2025年4月28日

「うその難民申請」を犯罪としてあつかう???


うその難民申請をした疑いでネパール人の男を書類送検 宮城県内では初の立件|FNNプライムオンライン(2025年4月25日 金曜 午後4:45)


 仙台放送の報道ですが、県警のやっていること、めちゃくちゃである。


おととし5月、うその難民申請をして日本に在留したとして、宮城県警はネパール国籍の男を書類送検しました。

虚偽申請違反の疑いで書類送検されたのは、栃木県に住むネパール国籍の男(34)です。警察によりますと、ネパール国籍の男性はおととし8月、難民認定に関する調査などを行う東京出入国在留管理局で、難民ではないのに「宗教上のトラブルで難民になった」とうそをつき、在留資格の許可を不正に受けた疑いが持たれています。


 まず疑問が浮かぶのは、宮城県警はどうやって「うその難民申請」だと判断したのか、ということである。

 上の記事の引用しなかった部分を読むと、県警はこの男性を別件(「不法就労」あっせんの容疑)で逮捕し、調べていたようである。おそらく、その調べの過程で、難民申請の内容がうそだったという本人の供述を引き出したということなのだろう。ニュースでは、男性が「金を稼ぐためにうその難民申請をした」と容疑を認めているということも報じている(県警がプレスにそう言っている、ということですね)。

 で、かりにこの人がそう「自白」したのだとして、それをうらづける根拠となるものはあるのだろうか。

 難民申請は、申請者本人が申請書類に記入して地方入管局に提出するものなので、その申請書は入管が保有している。しかし、その内容はきわめてセンシティブな個人情報であって、本人の同意なく第三者にもらしてよいものでは、けっしてない。たとえば、政治的な主張、活動の履歴、所属している党派、信仰、セクシュアリティなど、難民申請者にとって生命にもかかわりうるような秘匿すべき情報がそこにはふくまれていることがある。

 だから、入管が警察であれ第三者に個人の難民申請の内容を勝手に伝えるということはあってはならないし、ないはず(さすがに「ない」と思いたい)である。

 とすると、宮城県警は、本人の供述だけで、この人の難民申請を虚偽申請と判断して、送検したということだろうか。



 警察がどういうふうに「虚偽申請」だと判断したのかというところも疑問なのだが、そもそも、難民申請について「虚偽申請」を刑罰の対象にしてよいのか、という問題もある。

 もちろん一般論としては、虚偽の申請によって不正に利益を得ることを防止するため、これに刑罰を科すことが必要な場面があるということは、わかる。しかし、難民申請について、その一般論がなりたつだろうか。

 まず、先に述べたように、どうやって申請内容を虚偽だと判断するのかということがある。申請書類に警察などがアクセスするなど許されるべきでないし、アクセスしたとしても、申請内容がうそであるという判断を司法がどうして下せるのか。

 また、申請内容が警察ふくむ第三者にもれることがありうるとなったら、こわくて申請をためらうという人も出てくる可能性があるのではないか。難民認定制度は、命を救うための制度であるわけで、申請のハードルを上げるような要因はできるだけ取りのぞくべきだ。

 「虚偽申請」を刑罰の対象にしようとすること自体、申請のハードルを上げるねらいなのはあきらかだけれども、命を救うための制度でこれをやるのは、どう考えてもそぐわない。難民認定制度というのは、一応は「保護の必要な人は申請してください」という制度であるはずで、「刑罰を科すぞ」とおどして申請の心理的障壁を高くするのは、まったくもってちぐはぐである。

 「うそをつかなければいいじゃないいか」と言う人がいるかもしれないが、そう思えるのは、警察などを無批判に信頼できる、おめでたい人たちだけである。

 そういうわけで、難民申請について「虚偽申請」を犯罪としてあつかい刑罰の対象にするということには、いくつもの疑問をぬぐえない。


2025年3月31日

黙認から取り締まり強化へ 2000年ごろの政策転換

 

 5年ほど前にとあるSNSに投稿した文章を2つ、このブログ記事の下のほうに転載します。

 「2003年ごろの新聞記事シリーズ」と称して、当時の新聞記事を紹介しつつ、この時期にあった非正規滞在外国人をめぐる政策の変化、そのひとたちをとりまく社会の変容について考える糸口にしたいなあと思っていたのですが。まあ、あきっぽい性格なので「シリーズ」と言いながら2回だけ投稿しただけで、あとが続きませんでした。

 この2000年ごろに始まった日本政府の外国人政策の転換をどう理解し評価するのかということは、入管収容の問題、あるいは仮放免者と呼ばれる人びとがおかれている問題を解決するために見落とせない重要な要素のひとつだと、私は考えています。そういうわけで、当時の新聞記事を調べたりといった作業をちょっとずつやってたのです。

 そうやって集めた資料の一部は、仲間といっしょに以下のパンフレット(リンク先からPDFファイルをダウンロードできます)をつくるときに、活用しました。


なぜ入管で人が死ぬのか~入管がつくり出す「送還忌避者」問題の解決に向けて~
(2022年、入管の民族差別・侵害と闘う全国市民連合事務局 発行)


 現在ではよく知られるようになった入管収容や「仮放免」をめぐる人権侵害問題がどういう機序で起こっているのか。パンフレットではこの問題が、最近20年ほどの入管の政策・制度運用の変化と連続性を参照しながら分析されています。手前みそになりますけれど、なかなかおもしろい読み物だと思います。

 以下に転載する投稿を読んで興味をもたれたかたは、上にリンクしたパンフレットも見にいっていただけるとさいわいです。


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転載(1) 2020年3月24日の投稿

『日経新聞』
03年12月24日

 写真(クリックすると大きくなります)は、2003年12月24日の日経新聞の記事です。

 ちょっとわけがあって、この時期の非正規滞在外国人に関する記事をあつめています。

 政府による「不法滞在者半減5か年計画」なるものが始まるのがこの翌年の04年。入管だけでなく警察も連携するかたちで強力な摘発は、03年ぐらいに開始されています。

 記事では「黙認のツケ」と書いてますが、ビザのない外国人の存在を一定程度「黙認」して労働力として利用する政策からの転換がこの時期にはかられたのです。

 09年には入管法が改正され、12年に在留カードが導入されることがきまります。こんどまた書きますけど、この新しい制度というのは、ビザのない外国人は日本に存在しないということを前提としたものです。この新しい在留管理制度は、ビザのない人がなんとかかろうじて生きていくためのスキマのようなところを、徹底的につぶしにかかろうという意味のものだったと思います。

 日経新聞の記事では、「来日外国人による凶悪犯罪が増加の一途をたどる中」などと根拠のない、かつ差別をあおるようなろくでもないことを書いてますが、興味深いのは、摘発強化が零細企業の経営を直撃しているというところです。日本の産業がどれほどビザのない外国人労働者に依存してきたのかということの一端がここにあらわれています。

 03年以降というのは、現在の収容長期化問題がどのような経緯で生じてきたのか考えるうえで、決定的に重要な時期(のひとつ)だと思ってます。またこんど、この時期の新聞記事などで興味深いものをここにあげていこうと思います。



転載(2) 2020年3月28日の投稿

2003年ごろの新聞記事シリーズ第2弾

『朝日新聞』夕刊
03年7月11日

 1つめの画像は、外国人登録の手続きをする非正規滞在者が増えているという記事。03年7月11日の朝日新聞夕刊です。

 80年代後半から90年代前半から日本でくらしている人も、在留期間が10年をこえてきているわけで、生活の必要上、外国人登録をする人も増えてくるわけです。すでにこの時期に、いわゆるニューカマーの外国人住民の定住がすすんでいるということが、こういったニュースにもあらわれていると思います。

 外国人登録の情報を管理していたのは市役所などの自治体です。某市役所の市民課にむかし勤めていたひとに聞いたところ、外国人登録で「在留資格なし」という人はけっこういたけれども、そんなものをわざわざ問題にする雰囲気はなかったし、いわゆる「不法滞在」を入管に通報するなんて考えられなかったといいます。

 下の記事は、その3か月後の朝日新聞(03年10月22日付)。

 入管が外国人登録証の申請情報をつかって、1600人以上の非正規滞在者を摘発したというニュース。自治体が入管に求められてビザのない人の情報を提供したというわけでしょう。住民にサービスを提供するのが自治体の仕事。そのために保有している住民の情報を、そういう目的とぜんぜんちがうかたちで入管にわたすのは、けしからんです。

 03年ごろに開始される非正規滞在者の集中摘発が、入管だけではなく、警察や地方自治体など他との機関との連携・連絡のもとすすめられのだということも、このニュースにあらわれているかと思います。

『朝日新聞』03年10月22日










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 転載は以上です。

 現在「仮放免」という生存権の否定された状態におかれている3,000人ほどのうち、一定数(正確な数字はわかりませんが、少なくない人数ではあります)は、2000年代はじめごろの政策転換をまたいで日本でくらしてきた人たちです。日経新聞の記事のいうところの「黙認のツケ」を政府は、また日本社会は、いまだ清算していない、ということだと思います。


2025年3月29日

日本テレビの差別扇動について

 

 差別によって問題がおきたときに、その関係者たちはそれがあたかも差別によっておこった問題ではないかのように処理しようとするということが、しばしばある。このことが、差別の問題に対処しようとするときのなかなかやっかいなところのひとつではないだろうか。

 日本テレビの番組がひきおこした以下の件も、典型的な人種主義的な差別扇動をやらかしたという問題なのに、テレビ局はあたかも差別とはべつの問題であるかのようにこれを処理しようとしている。


日テレ・夜ふかし謝罪 中国女性「カラス食べる」と言っていないのに:朝日新聞(2025年3月27日 22時04分)


 日本テレビは27日、バラエティー番組「月曜から夜ふかし」の街頭インタビューで、中国出身の女性が「中国ではカラスを食べる」という趣旨の発言をしていないのに、制作スタッフが意図的に編集したとして番組公式サイトでおわびした。

 サイトによると、24日の放送で、女性が中国ではカラスがあまり飛んでいないという趣旨の発言をした後、「みんな食べてるから少ないです」「とにかく煮込んで食べて終わり」といったコメントが続いた。

 しかし、実際には女性が「中国ではカラスを食べる」という趣旨の発言をした事実は一切なかったという。

 別の話題について話した内容を制作スタッフが意図的に編集し、女性の発言の趣旨とは異なる内容にしていたという。(後略) 

 


 問題を2つにわけて考えることができる。

 ひとつは、番組制作者がこの女性の発言を勝手に改変し、この人が言っていないことをまるで言ったかのようにねつ造したという問題。

 もうひとつは、こうした発言の改変・ねつ造が人種主義的な差別行為にほかならないということだ。番組制作者が中国人女性の発言をでっちあげることを通じて視聴者に発しているメッセージは、「あいつら〇〇人は、(われわれがけっして食べない)△△を食うヤバンなやつらだ」という形式のもので、人種主義的な差別扇動として典型的なもののひとつである。(最近でも、デビ夫人やトランプがこの種の差別扇動をやっていたよね。)

 さて、番組の公式サイトでは、この件で「お詫び」をのせている。


月曜から夜ふかし|日本テレビ


 ところが、この「お詫び」文には、差別に関係する問題であるとして反省していることを示す文言がいっさいない。「このインタビューは、制作スタッフの意図的な編集によって女性の発言の趣旨とは全く異なる内容となってしまいました」として、改変・ねつ造をおこなったことを謝罪するにとどまっている。

 これはとても奇妙なことにみえる。番組がおこなったのは、たんなる発言の改変・ねつ造ではなく(それだけでも十分に問題ではあるけれど)、あきらかな人種差別の扇動なのだから。そこを知らんぷりして、どうやって「再発防止に努め」るというのか。

 番組のサイトでは、「日本テレビでは、直ちに今回の事実関係及び原因の確認を行うとともに、改めて番組制作のプロセスを徹底的に見直し」ますということなので、今後の検証作業を待ちたいところではある。これが差別の問題だということを直視し、きちんとそのことに向き合う検証をしてほしい。そこがむずかしいんでしょうけど。

【番組公式サイトに掲載された「お詫び」】




追記(5月15日)


 日本テレビの番組公式サイトhttps://www.ntv.co.jp/yofukashi/で、停止していた「街頭インタビュー」を再開するとの発表が12日にあったようである。

 当番組では、様々なテーマに沿って、街行く人の個性豊かなお話を放送してまいりました。多くの方に番組を楽しんでいただけるよう、そしてインタビューに応じていただいた方に「協力して良かった」と思っていただけるよう、スタッフ一同努めてまいりました。

 しかしながら、この度、不適切な編集をしたインタビューをそのまま放送してしまい、ご協力いただいた方に多大なご迷惑をおかけし、視聴者の皆様の信頼も裏切ってしまいました。あらためて心よりお詫び申し上げます。

 問題発覚後、直ちに街頭インタビューを停止して制作プロセスを見直しました。そして、同じ過ちを繰り返さないために、インタビューでお話しいただいた内容を複数の番組スタッフ、そして番組担当外の日本テレビ社員もチェックし、適切な編集かどうか確認することにいたしました。さらに、番組内で制作モラル向上のための研修を繰り返し実施することにいたしました。

 これらの再発防止策を実施できる体制が整ったため、街頭インタビューを再開することにいたしました。


 「不適切な編集」とはどう「不適切」だったのか。また、「同じ過ちを繰り返さないために」というというの「同じ過ち」とはなにか。日本テレビや番組スタッフがそこをどう認識しているのか、この文章を読んでもさっぱり明らかでない。
 「[インタビューに]ご協力いただいた方に多大なご迷惑をおかけし、視聴者の皆様の信頼も裏切ってしまいました」という一文から、発言の改変・ねつ造をおこなったことを問題だとしているのかなとかろうじて読みとれるけれど、その改変・ねつ造が人種差別的なものであったというところへの問題意識は文章全体をみてもまったく読みとれない。
 予想通りではあるが、やはり差別の問題にはまったく向き合うことないまま、再発防止策をとったことにしてこの問題は終わったことにしようという姿勢のようだ。

【番組の公式サイトに掲載された
「街頭インタビュー再開について」
との文章】



2025年3月28日

いじのわるい蛇口


 散歩でとおった公園の公衆トイレ。手をあらうときの蛇口のいじわるぶりにおどろきました。



【動画の説明】
手洗い用の蛇口を右手でひねる様子を撮影した動画。
ハンドルをひねると水が出るが、
手をはなすとバネでハンドルがもどり、
水が止まってしまう。


 右手か左手かどちらかでハンドルをおさえていないと水が流れなくなってしまうので、両方の手をゴシゴシこすりあわせて洗うという動作ができません。もうひとりだれか手伝ってくれる人がいてハンドルを持って水を流しててくれればべつですが、そんな人はいなかったので、片手ずつ水をかけるぐらいしかできませんでした。

 どちらかの手にまひがある人とかだったら、それすらひとりではできないかもしれませんね。

 私はとくに身体傷害などないのですが、こういう蛇口では手を洗うのに非常に支障があるわけです。つまり、ハンドルをひねると水が流れっぱなしになる一般的な蛇口とくらべて、おそらく《だれにとっても》使いにくい仕様のものをわざわざ設計して設置したということなのです。

 なんでこんなものを設計・設置したのでしょうか。これは市が管理する公園の公衆トイレです。市に聞いてみないとはっきりしたことは言えませんけれど、まぁ、野宿する人を排除する意図での設計だとみてまちがいないでしょう。頭や体を洗ったり衣服を洗濯したりできなくなるようにいじわるするためにこういう設計にしたのでしょう。

 こういうものをつくる人間というのは、そういう一定のひとへの悪意をなによりも優先して大事にするんですね。その結果《多数者ふくめただれにとっても》不便なシロモノができあがってもかまわないというくらいに。

 行政などによる野宿者の排除は、「みんなの場所」「公共の場」を「一部の人」が「占拠」「独占」するのをゆるすべきでないという理屈ですすめられてきたわけですけれど、そうした公共性の意味をゆがめ骨抜きにする思考のゆきつくさきのひとつが、この公衆トイレのおかしな蛇口であるよなあと思いました。


2025年3月4日

3・6ウィシュマさん追悼アクション


 名古屋入管で収容されていたウィシュマ・サンダマリさんが亡くなったのは、4年前、2021年でした。

 今年も命日にあたる3月6日には、各地でウィシュマさんを追悼する行動がとりくまれるようです。私は大阪でのスタンディングに参加してこようと思います。


◆3・6ウィシュマさん追悼アクション in 大阪◆

3月6日(木) 19:00~20:00

梅田ヨドバシカメラ前

スタンディングアクション


3・6ウィシュマさん
追悼アクションin大阪

 ちょうど1年前の3月に某所に投稿した文章が出てきたので、あらためてここにのせておきます。


#ウィシュマさんを忘れない

 3年前の3月6日、名古屋入管でウィシュマ・サンダマリさんが命を落としたのは、まぎれもなく拷問死でした。

 「拷問死」という言葉を使ったのは、比喩(まるで……のようだ)でもなければ、誇張でもありません。ウィシュマさんは、文字通りの意味で日本の入管による拷問で、命を奪われたのです。

 送還を拒否する人に対して、無期限収容・長期収容によって、自分から帰国するように追い込む。まさに、心身をいためつけることで相手の意思を変えようとすることであり、「拷問」と呼ぶべきです。しかし、日本政府は入管施設での収容が拷問であることを隠してすらいません。

 入管がウィシュマさんを殺害した当時の法務大臣上川陽子は、収容期間に上限をもうけるべきではないかと記者から問われ、「[上限をもうければ]収容を解かれることを期待しての送還忌避を誘発するおそれもあるということでありまして,適当ではない」と答えました。無期限収容・長期収容が帰国を強要するための手段であることを、あけすけに認めた発言です。奇しくも、ウィシュマさんの亡くなる前日、2021年3月5日の記者会見でのことです。

 ウィシュマさんの命は、早期に収容を解いていれば、そうでなくても点滴治療をしていれば、あるいは救急車を呼んでいれば、失われるはずがなかった。どれもぜんぜん難しいことではないですが、名古屋入管がそれをしなかったのは、収容を継続すること、ウィシュマさんに帰国を強要することを優先したからです。

 「救えなかった」のではない。119番に電話すれば、容易に救えたのだから。名古屋入管はウィシュマさんを「拷問のすえ殺した」のです。

 あきらかに国家犯罪ですが、名古屋地検は不起訴処分としてこの国家犯罪を不問にしました。

 しかし、だからといって、殺人者たちの責任を問い、入管施設でのこれ以上の拷問死をなくすことを、あきらめるわけにはいきません。ウィシュマさんが命を奪われたことを機に、また妹さんたちご遺族が真相解明・責任追及・再発防止のために声をあげておられる姿を目にして、自国の国家機関が日々おこなっている犯罪を許してはいけないと声をあげる仲間たちがふえていると思います。私もともに、取り組んでいきたいと思います。


 1年前に書いた文章ですが、やはり今年もおなじことを言わなければなりません。

 刑事事件としては、23年9月に名古屋地検が「嫌疑なし」(「証拠不十分」ですらなく!)ということで不起訴処分で決着させました。名古屋地裁での民事の裁判(遺族が訴えた国家賠償請求訴訟)では、国側はいまだウィシュマさんが亡くなるまでを記録した監視カメラ映像(295時間分)の開示をこばんでいます。国・政府をあげて、自分たちの責任が問われうる証拠を隠蔽し、身内でかばいあって、事件の真相究明を妨害しつづけているわけです。

 そのいっぽうで、当時の上川法務大臣が「収容を解かれることを期待しての送還忌避を誘発」しないためだと公言した無期限収容による帰国強要=拷問は、いまも各地の入管施設で続けられています。

 ウィシュマさんが日本国家によって拷問死させられた事件については、国の責任を追及することがいまだ欠かせない課題としてある。国がその責任から目をそむけ、逃げまわっているため、民事訴訟をつうじて遺族がその最前線に立たざるをえない状況になっています。市民として、国の責任を問う声をあげなければならないということだと思います。


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 3月6日の各地でのアクションの情報をのせておきます。

【名古屋】

日時:2025年3月6日(木)10:30~11:30

場所:名古屋入管前

内容:名古屋入管へ真相究明・再発防止を求める申入れ、スタンディングアクション

主催:START~外国人労働者・難民と共に歩む会~/名古屋入管死亡事件弁護団


【愛知県愛西市】

日時:2025年3月6日(木)

忘れなの鐘つき

14:15~ 有志の僧侶によるお勤め(真宗大谷派)

14:45~ 琴の奉納演奏(約10分)

15:00~ 支援者の報告など

15:25  鐘撞き(ウィシュマさん死亡時刻)3回

のち黙祷

ご遺族の挨拶

場所:明通寺
※下に掲載したチラシ画像参照


【東京】

日時:2025年3月6日(木)13時~14時

場所:東京出入国在留管理局前

内容:入管への申入れ、スタンディングアクション

主催:BOND~外国人労働者・難民と共に歩む会~


ウィシュマさん追悼アクション
2025年開催マップ

※画像では名古屋のスタンディングアクションが
「10時~11時」と記載されていますが、
運営から10:30~11:30に変更する
とのアナウンスがありました。


「3・6 忘れなの鐘つき」チラシ



 当日は、ハッシュタグデモもおこなわれます。


3.6ウィシュマさん追悼
ハッシュタグデモ


2025年2月25日

倒れたらみんなの迷惑になるから

 

 運転免許証の更新のための講習を受けてきた。

 講習が始まる前に、講師の人(警察官?)が「もし講習中に具合が悪くなったら、手を挙げて教えてください」という内容のことを言った。それが、体調がわるい人はムリしないでくださいねという気づかいからの言葉であればいいのだけど、その講師の言い方はひどく意地のわるいものだったので、びっくりした。

 記憶をたよりに再現してみると、だいたいつぎのような言い方だった。

「先月、講習中に倒れた人がいました。倒れた人が出てしまうと、救急車を呼ばなければならないことになっています。そうなると、講習をいったん止めて、ほかの受講生のみなさんには他の教室に移動してもらって続きの講習を受けてもらうということになります。講習が終わるのが予定の時間よりもだいぶ遅くなります。そういうわけで、倒れる前に、具合がわるいということをつたえてください。」

 なんでこんな言い方するのだろう? 「倒れるまでムリしないで、体調不良は早めに言って休んでくださいね」ぐらいに言うのをとどめておけば、受講者の体調を案じて言ってくれてるのだなとこちらも受け取るのだけど。なんでわざわざ、他の受講者の迷惑になるから、というようなことを言うのか。この講師が言っているのは、体調のわるい人は、他の人たちをわずらわせないよう、自分で退室できるうちに退室してくれ、ということでしょ。ひどいもんだ。

 私はこの講師の人の発言をとても不愉快に感じたのだけれど、どうしてそう感じたのかをいまになって考えてみるに、この人が人間の社会性みたいなものを低くみつもっているように思えるからだ。

 この人は私たちに対して、いわば「講習中に倒れる人が出たら、あなたたちにとって迷惑でしょう?」「迷惑に思うのが当たり前でしょう?」と同意を求めているのである。もっといえば、私たちにそれを「迷惑と思え!」というメッセージを向けていると言ってよいかもしれない。

 いや、べつに迷惑と思わないし。倒れた人がいたら、講習なんか止めてその人を助けるのがあたりまえでしょう?

 まあ、そう言ってるのは、キレイゴトではある。私だって、正直に言えば迷惑だと感じることはあるかもしれない。でも、それを口に出して言ったら下品というものである。

 さきの講師の言い方が不愉快だったのは、その人が下品な「本音」を当然の前提みたいにして、私たちに語りかけてきたからだと思う。あんまり私らを低くみつもらないでほしい。病人を迷惑者あつかいなんてしないよ。

 警察官らしい語り方といえばそうかもしれない。外から権力的な介入をしなくても私たちがときとして利他的にもふるまったりしながらたがいになんとかやっていけるのだとしたら、警察なんかいらねー、ということになるからね。

 権力的にふるまうということが習い性になってるひと(警官は職業的にそうしたふるまいを強いられている面があるだろう)は、人間の社会性、自治の能力を低くみつもりたくなるのだろう。きみら、倒れてる人をみたら迷惑だと思うでしょ、と。そうみなしたいのだ。力をふるって他者や集団をコントロールしようということが習い性になってしまえば(もちろん警察官にかぎった話ではない)、倒れてるひとを迷惑とみなさず、仕事の手をとめて当然のように助ける人間は脅威にうつるのではないか。「ほっといたら(権力的な介入なしには)、ただちに人間どうし反目し合い、対立して、社会が成り立たなくなる」という人間観・社会観がかれらのふるまいを正当化するために欠かせないのだから。


2025年2月14日

火のないところに偏見の煙を立てる


留学目的で入国し在留期間切れたまま滞在…別事件の関連で身分証提示で発覚、入管難民法違反の疑いで28歳スリランカ人の男を逮捕|HBC北海道放送(2025年02月13日(木) 19時29分 更新)


 警察には警察のおもわくがあってこの件をマスコミにリークしたのだろう。しかし、それを報道するかどうか、あるいはどう報道するのかということは、マスコミが判断することだ。北海道放送はどこにわざわざ報道すべき意義をみいだして、これを報じたのだろうか。

 記事を読んだところで、なにがどう問題なのか、私にはさっぱりわからない。問題にならないことを、あたかも問題であるかのように報じることで、偏見をばらまこうとする。そういう記事にしか、私にはみえない。

 記事を抜粋してみよう。なんでこんなものがニュースになるのか。こんなものがクソまじめなトーンでテレビで報じられているということが、つめたく狂った社会のありさまを示しているように思える。


 警察によりますと、13日、警察が別の事件に関連して男に身分証明書の提示を求めたところ、在留期間が切れていたことが発覚し、男をその場で逮捕しました。

 男は2018年4月に留学目的で、1年3か月の在留資格を得て日本に入国し、在留期間の2019年7月以降の足取りはわかっていませんが、去年7月17日までは「特定活動」の在留資格があったということです。

 取り調べに対し、スリランカ人の28歳の無職の男は、容疑を認めているということです。

 警察は、在留期間が切れた後の男の生活実態などを調べています。


 「在留期間の2019年7月以降の足取りはわかっていませんが」などと書いているが、警察であれ、これを報じている放送局であれ、そんなのおまえの知ったことかという話である。その間、どこで何をしていたかなんて、この逮捕されたかたの勝手なのであって。

 「特定活動」の在留資格が去年の7月まであったということは、このかたは入管局をおとずれて当初の「留学」から「特定活動」への在留資格変更申請をし、入管局もこれを許可したということだ。ところが、記事は、入管的な言い方をすれば「適法に在留していた」この期間についてすら、「足取りはわかっていませんが」などと書いている。外国人はその「足取り」をつかんでおかないとどんな悪いことをしているかわかったものではない、だから徹底的な監視・管理が必要なのだ、という前提がないと、こういう書き方にはならない。

 もちろん、このニュース原稿を書いた人は、警察が発表した内容を書き写しただけなのだろう。でも、そうして書き写した文章は、書き写した本人の自覚はなくても、「日本国民」ではない住民に対してこの国の治安当局がむけている視線をおぞましいほど正確に反映したものになっている。

 ニュースによると、逮捕された人は、2018年4月から6年あまりのあいだ続いていた在留資格が2024年7月に切れ、その後、7か月間ほどオーバーステイになっていたということのようだ。そりゃ入管法違反ということにはなるかもだけれど、オーバーステイなんてそれ自体はなにか悪さしたということではない。自動車の無免許運転とかだったら他人の生命を危険にさらすといえることもあるだろうけど、在留する、つまり「ここにいる」ということに国家機関の「許可」をえてなかったからといってなんだと言うのか。

 「警察は、在留期間が切れた後の男の生活実態などを調べています」なんて書かれちゃって、あんまりではないか。クソポリはそりゃ「調べ」るでしょうよ、入管体制・外国人管理制度というのはそういうクソなのであるから。でも、報道にたずさわる人は、「在留期間が切れた後の男」などと呼ばれる人間であれば、「生活実態」を調べられるのも当然なのだというような前提にたった、おぞましい文章を書かないでくれ。監視してないとなにか悪さをするだろう、悪さをするはずだという視線を「外国人」にあからさまにむけた文章を書いてることを自覚して、深く恥じ入ってくれ。相手もあんたと同じ人間だぞ。




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