2025年5月8日

神隠し


  5月の大型連休になると思い出すことがある。

 40年もまえのこと、東北地方にある中学校に入学したてのころだった。

 ちょうどソ連のチェルノブイリで原発事故があった時期*1だが、それは今回の話とは関係がない。学校の規則で、男の生徒は学生帽をかぶって登校しなければならないことになっていたのだが、雨の中かぶらずに歩いていたら、上級生から「おめ、頭ぬらしたら放射能ではげるど。帽子かぶれ」と注意された。その先輩も帽子はかぶっていなかった。学生帽をかぶる規則などほとんどだれも守っていなかった。先輩が言いたかったことは、1年坊主のくせに校則無視するな、ナマイキだぞ、というところだろう。

 今にして思うに、規則とかルールとかいうものについての貴重な知見をこのときに得たのだと思うけれど*2、それは今回書こうとすることとあまり関係はない。

 私が当時くらしていた地域は、例年4月の後半ごろが桜の見ごろで、それは開花時期によって変わるけれど、4月末からの大型連休に街中の公園で敷物をしいて花見をした記憶もある。屋台なども出てにぎやかだった。



 4月下旬のある日、授業時間中の余談としてだったか、教師が話し始めた。連休をむかえるにあたっての注意喚起であった。

 昔その先生の教え子だった女性の話。連休のある日、中学生だった彼女は友人たちといっしょに桜の名所として有名な公園に出かけたそうだ。ところが、その日以来、家に帰ってくることはなかった。いっしょに花見にでかけた友人たちも彼女の行き先は知らず、家族は警察に捜索願を出したが、そのゆくえはついぞわからなかった。

 何年かがすぎ、また桜の咲く季節になった。中学のときの友人がばったりと彼女にでくわした。数年前に彼女の失踪したおなじ公園でのこと。立ち並んだたくさんの屋台のひとつで、彼女はいそがしく働いていた。

 聞くと、数年前ここに花見に来たとき、屋台で働く青年からアルバイト代を払うから少し店を手伝わないかとさそわれたのだという。店の仕事は楽しかったし、青年とも気が合ったので、青年とその家族らについていくことにした。それ以来、各地の縁日や祭りをまわりながら屋台で仕事をしながら暮らしている、と。



 教師がこの話を私たちにしたのは、連休の過ごし方についての注意喚起としてであったと思う。休みになると君たちも心がうわつくものであるし、いろいろな誘惑もあるので、思わぬ大変な目にあうこともあるから注意しなさい、知らない人について行ってはいけませんよ、とか。

 先生がこの教え子の話をしたときに、もっと私たちをこわがらせようとするディテールがそこに盛り込まれていたような気もする。数年ぶりにあらわれた彼女はかわいそうにやつれていたとか、ふけこんでいたとか、不幸そうにみえたとか。そのへんは、もうはっきりおぼえていない。

 ただ、子どもの時期からぬけようとしていた私たちに対し、教師はなにかタブーの存在を伝え、おどかそうという意図をもって話していたのはたしかだと思う。



 このある種の「神隠し譚」を教室で聞いたのは、40年も昔のことである。今やもうずいぶんと年をとった。しかし、なぜか私はそのときの心持ちを――ひんぱんではないものの――くり返し、思い出してきた。

 今いるところにうんざりしていて、そこからふっと消え去ってしまいたい。そういう欲求は当時たしかにいだいていたし、それは切実といえば切実だった。教師の語った物語は、そんな欲求は持つなと禁じようとするものだったけれど、その禁じようとする行為がかえってそれの禁じようとする欲求がそうおかしなものではないということをあかしているようにも思えた。で、その欲求を実現できる可能性もあるのだなと漠然とであれ思えることは、すこし痛快でもあった。

 結果的に私は、当時の家族や学校での人間関係から蒸発するようにいなくなることを選ばなかった。でも、選ぶこともありえたんだよな、私たちは。そこは思いのほか紙一重なのではないだろうか。

 そんなことを思うのは、たんなるノスタルジーのせいでもない。いま私の出会う人たちのなかにも、「この人はかつて生まれ故郷からふらっとゆくえをくらましてきたのかな」と思われるひとも少なくはない。他者というのは、自分のかつて選ばなかった選択肢を選んだ人であったり、あるいは自分の生きなかった可能性をげんに生きているひとであったりもする。そういう他者と出会うことは、よろこばしいことでもある。




*1: 事故発生は1986年4月26日。
*2: たとえばヤフーニュースのコメント欄やSNSなどで、「不法滞在者は犯罪者だ! 強制送還しろ」というような書きこみをしているバカをみかけると、40年まえ私に「おめ、放射能ではげるど」と言ったその上級生を思い出す。上段から人を見下ろして「身のほどを知れ」といばりちらすために規則やルールが都合よく持ち出される例はしばしば観察されるところではある。しかし、そんなふうに人間関係に上下の差別をつけるということは、たんなる規則やルールの「悪用」の結果ということではなく、規則・ルールというものが避けがたくもたされてしまう機能なのではないか。

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