76年前の今日(1947年5月2日)、日本国憲法が施行されようとしていたその前日、「外国人登録令」が天皇によって発せられた。日本国民であったはずの旧植民地出身者(朝鮮人、台湾人)を「外国人とみなす」として外国人登録を義務づけた天皇の勅令である。
一方、その翌日に施行されることになる日本国憲法は、いくつかの条文で権利の主体を「人民」「人びと」「人」ではなく、わざわざ「国民」と表現している。
いずれについても、旧植民地出身者に対するほとんど「敵意」としか言いようのない関心をみてとることができる。「なにがなんでもお前たちに日本人と同等の権利なんぞ認めないぞ」と。そのための小細工が、(外国人でない者を)「外国人とみなす」という詭弁を法令に書きこむことであったり、「人民」「ピープル」を「国民」に置きかえることであったりしたのだ。
そして、この「お前たちの権利なんかけっして認めないぞ」という執念のような邪悪な意思は、現在も在日朝鮮人、あるいは外国人住民全般や難民申請者に対する政策を規定しつづけている。
いま、入管法改定案が国会で審議されている。おどろくのは、外国人の生殺与奪を入管がますます握ることになるこの改定案に、あたかも「修正」の余地があるかのような議論が一部でなされていることである。
外国人に対する憲法の基本的人権の保障は在留制度の枠内で与えられるにすぎないという、人権よりも入管の裁量を重くみる恥知らずな最高裁判決(1978年、マクリーン事件判決)がいまだにいきている日本で、どうして入管の権限を強化する法案に「修正」の余地があると考えられるのだろうか。外国籍・無国籍の住民の権利を保障する基本法をまずは作ろうという議論すら出ていないなかで、なぜ退去強制という、処分を受ける側にとっては命にもかかわりうる重大な処分を入管がより「迅速かつ効率的に」執行するための法案に、「修正」の余地があるなどと主張できるのか。
保障すべき権利をきちんと法で規定すること。つまりは、1947年のあやまちをただすこと。なによりもまずすべきことは、それではないのか。
《注》
外国人登録令と日本国憲法については、1年前の5月2日にもこのブログで論じているので、興味のあるかたは読んでみてください。
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