2025年5月29日

「不法滞在天国になってしまう」だって…… 立民・藤岡議員の妄言


「〇〇のくせに」という思考

 差別扇動で商売するゴミクズ新聞のサイトには、あまりリンクをはりたくないのですが。


運転免許証に在留期間記載なく「不法滞在天国に」 外国人の金属盗巡り立民・藤岡氏が指摘 - 産経ニュース(2025/5/23 12:55)


 国会質問などで外国人への嫌悪をあおるのが、議員にとって人気取りの有効な手段になっているということなのだろう。

 それにしても、「不法滞在天国」なんて言葉、よくもまあ口から出てくるものだと、ある意味感心してしまう。立憲民主党の衆議院議員・藤岡隆雄(栃木4区)の発言である。


また、藤岡氏は「不法滞在の人が在留期間を越えていて自動車を運転しても、不法滞在以外はなんの問題もないのか」との疑問をぶつけた。警察庁は「運転という観点では無免許運転には該当しない」と語った。藤岡氏は「不法滞在で運転はオーケーなら、やはり、不法滞在天国になってしまう懸念がある」と指摘した。


 運転免許が取得でき、自動車を運転できるというだけのことがなんで「天国」なのか、さっぱりわからない。

 差別主義の考え方におかされると、たとえば外国人なら外国人が、あるいは女性なら女性が、人間としてあたりまえのことをするのが「分不相応」だとか「生意気」だとかみえるものだ。男がやれば普通とされることでも、同じことを女がやると、「女のくせに」とかそういうことを言い出す。

 こういう差別主義的な考えは、相手になにか責められるような非があるようにみえるときには、いっそう勢いづく。たとえば外国人のなかでも、「不法滞在」というルール違反をおかしている相手だと思えば、ますます「〇〇のくせに」という、まさに差別的としか言いようのない発想をぶつけてもよいのだとなる人間はいるのだ。

 そういうわけで、藤岡とかいう議員のような人間には、「不法滞在のくせに運転免許を取得できるなんて!」「不法滞在で運転がオーケーなのか!」などというばかげたことが、おどろきポイントになってしまうのである。

 この人の「不法滞在天国になってしまう懸念がある」という発言なんて、どうみても誇大妄想としか言いようのないものだけれど、こういう発言が一定の有権者にウケるという計算があるのだろう。実際、産経新聞という排外主義的な連中を読者とする新聞がこうしてくわしく国会質問の様子を記事にして宣伝してくれているわけだし。



「天国」?

 上の産経の記事によると、藤岡が「不法滞在天国になってしまう」として、懸念してみせているのは2点あるようだ。ひとつは、運転免許証に在留期間が書かれていない、また在留期間が切れても免許証としては有効であるため、本人確認のための証明書に使えてしまうこと。もう1点が、さっき引用したように、在留期間が切れても免許証としては有効なので車の運転ができるということ。つまり、(在留期間が切れていることをあかさずに)本人確認ができたり、車の運転が合法的にできたりすることが、「不法滞在天国」だと言っているわけである。

 入管庁が出している入管白書をみると、超過滞在者(在留期間が切れて日本にとどまってる人。入管は「不法残留者」と呼んでいる)は、2024年1月時点で79,000人ほど。

 この人たちの実態を私はくわしく知っているわけではないけれど、「天国」じゃないと思うよ。

 大っぴらに就労できないので仕事みつけるのも大変だし、当然そのぶん条件のよくない仕事ばかり。健康保険に加入できないので病気やケガでも病院に行くのにためらわざるをえない。警察や入管に摘発されると、送還や入管施設への収容の危険がある。このことは、どうしても帰国できないという事情のある人(8万人弱のうちのごく少数だろうけれど)にとっては、非常に深刻な問題だ。なにか困った状況になっても、こわくて警察などをたよるのも難しい。ウィシュマさんだって、DVからのがれようと警察に行ったら、入管送りにされて、しまいには殺されたではないか。運転免許証の交付を受けられるぐらいで「不法滞在天国になってしまう」とか、ばかげた言いぐさにもほどがある。

 入管庁の報道資料によると、退去強制処分を受けて仮放免状態にある人は、2,448人(2024年末現在)だそうだ。こちらは、入管に自主出頭したり超過滞在を摘発されたりなどして、収容は解かれているものの定期的な出頭義務を課して入管が住所などを把握している人の人数。この退令仮放免者と呼ばれる人びとの状況は、私もある程度具体的に知っているけれど、「天国」などと言えるようなハッピーな暮らしをしている人はいない。就労は禁止され、移動の自由は住んでいる都道府県内に制限され、国民健康保険ふくめ社会保障から排除されている。1~2か月ごとの入管への出頭日のたびに、「収容されるかもしれない」「送還されるかもしれない」との恐怖にさらされる。

 仮放免の人なんかは、難民ふくめ国籍国には帰れないという人が多いし、退去強制処分が出てから10年以上という人はぜんぜんめずらしくない。日本での生活が20年とか30年超とかの人もざらにいる。そんな人たちをこれからどうするのかという問題はわきに置くにしても、現に日本に存在し生活している人たちである。車を運転する必要のあるという場合もあるだろうし、本人確認のために運転免許証があると便利だということもあるだろう。そういう生活のささやかな、しかし切実な必要性のあることについて、「不法滞在のくせに運転がオーケーなのか」「不法滞在天国だ」などという理屈にもならない言いがかりをつけるのは、やめてほしい。

 そもそも運転免許というのは、運転の適性のある人に免許を与えることによって道路交通の安全を確保するためのものであるはずで、それを一部の人間から取り上げていじわるすることで人気取りするためのものなんかではない。



「在留活動の禁止」という理屈

 産経新聞がくわしく報じている藤岡議員の国会質問は、入管からの入れ知恵があったのかどうか知らないけれど、その思想が入管っぽいなあという感想を私はいだいた。

 10年近くまえのこと。ある仮放免の人が、役所から紹介されて図書館の蔵書整理のボランティアに参加したことがあった。仮放免には、報酬を受ける活動はしないという条件がつけられているのだけれど、報酬のない活動には参加しても問題ないだろうとその人は判断したのだった。

 ところが、その人が住んでいた地方の入管支局が、これにいちゃもんをつけてきた。仮放免は「在留活動」が禁止されるので、報酬を受け取らないボランティアでもダメなのだという。

 「在留活動の禁止」? 「在留活動」とは何なのか? 道ばたに落ちているゴミを拾うのは「在留活動」か? 来客にお茶を出したり料理をふるまったりするのも「在留活動」か。車を運転して家族を送迎するのは? 息を吸ったりウンコしたりするのも外国人が日本でやれば「在留活動」だろうか?

 結局、図書館ボランティアの件は、入管地方支局に本人と家族・支援者が抗議し、本省(当時の法務省入管)にも問い合わせるなどして、仮放免者がおこなっても問題ないということになったのだと記憶するが、この「在留活動」というのは、その中身をいくらでも拡大して解釈できるところがミソである。

 そして、「在留活動の禁止」うんぬんということは、末端の職員が勝手に言っていることではなく、入管が組織として公式に言っている理屈だ。たとえば、以下の「収容・仮放免に関する現状」と題された入管庁作成の資料*1


収容・仮放免に関する現状[PDF]


 この資料の2枚目で「収容の制度概要」を説明するところに「退去強制手続は,送還の確実な実施,本邦における在留活動の禁止の目的から,身柄を収容して行うのが原則」と書いてある。

 「身柄を収容」する目的として、「送還の確実な実施」とあわせて「本邦における在留活動の禁止」というものがあげられている。これはおそらく、送還の見込みのない人が長期間収容される事例が多々あることを正当化するために言っていることだろうと考えられる。収容は、送還の実施のためだけではなく、「在留活動」をさせないためのものでもあるのだから、当面送還の見込みのない人を継続して収容することがあっても、いたしかたがないのだ、と。

 で、仮放免によって収容を解く場合でも、退去強制手続きにおいては「在留活動の禁止」が原則であるといったところが、図書館でのボランティア活動にいちゃもんをつけた入管職員の理屈であろう。

 このいちゃもん(どうみても嫌がらせ目的の「いちゃもん」でしょ?)にあっては、その理屈は入管の組織で用意しているわけである。その理屈をつかって、末端の職員が仮放免者などにいじわるをする。「在留活動」という言葉はいくらでもその意味を拡大して解釈できるから、職員の悪意しだいで、何でも言える。報酬もらってなくても「活動」だからダメだ、と。

 さすがに食事したり就寝したり子どもが学校に通ったりすることまで「在留活動」だからダメとは言わないかもしれないが、ディズニーランドに遊びに行くとかだったら、底意地のわるい職員だったらダメだとか言いだしかねない。

 「いじわる」とか「嫌がらせ」という言葉を使うと、語弊があるようにみえるかもしれない。しかし、執行部門という部署で働く入国警備官は、退去強制処分を受けた外国人に対して、処分を受け入れて飛行機のチケットを自費で買って帰国するよう「説得」することも職務として課されているのだ。仮放免者の図書館ボランティアにいちゃもんをつけた職員は、むろん職務として「説得」をおこなったものでもあるけれど、それは職務として「いじわる」「嫌がらせ」をしたということでもある。入管は職員に「いじわる」「嫌がらせ」を職務としてやらせているのである。

 図書館ボランティアの事例では、本人たちからの抗議があって、さすがにそこまで禁止するのはやりすぎでしょということに組織としてなったようだが、抗議がなかったり弱かったりすれば、嫌がらせは成功ということになっただろう。警察や役所のような公権力とヤクザなどならず者が、一見ばらばらに行動しているようで役割分担して連携しているのはよくあることだが、入管はそういう連携を組織内でもやっている。職員にもいろんな人がおり、そこは他の集団となんら変わらないと思うけれど、人をいじめるのが好きなひどく性格のわるいやつとか、あるいはある意味きまじめで融通のきかないタイプが、職務としていじわる・嫌がらせをする役目を買ってでているようである。もちろん、職員個々の問題と言うより、組織の問題ではある。



社会の入管化、排外主義天国

 藤岡とかいう議員の国会質問に話をもどそう。

 産経の記事をみるかぎり、この人の一連の国会質問は、まさしく入管の「在留活動の禁止」という発想を体現したものにみえる。この人がもし入国警備官だったら、「仮放免者がボランティア?」「これでは不法滞在天国になってしまうではないか」と意気込んでいじわるにはげむであろう。

 「藤岡議員よく言った」とばかりに記事にする産経の記者とか、その記事読んで「不法滞在でも運転免許が交付されるなんて許せん」などといきどおる読者とかも、入国警備官になったらいや~な仕事するだろうな。

 入管がひっそりとおこなっていたことが、国会質問の場で堂々とおこなわれ、肯定的なかたちで報道もされているのをみると、入管的なものが社会全体に広がりつつあるというか、社会が入管化しつつあるという感をいだいてしまう。「不法滞在天国」というより、「排外主義天国」ですわ。



*1: 「収容・送還に関する専門部会」の第3回会合(2019年11月25日)における入管庁による配布資料。

2025年5月8日

神隠し


  5月の大型連休になると思い出すことがある。

 40年もまえのこと、東北地方にある中学校に入学したてのころだった。

 ちょうどソ連のチェルノブイリで原発事故があった時期*1だが、それは今回の話とは関係がない。学校の規則で、男の生徒は学生帽をかぶって登校しなければならないことになっていたのだが、雨の中かぶらずに歩いていたら、上級生から「おめ、頭ぬらしたら放射能ではげるど。帽子かぶれ」と注意された。その先輩も帽子はかぶっていなかった。学生帽をかぶる規則などほとんどだれも守っていなかった。先輩が言いたかったことは、1年坊主のくせに校則無視するな、ナマイキだぞ、というところだろう。

 今にして思うに、規則とかルールとかいうものについての貴重な知見をこのときに得たのだと思うけれど*2、それは今回書こうとすることとあまり関係はない。

 私が当時くらしていた地域は、例年4月の後半ごろが桜の見ごろで、それは開花時期によって変わるけれど、4月末からの大型連休に街中の公園で敷物をしいて花見をした記憶もある。屋台なども出てにぎやかだった。



 4月下旬のある日、授業時間中の余談としてだったか、教師が話し始めた。連休をむかえるにあたっての注意喚起であった。

 昔その先生の教え子だった女性の話。連休のある日、中学生だった彼女は友人たちといっしょに桜の名所として有名な公園に出かけたそうだ。ところが、その日以来、家に帰ってくることはなかった。いっしょに花見にでかけた友人たちも彼女の行き先は知らず、家族は警察に捜索願を出したが、そのゆくえはついぞわからなかった。

 何年かがすぎ、また桜の咲く季節になった。中学のときの友人がばったりと彼女にでくわした。数年前に彼女の失踪したおなじ公園でのこと。立ち並んだたくさんの屋台のひとつで、彼女はいそがしく働いていた。

 聞くと、数年前ここに花見に来たとき、屋台で働く青年からアルバイト代を払うから少し店を手伝わないかとさそわれたのだという。店の仕事は楽しかったし、青年とも気が合ったので、青年とその家族らについていくことにした。それ以来、各地の縁日や祭りをまわりながら屋台で仕事をしながら暮らしている、と。



 教師がこの話を私たちにしたのは、連休の過ごし方についての注意喚起としてであったと思う。休みになると君たちも心がうわつくものであるし、いろいろな誘惑もあるので、思わぬ大変な目にあうこともあるから注意しなさい、知らない人について行ってはいけませんよ、とか。

 先生がこの教え子の話をしたときに、もっと私たちをこわがらせようとするディテールがそこに盛り込まれていたような気もする。数年ぶりにあらわれた彼女はかわいそうにやつれていたとか、ふけこんでいたとか、不幸そうにみえたとか。そのへんは、もうはっきりおぼえていない。

 ただ、子どもの時期からぬけようとしていた私たちに対し、教師はなにかタブーの存在を伝え、おどかそうという意図をもって話していたのはたしかだと思う。



 このある種の「神隠し譚」を教室で聞いたのは、40年も昔のことである。今やもうずいぶんと年をとった。しかし、なぜか私はそのときの心持ちを――ひんぱんではないものの――くり返し、思い出してきた。

 今いるところにうんざりしていて、そこからふっと消え去ってしまいたい。そういう欲求は当時たしかにいだいていたし、それは切実といえば切実だった。教師の語った物語は、そんな欲求は持つなと禁じようとするものだったけれど、その禁じようとする行為がかえってそれの禁じようとする欲求がそうおかしなものではないということをあかしているようにも思えた。で、その欲求を実現できる可能性もあるのだなと漠然とであれ思えることは、すこし痛快でもあった。

 結果的に私は、当時の家族や学校での人間関係から蒸発するようにいなくなることを選ばなかった。でも、選ぶこともありえたんだよな、私たちは。そこは思いのほか紙一重なのではないだろうか。

 そんなことを思うのは、たんなるノスタルジーのせいでもない。いま私の出会う人たちのなかにも、「この人はかつて生まれ故郷からふらっとゆくえをくらましてきたのかな」と思われるひとも少なくはない。他者というのは、自分のかつて選ばなかった選択肢を選んだ人であったり、あるいは自分の生きなかった可能性をげんに生きているひとであったりもする。そういう他者と出会うことは、よろこばしいことでもある。




*1: 事故発生は1986年4月26日。
*2: たとえばヤフーニュースのコメント欄やSNSなどで、「不法滞在者は犯罪者だ! 強制送還しろ」というような書きこみをしているバカをみかけると、40年まえ私に「おめ、放射能ではげるど」と言ったその上級生を思い出す。上段から人を見下ろして「身のほどを知れ」といばりちらすために規則やルールが都合よく持ち出される例はしばしば観察されるところではある。しかし、そんなふうに人間関係に上下の差別をつけるということは、たんなる規則やルールの「悪用」の結果ということではなく、規則・ルールというものが避けがたくもたされてしまう機能なのではないか。

2025年4月28日

「うその難民申請」を犯罪としてあつかう???


うその難民申請をした疑いでネパール人の男を書類送検 宮城県内では初の立件|FNNプライムオンライン(2025年4月25日 金曜 午後4:45)


 仙台放送の報道ですが、県警のやっていること、めちゃくちゃである。


おととし5月、うその難民申請をして日本に在留したとして、宮城県警はネパール国籍の男を書類送検しました。

虚偽申請違反の疑いで書類送検されたのは、栃木県に住むネパール国籍の男(34)です。警察によりますと、ネパール国籍の男性はおととし8月、難民認定に関する調査などを行う東京出入国在留管理局で、難民ではないのに「宗教上のトラブルで難民になった」とうそをつき、在留資格の許可を不正に受けた疑いが持たれています。


 まず疑問が浮かぶのは、宮城県警はどうやって「うその難民申請」だと判断したのか、ということである。

 上の記事の引用しなかった部分を読むと、県警はこの男性を別件(「不法就労」あっせんの容疑)で逮捕し、調べていたようである。おそらく、その調べの過程で、難民申請の内容がうそだったという本人の供述を引き出したということなのだろう。ニュースでは、男性が「金を稼ぐためにうその難民申請をした」と容疑を認めているということも報じている(県警がプレスにそう言っている、ということですね)。

 で、かりにこの人がそう「自白」したのだとして、それをうらづける根拠となるものはあるのだろうか。

 難民申請は、申請者本人が申請書類に記入して地方入管局に提出するものなので、その申請書は入管が保有している。しかし、その内容はきわめてセンシティブな個人情報であって、本人の同意なく第三者にもらしてよいものでは、けっしてない。たとえば、政治的な主張、活動の履歴、所属している党派、信仰、セクシュアリティなど、難民申請者にとって生命にもかかわりうるような秘匿すべき情報がそこにはふくまれていることがある。

 だから、入管が警察であれ第三者に個人の難民申請の内容を勝手に伝えるということはあってはならないし、ないはず(さすがに「ない」と思いたい)である。

 とすると、宮城県警は、本人の供述だけで、この人の難民申請を虚偽申請と判断して、送検したということだろうか。



 警察がどういうふうに「虚偽申請」だと判断したのかというところも疑問なのだが、そもそも、難民申請について「虚偽申請」を刑罰の対象にしてよいのか、という問題もある。

 もちろん一般論としては、虚偽の申請によって不正に利益を得ることを防止するため、これに刑罰を科すことが必要な場面があるということは、わかる。しかし、難民申請について、その一般論がなりたつだろうか。

 まず、先に述べたように、どうやって申請内容を虚偽だと判断するのかということがある。申請書類に警察などがアクセスするなど許されるべきでないし、アクセスしたとしても、申請内容がうそであるという判断を司法がどうして下せるのか。

 また、申請内容が警察ふくむ第三者にもれることがありうるとなったら、こわくて申請をためらうという人も出てくる可能性があるのではないか。難民認定制度は、命を救うための制度であるわけで、申請のハードルを上げるような要因はできるだけ取りのぞくべきだ。

 「虚偽申請」を刑罰の対象にしようとすること自体、申請のハードルを上げるねらいなのはあきらかだけれども、命を救うための制度でこれをやるのは、どう考えてもそぐわない。難民認定制度というのは、一応は「保護の必要な人は申請してください」という制度であるはずで、「刑罰を科すぞ」とおどして申請の心理的障壁を高くするのは、まったくもってちぐはぐである。

 「うそをつかなければいいじゃないいか」と言う人がいるかもしれないが、そう思えるのは、警察などを無批判に信頼できる、おめでたい人たちだけである。

 そういうわけで、難民申請について「虚偽申請」を犯罪としてあつかい刑罰の対象にするということには、いくつもの疑問をぬぐえない。


2025年3月31日

黙認から取り締まり強化へ 2000年ごろの政策転換

 

 5年ほど前にとあるSNSに投稿した文章を2つ、このブログ記事の下のほうに転載します。

 「2003年ごろの新聞記事シリーズ」と称して、当時の新聞記事を紹介しつつ、この時期にあった非正規滞在外国人をめぐる政策の変化、そのひとたちをとりまく社会の変容について考える糸口にしたいなあと思っていたのですが。まあ、あきっぽい性格なので「シリーズ」と言いながら2回だけ投稿しただけで、あとが続きませんでした。

 この2000年ごろに始まった日本政府の外国人政策の転換をどう理解し評価するのかということは、入管収容の問題、あるいは仮放免者と呼ばれる人びとがおかれている問題を解決するために見落とせない重要な要素のひとつだと、私は考えています。そういうわけで、当時の新聞記事を調べたりといった作業をちょっとずつやってたのです。

 そうやって集めた資料の一部は、仲間といっしょに以下のパンフレット(リンク先からPDFファイルをダウンロードできます)をつくるときに、活用しました。


なぜ入管で人が死ぬのか~入管がつくり出す「送還忌避者」問題の解決に向けて~
(2022年、入管の民族差別・侵害と闘う全国市民連合事務局 発行)


 現在ではよく知られるようになった入管収容や「仮放免」をめぐる人権侵害問題がどういう機序で起こっているのか。パンフレットではこの問題が、最近20年ほどの入管の政策・制度運用の変化と連続性を参照しながら分析されています。手前みそになりますけれど、なかなかおもしろい読み物だと思います。

 以下に転載する投稿を読んで興味をもたれたかたは、上にリンクしたパンフレットも見にいっていただけるとさいわいです。


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転載(1) 2020年3月24日の投稿

『日経新聞』
03年12月24日

 写真(クリックすると大きくなります)は、2003年12月24日の日経新聞の記事です。

 ちょっとわけがあって、この時期の非正規滞在外国人に関する記事をあつめています。

 政府による「不法滞在者半減5か年計画」なるものが始まるのがこの翌年の04年。入管だけでなく警察も連携するかたちで強力な摘発は、03年ぐらいに開始されています。

 記事では「黙認のツケ」と書いてますが、ビザのない外国人の存在を一定程度「黙認」して労働力として利用する政策からの転換がこの時期にはかられたのです。

 09年には入管法が改正され、12年に在留カードが導入されることがきまります。こんどまた書きますけど、この新しい制度というのは、ビザのない外国人は日本に存在しないということを前提としたものです。この新しい在留管理制度は、ビザのない人がなんとかかろうじて生きていくためのスキマのようなところを、徹底的につぶしにかかろうという意味のものだったと思います。

 日経新聞の記事では、「来日外国人による凶悪犯罪が増加の一途をたどる中」などと根拠のない、かつ差別をあおるようなろくでもないことを書いてますが、興味深いのは、摘発強化が零細企業の経営を直撃しているというところです。日本の産業がどれほどビザのない外国人労働者に依存してきたのかということの一端がここにあらわれています。

 03年以降というのは、現在の収容長期化問題がどのような経緯で生じてきたのか考えるうえで、決定的に重要な時期(のひとつ)だと思ってます。またこんど、この時期の新聞記事などで興味深いものをここにあげていこうと思います。



転載(2) 2020年3月28日の投稿

2003年ごろの新聞記事シリーズ第2弾

『朝日新聞』夕刊
03年7月11日

 1つめの画像は、外国人登録の手続きをする非正規滞在者が増えているという記事。03年7月11日の朝日新聞夕刊です。

 80年代後半から90年代前半から日本でくらしている人も、在留期間が10年をこえてきているわけで、生活の必要上、外国人登録をする人も増えてくるわけです。すでにこの時期に、いわゆるニューカマーの外国人住民の定住がすすんでいるということが、こういったニュースにもあらわれていると思います。

 外国人登録の情報を管理していたのは市役所などの自治体です。某市役所の市民課にむかし勤めていたひとに聞いたところ、外国人登録で「在留資格なし」という人はけっこういたけれども、そんなものをわざわざ問題にする雰囲気はなかったし、いわゆる「不法滞在」を入管に通報するなんて考えられなかったといいます。

 下の記事は、その3か月後の朝日新聞(03年10月22日付)。

 入管が外国人登録証の申請情報をつかって、1600人以上の非正規滞在者を摘発したというニュース。自治体が入管に求められてビザのない人の情報を提供したというわけでしょう。住民にサービスを提供するのが自治体の仕事。そのために保有している住民の情報を、そういう目的とぜんぜんちがうかたちで入管にわたすのは、けしからんです。

 03年ごろに開始される非正規滞在者の集中摘発が、入管だけではなく、警察や地方自治体など他との機関との連携・連絡のもとすすめられのだということも、このニュースにあらわれているかと思います。

『朝日新聞』03年10月22日










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 転載は以上です。

 現在「仮放免」という生存権の否定された状態におかれている3,000人ほどのうち、一定数(正確な数字はわかりませんが、少なくない人数ではあります)は、2000年代はじめごろの政策転換をまたいで日本でくらしてきた人たちです。日経新聞の記事のいうところの「黙認のツケ」を政府は、また日本社会は、いまだ清算していない、ということだと思います。


2025年3月29日

日本テレビの差別扇動について

 

 差別によって問題がおきたときに、その関係者たちはそれがあたかも差別によっておこった問題ではないかのように処理しようとするということが、しばしばある。このことが、差別の問題に対処しようとするときのなかなかやっかいなところのひとつではないだろうか。

 日本テレビの番組がひきおこした以下の件も、典型的な人種主義的な差別扇動をやらかしたという問題なのに、テレビ局はあたかも差別とはべつの問題であるかのようにこれを処理しようとしている。


日テレ・夜ふかし謝罪 中国女性「カラス食べる」と言っていないのに:朝日新聞(2025年3月27日 22時04分)


 日本テレビは27日、バラエティー番組「月曜から夜ふかし」の街頭インタビューで、中国出身の女性が「中国ではカラスを食べる」という趣旨の発言をしていないのに、制作スタッフが意図的に編集したとして番組公式サイトでおわびした。

 サイトによると、24日の放送で、女性が中国ではカラスがあまり飛んでいないという趣旨の発言をした後、「みんな食べてるから少ないです」「とにかく煮込んで食べて終わり」といったコメントが続いた。

 しかし、実際には女性が「中国ではカラスを食べる」という趣旨の発言をした事実は一切なかったという。

 別の話題について話した内容を制作スタッフが意図的に編集し、女性の発言の趣旨とは異なる内容にしていたという。(後略) 

 


 問題を2つにわけて考えることができる。

 ひとつは、番組制作者がこの女性の発言を勝手に改変し、この人が言っていないことをまるで言ったかのようにねつ造したという問題。

 もうひとつは、こうした発言の改変・ねつ造が人種主義的な差別行為にほかならないということだ。番組制作者が中国人女性の発言をでっちあげることを通じて視聴者に発しているメッセージは、「あいつら〇〇人は、(われわれがけっして食べない)△△を食うヤバンなやつらだ」という形式のもので、人種主義的な差別扇動として典型的なもののひとつである。(最近でも、デビ夫人やトランプがこの種の差別扇動をやっていたよね。)

 さて、番組の公式サイトでは、この件で「お詫び」をのせている。


月曜から夜ふかし|日本テレビ


 ところが、この「お詫び」文には、差別に関係する問題であるとして反省していることを示す文言がいっさいない。「このインタビューは、制作スタッフの意図的な編集によって女性の発言の趣旨とは全く異なる内容となってしまいました」として、改変・ねつ造をおこなったことを謝罪するにとどまっている。

 これはとても奇妙なことにみえる。番組がおこなったのは、たんなる発言の改変・ねつ造ではなく(それだけでも十分に問題ではあるけれど)、あきらかな人種差別の扇動なのだから。そこを知らんぷりして、どうやって「再発防止に努め」るというのか。

 番組のサイトでは、「日本テレビでは、直ちに今回の事実関係及び原因の確認を行うとともに、改めて番組制作のプロセスを徹底的に見直し」ますということなので、今後の検証作業を待ちたいところではある。これが差別の問題だということを直視し、きちんとそのことに向き合う検証をしてほしい。そこがむずかしいんでしょうけど。

【番組公式サイトに掲載された「お詫び」】




追記(5月15日)


 日本テレビの番組公式サイトhttps://www.ntv.co.jp/yofukashi/で、停止していた「街頭インタビュー」を再開するとの発表が12日にあったようである。

 当番組では、様々なテーマに沿って、街行く人の個性豊かなお話を放送してまいりました。多くの方に番組を楽しんでいただけるよう、そしてインタビューに応じていただいた方に「協力して良かった」と思っていただけるよう、スタッフ一同努めてまいりました。

 しかしながら、この度、不適切な編集をしたインタビューをそのまま放送してしまい、ご協力いただいた方に多大なご迷惑をおかけし、視聴者の皆様の信頼も裏切ってしまいました。あらためて心よりお詫び申し上げます。

 問題発覚後、直ちに街頭インタビューを停止して制作プロセスを見直しました。そして、同じ過ちを繰り返さないために、インタビューでお話しいただいた内容を複数の番組スタッフ、そして番組担当外の日本テレビ社員もチェックし、適切な編集かどうか確認することにいたしました。さらに、番組内で制作モラル向上のための研修を繰り返し実施することにいたしました。

 これらの再発防止策を実施できる体制が整ったため、街頭インタビューを再開することにいたしました。


 「不適切な編集」とはどう「不適切」だったのか。また、「同じ過ちを繰り返さないために」というというの「同じ過ち」とはなにか。日本テレビや番組スタッフがそこをどう認識しているのか、この文章を読んでもさっぱり明らかでない。
 「[インタビューに]ご協力いただいた方に多大なご迷惑をおかけし、視聴者の皆様の信頼も裏切ってしまいました」という一文から、発言の改変・ねつ造をおこなったことを問題だとしているのかなとかろうじて読みとれるけれど、その改変・ねつ造が人種差別的なものであったというところへの問題意識は文章全体をみてもまったく読みとれない。
 予想通りではあるが、やはり差別の問題にはまったく向き合うことないまま、再発防止策をとったことにしてこの問題は終わったことにしようという姿勢のようだ。

【番組の公式サイトに掲載された
「街頭インタビュー再開について」
との文章】



2025年3月28日

いじのわるい蛇口


 散歩でとおった公園の公衆トイレ。手をあらうときの蛇口のいじわるぶりにおどろきました。



【動画の説明】
手洗い用の蛇口を右手でひねる様子を撮影した動画。
ハンドルをひねると水が出るが、
手をはなすとバネでハンドルがもどり、
水が止まってしまう。


 右手か左手かどちらかでハンドルをおさえていないと水が流れなくなってしまうので、両方の手をゴシゴシこすりあわせて洗うという動作ができません。もうひとりだれか手伝ってくれる人がいてハンドルを持って水を流しててくれればべつですが、そんな人はいなかったので、片手ずつ水をかけるぐらいしかできませんでした。

 どちらかの手にまひがある人とかだったら、それすらひとりではできないかもしれませんね。

 私はとくに身体傷害などないのですが、こういう蛇口では手を洗うのに非常に支障があるわけです。つまり、ハンドルをひねると水が流れっぱなしになる一般的な蛇口とくらべて、おそらく《だれにとっても》使いにくい仕様のものをわざわざ設計して設置したということなのです。

 なんでこんなものを設計・設置したのでしょうか。これは市が管理する公園の公衆トイレです。市に聞いてみないとはっきりしたことは言えませんけれど、まぁ、野宿する人を排除する意図での設計だとみてまちがいないでしょう。頭や体を洗ったり衣服を洗濯したりできなくなるようにいじわるするためにこういう設計にしたのでしょう。

 こういうものをつくる人間というのは、そういう一定のひとへの悪意をなによりも優先して大事にするんですね。その結果《多数者ふくめただれにとっても》不便なシロモノができあがってもかまわないというくらいに。

 行政などによる野宿者の排除は、「みんなの場所」「公共の場」を「一部の人」が「占拠」「独占」するのをゆるすべきでないという理屈ですすめられてきたわけですけれど、そうした公共性の意味をゆがめ骨抜きにする思考のゆきつくさきのひとつが、この公衆トイレのおかしな蛇口であるよなあと思いました。


2025年3月4日

3・6ウィシュマさん追悼アクション


 名古屋入管で収容されていたウィシュマ・サンダマリさんが亡くなったのは、4年前、2021年でした。

 今年も命日にあたる3月6日には、各地でウィシュマさんを追悼する行動がとりくまれるようです。私は大阪でのスタンディングに参加してこようと思います。


◆3・6ウィシュマさん追悼アクション in 大阪◆

3月6日(木) 19:00~20:00

梅田ヨドバシカメラ前

スタンディングアクション


3・6ウィシュマさん
追悼アクションin大阪

 ちょうど1年前の3月に某所に投稿した文章が出てきたので、あらためてここにのせておきます。


#ウィシュマさんを忘れない

 3年前の3月6日、名古屋入管でウィシュマ・サンダマリさんが命を落としたのは、まぎれもなく拷問死でした。

 「拷問死」という言葉を使ったのは、比喩(まるで……のようだ)でもなければ、誇張でもありません。ウィシュマさんは、文字通りの意味で日本の入管による拷問で、命を奪われたのです。

 送還を拒否する人に対して、無期限収容・長期収容によって、自分から帰国するように追い込む。まさに、心身をいためつけることで相手の意思を変えようとすることであり、「拷問」と呼ぶべきです。しかし、日本政府は入管施設での収容が拷問であることを隠してすらいません。

 入管がウィシュマさんを殺害した当時の法務大臣上川陽子は、収容期間に上限をもうけるべきではないかと記者から問われ、「[上限をもうければ]収容を解かれることを期待しての送還忌避を誘発するおそれもあるということでありまして,適当ではない」と答えました。無期限収容・長期収容が帰国を強要するための手段であることを、あけすけに認めた発言です。奇しくも、ウィシュマさんの亡くなる前日、2021年3月5日の記者会見でのことです。

 ウィシュマさんの命は、早期に収容を解いていれば、そうでなくても点滴治療をしていれば、あるいは救急車を呼んでいれば、失われるはずがなかった。どれもぜんぜん難しいことではないですが、名古屋入管がそれをしなかったのは、収容を継続すること、ウィシュマさんに帰国を強要することを優先したからです。

 「救えなかった」のではない。119番に電話すれば、容易に救えたのだから。名古屋入管はウィシュマさんを「拷問のすえ殺した」のです。

 あきらかに国家犯罪ですが、名古屋地検は不起訴処分としてこの国家犯罪を不問にしました。

 しかし、だからといって、殺人者たちの責任を問い、入管施設でのこれ以上の拷問死をなくすことを、あきらめるわけにはいきません。ウィシュマさんが命を奪われたことを機に、また妹さんたちご遺族が真相解明・責任追及・再発防止のために声をあげておられる姿を目にして、自国の国家機関が日々おこなっている犯罪を許してはいけないと声をあげる仲間たちがふえていると思います。私もともに、取り組んでいきたいと思います。


 1年前に書いた文章ですが、やはり今年もおなじことを言わなければなりません。

 刑事事件としては、23年9月に名古屋地検が「嫌疑なし」(「証拠不十分」ですらなく!)ということで不起訴処分で決着させました。名古屋地裁での民事の裁判(遺族が訴えた国家賠償請求訴訟)では、国側はいまだウィシュマさんが亡くなるまでを記録した監視カメラ映像(295時間分)の開示をこばんでいます。国・政府をあげて、自分たちの責任が問われうる証拠を隠蔽し、身内でかばいあって、事件の真相究明を妨害しつづけているわけです。

 そのいっぽうで、当時の上川法務大臣が「収容を解かれることを期待しての送還忌避を誘発」しないためだと公言した無期限収容による帰国強要=拷問は、いまも各地の入管施設で続けられています。

 ウィシュマさんが日本国家によって拷問死させられた事件については、国の責任を追及することがいまだ欠かせない課題としてある。国がその責任から目をそむけ、逃げまわっているため、民事訴訟をつうじて遺族がその最前線に立たざるをえない状況になっています。市民として、国の責任を問う声をあげなければならないということだと思います。


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 3月6日の各地でのアクションの情報をのせておきます。

【名古屋】

日時:2025年3月6日(木)10:30~11:30

場所:名古屋入管前

内容:名古屋入管へ真相究明・再発防止を求める申入れ、スタンディングアクション

主催:START~外国人労働者・難民と共に歩む会~/名古屋入管死亡事件弁護団


【愛知県愛西市】

日時:2025年3月6日(木)

忘れなの鐘つき

14:15~ 有志の僧侶によるお勤め(真宗大谷派)

14:45~ 琴の奉納演奏(約10分)

15:00~ 支援者の報告など

15:25  鐘撞き(ウィシュマさん死亡時刻)3回

のち黙祷

ご遺族の挨拶

場所:明通寺
※下に掲載したチラシ画像参照


【東京】

日時:2025年3月6日(木)13時~14時

場所:東京出入国在留管理局前

内容:入管への申入れ、スタンディングアクション

主催:BOND~外国人労働者・難民と共に歩む会~


ウィシュマさん追悼アクション
2025年開催マップ

※画像では名古屋のスタンディングアクションが
「10時~11時」と記載されていますが、
運営から10:30~11:30に変更する
とのアナウンスがありました。


「3・6 忘れなの鐘つき」チラシ



 当日は、ハッシュタグデモもおこなわれます。


3.6ウィシュマさん追悼
ハッシュタグデモ