2021年3月2日

クラスタの発生している東京入管で起きていることの一端


【ふりがなを つける】(powered by ひらがなめがね)



 今朝、東京入管に収容されているかたから、電話があった。このかたの収容されているブロックから、昨日、また新たに2人の新型コロナウイルス感染が判明したとの連絡だった。


 東京入管では、2月15日に被収容者4人と看守職員1人の感染(PCR検査での陽性)が判明して以来、感染拡大がとまらない。入管庁ウェブサイトの「東京出入国在留管理局収容施設における新型コロナウイルス感染の状況」というページで公開された資料によると、昨日(3月1日)被収容者2人の陽性が判明し、計57名の被収容者の陽性が確認されたことになる。


 私に電話をしてくれたかたによると、おなじブロック(収容区)には2月15日時点で20人が収容されていたが、PCR検査をするたびに陽性者が出て、昨日時点で合計12人が陽性と判明したとのことである。陽性とわかった被収容者は他のブロックに移動させられたということで、20人いたこのブロックの被収容者は現在では8人まで減っているという。


 おどろいたのは、この感染がつぎつぎと判明していった2週間のあいだ、東京入管は雑居(1つの部屋に複数人が起居する状態)を解消せず、放置していたということだ。たとえば、4人が収容されていたある部屋では、2月16日に1名がPCRで陽性と判明して他のブロックに移動させられたが、東京入管はその後も残りの3名をいっしょにこの部屋に収容しつづけて寝起きをともにさせた。案の定、24日にはあらためてPCR検査をおこなった結果、この3名のうち1名が陽性と判明。しかし、陽性の1名を他のブロックに移動させて、残った2名をまた同室で収容しつづけた。そして昨日(3月1日)、この2名のうち1名の陽性が判明したわけである。


 つまり、感染者が出たのに、その濃厚接触者どうしを同じ部屋で寝起きさせるということを東京入管はつづけたのである。あとから因果関係を検証するのはむずかしいにせよ、同部屋ですごしていた4人のうち3人が感染するという結果になったのはなんら不思議ではない。感染者の増加をふせぐのにまったく適切ではない行動だったのはあきらかだ。まるで外国人を実験台にして、ウイルスの培養実験でもやってるかのようにもみえる。あまりにもあんまりで、ひどすぎる。


 そういうわけで、午前中に東京入管の総務課に電話して抗議し、陽性の判明した被収容者にきちんと治療を受けさせることと、陰性と確認された人については、仮放免か在留資格の付与によってなるべくすみやかに収容を解くように申し入れた。これまでの経緯をみて、東京入管には、すでに起きている集団感染に対応するのに必要な能力があるとは思えない。収容されている人の生命をまもるには、収容を解ける人から解放していくことをいそぐしかない。




関連

東京出入国在留管理局収容施設における新型コロナウイルス感染の状況 | 出入国在留管理庁

仮放免者の会(PRAJ): 東京入管収容場でのクラスター発生に関し、申し入れをおこないました



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追記(3月4日、22:33)

 上記の情報を提供してくれた被収容者から、4日にまた電話があった。


 上に述べた同室で起居してた4人のうち3人の感染が確認されていた件で、のこりのもう1名も昨日(3日)にPCR検査で陽性と判定されたとのことである。


 2月16日に最初の1名が陽性と判明したのちも、その濃厚接触者3名を入管はおなじ部屋で雑居させた。3月1日までの2週間、東京入管はこの部屋の雑居状態を解消せず、ついにこの部屋ですごしていた4名全員が感染してしまったのである。


 最後に陽性と判明したかたは、2月16日、24日、3月1日と3回のPCR検査は陰性で、4回目になる3日の検査で陽性と判定された。この間、東京入管は開放処遇を中止しているので、他の部屋の被収容者や職員と接近する機会はかなり限定されていたはずであり、同室の被収容者から感染した可能性が高いのではないだろうか。


 現在のこの集団感染が生じている状況において、東京入管が対応能力を欠いているのはもはやあきらかである。


 2月26日に関東弁護士会連合会が出した「入管施設における新型コロナウイルス感染症の集団感染を受けて,被収容者の解放等を求める理事長声明」は、つぎのように指摘している。


東京出入国在留管理局において,最初の感染者の判明から10日が経過しても感染者が増加を続け被収容者の4割を超過した事実からは,収容施設が自らが策定したマニュアルを履行できず,またマニュアルが想定した事態を超えて感染症対策を適切に実施することができない状態が発生していることが強く懸念され,そのような収容施設での収容を継続すること自体が人権侵害である。

入管施設における新型コロナウイルス感染症の集団感染を受けて,被収容者の解放等を求める理事長声明


 まさにその通りだと思う。


2021年2月19日

【改悪入管法案】「監理措置」は収容施設外での生活を可能にする制度ではない


【ふりがなを つける】(powered by ひらがなめがね)




 今日、政府は入管法の改定案を閣議決定したとのこと。これを受けて、以下のような報道がでている。


国外退去の外国人、施設外生活が可能に 入管法改正案を閣議決定 | 毎日新聞 2021/2/19 08:53(最終更新 2/19 08:53)

入管法改正案を閣議決定 収容施設外での生活を可能に:朝日新聞デジタル 2021年2月19日 11時46分


 この2つの記事とも、政府案の「監理措置」という制度が収容施設外での生活を可能にするものであるという見出しをつけている。政府の言い分をそのまま記事の見出しにしたということだろうが、しかし、「監理措置」についてのこの認識は正しくない。


 毎日新聞の記事では、「監理措置」について、つぎのように説明している。


 政府は19日の閣議で、在留資格がなく国外退去処分になった外国人が、入管施設に長期間収容される問題の解消に向けた入管法改正案を決定した。送還まで施設に収容する同法の原則を見直し、施設外で生活できる「監理措置」を創設する。(中略)


 監理措置は、逃亡の恐れがないことを前提に、親族や知人、支援者らを「監理人」に選任し、対象者の生活状況の報告を義務付けることで社会での生活を可能にする制度。逃亡には1年以下の懲役などの罰則を設ける。審判中に限って就労も認める。現在も健康上の理由などから一時的に収容を解く「仮放免」はあるが、許可基準や運用が不透明とされていた。


 引用したところの最後でも述べられているとおり、収容を解く制度としては、現行法においても「仮放免」というものがある。この「仮放免」の運用によって、収容を解かれて施設外で生活している人がすでにいる。だから、かりに政府案がとおって「監理措置」が創設されたとしても、これによって施設外での生活が可能になるということではない。


 つまり、現行法でも可能なことをするために、政府はわざわざ法律を変えますと言っているわけだ。すでにある制度をなぜ使わないのか、ということを、報道にたずさわるかたがたはぜひ政府に問いただしてほしい。毎日新聞の記事では、従来からある仮放免は「許可基準や運用が不透明とされていた許可基準や運用が不透明とされていた」と言うが、これではまったく説明にならない。それならば仮放免を申請する人に入管が許可基準や運用を明示すればよいだけの話であり、「監理措置」なるあらたな制度が必要な理由にはならない。


 ちなみに、従来は日本政府自身、仮放免制度を柔軟に活用することで長期収容を回避するように取り組んでいるのだということを、くりかえし表明してきた1。たとえば、2011年7月には、国連拷問禁止委員会の「申請が却下されたあるいは未決定の庇護申請者の収容の長さについての懸念に対処するためにとった措置につき説明されたい」との質問に対し、日本政府はつぎのように回答している。


 入管法上,難民認定申請中の者の送還は禁止されているところ,収容中の難民認定申請や,難民認定申請を繰り返し行う場合などにより,近年,収容が長期化する傾向にあることを踏まえて,2010年7月から,退去強制令書が発付された後,相当の期間を経過しても送還に至っていない被収容者については,仮放免の請求の有無にかかわらず,入国者収容所長又は主任審査官が一定期間ごとにその仮放免の必要性や相当性を検証・検討の上,その結果を踏まえ,被収容者の個々の事情に応じて仮放免を弾力的に活用し,収容の長期化をできるだけ回避するよう取り組んでいることから,長期収容者は,減少傾向にある。(太字による協調は引用者)


 仮放免を弾力的に活用することで収容長期化を回避するように取り組んでいるのだと、政府ははっきり言っている。国連機関に対して公式にである。今回の「監理措置」の創設うんぬんという提案は、こうした従来の政府の立場と整合していない。


 実際のところ、上記のような政府の公式表明とはうらはらに、入管は収容長期化の回避に取り組んでこなかったのである。つまり、仮放免制度を柔軟に活用すると言いながら、そうしてこなかったからこそ、こんにちの収容長期化問題が生じているということが言える。


 ところが、毎日新聞記事では、こうした入管の制度運用についての情報・知識を残念ながら欠いているために、長期収容されている外国人の側にのみ一方的に収容長期化の原因を帰着させるような書き方になってしまっている。


 非正規滞在の外国人は、国外退去とするか否かを決める審判から送還までの間、入管施設に原則無期限で収容される。審判で国外退去となった外国人は、自ら出国するか、強制的に送還される。ただ、日本に家族がいるなどとして帰国を拒んだり、難民認定申請を繰り返したりする例が相次ぎ、収容が長期化している。(太字による協調は引用者)


 外国人が帰国をこばむから収容が長期化するのだということのみ述べられ、入管の制度運用が収容長期化をまねいているという、もう一方の側面は、完全に消し去られている。これでは、フェアな報道とは言えないだろう。


 「監理措置」がほんとうに政府の言うように長期収容問題の解消にむけての制度と言えるのか。これについても、批判的に考察する必要がある。


 弁護士の指宿昭一氏は、「監理措置」制度について、つぎのように述べている。


「監理措置」制度は、仮放免を厳格化し、監理人がいなければ収容が解かれない制度になると思われます。監理人を通じて収容が停止された外国人を管理するシステムです。監理人の選定システムや監理を怠った場合監理人の責任によっては、現在の仮放免制度よりも相当に厳しい管理制度になります。しかも、監理措置は原則2回目までに限定するとのことです。

 「3か月程度の金銭支援」も検討などと言っていますが、実現可能性は低いでと思われます。仮に実現しても、3ケ月経過後は飢え死にしろというのでしょうか? 収容されていない期間は、就労を可能にすべきであり、それで足ります。

「滞留外国人 社会生活容認」は懐柔策ですらない! | 暁法律事務所


 こうしてみると、収容長期化の解消を目的に政府が「監理措置」を提案しているとはとうてい思えない。


 私は前回の記事で、「監理措置」制度によって長期収容問題が改善することはありえないということを述べている。こちらも、よかったらご覧になってください。


宇宙広場で考える: 改悪入管法案について――あまくないアメ玉




追記(2月21日 17:08)

 私が上に書いたことは、政府案の「監理措置」制度について、その内容にまでふみこんで批判しているものではありません。「監理措置」が創設された場合に、これによって収容施設外での生活が可能になるのだという一部のマスコミ報道は、ミスリードですよということを指摘しているにすぎません。


 しかし、この「監理措置」制度は、収容長期化問題の解決につながらないばかりか、従来の仮放免制度にはない、大変に危険な要素があるようです。それについては、以下の2つの記事などが参考になります。


「困難な立場にある方々を人間扱いしない社会は、実は誰も人間扱いしていないのだと思う」―入管、難民問題に取り組む駒井知会弁護士インタビュー | Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル)

監理措置のどこがダメなのか|koichi_kodama|note


 くわしくはリンク先の記事をみてほしいですが、とくに「監理措置」で収容を解かれた人が就労した場合に刑事罰を科されること、また、監理人も被監理者の動静を入管に報告しなかった場合などに処罰の対象になることなどがもりこまれているのは、非常に問題です。政府の入管法改定案は、廃案しかないという思いをあらたにしました。


 さて、それにしても、まさにこれこそ政府・入管当局が仕掛けてきていることの結果にほかならないのですが、いま法改定・制度変更について議論せざるをえないということ自体が、腹立たしいものです。仮放免者は、就労を禁止され、国民健康保険などの社会保障からも排除されて生活しています。そこにこのコロナ禍でますます困窮している人が多数います。また、入管はこのコロナ禍にあっても長期収容を継続しており、東京入管の収容場ではコロナのクラスタが発生しています。


 この人たちの人権と命をまもるためにできること、しなければならないことは、現行の制度のもとでもたくさんあります。すでにある仮放免制度を柔軟に活用することで、長期の被収容者の拘束を解くことはできます。さらに、仮放免されている人の在留を正規化することも、すでにある在留特別許可や難民認定制度を適切に運用することによって可能です。


 こうした現行制度のもとですぐにでも着手可能である、また必要でもあるもろもろの施策が、法改定・制度変更についての議論に多くの人の時間と関心がさかれるなかで、検討をあとまわしにされている。その点でも、政府の入管法改定案は廃案に追い込むこと、その制度変更のくわだてを早期に断念させることが必要であると考えます。



1: 以下の記事参照。
仮放免者の会(PRAJ): 入管にとって長期収容の目的はなにか?(2018年6月27日)

2021年2月11日

改悪入管法案について――あまくないアメ玉


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  改定入管法案、近いうちに国会に提出されるようだ。

 入管庁がリークしたと思われる内容の報道が、昨日、産経新聞と日本テレビのサイトにあいついで出ている。



 政府が改定しようとしているところで重要なのは、つぎの5点である。


(1)難民申請中の送還を禁じる規定に例外を設けること(3回目以降の難民申請を送還できるようにすること)。
(2)送還を拒否する行為に刑罰を科すこと。
(3)仮放免中の逃亡に刑罰を科すこと。
(4)入管の認める支援団体や弁護士による監督を条件に収容を解く「監理措置」の創設。
(5)難民認定には至らないものの母国が紛争中で帰国できない人などに在留資格を認める「補完的保護対象者」の新設。


 (1)(2)(3)は、強制送還をいま以上に強引にすすめるための改定(改悪)であって、絶対に許容できない。ただ、今回は、これらの点には立ち入らない。

 では、(4)(5)はどうか? これらは、一見したところ、難民申請者や入管から退去の対象とされる外国人の人権状況を改善させるものにもみえる。(4)は、収容を解く制度をあらたにもうけるということだから、これによって長期収容が減ることが期待できるよう、思えなくもない。(5)も、母国で迫害されるおそれのあるひとが今よりもっと保護されるようになる制度のようにみえる。

 しかし、「監理措置」制度によって長期収容問題が改善することも、「補完的保護」によって難民申請者の庇護が拡大することも、ありえない。というのも、この法案を提出しようとしている政府がそれを意図していないからである。

 収容を解く制度として、すでに「仮放免」というものががある。また、難民認定にまではいたらないものの人道配慮として在留を認める措置として、法務大臣による在留特別許可というものが、すでにある。つまり、(4)や(5)は、現行の入管法のもとでも十分にできることをするために、わざわざ法改正して新しい制度を作りますと言っているにすぎないのである。政府は、長期収容問題を解決するというものとはべつの意図で(4)(5)を提案しているのはあきらかであるから、かりに(4)(5)が創設されたところでこれらを長期収容問題を解決するために活用することは考えられないのである。

 このあたりのことは、『人民新聞』に昨年11月に寄稿した以下の記事でも述べているので、引用しておきたい。


(ここから引用)

 政府がいまくわだてている入管法改定の大義名分は、収容長期化問題への対策である。政府あるいは入管当局がこれに本気で取り組もうとするならば、その有効な方法が何かは、実ははっきりしている。応急措置としては、収容が長期になった被収容者を仮放免許可によって出所させていくことだ。
 さらにより根本的な解決のためには、退令発付を受けて送還対象になっているけれども帰国できない深刻な事情のある人たちの在留を広範に認めていくことも、検討されるべきだ。すなわち、現在きわめて厳しく運用されている在留特別許可の基準緩和、そして難民認定の審査のあり方の正常化である。これらはいずれも現行法のもとでも可能である。
 ところが、政府は現行の仮放免制度を活用するかわりに、(4)の「監理措置」を新たにもうけることを企んでいる。また、難民やこれに準ずる人の庇護に活用しうる難民認定と在留特別許可の運用見直しを検討するかわりに、(5)の「補完的保護対象者」の新設も法案に盛りこもうとしている。
 これらは、新奇にみえる制度改変案を粉飾的に打ち出すことで、現行法の枠組みのなかでも可能な方策の検討を回避しようとするものにすぎない。
 しかし、こうして問題解決が先送りされる間にも、被収容者たちは日々命をけずられ、仮放免者たちも、コロナ禍のなかこの1日を生きのびられるかどうかという困難をしいられている。

(引用ここまで) 



 (4)の「監理措置」の創設、および(5)の「補完的保護対象者」の新設は、野党や入管行政に批判的な世論を懐柔するためのアメ玉のようなものと考えるほかない。アメ玉と言っても、やる気になれば現行法でもなんの支障もなくできることを法律かえてやりますと言っているだけのことだから、口に入れてもあまくはないアメ玉だ。それどころか、政府はそもそも長期収容の解消も難民保護の拡大も「やる気」がないからこそ、こういう人をなめきった提案をしてきていると言うべきである。

 したがって、(1)(2)(3)に反対する以上、(4)(5)についても検討・議論する余地はない。今回の入管法改定案については、妥協・修正の余地はいっさいない。廃案あるのみである。まずもって必要なのは、くりかえすが、法改定ではなく、在留特別許可の基準緩和、そして難民認定の審査のあり方の正常化だ。現行法のもとで可能なことに取り組むところから、はじめるべきなのである。

2021年1月27日

「エリザベス この世界に愛を」 - ETV特集 - NHK


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「エリザベス この世界に愛を」 - ETV特集 - NHK

2021年1月23日(土)23時~23時59分 NHK Eテレ

(再放送)1月27日(水)24時~24時59分 NHK Eテレ


 とてもよい番組でした。たくさんの人に見てほしい。


 日本に暮らす外国人の支援者として活動するいっぽう、自分自身も在留資格のない「仮放免」状態にある外国人として暮らしているエリザベスさん。その1年半の活動を追いかけたドキュメンタリー作品です。



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 エリザベスさんは、とにかく行動力がすごい。連日、東京や茨城県の入管施設におもむき、収容されている人たちに面会しているという。名古屋や長崎の施設に面会に行くこともある。入管に収容されている人たちからつぎつぎと電話がかかってくる。被収容者の話に耳をかたむけ、その苦しみによりそい、ときにはげます。仮放免の人やその家族にも会い、支援をしている。


 番組からは、エリザベスさんのなみはずれたバイタリティや熱意がつたわってくる。けれども、彼女がしていること、しようとしていることは、ある意味で「あたりまえの行為」だというふうにも思う。他者の苦しみによりそい、ともに泣いたり笑ったりすること。助けを必要とする人に支援を提供したり、それを提供できる人につないだりすること。問題がすぐに解決できるものでなくても、とりあえずはそばに立ち、ともに何ができるか考えること。苦しむ仲間のためにともに祈ること。


 これらの行為は、いつも簡単なわけではない。ときに私は、困っている他者をみてみぬふりをしたり、見捨てたりもしている。そうしながら生きている。手をさしのべられないことには、そのときどきで事情や理由があり、あるいは自分自身にそれを正当化する言いわけをしたりもする。でも、この番組に映されているエリザベスさんのような行動を少しでもできたらよいとも思う。


 番組では、2014年に茨城県の入管施設で病死したカメルーン人の映像も紹介されていた。遺族が国をうったえている裁判で証拠として出てきた監視カメラの動画で、この方が病室で痛がりながらころげまわる姿が映しだされている。遺族の代理人の児玉弁護士がコメントで紹介していた事実が印象にのこった。このカメルーンの方が亡くなる前に病気でくるしんでいるのをみかねて、周囲の被収容者たちは職員に対し、この人を医者に診せるまで部屋に戻らないと言って強く抗議したのだという。


 ここが収容所でなければ、自由をうばわれていなかったならば、かれらは自分たちで仲間のために救急車をよぶか、自分たちの手で仲間を医者のもとまで連れて行っただろう。施設に長期間拘束して自由をうばうということは、他者に対して「あたりまえに」かかわろうとする能力を抑圧しうばいとるということでもある。これがどんなにむごいことか。


 私はじつは、エリザベスさんふくめ仮放免者たち、あるいは入管施設に収容されている人たちと交流しかかわってきたのだけど、多くの人たちが苦悩していることのひとつはこの点である。自分自身が苦境におかれていることだけでなく、仲間を助けようとしたり家族のためになにかしてやろうとすることが、収容や仮放免の制約のためにさまたげられていること。他人をなかなか思うように助けられないというそのことが苦しいのだという言葉を少なくない人数の被収容者や仮放免者から聞いてきた。


 番組の最後、エリザベスさんは在留資格をえられたら何をしたいかと問われ、大きな家を買って外国人を支援するためのセンターを作りたいと答えていた。エリザベスさんや他の仮放免者たちの豊かな活動が、現在の入管制度やその運用によって、どれほどさまたげられていることだろうか。その大きさを思わずにはいられない。



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 エリザベスさんの言葉や行動は確信にもとづく堂々としたもので、番組もそのような存在として彼女を映していたのも、よかった。


 もちろん、非正規滞在の外国人であるからといって堂々としていてはいけないという理由なんてない。しかし、退去命令が出ていながら日本政府に対して在留資格をもとめる外国人は、自分自身が「帰国」できない事情をかかえているということを説明しなければならない立場にもある。自分は難民である、あるいはここでしか家族と暮らすことはできない、だから在留資格を認めてください、と。


 現行の入管制度のもとでは、退去命令の出ている外国人であっても、これを取消して在留を認める在留特別許可という措置がある。しかし、これは法務大臣が人道的な配慮として「特別に」在留を「許可」するという位置づけのものだ。あたかも、高い身分の者が低い身分の者に与える「恩恵」ででもあるかのように。


 でも、エリザベスさんの言葉や行動(それは番組中、仮放免で施設から出たアラン氏(仮名)や長崎の入管施設で餓死した仲間のことをエリザベスさんへの電話で語っていたかれの言葉や行動ともかさなる)は、そうした制度を成り立たせる基盤となっている考え方をうたがうことに、私たちをいざなう。その言葉や行動が映し出しているのは、国境や在留管理の制度ができあがるずっとまえからあったはずの、ひとが他者にかかわろうとするときの「あたりまえの」あり方だ。本来は、ひとが他者とよりよくかかわりあえるように助けとなるべき社会制度が、反対にそれをさまたげ抑圧しているのではないか。他者によりそいおたがいに助け合う関係をきずこうとするひとの足をひっぱっているのが現行の制度や運用ならば、そういうひとのあり方をささえるようなものに制度や運用のほうを変えていけばよい。


 作品はそれをみる人によって、そこからなにを受け取るのかちがってくるものだろうとは思うけれど、他者の姿や行動をみることの重要な意義のひとつは、他者をとおして自分のなかにもある可能性の存在に気づくことにあるのだと思う。この番組をみる多くのひとが、エリザベスさんたちの姿をとおして、自分自身のなかにもある「あたりまえの」尊い可能性にあらためて出会うことができたらよいなと思った。





番組は、

◆1月27日(水)24時(日付かわって28日の0時ということでもありますね)から再放送

◆インターネットでは、NHKプラスで、同時配信&見逃し配信で視聴できる

とのことです。


2021年1月12日

「不法滞在」「不法残留」という言葉で消去されるもの


【ふりがなを つける】(powered by ひらがなめがね)

 


1.官製用語としての「不法残留」「不法滞在」


 グラフは、「超過滞在者数の推移」をあらわしたものである。入管庁が年ごとに出している『出入国管理』という冊子(2019年版以降は『出入国在留管理』)1 で公表されている超過滞在者の数をグラフにした。



 「超過滞在」というのは、「オーバーステイ」ともいわれ、外国人がきめられた在留期間をこえて滞在することを意味する。もっとも、法務省や入管庁は「超過滞在」ではなく「不法残留」という言葉をもちいている。入管庁の公表する冊子でも、「不法残留者数」として統計が公表されている。


 「不法残留」とか、あるいは「不法滞在」といった言葉は、これを取り締まる側による官製用語であって、その行為の「わるさ」を強調、というか演出しようとの意図からもちいられているのはあきらかだろう。「わるさ」といっても、日本に「残留」「滞在」しているだけである。たんに「ここにいる」ということにすぎない。ゴミの「不法投棄」は迷惑行為だし、場合によっては他者に深刻な被害をもたらす行為だが、「不法残留」や「不法滞在」はそのようなものではまったくない。


 「不法」ということが強調されると、私たちはその行為をおこなった人がペナルティを受けるのは当然だと考えがちだ。「不法滞在者」という言葉の流通によって、私たちのものの見方・考え方が影響をこうむっていることも少なからずあるのではないだろうか。この点での私たちの常識を批判的にとらえなおす出発点として、上のグラフを手がかりに考えてみたい。




2.超過滞在者の増減をもたらすもの


 「超過滞在者数の推移」というように、たんなる統計上の人数としてその変化をみる見方では、当然ながらそのひとりひとりの個別性は消去されてしまい、見えてこない。超過滞在者、あるいは非正規滞在者(在留資格のない状態にある外国人)とひとくちに言っても、その状態にいたる過程や事情はさまざまであり、その責任や原因が本人にあると言えるとはかぎらない。なかには、「不法残留者」「不法滞在者」としてあつかわれ入管施設に収容されたり強制送還の対象とされることが、きわめて不当だと言うべきケースもすくなくはない。だから、支援の場などにおいては、ひとりひとりの事情をおろそかにしないことは大事である。その点は確認しつつ、ここではあえて反対に個別の状況を捨象した見方をしてみる。


 上のグラフは、超過滞在者数の増減をあらわしているが、この間の日本の社会・経済状況についての常識的な知識があれば、その増減の要因が何なのか推測するのはそう難しくはないはずだ。


 超過滞在者数が1990年から急増しているのは、バブル期の人手不足が背景にあったことはあきらかだろう。91年にバブルが崩壊すると、超過滞在者数は93年のピーク(30万人弱)をさかいに減少に転じ、2014年までおよそ20年間にわたって下がっていく2


 ちなみに、これは常識とは言えないけれど、2003年ごろから国はいわゆる「不法滞在者」に対するそれまでにない規模での強力な摘発にのりだしている。現在、東京入管は東京都港区にあるが、この庁舎が完成し、入管が移転してきたのは2002年のことである。収容人数800人とされる巨大収容場をそなえた東京入管のこの新庁舎がつくられたのは、直後に開始されることになる大規模摘発のためであろう。翌03年12月、政府は04から08年を「不法滞在者の半減5か年計画」に位置づけ、徹底した摘発をすすめていった。グラフをみると、この時期から08年のリーマンショックをへて、超過滞在者数の急激な減少がつづいたことがわかる。


 ようするに、巨視的にみれば、超過滞在の人が増えたり減ったりするのは、日本社会の都合によるのだと言えるのである。日本社会のなかで労働力需要が高まったときに「不法残留者」が増え、それが低くなると「不法残留者」数は減っている。「不法残留」という言葉を聞くと、「不法残留」にいたった外国人の側にもっぱらその増加の要因ないし責任があるように私たちは認識してしまいがちだ。しかし、その増減を決定的に規定している原因は日本社会の側にこそある。グラフでその推移をみることで、そのことを直感的に理解できるのではないか。




3.日本社会のあり方をこそ問う


 国境をまたいで日本にやってきて、現在「不法残留」なり「不法滞在」なりになっている外国人たちは、そのひとりひとりのたどってきた過程をみるならば、各人の主体的な選択の結果として現状にいたっているということもたしかに一面では言えるかもしれない。人身取引の被害者や元いた国での迫害から逃げてこざるをえなかった難民3 などについては必ずしもそう言えない場合もあるにしても、多くのひとはそれぞれのおもわくをもって自身の意思で国境をわたってくる。


 しかし、それらが主体的な意思にもとづいた行為だと言えるとしても、そうして日本にやってきて、ここで長年にわたって生活するということは、当人たちの力だけでは不可能である。日本社会が、その人たちを必要とし、呼びこみ、労働力などとして利用してきたからこそ、それは可能だったのである。


 これはごくごく当たり前の事実にすぎない。「不法残留」状態にある人をふくめ移住者たちは自身の意思だけでここに移り住んできたわけではない。移住者たちがもといた社会から押し出されたり、あるいは移住者自身の意思でそこから出てきたと同時に、日本社会が引っぱりこんできた結果として、移住者たちがここにいるのである。


 ところが、「不法残留者」「不法滞在者」という言葉は、そうして日本社会にやってくる者の責任のみを一方的に強調する。そのことで、「不法残留」「不法滞在」の状態を作り出しているもう一方の当事者であるはずの日本の国や社会の責任は、みえなくなってしまうのだ。


 日本社会がどのようにして労働力としての外国人を呼びこんできたのか。そこに政府の政策はどのようにかかわってきたのか。こうした過去と現在について、私たちはまだまだ十分にあきらかにできていないのだと思う。




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1: 入管白書『出入国管理』は、法務省のウェブサイトで読める。 

2: グラフのとおり、1993年以降一貫して減少しつづけてきた超過滞在者数は、2015年以降増加に転じている。2016年版『出入国管理』では、15から16年にかけての2年連続での増加について、以下のように分析している。 
「これ[不法残留者数の2年連続での増加]は,継続的な不法滞在者の摘発を実施し,これまで不法残留者数を大幅に減少させてきたものの,近時その小口化・分散化が進み,大規模な摘発が困難になり,退去強制手続を執った外国人の数の減少傾向が続いているためであると考えられる。その一方で,近年,政府を挙げて観光立国推進を掲げているところ,平成25年[2013年]7月1日からASEAN諸国等への査証免除及び査証発給要件緩和措置を実施した結果,同年以降の外国人入国者数は,大幅に増加し,不法残留者数の増加に少なからず影響しているものと考えられる。」(第1部38ページ)
  観光客を呼び込むための政策が直接的な要因だというのはたしかだとしても、非正規滞在者の労働力を必要としこれにたよる職場が増えていかないと、超過滞在者の増加という現象は生じにくいように思う。2013年に東京が7年後のオリンピック・パラリンピックの開催地に選ばれたことで、首都圏を中心にした建築労働者などの労働力需要が高まったことが、これに関係していることも考えられるのではないか。
  また、『出入国管理』に公表されている2015年以降の超過滞在者の在留資格別のうちわけをみると、技能実習の在留資格をもっていた人が超過滞在になっているという数が年々めだって増えていっていることがわかる。技能実習生が実習先で違法な低賃金で働かされたりやパワハラなどの人権侵害を受けていること、また、技能実習制度がそうした被害を必然的に生じさせる欠陥をはらんでいることは、現在ではよく知られている。国のゆがんだ外国人労働者政策が、職場(実習先)からの実習生の「逃亡」を余儀なくさせ、「不法残留」状態におちいる人を生んでいるのである。
  
3: 迫害からのがれて出身国を出てきた難民についても、就労を目的のひとつとして日本を選んでやってくることはありうるし、それはなんらおかしなことではないのだということは、ここで指摘しておきたい。自分自身や家族が生活していけるだけの十分な資産があったり、あるいは支援を見込めたりするのではないかぎり、難民も生きるために就労する必要がある。したがって、より条件のよい就労機会が見込めることを理由に渡航先を選択しようとするのは、難民であっても当然なのである。就労・稼働を目的にして日本にやってきたようにみえたり、あるいは本人自身がそうだと言っているのだとしても、それはその人が難民であるという事実を否定する根拠にはなりえない。渡航の目的のひとつが就労だということと、その人が難民であるということは、矛盾することなく両立可能なのである。むろん他方では、渡航先を選ぶ余地などなく、とにかく危険からのがれてたどり着いた先がたまたま日本であったという難民のケースも少なくない。

2020年12月30日

【読書ノート】指宿昭一『使い捨て外国人―人権なき移民国家、日本』(朝陽会)


【ふりがなを つける】(powered by ひらがなめがね)


1.「コインの裏表」


 著者の指宿(いぶすき)氏は、本書のあとがきで、外国人労働者受け入れ問題と入管問題は「コインの裏表」であると述べている(135ページ)。そのコインの2つの面に対応して、本書は2つの章からなっている。「外国人労働者と人権」と題された第1章は、技能実習制度の問題を中心にして、外国人労働者の受けている人権無視のあつかいの事例が述べられ、そうした問題を生じさせている制度の構造的欠陥が解説されている。第2章は「入管政策と人権」と題して、入管の収容や送還をめぐる人権侵害、また仮放免者のおかれている問題などについて述べられている。


 いずれの章も指宿氏が弁護士としてかかわった具体的な事例を参照しつつ、制度や政策の問題点を明晰に指摘していて、技能実習制度と入管政策それぞれの問題についてはじめて学ぶ読者にも親切に書かれていると思った。


 同時に本書からは、第1章と第2章を交差させて読むことでさまざまな示唆がえられるということも感じた。技能実習制度問題をはじめ外国人労働者の「受け入れ」をめぐる問題と、入管問題。指宿氏が「コインの裏表」とするこの両者のあいだを往復しながら関連づけて考えることで、それぞれの問題についての理解がより深められるように思う。



2.外国人労働者の無権利状態


 著者は「なぜ、違法な状態で働かされている技能実習生は、権利の主張をせずに失踪してしまうのだろうか?」(28ページ)という問いかけから第1章をはじめている。技能実習生は、給与が最低賃金を下回っているなど違法な条件で働かされていることが多い。こうして不当に被害を受けているにもかかわらず、どうして実習生たちは、労働基準監督署に申告するなどして権利を主張するかわりに、失踪してしまうのか。


 このような問題提起を受けて、第1章では、実習生たちが声をあげることをできなくさせている仕組みが解説されていく。実習生の多くが送り出し機関に多額の渡航前費用を支払っており、これを借金で工面していること。職場移動の自由がないこと。また、権利主張した実習生を受け入れ企業や監理団体が暴力をもって強制帰国させるということが横行していることなど。これらによって、実習生はなかなか自分の権利を主張できなくなっている。


 監理団体などによる強制帰国が違法なのはもちろん、送り出し機関がおこなっているような渡航前費用の徴収が日本で違法であるということも著者は強調している。


 日本の労働基準法では、他人の就業に介入して利益を受けること、すなわち「中間搾取」が禁止されている。戦前に横行していた口入屋や募集人などの仲介者が中間搾取を行う悪習を排除する目的で定められた規定だが、これは日本国外には及ばない。外国人労働者の受け入れには、中間搾取という悪弊がいまだに横行しているのである。(34ページ)


 引用したくだりは、国境というもの、また国境をまたいだ人の移動を管理しようとする入管という国家機関が、どのような役割をもちどのように機能しているのか考えるうえで示唆的だと思った。労働基準法の禁じる中間搾取という行為が、国境をまたぐことで法の規制をのがれているわけだ。これまで何度かおこなわれてきた入管法の改定においても、送り出し国でのブローカーが介在する中間搾取や人権侵害に対して、実効的な規制はもうけられてこなかったのだという。


 著者は、ブローカー規制の有効な手だてとして、韓国ではすでに「雇用許可制」という仕組みが採用されていることを紹介している。これを参考にすれば、ブローカーが介在しての人権侵害はかなりの部分、防止できるはずだ。ところが、昨年の新制度導入にあたっても、この「雇用許可制」は検討すらされなかったという。著者はこれについて、「ブローカーが不利益を受けないように考慮したのであろうか」と述べている。有効な対策があるのにそれを検討しようとすらしないのだから、外国人労働者を無権利状態に置いてその労働力を安く買いたたきやすくしておこうというのは、日本の国の意思なのだと考えるほかないだろう。



3.労働者の「使い捨て」と入管の機能


 外国人労働者の無権利状態は、政策における何重もの作為と不作為によって意図的に作られた状態なのだということが、第1章を通して理解することができた。この外国人労働者の受け入れをめぐる問題と関連づけて読むことで、第2章で述べられる入管の問題についての理解も深まるのではないかと思う。


 入管の収容や強制送還の実態を具体的に知ると、入管が国外退去の対象とした外国人たちをいじめぬく、その執拗さ・苛烈さにおどろかずにはいられない。なぜ人間をここまで痛めつけなければならないのか、と。この疑問に納得できる答えなどありようもないが、入管という組織の残虐さがどこからくるのか考えるうえで、この組織が資本や国家とのかかわりでどのような機能と役割をもって動いているのかというところをみていくことは不可欠である。その点で、入管の問題を外国人労働者の「受け入れ」をめぐる問題として考察する視点は、欠かせないのだと思う。


 第1章でおもに技能実習制度にそくして述べられているように、日本の外国人労働者政策は、かれら・かのじょらが権利主張することをさまたげ、その労働力を安く買いたたこうという思想につらぬかれている。そして、著者は、技能実習制度が「定住化につながらない外国人労働者受け入れ制度」であることを指摘したうえで、つぎのように述べている。


 [技能実習制度は]日本側としては、各送り出し国で生まれ、育ち、一定の教育を受け、職業に従事してきた労働者を、家族と切り離して一定期間だけ日本で就労させてその労働力を受け入れながら、必ず帰国させることで、帰国後の本人と家族の社会保障には何も責任を負わなくてもよいという制度なのである。まさに、使い捨ての制度である。(71ページ)


 この「使い捨て」という表現は、技能実習制度だけにあたるものではない。ここで指宿氏が指摘している意味での「使い捨て」は、すくなくともこの30年ほどの日本社会の外国人労働者利用のあり方全体に通底するものだ。バブル期以降に増えた非正規滞在外国人の労働者としての利用、90年代以降の南米等の日系人労働者の「受け入れ」など。


 このような外国人労働者の「使い捨て」を下支えし可能にしてきたのが入管の制度と運用だと言えるのではないだろうか。外国人は、入管の許可する在留資格・在留期間の制約内でしか日本で在留・就労できないことになっている。外国人の日本での在留や活動は、入管によって厳しくしばられている。そして、入管の認める資格・期間をこえて在留・活動する外国人に対し、入管は退去を強制する(強制送還する)権限を法律によってあたえられている。これら入管の在留管理と退去強制の権限は実際に、外国人労働者を一定期間就労させては帰国させるという使い捨てのサイクルを回転させるのにふるわれてきたのだ。



4.日本社会の過去と現在を問い直すこと


 さて、入管問題は、難民にかかわる問題として取り上げられることも多い。諸外国と比較して難民認定率・認定数が極端に低い日本では、難民として保護されるべき人の多くが、送還対象となり、劣悪な収容施設に長期間収容されている。近年の入管政策の運用変更などもあって、常軌を逸した収容の長期化がすすんでいる現状において、入管の問題は、難民と収容・送還の問題として焦点化されている。


 もちろん、難民問題として入管のあり方を問うのは、重要かつ不可欠なアプローチだ。ただ、これにくわえて、上にみたように「外国人労働者受け入れ問題」としてもみることが、入管問題をより深く理解するうえで必要であろう。


 入管の人権侵害問題に取り組むことは、日本の国と社会が外国人労働者をどのようにあつかってきたのかという過去と現在を問い直すことだと思う。その問い直しの作業をしていくにあたり、「コインの裏表」として外国人労働者受け入れ問題と入管問題の両面を見る本書はみちびきの糸となると感じた。




2020年9月22日

ここにいる「資格」が問われるということ


【ふりがなを つける】(powered by ひらがなめがね)


 入管による強制送還の対象になっているけれどそれぞれ事情があって「帰国」できないという人たちがいる。そうした外国人たちに、半端ながらボランティアの「支援者」というかたちで私がかかわるようになって10年ぐらいになる。

 日本にパートナーや子どもがいるため、国籍国には帰れない人。あるいは、帰国すれば迫害などの危険がある人。そういった人たちが、退去強制処分を取り消され、在留資格を獲得して日本で暮らせるようになることが、支援のゴールだと思って私は活動している。いったん入管から送還の対象とされた人であっても、その後の状況の変化などをくんでこれを救済する制度がある(法務大臣の権限による在留特別許可)。しかし、この救済措置が現在はきわめて限定的にしかもちいられておらず、その運用を変えさせるための運動も必要だ。

 支援であれ運動であれ、こうして在留資格の獲得をめざしていくこと自体は、あくまでもいまの入管制度の枠組みを前提とした取り組みである。また、その枠組みのなかでの「救済」を切実に必要としている人は、まだまだたくさんいる。だから、当分は制度の枠内でやれることをやっていかなければならない。ただ、そうだとしても、その枠組みを批判的に問い返す思考をおこたってはいけないとも思う。



「資格」を問われることがないという特権


 入管法とよばれる法律(正式名称は「出入国管理及び難民認定法」)のもとでは、外国人は在留資格がなければ日本にはいられないことになっている。日本で暮らしていくうえで、在留資格があるかないかということは、文字どおり死活問題というべき切実な問題だ。しかし、在留資格のあるなしにかかわらず、外国人住民は在留に「資格」を問われる身分に置かれているということにはかわりない。

 一方で、日本に在留することに「資格」を問われることのない身分が存在する。日本人1である。入管制度において日本人を外国人とへだてている決定的に重要な差異は、日本人は日本に在留することに「許可」を必要としないということ、「資格」なしに日本で暮らしたり出入りしたりできるということだ。しかし、日本人の多くは、それが特権的なことだと意識することはほとんどないだろう。私もそうだった。

 「資格」を問われることがないという特権性について私自身、問題意識をもつようになったのは、外国人とのかかわりをとおしてであった。

 外国人の知人から、以下のような話を聞いたことがある。彼女は永住者の資格をもつ人であるが、あるとき、入管職員からこう言われたという。「ビザ(在留資格)のない人を知っていたら、教えてください」と。この職員が入管のどの部署の職員なのかはわからないが、入管という組織は、いわゆる「不法滞在者」の摘発をおこなうにあたって、このようにいわば密告をうながし、そうして提供された情報を活用している。

 この入管職員に対してどう切り返したのか、彼女がニコリとしながら教えてくれた。「『ビザがない人ならたくさん知ってる』って言ってやったんだよ。『うちのアパートのとなりの人がビザない人だよ。うちの子の学校の担任の先生も校長先生もビザないよ。日本人はみんなビザないでしょう』って」。



居住が権利として保障されないことの異常さ


 日本国籍をもった日本人住民は「資格」を問われることなく日本で暮らすことができる一方で、外国人住民は「資格」なしに日本にいることができない。そんなことは当然じゃないかと思う人も多いのかもしれない。

 しかし、外国人が外国人であるかぎりつねに在留に「資格」を問われるという、現行の入管制度のありようは、具体的な事例をみていくと、きわめて異様なものだと言わざるをえない。たとえば、日本生まれで、自身の国籍国には行ったこともないというような人でも、「外国人」であるかぎり、在留「資格」が問われることになる。ということは、場合によっては、ほとんど見知らぬ「母国」に強制送還される可能性もあるということだ(実際、私の知っているケースでも、生まれてから一度も日本を出たことがなく、「母国語」を話すことのできない人が、意思に反して送還された例がある)。

 また、外国人が在留「資格」を認められるかぎりでしか日本にいることができないということは、言いかえれば、日本の制度において外国人の永住「権」が存在しないということでもある。たとえば、在日朝鮮人の多くは「特別永住者」という在留資格をもっているが、これはあくまでも日本の入管当局が付与する「資格」であって、永住する「権利」を保障したものではない。日本の制度における「永住者」あるいは「特別永住者」の在留資格とは、3年や5年といった在留期間の制限がなく、その都度期間の更新許可を受ける申請手続きをしなくてすむということにすぎない。在日朝鮮人たちが日本に居住するようになったのは、言うまでもなく、日本による朝鮮半島の侵略・植民地支配に原因がある。そうした経緯をもって4世代5世代にもわたって日本に居住するにいたった人びとにすら、日本の国家は居住を権利として保障するのではなく、あたかも恩恵でもほどこすかのようにその「資格」を「付与」するという立場に居直っているのである。

 日本のいまの入管制度のもとでは、外国人の在留はあくまでも国が与えたりうばったりすることのできる「資格」にすぎず、しかもそこに例外はない。



排外主義を育てる土壌


 どのような経緯があって日本で暮らしているのかにかかわらず、あらゆる外国人について、ここにいてよいのかどうかをもっぱらきめることができるのは国であるという考え方が、日本の入管制度をつらぬいている。こうした制度のありようが、日本人の排外主義を育てる土壌となっている面があるのではないだろうか。

 排外主義の言説は、「日本が嫌いなら(日本に文句があるなら)日本から出ていけ」というかたちをとる。自分たち日本人には、他者としての外国人が日本にいる「資格」があるかどうかを判定してもよいとでもいうような、はなはだしい思いあがりがここにはある。こうした思いあがった思考は、意識のうえで自己を国家と一体化させることで可能になっているのだろう。外国人の在留の「許可」「資格」を与えることができるとする国家と一体化し、あるいはこれを模倣するように、日本人は「日本から出ていけ」「国に帰れ」という排外主義の言葉をはきだす。入管制度は、日本人の排外主義に栄養をあたえ、あるいはその基盤となっている。

 外国人の在留の「資格」のあるなしはつねに国が決めてよいという、現行の入管制度のよってたつ思考への批判的な意識をもっていなければ、日本人は自分たちの排外主義的な思考と行動を克服することはできないだろう。それは、外国人への「支援者」という立場にある者であっても例外ではない。



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1: 「日本人」という言葉は、通常きわめてあいまいに使われている。とくに「私たち日本人」というように自称としてのこの語が使われる場合は、だれが「日本人」でだれがそうでないのかという境界が、話し手の都合によって伸び縮みすることがしばしばである。この文章では、日本国籍をもっている者(日本国民)という意味で「日本人」の語をもちいる。