2025年10月25日

「不法滞在者ゼロプラン」とは?

  「不法滞在者ゼロプラン」について別のところに書いた文章(3か月くらい前に書いたものですが)を転載します。

 関西で入管の被収容者や仮放免者の支援などに長年とりくんでいるWITH(旧名・西日本入管センターを考える会)という団体があります。そのWITHの会報『プラーツオ』(No.87 2025.8.1)に掲載していただいた原稿です。

 原稿の内容としては、入管庁の「ゼロプラン」というやつがいったい何なのか、これに反対する立場から解説を書いたものです。

 また、ゼロプランに反対したうえで、私たちとしてさらに何を主張していくべきなのかについて、私の考えを書きました。むろん「ゼロプラン反対!」とは言っていかなければならないのですけれど、それだけでは入管庁がつくった土俵のうえでの押し合いにしかならないし、「やめろ」「とめろ」という防御の主張にしかならない。反対する方にも、めざすべき着地点というか、出口のイメージが必要だろうと思います。


『プラーツオ』表紙
(タップで画像が拡大されます)

 今号の『プラーツオ』は、WITHの支援されているウガンダ難民の近況、23年の改悪入管法成立後の特例措置(日本生まれで在留資格のない子どもの一部に、家族一体で在留資格を出すというもの)で在留の認められた一家のその後など、長く地道に支援活動をされてきたグループならではの記事がもりだくさんです。

 表紙の画像(↑)に連絡先がありますので、購読されたい、あるいは活動にカンパされたいかたは、コンタクトをとってみてはいかがでしょうか。


 以下、『プラーツオ』に掲載していただいた文章を転載します。


◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


「不法滞在者ゼロプラン」とは

 「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」なるものが発表された。入管庁が策定したもので、5月23日の法務大臣記者会見でその資料が配布された。資料は入管庁のホームページでも読めるようになっている。

 名前だけみても、このプランのやばさが伝わってくる。「不法滞在者」がまるで「国民の安全・安心」をおびやかす存在だと言いたげだが、実際、入管庁はあとでみるように、こうした偏見に便乗し、またみずからこれをばらまきながら、排外主義的な政策を進めようとしている。


仮放免者らが「ゼロプラン」のターゲット

 資料をみると、いくつかの数値目標があげられている。


(1)難民審査の迅速化(現在20か月を超えている平均処理期間を、2030年までに6か月に短縮するなど)

(2)年間の護送官付き国費送還(無理やりの送還)を3年後に2倍に増やす(2024年の249人から2027年には500人に)

(3)退去強制が確定した外国人数(2024年末で3,122人)を2030年末までに半分に減らす


 まず(3)からは、このプランでどんな人たちがターゲットにされていのかがわかる。

 「不法滞在者ゼロプラン」とはいうけれど、入管がターゲットにするのは、いわゆる「不法滞在者」の全体ではないようである。「不法滞在者」という語は適当でないので以下「非正規滞在者」と言うことにするが、その非正規滞在者数は現在8万人ぐらいである。入管が半分に減らしたいと(3)で言っているのは、この8万人のうちの4%にもみたない約3,000人。すでに入管に摘発されるなどして「退去強制が確定した外国人」である。

 この「退去強制が確定した外国人」のうちわけは、3月の入管庁の報道発表によると、仮放免者2,448人、入管施設に収容中の人が461人などである。「不法滞在者ゼロプラン」とは、実質的に「仮放免者半減計画」と言ってもよさそうだ。

 そして、仮放免者らをもっぱら送還によって徹底的に排除しようという、この「ゼロプラン」にあらわれている入管の動きは、2年前の入管法改悪の延長線上にあるものである。仮放免者など「退去強制が確定した」けれども帰国をこばんでいる人を「送還忌避者」と呼び、これを送還によって排除するための強力な権限を入管に与えようというのが、入管法改悪のくわだてであった。3回目以上の難民申請者を強制送還してもよいことにし、また、収容を解かれた人を監視・管理するための監理措置制度の創設、送還に応じない人に刑事罰を科せるようにするなどが、その内容だった。

 この改悪入管法案は、2021年に一度は廃案になるなど、反対運動の大きなもりあがりがあったものの、23年に成立し、24年6月から完全施行されている。

 それからちょうど1年たった現在、仮放免者など「送還忌避者」をあくまでも送還によって徹底的に排除しようという新入管法にもとづいて、入管庁が打ち出してきたのが「ゼロプラン」である。


難民審査の「迅速化」と強制送還の「促進」

 では、この「ゼロプラン」は「退去強制が確定した外国人」をどうやって半分に減らそうというのだろうか。入管庁の資料を読むと、7つの方策が述べられているが、とくに目を引くのは、つぎの2つである。

 ひとつは、難民条約上の「迫害」にあきらかに該当しない主張を「類型化」することで、難民審査を迅速化しようというもの。つまり、「よくあるタイプの見当はずれな申請例」の見本をあらかじめいくつか作っておいて、これに沿うようにみえる申請はさっさと不認定の結論を出してしまえ、ということだ。ここで言われる「迅速化」とは、不認定の結論を「迅速に」出すということでしかない。難民認定率がきわめて低い現状で、このような「迅速化」が進められれば、難民として認定すべき人がますます取りこぼされていくのはまちがいない。

 もうひとつ目につくのは、上の(2)にもふれられている護送官付き国費送還(無理やりの送還)を促進するとしていることである。「ゼロプラン」の資料では、「令和5年[2023年]改正入管法により送還停止効の例外として送還が可能となった者や重大犯罪者などを中心に、計画的かつ確実に護送官付き国費送還を実施する」としている。

 さらに、この資料には言及されていないものの、この無理やりの送還についての入管の新しい動きもある。6月の下旬より、大阪入管は仮放免期間の延長手続きにおとずれる仮放免者らに新しいバージョンの「送還に関するお知らせ」という文書を配りはじめた。そこには新しく次の文言が書きくわえられていた。「なお、裁判所による執行停止等の仮の救済の決定がない限り、訴訟係属中であっても、送還を実施する場合がありますので、その旨、弁護士に伝えてください。」 同じ書面は東京入管など他の地方局でもくばられているようである。

 入管が具体的に今後どのような制度運用をしていくつもりなのか現時点では不明だが、今までおこなってこなかった裁判中での強制送還をする場合があると宣言したことには、深刻な危機感をいだかざるをえない。


「ゼロプラン」と正反対のやり方を!

 以上みてきたように、「ゼロプラン」とは、入管が「送還忌避者」と呼ぶ人たちを、むりやりの送還と難民審査の「迅速化」によって2030年までに半減させるという計画である。

 しかし、私たちが考えなければならないのは、そもそも3,000人をこえる「送還忌避者」と呼ばれる人たちがなぜ出てくるのかということである。「送還忌避者」とされる人の多くは、入管が退去強制を決定し、長期収容や人権のうばわれた仮放免状態におくことでいじめ倒しても、送還に応じられない人たちだ。それぞれに帰れない事情があって送還を拒否しているのである。こうした人たちの在留をがんとして認めず、あくまでも強制送還によって排除するのだという方針に入管が固執していることが、この「送還忌避者」を生み出しつづけているのだ。

 相手は人間である。「半減」やら「ゼロプラン」やらの下品な言葉でやっかいものあつかいをするのではなく、なぜ帰れないのか、そこに配慮すべき事情はないのか、また送還がその人にどんな不利益をもたらすのか、聞く姿勢が大事ではないのか。

 「ゼロプラン」が異様なのは、「送還忌避者」や非正規滞在者をもっぱら国外への排除のみによって減らそうとしていることである。しかし、これらの人たちを減らすには、「ゼロプラン」であげられているのと正反対の、つぎの2つの方法もある。

 ひとつは、難民審査を「迅速化」するのではなく、国際的な基準にのっとってこれを「適正化」することである。難民として認定すべき人をきちんと認定し、在留をみとめることである。

 もうひとつは、強制送還をふやすのではなく、現在きわめてせまくしか認めてない在留特別許可の運用をやはり「適正化」することである。送還すれば家族がばらばらになるような人や、長年日本でくらして出身国には生活基盤がもうない人、日本で生まれ育った子どもや若者たちに在留資格を出せばよい。

 ようするに帰るに帰れない人たち(「帰る」もなにも日本生まれの人すらいる)に送還一本やり排除一本やりで対応しようとするから、「送還忌避者」なるものが生じるのである。難民認定の適正化と在留特別許可の基準緩和によって、入管が「送還忌避者」と呼ぶ人の多くは正規の在留資格をえられるはずである。それは現行法の枠内でも十分にできることだ。入管がただしく方針をあらためられるよう、私たちが声をあげていくことが必要だと思う。


排外主義の共犯者、あるいは排外主義そのもの

 さて、入管庁のウェブサイトでは、この「ゼロプラン」がつくられた経緯をつぎのように説明している。

「昨今、ルールを守らない外国人に係る報道がなされるなど国民の間で不安が高まっている状況を受け……法務大臣より……ルールを守らない外国人を速やかに我が国から退去させるための対応策をまとめるよう指示があ」った、と。

 「ルールを守らない」のに日本人も外国人も関係ないはずだが、「ルールを守らない外国人」などと言ってあたかも外国人の問題であるかのように語るのは、まぎれもない人種差別である。人種差別にもとづく「報道」があるなら、その「報道」こそが問題であろう。ところが、入管庁は人種差別の問題を完全にスルーし、それどころか人種差別的な報道とこれによって高まる「国民の不安」を、自分たちの政策を正当化する根拠にしているのである。

 つまり、入管は恥知らずにも、いまはやりの排外主義、外国人差別の世論に便乗し、またこれを自分たちでもばらまくことで、「ゼロプラン」をすすめようとしている。私は反対に、ここに住むひとりひとりの人間が人権を尊重され、平等にあつかわれる社会をめざしたい。

『プラーツオ』(No.87 2025.8.1)

2025年8月31日

差別発言の場に居合わせたこと


 先日のこと。とある会食の場で差別発言が出るのに居合わせた。

 その人は、発言するときに口の前に人差し指を立てて、「ここだけの話なんだけど」とでも言いたげなしぐさをした。その直後に地域を差別する言葉がぽんと出てきた。

 会食の場には10人ぐらいいたのだが、その発言を聞いたのは私もふくめて近くにいた4人ぐらいだったと思う。

 差別発言やそれをした人については、ここであれこれ書くつもりはない。ただ、その発言がでたときの私たちの対応がどうだったかというと、反省しなければならない問題があるなと思い、いまこの文章を書いている。



 3人以上の人がいる場で差別発言が出たときにどうすべきか。最優先で考えなければならないのは、その人が差別発言をするのを続けさせないことである。

 その人が自身のやってしまった言動をふり返り、それが差別であることに気づき、「今後」同じような差別をしないようにしようと考えてくれれば、そりゃ一番いいのだろう。だから、まわりにいる人間は、その人がなぜそういう発言したのかを聞き、それが差別であるということをその人に納得させ、今後そうした発言をしないよう説得しようということを、ついつい試みてしまう。

 でも、差別発言が飛び出したときに、まわりの人間が最優先で対処すべきなのは、説得や議論などではなく、「いま」「この場で」おこなわれている差別発言をとにかくストップさせることである。

 ストップさせると一言でいっても、そのやり方にはいろいろと幅があると思う。こわい顔をして「だまれ」と言うものから、もう少しおだやかに話題を無害なものにずらすというやり方もあるだろう。差別発言した人と自分の力関係もあるので、つねに断固とした強い態度で「差別をやめて」と言えるわけではないだろうけれど、いずれにしろ一番の優先課題は「いま」「この場で」の差別発言をなんとかして止めるということだろうと思う。



 先日の会食では、まわりにいた4人ぐらいの人が、差別発言をした人と「議論」をしてしまった。今になって反省してみると、これはまちがいであった。

 私たちはその人に「あなたはなんでそう思ったの?」とか「どういう根拠があってそんなこと言えるの?」とか聞いてしまった。で、その質問に答えるたびに、その人はつぎつぎと新たな差別発言をくり出してくる。そのたびに「それは差別だ」と批判すれば、その人は自己正当化の理屈でまた新たに差別をぶちこんでくる。離れた席にいて当初このやり取りに参加していなかった人たちも、こちらが不穏な雰囲気をかもし出しているものだから、「なんの話してるんですか?」と会話にくわわってくる。こうして、差別発言のとびかう加害的な状況に、本来なら巻きこまなくてもよかった人まで巻きこんでしまった。

 もちろん、差別発言をするその人が全面的にわるいのだが、それをすぐに止めずに差別発言が出てくる状況を継続させてしまった責任は私たちまわりにいた者にもある。差別発言が出だした早い段階で発言を止める、あるいはその場の話題を別のものに転換させるということはできたはず。その人の考えを聞くにしても、その場から離れて別のところで話す(ゾーニング)という方法もあった。

 こうして後から考えてみると、とるべき対処というのはあきらかなのだけれど、その場ではまったく反対のまずい行動をしてしまったな、と。というわけで今後の教訓とします。


2025年8月24日

【韓ドラ感想】愛はビューティフル、人生はワンダフル


 最近みた韓国ドラマについて。


愛はビューティフル、人生はワンダフル | サンテレビ


 ドラマは立体的につくられていて、どの登場人物に注目するかによって、ちがった見え方がするのだろうけれども。私は、過去に加害行為をおこなった2人の人物に注目することで、興味深く見ることができた。

 ひとりは、裁判官のホン・ユラ。彼女は、自分の息子が老婆をひき逃げした証拠を隠滅し、その罪を他の少年におっかぶせる。老婆は亡くなり、息子は罪の意識にたえられずに自殺する。

 しかし、ホン・ユラは、息子の死が自殺によるものであることを知らない。ちょっとややこしい経緯があって、息子の死は川に落ちた少女を助けようとしておぼれた事故死として処理される。ホン・ユラはそこに疑念をいだくのだけれども、息子の死を「義死」として受け入れることにする。

 ここには自己欺瞞がある。彼女は、自身の行為が息子を自死へと追い込んだのではないかという可能性に当然ながら思いいたらずにはいられないのだが、息子の死を名誉の死だと思い込むことで、その可能性を打ち消そうとするわけである。

 このあたり、他国に対する侵略戦争にかりだして殺人と戦死を強(し)いた兵士を「英霊」などといって神格化する日本人の醜悪な姿のカリカチュアを見せられているように思えて、私にはなかなかきつかった。

 ドラマに登場するもうひとりの加害者は、ムン・ヘラン。彼女は高校時代に同級生(このドラマの主人公であるキム・チョンア)をいじめて、自殺未遂に追い込んだ人物である。9年たってムン・ヘランは被害者のキム・チョンアと期せずして再会してしまうが、自身の過去の加害を反省し、被害者に謝罪することができない。



 加害者が自分の罪に向き合ってつぐなおうとしないことで、被害者はもちろんのこと、加害者のまわりの人間も傷ついていくことになる。

 このドラマでは、2人の加害者が最終的には自分のおかした罪と向き合っていこうとするのだが、そこにいたる2人の葛藤・変化とともに、そのコミュニティの人間(家族)が加害者にどう関わっていくべきなのかという課題が提示されている。

 たとえば、裁判官ホン・ユラに対して、もうひとりの息子のク・ジュンフィ(自死した息子の兄にあたる)が寄りそいつつ、罪をつぐなうようにうながす。身内というのは、加害者にとって、自身の罪にふたをして向き合わない口実にもなる存在である(「自分の息子に自分の恥を背負わせたくない」などと言って)。しかし、ク・ジュンフィはそうやって母の共犯者に自身がなることをよしとせず、母が自身の罪を社会的に告白・公表し、被害者(息子のひき逃げの罪をきせた相手)に謝罪することを決意するのを、かたわらで待ち続け、ささえようとする。

 こういうふうに、加害者が時間をかけながらも変化し罪にむきあうことを、周囲の人間が支援していく過程がえがかれていて、娯楽作品としてそんなドラマがつくれるのはすごいなと感心してしまった。というか、現代の日本でこんな作品はだぶん作られることがないよね、というところにあらためて気づかされてしまった。社会全体で自国政府と自国民の加害の歴史にふたをしようと強迫的になっていることが、どれほど深刻にこの社会をこわしてしまっているのか、考えずにはいられない。



 というわけで、トータルな感想としては、とてもいいドラマを見せてもらいました、なのですけれど。ネガティブな感想も2つほど述べておきます。

 ひとつは、恋愛(男と女の)の要素が過剰で、それがドラマにおいてノイズに私には思えたこと。とくに主人公のキム・チョンアについて。彼女はホン・ユラの息子の自死に立ち会ってしまった人物で、それゆえにホン・ユラにとっても、またそのもうひとりの息子であるク・ジュンフィにとっても、のちに重要な役回りを果たすことになる。で、ドラマでは彼女をク・ジュンフィの恋人として登場させているのだけど、そこは恋愛的な要素ぬきの「友人」とかではダメだったわけ? という違和感はおぼえた。ドラマの中で彼女の果たした(果たしうる)役回りは、恋愛的な情緒に回収してしまうべきでない要素が多分にあるように思えたので。

 もうひとつは、高校生時代にそのキム・チョンアをいじめていたムン・ヘランをめぐって。自身の過去の加害行為に向き合おうとしない彼女に対して、その兄と父親がそれぞれビンタをするシーンがある。男性(父・兄)から女性(娘・妹)に対する暴力が、教育的指導的な目的でふるわれているからといって肯定的にえがかれてしまうのは、よくないと思った。


2025年8月6日

大野埼玉県知事、入管庁「ゼロプラン」、そして朝鮮学校排除


 埼玉県の大野元裕知事が法務省に対し、日本とトルコの相互査証免除協定の一時停止を要望したようだ。


埼玉知事「難民申請に課題」「治安悪化のファクトない」 ビザ問題で [埼玉県]:朝日新聞(2025年7月30日 10時30分)

埼玉県の大野元裕知事、外務省にトルコビザ免除協定の一時停止求める [埼玉県]:朝日新聞(2025年8月4日 20時40分)


 リンクした1つめの記事から、引用する(赤字強調はわたし。以下おなじ)。


 埼玉県の大野元裕知事が、日本とトルコとの相互査証(ビザ)免除協定の一時停止を要望する考えを明らかにした。大野知事は29日、難民申請について課題があるとし、「埼玉には難民申請を繰り返しているトルコ国籍の方が多く滞在しており、それに対する不安が(県に)寄せられていることが大きな理由だ」と説明した。

(中略)

大野知事は「治安が不安定化しているファクトはあまりないが、治安に対して不安感を抱いている方が多い」と強調した。


 知事が「トルコ国籍の方」をあからさまにやっかい者あつかいしているのにビビるのだが(思いっきり差別あおってるよね)、そのやっかい者あつかいしてもかまわないのだとこの人が主張する根拠が住民から「不安」の声がよせられているからなんだという。

 なんだそりゃ……。トルコ国籍の人によって引き起こされる治安悪化の「ファクト」はないけど「不安感」をいだく人が住民に多いから「トルコ国籍の方」は入国しにくいようにしろ、と。知事はそう国に「要望」しているのである。論理もなにもあったもんじゃない。。

 しかし、この埼玉県知事の発言、既視感ありまくりである。こういうの今までいくつも見てきたよ。

 最近では5月に入管が「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」なるものを公表した*1。そのプランをどういう経緯で作ることになったのか、入管庁のウェブサイトで説明されている。その入管庁の文章が、埼玉県知事の大野と同質のムチャクチャさなのである。


 これまで、ルールを守る外国人を積極的に受け入れる一方で、我が国の安全・安心を脅かす外国人の入国・在留を阻止し、確実に我が国から退去させることにより、円滑かつ厳格な出入国在留管理制度の実現を目指してきました。

 しかし、昨今、ルールを守らない外国人に係る報道がなされるなど国民の間で不安が高まっている状況を受け、そのような外国人の速やかな送還が強く求められていたところ、法務大臣から、法務大臣政務官に対し、誤用・濫用的な難民認定申請を繰り返している者を含め、ルールを守らない外国人を速やかに我が国から退去させるための対応策をまとめるよう指示がありました。

「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」について | 出入国在留管理庁】(2025年5月23日)


 「ルールを守らない外国人に係る報道」? 産経新聞とかが書き散らしてる差別記事*2のことか? 「ルールを守らない」に日本人も外国人もないのであって、それを「外国人」の問題として語ってる時点で人種差別以外のなにものでもない。そんな差別報道を真に受けてみせて、「外国人の速やかな送還が強く求められ」とかなんとか、めちゃくちゃにもほどがある。

 だいたい、「ルールを守らない」者は送還だ我が国から退去させるのだとか、さすがの入管法でもそんなザツなこと書いてないぞ。ヤフーニュースのコメント欄でわめいてるネトウヨの頭のなかの世界だよ、そんなの。

 「国民の間で不安が高まっている状況を受け」? 埼玉県知事とおなじこと言ってる。「ルールを守らない外国人がいる」などといって「不安」がってる人がいたら、あなたの言ってること差別だぞと指摘してやんないとダメでしょう。あんたの「不安」が外国人のせいで生じてるとみなし、実際にそう口に出して言うのは差別だよと。「国民の間で不安が高まっている」から外国人をどんどん退去させられるように「対応策」が必要だとか、なにをいってるんだか。

 埼玉県知事の大野や、入管庁の幹部役人たちがやっているように、「国民」「住民」の「不安」を口実に差別的な政策を主張していくのって、非常にタチがわるいものだから、なんかパッとわかりやすいような名前をつけられるとよいと思うんだけど。なにかいい呼び方はないだろうか。

 かつて、つねの・ゆうじろう氏が「差別のアウトソーシング」という見事なフレーズを使っていたものだけれど、大野知事らのやってることもその一種ではあろうと思う。


たとえば、岡林信康の「手紙」を思い出してください。

これは、「みつるさん」が「私」を「ヤリ逃げ」するという物語です。重要なのは、直接の当事者である「みつるさん」は差別主義者ではないことになっている点です。ここには、差別のアウトソーシングを見ることができます。差別をするのは自分ではなくて、「おじさん」なのです。「お前が部落だから結婚するのは嫌だ」というのではなくて、「お前が部落だからダメだとおじさんが言ってるからしょうがないでしょ。俺は気にしないんだけどね、そんなこと」というわけです。

手塚プロダクションの歴史主義とアウトソーシングされた差別 - (元)登校拒否系】(2008-01-20)


 みつるさんが「おじさん」にアウトソーシングしながらみずから差別を遂行するように、大野元裕や入管庁は「国民」や「住民」に差別をアウトソーシングしている。そこにみいだせる構造はおんなじである。差別主義者として想定された「国民」「住民」を口実にして、大野や入管は外国人に対する差別を遂行している。もうすこし適切に言いなおせば、「国民」「住民」を差別の共犯者にしたてあげることで、自身が差別を遂行しようとしている。

 そして、日本の行政のこういうやりかたは、「最近の傾向」などではない。日本政府が高校無償化政策から朝鮮学校を排除した差別のやり口を、いまいちど思い出しておこう。

 2010年4月に民主党政権にてスタートした高校無償化。朝鮮学校も明確にその基準をみたしていたが、政府は「審査中」などと称して朝鮮学校への適用を2年半以上にわたり保留しつづけた。

 2012年に自民党の安倍政権が成立すると、下村博文文科相は「朝鮮学校については、拉致問題に進展がないこと、朝鮮総聯と密接な関係にあり、教育内容、人事、財政にその影響が及んでいることなどから、現時点では国民の理解が得られない」と発言。翌13年2月20日、文科省は高校無償化法の施行規則(省令)を改定し、朝鮮学校がみたしていた適用の基準「ハ」をまるごと削除した。

 つまり、「国民の理解が得られない」という口実で、自分たちが作った法をねじまげて朝鮮学校を無償化政策から差別的に排除したのである。

 そのあたりの経緯は、以下のページがまとまっていてわかりやすいので、参考にしてほしい。


〈高校無償化〉朝鮮学校完全排除を狙った「改正案」、文科省が意見公募 | 朝鮮新報(2013年01月05日 16:00)


 そういえば、おなじ2010年代には、都道府県が朝鮮学校への補助金を打ち切る動きがあいついだが、その定番の口実が「県民の理解が得られない」であった。神奈川県も一例である。


 神奈川県の黒岩知事が13日、神奈川朝鮮学園に対して30年以上も続けて支給してきた補助金を突如打ち切るという暴挙に出たが、同学園に子どもを通わせている保護者らの怒りはおさまらず、県庁への要請が続いている。

 県知事は、「朝鮮学校と北朝鮮は関係ないと、県民に理解してもらう自信がない。盾になり続ける気持ちがうせた」(2月18日、神奈川新聞)と説明したが、国籍、出自にかかわらず、自治体首長には子どもを率先して守る責務がある。核実験と子どもたちはまったく関係ない。黒岩知事は最後まで子どもを守る盾になるべきで、打ち切りを撤回しない限り、子どもたちを再度、社会的な差別にさらすことになる。

黒岩知事は盾になったのか - イオWeb】(2013年2月21日)


 この黒岩神奈川県知事、最近では排外主義に対し「大変な違和感」などと言ってこれに反対するかっこうをつけたりしてて、話題になっていた。


 黒岩祐治知事は9日の定例会見で、参院選の街頭演説などで一部の政党や候補が外国人に対する排外主義的な主張を訴えていることについて、「外国人と共に生きる社会をつくることは基本であり、排外する動きには大変な違和感を持っている」と述べた。

(中略)

 県は多文化共生の取り組みを進めてきたとし、「外国人と調和しながら共に生きるのは県の特徴。しっかりと守り通したい」とも話した。

神奈川・黒岩知事「大変な違和感」 参院選、排外主義的な一部主張に懸念 参議院選挙2025 | カナロコ by 神奈川新聞】(2025年7月9日(水) 22:10)


 あれれ? 12年前に「県民に理解してもらう自信がない」といって朝鮮学校の補助金を打ち切った黒岩さんとおなじ黒岩さんだよね? どうなってるの? 「排外する動き」をになってきたのは、あなたもおなじじゃん。参政党と同類じゃないの? どうしてちゃっかり批判する側にまわってるの?

 しかし、おそらくこういう人は自身の言動に矛盾を自覚していない。みつるさんのように、自身の差別を他者にアウトソーシングしているからである。

 それにしても、私たちは、こうして黒岩や大野や文科省や入管庁などが差別の共犯者として期待する「国民」「住民」「県民」であることを拒否しなければならない。



*1: 宇宙広場で考える: 入管庁「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」がヤバすぎる(2025年6月7日) 

*2: 宇宙広場で考える: 産経新聞がクルド人へのヘイトスピーチを書き散らしている件(2023年7月31日)

2025年7月20日

参院選前日に参加したデモのことなど

 

 「悪政追放 7.19最近気になることデモ」ということで。


黄色の地に黒字で
「悪政追放 7・19最近気になることデモ」
と書かれた横断幕と
黒地に白抜きで「NO EXPO ANYWHERE」
と書かれた横断幕。

 いいタイミングでこういうのを企画・主催してくれた人たちがいたので、便乗して声をあげてきました。

 このデモを呼びかけていた人のひとりは、こう書いてました。「選挙期間、果たして選挙だけやってていいのか!?」

 おお! まさにそこをこそ問うべきだよな、選挙期間こそ。そう思って、ぷらっと出かけたのでした。

 中之島公園を午後6時に出発して、なんばまで2時間ほど20人くらいで歩きました。日が暮れていく時間帯とはいえ、熱かった。そして長かった。


この日、私がかかげたプラカード。
「日本政府&自・公・維・参など
の排外主義に反対
さべつに はんたい」
と手書きで書いてある。

 「最近気になることデモ」という名のとおり、スピーチやコールをしたい人にマイクをまわしながら、それぞれこの選挙期間中に考えたこと思ったことを話していくというスタイル。

 非常に印象深かったのは、マイクをもったどの人の言葉も(ひとりの例外もなく!)、今回の選挙について語りながらも、この選挙で語られることのないテーマ、いうならばこの選挙が抑圧しているテーマへとその語りをはみ出させていたことです。民主主義というのは、こういういとなみのことなのであって、それは制度化された選挙などというものにおさまるような小さいものではないのではないか。

 そんなことを感じながら歩いていたら、「コールしませんか?」とマイクをまわしてもらったので、その感じたことをコールで表現してみようと思いました。

 ひとつは、今回の選挙では、参政党という極右政党が大きな支持を集めており、そのことにリベラルや左派が危機感をいだくのは当然のことなのだけれども、その結果、争点が大きく右にずらされてるんじゃないか、という違和感。参政党を極右と言うと、自民党なんかは穏健右派ぐらいかなとうっかり思ってしまいかねないけど、そもそもあいつらも極右じゃん。自民党も維新も国民民主党もゼノフォビア(外国人嫌悪)をあおって有権者の人気をえようとしてきたし、2023年と24年の入管法改悪はそいつらと公明党が賛成して成立したよね。立憲民主党だって、人気取りに外国人差別をあおってる極右議員いるよ(例→「不法滞在天国になってしまう」だって…… 立民・藤岡議員の妄言)。これらぜんぶまとめて否定しなきゃ。おまえらぜんぶ退場じゃ。

 というわけで、参政党とあわせて自民・公明・維新・国民民主をディスるコールをしました。

 もうひとつは、今回の参政党現象にとどまらない、選挙というイベントがどうしてもはらんでしまう問題。各政党、各候補者は戦略的に争点をしぼろうとする。でも、すくなくとも社会の公正・公平にかかわるイシューについて、「どれかをとりあげ、どれかは後回しにする」なんてことは本来あってはならない。それは自己矛盾でしょ。「争点をしぼる」ということは、公正・公平を断念するということだから。

 だから、私たちうぞうむぞうは、小さく切りつめられた「争点」をおしひろげ、捨てられた「争点」を拾いあげる表現をしていかなければならない。それは候補者や政党じゃなくて、私たちうぞうむぞうの人民ができること。デモはそのための場のひとつ。「選挙期間、果たして選挙だけやってていいのか!?」というこのデモの呼びかけ人のつきつけた問いを、私はそんなふうに受け取りました。

 そういうわけで、私は「差別に反対」「差別をやめろ」とコールしながら、そこに差別にかかわるテーマを列挙してはさみこむようなコールをしてみました。

「差別に反対」

「入管解体」

「差別に反対」

「沖縄に基地を押しつけるな」

「差別をやめろ」

「天皇制反対」

「差別をやめろ」

「戸籍制度を廃止しろ」

「差別をやめろ」

「トランス差別やめろ」

……

という感じ。

 「もっとあれも言えばよかった」というテーマがいくつもあるのですが、ほかの参加者もみんな選挙戦ではあまり語られないけれどそれぞれ関心のあるテーマについてコールしたりスピーチしたりしていて、それを聞けたのはよかったなと思います。そうやってさまざまなイシューについて語っていくことは、たんにそれらを「列挙」しているだけでなく、それらの個別にみえるテーマがおたがいにつながり関連しあっていることを考えていく、そういう経験でもあります。

 コールしたあとには、ちょっぴりスピーチもしました。(少なくとも現行の)選挙制度は制限選挙でしかないこと、選挙制度自体が差別的なのだから選挙だけで差別の問題がよくなることはないこと、むしろ差別的な制度をそのままに選挙だけ投票だけやってたら差別は大きくなっていくこと、だからこうやって選挙の外でも差別をなくそうと声をあげていくことが大事だと思う、というようなことを話しました。

 まあなんというか、外国人住民を選挙権・被選挙権から完全に排除した現行選挙制度で、ろくでなしどもが外国人排斥をきそいあっている状況がふざけるなとまずは言いたいけれど。しかしだからといって制度の差別性を問うことなしに「ヘイトを受けている外国人は投票できないから、そのぶん私たちが責任もって一票を投じなければなりません」みたいなことを語るのもギマンがはなはだしい。

 有権者だって一票しか持ってないのだから、他人のぶんもかわりに投票することなんてできないし、そもそも権利をうばわれた人が自分で投票できないことの問題(不正義)は有権者の投票行動によってはなんら解消しない。

 ちゃんと言うべきなのだ。この選挙制度はクソだ、と。自分が投票するかしないかを有権者は選択できる(そして、その選択をせまられる)けれど、どちらを選択するにせよこの選挙そのものは公正じゃない。そこをまずはちゃんと認めないと、不公正なものを正していくことはできない。民主主義への道のりは遠い。でも、歩きはじめることはできる。


2025年6月17日

하녀들(ハニョドゥル/下女たち)

 

イニョプの道 | サンテレビ


 すこしまえから朝鮮語の勉強をやっておりまして、まだまだぜんぜんの初学者なのだけれど、韓ドラをみてて、ときたま字幕なしに言葉が頭に入って来るようなこともあったりして、おもしろいものである。

 最近みたドラマが、「イニョプの道」という日本語の題がついているのだが、オープニングのタイトルバックでその原題が「하녀들」だということを知った。「下女たち」という意味である。

 日本語版では、イニョプというこのドラマの主人公の名がタイトルに入っている。ところが、韓国で放送されたオリジナル版は、「하녀들」(ハニョドゥル)という、そっけなくも聞こえるタイトルが付けられていたのだと知って、しかしそこに制作者の思いがきっと込められているのだろうなと想像した。



 両班(やんばん)の若い女性であるイニョプは、父が謀反の罪をきせられ処刑されたため、奴婢の身分に落とされ、かつての親友の家に下女としてつかえることになる。イニョプは、苦難に立ち向かいながら、ついに父の無罪を証明し、家門を復活させて元の身分に復帰することができました! めでたしめでたし。

 乱暴にまとめてしまえば、こういうストーリーである。

 イニョプ自身は、身分を落とされることで、それまで人間以下のモノとしてあつかってきた下女たちとはじめて「人間」として出会うことができ、自分自身も「人間」として成長し始める。

 でも、結局のところ元の両班の身分にもどってハッピーエンドだと言われても、私は釈然としない。身分回復後のイニョプはかつての下女仲間の何人かを連れてきて、「あなたたちに苦労してほしくないから」とか言って、自分の家につかえさせたりもするのだけど、それでは「幸不幸は主人しだい」という彼女たちの立場はなにもかわらない。

 というわけで、イニョプというひとりの女性の物語としてみれば、もやもやが残る結末である。時代劇なので、その時代(朝鮮時代)の限界をこえた結末にはできないという制約はある。なので、あたりまえといえばあたりまえだけど、けっきょく身分制は温存されちゃうのね、という。



 しかし、だからこそ、「하녀들」(ハニョドゥル)というタイトルを制作者があえてつけているところに意味をみいだしたくもなるのだ。たんなる「両班のお嬢さまがいっとき奴婢に落とされたけれど、苦難を克服し、身分を回復できました」というイニョプの物語としてだけみないでね、と。イニョプが最終的には身分回復することで通りすぎてしまう、下女たちの生きざまをこそみなさい、と。

 イニョプが自身も下女になって初めてかいまみた下女たちの世界には、主人の目の届かないところでひそかになされるかばい合いがあり、助け合いがあった。奴婢たちには正義感があり、そこにプライドもあった。抑圧に無念さと無力感をいだかされながらも、一矢報いようという反抗の種はそこらじゅうにある。そのひとつひとつは消費しやすい物語にはならないかもしれないけれど、かけらのようにあちらこちらにちらばっている。そんな光景がいきいきと描かれる場面がこのドラマにはいくつかあった。

 こういうふうに身分制秩序のなかに、これをゆるがす反抗の契機をちりばめて描き、いずれそれが崩壊し人間によって克服されるであろうことを暗示するという仕掛けは、韓国でつくられる時代劇によくみられるように思う。そういうドラマをつくれる社会だということは、天皇制という野蛮な身分制秩序が国家の制度として恥知らずにも堂々と温存され、身分制が克服すべきものだということすらいまだ共通の了解として成立しない社会の住民からすると、いくらかまぶしく感じてしまう。


2025年6月12日

見下している相手から道義的に正しい抗議を受けたとき


 自分が下に見ている相手から道義的に正しい抗議を受けると、パニックになって激昂してしまう、ということがある。

 抗議を受けるというのは、おまえの行為は正しくないと指摘されることなのだから、なかなか心おだやかではいられない。必要以上に防御的な態度をとってしまうというのは、ありがちである。

 たとえば、抗議をしてきた人に対して「あなただって同じようなことしてるじゃないか」とか「私だってつらいんです」とか言ってしまうのが、それだ。前者は相手の抗議する資格を否定しようとする行動だし、後者は自分も被害者のポジションをとることで自分への抗議を無効化しようとする行動だ。どちらも、抗議から自分を守ろうという防御的な行動ではあるけれど、相手をだまらせて抗議をさせないようにしているのだから攻撃的な行動でもある。

 対等な立場の相手からの批判や抗議であっても、こういう攻撃的な反応をかえしてしまうことはしばしばあるものだけれど、これが自分が下に見ている相手からの抗議となると、ほとんどパニックとしか言いようのない激しく攻撃的な反応をしてしまうことがある。その抗議の内容の道義的な正しさが疑いようのないものであれば、その攻撃性はますます激しくなりうる。

 以下は、まさにそういうケースではないだろうかと思った。


パンツ一丁で身柄拘束は「違法」、都に33万円の賠償命令 原告代理人「言うことを聞かせるための拷問だ」東京地裁 - 弁護士ドットコム(2025年06月11日 16時50分)


 これは新宿警察署の警察官たちが、留置していた人に組織的に暴行をくわえたという事件で、その内容は口にするのもはばかられるほどひどい。で、気になるのが、なにがこの人たちをこういう行動にかりたてたのかという点である。


同年7月、同じ部屋に収容されていた1人が風邪の症状をうったえ、38.9度の熱があることが判明した際、別の収容者が毛布の差し入れを求めたものの、担当の警察官に拒否された。

そこで男性が「熱がある人を1時間放置するのか」「毛布1枚くらい入れてもいいのではないか」といった趣旨の発言をしたところ、保護室に連行された。

男性はそこで約2時間にわたり、服を脱がされパンツ一丁にさせられ、両方の手首と足首を縛られた状態にされたという。

その間、尿意を催した男性がトイレに行きたいと求めたが、「垂れ流せよ」などと言われ対応してもらえず、男性は我慢できずに身体拘束を受け寝転がされたまま排尿した。

また、身体拘束を解かれたあと、便意を催した際にはトイレットペーパーを要望したが無視され、男性はやむなく手に水をつけて拭かざるを得なかったという。


 いやはや常軌を逸した攻撃性があらわれており、警官たちは集団的にパニックにおちいってるようにしかみえない。で、この人たちを激昂させた原因は、「熱がある人を1時間放置するのか」「毛布1枚くらい入れてもいいのではないか」という、留置されてる人からのどう考えても道義的にまともな抗議の発言だったようである。というか、「抗議」以前にまっとうな「提案」であって、「そうですね、毛布持ってきますわ、ありがとう」とか言って対応すればよいものを、警官たちはなぜかブチ切れるのである。

 なぜブチ切れるかといえば、自分たちが見下している相手から、まっとうな批判を受けたからだろう。警察官たちにとっては、悪いことをしていることを取り締まっているのだという自負が、自分たちの道義的な優位性の根拠になっているということもあろう。「犯罪者」が警察官のプライドをささえてくれているのである。その「犯罪者」から「熱がある人を1時間放置するのか」と自分たちの正義に疑問をつきつける抗議(それもその内容はだれも否定できないような常識的に正しいものである)をつきつけられたからこそ、警官たちはパニックになったのであろう。

 警察官が職務上こういうパニックを起こしやすい位置にいるのは確かだろうから、組織として対策をとる必要があるのではないか。

 もっともこれは、警官とかだけでなく、教師とか福祉にたずさわる人とか、あるいはボランティアふくめ支援者的に他者に関わる機会のある人とか、育児をする人とか(←こうやってひとつひとつあげていくと、この社会で生きているだれでもそうじゃないかという話になるけど)にも関わってくる課題である。

 大事なのは、相手を見下さない、自分と対等な他者として相手と関わるということになるのだろうけれど、まずは相手よりよけいに権力をもっている場合に、自分も新宿署の警察官たちのようなパニックにおちいる可能性があるのだというところを自覚するところから始める必要があるのかも、と思いました。