2024年8月23日

川口市議会の差別意見書を添削してみた


 1.立民、差別意見書に賛成した元市議を公認

立憲、衆院選に元川口市議を擁立 在日クルド人念頭の意見書に賛成:朝日新聞デジタル(2024年7月30日 20時44分)

 ↑の記事より、以下引用。


 立憲民主党は30日、次期衆院選の愛知15区に、新顔で埼玉県川口市の元市議、小山千帆氏(49)の公認内定を発表した。小山氏は、在日クルド人を念頭にした犯罪取り締まり強化の同市議会提出の意見書に賛成していた。多文化共生を重んじる党のスタンスと矛盾するとの指摘がネット上などで出ていた。


 そんな意見書を川口市が出してたのか? ということで、遅ればせながら一読してみたのですが……。これはひどい、とんでもないものでした。

 意見書は「一部外国人による犯罪の取り締まり強化を求める意見書」と題され、昨年6月29日付、川口市議会議長名で出されており、あて先は衆参両院議長、内閣総理大臣のほか、国家公安委員長や埼玉県警などとなっています。

 川口市議会のウェブサイトの以下のページ、「令和5年6月定例会」というところから、意見書のPDFファイルはダウンロードできます。歴史的に記録されるべき差別文書といえるものなので、スキャンした画像もはっておきます。

意見書 | 川口市議会

画像
「一部外国人による犯罪の取り締まり強化を求める意見書」


 この川口市議会の意見書が、人種差別を遂行しているものだということは、議論の余地がないくらい明白です。だから、この意見書に市議会議員として賛成した小山氏が公的に自身のその行為を自己批判して誤りをみとめたというのでないかぎりは、同氏を公認候補として擁立すると発表した立憲民主党がそのスタンスをきびしく批判されるのは当然のことです。

 ただそうは言っても、これがなぜ差別にあたるのかということを言葉にして言うことも大事でしょうから、多くの人もそれぞれの言葉でそれを語っているようですけれど、私もここに書いておこうと思います。



2.なぜ差別だと言えるのか?

 意見書は、「一部の外国人」が暴走行為や煽り運転をくり返しており、また窃盗、傷害などの犯罪行為も見すごすことができないとし、国や県、警察に対して、「一部外国人」の犯罪や交通違反などの取り締まりを強化せよと求めたものです。

 暴走や窃盗を問題にしたいのなら、端的にその行為を問題にすべきだし、取り締まりを強化しろと言いたいなら、そうした行為を取り締まれと言えばよい話です。暴走や煽り運転にしろ、窃盗や傷害にしろ、外国人もやるでしょうが、日本人だってやるのであって。「外国人の」犯罪を取り締まれなんて言う必要はない。たんに「犯罪を」取り締まれと言えばいいでしょう。そこに「外国人」などという属性をもちだしている点で、川口市議会の意見書は人種差別なのです。

 つまり、これは、差別的な権力行使を行政に対して主張・要求し、市民・住民の差別を扇動する、きわめて悪質な文書というべきです。



3.差別意見書を添削してみる

 では、この意見書は、どう修正すればよいのでしょうか。こころみに添削してみました。訂正線を引いたのは原文が差別的であるため消した部分、赤字は原文に私が加筆したところです。


議員提案第1号

一部外国人住民による犯罪の取り締まり強化を求める意見書

 現在、川口市には40,000600,000人を超える日本国籍および外国籍の住民がおり、加えて、住民票をもたない外国人の中には仮放免中の方も相当数いるものと推定されている。多くの外国人住民は善良に暮らしているものの、一部の外国人住民は生活圏内である資材置場周辺や住宅密集地域などで暴走行為、煽り運転を繰り返し、人身、物損事故を多く発生させ、被害者が保険で対応するという声がある。すでに死亡事故も起こしており、看過できない状況が続いているが、事態が改善しないのは、警察官不足により、適切な対応ができていないものと考えている。

 また、新聞報道にある窃盗、傷害などの犯罪も見過ごすことはできない。

 現在、地域住民の生活は恐怖のレベルに達しており、警察力の強化は地域の治安維持のためにも緊急かつ必要不可欠となっている。このような一部外国人住民の行為は、その他多くの善良な外国人住民に対しても差別と偏見を助長することとなっており、到底見過ごすことはできない。

 このことから、この度、地域の窮状を伝え緊急的に解決を図るため、以下要望する。

1 警察官を増員し、一部外国人の犯罪の取り締まりを強化すること

2 資材置場周辺のパトロールを強化すること

3 暴走行為等の交通違反の取り締まりを強化すること

  以上、地方自治法第99条の規定にもとづき、意見書を提出する。

     令和52023年6月29日

(以下略)


 どうでしょうか。「このような一部外国人住民の行為は、その他多くの善良な外国人住民に対しても差別と偏見を助長することとなっており」というくだりなどは、修正したことで意味不明になってしまっていますが、「外国人」という語を正しく「住民」に置きかえることで、全体として元の意見書にあった差別的な効果はほとんど(「完全に」とは言いませんが)消えているのではないかと思います。

 この修正後のような意見書ならば、わざわざ市議会で議決をとって国や警察などに提出するなどということはなされなかったのではないでしょうか。この意見書を決議した者たちにとっておそらく重要だったのは、「外国人」をトラブルメーカー、善良な住民にとっての脅威として描き出すことであって、添削後のような意見書ではそうした趣旨にはそぐわないのでしょう。



4.「これは差別ではない」との言い訳

 もっとも、差別しようとする対象を指す言葉(「外国人」「クルド人」など)を直接には使わずに表現において差別を遂行するということも、その表現を受け取る者たちが共有する文脈によっては可能です。たとえば、いま問題にしている川口市議会の意見書も、「外国人」という語を使いこそすれ「クルド人」とは言ってないわけですけれど、クルド人住民を念頭において問題にしている文書であることは、文脈上あきらかです。

 読み手は、「住民票をもたない外国人の中には仮放免中の方も相当数いるものと推定され」うんぬんとか「一部の外国人は生活圏内である資材置場周辺や」といったくだりで、意見書がクルド人住民について述べているものだとわかるわけですが、それが「わかる」のは、なぜでしょうか。これまで産経新聞のような差別をあおることを商売にしているゴミ新聞のゴミ記者などがクルド人差別を扇動するゴミ記事を書きちらかしてきたからです。この意見書を読む者も、そうしたゴミがばらまいてきた差別的な言説によって形成された文脈を共有していれば、「外国人」の語がとくに「クルド人」を念頭において使われていることが了解できるわけです。

 これとおなじ理屈で、この意見書も、(上で私が添削し修正したように)「外国人」とは言わずに「住民」などの語を使えば、差別であることをまぬがれられるとは、かならずしもいえません。ある文書が差別的な効果をもつかどうかは、その表現がなされる文脈との関係できまるからです。

 また、差別は、「これは差別ではない」という言い訳・弁明をしながら遂行されることがしばしばあります。川口市議会の意見書が「一部の外国人」という言葉をもちいているのも、それです。「多くの外国人は善良に暮らしている」などと、わざわざ書いてもいます。外国人の全体を問題にしているのではない、だからわれわれのやっていることは差別ではない、と言いたいのでしょう。

 しかし、そうした言い訳・弁明をしようと、「住民」といえばすむことをわざわざ「外国人」の問題だとしている点で、意見書がその表現において差別を遂行していることは客観的にあきらかです。そのことをわかりやすく示すために、上のような添削をしてみたわけです。


5.「警察力の強化」のために差別を利用している

 ただし、この添削によって、わたしは「こう書けばよかったのに」という改善案・対案のようなものを示したかったわけではありません。添削といっても、ここでやっているのは、たんに「外国人」を「住民」という言葉に置きかえるという単純な操作にほとんどすぎないわけですが、こうした操作によって元の意見書のおかしさというのが、うかびあがってくるように思います。

 添削後の意見書は、ひどく間抜けな感じがします。警察官を増員しろとか、犯罪の取り締まりを強化しろとかを要求する内容ではあるものの、なぜそうしなければならないのかという必要性・切迫性があまり伝わってこないのです。

 警察権力をもっと強大にする必要があるという言説が説得力をもつのは、われわれの外部にわれわれをおびやかす深刻な脅威が存在していると信じられるときです。外からくる脅威からわれわれを守る警察権力を強化しなければならない、というわけです。こうした思考においては、警察権力がわれわれをおびやかすことはなく、もっぱらその力は外部からくる他者に対してのみもちいられるというフィクションが無邪気に信じられています。

 オリジナルの意見書では、「一部外国人の行為」によって「地域住民の生活は恐怖のレベルに達しており、警察力の強化は地域の治安維持のためにも緊急かつ必要不可欠」だという論理になっています。害をなす「一部外国人」と善良な「地域住民」が対照されて、前者が後者をおびやかすから「警察力の強化」が必要だというわけです。

 ところが、添削後のように「一部外国人」を「一部住民」に置きかえてしまうと、そうした対照・対立の図式がぼやけてしまいます。「住民」のあいだになにかトラブルが生じているというだけの話になり、なんで「警察力の強化」が必要なのか、よくわからなくなります。

 結果的に警察力でもって介入する必要がでてくることもあるかもしれないですが、いきなり一足飛びでそういう話になるのは論理の飛躍もいいとこでしょう。「住民」どうし話し合うことで解決することだってできるかもしれないし、警察力でなくても第三者が仲介してトラブルを解決するという可能性もあるかもしれない。

 こうみてくると、なぜ川口市議会の意見書をつくった人たちが、たんに「住民」のあいだで生じていると言うべき問題を、「外国人」のもたらしている問題であるとして描き出さなければならなかったのか、わかってきます。そうしないと、「警察力の強化」が必要であるという論理をみちびきだすことができないからです。

 今回の川口の意見書は、市の側から国や警察に対して、外国人に対する取り締まり強化と警察力の強化を要求するというものではありました。しかし、国というものは、「外国人」の存在を脅威であるとして描き出し、つまりマジョリティ住民の「外国人」住民に対する差別感情をあおることで、警察権力の強化やその行使を正当化するということをこれまでしてきたのだということを、見落とすわけにいきません*1。川口市議会の意見書は、国がこうしてしばしばおこなってきた、統治のために差別を扇動し、差別を利用するということを是としているという点で、けっして容認できるものではありません。



*1: 一例として、以下の記事で言及した、法務省入国管理局、東京入国管理局、東京都、警視庁の四者による「首都東京における不法滞在外国人対策の強化に関する共同宣言」(2003年10月)をあげておく。 



関連記事


2024年8月13日

【転載】福岡入管死亡事件 8/20裁判傍聴の呼びかけ(大阪地裁)


 2018年11月に福岡入管に収容されていた中国人男性が死亡した事件。その娘さんが国に賠償を求めた裁判が、重要な局面をむかえています。お父さんを亡くした原告、それから当時の福岡入管の職員(統括警備官)の証人尋問がおこなわれます。

 ということで、傍聴がよびかけられています。


【傍聴呼びかけのチラシ(クリックで拡大)】













 以下、画像(↑)の傍聴呼びかけのチラシより。


◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  


福岡入管死亡事件 証人尋問

8月20日(火)

11時~夕方

大阪地裁本館 202号法廷(→地図

大阪メトロ・京阪本線

淀屋橋駅/北浜駅 徒歩10分



訴え

 2018年10月中旬、ルー・ヨンダー、ルー・リーファ父娘は難民として保護を求め、中国から来日しました。ところが、福岡入管は父娘を収容して帰国するようせまりました。収容中にヨンダーさんの持病が悪化、娘のリーファさんはお父さんの治療を求めましたが、入管は適切な診療を受けさせずに放置。11月初旬、ヨンダーさんは死亡しました。

 2020年12月、娘のリーファさんは国に賠償を求め提訴。いま大阪地裁での裁判は大詰めをむかえ、原告のリーファさん、そして福岡入管職員の尋問が開かれます。



難民を追い返す入管行政

 日本は1981年から難民条約に加盟しており、難民を保護する義務があります。

 しかし、福岡入管は、ルーさん父娘に対して当初4日間にわたって申請用紙の交付を拒否して帰国をせまり、難民申請を妨害しました。

 ルーさんたちが粘り強く求めてようやく開始された難民手続きが、短期間かつ収容(監禁)下においておこなわれた点も問題です。リーファさんは難民申請から39日後に難民不認定の通知を受けています。通信の自由がいちじるしく制限された収容場で、しかもこんな短期間で、自分たちの難民性を立証する資料を収集するなど不可能に決まってます。ルーさんたちはUSBメモリで自分たちの難民性を主張する根拠となる多くのデータを持っていましたが、これも収容下のため印刷するなどして提出することができませんでした。

 不当な収容(監禁)によって難民申請者の立証作業を妨害し、保護を求めてやってきた難民を追い返そうとする。ルー・ヨンダーさんの死は、こうしたゆがんだ入管行政の結果でもあります。



《ご案内》

  • 202号法廷は、正面玄関入ったところの階段を上がってすぐです。エレベーターもあります。
  • 裁判所の建物に入る際には、手荷物検査があります。
  • 11時開始ですが、間に合わなくても傍聴できます。傍聴席では着席して傍聴します。
  • 傍聴席の出入りは自由です。


裁判終了後、裁判所敷地南側にて、担当の弁護士から、今日の解説があります(予定)。弁護士をはじめ、原告本人やこの事件にずっとたずさわってきた人たちも集まりますので、質問をしたり交流したりできます。




2024年8月8日

差別主義者の設定した論点であらそわなければならないという不条理


  外国人を生活保護の対象外とした東京高裁判決について。以下、SNSなどでほえてる右翼が言うような、とんでもない言いぐさですが、裁判官なんだそうだ。


 松井英隆裁判長は判決理由で「政治判断により、限られた財源の下で自国民を在留外国人より優先的に扱うことも許容される」と述べ、在留外国人を生活保護法の適用外とする最高裁判例を踏襲。「生活保護法が一定の範囲の外国人に適用される根拠はない」と指摘した。

 原告側は控訴審で「少なくとも住民票を有するなどの一定の外国人には保護を認めるべきだ」と主張したが、判決は「外国人を公的扶助の対象とするかは立法府の幅広い裁量に委ねられる」と退けた。

[生活保護、また認められず…重病のガーナ人男性落胆 東京高裁「限られた財源で自国民優先は許容される」:東京新聞 TOKYO Web](2024年8月6日 21時08分)


 外国籍の住民にも日本国民同様に納税の義務を課すくせに、「限られた財源」を理由に自国民優先を正当化するのなら、その政府は端的に言ってどろぼうである。どろぼうもそれをやるのが政府ならばお墨つきをあたえてくれるのが、この国の裁判所なのだということらしい。くさりきってますね。

 住民の生活保護申請に対し国籍を理由に却下した自治体(千葉市)の対応が差別であるのは、明白だ。本来ならば、そこに議論の余地などない。

 念のため言っておくと、そうした取り扱いを指示あるいは容認するような法令なり通達なりがあるならば、それらも差別と言うべきであって、そこにも本来ならば議論の余地はない。


◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


 議論すること自体が差別主義にもとづかなければ不可能であったり、議論の余地があるかのようにふるまうことそのものが差別の遂行にほかならなかったり、ということがある。

 たとえば、このブログでもまえに批判したが、国民民主党代表の玉木雄一郎が「まずは外国人の人権について憲法上どうするのか議論すべきで、そういう議論がなく拙速に外国人にさまざまな権利を認めるのは、極めて慎重であるべきだ」と発言したことがあった。

 ここで玉木が言っているのは、外国人の人権を認めるかどうかは自明ではなく、議論の余地があり、議論する必要があるのだということである。

 いやいや、そんなん、議論の余地ないでしょ。外国人に人権があるのは自明だし、自明でなければならない。そんなこと議論しないとわからないとか言う人がいたら、その人の考えがやばいです。

 玉木のような人は、「外国人には人権がある」という自明な、また自明でなければならない命題について、議論の余地があるかのようにほのめかし、これに留保をつけようとする。こうした行為自体が、差別の遂行と言うべきだし、聴衆にむけての差別の扇動でもある。


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 話をもどすと、生活保護をめぐる裁判の控訴審で敗訴した原告が、生存権を保障されるべき存在であること、また国籍を理由にそのことを否定するのは差別であるということは、自明だし、自明でなければならない。そこに議論の余地は本来あってはならない。原告ご本人と弁護団は、この裁判で大変な労力をかけて千葉市の処分が違法だということを裁判で立証してこられたのだと想像するけれども、そうした苦労を原告側が負わなければならないということも、とてつもなく不当なことではないだろうか。

 まあ、そんなことを言ってもしょうがないではないかと言われるかもしれないし、そう言われるとそうかもなとも思うのだけど。ただ、本来はとてもシンプルな話で、「千葉市は差別やめろ」のひと言ですむはずなのだ。その本当は簡単なはずの問題が、なぜか裁判でおびただしい量の書面が原告・被告双方からとびかう、ややこしい話になっているというところに、私たちは異常さをもっと感じ取らなければならないのではないか。差別主義者の設定したバカげた論点であらそわなければならないという不条理。


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 たとえば、つぎのような問題が「問題」として議論されるような世界があるとすれば、その世界は野蛮である。しかし、こうした問いが発せられるということそのものが野蛮であるということを、私たちは自明な常識として共有しているんだろうか。

「外国人の人権を認めるべきかどうか?」「女性の人権をどの範囲まで認めるべきか?」「障害者に人権はあるか?」「セクシュアルマイノリティの人権を認めてもよいか?」。

 これらの問いを議論の余地のある「問題」かのようにあつかうこと自体が恥ずべきことであるのと同じで、つぎのような問いを論じるにあたいするまともな「問題」とすることも恥ずべきことである。

「政治判断により、限られた財源の下で自国民を在留外国人より優先的に扱うことは許容されるか?」

 東京高裁の松井英隆裁判長は恥を知るべきであろう。

 なお、「限られた財源」をこうして口実にすることがゆるされるなら、国籍差別にとどまらず、あらゆる差別的なとりあつかいが許容されることになる。こんな屁理屈が通用してもよいとするなら、どんな差別であれ正当化できることになる。そんな屁理屈を判決文に書きこんでしまうような裁判官の存在が、日本という国の野蛮さをあらわしている。


2024年7月23日

【読書ノート】デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』


 2020年に日本語版が刊行されてから、読もうと思いつつその分量の分厚さにおじけづいて(本文と注で400ページぐらいある)手を出せずにいたのだが、近所の図書館で借りてきてようやく読みました。刺激的な論考でした。


『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』
著者:デヴィッド・グレーバー
訳者:酒井隆史, 芳賀達彦,森田和樹
2020年7月29日, 岩波書店 発行










 本書の執筆は、2013年にグレーバーがウェブ上に公開した「ブルシット・ジョブ現象について」という小論がきっかけとなっているとのこと。英語で書かれたこの小論が大きな反響を呼び、またたく間にさまざまな言語に翻訳された。グレーバーのもとには、たくさんの人から自分のやっている仕事もまさにブルシット・ジョブであるとの声が寄せられたそうだ。本書では、そうして集まったインフォーマントのブルシット・ジョブ体験を読めるのも興味深い。

 グレーバーの問題関心は、その「ブルシット・ジョブ現象について」(7ページほどの分量。本書の序章にも掲載されている。本書の出版元の岩波書店のサイトから「試し読み」で全文読めるようになっています)に凝縮されている。

 この小論は、ケインズの予測がなぜ実現されなかったのかという疑問から始められている。1930年にケインズは、20世紀末までに英米などでは、テクノロジーの進歩によって週15時間労働が達成されるだろうとの予測を書いている。テクノロジーの観点からすればあきらかに達成可能なこの予測が実現されていないのは、なぜなのか。

 「消費主義の大幅な増大」のせいではない。つまり、テクノロジーの飛躍的な進歩にもかかわらず、労働時間の大幅な短縮がなされなかったのは、私たちが「労働時間をもっと少なく」ということよりも「おもちゃと娯楽をもっと多く」という選択肢を選んだことの結果ではない。グレーバーは、前世紀を通じて、工業や農業部門で自動化が進み、そこで働く人が劇的に減少する一方、「専門職、管理職、事務職、販売営業職、サービス業」にたずさわる働き手の数と比率が飛躍的に増加していることを指摘している。


 しかし、労働時間が大幅に削減されることによって、世界中の人びとが、それぞれに抱く計画(プロジェクト)や楽しみ、あるいは展望や理想を自由に追求することが可能になることはなかった。それどころか、わたしたちが目の当たりにしてきたのは、「サービス」部門というよりは管理部門の膨張である。そのことは、金融サービスやテレマーケティング〔電話勧誘業、電話を使って顧客に直接販売する〕といったあたらしい産業まるごとの創出や、企業法務や学校管理・健康管理、人材管理、広報といった諸部門の前例なき拡張によって示されている。(中略)

 これらは、わたしが「ブルシット・ジョブ」と呼ぶことを提案する仕事である。

 まるで何者かが、わたしたちすべてを働かせつづけるためだけに、無意味な仕事を世の中にでっちあげているかのようなのだ。そして、謎(ミステリー)があるとしたらまさにここなのである。資本主義においては、こんなことは起きようがないと想定されているのだから。[4-5ページ]


 市場での競争のメカニズムにおいては淘汰されるはずの無意味で役に立たない仕事がますます増殖しているという事態は、たしかに謎である。グレーバーは、ブルシット・ジョブが増大しているのは、政府の官僚機構よりもむしろ民間の企業の管理部門においてであることも指摘している[215-8ページ]。

 いわば、市場メカニズムなるものは均等に働いているのではない。現に、それが働いているとはとうていいえない領域があるのだ。


 企業による容赦のない人員削減がすすめられるなかで、解雇と労働強化がふりかかってきたのは、きまって、実際にモノを製造し、運送し、修理し、保守している人びとからなる層(クラス)であった。けれども、だれもまったく説明できない不思議な錬金術によって、有給の書類屋(ペーパー・プッシャー)の数は、結局のところ増加しているようにみえる。そして、ますます多くの被雇用者、気がつけば、ケインズが予測したように週15時間を効率的に働くどころか――実際には、ソ連の労働者たちと大して変わらず――週に40時間、あまつさえ50時間も書類作成にいそしみ、そして残された時間を自己啓発セミナーの開催や出席、Facebook のプロフィール更新、TV番組のボックス・セットのダウンロードに費やしているのである。[5ページ]


 グレーバーは「実際にモノを製造し、運送し、修理し、保守」するような「実質のある仕事(リアル・ジョブ)」を、ブルシット・ジョブと対比させている。本書では、後者がこれに従事する人に与える精神的悪影響が当事者の証言をもとに分析される一方で、前者の仕事やそれに従事する人が低い評価しか与えられないのはどうしてなのかということが論じられている。この2つを連続した問題としてとらえ論じているところが、本書の刺激的なところだ。以下も、小論「ブルシット・ジョブ現象について」の一節。長くなるが引用する。


 ここには深遠なる精神的暴力がひそんでいる。自分の仕事が存在しないほうがましだとひそかに感じているようなとき、かりそめにも労働の尊厳について語ることなど、どうしてできようか。深い怒りと反感の感覚を生み出さずに、どうしていられようか。とはいえ、その支配者たちが、人びとの怒りの矛先をまさしく意味のある仕事をする人たちへと仕向けることでうやむやにしてきた(中略)というのは、わたしたちの社会の奇妙な風潮である。たとえば、わたしたちの社会では、はっきりと他者に寄与する仕事であればあるほど、対価はより少なくなるという原則が存在するようである。くり返せば、[他者に寄与する仕事であるかどうかを評価するための]客観的な尺度をみつけることは困難である。しかし、なんとなく感じとるための簡単な方法はある。ある職種(クラス)の人間すべてがすっかり消えてしまったらいったいどうなるだろうか、と、問うてみることである。かりに看護師やゴミ収集人、あるいは整備工であれば、もしも、かれらが煙のごとく消えてしまったなら、だれがなんといおうが、その結果はただちに壊滅的なものとしてあらわれるであろう。教師や港湾労働者のいない世の中はトラブルだらけになるだろうし、SF作家やスカ・ミュージシャンのいない世界がつまらないものになるのはあきらかだ。ただ、プライベート・エクイティ〔特定の企業の株を取得し、その企業の経営に深く関与して、人員削減などによって企業価値を高めた後、売却することで利益を得る〕CEOやロビイスト、広報調査員、保険数理士、テレマーケター、裁判所の廷吏、リーガル・コンサルタントが同じように消え去ったとして、わたしたちの人間性がどのような影響をこうむるのかは、わたしにはあまりはっきりしない(いちじるしく改善するのではないかと疑っている人間は数多い)。にもかかわらず、もてはやされる一握りの例外(医師)を除いて、この原則はおどろくほど当てはまっている。

 さらにいっそう倒錯したことに、これが物事のあるべき姿だという感覚が広範に浸透しているようにみえる。これが右翼ポピュリズムの力強さのひとつの秘密だ。こうした感覚を、労働争議のさいにロンドンを麻痺させたとして、地下鉄労働者への怒りを複数のタブロイド紙が煽り立てた事例にみることができる。すなわち、地下鉄労働者がロンドンを麻痺させることができるというまさにその事実こそ、まさしく人びとを苛立たせた一因であるようなのだ。共和党議員が学校教員と自動車工に対する反感を動員することに反感を動員することにいちるしい成功をおさめてきたアメリカでは、それはいっそうはっきりしている(そして意味深なことに、この反感が、実際に問題を生じさせている学校管理者(スクール・アドミニストレータ―)や自動車産業の経営陣(エグゼクティヴ)に向けられることはなかった)。「だって、きみたちは子どもたちに勉強を教えることができるじゃないか! 車の製造ができるじゃないか! このうえ、あつかましくも中産階級なみの年金や医療まで期待するというのか?」と、いわんばかりに。[7-9ページ]


 ここであげられているような「実質のある仕事」に対する怒りや反感は、日本でもなじみのあるものだし、そうした怒りや反感を右派ポピュリストが扇動する光景も、たとえば大阪市長だった橋下徹の市バス運転手への攻撃(ググってみたら2012年のことだって。そんなに前の話だったか。運転手をその年収が高すぎると言って攻撃し、市バスの民営化を主張した)などが思い当たる。最近では、東京で若年女性を支援する活動をおこなっている団体Colaboに対する攻撃などが、同様の怒りと反感によって駆動されている事例としてあげられると思う。あきらかに有意義な仕事をしている人たちに対するこうした怒りや反感をいだく者たちは、その人たちが「分不相応に報酬なり利益なりを受け取っている」というフィクションに憎しみをつのらせている。「運転手のくせに」「慈善事業をやってるくせに」利益を受け取っている(ようにみえる)のはケシカラン、というわけだ。

 グレーバーは、「これらの影響[ブルシット・ジョブの普及の精神的・社会的・政治的影響]は、性質(たち)の悪い深刻なものだと、わたしは確信している。無益な雇用の罠にはめられたおかげで、社会で最も有益なことをおこなっている人びとや見返りを求めない仕事に就く人びとに対して、人口の大半が反感を抱いたり軽蔑してしまう社会を、わたしたちはつくりあげてしまった」とも書いている[23-4ページ]。

 このようにブルシット・ジョブの増殖と、「ブルシット」ではない仕事が低く評価され、それどころかそれに従事する人びとに反感・嫉妬がむけられるという事態を、連続した問題としてとらえた議論が展開されているところが、わたしには興味深かった。

 われわれは、わたしたちが想定しているほど利己的ではない。というか、他者にかかわってよき(と自分が考える)影響をあたえたいとか、自分だけでなくわたしたちにとって生きやすいように社会がかわっていくように働きかけたいとか、そうした欲求がわれわれにとってわりと本質的なのではないか、ということ。だから、ブルシット・ジョブに自分の人生の時間を浪費せざるをえない経験は、高い報酬をもらっていてもたえがたい苦痛をもたらしうる。

 ちなみに、本書では第1章をつうじて、「ブルシット・ジョブ」の定義をねりあげていく作業がなされているのだが、それは最終的にはつぎのように定義される。


最終的な実用的定義=ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。[27-8ページ]


 われわれにとって、自分のなしていることが「完璧に無意味で、不必要で、有害でもある」と考えざるをえないのはたえがたいことであって、だからこそブルシット・ジョブは「そうではないと取り繕わなければならないように感じ」られるものなのだろう。だからこそ、ブルシット・ジョブがブルシット・ジョブとして語られることは、グレーバーによって「ブルシット・ジョブ現象について」が書かれるまでは稀(まれ)だったのだろうし、それについて直接に語ることが抑圧されるからこそ、そのたえがたさは、「実質のある仕事(リアル・ジョブ)」に従事する者への怒りや反感としてあらわれるのではないか。そういった怒りや反感をむけられる側からすればたまったものではないが。

 もっとも、橋下の市バス運転手への攻撃に喝采を送ったり、ツイッターにかじりついてColabo攻撃にいそしんだりしている人たちというのは、ブルシット・ジョブに従事している人ばかりではない、というのもおそらく事実である。だから、問題なのは、実際にブルシット・ジョブに従事している、あるいは従事したことのある人だけではなく、もっと広く社会的に共有されてしまっているものの見方(「イデオロギー」と呼んでもよいだろう)なのだ。さらにいえば、重要なのは、そのものの見方を人びとが受け入れるのはなぜなのか、という問題である。

 さて、本書は、終わりの第6~7章でケア労働、そしてベーシックインカムをめぐる議論へと収束していく。これはとても示唆的だと思った。そうだよねー、やっぱそこを論じないとだよねー、という納得感があった、というか。

 ベーシックインカムについてはここでは立ち入らないが、ケア労働についてちょっとだけ触れておきたい。

 グレーバーは、第6章で「仕事それ自体に関する観念の変遷史を考察」しながら(考察されるのは西欧や北米の歴史なのだが、そこでの議論は日本における「仕事」観にも共通している部分がかなり大きいと感じられた)、われわれの仕事に関する観念にはケアリングの要素が欠落しているということを見いだしていく。

 さきのロンドンの地下鉄労働者の争議をめぐり、「公共交通機関の労働者たちが実際にはなにをやっているのか」[306ページ]にグレーバーは目を向けている。電車の遅延や事故、事件があったときの乗客への対応は、自動化・機械化するのが難しい仕事であろうが、これらをになっているのは労働者である。また、ロンドン地下鉄の労働者が削減された場合に大きな影響を受けるのは、障害をかかえていたり、ロンドンにうとかったり、小さな子どもや高齢であったりする乗客なのだ。


 このようにみるならば、地下鉄労働者が実際におこなっていることは、フェミニストが「ケアリング労働」と呼ぶものにかなり近いものである。それはレンガ職人よりも看護師の仕事のほうに共通点を多くもっているのだ。女性の不払いケアリング労働が「経済」についての説明から抜け落ちているのと同じように、労働者階級の仕事におけるケアリングの側面はみえなくなっている。ケアリング労働にかんするイギリス労働者階級の伝統は、労働者階級の生み出した大衆文化に表現されているといえるかもしれない。たとえば、労働者階級の人びとがたがいに励まし合う独特の身ぶりや様式、調子は、イギリスの音楽、コメディ、児童文学のうちにすべて反映されている。しかし、それ自体は価値創造的な労働として認識されていないのである。[307ページ]


 このように仕事におけるケアリングの側面が認識から抜け落ちることと、「実質のある仕事(リアル・ジョブ)」が低くしか評価されないという事態はつながっている。

 さらに、それはたんに認識の問題ではない。ケアリングという観点に着目することで、「実質のある仕事(リアル・ジョブ)」が低く評価され、軽蔑さえされるという現象がどのような社会的な関係性のもとで生じているのかという問題にも接近することができる。またまた長くなってしまうが引用する。

 「ケアリング労働」は、一般的に他者にむけられた労働とみなされており、そこにはつねにある種の解釈労働や共感、理解がふくまれている。それは仕事などではなく、たんなる生活、まっとうな生活にすぎないということも、ある程度は可能である。人間は元来、共感する存在であり他者とコミュニケーションし合うものであるがゆえに、わたしたちは、たえずたがいの立場を想像してそこに身を置き、他者がなにを考え、なにを感じているか、理解しようと努めなければならない。たいてい、こうしたことは、少なくともいくぶんかは他者に対するケアをふくんでいる――ところが、共感や想像的同一化が総じて一方の側に偏しているようなとき、それは多分に仕事(ワーク)となる。商品としてのケアリング労働(レイバー)の核心は、一方だけがケアをして、一方はしないという点にあるのだ。「サービス」(古い封建制に由来するこの語がいまも残存していることに注意せよ)に対価を払う人びとは、みずからは解釈労働に従事する必要がないと感じている。このことは、だれか別の人間のために働いているようなときは、レンガ職人にすらあてはまる。部下はたえず上司の考えていることを把握しなければならないが、上司は部下たちが考えていることを気にかける必要はない。心理学の研究においてしばしば示されるように、労働者階級出身の人びとが、富裕層出身はもとより中産階級出身の人びとよりも、他者の感情の理解や共感や配慮(ケア)に長じているのは、このためである。他者の感情を読むスキルは、いくぶんかは労働者階級の仕事の内容がもたらしたものである。要するに、富裕な人びとは解釈労働の方法を学ぶ必要がない。というのも、他人を雇い入れて解釈労働をやらせればよいからである。他者の考えを理解する習慣を深めなければならない雇われ人は、同時にその他者を気遣う(ケア)傾向にあるのである。[307-8ページ]


 社会が水平的でなく階級的に編成されているならば、ケアをたくさんしなければならない人間がいるいっぽうで、他人からたくさんケアを受けるが自分は他人をあまりケアする必要のない人間がでてくる。後者の人間は、他人をケアしないばかりではなく、自分自身のケアすら(他人にたくさんやらせるのだから)自分ではあまりやらないということになるだろう。

 こうして社会が平等でない、ということによって、人間のやっている仕事のケアリングの側面はますます見落とされ、「実質のある仕事(リアル・ジョブ)」はますます低くしか評価されない、という状況が強化されているのではないだろうか。

 引用ばかりしてますが、この読書ノートの最後も引用でしめます。


 ところがふつう、「生産的」であるということは、自動車やティーバッグ、医薬品などが、女性が赤ん坊を生産するのと同様の痛みに満ちた、どこかミステリアスである「労働」を介して工場から「生産される」という、魔術的変容のことを意味している。そして、労働の価値をそれが「生産的」であるかどうかで考えること、生産的労働の典型を工場労働として考えることは、こうした〔ケアにかかわる〕すべてを抹消してすませてしまうことである。さらにいえば、こういう発想があるから、工場所有者はいともたやすく、労働者は実際にはかれらの操作する機械となんら変わるところがないと考えることができるのである。これはあきらかに、「科学的管理法」と呼びならわされるようになったものが発展するにつれ、いっそう容易になった。だが、人びとが「労働者」と聞いて、料理人や庭師や女性マッサージ師を思い浮かべるようであれば、そのようなことは起こりえなかっただろう。[308ページ]


2024年6月8日

6/10の改悪入管法施行にむけて 反対運動の私的記録


 6月10日に昨年可決成立した改悪入管法が全面施行されます。

 難民申請中は強制送還が停止されるという規定に例外がもうけられる、また監理措置制度の創設など、非常に問題ぶくみの法改悪です。

 昨年の6月9日にこの改悪法が強行採決によって可決されるまで、反対運動の大きな盛り上がりがありました。改悪法の可決はゆるしたものの、国会やマスメディアもまきこんで、強力な反対運動が展開されたことは、多様な視点から記録されることが重要なのではないか。そうした記録が、改悪法施行後に強まることが危惧される人権侵害に今後対抗していくうえで、参照される価値がでてくるのではないだろうか。

 そんなことを思い、1年ほどまえに、私なりに入管法改悪反対運動をふりかえって書いた文章をこのブログに再録することにしました。

 昨今では、SNSに社会運動の膨大な量の記録がなされているでしょうが、それらはあとから参照されるのに不向きだと思われるし、おそらくそう長くない期間で消えてしまうのではないでしょうか。

 以下は、『人民新聞』(2023年7月5日号)に掲載した文章の元原稿です。掲載されたものは、校閲等をへて元原稿と少し変わっているところがあるかもしれないし、編集部がつけた写真や見出し等もあるのですが、ここにはオリジナルの原稿のままのせます。



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  6月9日、参議院本会議で入管法改悪案が可決・成立した。議席数で圧倒的にまさる与党(自公)および一部野党(維国)が賛成しての可決であった。

 しかし、街頭など国会外での反対運動は入管問題では近年例がないほどの盛り上がりをみせた。また、これに呼応するように国会審議でも、特に参院へ法案が送られて以降、野党の法務委員(立民・共産・社民)が奮闘し、議論の内容では政府側を圧倒していた。

 この間の国会審議、メディア報道、弁護士や支援者の活動、SNSや街頭等での議論を通じて、今回の法案の問題点はもとより、ウソと隠蔽とゼノフォビアにまみれた入管の組織体質、でたらめな難民審査のありようなどが次々と暴露され、多くの人の知るところとなった。難民申請者や非正規滞在の外国人の人権状況をますます悪化させる改悪法案は通してしまったが、今後の闘いにいきる糧を多く得られたのも事実である。本稿では、今回の入管法改悪反対の運動を振り返るととともに、今後の闘いへの展望を私なりに述べたい。

 もっとも、私が観測できたのは大きく広がった運動のごく一部にすぎない。私自身は「入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合」(以下「市民連合」)の事務局に属する位置から、この改悪阻止の運動にコミットした。組織に属して動いてきた身からすると、今回の入管法改悪反対の運動は、予測・観測しうる範囲を大きく超えて拡大していた。SNS等をつうじたスタンディング・アクションなどの全国各所へ瞬く間に広がっていくさまは、(組織化されていないという意味で)自然発生的なもののようにもみえた。


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 さて、今回の入管法改悪の問題点は様々にあるが、ここでは最大の問題として危惧されている一点だけ述べる。入管法では、難民条約で規定されたノン・ルフールマン原則(迫害の危険のある国への送還を禁止する原則)にもとづき、難民申請者の送還は停止されることになっている。今回の改悪はこの送還停止効に例外をもうけ、3回目以降の難民申請者などを送還可能にするものである。

 この点をはじめ、今回の改悪は入管が送還をより強力に進めるための内容がいくつも含まれている。そして、この改悪法案は、2年前の2021年の5月に反対運動の盛り上がりに直面して廃案となった法案とほぼ同内容のものであった。

 しかし、私たちはこの改悪法案がいずれ再提出されてくるだろうことは、21年にそれがいったん廃案となった時点で予期していた。そして21年3月6日に名古屋入管に収容されていたウィシュマ・サンダマリさんが医療放置により見殺しにされた事件が、日本社会から忘れ去られ風化してはならない。そこで、入管問題等に取り組む団体や個人が集い「ウィシュマさん死亡事件の真相究明を求める学生・市民の会」を結成。同年7月から、ウィシュマさんが亡くなるまでの状況を記録した監視カメラ映像の開示や事件の再発防止を求める署名運動を開始し、同趣旨での集会や全国一斉での街頭行動などにも取り組んだ。

 同年12月には、この「学生・市民の会」を前身に、全国の団体・個人に呼びかけて前述の市民連合を結成した。市民連合は、ウィシュマさん事件の真相究明に引き続き取り組むと同時に、きたるべき入管法改悪案の阻止も運動の大きな柱とした。全国的な街頭行動の呼びかけや主催、ハッシュタグデモなどSNSの活用、オンラインも含めた集会・学習会の開催、入管問題を解説したパンフレットの作成・配布、署名運動等に取り組んできた。

 結果的には、2022年の通常国会と臨時国会とにおいて、政府の改悪法案提出は2度にわたり見送られることになった。とりわけ重要だったのは、「ウィシュマさん事件真相解明のための9・4全国アクション」である。全国10か所で各地の団体がデモやスタンディング等を主催し、総計500名が参加し、同時にツイッターでのハッシュタグデモも行なった。直後の9月7日、マスコミ各社は政府が法案再提出を見送ったと一斉に報じた。

 このように21年5月の廃案後も、市民連合は同様の法案の再提出を警戒して運動の継続・持続を図ってきた。それは2度にわたり国会での法案提出が阻止されたこと、またウィシュマさん事件への市民の関心が風化せず持続したことに、少なからず寄与したのではないか。また今年に入っての法案再提出後の、自然発生的にもみえた反対運動の盛り上がりも、この間の各所での地道で持続的な取り組みを養分として成長したということも、いくぶんかは言えよう。


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 今年に入ると、政府の改悪法案提出の動きが顕在化し、これに反対する運動も本格化した。いまだ法案が提出されてない2月中旬から東京と大阪で毎週定例の街頭行動が開始し、3月7日の法案提出、4月13日の衆院での審議入りをへて、これらの行動の参加人数は増していき、大都市以外でも各所にスタンディング等の行動を始める人たちが現れた。

 それらの担い手も多様化し、難民等の支援者・支援団体のみならず、弁護士の有志たち、ふだんは労働運動など他分野に取り組んでいる個人や団体、さらにSNSや報道を通して関心をもった市民などが次々と街頭での行動を始めた。児玉晃一弁護士がツイッター等での予告・報告を集計したところによると、勇気を出して一人で地元の街頭に立ったというものも含め、全国147か所で改悪反対のスタンディングが行われた(6月22日時点)。

 国会で改悪法案は可決成立したわけだが、その結果だけではなく、こうした運動の盛り上がりが国会審議にどう影響したのかをみることが、今後の闘いの展望を描く上で大切だ。

 2点指摘したい。1つは、議会の外での市民の闘いが、密室での談合で政府側に妥協しようとした一部野党議員をけん制し、野党を市民との共闘に引き戻したことである。

 衆議院では、自公維国のみならず立憲までもが加わって法案の修正協議がもたれた。与党の提示した「修正」案とは、3回目以降の難民申請者の送還を可能にする等の条項はそのままで、難民審査を行う第三者機関の設置を「検討する」との「付則」を加えるといったものだった。難民を死地に追い返す規定は残したまま。第三者機関についても期限を切って設置を義務づけるものではない。「検討する」との空文句が、本文でなく「付則」に書かれるにすぎない。

 このため市民や弁護士・支援団体から大きな批判や憂慮の声があがり、立憲は修正協議を離脱し、法案の廃案を目指す市民との共闘にかろうじて踏みとどまった。

 第2に、こうして街頭やSNS等にあらわれた改悪法案への怒りの声を行動に背中をおされるかたちで、法案の衆院通過後は、参院の立憲・共産・社民の法務委員たちが、政府案に対する徹底的な追及に奮闘したことである。

 その過程で、難民認定の二次審査をになう難民審査参与員の制度が完全に形骸化している実態が明らかになってきた。日本の難民認定率が低いのは「分母である申請者の中に難民がほとんどいない」からだと公言する参与員柳瀬房子氏が年間数千件をこえる案件を担当する一方、難民として認定すべきとの意見を積極的に述べた参与員には翌年から担当する案件が減らされる。つまり、入管による一次審査の不認定処分を追認する傾向の高い参与員に大量の案件がまわされ、しかも1件あたりの処理時間が10分にも満たないという杜撰な審査の実態が明らかになったのだ。

 くり返しの難民申請者は送還してもよいのだと法律を変えるなら、難民として保護すべき人を確実に保護できていることが大前提になるはずだ。ところが、この大前提が崩壊したのである。

 同様に、ウィシュマさん事件の再発を防止すべく常勤医確保など医療体制の強化を実現したということも、今回の法改定の前提として法務大臣答弁において確認されてきたことである。しかし、大阪入管で常勤医師が酒に酔って診療をおこなって診療室勤務から外されていたこと、また法務大臣が2月にはその報告を受けていたにもかかわらず、これを隠蔽して国会審議にのぞんでいたことが明らかになった。この点でも法改定の前提は崩れた。

 こうして法律の前提が崩れ去ったなかで強行採決により成立したのが、今回の改悪入管法である。その過程で、難民認定手続きのイカサマぶり、収容や送還における入管の無法者ぶり、入管組織のウソと隠蔽にまみれた体質があらわになった。今後とも国会などで継続して追及しなければならない課題が山積みになったのだ。

 そして、入管法改悪反対の運動を通して、入管の人権侵害に怒り、さらにそれを行動に移す市民のすそ野は格段に広がった。そうした広範な市民、難民等の支援者、様々な分野の専門家、弁護士、さらには議員の間での協働・連帯の関係性も飛躍的に深まった。

 改悪された入管法の施行まで1年。これを施行させずに廃止に追い込むこと。また、帰国できない事情をかかえる人びとを送還から守ること。そのために有効なのは、在留特別許可や難民認定によって一人でも多く私たちの隣人が在留資格を獲得できるよう、ともに手を取り合い連携して闘うことである。そのための可能性と力を私たちは今回の苦い敗北を通して得たのではないか。落胆している暇はない。

2024年5月18日

入管収容死 「医療体制」の問題にすり替えるな

 


入管施設収容 カメルーン人男性死亡 2審も賠償命じる 東京高裁 | NHK | 茨城県(2024年5月16日 18時46分)


 入管職員が注意義務をおこたったとして国の責任を認めた一審判決(ただし死亡との因果関係は認めず)が、維持されたそうです。

 ところで、入管施設での死亡事件がくり返されていることについて、しばしば施設の「医療体制」の問題として語られます。このNHKの報道も一見したところ、そうみえなくもない。


入管施設の医療をめぐっては3年前、スリランカ人のウィシュマ・サンダマリさんが名古屋市にある入管施設で体調不良を訴えて死亡した問題でも体制面などの課題が明らかになりました。

(中略)

出入国在留管理庁によりますと、ウィシュマさんの問題で課題として指摘された常勤の医師については、診療室がある収容施設6か所のうち、4か所に配置できているということです。

先月には定員も2人に増やしましたが、医師の確保が難しいことから来月からは別の医療機関との兼業も可能にするとしています。

また、施設内で対応できないケースに備えて外部病院との連携も進めているということです。

職員の意識改革をはかる研修や、救急対応が必要になった場合のマニュアル整備なども行っているということで、出入国在留管理庁は、「改善できる点は継続していきたい」としています。


 しかし、入管施設でのあいつぐ死亡事件を「医療体制」の問題として語るのは、かなりズレています(ただし、このNHK記事は、カメルーン人男性の亡くなった経緯をくわしく追うことで、またあとでみるように指宿弁護士のコメントを紹介することで、「医療体制」が問題の本質ではないことを示す構成にじつはなっています)。

 2014年の牛久入管でのカメルーン人にしても、2021年の名古屋入管でのウィシュマさんにしても、入管職員の医療ネグレクトによって亡くなっています。あきらかに深刻な病変がみられたあとも救急搬送しなかったすえに亡くなっているという点で、2つの事件は共通しています。

 入管施設の医療体制に不備があるのはそのとおりでしょうが、電話があるんだから救急車ぐらい呼べるでしょう。また、呼べば救急車は来るでしょう。牛久入管も名古屋入管も、孤島や車の通れないところにあるわけじゃないのだから。

 「医療体制の不備」によって亡くなったということであるなら、それは「(救おうとしたが)救えなかった」という問題ですが、この2つの死亡事件はあきらかにそうではない。「救えたはずの命を救おうとせず救わなかった」結果として2人を死に追いやったのであって、問題は入管という組織をつらぬく外国人に対する人命軽視です。

 さきのNHKの記事は、入管の言うような「医療体制の強化」が問題の本質ではないことを指摘した指宿弁護士のコメントで結ばれています。


一方、ウィシュマさんの遺族の代理人をつとめる指宿昭一弁護士は、「入管はウィシュマさんの死の責任を認めておらず、根本的な反省はしていないと思う。外国人の命や健康を守る意志を誰も持っておらず、組織としての明確な方針が無かったから亡くなったのであり、組織として反省しないことには、医療体制の強化と言っても実効性はない」と指摘しています。


 ウィシュマさん死亡事件のあと、入管庁は、死因は明らかにならなかったと言って名古屋入管の責任を否定したうえで、ただし改善すべき問題点として「医療体制の不備」があったとしました(2021年8月10日「名古屋出入国在留管理局被収容者死亡事案に関する調査報告書」)。さらに、入管庁はこの「調査報告書」にもとづき、有識者会議に「入管施設における医療体制の強化に関する提言」(2022年2月28日)をまとめさせました。

 この一連の過程は、入管の医療ネグレクトによるウィシュマさんの死を「医療体制の不備」の問題へと矮小化し、あるいはすり替え、入管の責任を否定するという、まさに詐術と言うべきものでした。

 だまされてはいけません。入管施設での死亡事件をくり返さないために必要なのは、「医療体制の強化」ではありません。必要なのは、入管の犯罪を問い、その責任を追及することです。その意味で、国の責任を認める一審判決が東京高裁で維持されたことは、前進と思います。



2024年4月27日

入管法施行反対 4.28全国行動 サ条約発効の日に

 

 前回記事の最後でふれましたが、4月28日(日)に入管問題について以下3つのテーマで全国一斉行動がおこなわれます。

(1)改悪入管法施行反対
(2)監理措置制度反対
(3)ウィシュマさん死亡事件の責任追及

 この日の行動の呼びかけは「入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合」によるもので、開催の趣旨等は、以下のリンク先で読めます。


【4.28全国一斉行動の呼びかけ】 #入管法改悪反対


 各地での開催予定については、(見落としなどあるかもしれませんが、私がみつけられたものを)リストアップしておきます。こういうとき、北から南の順番で並べることが多いと思うので、今回は南から順番にしてみます。


福岡

改悪入管法施行に抗議する連続アクション第2弾
(外国人差別に抗するお茶アクション)
【日時】4月28日(日)14:00~16:00
【場所】浜の町公園(福岡市中央区舞鶴3丁目4)
詳細(ツイッター)


高知

場所 こうちオーテピア西側
時間 11-12時
飛び入り参加可能
詳細(ツイッター)


広島

スタンディングアクション
13時~14時 
八丁堀福屋前
※チラシを配りながら市民の方に呼びかけます
※手ぶら/途中/初めて の参加歓迎!
詳細(ツイッター)


倉敷

日時:4月28日(日) 11時~12時
場所:倉敷駅前南デッキ(雨天の場合北デッキ)
形態:スタンディングアクション+デモ
主催:入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合
共催:憲法を守る倉敷市民の会、アムネスティ・インターナショナル日本 倉敷グループ


大阪

4/28(日)
13:00扇町公園集合・集会 
14:00デモ出発
詳細(ツイッター)


名古屋

日時 2024/4/28 13:30~14:30
場所 名古屋駅 桜通口交番前
携帯 スタンディングアクション
詳細(ツイッター)


川崎

2024年4月28日(日)14:00~15:00
JR川崎駅東口周辺にて
多文化共生推進の川崎市。#永住許可の取消しに反対します も訴えます。
主催団体なく、個人で集まりますので
賛同くださる方どなたでも飛び入り参加OKです。
詳細(ツイッター)


東京

4.28全国一斉アクション
改悪入管法施行反対デモ
in東京・上野
日時:2024年4月28日(日)13時半集合 14時デモ隊出発
場所:上野恩賜公園 湯島口(池之端一丁目交差点近く)
詳細(ツイッター)


仙台

2024.4.28(Sun. )
11:00~12:00
場所:「リッチモンドホテルプレミア仙台駅前」前
形態:スタンディングアクション
詳細(ツイッター)




 さて、今回の改悪入管法の施行とは、あんまり関係なさそうで、でもぜんぜん関係ないわけでもない話をちょっと。

 この全国一斉行動のおこなわれる日は4月28日ですが、奇(く)しくも1952年のこの日はサンフランシスコ講和条約が発効された日です。

 同条約発効にともない、日本政府は朝鮮人・台湾人の日本国籍を一方的に剥奪しました。そこにいたる経緯は、現在にも引きつがれている日本の入管政策・外国人政策のゆがみを考えるうえで重要なのではないかと思います。

 さかのぼること5年、1947年5月2日、日本国憲法施行の前日、天皇裕仁による最後の勅令「外国人登録令」が公布され、同時に施行されました。日本は台湾および朝鮮を侵略して植民地化したので、台湾人・朝鮮人は日本国籍を持つ日本国民にされていたわけです。ところが、「外国人登録令」は、「台湾人のうち内務大臣の定めるもの及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす。」(第11条)として、日本国民であるはずの旧植民地出身者に外国人登録を強制しました。

 こうして、日本にいる朝鮮人と台湾人は日本国民でありながら、みなし外国人として登録を強制され、日本国憲法の規定する権利主体としての「国民」の外に置かれ、差別的な管理・統制の対象にされました。

 そして、1952年4月28日、日本政府はその国籍を、当事者の意思確認をすることもいっさいなく、一方的に剥奪したのです。植民地化によって付与を強制した日本国籍を、こんどは強制的に剥奪したということです。

 日本の入管政策、もっと広くいえば外国人政策がこのようにして始まったということ、そしてその歴史への反省・総括を欠いているということは、くりかえし思い返し、問題にしなければならないと思っています。

 日本の敗戦をへて朝鮮人や台湾人が日本で暮らしてきたのは、いうまでもなく日本による侵略・植民地支配に起因することです。したがって本来であれば、その旧植民地出身者とその子孫について日本国家が在留管理の対象にする、つまり「日本にいてもよい/よくない」を日本の国家がきめてよいということにしている現行の制度自体が、おかしいのです。日本国家にそんな資格はない。

 ところが、おおざっぱながら上にみてきたように、まったく道理を欠いたかたちで、管理すべき対象としての「外国人」というカテゴリーを創出し、そこに朝鮮人や台湾人を置いた、というところに日本の入管政策は始まっているわけです。

 1990年の入管法等の法改定をへて、入管は、いわゆるニューカマーの外国人労働者を主たる管理対象とする組織へと変化してきたといえるでしょう。しかし、そうした変化はあっても、入管政策がその始まりにおいてかかえこんだゆがみは、正されることなく現在にもそのままひきつがれている。そう考えるほかない事実が、こんにちの入管をみていてもさまざまに見つかるのですけれど、その話はこんどまた書きたいと思います。

 わたくしは、28日は大阪の集会・デモに参加します。




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