2022年12月31日

【訂正あり】入管が医療放置で寝たきり状態にした人に対し、国保加入不可の在留資格を出したという話

【訂正】

 児玉晃一弁護士より、この件は入管の責任ではなく、国保の加入資格について市区町村が解釈を誤っているのだと思いますとの指摘をいただきました。

 児玉弁護士が関与しただけでも、自治体が誤りを認めて加入できた事例が3例あるとのことです。


途中から医療活動ビザに切り替え、国民健康保険受給資格を否定された方、処分撤回されました。 | 代々木上原の弁護士 マイルストーン総合法律事務所のブログ(2016-04-05 12:53:06)

入国後に医療活動ビザに切り替えた方、またも国民健康保険拒否→一転、認められました。 | 代々木上原の弁護士 マイルストーン総合法律事務所のブログ(2016-12-28 17:27:22)

3例目:入国後しばらくして医療活動ビザに切り替え、国民健康保険受給資格を否定された方、意見書作成したら加入が認められました。|koichi_kodama|note(2020年12月21日 14:51)


 以下、リンクした1つめの記事から引用します。


私の方で調べたところ、国民健康保険法施行規則では、医療目的で上陸した方については確かに受給資格が認められませんが、条文を素直に読めば、あくまで上陸当初からに限定され、途中から変更した場合には当てはまらないと考えられました。

そこで、以下の意見書を作成し、役所に持って行ってもらったところ、その成果かどうかはわかりませんが、役所側も再考し、処分が撤回されたとの連絡を頂きました。


 引用元の記事では児玉弁護士の提出した意見書も掲載されています。

 下記のAさんも、上陸当初から医療目的の特定活動の在留資格であったわけではなく、在留特別許可でこれを所得したわけなので、やはり国民健康保険の受給資格は認められるべきということなのだと思われます。


 したがって、以下の私の記事において、Aさんが国保に加入できていないことを入管の責任として述べている点は誤りです。おわびして訂正いたします。

 また、記事の誤りをご指摘・ご教示いただいた児玉弁護士にお礼を申し上げます。

(2022年12月31日, 22:58)


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  人間の命と人生をもてあそぶにもほどがある。ぜひぜひ以下の記事を読んでほしい。


人間の尊厳は? 入管施設で「大腿骨壊死」のネパール人、在留特別許可出るも「寝たきり」のまま支援者に放り投げ - 弁護士ドットコム(2022年12月27日 16時52分)


 「虐待」という言葉すら軽々しく感じてしまうほどの大村入管センターのすさまじい医療ネグレクト。それ自体も言葉をうしなうひどさなのだけど、もうひとつおどろくのが、以下の入管庁の対応である。


 12月22日、Aさんに在留特別許可が下りた。入管庁が出したのは、支援者が期待していた定住者ビザではなく、医療特活だった。介護施設から大村入管に移送されたAさんは、在留カードを得たのち、福岡県内の病院へと向かったが、このとき思わぬことが判明した。

 「支援者がAさんの国民健康保険(国保)を申請するため、すぐに自治体に行きましたが、担当者から『国保は出せません』と言われました。在留資格が出たとはいえ、国保が下りなければ、医療費が全額かかる仮放免と変わりません。

 これまで入管庁の担当者とは、十数回、電話で話し合う機会があり、信頼を寄せていた部分もありましたが、ふたを開けると、この医療特活では国保も取れないことがわかったのです。完全に騙された、という思いです。3割どころか、10割の負担をどうすればいいのか。体が震えます」

[カギカッコ内は支援者の柚之原寛史牧師の言葉]


 法務大臣による在留特別許可が出たものの、入管が出した在留資格の種別では、Aさんは国民健康保険にも入れず、生活保護も受けられない。Aさんの治療には高額な医療費がかかるが、全額自己負担でまかなうしかなくなってしまう。柚之原さんは「騙された」と語っているが、この入管庁の措置にはやはり悪意を感じずにはいられない。

 よく言われるように、退去強制処分や在留資格の付与について、入管庁はきわめて広い裁量権を行使している(してきた)。いったん退去強制処分をだした人に対して、これを取り消して在留資格を与えること、あるいはその場合に在留資格の種別をどれにするのかについて、いわば「なんとでもできる」のが入管だ。

 だから、Aさんに対して、国民健康保険にスムーズに加入できる「定住者」等の在留資格を付与することだって、入管はできる。しかし、そうしなかった。入管庁は、国民健康保険や生活保護から排除される種別の在留資格を「あえて」「わざわざ」「選んで」付与したということなのだ。

 現状は寝たきりで今後自力での歩行や排尿の機能を回復できるかどうかというAさんに対して、入管はその治療の助けとなる種別の在留資格を付与することもできた。ところが、入管庁が選んだのは、治療を受ける見込みを事実上たてようがないような在留資格をあえて与えるという仕打ちだったのである。Aさんをそのような状況にしたのは入管による医療ネグレクトであるにもかかわらず。

 人間のやることとは思えない。そう言いたくなるところだが、入管庁の役人たちも自由な意思をもつ人間だからこそこうした残酷非道なことができるのだと言うべきだろう。



 ところで、入管がAさんに付与した「医療限定の特定活動」という在留資格だが、「これでなければならなかった」というような制度上の必然性はなかったはずだ。というか、この「特定活動(医療滞在)」という在留資格は、そもそもその制度的な趣旨から考えて、Aさんに対して適用するのはそぐわない。

 「特定活動(医療滞在)」の在留資格の対象として、入管庁がどのような人を想定しているのか。入管庁の以下のページをみてみれば、想像がつくと思う。


在留資格「特定活動」(医療滞在及びその同伴者) | 出入国在留管理庁


 このページでは、「特定活動(医療滞在)」の在留資格を申請するさいにどのような資料が必要なのか、案内されている。下に画像でも示したが、5や6と番号がふられているところをみてほしい。入院先の病院がすでに決まっていることが前提で、その入院・治療の費用を支弁できるということの証明が求められている。



 つまりどういうことかというと、この「特定活動(医療滞在)」というのは、いわゆる医療ツーリズムで日本に来る人を想定した在留資格なのだ。先進医療を受けに来日する人で、その費用は自身で支弁できなければならないというわけだから、相当に裕福な人が対象とされているのだということ。

 そうした人たちの医療費を健康保険でまかなうとなると、それは保険制度へのフリーライド(ただ乗り)になってしまう。ということでこの在留資格では国民健康保険への加入が認められないということのようである。

 しかし、Aさんは当然ながら医療ツーリズム目的で日本に来たのではない。じゃあ、なんで「特定活動(医療滞在)」なのか。そこに「これでなければならない」必然性などあるはずはない。

 入管がこの在留資格を選んだのは、「ほかにやりようがなくて」「そうせざるをえなかった」ということではない。Aさんに対して、国民健康保険に入れず生活保護も受けられない「特定活動(医療滞在)」という在留資格を「あえて」「わざわざ」「選んで」付与したのだと言うしかないのだ。

 この決定にかかわった入管の役人たちは、Aさんが必要な治療を受けようとするうえで、有利になる処分(「定住者」等の在留資格の付与)と、それがきわめて困難になる処分(「特定活動(医療滞在)」の付与)と、どちらかを選択する権力をもっていた。で、結果的にこの人たちは後者を選択した。この人たちは、Aさんの治療を助けるほうにも使えたはずの権限を、反対にAさんを必要な医療からはじき出すほうに使ったのである。入管の役人たちが主観的にどう思っているかは知らないが、客観的にみればそういうことだ。あなたたちは自由だったのであって、Aさんに対してあなたたちが自由におこなった仕打ちは、かならずあなたたち自身に返ってくるだろう。



 さて、「特定活動(医療滞在)」という在留資格は、先にみたように医療ツーリズムで来日する人を想定したものであって、入院して治療するのに必要な期間にかぎって日本での在留を認めますよという性質のものだ。入管がAさんにこの在留資格を選んだのは、「定住や、治療の必要をこえての日本での在留は認めない」ようするに「用がすんだらさっさと帰国しろ」という意思を示したものとも想像する。

 こうした発想は入管行政をつらぬいているものであって、そしてそれを支えているのは日本社会の世論の大きな部分をたしかに占めている排外主義的・民族差別的な主張・思考にほかならない。

 日本社会の住人、とりわけそのなかで特権的な立場にある有権者もまた、Aさんに対する責任を問われているのだということは、確認しておきたい。「自己負担で治療するというならその間の在留は認めてやる」「だが用がすんだらさっさと帰国しろ」といわんばかりの入管のAさんに対する仕打ちを容認するのか、ということである。


2022年12月25日

安城市職員の外国人差別事件と「帰国支援事業」


 安城市職員の対応がとんでもなくひどい。


「国に帰ればいい」 日系ブラジル人の生活保護拒否、誤情報伝える | 毎日新聞(2022/12/23 07:30(最終更新 12/23 18:40))

 愛知県安城市役所の職員が、生活保護を申請しようとした日系ブラジル人の女性(41)に、「外国人に生活保護費は出ない」と虚偽の説明をしていたことが、関係者への取材で判明した。職員は「国に帰ればいい」と暴言も浴びせたという。支援者らの働きかけで受給が決まったが、女性は「ほかの外国人も同じような目に遭っていないか心配だ」と話している。


 国籍がどうであれ、安城市に住んでいるならば安城市の住民である。市役所の役人が、住民に対して外国人であることを理由に生活保護の申請を拒否ないし妨害するのは、あきらかに越権行為だ。というか、普通に違法行為だよね。

 法にもとづいて仕事をすべき市の職員が、法ではなくてめえの勝手な差別主義にもとづいて、住民の生活保護申請を拒否するという行為をおこなったのだから、当然、この職員は厳しく処分される(された)のだろうな。

 と思ったら、「安城市は取材に『個人情報に関わることであり、何も答えられない』と話している」だって……。えー!。職員の対応のひどさも驚くが、この記事を読んで驚くべき一番のポイントは、市のこの取材への対応じゃないだろうか。職員への処分はともかくとしても、自分とこの職員がしでかした明白な差別事件に対してコメントしないというのは、びっくりである。



 さて、このニュースを読んで、私は十数年前に自分がある日系ブラジル人2世のかたから教わったことを思い出した。

 当時、わたしは入管に収容されている人に面会する活動をはじめたばかりのころで、そのかた(「Sさん」とここでは呼ぶことにします)と出会ったのも入管施設の面会室だった。Sさんは私にとって尊敬する人のひとりであって、たぶんこの人と出会ってなかったらこの活動を続けてなかったかもしれないと思うこともある。

 Sさんとは入管の面会室のアクリル板をはさんでいろいろな話をしたが、あるときこういうことを言われた。「永井さんや日本人は知らないでしょうけれど、日本政府はかつて日系人に対して帰国支援事業というのをやったんです。日系人にとっては屈辱的なことで、ブラジルの大統領も日本に抗議したほどです」。

 文言は正確に再現できていないだろうが、「日本人は知らないでしょうが」ということをSさんから言われたことは、強く印象に残っている。わたしは「帰国支援事業」について聞いたことすらなく、まったくなにも知らなかった。



 リーマンショック(2008年9月)後、日本でもたくさんの労働者が職を失ったが、日系人など外国人労働者への影響は日本人労働者へのそれ以上に甚大なものだっただろうことは想像に難くない。

 翌2009年の4月から政府は「日系人離職者に対する帰国支援事業」なるものを実施する。厚労省のウェブサイトで公表されている報道発表資料から引用する。


厚生労働省:日系人離職者に対する帰国支援事業の実施について(2009年3月31日)

 現下の社会・経済情勢の下、派遣・請負等の不安定な雇用形態にある日系人労働者については、日本語能力の不足や我が国の雇用慣行に不案内であることに加え、我が国における職務経験も十分ではないことから、一旦離職した場合には再就職が極めて厳しい状況におかれることとなります。

 こうした中、母国に帰国の上で再就職を行うということも現実的な選択肢となりつつある状況です。

 このような状況を踏まえ、与党新雇用対策に関するプロジェクトチームにおいても帰国を希望する日系人に対する帰国支援について提言されているところであり、厚生労働省としても、切実な帰国ニーズにこたえるため、帰国を決意した離職者に対し、一定の条件の下、帰国支援金を支給する事業を平成21年度より実施することとしたものです。(別添参照)


 失業した日系人労働者に対し、「帰国するならいくらか金を出すよ」という事業だ。「別添」(PDF)をみると、この事業のえげつなさはより伝わってくる。

 この事業の実施主体はハローワークである。支給額は「本人1人当たり30万円、扶養家族については1人当たり20万円」。

 あたりまえだがハローワークは仕事を紹介するところだ。で、ハロワークに来る人というのは、これも当然ながら仕事を探しに来るのである。仕事を探しに来たら、仕事を紹介してくれる機関の職員から、「仕事をあきらめて帰国するならお金出しますよ」というようなことを言われるわけだ。支援金の金額は、およそブラジルなど南米までの片道の航空券代といったところか。

 さらにクセモノなのが、上の引用部分にもあるように、支援金は「一定の条件の下」支給するとしているところである。「別添」によると、帰国支援金の「対象」はつぎのように規定されている(太字協調は引用者)。


 事業開始以前(平成21年3月31日以前)に入国して就労し離職した日系人であって、我が国での再就職を断念し、母国に帰国して同様の身分に基づく在留資格による再度の入国を行わないこととした者及びその家族


 これは何を言っているかというと、“支援金を受け取って帰国したらもう日本に働きに戻ってくることはゆるさんぞ” ということである。

 日本に来る日系人は、2世は「日本人の配偶者等」、3世は「定住者」という種類の在留資格を与えられる。どちらも就労可能な在留資格で、かつその就労の内容に制限がない。つまり、支援金の「対象」を「母国に帰国して同様の身分に基づく在留資格による再度の入国を行わないこととした者及びその家族」とするというのは、支援金を受け取ったら今後日本に戻ってこれまでのように就労することはゆるさない、と言っていることなのだ。

 そもそも、どうして日系人の2世3世たちが日本に働きに来るようになったかといえば、工場などの人手不足をおぎなうために日本が呼び込んだからでもある。「定住者」という在留資格もそのために90年代の入管法改定で新設されたのだと考えてよい(そのあたりの経緯はこちらで触れております)。

 人手が足りないときは法律をいじくってまで人を呼び込んでおきながら、景気がわるくなって失業・困窮すれば、「飛行機代出すから帰ってくれ。金を受け取ったらもうもどってくるな」と。日本政府が日系人にやったのはそういうことだ。しかも、「帰国支援事業」が実施された2009年は、日系人労働者を呼び込みはじめた1990年から20年近くもたっているときである。当時すでに日本の社会に定住していると言ってよい人もたくさんいたはずだ。にもかかわらず、「困窮したなら帰国したらいいんじゃない?」とやったわけだ、日本は。それも国策として。なんという仕打ちだろうか。これが人間に対するまともなあつかいと言えるだろうか。モノを「使い捨て」るような仕打ちである。

 「国に帰ればいい」と暴言をはいて違法にも生活保護の申請を妨害・拒否した安城市の役人の思考は、外国人をあからさまに使い捨ての労働力としてあつかってきた日本の国策から逸脱しているとは、残念ながら言えないのではないか。ほんとうにクソすぎる、恥ずべき現実であるが。

 法的にも社会的なコンセンサスとしても、国籍にかかわらず住民が平等でありひとしく権利を保障されるように社会をつくりなおしていくということが必要なのだと思う。


2022年12月18日

【番組の感想】クローズアップ現代「“入管”でなにが “ブラックボックス”の実態」(NHK、12月7日 19:30~放送)

 NHKのクローズアップ現代「“入管”でなにが “ブラックボックス”の実態」(12月7日 19:30~放送)、録画していたのをようやく視聴した。全体的にとてもよい番組だった。

「入管」でなにが “ブラックボックス”の実態 - NHK クローズアップ現代 全記録

 感想として3点ほど書きとめておきたい。


1.

 番組の最初で、名古屋入管に収容されていたウィシュマさんが亡くなるまでの過程が、監視カメラの映像をみた弁護士の証言などをもとに再現されていた。ウィシュマさんの命が入管職員らのいちじるしい人命軽視のすえにうばわれたということ、それは「過失」などというなまやさしいものではなく、見殺しと言うべきものだったのだということが、よくわかる放送だった。

 名古屋入管は食事をとれなくなって飢餓状態にあったウィシュマさんに、点滴治療を受けさせることなく放置した。救急車を呼んでしかるべき状況でそれをおこたった。やろうと思えば簡単にできることを「しなかった」ということだ。医療体制の不備やらなにやらのせいで「できなかった」ということとはちがう。収容している人の命や人権を軽んじていたから、死なせないためにすべきこと・できることを「しなかった」のだ。それが視聴者によく伝わるような番組づくりになっていると思った。

 さて、番組には、入管の収容施設での処遇を監視する「視察委員会」の元委員長で、ウィシュマさん事件を受けて法務大臣が設置した有識者会議(出入国在留管理官署の収容施設における医療体制の強化に関する有識者会議)のメンバーだった人も出演していた。それで、この有識者会議が提言した改善策が紹介されていたのだけど、番組で再現されていたウィシュマさんが亡くなる過程と照らし合わせてみると、その「改善策」とやらのマヌケぶりがよくわかった。

 有識者の提言した「改善策」というのは、たとえば「常勤医の確保」だとか「外部の医療機関との連携強化」といったものだ。でも、名古屋入管が点滴治療の必要な人にそれをせずにほったらかしにしたのは、「常勤医」がいなかったからでも、「外部の医療機関との連携」が不十分だったからでもない。救急車を呼ばなかったということについてもそうだ。当時の医療体制でも十分にできたはずのことを名古屋入管は「しなかった」のであって、それは人命を軽くあつかうような収容のしかたをしていたからにほかならない。

 もちろん、入管施設の医療体制を強化していくことそれ自体は、大事な課題ではあろう。でも、ウィシュマさんは入管職員らのいくつもの不作為の積み重ねによって見殺しにされたのであって、その事件を受けて有識者会議とやらが提言する「改善策」が、「常勤医の確保」や「外部の医療機関との連携強化」などだというのは、まとはずれにもほどがある。

 再発防止ということでまずなにより重要なのは、被収容者の生命・健康を守る責任をはたさず死なせた名古屋入管の幹部や職員らの刑事もふくめた責任をきちんと問うことであろう。ところが、警察・検察はいっこうに事件の捜査に着手しようとしなかったため、事件から8か月たった昨年11月、業を煮やした遺族が刑事告訴しなければならなかったのだ。これに対し、名古屋地検は今年6月「嫌疑なし」で不起訴とした。遺族は、当然これを不服として、検察審査会に申し立てをおこなっている。

 検察審査会に対し「起訴相当」との判断を求める署名活動もおこなわれているので、可能なかたはご協力ください。人間を施設に収容して自由をうばっている以上、入管には収容した人の生命・健康をまもる責任がある。それをおこたれば、施設の幹部や職員らはその責任を問われ、場合によっては刑事罰を科されることもあるのだという、ごくごく当たり前のことが通用しないのが、入管施設をめぐる現状なのだ。新たな犠牲者を今後もう出さないために、ウィシュマさんを見殺しにした者たちの刑事責任を問わなければならない。

キャンペーン ・ #JUSTICEFORWISHMA ウィシュマさんのご遺族による、検察審査会への審査申立を応援して下さい! ・ Change.org



2.

 番組では、かつて入管の幹部までつとめあげたという人が匿名を条件にカメラの前で証言する映像が放送された。なかなか興味深い内容だった。

 まず、この元入管職員の人は、入管が収容という措置を帰国強要の手段としてもちいていることを率直に語っている。


そういう場所に入れといて説得して観念させてそれで確実に帰すんです。そういうための施設なんです。


 収容された人に「こんなところにはいたくない」と思わせ、帰国へと追い込むための施設なのだということを、こうもあっけらかんと認めるのには、ちょっとおどろいた。自分たちがひどいことやってるという意識はあまりないのでしょうかね。

 もうひとつ興味深かったのは、つぎのくだり。


(在留を)認められない者についてはどういう扱いをすべきかみたいな、何かの道筋を見いだしていかなければ、長期収容がどんどんどんどんたまっていってしまう。

社会問題化しているような部分というのも放置するわけには本当にいきませんからね。入管なにやってるんですかって言われて終わりですよね。

そこは何か知恵を出し合って解決する方法をつくる時期にきているのではないかと思いますね。


 発言主の元入管幹部氏がどういう職務をになってきた人なのかわからないが、たとえば、収容や送還の現場をよく知っている職員が本音ではこのように考えているのは、まあありそうなことだなと思う。

 入管の立場からすれば、退去強制処分がすでに出ている人については、退去させる(送還する)のが役割である、と。しかし、そこに無理が生じていて、「長期収容がどんどんどんどんたまっていってしまう」のが現状である。入管職員として課せられている役割を忠実に果たそうとしても、それは現実的に不可能だし、人権侵害だとバッシングされるばかり。あくまでも退去させるのだというところに固執しているかぎり、袋小路から脱することはできない。「(在留を)認められない者について」送還一本やりではない「何かの道筋」「何か知恵を出し合って解決する方法」を考えないことには、もうどうにもならん、と。

 退去強制処分がすでに出ているからといって、何がなんでもこれを送還する以外にないのだとかたくなになるのではなく、べつの「道筋」「解決する方法」を模索すべきだという点には、私も同意する。というか、大賛成。

 しかし、番組によると、この元入管幹部氏は、「長期収容の問題を解決するには入管だけでは難しい」ということを言っているのだそう。ここは元幹部氏の肉声ではなく番組のナレーションで示されているところなので、本当にこのとおりに発言したのかどうかはわからないけれど、ちょっとこの言い方は無責任すぎませんか、と思った。

 そもそも長期収容問題がどうして生じたのかということを問わないわけにはいかない。長期収容は入管の政策や制度運用が作り出した問題なのだと言うほかない。ひとつには、難民として認定して在留を認めるべき人にそうしてこなかったこと。もうひとつは、退去強制手続きをあまりに厳格におこなってきて、人道配慮としての在留特別許可を十分に活用してこなかったこと。ようするに、迫害等の危険があったり、日本に家族がいたり国籍国に生活の基盤がもはやなかったりといった「帰国」しようにもそうできない人の在留を認めずに退去強制処分を濫発してきたということ。そうした帰るに帰れない人たちは2015年時点で3000人以上にふくらんだが、当時これをくりかえしの収容・長期間の収容によって徹底して帰国に追い込もうという強硬方針に舵をきったのは、ほかならぬ入管自身である。

 そのあたりの経緯は、手前みそにはなりますけれど、以下のパンフレットを仲間といっしょに作り、そこでくわしく書いています。関心のあるかたはダウンロードしてのぞいてみてください。

なぜ入管で人が死ぬのか | 入管闘争市民連合

 とにかく、長期収容というのはほかならぬ入管が「送還忌避者」(と入管が規定する人びと)を減らすためにとった手段にほかならない(「そういう場所に入れといて説得して観念させてそれで確実に帰すんです」!)。その意味で入管自身が長期収容問題の原因である。

 もちろん、そうした政策・制度運用をとることも、またそれをやめて別の「道筋」「解決する方法」を選ぶことも、入管という組織の内部だけで決められるものでないのだろう。その意味で、「長期収容の問題を解決するには入管だけでは難しい」というのはその通り。たとえば世論の動向も重要だろう。しかし、入管があるしかたで権力・権限を行使してきたことが長期収容の問題を引き起こしてきたということ、また、その行使のしかたしだいで同じ問題を解決することも可能なのだということ(難民認定審査の適正化と在留特別許可基準の見直しによって、帰国できない理由のある人の在留を正規化していけば、長期収容などする必要はなくなる)は、見落とすわけにいかない。入管組織の人がその責任については何も言わずに「問題を解決するには入管だけでは難しい」とだけ言うのは、虫が良すぎではないですか、と思った。まずは入管がどのように制度を運用してきたのか、批判的にふりかえることに取り組むべきだ。



3.

 番組では、長期収容の生じる背景として2つのことをあげていた。

 ひとつは、収容の期限の定めがなく、また収容するに際して司法審査もないのだということ。これは現行の法制度がかかえる欠陥に関することである。

 もうひとつの背景として番組で示されていたのは、祖国に帰れない理由があるのだということだ。一方、入管は長期収容問題について、送還を拒否する者の存在がその原因なのだということをくりかえし主張してきた(この点も上記リンク先のパンフレットで具体的に説明している)。帰らない者の責任なのであって入管のせいではないという主張である。ところが、番組は、帰れない理由を具体的な事例にそくして示しながら、そうした理由をかかえる人の在留を認めずにあくまでも送還対象としてあつかおうとすることがはたして適切なのだろうかと、入管の制度運用のありかたに問いを投げ返すというものだった。どちらがていねいに、また誠実に議論をしようとしているのか、一目瞭然だと思った。


2022年11月19日

屈服させるための暴力

【ふりがなを つける】(powered by ひらがなめがね)


 少し前のニュースだが、勾留中に警察官から虐待を受けた人が東京都に慰謝料等を求める裁判を起こしたとのこと。


新宿署で勾留中に「パンツ一丁」で拘束、下着汚すと「みっともねえな」と侮辱 20代男性が提訴 - 弁護士ドットコムニュース(2022年09月28日 09時56分)

訴状によると、男性は、勾留中の今年7月、体調を崩した同室の男性のために「毛布1枚だけでも入れてやってくれませんか」と頼んだところ、留置担当の警察官に「保護室」と呼ばれる別室に連れて行かれた。

さらに「パンツ一丁」の下着姿にされて、身体を拘束された。トイレにも行かせてもらえず、そのまま下着を汚してしまい、涙を流していたところ、警察官は「みっともねえな」と言い放ち、侮辱したという。


 警官どもがなんのためにこういう行為をするかといえば、わかりきったことだ。屈服させるためである。自尊心をうばうことで、力の優位を示す。抵抗しようなどという気が起きないように暴力をふるうのだ。

 こういう他者を服従させるための暴力は、社会のすみずみにありふれているものだけれど、どこであってもゆるされるべきではない。警察官のような公的機関の権力をあたえられている人間であればなおさらのこと、このような暴力はゆるされない。

 上にリンクした記事は、警察官の事例だけれど、入管の収容施設でも、これと本質的に同じかたちの暴力が職員によって日々ふるわれている。その一例として、現在、大阪地裁で被害者による国賠訴訟のおこなわれている事件をとりあげておきたい。


仮放免者の会(PRAJ): 大阪入管暴行事件で和解成立 / 大阪入管でのもうひとつの暴行事件裁判にも注目を(2022年10月3日)


 2017年12月に起きた大阪入管職員たちによる暴行事件である。くわしくは、リンク先の記事の「Bさん事件の概要」以下を読んでいただきたい。

 大阪入管での事件は、冒頭にみた新宿警察署での暴行事件と同様、「保護室」への隔離のもとでの暴行であった。被害者のBさんは、カギのかかった部屋に「隔離」され、すでに自由を奪われた状態だった。にもかかわらず、入管職員たちはBさんにわざわざ後ろ手錠をかけて14時間以上にわたり放置した。トイレに行くこともゆるさず、Bさんが便で下着をよごしてもそのままほったらかしである。さらに、後ろ手錠で身動きのできないBさんの腕をねじりあげ、骨折させる暴行までくわえている。

 なんのために入管職員たちはこういうことをするのだろうか? 答えはあきらかだ。屈辱をあたえて自尊心をうばい、力の優位を示して、被収容者を屈服させるためである。

 これほどの野蛮がまかりとおっているのが、入管というところだ。職員の人権意識が足りないとか、たんにそういう問題ではない。だって、Bさんを暴行した職員たちはだれひとり処分されていないし、大阪入管局長ら幹部もなんら責任を問われていないのだから。入管は組織としてこの職員たちの行為を容認しているのである。人間をしばりあげて長時間トイレに行かせずに便をたれながさせるという行為を職員がおこなっても、問題にせずだれの責任も追及しない。そういう組織なのだ、現状は。

 そもそもこの大阪入管の事件は、組織内の処分ですまされるような問題ではなく(それすらなされていないのだが)、刑事責任に問うべきものだろう。ところが、刑事事件として捜査すべき警察も、さきの新宿警察署の事件からもうかがえるように、人を屈服させるためにふるう暴力を肯定・容認・活用する野蛮さにおいて入管とかわらない。

 そういうわけで、「私はゆるさない」という意思表示を私はしたいと思う。

 被害者のBさんが国に賠償をもとめて2020年2月に起こした裁判は、現在もつづいている。次回の期日は以下の日時にておこなわれる。

2022年11月21日(月)、11:00から

大阪地方裁判所1006法廷


2022年9月19日

専門的な知識がないと救急車を呼べないのか?

【ふりがなを つける】(powered by ひらがなめがね)



  2014年に東日本入管センターに収容されていたカメルーン人男性(「Wさん」とします)が死亡した事件について、遺族が国に賠償を求めていた裁判。16日に水戸地裁で、国に165万円の賠償を命じる判決が出ました。


8年前入管施設で外国人男性死亡 国に賠償命じる判決 水戸地裁 | NHK(2022年9月16日 19時21分)


 判決は、職員がWさんを救急搬送しなかったことについて注意義務をおこたったと判断したものの、そのこととWさんの死亡とのあいだの因果関係までは認定しなかったということのようです。


 入管が救急搬送をしなかったことをふくめ、Wさんに診療を受けさせるのをおこたったことが、死亡原因についての評価をむずかしくしているわけですから、因果関係がはっきりしないことをもって国の責任が限定的にしか認められない(賠償金額が低くなる)というのは、原告(遺族)にとってきわめて不公平だなと思います。国はみずからの過失のおかげで責任を回避できたということになってしまうのであって、遺族にとってこんな不条理な話はないでしょう。


 さきのNHKのニュースでは、原告の弁護団長の児玉晃一弁護士の「どこまで立証すれば死亡との関係が認められるのか、という感じだ。国の施設で亡くなった人について、国が死因がわからないとしてしまえば『おとがめ無し』になってしまうのではないか」という発言が紹介されています。


 さて、判決では否定されたものの、この裁判で国はおどろくべき主張をしています。「専門的な知識のない職員が救急搬送の必要性があると認識するのは難しかった」として、Wさんの死亡に対する国の責任を否定しているのです。なんという詭弁でしょうか。


 入管の職員は、被収容者を拘束して自由をうばっているわけです。被収容者からすれば、体調がわるくても自分で病院に行くこともできないし、救急車を自分で呼ぶことすらできない。入管の職員はそうした自由をうばい制限しているからこそ、必要に応じて被収容者に診療を受けさせ、その生命・健康をまもる責任・義務があるのです。


 Wさんは亡くなる前日の3月29日昼前にはベッドから転落し、午後7時過ぎにはくり返し「アイム ダイイング(死にそうだ)」と声をあげていたことが、監視カメラの映像からあきらかになっています。ところが、Wさんを拘束し、Wさんがみずから救急車を呼ぶ自由をうばっていた職員たちは、救急車を呼びませんでした。これは「専門的な知識のない職員が救急搬送の必要性があると認識するのは難しかった」といってすむ話なのでしょうか。


 はっきり言えることは、Wさんが亡くなる前日の状況を、入管の職員たちではなく、仲間の被収容者たちが目にしたなら、Wさんをなんとか病院に連れて行って治療を受けられるよう手をつくしたはずだということです。


 実際、Wさんが亡くなる3日前の3月27日、その容態悪化に危機感をもった被収容者たちは、Wさんを病院に連れていくよう職員たちに要求しています。このとき、Wさんはまだ他の被収容者たちと共用の区画に収容されていました。以下は、仮放免者の会とBONDが、Wさんを知る被収容者たちからの聞き取りにもとづいて入管に出した申入書からの抜粋です。


 カメルーン人・Wさん死亡については、法務省入管は医療態勢の問題があることを認めた。Wさんの容態悪化の経緯について、同じ9寮Aブロックの被収容者たちから聞き取りしたところ、人によって証言に違いがあったが、遅くとも亡くなる3週間前には居室に閉じこもり、明らかな衰弱が認められる状態であったと思われる。Wさん自身は、他の被収容者に自分は糖尿病であると話していた。また3月27日(木)の午前中、目が見えなくなり、歩くことができなくなったWさんの容態悪化に、同ブロックの被収容者たちは、このままではWさんが死亡すると危機感を持ち、即時の受診を求めた。昼食時間の正午になっても彼らは居室に戻らずWさんの即時の受診を求め、12時半ころに、職員が「病院に連れていく」と言ってWさんを連れ出した。法務省入管の説明によれば、Wさんは16日に脚の痛みを訴えたが、医師の診察は27日だったとの事だが、同ブロック被収容者から聞いたところでは、脚の痛みという範囲ではなく、糖尿病への治療が何もおこなわれず、また官給食も他の被収容者と同じ物が支給されており、糖尿病の進行が疑われる。少なくとも27日の午前から正午過ぎにかけて同ブロックの被収容者たちが要求したものは、脚の痛みに限定した診療ではない。

  なぜ東日本センターは、27日に至るまでWさんを受診させなかったのか、また27日以降にしてもなぜWさんの諸症状に対する総合的な診察を受けなせなかったのか。28日にはWさんは知人と面会しているが、その時は、Wさんは職員に両脇を抱えられて面会室に入って来、極度に衰弱した状態だったと聞いている。27日以降に限定して考えても、28日、29日と、一日一日、死へと向かうWさんを救急搬送していれば、30日の死亡は回避できたかもしれない。1


 もし、この仲間の被収容者たちが、亡くなる前日(29日)のWさんの状況を見たならば、なんとかして命を救おうと動いたはずです。ところが、27日以降、Wさんは9寮Aブロックから連れ出され、仲間たちの目の届かないところに移されてしまっていました。Wさんがベッドから落ちもだえ苦しむ様子を見ることができ、119番に電話をかけて救急搬送を要請することが可能だったのは職員たちだけでした。そして、職員たちは、Wさんを拘束して自由をうばっていた以上、その生命・健康を守る責任がありました。


 9寮Aブロックの仲間たちも、入管によって収容され身体を拘束されていました。Wさんに対して入管職員の負っているような責任があったわけではありません。しかし、Wさんの亡くなる前日の状況を知ったら、救急車を呼ぶよう職員たちに強く働きかけたであろうことは、27日の行動からみて、まちがいありません。当然ながら、被収容者たちは「専門的な知識のない」人たちです。


 国は裁判で「専門的な知識のない職員が救急搬送の必要性があると認識するのは難しかった」と主張しました。しかし、この理屈はまったくおかしなものです。「救急搬送の必要性があると認識するのは難しかった」というと、まるで職員が救急搬送の必要性があると《判断できなかった》かのように聞こえます。しかし、職員は救急搬送の要請を「しなかった」のであって、その行為が示しているのは、「救急搬送の必要性がない」と《判断した》ということなのです。救急搬送の必要性を《判断できなかった》のではなく、その必要性がないと《判断した》のです。「専門的な知識」をもった医者でもないくせに。


 「専門的な知識がないから救急搬送の必要性が認識できなかった」などという言い訳は通用しません。専門的な知識がないからこそ、異常な様子がみられたときには早急に専門家(医師)にみせ、その判断をあおがなければならないのですから。専門的な知識がないにもかかわらず、救急搬送の必要性がないとの勝手な判断をしたという点で、職員の責任は問われなければならないのではないでしょうか。そして、こうしたあきらかに非常識な判断を職員がおこなっているというところには、個々の職員の問題にとどまらない、入管という組織のあり方の問題があるのではないでしょうか。




1: 仮放免者の会(PRAJ): 医療問題の抜本的改革をもとめる緊急申し入れ(東日本入管センターに)

2022年5月2日

外国人登録令と日本国憲法 憲法記念日の前日に


【ふりがなを つける】(powered by ひらがなめがね)



  きょう5月2日が何の日なのか、あらためて思い起こしておこうと思います。


 1947年の5月2日は、天皇裕仁が最後の勅令「外国人登録令」1を出した日です。これは、旧植民地(朝鮮・台湾)の出身者を「外国人」とみなし、「外国人登録」を義務づけたものです。新しい憲法の施行を翌日にひかえた日、大日本帝国憲法が効力をもつ最後の日に天皇が発したこの勅令は、日本の入管制度、外国人管理制度の起源(のひとつ)と位置づけることのできるものです。


 外国人登録令の第11条は、「台湾人のうち内務大臣の定めるもの及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす。」としています。「みなす」と言っているところがミソです。朝鮮人や台湾人はこの当時日本国籍をもつ日本国民であったわけです。それを「外国人とみなす」として日本に在留する朝鮮人・台湾人に外国人登録を強制し、管理の対象としたのです2


 その5年後、サンフランシスコ講和条約の発効(1952年4月28日)にともない、日本政府は、朝鮮人・台湾人の日本国籍を、本人たちの意思にかかわらず一方的に剥奪しました。もちろんこれ自体がきわめて不当な措置ですが、この国籍剥奪までの5年間、日本政府は、朝鮮・台湾の出身者を日本国民だけれども「外国人とみなす」という奇怪な身分に置きました。


 こうして入管制度・外国人管理制度の始まりが、管理すべき対象としての「外国人」なる存在を“みいだした”、あるいはもっといえば“あらたに作り出した”ところにあったのだという点は重要な意味をもっているのではないでしょうか。


 さて、外国人登録令は、日本国憲法が効力を発する47年5月3日のまさに前日に公布され同時に施行された、という点も見過ごせません。


 日本国憲法は、いくつかの条文で権利の主体を「国民」と表現しています。たとえば基本的人権について規定する第11条は「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」となっています。この憲法が施行される前日の5月2日になって急遽「外国人」とみなされることになった朝鮮人・台湾人は、この新しい憲法が基本的人権を保障している「国民」にふくまれたのでしょうか?


 さきにみた外国人登録令第11条の規定は、「台湾人のうち内務大臣の定めるもの及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす」というものでした。「外国人とみなす」ということが適用されるのはあくまでも「この勅令」(外国人登録令)であって、憲法にこの規定が適用されるというわけではないでしょう。その意味で、憲法の「国民」には旧植民地出身者である朝鮮人・台湾人をもふくまれたと解釈するのが妥当なように思えます。そもそも、この人たちは当時の制度上、日本国民であることは疑いようのない人びとであったわけです。「外国人」ではなく日本国民であることは動かしようのない事実であったからこそ、外国人登録令はわざわざそれを「外国人とみなす」ということにしなければならなかったのでしょう。


 でも、実際問題として、日本国憲法が施行されたのちも、旧植民地出身者は国民でありながら国民としての権利をうばわれていたのはあきらかです。日本国籍をもつはずの在日朝鮮人らは、外国人登録を強制されました。「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」という条文(第15条)のある新憲法施行後も、国民として選挙権を行使することはできませんでした。そして、日本政府は52年の講和条約発効を機に国籍を剥奪した3


 こうしてふりかえってみると、現在の入管制度にもつながる日本の外国人政策は、その出発点から徹底して道理を欠いたムチャクチャ、デタラメなものだったということが言えると思います。


 と同時に、(詩的にすぎる表現かもしれませんが)日本国憲法はそれが効力を持ち始めた最初の日から「外国人」の権利についてはすでに死んでいたのだという思いをいだかざるをえません。それを生かす機会はいく度もあったかもしれません。しかし、生かせないまま今日にいたっているのだということには、あらためて向き合わなければならないと思っています。



1: 外国人登録令の条文は以下で読めます。
  外國人登錄令 - Wikisource
 また、ウェブ上で読める解説として、以下のページがくわしいです。
 外国人登録令(1947年) | key-j 


2: このように外国人登録令は、日本国民であるはずの朝鮮人と台湾人を、国民ではないものとしてあつかうというものでした。これとよく似ているのが、1945年12月の衆議院議員選挙法の改定です。従来の選挙法では、女性の選挙権・被選挙権を認めない一方で、朝鮮・台湾の成人男性は「国民」として選挙権・被選挙権を行使することができました。ところが、女性の参政権を認めた45年の選挙法改定は、「戸籍法の適用を受けざる者の選挙権および被選挙権は、当分の内、これを停止す」との附則によって、朝鮮人・台湾人の男性の選挙権・被選挙権を停止するものでした。朝鮮人・台湾人の戸籍は朝鮮・台湾にあり、内地に戸籍を移すことは禁じられていました。こうした戸籍法の規定をつかって、朝鮮人と台湾人を選挙から排除したのです。45年に成立した戦後の新しい選挙法は、旧植民地出身者を「国民でありながら国民ではないもの」としてあつかうものであったと言えるでしょう。 


3: 今回の記事でとりあげた外国人登録令や、注2でふれた朝鮮人・台湾人の参政権を停止した措置については、田中宏『在日外国人 新版 ――法の壁、心の溝――』(岩波新書、1995年)などを参照しています。


2022年4月10日

ウクライナ「避難民」を利用した改悪入管法案再提出の動きについて

【ふりがなを つける】(powered by ひらがなめがね)

 

 昨年5月に廃案になった改悪入管法案について、夏の参議院選挙後に再提出しようという動きがあるようです。以下、報道から引用します。


 今回の避難民は自ら来日を希望した人たちだが、受け入れる側の日本では戦争の危険にさらされて逃れてきた人たちを想定して在留資格を与える仕組みが整備されていない。実は、そうした人たちを対象に、政府が2021年に国会に提出した入管法改正案には、人種や宗教、国籍、政治的問題で迫害を受ける恐れがある「難民」に準じ、「補完的保護対象者」として保護する規定を盛り込んでいたが、廃案となった。

受け入れ先とマッチ未知数 求められる個別支援 ウクライナ避難民 | 毎日新聞 2022/4/5 21:29(最終更新 4/5 21:30)


 政府は、ロシアのウクライナ侵攻を踏まえ、難民条約上の狭義の「難民」に該当しない紛争避難者らを、「準難民」として保護する制度の創設を急ぐ方針だ。昨年廃案になった入管難民法改正案に盛り込まれており、夏の参院選後に想定される臨時国会での再提出を目指す。

 同条約は、難民について「人種、宗教、国籍、特定の社会的集団の構成員、政治的意見」を理由に「迫害」を受ける恐れがある外国人と定義。日本政府はこれに照らし、国家間の紛争から逃れた人は、条約上の「難民」に当たらないと解釈する立場だ。今回のケースも「避難民」と表現している。

 改正案は、紛争避難者を「補完的保護」の対象とし、難民に準じた扱いを可能にする制度の創設が柱の一つだった。欧州各国にも同様の仕組みがあり、認定されれば、定住資格など手厚い保護を受けられる。

「準難民」制度の創設目指す 入管法改正案、今秋にも再提出―政府:時事ドットコム 2022年04月07日07時05分


 入管庁のリークした情報をそのまま報道しているということでしょうが、ほとんどデマと言ってよいような内容をふくんでいます。


 この両記事では、

  • 現行の入管法ではウクライナ「避難民」に在留資格を与えて保護するのに必要な枠組みが整備されていない
  • 昨年、野党と世論の強い反対で廃案になった入管法改定案にはウクライナ「避難民」のような紛争避難者を「準難民」として保護する「補完的保護」の制度がもりこまれていた

ということが述べられています。


 つまりは、昨年の政府法案が通っていれば「避難民」を保護できたのに、野党が廃案に追い込んだためにそれができなくなったというわけです。だから、あらためて入管法を再提出するのだ、と。


 しかし、戦争避難者の保護に入管法の改定が必要とは思えません。現行法のもとでも、難民認定審査の過程で、難民として認定するかどうかとはべつに、人道上の配慮として在留をみとめるかどうかという判断はなされているからです。難民としては認定しないけれど在留特別許可を出すということはできるし、入管は現にそれを(十分といえるかどうかはべつにして)おこなってはいるわけです。かりに戦争避難者を難民とみなさないのだとしても、在留資格を与えて保護することは可能です。わざわざあらたな制度を作らなければならない理由はありません。


 そもそも在留資格を与えるということに関して、入管という役所はきわめて大きな裁量をもたされています。この点で現行の入管法が支障になるわけがないのです。


 裁量の大きさを示す格好の事例が過去にあります。難民の受け入れではありませんが、日系人労働者の「受け入れ」です。1990年以降、ブラジルやペルーなどからたくさんの日系人が来日しています。言うまでもなく、労働力を必要とした日本が呼び込んだわけです。非正規滞在外国人の代理人を多くつとめてきた弁護士の著書から引用します。


  ……1990年、法務省は、日系3世や非日系人である2世や3世の家族が、同年施行の法改正で新設された就労に制限がない「定住者」という在留資格に該当するとの解釈を明らかにする告示(「出入国管理及び難民認定法第七条第一項第二号の規定にもとづき同法別表第二の定住者の項の下欄に掲げる地位を定める件」平成2年5月24日法務省告示第132号)を出した。そして、同じく法改正で導入された在留資格認定証明書制度と相まって、日系人やその家族が就労目的で広く来日できるようになった。

 すると、多くの人材派遣業者(コントラティスタ)が、ブラジルやペルー、ボリビアのアヘンシア(航空券の手配や日本のコントラティスタとの契約手続きをしてくれる業者)、日本への出稼ぎを熱望する日系人はもちろん、それまで「日系人」であることを特に意識もしなかった人びとまで巻きこんで、戸籍その他の必要な書類を用意して、日本に迎え入れた。……

ななころびやおき著『ブエノス・ディアス、ニッポン 外国人が生きるもうひとつのニッポン』(ラティーナ、2005年)


 「定住者」というのは、就労可能な在留資格で、かつその就労の内容に制限がありません。たとえば、「技能」という就労系の在留資格で調理師として働くひとは、他の職種に転職したり失業したりすると在留資格をうしないかねませんが、「定住者」の場合、そうした条件がないので比較的安定した在留資格と言えます。


 で、このとき日系人の3世らに「定住者」の在留資格を出せるようにしたのは、上の引用にあるように、法の解釈でやったわけです。


 1990年、およそ30年前になりますが、日本政府がこうして法解釈によって日系人を労働者として呼び込めるようにした背景には、いわゆる「単純労働」をになう外国人労働者を呼び込めるようにしてほしいという財界からの要望・圧力がありました。バブル期で「3K」(「きつい」「きたない」「危険」)と呼ばれた職場を日本人の若い労働者が敬遠したということもありました。すでに80年代から、そうした職場をイランやパキスタン、バングラデシュなどの出身の非正規滞在の外国人労働者がささえていたという状況があったのですが、人手不足に悩む業界から、外国人労働者を正規に受け入れられるように制度作りをしてほしいという声は大きかったのです。


 ところが、日本政府は、就労を目的とする外国人の「受け入れ」は、「専門的な知識,技術,技能を有する外国人」に限定するという建前を、2018年の入管法改定(在留資格「特定技能」の新設)までとってきました。つまり、専門の技術職ではない工場労働者などを外国から「受け入れ」るための在留資格は用意されていない。そこで、「定住者」という就労にしばりのない在留資格に日系人3世らがあてはまりますよという法解釈を大臣が「告示」というかたちで出すことで、この人たちを呼び込めるようにしたわけです。


 在留資格を与えるということに関しては、このように入管の胸先三寸で「なんでもできる」「なんとでもなる」と言っても過言でないのが、日本の在留資格制度であるわけです。


 戦争避難者に在留資格を与えて保護するのに入管法を変える必要がある? うそっぱちもいいとこです。そんなこと、法解釈でいくらでもできるじゃないですか。「定住者」の在留資格を出せばよいのですよ。入管が入管法を変えたいのは、べつの意図があると考えるべきです。


 入管の役人が「現行法では〇〇ができないから、法改正が必要」(「〇〇」にはほとんどの人が賛成するようなよいことが入る)などと言ったら、その言葉はよくよく疑って聞いたほうがよいでしょう。入管法を変える必要があるとすれば、それは入管をしばる仕組みを作って外国人の人権が保障されるようにするという方向での改正以外にありえません。で、入管の裁量・権限をせばめるような法改正の必要性を入管の役人自身が言い出すとは考えられませんから、そこは入管に批判的な世論をつくっていくことでしか実現できないだろうと思います。


 以上、いわゆる「戦争避難民」に在留資格を出して保護するうえで入管法改定が必要だというのはウソだということを述べてきましたが、今回のウクライナ「避難民」の保護を口実にした政府や入管当局の言い分のウソは、これにとどまりません。つぎの記事が私の知らなかったことも指摘・解説されていて、勉強になりました。


ウクライナ侵攻から考える、日本の難民受け入れの課題とは? | Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル) 安田 菜津紀 2022.3.10

ウクライナ難民受入に、「入管法政府案」再提出は必要なのか? 高橋済弁護士インタビュー | Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル) 安田 菜津紀 2022.4.8


 ひとつめの記事は、紛争から避難してきた人も「難民」と定義しうるということ、紛争からの避難者を「難民」ではなく「避難民」とする日本政府の理解は難民条約解釈の国際的スタンダードから乖離していることが指摘されています。入管法を変えなくても、ウクライナから逃れてくるひとを「難民」と認定して保護することは可能であるということになります。


 ふたつめの記事では、そもそも昨年廃案になった政府法案の「補完的保護」では、今回のウクライナ避難民は保護できないということが指摘されています。


 それにしても、戦争から逃げてくる人たちを利用して法案再提出にむけての世論づくりをしようとし、しかもその内容がウソ八百という、法務省の役人どもの恥知らずぶりはびっくりするほかありません。