差別をあおってる極右議員いるよ(例→「不法滞在天国になってしまう」だって…… 立民・藤岡議員の妄言)。これらぜんぶまとめて否定しなきゃ。おまえらぜんぶ退場じゃ。

 というわけで、参政党とあわせて自民・公明・維新・国民民主をディスるコールをしました。

 もうひとつは、今回の参政党現象にとどまらない、選挙というイベントがどうしてもはらんでしまう問題。各政党、各候補者は戦略的に争点をしぼろうとする。でも、すくなくとも社会の公正・公平にかかわるイシューについて、「どれかをとりあげ、どれかは後回しにする」なんてことは本来あってはならない。それは自己矛盾でしょ。「争点をしぼる」ということは、公正・公平を断念するということだから。

 だから、私たちうぞうむぞうは、小さく切りつめられた「争点」をおしひろげ、捨てられた「争点」を拾いあげる表現をしていかなければならない。それは候補者や政党じゃなくて、私たちうぞうむぞうの人民ができること。デモはそのための場のひとつ。「選挙期間、果たして選挙だけやってていいのか!?」というこのデモの呼びかけ人のつきつけた問いを、私はそんなふうに受け取りました。

 そういうわけで、私は「差別に反対」「差別をやめろ」とコールしながら、そこに差別にかかわるテーマを列挙してはさみこむようなコールをしてみました。

「差別に反対」

「入管解体」

「差別に反対」

「沖縄に基地を押しつけるな」

「差別をやめろ」

「天皇制反対」

「差別をやめろ」

「戸籍制度を廃止しろ」

「差別をやめろ」

「トランス差別やめろ」

……

という感じ。

 「もっとあれも言えばよかった」というテーマがいくつもあるのですが、ほかの参加者もみんな選挙戦ではあまり語られないけれどそれぞれ関心のあるテーマについてコールしたりスピーチしたりしていて、それを聞けたのはよかったなと思います。そうやってさまざまなイシューについて語っていくことは、たんにそれらを「列挙」しているだけでなく、それらの個別にみえるテーマがおたがいにつながり関連しあっていることを考えていく、そういう経験でもあります。

 コールしたあとには、ちょっぴりスピーチもしました。(少なくとも現行の)選挙制度は制限選挙でしかないこと、選挙制度自体が差別的なのだから選挙だけで差別の問題がよくなることはないこと、むしろ差別的な制度をそのままに選挙だけ投票だけやってたら差別は大きくなっていくこと、だからこうやって選挙の外でも差別をなくそうと声をあげていくことが大事だと思う、というようなことを話しました。

 まあなんというか、外国人住民を選挙権・被選挙権から完全に排除した現行選挙制度で、ろくでなしどもが外国人排斥をきそいあっている状況がふざけるなとまずは言いたいけれど。しかしだからといって制度の差別性を問うことなしに「ヘイトを受けている外国人は投票できないから、そのぶん私たちが責任もって一票を投じなければなりません」みたいなことを語るのもギマンがはなはだしい。

 有権者だって一票しか持ってないのだから、他人のぶんもかわりに投票することなんてできないし、そもそも権利をうばわれた人が自分で投票できないことの問題(不正義)は有権者の投票行動によってはなんら解消しない。

 ちゃんと言うべきなのだ。この選挙制度はクソだ、と。自分が投票するかしないかを有権者は選択できる(そして、その選択をせまられる)けれど、どちらを選択するにせよこの選挙そのものは公正じゃない。そこをまずはちゃんと認めないと、不公正なものを正していくことはできない。民主主義への道のりは遠い。でも、歩きはじめることはできる。


2025年6月17日

하녀들(ハニョドゥル/下女たち)

 

イニョプの道 | サンテレビ


 すこしまえから朝鮮語の勉強をやっておりまして、まだまだぜんぜんの初学者なのだけれど、韓ドラをみてて、ときたま字幕なしに言葉が頭に入って来るようなこともあったりして、おもしろいものである。

 最近みたドラマが、「イニョプの道」という日本語の題がついているのだが、オープニングのタイトルバックでその原題が「하녀들」だということを知った。「下女たち」という意味である。

 日本語版では、イニョプというこのドラマの主人公の名がタイトルに入っている。ところが、韓国で放送されたオリジナル版は、「하녀들」(ハニョドゥル)という、そっけなくも聞こえるタイトルが付けられていたのだと知って、しかしそこに制作者の思いがきっと込められているのだろうなと想像した。



 両班(やんばん)の若い女性であるイニョプは、父が謀反の罪をきせられ処刑されたため、奴婢の身分に落とされ、かつての親友の家に下女としてつかえることになる。イニョプは、苦難に立ち向かいながら、ついに父の無罪を証明し、家門を復活させて元の身分に復帰することができました! めでたしめでたし。

 乱暴にまとめてしまえば、こういうストーリーである。

 イニョプ自身は、身分を落とされることで、それまで人間以下のモノとしてあつかってきた下女たちとはじめて「人間」として出会うことができ、自分自身も「人間」として成長し始める。

 でも、結局のところ元の両班の身分にもどってハッピーエンドだと言われても、私は釈然としない。身分回復後のイニョプはかつての下女仲間の何人かを連れてきて、「あなたたちに苦労してほしくないから」とか言って、自分の家につかえさせたりもするのだけど、それでは「幸不幸は主人しだい」という彼女たちの立場はなにもかわらない。

 というわけで、イニョプというひとりの女性の物語としてみれば、もやもやが残る結末である。時代劇なので、その時代(朝鮮時代)の限界をこえた結末にはできないという制約はある。なので、あたりまえといえばあたりまえだけど、けっきょく身分制は温存されちゃうのね、という。



 しかし、だからこそ、「하녀들」(ハニョドゥル)というタイトルを制作者があえてつけているところに意味をみいだしたくもなるのだ。たんなる「両班のお嬢さまがいっとき奴婢に落とされたけれど、苦難を克服し、身分を回復できました」というイニョプの物語としてだけみないでね、と。イニョプが最終的には身分回復することで通りすぎてしまう、下女たちの生きざまをこそみなさい、と。

 イニョプが自身も下女になって初めてかいまみた下女たちの世界には、主人の目の届かないところでひそかになされるかばい合いがあり、助け合いがあった。奴婢たちには正義感があり、そこにプライドもあった。抑圧に無念さと無力感をいだかされながらも、一矢報いようという反抗の種はそこらじゅうにある。そのひとつひとつは消費しやすい物語にはならないかもしれないけれど、かけらのようにあちらこちらにちらばっている。そんな光景がいきいきと描かれる場面がこのドラマにはいくつかあった。

 こういうふうに身分制秩序のなかに、これをゆるがす反抗の契機をちりばめて描き、いずれそれが崩壊し人間によって克服されるであろうことを暗示するという仕掛けは、韓国でつくられる時代劇によくみられるように思う。そういうドラマをつくれる社会だということは、天皇制という野蛮な身分制秩序が国家の制度として恥知らずにも堂々と温存され、身分制が克服すべきものだということすらいまだ共通の了解として成立しない社会の住民からすると、いくらかまぶしく感じてしまう。


2025年6月12日

見下している相手から道義的に正しい抗議を受けたとき


 自分が下に見ている相手から道義的に正しい抗議を受けると、パニックになって激昂してしまう、ということがある。

 抗議を受けるというのは、おまえの行為は正しくないと指摘されることなのだから、なかなか心おだやかではいられない。必要以上に防御的な態度をとってしまうというのは、ありがちである。

 たとえば、抗議をしてきた人に対して「あなただって同じようなことしてるじゃないか」とか「私だってつらいんです」とか言ってしまうのが、それだ。前者は相手の抗議する資格を否定しようとする行動だし、後者は自分も被害者のポジションをとることで自分への抗議を無効化しようとする行動だ。どちらも、抗議から自分を守ろうという防御的な行動ではあるけれど、相手をだまらせて抗議をさせないようにしているのだから攻撃的な行動でもある。

 対等な立場の相手からの批判や抗議であっても、こういう攻撃的な反応をかえしてしまうことはしばしばあるものだけれど、これが自分が下に見ている相手からの抗議となると、ほとんどパニックとしか言いようのない激しく攻撃的な反応をしてしまうことがある。その抗議の内容の道義的な正しさが疑いようのないものであれば、その攻撃性はますます激しくなりうる。

 以下は、まさにそういうケースではないだろうかと思った。


パンツ一丁で身柄拘束は「違法」、都に33万円の賠償命令 原告代理人「言うことを聞かせるための拷問だ」東京地裁 - 弁護士ドットコム(2025年06月11日 16時50分)


 これは新宿警察署の警察官たちが、留置していた人に組織的に暴行をくわえたという事件で、その内容は口にするのもはばかられるほどひどい。で、気になるのが、なにがこの人たちをこういう行動にかりたてたのかという点である。


同年7月、同じ部屋に収容されていた1人が風邪の症状をうったえ、38.9度の熱があることが判明した際、別の収容者が毛布の差し入れを求めたものの、担当の警察官に拒否された。

そこで男性が「熱がある人を1時間放置するのか」「毛布1枚くらい入れてもいいのではないか」といった趣旨の発言をしたところ、保護室に連行された。

男性はそこで約2時間にわたり、服を脱がされパンツ一丁にさせられ、両方の手首と足首を縛られた状態にされたという。

その間、尿意を催した男性がトイレに行きたいと求めたが、「垂れ流せよ」などと言われ対応してもらえず、男性は我慢できずに身体拘束を受け寝転がされたまま排尿した。

また、身体拘束を解かれたあと、便意を催した際にはトイレットペーパーを要望したが無視され、男性はやむなく手に水をつけて拭かざるを得なかったという。


 いやはや常軌を逸した攻撃性があらわれており、警官たちは集団的にパニックにおちいってるようにしかみえない。で、この人たちを激昂させた原因は、「熱がある人を1時間放置するのか」「毛布1枚くらい入れてもいいのではないか」という、留置されてる人からのどう考えても道義的にまともな抗議の発言だったようである。というか、「抗議」以前にまっとうな「提案」であって、「そうですね、毛布持ってきますわ、ありがとう」とか言って対応すればよいものを、警官たちはなぜかブチ切れるのである。

 なぜブチ切れるかといえば、自分たちが見下している相手から、まっとうな批判を受けたからだろう。警察官たちにとっては、悪いことをしていることを取り締まっているのだという自負が、自分たちの道義的な優位性の根拠になっているということもあろう。「犯罪者」が警察官のプライドをささえてくれているのである。その「犯罪者」から「熱がある人を1時間放置するのか」と自分たちの正義に疑問をつきつける抗議(それもその内容はだれも否定できないような常識的に正しいものである)をつきつけられたからこそ、警官たちはパニックになったのであろう。

 警察官が職務上こういうパニックを起こしやすい位置にいるのは確かだろうから、組織として対策をとる必要があるのではないか。

 もっともこれは、警官とかだけでなく、教師とか福祉にたずさわる人とか、あるいはボランティアふくめ支援者的に他者に関わる機会のある人とか、育児をする人とか(←こうやってひとつひとつあげていくと、この社会で生きているだれでもそうじゃないかという話になるけど)にも関わってくる課題である。

 大事なのは、相手を見下さない、自分と対等な他者として相手と関わるということになるのだろうけれど、まずは相手よりよけいに権力をもっている場合に、自分も新宿署の警察官たちのようなパニックにおちいる可能性があるのだというところを自覚するところから始める必要があるのかも、と思いました。


2025年6月7日

入管庁「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」がヤバすぎる


  5月23日、法務大臣が記者会見をおこない、「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」なるものをあきらかにした。

「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」について | 出入国在留管理庁(2025年5月23日)


 入管庁作成の資料は、以下のリンクからみることができる。

「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」(PDF)


 資料をスキャンした画像もはっておく。

【入管庁資料「ゼロプラン」1ページ】


【入管庁資料「ゼロプラン」2ページ】

 この「ゼロプラン」に対しては、またあらためて批判を書きたいが、今回はざっと読んでの雑感を書きとめておく。



1.難民審査はますます雑に

 資料の2ページ目に、「不法滞在者ゼロプランによって期待される当面の効果(目標)」と題して、3つの数値目標がかかげられている。

 第1に、難民認定申請の審査を迅速化し、2030年までに平均処理期間6か月以内を目指すというもの。1ページ目の記述などとあわせてみると、「誤用・濫用的な難民認定申請」(と入管がみなす申請)を「類型化」することで審査を迅速化するということのようだ。ようするに、「こういうものは誤用・濫用的な申請だ」という典型例をあらかじめまとめておき、その典型例に類似しているようにみえる申請は申請者本人からのインタビューも省略するなどして「迅速」に結論を出してしまう、ということだろう。

 これは、先入観をもって審査をやりますよということを、公然と宣言しているようなものだ。「誤用・濫用的な申請」にありがちなパターンに合致しているようにみえるものは、時間をかけずに処理しますよ、と。その「早期かつ迅速な処理」は不認定の結論ありきで予断をもっておこなわれることになるだろう。

 しかし本来、難民審査というのは、保護すべき人をとりこぼしてしまうことを何よりおそれなければならないものである。ある申請の内容が、これまでの不認定の典型的なパターンに沿うようにみえたとしても、当然ながらそれぞれの審査は先入観にとらわれないようにていねいになされるべきだ。「類型化」によって審査を「迅速化」しようという入管庁の発想(しかも、これはあくまでも「難民として認定しない」という結論を出すのを「迅速化」しようという話だ)は、本末転倒である。

 しかも、日本では、現状すでに、難民として認定すべき人が適切に認定・保護を受けられているとはとうてい言えない状況にある。難民申請の99%以上は不認定である。こうした状況のなかで、「類型化」による審査の「迅速化」を進めようとすれば、認定・保護を受けるべき難民申請者がますます取りこぼされることになるのは、確実である。



2.仮放免者などを「半減」させる?

 資料の2ページ目に数値目標としてかかげられている2つめが、「退去強制が確定した外国人数」について、2030年末までに半減を目指すというもの。

 ここからわかるのは、「不法滞在者ゼロプラン」とは言っているものの、入管庁が主要なターゲットにしているのがいわゆる「不法滞在者」の全体ではなく、すでに「退去強制が確定した」仮放免者など(あとで述べるように入管はこれを「送還忌避者」という言葉で呼んできた)であるということである。

 なお、「不法滞在者」という言葉は、法務省が国民向けに摘発や収容・送還を正当化するために、そのいわば反社会性・犯罪性を誇張・ねつ造してもちいているものなので、ここでは「非正規滞在者」という、よりニュートラルな語を使うことにする。

 その非正規滞在者数は、正確な実数をつかむのが難しいのだが、8~9万人といったところではないかと思う。最新の入管白書によると、2024年1月1日時点の超過滞在者数(オーバーステイ)*1が7万9千人ほど。この数字は、1993年の29万人ほどをピークに下がりつづけ、2012年以降現在まで6~7万人ほどの横ばいで推移している。

 入管庁の「ゼロプラン」が問題にしているのは、この8~9万人ほどとみられる、そのほとんどは未摘発の非正規滞在者の全体ではない。すでに摘発されるなどして退去強制処分を受けて、出国していない人びとだ。今回入管庁が出してきた資料によると、その数は3,122人。3月にやはり入管庁がおこなった報道発表*2もあわせてみると、その内訳は被退令仮放免者2,448人、被退令監理者213人、被退令収容者461人とわかる。



3.入管政策の誤りを「送還忌避者」に責任転嫁

 この、退去強制処分を受けて、しかし退去にいたっていない人を、入管は「送還忌避者」と呼んできた。2016年ごろから顕著になった入管施設での長期収容問題は、入管がこの「送還忌避者」を減らそうという目的で収容を長期化させたことで生じたものだ。

 結局、「送還忌避者」を長期収容・くり返しの収容によって帰国に追いこみ減らしていこうという強硬な政策は、収容死をふくむおびただしい人権侵害を引き起こしながら、入管にとっても思うような成果をあげられなかった*3

 すると今度は入管は、「送還忌避者」が送還に応じないから収容が長期化するのだ、また難民認定申請の誤用・濫用的な申請が「送還忌避者」増加の原因になっているのだという理屈で、入管法の改定を画策し始めた(2019年10月に法相が「収容・送還に関する専門部会」設置)。

 2021年に3回目以降の難民申請者の送還を可能にするなどをふくむ改悪入管法が提出され、反対運動・世論のもりあがりのなか一度は廃案になったが、23年に同様の法案が再提出され、同年6月に可決・成立。24年6月10日から施行されている。

 この改悪された入管法を活用して、「送還忌避者」を減らしていこうというのが、今回の「ゼロプラン」である。

 しかし、「送還忌避者」なるものがなぜ増え、あるいは減らないのかといえば、それはこれまでの入管政策に原因があるとしか言いようがない*4。「送還忌避者」が生み出されるのは、入管が在留を認めるべき人に在留を認めず、退去強制処分を濫発していることによるところが大きい。

 ひとつには、在留特別許可の基準をきわめて厳しく設定しているということ。送還を実施すれば家族分離が引き起こされるなど人権上在留を認めなければならないケースなどにも退去強制処分が出ている。もうひとつには、難民認定が適切になされていないこと。

 つまるところ、在留を認めるべきケースにこれを認めず、退去強制令書が発付されているので、帰国しようにもできないから送還を拒否せざるをえないという人が多数出てくるのは当然である。入管政策が「送還忌避者」を生んできたのである。

 ところが入管は、みずからの政策・制度運用や難民審査のあり方を反省することはいっさいしないかわりに、送還を忌避する者が長期収容をもたらしているのだ(だから長期収容問題を解決するために送還を強化するための法改正が必要である)と、あべこべな主張をする。このあべこべな責任転嫁の論理のもと進められ成立してしまったのが昨年6月から施行されている改悪入管法であり、またそれらにもとづいて策定されたのが今回の「ゼロプラン」である。



4.無理やりの送還を激増させれば何がおきるのか?

 「不法滞在者ゼロプラン」なるものが、入管のいうところの「送還忌避者」(退去強制処分を受けたが仮放免や監理措置により収容を解かれている人、また同処分を受けたが送還をこばんでいる被収容者)をおもなターゲットにしているのは、いまみてきたとおりである。では、このプランはその「送還忌避者」をどうやって減らそうとしているのだろうか。

 資料の2ページ目にかかげられている数値目標のうち、3つめは「護送官付き国費送還」について、3年後に倍増を目指すというものである。「護送官付き国費送還」というのは、入国警備官が送還対象の人を拘束し飛行機に搭乗させるなどして送還先の国まで連行するというものである。これを2024年の249人から2027年には倍の500人ほどにしようというのである。

 送還されようとする人が抵抗すれば、入国警備官はこれを「制圧」して無理やり飛行機に乗せようとするので、非常に危険である。2010年3月には成田空港で送還中の「制圧」の過程でガーナ人が死亡するという事件も起きている。

 入管のいう「送還忌避者」のなかには、自国に帰れば生命の危険があって難民申請している人や、送還によって家族がばらばらになる人、長期間にわたり日本にいるため出身国には生活基盤がまったくないなど、帰国できない深刻な理由のある人たちが多くふくまれる。こうした人たちを送還しようとすれば、上で述べたような事故の危険性が高くなるし、事故が起きなくとも、送還そのものが深刻な人権侵害をもたらす。

 無理やりの送還には、取り返しのつかない事故の危険性があり(その危険性を予測できるのに実行した送還で人が死ぬのは、「事故」ではなく「殺人」と呼ぶべきだが)、それを回避したとしても送還された人の生命・安全にやはり取り返しのつかない損害をあたえる可能性がある。そのような権力行使について、数値目標を設定するという発想がそもそもヤバすぎないか。百人斬り競争かよ。入管の幹部の役人たち、倫理観がぶっこわれてないか。「不法滞在者」とやらより、おまえらのほうがよっぽどこわいよ。



5.入管施設での地獄が再現される

 「送還忌避者」減らす方策について、「ゼロプラン」が何を述べていないかという点も重要である。

 「送還忌避者」は送還を実施することでも減るが、その退去強制処分を取り消して在留を正規化することによっても減らすことができる。入管が今回公表したプランでは、後者についての言及がいっさいない。

 もっとも、1ページめの「(6)改正入管法の新制度を活用した自発的な帰国の促進」というところに、「出国命令制度や上陸拒否期間短縮制度の積極的な活用を促し、自発的な帰国を促進する」とあるのは、この「ゼロプラン」において唯一肯定的に評価できるところだと思う。上陸拒否期間短縮制度というのは、23年の入管法改定で新設された制度で、退去強制処分の確定した人は最低でも5年の上陸拒否期間が設定されるところを、場合によってはこれを1年に短縮できるというものである。一度帰国しなければならないので在留を正規化するということとは違うが、日本人の配偶者のいる人などは、これによって救済される人もあるだろう。

 しかし、これのほかに、在留を認めることで「送還忌避者」を減らしていくという方向での方策は、この「ゼロプラン」にはない。難民認定のプロセスを適正化することで、また在留特別許可の基準を見直すことで、退去強制処分を取り消して在留を認めるべき余地のある人は出てくる可能性はあるはずだが、それらの点は検討されないようだ。

 となると、「送還忌避者」をもっぱら送還によって減らすしかない、ということになる。3千人以上の「送還忌避者」を2030年までに半減させようとするなら、さきにふれた「護送官付き国費送還」を激増させ、他方では仮放免や監理措置で収容を解かれている人を再収容し、期限の上限が設定されていない長期の収容によって痛めつけ、帰国するように追い込んでいくということをするしかないだろう。2016年ごろから2020年にかけての、各地の入管収容施設の地獄が再現されることになるだろう。収容死する人がまた出てくるのを避けるのはむずかしいだろう。

 そうならないためには、この「ゼロプラン」なるものを撤回させ、もっぱら送還のみによって「送還忌避者」を減らしていこうという入管の方針を転換させなければならない。



6.ヘイトスピーカーと公然と手を組む国家機関

 この記事の最初にリンクした入管庁のページ「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」についてには、以下のような記述がある。この「ゼロプラン」がどのような経緯で作られることになったか、説明するくだりである。


……昨今、ルールを守らない外国人に係る報道がなされるなど国民の間で不安が高まっている状況を受け、そのような外国人の速やかな送還が強く求められていたところ、法務大臣から、法務大臣政務官に対し、誤用・濫用的な難民認定申請を繰り返している者を含め、ルールを守らない外国人を速やかに我が国から退去させるための対応策をまとめるよう指示がありました。


 「ルールを守らない外国人に係る報道がなされるなど国民の間で不安が高まっている状況を受け」などと書いているのは、産経新聞や、一部のジャーナリストを自称する者らが、クルド人住民に対する差別をあおる発信を報道と称しておこなっていることなどをも指しているのであろう。

 入管庁のサイトをみると、「共生社会の実現に向けた外国人の受け入れ環境の整備」も入管行政の基本的な役割のひとつだと言っている。ならば、報道と称しておこなわれている外国人住民への差別扇動やヘイトスピーチについて、安易にこれをうのみにして差別と排外主義に加担しないよう、国民に注意をよびかけることをこそ、入管庁はすべきではないのか。

【入管庁のサイトより「入管行政の基本的な役割」を説明した図。
3点目として「共生社会の実現に向けた外国人の受け入れ環境の整備」
がかかげられている。】

 ところが、入管庁がげんにやっているのは、一部の報道機関やジャーナリストがおこなっている差別扇動・ヘイトスピーチと、それらによって育てられつつある「国民の不安」を口実にして、みずからの政策を押し通そうというものである。入管は、産経のような差別扇動者のゴロツキどもと自分らが共犯者であることをかくそうともしていないのである。税金つかってなにやってるんだ、こいつら。



関連記事

入管はいい加減もう悪あがきをやめて諦めるべきだ - 猿虎日記(2025-05-25)

宇宙広場で考える: 私が入管法改悪に反対する理由――送還強硬方針からの撤退を!(2021年4月30日)

宇宙広場で考える: 福島みずほ議員が入管に開示させた「送還忌避者」数の推移について(2021年10月12日)

宇宙広場で考える: 入管法改悪と責任転稼の理屈「送還忌避者」を作り出しているのは入管ではないのか?(2023年4月18日)

宇宙広場で考える: 産経新聞がクルド人へのヘイトスピーチを書き散らしている件(2023年7月31日)

宇宙広場で考える: 自治体の負担増加の原因は、「クルド人」ではなく入管行政(2024年3月21日)

宇宙広場で考える: 川口市議会の差別意見書を添削してみた(2024年8月23日)



*1: 在留期間が切れて在留している人数。法務省・入管用語では「不法残留者」という。この超過滞在者数に、密航など入管が把握していないかたちで日本に来て在留している人数を足したのが非正規滞在者数の全体ということになる。

*2: 令和6年における入管法違反事件について | 出入国在留管理庁(2025年3月14日)

*4: ここでは簡潔にしか述べないが、詳しくは以下のリンク先記事などを参照。