年あけてそうそう元日に能登で大地震。だが、岸田首相はじめ自公政権の救助や被災者支援の動きがおどろくほどにぶい。被災者に無関心、ほとんど興味がないのだとしかみえない。
岸田らが救助や被災者支援に本気で取り組む気がさらさらないのだということを示す例は枚挙にいとまがないが、一例をあげれば、つぎのニュース。
【速報】岸田首相は能登半島地震の物資支援のため9日に予備費使用の閣議決定を行うと表明した:時事ドットコム(2024年01月04日11時59分)
この報道が1月4日(木)で、1日(月)の発災からすでに3日近く経過している。で、予備費使用を決める閣議をひらくのはさらに5日後の9日(火)まで待つのだそうだ。
岸田らが、倒壊した建物の生き埋めになった住民や、避難所で寒さと飢えにされされている被災者に同情するような人間ではないのは今さらおどろかない。しかし、救助や支援をやる気がほとんどないことを隠そうともしない、やってるふりすらもはやしないのは、どういうことだろうか。それはそれでも自分らの権力や地位はおびやかされることはないと、たかをくくっているからだろう。
こうした岸田らの態度をみながら、ずいぶん前に読んだアマルティア・センの文章を思い出した。そのなかに、飢饉と民主主義について述べられた、非常に印象深い一節があった。
センは「世界の悲惨な飢饉の歴史の上で、比較的自由なメディアが存在した独立民主国家にあって、本格的な飢饉が発生した国は一つもない」として、以下のように述べる。
飢饉は、自然災害のようなものとしばしば結びつけられてしまいます。たとえば、「躍進」期の中国に発生した大洪水、エチオピアの旱魃(かんばつ)、北朝鮮の凶作といった自然災害を、飢饉の単純な説明としてしまう論評がよくあります。しかし、実際には、そのような自然災害やもっとおそろしい災難に見舞われた多くの国々ですら、飢饉は起こっていないのです。なぜならば、それらの国々には、飢えの苦痛を軽減するために迅速に行動する政府が存在しているからです。飢饉の最初の犠牲者は最も貧しい人々ですから、たとえば、雇用計画などを立案して、飢饉の犠牲になる潜在的可能性の高い人々のために、その食糧購買力を高める新たな所得を創出すればよいのです。そうすれば、餓死は防止できます。1973年のインド、1980年代初頭のジンバブエやボツワナといった、世界で最も貧しい民主主義国ですら、実際に深刻な旱魃や洪水やその他の自然災害に見舞われた時には、食糧供給を行って飢饉の発生を被らずにすんだのです。
飢饉は、それを防止しようという真剣な努力がありさえすれば、簡単に阻止できるものなのです。民主主義国家では選挙が行われ、野党や新聞からの批判にもさらされるので、政府はどうしてもそのような努力をせざるをえません。イギリス支配下にあったインドにおいて、独立直前まで飢饉が絶えることがなかったのも、当然でした。最後の飢饉が起こったのは、独立の4年前の1943年でしたが、当時子供であった私はそれを目撃しました。独立後のインドに、自由なメディアがあらわれて、複数政党制による民主主義体制が確立されると、飢饉は突然止んで二度と発生しなくなりました。
実際には、飢饉の問題は民主主義がその本領を発揮するほんの一例にすぎませんが、多くの点で最も分析しやすいケースだと言えます。政治的・市民的権利は経済的・社会的破局の防止に、積極的な役割を果たすことができます。物事が順調に運び、すべてがいつものように滞りない状態にある場合には、民主主義が手段として果たす役割が切望されることはあまりないかもしれません。しかし、何らかの理由で、状況が急変するような場合には、民主的な統治が生み出す政治的インセンティヴが大きな実践的価値を持つのです。
アマルティア・セン『貧困の克服』(大石りら訳、集英社新書、2002年)
もちろん飢饉と震災はおなじにあつかえないところもあるだろう。しかし、いま私たちが目にしているのは、まさしく「民主的な統治が生み出す政治的インセンティヴ」の欠如のために、「真剣な努力がありさえすれば」死なずにすんだはずの人間が殺されつつあるという状況だ。
少しでも犠牲をなくすために必要なのは、自由なメディアであり、批判的な野党であり、自由で批判的な言論である。大きな災害などが起きたときには、権力に迎合的な言論がますます大きく強くなる傾向があるものだが、「非常時だから政府批判・与党批判はひかえよう」といった姿勢は、被害をおさえるということとは真逆の結果をもたらす。
さて、冒頭でみたような、住民たちが倒壊した建物の生き埋めになっているのを首相らが平然とほったらかしているという事実が示しているのは、「民主的な統治が生み出す政治的インセンティヴ」がぜんぜん働いていないということであり、それは日本において民主主義が機能していないということにほかならない。
センはおなじ文章のなかで、「民主主義とは正確にはいったい何なのでしょうか」という問いをたてて、つぎのように述べている。民主的な統治がなされているとみなされることのある日本の民主主義が、実際のところどれほど機能していると言えるのか、点検し考えなおすためのひとつの目安として、最後に抜粋しておきたい。
民主主義とは正確にはいったい何なのでしょうか。私たちは、多数決原理が民主主義であると考えるべきではありません。民主主義がしっかり機能するためには、多くのさまざまな要求が満たされなくてはなりません。その中には、もちろん投票や選挙結果の尊重などが含まれますが、自由を守ること、法的権利や法的資格が尊重されること、自由な議論が交わされること、公正な意見と情報が検閲なしに公表されることなども保障されていなくてはなりません。選挙においては、反対陣営がそれぞれの主張を述べる十分な機会がなく、有権者が情報を得る自由を享受して対立候補たちの政見についてよく考えることができなければ、それはまさしく欠陥選挙といわなければなりません。民主主義は、さまざまな要求が満たされなければならないシステムで、多数決原理のような機械的な条件だけを切り離して採りいれているわけではないのです。
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