2024年10月29日

ゼノフォビアに迎合する玉木雄一郎

 

 おととい投開票がおこなわれた衆院選で国民民主党が躍進したようだ。

 党の代表の玉木雄一郎氏は、選挙の公示直前に「社会保障の保険料を下げるために」「尊厳死の法制化も含めて」「終末期医療の見直し」が必要だという趣旨の発言をおこなっている。前後の文脈からもあきらかなように*1、高齢者をスケープゴートにして若い世代からの支持をとりつけようという、さもしい発言である。

 玉木は、3年ほどまえには、外国籍住民を敵視する右翼に迎合するような発言をしており、このブログでも問題にした。


議論があることはかならずしもよいことではない――玉木雄一郎氏の人権否定発言について(2021年12月22日)


 今回の選挙で党の勢力が拡大してその影響力はますます軽視できなくなっているわけでもあるので、あらためて当時の玉木代表の発言をむしかえしておきたい。

 2021年12月21日、武蔵野市議会で住民投票条例案が否決された。外国人住民にも投票権を認めた条例案が成立しなかったことについて、玉木は「安心した」として、次のような発言をしたという(太字強調は引用者)。


 玉木氏は今回の住民投票条例案に関し「外国人の権利の保護を否定するものではないが、極めて慎重な議論が必要だ」と指摘。その上で「憲法に外国人の権利をどうするのかという基本原則が定められておらず、ここが一番の問題」との認識を示した。

 さらに、「まずは外国人の人権について憲法上どうするのか議論すべきで、そういう議論がなく拙速に外国人にさまざまな権利を認めるのは、極めて慎重であるべきだ」と強調した。

国民民主・玉木氏「否決され安心」 武蔵野条例案 - 産経ニュース(2021/12/21 17:40)】


 玉木はここで、論じるまでもなく自明なことについて、あたかも議論の余地がある「問題」であるかのように語ることで、その自明性を留保しようとしている。しかし、こんなことは議論の余地なく自明なのであって、論じるまでもない。「外国人の人権について憲法上どうするのか」などという問題にならないことをことさら問題にしようとすることこそが、問題である。

 「極めて慎重な議論が必要だ」? たとえば、女性の人権について、障害者の人権について、また外国人の人権について、どんな議論の余地があるというのか? それが議論の余地のある「問題」であるかのように語ること自体が、女性の、障害者の、外国人の権利を否定することにほかならない。

 上の産経の報道を受けて、玉木氏は自身のツイッターにつぎのように投稿している。


外国人の人権享有主体性については様々な意見があります。100%これが正しい、これが間違っているというものではありません。我が党としては、憲法上の位置付けをどうするかも要検討としています。だだ今回は民主的手続きを経て否決された以上、慎重に対応すべきでしょう。

玉木雄一郎(国民民主党代表) @tamakiyuichiro 午後6:51 ・ 2021年12月22日


 ここでも玉木氏は、「様々な意見があります」と言って、外国人が人権を享有する主体であるという自明に当然のことについて、留保しようとしている。

 こうした語り方は、卑怯でもある。玉木氏は、外国人が人権を享有する主体「ではない」とはみずから明言はしない。「外国人の権利の保護を否定するものではないが」などとも言ってみせる。

 でも、このお調子者は、排外主義的な世論にむけて、自分は外国人の権利について留保なく認めるべきだと考えるような人間ではないのだと、アピールしているのである。自分自身は差別主義者とのレッテルを貼られないように注意しながら。セコイよね。

 しかし、「同性愛者の人権享有主体性については様々な意見があります」などと語る人間を差別主義者と呼ぶのがなんらまちがいではないように、「外国人の人権享有主体性については様々な意見があります」と語る人間が差別主義者でないわけがなかろう。

 今回の選挙で、玉木と国民民主党は、「終末期医療」の過剰、あるいは「尊厳死」の不足が、若い世代を圧迫しているのだと考えるような人間たちの支持をとりつけ、自分たちの政治的な資源にしようとした。玉木はまた、外国人の人権など認めるべきでないと考えるような者たちに迎合し、これを自身の政治的な資源として取り込もうともしている。こういう政党が今回の選挙で躍進し、大きな影響力をもちつつあるという状況が、おそろしいです。



*1: 玉木の発言は、10月12日の日本記者クラブ主催の党首討論会でのもの。玉木は自身の発言が多くの批判を受けると、「日本記者クラブで、尊厳死の法制化を含めた終末期医療の見直しについて言及したところ、医療費削減のために高齢者の治療を放棄するのかなどのご指摘・ご批判をいただきましたが、尊厳死の法制化は医療費削減のためにやるものではありません」などと同日中に釈明した。しかし、以下のように玉木は明確に「社会保障の保険料を下げる」「医療給付を抑え、若い人の社会保険料給付(ママ)を抑える」という文脈のなかで「終末期医療の見直し」「尊厳死の法制化」に言及しており、釈明で言っていることは自身の元の発言とまったく整合しない。

 「社会保障の保険料を下げるためには、われわれは高齢者医療、とくに終末期医療の見直しにも踏み込みました。尊厳死の法制化も含めて。こういったことも含め医療給付を抑え、若い人の社会保険料給付を抑えることが、消費を活性化して、つぎの好循環と賃金上昇を生み出すと思っています」

 この玉木発言については、医師の木村知氏による以下の批判を参照してほしい。

玉木雄一郎代表の「尊厳死の法制化」発言に恐怖で震えた…現場医師が訴える「終末期の患者は管だらけ」の大誤解 「死なせてほしい」という意思はきっかけ一つで変わる | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)(2024/10/22 7:00)



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2024年10月25日

「被収容者の支援をしていたつもりが入管を支援していた」ということが起こりかねない

 

 自分みたいな者にそんな適性があるともあまり思えないのだけれど、支援者みたいな役回りをする場面が私にもある。

 そんな場面で気をつけるようにしているのが、支援はやりすぎにならないようにしたほうがよい、ということ。支援しすぎてしまうことの弊害というのは、たしかにある。それはたとえば、相手が自分でできることをうばってしまうということである。

 支援しようとする人は、相手が支援を必要としているとみなして、だから自分が支援しなければならないのだと考える。ただ、相手が「支援を必要としている」ということは、その相手が「無力である」こととイコールではない。けれども、支援をしよう、支援をしなければならないと考える人は、ここを混同して支援を必要とする人を無力な存在とみなしてしまうことがある。

 相手を無力な存在とみなしてしまうと、相手にもいろいろとできる可能性・能力があるということが、あまり見えなくなってしまう。それで、支援者は、相手のできることをかわりにやってしまう。結果として、支援者が相手の可能性・能力を発揮する機会をうばってしまうことになりかねない。ものごとを判断するとか、自身のすべきことを決定するとか、そういった可能性・能力を発揮する機会さえ、支援者がうばってしまうということが、おこりうる。

 でもまあ、「やりすぎ」にならないように、支援者が自分自身で抑制するのは、思いのほか簡単ではない。だからこそ、支援しようとするときは、その支援のありようについて、ややひいた立場からツッコミを入れてくれる人が近くにいてくれたほうがよいと思う。たとえば「あなたは『〇〇しなければならない』と言うけれど、そう思ってるのは(支援を受ける)相手の人? それとも(支援者である)あなた自身?」みたいな問いである。団体として、あるいは複数の人が連携して支援をおこなう場合は、そのときどきでだれかがこういうツッコミを入れる役割を買って出るようにするとよいかもしれない。


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 さて、いま述べてきたようなものとは別種の(しかし、関係するかもしれない)「支援のやりすぎ」もある。

 入管施設での面会活動などをやっていると、そこに収容されている人から、衣料品や衛生用品の提供を要請されることがある。夏に収容された人が収容が長引くなかで冬用の服が必要になったりするし、歯ブラシや石けん、シャンプー、洗濯洗剤などは、ないと困るものだ。でも、支援者が費用を負担してこれらを差入れしてしまうのは、おかしいと言えばおかしい。だって、本来的には、これらは収容して自由をうばっている入管が責任をもって被収容者に提供すべきものでしょう。入管のすべき仕事の肩代わりを支援者がするのはおかしい。

 一応、最低限の衣服や衛生用品を用意できない人に対しては、入管がそれらを提供することにはなっているのだけれど、あれこれ理由をつけて十分にやらず、実際問題として足りないので支援者がこれをおぎなうということがある。

 衣類などは入管が提供することがあるぶんまだマシだが、より深刻なのが被収容者の通信費の問題である。日本の入管施設は、被収容者を監禁したうえに、携帯電話を取り上げて使用を禁じ、インターネットに接続した端末もいっさい使わせない。収容された人にとって、外部に連絡する手段は、郵便とバカ高い公衆電話(国内通話で携帯電話にかけて1,000円で14分しか話せない)ぐらいしかない。収容する側(入管)が、無制限にとはいかなくても、一定の範囲で費用を負担して被収容者の通信の機会を保証すべきだろう。

 ところが、入管が本来ならば果たすべき責任を果さないでいるために、支援者がこれを肩代わりせざるをえない場面が出てくる。弁護士会に連絡したいけれど所持金がほとんどないからできない、とか。そういったときに、仲間の被収容者や外部の支援者が電話カード代を援助する。

 こういった支援は、ボランティアの支援者が本来やる必要がないことをしてしまっているという意味では、過剰な支援であり、「やりすぎ」と言える。もちろん、衣服や石けん、電話代や切手など被収容者にとって切迫した必要性があるから私たちも差し入れることがあるのだけど、その「必要性」は入管の不作為によって作り出されたものだ。

 こうして入管の不作為が作り出した「必要性」をおぎなうということを支援者が無批判に続けていると、結局のところ、入管施設の劣悪な処遇を固定化することにすらなる。劣悪な処遇や人権侵害に対しては、当然ながら被収容者から抗議や改善要求が起こるものだ。抑圧や侵害が引き起こす当事者の抗議・改善要求に対して、連帯してともにたたかうのが支援者の本来的な役割だと私は思うけれど、入管に対しては無批判なまま、不足している衣服や歯ブラシや電話代を差し入れるということだけやっていては、それは入管の収容施設運営を助けることにしかならないのではないか。

 もちろん、衣料品や衛生用品、通信手段の援助をすることがわるい、ということではない。それをするにしても、入管の収容施設運営に対する批判や抗議も同時にしたほうがよいし、すくなくとも、(この文章の前半で述べた文脈にひきよせて言うなら)被収容者がもっているはずの、抗議や要求を通して状況をみずから改善していく能力や可能性をうばわないようにしたい。


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 いま述べてきたような問題が、入管施設の処遇の問題にとどまるならば、(もちろんそれも重要だけれども)いちいちブログで書くほどのことでもないかもしれない。しかし、6月の改悪入管法施行にともなって創設された監理措置制度において、上にみたようなのとも似た構造の問題が、はるかに深刻なかたちで生じつつある。

 監理措置は、退去強制手続き中の、また退去強制処分を受けた外国人の収容を(一時的に)解除して、収容施設の外での生活を(さまざまな制限をつけたうえで)認める制度である。収容を解いて外での生活を認める措置としては、従来から仮放免というものがあるが、今回の法改定でこの仮放免制度は維持しつつ、監理措置があらたに創設された。

 くわしい話をするとややこしくなるので今回はしないけれど、6月以降、入管は重病人以外は仮放免を許可しなくなっている。したがって、現に収容されている人たちからすると、日本から出国する以外で収容から解放されるためには、監理措置を申請するしか方法はないと思わされてしまうような状況になっている。ところが、この監理措置は非常に問題の大きな制度であって、これが定着すれば、仮放免者をはじめ非正規滞在の外国人への締め付け・圧迫が今まで以上に強くなるのは確実である。

 このブログで何度も書いているとおり*1、入管の収容は「劣悪」とかそういう形容ではまったく足りないような、出国強要を目的とした「拷問」であって、しかもそれを法務大臣も入管幹部もまったく隠そうとすらしていない。そういう拷問施設からどんなかたちであれ一日でも早く解放されたいということは、被収容者にとって切迫した必要性だったりする。なので、被収容者が監理措置申請できるようにみずから「監理人」を引き受けようという支援者が出てくることは、不思議ではない。

 しかし、ボランティアの支援者が無批判に「監理人」を引き受け、監理措置が新しい制度として定着していくと、どういうことが起きるか? そこはよくよく考え、当事者とも話し合わなければならない。

 ということで、その問題については、今度あらためて書きます。


*1: 以下の記事などを参照。

2024年10月10日

収容によりあなたが受ける不利益を考慮しても


 6月10日から、昨年成立した改悪入管法が施行されています。難民申請が3回目以降の人の強制送還が可能になったなど、非常に問題のある改悪です。

 仮放免制度とはべつに、収容解除のためのもうひとつの制度としてあらたに創設された監理措置も、ここではくわしく書かないけれど*1、深刻な人権侵害をもたらすだろうことが危惧されます。

 ただ、新法ではこの監理措置や仮放免について、不許可の場合には申請者に書面でその理由を示すことになりました。入管がどんなふうに理由を書いてくるんだろうか。そこは気になるところです。

 で、私が大阪入管で面会している被収容者のひとりが、監理措置を申請していたのですが、その人が「不決定」の通知をもらったので、その文書を見せてもらいました。「監理措置決定をしない理由」として、つぎのように書かれていました。


●●●●氏が監理人になろうとしていることを考慮しても、あなたには逃亡及び不法就労活動をするおそれが相当程度認められ、収容によりあなたが受ける不利益の程度その他の事情を考慮してもなお、あなたを送還可能のときまで収容しないことが相当とは認められません。


 他のケースを知らないのですが、おそらくこの不決定理由は定型文で、不決定通知を受け取った他の人たちも同様の「理由」を入管から示されているのではないでしょうか。

 しかしまあ、なんというか、すごいこと書いてますよね。「収容によりあなたが受ける不利益の程度その他の事情を考慮しても」とか書いてますが、入管の役人たちはその「不利益」がどういうものだと考えているのか。というか、まじめにそれを考えたことが少しでもあるのだろうか。

 人を拘束して自由をうばうということが、どれほど重大なことなのか。それは一日であれ大変なことです。ましてや、半年とか、あるいは年単位で人間を拘束するということは、きわめて重大な人権侵害であって、それ相応の理由がなければゆるされるものではない。

 入管での収容は、近年よく知られるようになりましたが、その期間の上限が決まっていません。無期限収容というやつです。事情があって帰国できないという人にとって、いつ出られるのか、見込みがたたない。しかも、刑罰などとちがって、なんのために自分が拘束されているのか、納得できるような理由などない。意味のわからない拘束が、いつまでとも知れず続く。強制送還されるのではないかという恐怖もストレスになる。

 こういう環境で閉じこめられ、自由をうばわれていれば、人間はそう時間をかけずに心身がおかしくなります。

 ところが、入管は言う。「あなたには逃亡及び不法就労活動をするおそれが相当程度認められ、収容によりあなたが受ける不利益の程度その他の事情を考慮してもなお」収容をこのまま続けるのが相当と判断したのだ、と。

 たかが、「逃亡」だとか、「不法就労活動」だとか、それしきの「おそれ」があるから、閉じこめておくのだ、というのです。「逃亡」や「不法就労」でだれか傷つく人でもおるの? そんなくっそくだらない理由で、人間の心身を破壊してもよいというの? 完全に軽重の判断が狂っているとしか言いようがないわけだが、こういう人間たちが権力ふるってるのは、ほんとうにおぞましいことです。うんこ。




*1: 監理措置の問題性については、以下の記事で述べています。

 監理措置は、従来からある(6月に施行された改悪入管法でも、変更点はありつつも一応維持されている)仮放免とおなじく、退去強制手続き中の人、あるいは退去強制処分を受けた人の収容を一時的に解除する措置です。

 しかし、仮放免に対して監理措置の特異性は、収容を解かれた外国人(「被監理者」)をスパイする役目を民間人(「監理人」)に負わせる、というところにあります。上にリンクした「監理措置とはなにか?〈3〉」で、監理人に課される報告義務について書いたことを、抜粋・再掲しておきます。

 このように、監理人に被監理者の生活・行動を日常的に監視させて入管に報告させ、被監理者がアルバイトして報酬を受け取ったり監理措置条件への違反があったりすればそれを入管にたれ込めと要求するのが、この監理措置制度です。

 従来の仮放免制度においても、入管は「動静監視」と称して、仮放免者の生活・行動を調査し把握しようとしてきました。この「動静監視」を民間人である監理人にも一部アウトソース(外部委託)しようというのが、監理措置制度であると言えるでしょう。監理人は被監理者をスパイする役割を負わされることになります。

 被監理者にとってみれば、家族や友人、あるいは支援者や弁護士など、自分を支援する立場の人間をつうじて、自身の行動を監視・監督されるということです。自分にとって身近な存在、しかも自分に必要な生活上の資源や情報を提供してくれる者から見張られるとなれば、ある面では入国警備官に監視される以上にその監視の強度は高くなるでしょう。

 入管の視点からいえば、被監理者に対する支援者らの親密さや信頼関係を資源として利用することで、より強度の高い監視・管理をおこなおうというのが、監理措置制度を創設した意図としてあるでしょう。入管という組織を動かしている連中の反社会性、邪悪さがよくあらわれています。



2024年9月24日

メ~テレ「入管ドクター」を視聴して / 疑似問題あるいは煙幕としての「医療体制」問題

 

1.はじめに

 少し古い番組で話題にするのがやや遅すぎる感もあるのですが、メ~テレ(名古屋テレビ放送)制作の「入管ドクター」を視聴しました。7月20日にテレビ朝日系列で全国放送された番組のようです。私はユーチューブの以下のリンクでみました。


“ブラックボックス”だった名古屋入管の医療現場に初のカメラ取材 3年前の“ウィシュマさん死亡”は、なぜ起きたのか?医師の診療を通して見えた入管行政の現状と課題【テレメンタリー】 - YouTube


 番組は、ウィシュマさん死亡事件から3年後の名古屋入管に取材したもので、事件後に着任した名古屋入管の局長や常勤医師がインタビューに応じている映像のほか、診療室での診察の様子もうつされています。

 私としては、事件について現名古屋入管局長がどのように語るのかとか、新たに着任した常勤医師の目に入管施設の医療がどのようにうつったのかとか、興味深くみたところはありました。

 しかし、番組は、ウィシュマさん事件を考えるうえでその本質から決定的にずれており、その点でとても残念なものでした。事件後、入管は事件の調査報告書などを通じて、論点を事件の本質からずらすような認識操作をおこなってきました。番組の制作者がその論理に無批判に乗せられてしまったということだと思います。

 番組については、すでに以下の記事で的確な批判がなされており、私が指摘しようとする問題点もここで述べられているところと重なるところが大きいのですが、私なりのしかたで批判を書いてみようと思います。


ウィシュマさんの死は「医療事故」ではなく「殺人事件」 - 猿虎日記(2024-07-28)



2.「入管も反省して真剣に改革に取り組んでいる」というストーリー

 番組は、名古屋入管がその収容場における医療体制の改革に取り組んでいる過程を、とくに2023年4月に常勤医師として着任した間淵則文氏の奮闘に焦点をあてて追いかけています。

 批判的な視点をもたずにぼんやり視聴するならば、「名古屋入管も3年前の悲惨な事件を反省し、これをくり返さないために常勤医師を先頭に懸命に努力しているんだなあ」という感想をもってしまいそうです。

 番組の最初のほうで、2023年9月に着任した名古屋入管の市村信之局長は、つぎのように語っています。


 われわれの収容施設の中でお亡くなりになるというのは、私はありえないと思っているので、その重い責任を認識している。こういう施設で人の命をあずかっているという。で、あとは診療体制も3年間で大きく変わっています。


 ここで市村局長は、ウィシュマさんの死亡について「重い責任」を感じているということと、入管としてその後「診療体制」の改善に取り組んできたのだということを、結び付けて語っています。この2つはおたがいに結び付けて語るのにふさわしいことなのか、という疑問を私は強くいだきますが、それはあとで検討します。

 では、市村氏の言う診療体制が「大きく変わっ」たとは、どういうことなのか。番組では、以下の改善点が紹介されています。


  1. 非常勤しかいなかった名古屋入管の医師に常勤(間淵氏)がくわわった。
  2. 救急車が来て病院に患者を搬送するまでの間の救急救命治療のための医療機器、薬品をそろえた。
  3. 医師と局長ら幹部との医療カンファレンスを平日は毎日おこない、情報共有をしている。


 こうした点が示されることで、視聴者の多くは「名古屋入管も事件を反省して真剣に医療体制の改善に取り組んでいるだなあ」という印象を受けることでしょう。

 もっとも、番組全体としては、入管医療に依然として課題が残っていることにもふれてはいます。たとえば、常勤医師について、入管は全国6施設に合計12人の配置しようとしているところ、現状では4人にとどまっているということなどです。また、番組スタッフが面会した名古屋入管の被収容者から「診察を希望しても1週間程度かかる」「内視鏡の検査をしてくれない」といった声があったことを紹介しています。そういった点で、入管に対してまったく無批判につくられた番組というわけではありません。

 しかし、ウィシュマさん事件への反省のうえに上記の改革がすすめられているということを、番組の制作者はおおむね肯定的にとらえており、そこでの関係者の真剣さ・真摯さについてもとくに疑いをはさまずに報じているようにみえます。

 でも、3はともかく、1と2はウィシュマさん事件となんの関係があるのでしょうか。(3のようなかたちで情報共有の課題をウィシュマさんの死亡と結びつけて語ることにも、私は大きな問題があると考えていますが、その話はとりあえずここではおいておきます)。すくなくとも、1と2は、以下でくわしくみるように、ウィシュマさんの亡くなった経緯とまったく無関係の問題であって、これらを持ち出すのは事件の本質から論点をずらすミスリードと言うべきです。

「診療体制もですね、3年間でお~きく変わっています」と語る名古屋入管局長、市村信之氏。



3.職員に「医療知識がほとんどない」ためにウィシュマさんは放置された?

 それぞれについて、検討していきましょう。

 まず、1の常勤医の配置について。番組では、常勤医である間淵氏の判断により、体調不良で食事のとれない状態になっている被収容者が、外部病院での入院と点滴治療につながった事例が紹介されています。

 間淵医師はつぎのように述べます。


 ウィシュマさんのときとちがって、医師が常駐していて、悪くなっていっているというのをちゃんと評価をしながら、すぐ点滴も始めて、危機的なところは脱したけれども、それでもご飯を食べれないということで入院に持っていった。二度と[ウィシュマさんのときと]同じ失敗をくりかえさないということは、うまくいっていると思います。


 番組で紹介されているこのケースについて言うならば、被収容者の命と健康を守るうえで常勤医の設置がプラスに働いた事例と言えるかもしれません。しかし、ウィシュマさん死亡事件について間淵医師が語る内容には、疑問をいだかずにいられません。


 医療知識がほとんどないような人たちが、ウィシュマさんちょっとやばいのかな、しゃべってるからまだいいのかとか、その程度のことでやってたんだよね。お医者さんがみれば、これは検査するまでもなくこれはうちでみとったらあかんわというところで、おそらく救急車を呼んだり、大きい病院に行きなさいと言ったりするわけですよ。それをここにとめとったというところは、言われてもしゃあないな、と。


 間渕氏は、ウィシュマさんが適切な治療を受けられずに放置されたことに関して、救急車を呼んだり大きな病院に連れて行ったりすべきどうかかの判断が「医療知識がほとんどないような人たち」によって行なわれていたことが問題であったと言っているわけです。このような認識からすれば、常勤医が入管に常駐していることで、同様の事件が起こるリスクは回避できるはずだという話になるのも、たしかに道理ではあります。

 一般論として言えば、医師が常駐していることで、入所者の病状についての評価が適切かつ迅速におこなわれやすいという利点は、たしかにあるでしょう。その意味で、多人数の人が収容されている施設において、常勤医師を置いたほうがよいだろうということは、一般論としては理解できなくはありません*1

 けれども、ウィシュマさん事件の理解としては、この間淵医師の発言は的外れです。というのも、ウィシュマさんが適切な医療を受けられずに死ぬまで放置された原因は、「医療知識がほとんどないような人たち」(名古屋入管の看守職員たち)が、「医療知識がほとんどない」がゆえに、ウィシュマさんの深刻な病状を適切に評価できなかったからなどでは、断じてないからです。

 ウィシュマさんが亡くなって5か月たった2021年8月10日に、入管庁は「名古屋出入国在留管理局被収容者死亡事案に関する調査報告書」(以下「調査報告書」といいます)というものを公開しています。この入管側の文書で明らかにされている事実を、2点示しておきます。


(1)2月15日の尿検査で「飢餓状態」を示すとされる数値(ケトン体3+)を示した。ところが、名古屋入管は3月4日に精神科を受診させたのを除いてはウィシュマさんが3月6日に亡くなるまで病院に連れていくことはせず、「飢餓状態」を改善させるための治療を受けさせることはなかった。

(2)亡くなる前日の5日の朝、看守職員がウィシュマさんのバイタルチェックをおこなったが、脱力のため血圧・脈拍を測定できなかった。


 名古屋入管は、(1)のような状況にあっても、点滴治療を受けさせることは最後までありませんでした。ウィシュマさん本人や支援者から再三の要求があったにもかかわらずです。こうしてウィシュマさんが放置されたのは、なぜでしょうか? その病状を適切に評価できる知識と経験のある医師が常駐していなかったからでしょうか? あるいは看守職員らは「医療知識がほとんどないような人たち」だったからウィシュマさんを放置したのでしょうか?

 また、「調査報告書」には「別添」として、1月15日からウィシュマさんが亡くなる3月6日までの経過等の詳細を記した資料が付けられています。これを読むと、常識的な判断として病院にただちに搬送すべきだろうと思わざるをえない状況にいくども出くわします。(2)もそのひとつです。しかし、結果的に名古屋入管はウィシュマさんが死ぬまで救急車を呼ばなかったのです。たとえば、血圧も脈拍も測定不能な状態にある人間を病院に連れて行かず、居室に寝かしたままに放置したのは、入管職員たちが「医療知識がほとんどないような人たち」だったからでしょうか?

 常識的に考えてみましょう。自力で食事をとるのがむずかしく、衰弱しているとはっきりわかる人をみたとき、間淵医師のいう「医療知識がほとんどないような人たち」(私もそのひとりですが)は普通どうするでしょうか。普通、心配してとても不安になるのではないでしょうか。そして、「医療知識がほとんどない」からこそ、病院に連れて行って医師に診てもらおうとするのではないでしょうか。「医療知識がほとんどないような人たち」は、食事をとれずに衰弱している人をほったらかす、などということを、普通はしません。

 しかも、ウィシュマさんの場合、尿検査をしてその数値が飢餓状態を示していたのですから、なおさらです。周りにいる人間が医療の素人ばかりだったから判断を誤った、などという次元の話ではありません。

 救急車を呼ばなかったということについても、同じです。「医療知識がほとんどないような人たち」は、(2)のような状態の人をみたら、普通あわてて救急車を呼ぶでしょう。

 先ほど言及した、食事をとれない状態になって外部の病院に入院した被収容者がいたという事例がありましたが、この人を支援している友人は、番組スタッフの「ウィシュマさんが死んだときはどう思いましたか?」という質問につぎのように答えています。


 こわくて、いやな気持ちになった。入管、そんなに人間としてなんでそこまで放っておけるのか、わからんかった。今でもわからん。どういう気持ちで人間を放っておけたのか、死ぬまで。


 まさにこれこそ、問うべきことがらでしょう。どうして、名古屋入管の職員たちは普通の(常識的な)行動をとらなかった(とれなかった?)のか、ということ。この問いを回避して、現場職員の医療知識や常勤医の設置がどうのこうのといったことを問題にするのは、まったくのナンセンスです。

「人間としてなんでそこまで放っておけるのか、わからん」という疑問。これが問わずにはいられない疑問なのだということは、理解が難しいことなのだろうか。



4.疑似問題としての「医療体制の不備」

 番組では、上でみたように、名古屋入管が医療体制改革の一環として、救急車が到着するまでの救急救命治療のために必要な医療機器や薬品をそろえたということを紹介しています。もちろん、このこと自体は被収容者の命と健康を守るうえでの重要な改善です。しかし、名古屋入管は救急車を呼ばずにウィシュマさんを見殺しにしたのであって、人命を軽くあつかう人間たちが運営する施設では、救急救命のための医療機器や薬品があったとしても宝の持ち腐れです。

 ウィシュマさんを死にいたらしめのは、救急救命のための医療機器・薬品だとか、常勤医師の設置だとか、そうした医療体制の問題ではないのです。「医療体制はまったく関係がない」と言っても言いすぎではありません。だって、当時(2021年)の名古屋入管の医療体制であっても、職員らが常識的に行動していさえすれば、ウィシュマさんの死は避けられたはずだからです。

 みなさんがびっくりするかもしれない事実を、いくつか指摘してみましょうか。名古屋入管は名古屋市内にあります! 番組でもうつっていましたが、名古屋入管のまわりには自動車の通れるアスファルトの広い道路が通っています。名古屋入管は、車の走れない山道の奥にあるわけでも、救急搬送にヘリの不可欠な離島にあるわけでもありません。救急車を呼べば来ますし、患者を入院させてを受けさせるために車で連れていける病院もあります。それらを名古屋入管がしなかったのは、医療体制に不備があったからではありません。

 常勤医師はいないよりもいたほうがよいことも、場合によってはあるかもしれません。救急救命のための医療機器や薬品も、あるに越したことはないでしょう。しかし、それらがなくても、電話も立派な道路も名古屋入管には通っているのだから救急車を呼べたはずだし、入管の車でウィシュマさんを病院に連れていくこともできたはずです。ウィシュマさんを死なせないために支障となるような「医療体制の不備」など存在しませんでした。

 こうしてみると、ウィシュマさんの事件の背景や原因に「医療体制の不備」をみる見方がいかに見当はずれなものか、わかるのではないでしょうか。名古屋入管はたんにウィシュマさんを見殺しにしたのです。



5.「調査報告書」「提言」の欺瞞性

 さっきもすこしふれたとおり、入管庁は事件後21年8月に「調査報告書」を公表しました。その重要なポイントは2つあります。1つは、死因は特定できなかったとして、ウィシュマさんの死亡について名古屋入管の責任を否定していることです*2。もう1つは、改善すべき課題として、全職員の意識改革や被収容者の健康状態等が適切に把握・共有されるための組織改革などとともに、「医療体制の強化」があげられたことです。

 この「調査報告書」を受けて翌22年2月28日には、法務大臣の設置した有識者会議が「入管施設における医療体制の強化に関する提言」(以下、「提言」と言います)をまとめています。


報告書「入管収容施設における医療体制の強化に関する提言」について | 出入国在留管理庁


 「提言」は、常勤医師の確保などによる診療体制の強化、外部医療機関との連携体制の構築・強化、医療用機器の整備などの必要性を述べています。

 「提言」については、「入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合」による批判が出ていますので、読んでみてください。ウィシュマさんは、医療ネグレクトにより見殺しにされたのであって、その背景には収容・送還を人命よりも優先する入管の政策・方針がある。「提言」は「医療体制」に問題を矮小化することで、こうした政策・方針をすすめてきた者たちの責任をごまかしている。そういった批判です。


「入管収容施設における医療体制の強化に関する提言」に対する見解 | 入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合


 「調査報告書」と「提言」をつうじて、入管庁はつぎのように主張していると言えます。すなわち、ウィシュマさんの死亡事案について、死因を特定できなかったので入管の責任だとはいえない。ただし、その経緯を調査をする過程で、医療体制の不備などの課題がみつかったので、これらを改善すべく取り組んでいくつもりである、と。

 入管は、あきらかに重篤である病人をほったらかして殺したことについて、ぜんぜん反省なんかしてないわけです。「医療体制の不備」などというまったく本質的でない問題を煙幕のように出してきて、その改善に取り組む姿勢をみせることで、自分たちがあたかも人権と人命を尊重しているかのように演出している。

 メ~テレ制作の「入管ドクター」は、こうしたはなはだしく欺瞞的な入管の自己演出・宣伝の論理をそのままなぞる番組になってしまっているのです。



6.入管幹部の責任はどこいった?

 メ~テレの番組「入管ドクター」への批判としては、以上でだいたい書きたいことは書きました。

 あとは、さきほど提起した、「なぜ名古屋入管の職員たちは救急車を呼ぶなどの常識的な行動をとらなかった(とれなかった)のか?」という問いについて、すこし述べておきたいと思います。入管職員たちがウィシュマさんを死ぬまで「放っておけた」ということの意味は、正面から考えなければならない問題のはずです。

 番組のなかで名古屋入管局長の市村氏は、つぎのように語っています。ここでの市村氏の発言は、ウィシュマさん死亡事件について述べているものと思われます*3


いわゆる管理するっていう点ばっかりが入管の仕事っていうふうに強調して教え込まれた方が、何人かおられたのかもしれませんね。

(番組スタッフ:そういう時代があったんですか?)まあずっと……私入ったときからそうでしたね、まさに昭和。やっぱり外国人の管理がわれわれの仕事、送還するのがわれわれの仕事、と。[太字強調は引用者] 


 私は、この市村局長の語りを聞いて「ずるいなあ」と思いました。

 市村氏は、被収容者をもっぱら管理の対象としてみるような「入管の仕事」のありようを問題にしているようにはみえるのですが、しかしここで問題にされるのは、「管理するっていう点ばっかりが入管の仕事っていうふうに強調して教え込まれた方」、つまり現場の看守職員のほうだけなのです。一方で、外国人を管理するのがお前たちの仕事だと教え込んできた側を問題にする気はないみたいです。現場職員(「強調して教え込まれた方」)のうちの、一部の職員が問題だった(「何人かおられたのかもしれませんね」)のであって、入管の組織全体を否定すべきではない、とでも言いたそうです。

 番組の他の場面では市村局長は、3年前にはなかったという「職員心得」の一節を指さし、読み上げながら、こう言います。


「人権と尊厳を尊重し礼節を保つ」。これが最上位の心得だと私は思っています。


 言っていることそれ自体は、もっともなことです。しかし、ここでも、入管の幹部の責任は回避しようという市村氏の姿勢があらわれています。

 この「心得」とは、2022年1月に策定された「出入国管理庁職員の使命と心得」と題された文書で、佐々木聖子入管庁長官(当時)の説明によると、名古屋入管での「死亡事案」を受けて、「全職員がその策定プロセスに主体的に参加して作り上げたものです」とのことです*4。いわば、全職員が参加して作り上げた全職員が胸に刻むべき心得といったところなのでしょうが、こうした構図であいまいにされるのは、幹部の責任です。なんか敗戦直後の卑劣かつ恥知らずなアレとそっくりですね。天皇や政府、軍部、財閥など侵略戦争を主導した者たちの戦争責任を棚上げし、「国民全体」が反省し懺悔すべきだとした皇族首相・東久邇宮による「一億総懺悔」論とよく似ています。

 ウィシュマさん事件について、現場で勤務していた看守職員たちの責任を問えないとはもちろん思いません。しかし、現場の職員たちにばかり責任を押しつけて(といってもきっちり処分をしたわけではないですが)、上司が(部下とのあいだのどのような関係性のもとで)どういう指示を出していたのか、またその指示が組織のどういう方針のもとで出されていたのか、といったところの点検がなされないのであれば、その組織は職員たちにとってもクソとしか言いようがありません。

 上の2でみたように番組では、医師と局長ら名古屋入管幹部による医療カンファレンスが開かれるようになったことが医療体制の改善例としてとりあげられています。こういう取り組みそれ自体は、もちろんよいことです。しかし、ウィシュマさん事件への反省に立ってこれを始めたのだという話になると、やはりそれはおかしいでしょう。だって、現場の重要な情報が幹部のところまで来なかった、つまり現場の職員がきちんと報告しなかったのが悪かったのだという、責任転嫁の論理がその前提にあるのだから。ウィシュマさん事件について言えば、こういう前提でしゃべるのは、より大きな責任を問われるべき幹部を免責しようとする問題のすりかえと言うべきです。

 冒頭の1でリンクしたブログ「猿虎日記」で、永野潤さんはこう書いています。


 しかし、ウィシュマさんの死亡は、現場の職員の「知識」の問題でもないし、ましてや現場の職員の「心」の問題などでは断じてない。現場の職員は、病院に連れて行ってと懇願するウィシュマさんに「ボスに言うけど、連れて行ってあげたいけど、私はパワー(権力)がないから」と言っていたではないか。


 看守職員の「ボスに言うけど、連れて行ってあげたいけど、私はパワー(権力)がないから」という発言は、入管庁が裁判の過程で出してきた、ウィシュマさんが亡くなるまえの過程を記録した監視カメラの映像の一部(弁護団が公表しており、マスコミも報じているので、見たことのあるかたも多いかもしれません)で確認できます。

 パワーがある者の責任をきちんと追及することこそ、報道が大きな役割を果しうるところでしょうし、私たち市民にとっても取り組むべき課題としてあるのではないでしょうか。

 なお、ウィシュマさん見殺し事件が、入管の非正規滞在外国人をめぐるこの20年ほどの政策・方針のどのような推移のもとで起こったのか、以下のパンフレットで分析されております。私も執筆にかかわっているひとりであるので、手前みそになってしまい恐縮ですけれど、ほんとうによく考察されていますので、おすすめです。入管の政策や方針との関連を考察することなしに、名古屋入管の職員らがなぜウィシュマさんを見殺しにできたのかという問題にせまることは絶対にできません。


なぜ入管で人が死ぬのか | 入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合


 当然ながら、政策も方針も、人間が決めて人間が実行するものであって、そこには責任がともないますし、その責任には軽重があります。だれが何をどうやって決めてきたのか。あるいは、だれが何をどうやって指示してきたのか。民主的なコントロールの外にある官僚機構でおこなわれてきたこれらは、まだまったく十分にあきらかになっていません。

 入管の「ブラックボックス」と言うなら、そこにこそ真のブラックボックスがあるのではないでしょうか。名古屋入管の診療室にカメラが入ったところで、ウィシュマさん事件でかいまみえた「闇」にどれだけせまることができたでしょうか。(了)



名古屋入管前で抗議行動する人たちの映像。ウィシュマさん事件の真相究明と責任追及をうったえている。事件の再発防止のために不可欠なはずのこの2点こそ、本来はもっと時間をさいて番組であつかうべきテーマだったのではないだろうか。



*1: ただし、入管施設においては、常勤医師を置きさえすれば被収容者にとってよりよい医療が提供されると楽観的に考えることはできません。常勤の医師が、入管の送還業務と癒着して医療従事者として本来もつべき独立性をうしなえば、被収容者はまともな医療を受ける機会からますます疎外されることになるからです。入管施設では、常勤医師の存在が被収容者の医療へのアクセスをさまたげるということすらおこりえます。実際、過去の東日本入管センターでは、こうした理由で多数の被収容者から常勤医の免職要求があがり、2012年に常勤医が辞職するということもありました。 


 *2: ウィシュマさんの死因について、「調査報告書」は以下のように結論づけています。 「A氏[ウィシュマさん]の死亡については、司法解剖結果にもあるとおり『病死』と認められるものの、詳細な死因に関しては、複数の要因が影響した可能性があり、専門医らの見解によっても、各要因が死亡に及ぼした影響の有無・程度や死亡に至った具体的な経過(機序)を特定することは困難であると言わざるを得ないとの結論に至った。」(34-5ページ)。 

 ウィシュマさんの遺族が提起し名古屋地裁でおこなわれている国家賠償請求訴訟においても、被告(国)は、死亡に至った具体的な機序を特定できないから国の責任を問えないという趣旨の主張をしているそうです。医療過誤があったのかどうかを争う裁判であれば、この「機序」の特定が重要になるのも理解できるのですが、ウィシュマさんが命をうばわれた過程において、医療上の判断が適切だったかどうかという問題はさほど重要とは思えません。医療上の判断の適切さ以上に、人命を尊重しているのであれば常識的にとるだろう対処を名古屋入管がとらなかったということこそが、重要な点ではないでしょうか。その意味で、死亡に至った具体的な機序がどうだったかということを、国の責任を問うための条件として設定しようとする国の姿勢には、強い違和感をおぼえます。

  そもそも、機序が特定できないから国の責任は問えないなどという理屈を認めるならば、入管は被収容者になるべく診療を受けさせないほうが自分たちの責任を問われないですむ、ということにもなります。被収容者を受診させなければ、その人が死んでもその機序の特定がむずかしくなるのですから。 


*3: ここでの市村氏の発言がどのような文脈でなされたのか(番組スタッフがこの前にどのような質問をしているのか、など)は、番組の映像からは明示されていません。番組の編集上は、さきにふれた被収容者の友人がウィシュマさん死亡事件について「今でもわからん。どういう気持ちで人間を放っておけたのか、死ぬまで。」と語る場面の直後に、この市村氏の発言の場面がつづくという構成になっています。 


*4: 「出入国在留管理庁職員の使命と心得」について | 出入国在留管理庁



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2024年8月23日

川口市議会の差別意見書を添削してみた


 1.立民、差別意見書に賛成した元市議を公認

立憲、衆院選に元川口市議を擁立 在日クルド人念頭の意見書に賛成:朝日新聞デジタル(2024年7月30日 20時44分)

 ↑の記事より、以下引用。


 立憲民主党は30日、次期衆院選の愛知15区に、新顔で埼玉県川口市の元市議、小山千帆氏(49)の公認内定を発表した。小山氏は、在日クルド人を念頭にした犯罪取り締まり強化の同市議会提出の意見書に賛成していた。多文化共生を重んじる党のスタンスと矛盾するとの指摘がネット上などで出ていた。


 そんな意見書を川口市が出してたのか? ということで、遅ればせながら一読してみたのですが……。これはひどい、とんでもないものでした。

 意見書は「一部外国人による犯罪の取り締まり強化を求める意見書」と題され、昨年6月29日付、川口市議会議長名で出されており、あて先は衆参両院議長、内閣総理大臣のほか、国家公安委員長や埼玉県警などとなっています。

 川口市議会のウェブサイトの以下のページ、「令和5年6月定例会」というところから、意見書のPDFファイルはダウンロードできます。歴史的に記録されるべき差別文書といえるものなので、スキャンした画像もはっておきます。

意見書 | 川口市議会

画像
「一部外国人による犯罪の取り締まり強化を求める意見書」


 この川口市議会の意見書が、人種差別を遂行しているものだということは、議論の余地がないくらい明白です。だから、この意見書に市議会議員として賛成した小山氏が公的に自身のその行為を自己批判して誤りをみとめたというのでないかぎりは、同氏を公認候補として擁立すると発表した立憲民主党がそのスタンスをきびしく批判されるのは当然のことです。

 ただそうは言っても、これがなぜ差別にあたるのかということを言葉にして言うことも大事でしょうから、多くの人もそれぞれの言葉でそれを語っているようですけれど、私もここに書いておこうと思います。



2.なぜ差別だと言えるのか?

 意見書は、「一部の外国人」が暴走行為や煽り運転をくり返しており、また窃盗、傷害などの犯罪行為も見すごすことができないとし、国や県、警察に対して、「一部外国人」の犯罪や交通違反などの取り締まりを強化せよと求めたものです。

 暴走や窃盗を問題にしたいのなら、端的にその行為を問題にすべきだし、取り締まりを強化しろと言いたいなら、そうした行為を取り締まれと言えばよい話です。暴走や煽り運転にしろ、窃盗や傷害にしろ、外国人もやるでしょうが、日本人だってやるのであって。「外国人の」犯罪を取り締まれなんて言う必要はない。たんに「犯罪を」取り締まれと言えばいいでしょう。そこに「外国人」などという属性をもちだしている点で、川口市議会の意見書は人種差別なのです。

 つまり、これは、差別的な権力行使を行政に対して主張・要求し、市民・住民の差別を扇動する、きわめて悪質な文書というべきです。



3.差別意見書を添削してみる

 では、この意見書は、どう修正すればよいのでしょうか。こころみに添削してみました。訂正線を引いたのは原文が差別的であるため消した部分、赤字は原文に私が加筆したところです。


議員提案第1号

一部外国人住民による犯罪の取り締まり強化を求める意見書

 現在、川口市には40,000600,000人を超える日本国籍および外国籍の住民がおり、加えて、住民票をもたない外国人の中には仮放免中の方も相当数いるものと推定されている。多くの外国人住民は善良に暮らしているものの、一部の外国人住民は生活圏内である資材置場周辺や住宅密集地域などで暴走行為、煽り運転を繰り返し、人身、物損事故を多く発生させ、被害者が保険で対応するという声がある。すでに死亡事故も起こしており、看過できない状況が続いているが、事態が改善しないのは、警察官不足により、適切な対応ができていないものと考えている。

 また、新聞報道にある窃盗、傷害などの犯罪も見過ごすことはできない。

 現在、地域住民の生活は恐怖のレベルに達しており、警察力の強化は地域の治安維持のためにも緊急かつ必要不可欠となっている。このような一部外国人住民の行為は、その他多くの善良な外国人住民に対しても差別と偏見を助長することとなっており、到底見過ごすことはできない。

 このことから、この度、地域の窮状を伝え緊急的に解決を図るため、以下要望する。

1 警察官を増員し、一部外国人の犯罪の取り締まりを強化すること

2 資材置場周辺のパトロールを強化すること

3 暴走行為等の交通違反の取り締まりを強化すること

  以上、地方自治法第99条の規定にもとづき、意見書を提出する。

     令和52023年6月29日

(以下略)


 どうでしょうか。「このような一部外国人住民の行為は、その他多くの善良な外国人住民に対しても差別と偏見を助長することとなっており」というくだりなどは、修正したことで意味不明になってしまっていますが、「外国人」という語を正しく「住民」に置きかえることで、全体として元の意見書にあった差別的な効果はほとんど(「完全に」とは言いませんが)消えているのではないかと思います。

 この修正後のような意見書ならば、わざわざ市議会で議決をとって国や警察などに提出するなどということはなされなかったのではないでしょうか。この意見書を決議した者たちにとっておそらく重要だったのは、「外国人」をトラブルメーカー、善良な住民にとっての脅威として描き出すことであって、添削後のような意見書ではそうした趣旨にはそぐわないのでしょう。



4.「これは差別ではない」との言い訳

 もっとも、差別しようとする対象を指す言葉(「外国人」「クルド人」など)を直接には使わずに表現において差別を遂行するということも、その表現を受け取る者たちが共有する文脈によっては可能です。たとえば、いま問題にしている川口市議会の意見書も、「外国人」という語を使いこそすれ「クルド人」とは言ってないわけですけれど、クルド人住民を念頭において問題にしている文書であることは、文脈上あきらかです。

 読み手は、「住民票をもたない外国人の中には仮放免中の方も相当数いるものと推定され」うんぬんとか「一部の外国人は生活圏内である資材置場周辺や」といったくだりで、意見書がクルド人住民について述べているものだとわかるわけですが、それが「わかる」のは、なぜでしょうか。これまで産経新聞のような差別をあおることを商売にしているゴミ新聞のゴミ記者などがクルド人差別を扇動するゴミ記事を書きちらかしてきたからです。この意見書を読む者も、そうしたゴミがばらまいてきた差別的な言説によって形成された文脈を共有していれば、「外国人」の語がとくに「クルド人」を念頭において使われていることが了解できるわけです。

 これとおなじ理屈で、この意見書も、(上で私が添削し修正したように)「外国人」とは言わずに「住民」などの語を使えば、差別であることをまぬがれられるとは、かならずしもいえません。ある文書が差別的な効果をもつかどうかは、その表現がなされる文脈との関係できまるからです。

 また、差別は、「これは差別ではない」という言い訳・弁明をしながら遂行されることがしばしばあります。川口市議会の意見書が「一部の外国人」という言葉をもちいているのも、それです。「多くの外国人は善良に暮らしている」などと、わざわざ書いてもいます。外国人の全体を問題にしているのではない、だからわれわれのやっていることは差別ではない、と言いたいのでしょう。

 しかし、そうした言い訳・弁明をしようと、「住民」といえばすむことをわざわざ「外国人」の問題だとしている点で、意見書がその表現において差別を遂行していることは客観的にあきらかです。そのことをわかりやすく示すために、上のような添削をしてみたわけです。


5.「警察力の強化」のために差別を利用している

 ただし、この添削によって、わたしは「こう書けばよかったのに」という改善案・対案のようなものを示したかったわけではありません。添削といっても、ここでやっているのは、たんに「外国人」を「住民」という言葉に置きかえるという単純な操作にほとんどすぎないわけですが、こうした操作によって元の意見書のおかしさというのが、うかびあがってくるように思います。

 添削後の意見書は、ひどく間抜けな感じがします。警察官を増員しろとか、犯罪の取り締まりを強化しろとかを要求する内容ではあるものの、なぜそうしなければならないのかという必要性・切迫性があまり伝わってこないのです。

 警察権力をもっと強大にする必要があるという言説が説得力をもつのは、われわれの外部にわれわれをおびやかす深刻な脅威が存在していると信じられるときです。外からくる脅威からわれわれを守る警察権力を強化しなければならない、というわけです。こうした思考においては、警察権力がわれわれをおびやかすことはなく、もっぱらその力は外部からくる他者に対してのみもちいられるというフィクションが無邪気に信じられています。

 オリジナルの意見書では、「一部外国人の行為」によって「地域住民の生活は恐怖のレベルに達しており、警察力の強化は地域の治安維持のためにも緊急かつ必要不可欠」だという論理になっています。害をなす「一部外国人」と善良な「地域住民」が対照されて、前者が後者をおびやかすから「警察力の強化」が必要だというわけです。

 ところが、添削後のように「一部外国人」を「一部住民」に置きかえてしまうと、そうした対照・対立の図式がぼやけてしまいます。「住民」のあいだになにかトラブルが生じているというだけの話になり、なんで「警察力の強化」が必要なのか、よくわからなくなります。

 結果的に警察力でもって介入する必要がでてくることもあるかもしれないですが、いきなり一足飛びでそういう話になるのは論理の飛躍もいいとこでしょう。「住民」どうし話し合うことで解決することだってできるかもしれないし、警察力でなくても第三者が仲介してトラブルを解決するという可能性もあるかもしれない。

 こうみてくると、なぜ川口市議会の意見書をつくった人たちが、たんに「住民」のあいだで生じていると言うべき問題を、「外国人」のもたらしている問題であるとして描き出さなければならなかったのか、わかってきます。そうしないと、「警察力の強化」が必要であるという論理をみちびきだすことができないからです。

 今回の川口の意見書は、市の側から国や警察に対して、外国人に対する取り締まり強化と警察力の強化を要求するというものではありました。しかし、国というものは、「外国人」の存在を脅威であるとして描き出し、つまりマジョリティ住民の「外国人」住民に対する差別感情をあおることで、警察権力の強化やその行使を正当化するということをこれまでしてきたのだということを、見落とすわけにいきません*1。川口市議会の意見書は、国がこうしてしばしばおこなってきた、統治のために差別を扇動し、差別を利用するということを是としているという点で、けっして容認できるものではありません。



*1: 一例として、以下の記事で言及した、法務省入国管理局、東京入国管理局、東京都、警視庁の四者による「首都東京における不法滞在外国人対策の強化に関する共同宣言」(2003年10月)をあげておく。 



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2024年8月13日

【転載】福岡入管死亡事件 8/20裁判傍聴の呼びかけ(大阪地裁)


 2018年11月に福岡入管に収容されていた中国人男性が死亡した事件。その娘さんが国に賠償を求めた裁判が、重要な局面をむかえています。お父さんを亡くした原告、それから当時の福岡入管の職員(統括警備官)の証人尋問がおこなわれます。

 ということで、傍聴がよびかけられています。


【傍聴呼びかけのチラシ(クリックで拡大)】













 以下、画像(↑)の傍聴呼びかけのチラシより。


◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  


福岡入管死亡事件 証人尋問

8月20日(火)

11時~夕方

大阪地裁本館 202号法廷(→地図

大阪メトロ・京阪本線

淀屋橋駅/北浜駅 徒歩10分



訴え

 2018年10月中旬、ルー・ヨンダー、ルー・リーファ父娘は難民として保護を求め、中国から来日しました。ところが、福岡入管は父娘を収容して帰国するようせまりました。収容中にヨンダーさんの持病が悪化、娘のリーファさんはお父さんの治療を求めましたが、入管は適切な診療を受けさせずに放置。11月初旬、ヨンダーさんは死亡しました。

 2020年12月、娘のリーファさんは国に賠償を求め提訴。いま大阪地裁での裁判は大詰めをむかえ、原告のリーファさん、そして福岡入管職員の尋問が開かれます。



難民を追い返す入管行政

 日本は1981年から難民条約に加盟しており、難民を保護する義務があります。

 しかし、福岡入管は、ルーさん父娘に対して当初4日間にわたって申請用紙の交付を拒否して帰国をせまり、難民申請を妨害しました。

 ルーさんたちが粘り強く求めてようやく開始された難民手続きが、短期間かつ収容(監禁)下においておこなわれた点も問題です。リーファさんは難民申請から39日後に難民不認定の通知を受けています。通信の自由がいちじるしく制限された収容場で、しかもこんな短期間で、自分たちの難民性を立証する資料を収集するなど不可能に決まってます。ルーさんたちはUSBメモリで自分たちの難民性を主張する根拠となる多くのデータを持っていましたが、これも収容下のため印刷するなどして提出することができませんでした。

 不当な収容(監禁)によって難民申請者の立証作業を妨害し、保護を求めてやってきた難民を追い返そうとする。ルー・ヨンダーさんの死は、こうしたゆがんだ入管行政の結果でもあります。



《ご案内》

  • 202号法廷は、正面玄関入ったところの階段を上がってすぐです。エレベーターもあります。
  • 裁判所の建物に入る際には、手荷物検査があります。
  • 11時開始ですが、間に合わなくても傍聴できます。傍聴席では着席して傍聴します。
  • 傍聴席の出入りは自由です。


裁判終了後、裁判所敷地南側にて、担当の弁護士から、今日の解説があります(予定)。弁護士をはじめ、原告本人やこの事件にずっとたずさわってきた人たちも集まりますので、質問をしたり交流したりできます。




2024年8月8日

差別主義者の設定した論点であらそわなければならないという不条理


  外国人を生活保護の対象外とした東京高裁判決について。以下、SNSなどでほえてる右翼が言うような、とんでもない言いぐさですが、裁判官なんだそうだ。


 松井英隆裁判長は判決理由で「政治判断により、限られた財源の下で自国民を在留外国人より優先的に扱うことも許容される」と述べ、在留外国人を生活保護法の適用外とする最高裁判例を踏襲。「生活保護法が一定の範囲の外国人に適用される根拠はない」と指摘した。

 原告側は控訴審で「少なくとも住民票を有するなどの一定の外国人には保護を認めるべきだ」と主張したが、判決は「外国人を公的扶助の対象とするかは立法府の幅広い裁量に委ねられる」と退けた。

[生活保護、また認められず…重病のガーナ人男性落胆 東京高裁「限られた財源で自国民優先は許容される」:東京新聞 TOKYO Web](2024年8月6日 21時08分)


 外国籍の住民にも日本国民同様に納税の義務を課すくせに、「限られた財源」を理由に自国民優先を正当化するのなら、その政府は端的に言ってどろぼうである。どろぼうもそれをやるのが政府ならばお墨つきをあたえてくれるのが、この国の裁判所なのだということらしい。くさりきってますね。

 住民の生活保護申請に対し国籍を理由に却下した自治体(千葉市)の対応が差別であるのは、明白だ。本来ならば、そこに議論の余地などない。

 念のため言っておくと、そうした取り扱いを指示あるいは容認するような法令なり通達なりがあるならば、それらも差別と言うべきであって、そこにも本来ならば議論の余地はない。


◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


 議論すること自体が差別主義にもとづかなければ不可能であったり、議論の余地があるかのようにふるまうことそのものが差別の遂行にほかならなかったり、ということがある。

 たとえば、このブログでもまえに批判したが、国民民主党代表の玉木雄一郎が「まずは外国人の人権について憲法上どうするのか議論すべきで、そういう議論がなく拙速に外国人にさまざまな権利を認めるのは、極めて慎重であるべきだ」と発言したことがあった。

 ここで玉木が言っているのは、外国人の人権を認めるかどうかは自明ではなく、議論の余地があり、議論する必要があるのだということである。

 いやいや、そんなん、議論の余地ないでしょ。外国人に人権があるのは自明だし、自明でなければならない。そんなこと議論しないとわからないとか言う人がいたら、その人の考えがやばいです。

 玉木のような人は、「外国人には人権がある」という自明な、また自明でなければならない命題について、議論の余地があるかのようにほのめかし、これに留保をつけようとする。こうした行為自体が、差別の遂行と言うべきだし、聴衆にむけての差別の扇動でもある。


◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


 話をもどすと、生活保護をめぐる裁判の控訴審で敗訴した原告が、生存権を保障されるべき存在であること、また国籍を理由にそのことを否定するのは差別であるということは、自明だし、自明でなければならない。そこに議論の余地は本来あってはならない。原告ご本人と弁護団は、この裁判で大変な労力をかけて千葉市の処分が違法だということを裁判で立証してこられたのだと想像するけれども、そうした苦労を原告側が負わなければならないということも、とてつもなく不当なことではないだろうか。

 まあ、そんなことを言ってもしょうがないではないかと言われるかもしれないし、そう言われるとそうかもなとも思うのだけど。ただ、本来はとてもシンプルな話で、「千葉市は差別やめろ」のひと言ですむはずなのだ。その本当は簡単なはずの問題が、なぜか裁判でおびただしい量の書面が原告・被告双方からとびかう、ややこしい話になっているというところに、私たちは異常さをもっと感じ取らなければならないのではないか。差別主義者の設定したバカげた論点であらそわなければならないという不条理。


◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


 たとえば、つぎのような問題が「問題」として議論されるような世界があるとすれば、その世界は野蛮である。しかし、こうした問いが発せられるということそのものが野蛮であるということを、私たちは自明な常識として共有しているんだろうか。

「外国人の人権を認めるべきかどうか?」「女性の人権をどの範囲まで認めるべきか?」「障害者に人権はあるか?」「セクシュアルマイノリティの人権を認めてもよいか?」。

 これらの問いを議論の余地のある「問題」かのようにあつかうこと自体が恥ずべきことであるのと同じで、つぎのような問いを論じるにあたいするまともな「問題」とすることも恥ずべきことである。

「政治判断により、限られた財源の下で自国民を在留外国人より優先的に扱うことは許容されるか?」

 東京高裁の松井英隆裁判長は恥を知るべきであろう。

 なお、「限られた財源」をこうして口実にすることがゆるされるなら、国籍差別にとどまらず、あらゆる差別的なとりあつかいが許容されることになる。こんな屁理屈が通用してもよいとするなら、どんな差別であれ正当化できることになる。そんな屁理屈を判決文に書きこんでしまうような裁判官の存在が、日本という国の野蛮さをあらわしている。