2022年3月7日

ウィシュマさんの1周忌に


【ふりがなを つける】(powered by ひらがなめがね)

 


 3月6日(日)、名古屋入管が収容していたスリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさんを見殺しにしてからちょうど1年になります。


 この日、全国8か所(札幌、仙台、東京、浜松、名古屋、京都、大阪、高知)で、追悼のデモやスタンディングがおこなわれました。「3.6ウィシュマさん一周忌全国一斉追悼アクション」と題して、入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合の呼びかけでおこなわれた行動です。


 私は、このうち大阪でのデモに参加してきました。デモ出発前に扇町公園でおこなわれた集会で、お話する時間をいただいたので、以下のようなスピーチをしました。インターネットに配信された動画から文字起こししたものです。じっさいは「えー」とか「あのー」とかいっぱい言ってるんですが、そこは割愛してます。



 こんにちは。永井といいます。10年ぐらい、面会の活動なんかをしてきました。


 今日は、ウィシュマさんが亡くなって1周忌ということで、追悼の行動ということで私たち呼びかけさせてもらったんですけども、この事件、何だったのかということを考えたときに、さっき弁護士の先生たちからもそういう話ありましたけれど、「医療体制の不備」の問題じゃないんですよ、これ。


 先月のすえに入管庁の有識者会議ていうのが「提言」という報告書をまとめました。そこでなに言ってるかというと、これがほんとふざけた内容で、医療体制に不備があったからこれを改善しましょう、具体的には常勤の医者を増やしましょうとかね、そういうことを言ってるんです。


 でも、当時の医療の体制でもウィシュマさんの命は救えたんです。


 入管には車があります。車を運転できる職員もいます。担架もあります。車いすもあります。病院に運べたんですよ。


 で、電話もあるんですよ、入管には。だから救急車をよべたんです、119番して。


 それをやらなかったからウィシュマさんは死んだんです。これは、「医療体制の不備のせいで救おうとした命が救えなかった」んじゃなくて、見殺しにしたんですよね。


 これは犯罪です。これは人殺しで、さきほどからいろんな人が言ってますけども、収容する、送還する、そのことを人命よりも優先させた。そのことで見殺しにしたんです。


 それは、入管庁の指示のもとで起こったことです。


 だから、人殺しには責任とらせなきゃいけない、ということだと私は思ってます。


 だから、追悼ということでさっきも黙祷したんですけども、この現状のもとでは、ウィシュマさんうかばれないと思います。だから、責任追及する、で、入管庁の幹部、入管庁の長官、法務大臣、この人たちを罪人としてきちんと責任追及するっていうことこそ、やらなきゃならないことだと思います。


 なので、静かに追悼するということも、さっき私も黙祷しましたけれど、気持ちとしては怒りの声をあげたい。怒りの気持ちをもってみなさんと歩きたいと思っています。


 以上です。ありがとうございます。



 大阪での集会・デモは、たぬき御膳さんとIWJさんが動画配信してくれております。つぎのリンク先で見ることができます。


3.6ウィシュマさん大阪一周忌追悼アクション / たぬき御膳のたぬキャス

ライブ #723439788 / IWJ・エリアCh6

3・6 ウィシュマさん大阪一周忌追悼アクション デモ / IWJ・エリアCh6


 ちなみに、奇しくもウィシュマさんの亡くなる1日前にあたる2021年3月5日、当時の法務大臣上川陽子は、閣議後の記者会見でつぎのような発言をしています。


 2点目の収容期間の上限を設けるということについてでありますが,収容期間の上限を設けますと,送還をかたくなに忌避し,収容期間の上限を経過した者全員の収容を解かざるを得なくなるということになります。また,収容を解かれることを期待しての送還忌避を誘発するおそれもあるということでありまして,適当ではないと考えたところでございます。(法務省:法務大臣閣議後記者会見の概要)


 収容期限の上限を設定していない(理論上は10年でも20年でも永久に収容できる)いまの入管制度について、国連などから国際人権規約に違反しているとの指摘があるわけですが、そうした指摘を反映させて制度を見直す考えはないのかというような意味の記者の質問をうけての上川の答えが、これなのです。


 この上川発言については、このブログでこれまでもコチラの記事などで問題にしています。


 上川は、入管収容施設で「送還をかたくなに忌避し」ている人たちの「収容を解かれることを期待」する気持ちを打ち砕くために、収容期限に上限をもうけないのだと、そうはっきり明言したわけです。希望をうばう、絶望させる、そのために「閉じ込める」「自由をうばう」という暴力をもちいているのだ、と。


 悪いことはこっそりやっても悪いし、かくさず堂々とやっても悪いことにかわりないのですが。しかし、収容や送還という暴力を使うことを法律によって認められた組織のトップが、「われわれの言うことを聞かせるために収容所に閉じ込めるのだ」「そのさい、『出られるかも』なんて期待をいだかせないように収容期間の上限はきめないのだ」などと、記者会見で堂々と悪びれもせずにしゃべっている。そういう組織が人を殺さないわけがないのです。さきほどこの上川発言が「奇しくも」ウィシュマさんの亡くなる前日になされたということを書いたのですけれど、こんな組織が運営する組織で人が職員に見殺しにされて命をうばわれるのは、ある意味で「不思議ではない」ということも言える。


 で、もうひとつ言わなければならないのは、悪事がかくされずにおおっぴらにおこなわれるのは、悪いことをやっても「他人からとめられない」と思われているからでもあるということです。だから、入管の職員でない私たちにも責任がある。私たちはとめなければならないし、こんなことをくりかえさせてはいけない。そういう責任はやはり負っているのだと思います。



関連する記事など

出入国在留管理官署の収容施設における医療体制の強化に関する有識者会議 | 出入国在留管理庁

報告書「入管収容施設における医療体制の強化に関する提言」(概要)(PDF:516KB) | 出入国在留管理庁

報告書「入管収容施設における医療体制の強化に関する提言」(PDF:951KB) | 出入国在留管理庁

ウィシュマ・サンダマリさん一周忌の日に誓う(指宿昭一)

ウィシュマさん一周忌で遺族ら追悼 入管の対応改善求め全国で一斉デモ - TBS NEWS(YouTube)

外国人も同じ人間 ウィシュマさん一周忌 真相を求め法要やデモ | 毎日新聞(YouTube)

外国人も同じ人間 ウィシュマさん一周忌 真相を求め法要やデモ | 毎日新聞 2022/3/6 19:00(最終更新 3/6 22:08)


2022年2月3日

差別扇動家 石原慎太郎の死によせて


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 石原慎太郎が死んだそうだ。


 石原は、外国人、女性、障害者、同性愛者など、思いつくかぎりのありとあらゆるマイノリティに対して差別的な暴言・罵倒をくり返した人物である。しかし、石原はそれを理由に政治的に失脚することもなかったし、マスメディアで発言する機会をうしなうこともなかった。こうして石原を死ぬまでのうのうと生き延びさせてしまったのは、とても残念だし、深く恥ずべきことだ。


 石原慎太郎は、この社会の差別主義が人格として具現したような存在だと言ってもよいだろうと思う。だから、石原慎太郎という人間が一人くだばってこの世から消え去っても、なにも喜べるようなことではない。この人物のかずかずの暴言はエキセントリックにもみえるが、日本社会の質をたしかに反映したものであって、石原ひとりを切断したところでこの社会がいくらかでもまともになるということは、残念ながら、ないのである。


 石原が東京都知事選に初当選したのは1999年4月。以来、2012年10月に国政転出のために4期途中で辞任するまで、13年半にわたって都知事の地位にあった。


 石原は、知事就任1年後の2000年4月9日、陸上自衛隊・練馬駐屯地での式典で、いわゆる「三国人発言」をおこなう。


 今日の東京を見ますと、不法入国した三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪をですね、繰り返している。東京の犯罪の性質は昔と異なってきている。もし大きな災害が起こったときには大きな大きな騒擾事件すらですね想定される。そういう状況であります。こういうものに対処するためには、なかなか警察の力をもっても限りとする。ならばですね、そういう時に皆さんに出動願って、災害救助ばかりでなく治安の維持も、ひとつ皆さんの大きな目的として遂行していただきたいということを期待しております。


 この発言は、「外国人」という特定の属性と「凶悪な犯罪」というものを結びつけて語っており、しかも東京都知事という地位と立場でなされた発言であるという点で、きわめて悪質な差別扇動というべきものである。


 さらに石原は「大きな災害が起こったときには大きな大きな騒擾事件すら」想定されるという言い方をしている。これは、聴衆に1923年の関東大震災を思い起こさせようとするものだ。この大震災においては、「朝鮮人が井戸に毒を入れている」「朝鮮人が暴動を起こしている」といった流言飛語が流れ、こういったデマをもとに日本人たちは自警団を組織して関東地方各地で朝鮮人らを虐殺してまわった。その虐殺につながったデマを、2000年の石原は、なぞり再現するように「三国人」「外国人」による災害時の「騒擾事件」の可能性に言及しているのだ。最低最悪の差別扇動であり、虐殺の教唆とすら言いうる内容である。武装した軍事組織にむかってこんな演説をぶつなど、絶対に許されるべきではなかったし、いまなお批判しなければならないと、あらためて思う。


 そして、いまふりかえってみると、この石原発言は、暴言・放言にとどまらなかった。このような差別扇動家を必要とし利用する者たちがいたのであり、この差別主義者は日本社会の異端どころか主流なのである。まあ、ベストセラー作家でもあり、なおかつ4回も東京都知事に選挙でえらばれるような人物が異端なわけがないのだけれど。


 このブログでも何度かふれているが*1、2000年代に入ってから、日本政府は、在留資格のない非正規滞在外国人の存在を一定程度黙認する方針から、これを「不法滞在者」として徹底的に排除していこうという方針へと転換した。とくに2004年から08年までは「不法滞在者の半減5か年計画」に位置づけられ、徹底的な摘発がおこなわれた。


 「5か年計画」が始まる前年の2003年10月に、法務省入国管理局、東京入国管理局、東京都、警視庁の四者が「首都東京における不法滞在外国人対策の強化に関する共同宣言」というものを出している。「不法滞在者」というものを「犯罪の温床」であると決めつけ、その対策が必要だとする内容である。摘発強化や退去強制などによって都内の「不法滞在者」を半減させるのだということもうたっている*2


 この四者宣言が、石原の「三国人」発言と同様の差別扇動文書であることは、あらためて指摘するまでもないであろう。「不法滞在」というのは、たんに在留資格がないというだけのことであって、そのような状態にある人をひとくくりにして「凶悪犯罪」と結びつけるのは、あきらかに差別・偏見をあおり助長する行為である。これを行政機関がおこなうのは、なおさら許されるべきでない。ところが、その許されるべきでないことを行政機関が公然と宣言しているわけで、差別扇動家・石原の暴言は、この時点でもはや「特殊なもの」「例外的なもの」ではなくなってしまっているのである。


 そして、このろくでもない四者宣言に、入管や警察組織とともに、東京都(石原都政下である)が参加しているということの異常さをあらためて確認しておきたい。住民のよりよい生活のために仕事をするはずの地方自治体が、なんで「ここに住んでいる」ことを犯罪化し、これを取り締まるのに加担するのか。ここに住んでいる人どうしが支えあうための機関が、どうして「ここに住んでいる」ということを理由にした「摘発」に協力するのか。それは地方自治体の意義・役割をみずから否定することではないのか。しかも、2012年に外国人登録制度が廃止されるまで、東京都など自治体は、非正規滞在外国人からも住民税を徴収してきたくせに、である。




 さて、上の画像は現在の東京都のウェブサイト*3を写メったものである。なんで地方自治体のサイトにこんなもんのせるのか。これが異常だということを感受する感覚をうしなわないようにしよう。石原慎太郎が知事をしりぞいてから10年近くたったいまも、東京都はこのありさまである。石原慎太郎は、その死後も、これからも、何度も何度も葬っていかなければならない。あんなくだらない人物を想起するのは不愉快きわまりないけれど、それだけ日本社会の現状はろくでもないということなのだから、しかたがない。




1: たとえば、以下の記事など。

日本社会の問題として考える――入管の人権侵害(その2)

2: 四者宣言については、以下のサイトで全文掲載のうえ批判的な検討がなされている。

2022年1月26日

入管庁が人権について現場職員に説教たれる資格があるのか?


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 入管庁が職員向けに「使命と心得」なる文書を策定したのだそうだ。失笑するほかない。



 スリランカ国籍のウィシュマ・サンダマリさん(当時33)が昨年3月に収容先の施設で病死した問題を受け、出入国在留管理庁は25日、職員の意識改革のための「使命と心得」を策定したと公表した。「秩序ある共生社会の実現に寄与する」ことを使命に掲げ、「誠心誠意、職務の遂行に当たらなければならない」とした。


 14日付で策定された「使命と心得」は、ウィシュマさんの死亡問題について昨年8月にまとめた調査報告書に盛り込んだ改善策の柱。職員に「人権意識に欠ける」発言があり、体調などの情報共有への取り組みが不十分だったことを踏まえ、使命の実現のため留意が必要な事項として、「人権と尊厳を尊重し礼節を保つ」「風通しの良い組織風土を作る」など8点を挙げた。そのうえで職員に「高い職業倫理」や「絶え間ない自己研鑽(けんさん)」を求めた。

入管庁、職員向け「使命と心得」策定 スリランカ女性の収容死受け:朝日新聞デジタル(伊藤和也 2022年1月25日 10時01分)



 内容だけ読めばもっともらしいことを言っているようだが、問題は「だれが」それを言っているのかということだ。


 「秩序ある共生社会の実現に寄与する」だとか、「人権と尊厳を尊重し礼節を保つ」だとか、まあご立派なことを言っているが、入管幹部は数年前にはこれらとまったく正反対の指示を出しているのである。


 2016年4月7日、法務省入国管理局長(当時)の井上宏は、「安全・安心な社会の実現のための取組について」なる通知を出している。入国者収容所長(牛久と大村の入管センター)と各地方入管局長にむけた通知である。


 この通知のなかで、井上は、「不法滞在者」と「送還忌避者」を「我が国社会に不安を与える外国人」であるとし、これらを「大幅に縮減」するために、「送還忌避者の発生を抑制する適切な処遇」を実施せよとの指示を出している。


 ようするに、収容所でつらいめにあわせ、いびりたおして、「我が国社会」から出ていくようにしむけろ、それが入管収容施設の「適切な処遇」なのだ、と井上は言っているわけだ。


 この2016年通知については、以下の記事に全文を画像で掲載し、批判している。不逞外国人は収容施設で虐待してわが国から追い返せという内容の指示を入管局長がほんとうに文書で出しているのです。ウソだと思うかたは、一読してご自身の目でたしかめてください。


「送還忌避者の発生を抑制する適切な処遇」とはなにか? 国家犯罪としての入管収容(2021年10月28日)


 それにしても、6年前の入管局長通知では、劣悪な処遇で収容することで日本からたたき出せという内容の指示を出しておきながら、その同じ口でよくもまあ「人権と尊厳を尊重し礼節を保」ちなさいなどと現場職員に説教をたれるものだ。ふざけるのもたいがいにすべきである。


 ウィシュマ・サンダマリさんを死亡させた事件を反省し、再発防止に取り組もうとするうえで、入管庁が人権について現場職員に説教するなどまったくのナンセンスである。だって、いびりたおして自国へ追い返せと指示を出してたのは入管の幹部どもなのだから。収容所に閉じ込め拷問して帰国へと追い込むことで「送還忌避者」を「大幅に縮減」すべきだというのは、入管幹部が決めた方針であって、現場職員たちが勝手に判断してやったことではない。


 犯罪組織のボスが、手下に指示して犯罪を実行させておきながら、その責任を問われると「若い衆にはよく言い聞かせておきますから」などと言ったとして、それでだれが納得するだろうか。首謀者をこそ追及し、罪に問うべきだろう。もちろんここで「犯罪組織」うんぬんと書いたのは、比喩でもたとえ話でもないです。


2022年1月10日

「どっちの拷問が人道的か?」強制収容所の処遇改善についての考察


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  かつて大阪府茨木市にあった西日本入国管理センター(2015年に閉鎖)の2001年頃の被収容者に対する処遇について、先輩の支援者から話を聞く機会があった。記録として残すべき重要な歴史の一部分だと思うので、書きとめておきたい。



かつて開放処遇はなかった!

 私が非常におどろいたは、当時は開放処遇というものがなかったということだ。


 現在では、全国のどの入管施設でも、一日のうち一定の時間帯は被収容者が自分の居室から共同スペースに出ることのできる開放処遇が実施されている。開放処遇の時間帯には、被収容者は洗濯機を使用したり、シャワーをあびたり、他の部屋の人と交流したりということができる。


 参考までに、現在の大阪入管での被収容者の一日のスケジュールを紹介しておく。


7:40~ 朝食

9:00 点呼

9:30~11:30 開放処遇

11:30~13:30 施錠

11:40~ 昼食

13:30~16:30 開放処遇

16:30~ 施錠

17:00 点呼

17:10~ 夕食


 開放処遇は、午前2時間と午後3時間のあわせて5時間。のこりの19時間は、居室に施錠されて閉じ込められる。


 それぞれの居室(雑居房)は大阪入管の場合は定員6名。ただし、定員いっぱい収容されるということは、昨今ではほとんどないので、ひとつの部屋に1~4名ぐらい。いまはコロナ禍で入管は被収容者数を減らすようにしているので、ひとりに1部屋がわりあてられていることが多いけれど、1日のほとんどを外からカギのかけられた小さな部屋ですごさなければならない。


 ひどいあつかいである。こんなものが人権を尊重した処遇だと考える人はいないだろう。もしいるならば、その人は自分の倫理観を深刻にうたがったほうがよい。


 ところが、20年前はこのたった5時間の開放処遇すらなかったのだという。1日のうち居室から出られるのは、シャワーや洗濯のための15分だけ。ほかに運動場に30分出ることの許される日があるが、毎日ではない。その何日かに1回の30分の運動時間も、雨がふれば中止。


 外部との通信もきびしく制限されたそうだ。外部に電話をかけるのは事前申し込み制で、弁護士への連絡か、帰国の準備のための家族への連絡か、この2通り以外では許可されなかった。


 このような状況で精神を正常にたもつことは容易でないだろう。実際、弁護士が代理人になって裁判を起こしても、判決が出るまで裁判を維持できるのは非常にまれであったという。裁判の途中でほとんどの人は収容にがまんできなくなって帰国してしまうからだ。



一定程度の「改善」

 こうしたすさまじく劣悪な処遇が、西日本入管センターにおいて「改善」されはじめたのが2003年ごろだったという。


 2001年9月11日、米国の世界貿易センタービルと国防総省がハイジャックされた航空機による自爆攻撃を受けると、米国は「対テロ戦争」と称し、翌月にはNATO軍とともにアフガニスタンへの侵略を開始。


 米軍などによる罪のないアフガニスタンの人びとに対する軍事攻撃・殺戮が始まったおなじ10月に、日本政府はアフガニスタン国籍の難民申請者をつぎつぎと摘発し、入管施設に収容した。この一斉収容事件については、弁護士の児玉晃一氏が当時のことを証言したインタビュー記事がいくつかあるので、ぜひ読んでみてほしい。


日本はアフガニスタンからの難民にどう向き合ってきたのか | Dialogue for People(2021.9.10)

9.11同時多発テロ後、突然収容された日本の難民申請者たち。あれから難民の収容は変わったか? - 認定NPO法人 難民支援協会(2019.7.17)


 さて、この、入管がアフガニスタン人難民申請者を一斉収容した事件をきっかけに、入管収容の実態が報道もされ、社会問題化したのだという。


 こうして入管施設のあり方への社会的な批判が高まったことをおそらくは背景にして、入管は被収容者に対する処遇を一定程度「改善」する取り組みを始める。大阪の西日本入国管理センターでは、2003年の1月から7月にかけて収容所内の改修工事をおこなって各居室の外に被収容者が共同で使えるスペースをつくり、開放処遇を順次開始していったのだという。



どちらの拷問が人道的か?

 入管施設に閉じ込められた人たちにとって、開放処遇があるかないかというのは、たしかに大きなちがいのあることであろう。一日中を歩きまわれるスペースもないような小さな雑居房ですわっているか横になっているかしてすごすのと、わずか5~6時間であってもその小さな房から出ることができるのとでは、心身にあたえる影響はぜんぜんちがってくるだろう。西日本入管センターでも、開放処遇のなかった時代には、6か月をこえるような長期収容の例はごくまれだったのだそうだ。帰国できない事情のある人でも短期間でほとんどの人がまんできずに音をあげるほどに収容が過酷だったからだ。


 でも、そのいっぽうで、「そこに本質的なちがいがあるのだろうか?」ということも問わなければならないと思う。一日のうち何時間かせまい居室から出ることができるといっても、たんにそれは施錠された檻がすこし大きくなるにすぎない。自由がうばわれていることにはかわりがないのだ。


 それだけではない。2003年から西日本入管センターが開放処遇をはじめたといっても、その前後で入管にとっての収容の目的がかわったわけではない。被収容者を精神的肉体的に痛めつけて帰国に追い込むこと。これが入管の一貫した収容の目的である。


 開放処遇の導入によって生じたのは、短期間で急いで帰国に追い込むか、長期収容によって時間をかけて帰国に追い込むかのちがいでしかない*1。社会状況の動向に適応させて拷問のやり方をかえただけのことだ。


 監禁して自由をうばい、心身の健康をおのずとくずすような状況に被収容者を置くことで、日本から出ていくように強要する。これは苦痛や恐怖を与えて相手の意思を変更させようとする行為であって、比喩でも誇張でもなく拷問とよぶべきものだ。相手の心身に激しい苦痛を短期間にたたきこむか、それとも6か月、1年、2年と長い時間をかけて心身に徐々に蓄積していくように苦痛を与えていくか。どちらのほうが人道的だろうかと問うのはナンセンスだ。いずれにしても、拷問であることにちがいはないのだから。



処遇は問題の本質ではない

 ここまで、もっぱら開放処遇のあるなしという一点のみで私は語ってきた。もちろん、この開放処遇の有無やその時間の長さは、被収容者に対する処遇のさまざまにある要素のうちのひとつにすぎない。しかし、医療や食事の質、運動時間や最大限の自由の確保など処遇の他の要素についても、その「改善」というものが、ほんとうに施設に収容された人の人権保障にはつながるものなのかということは、よくよくうたがってかかったほうがよい。とくに当局が処遇問題の改善に取り組もうとしているかのようにみずからを宣伝するときには*2


 入管施設について処遇問題は、重要ではないとは言わないけれども、けっして本質ではない。


 たとえば、2021年3月に名古屋入管でウィシュマさんが見殺しにされた事件は、医療体制などの処遇の不備によっておこったものではない。入管が早期に仮放免を許可するか、外部病院に入院させて点滴治療をするか、あるいは亡くなってしまった日の少しでも前に救急車を呼んでいれば、ウィシュマさんが命をうばわれることはなかった。収容を継続すること、またこれによって送還を遂行するということに固執したことで入管はウィシュマさんの命をうばったのである。


 また、2019年6月に大村入管センターでナイジェリア人被収容者が長期収容に抗議するハンストのすえに餓死した事件も、やはり収容継続に固執するあまり、入管が見殺しにしたというものである。長期収容によって死に追いやったのであって、処遇問題によっておきた事件ではない。


 処遇の改善をはかっても、入管施設内であいついでいる自殺をふくめた死亡事件をふせいだり、人権侵害をなくしたりといった問題解決には、かならずしもつながらない。ある意味での処遇改善が長期収容を可能にしている側面すらあるのだ。問題の本質は、日本政府やそのもとで動いている入管という組織が収容という措置を帰国強要のための拷問としておこなっていることにある。処遇はあくまでも二次的な問題にすぎない。収容期間に上限を設定するなどして長期収容という拷問をやめさせれば、医療をはじめとした処遇の問題の多くは格段に小さくなるはずである。

 



1: 現在、入管が「送還忌避者」を帰国に追い込むために長期収容という手段を自覚的・戦略的にもちいているということ、またそのことを法務大臣や入管庁の広報がもはや隠そうともせず公言していることについては、このブログでも以下の記事などで何度か述べている。
日本社会の問題として考える――入管の人権侵害(その1)(2021.12.5)
公然化されつつある拷問――出国強要の手段としての無期限長期収容(2021.4.3) 

 

2: なお、入管幹部は近年、処遇改善に取り組むどころか、これとまったく反対の指示を全国の収容施設の長にむけて出していることはつけくわえておかなければならない。「送還忌避者の発生を抑制する適切な処遇」に取り組めとの内容をふくむ2016年の法務省入管局長通達である。これはようするに、処遇を劣悪なものにとどめることによって「送還忌避者」を帰国に追い込めと命じていると解釈するほかない。この通達の問題については以下の記事で述べている。

2022年1月5日

ヒステリックな声


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(1)こっちを巻きこまないでほしい

 先日、入管の収容施設の前で30人ほどで抗議行動をおこなっていたときのこと。


 近隣の学校の学生さんたちが苦情を言ってきた。勉強しているところに私たちの抗議の声がうるさくて集中できないのだという。私たちは、拡声器を使って入管の7階と8階の収容場に声が届くように声をあげていた。収容されている人たちからの「ありがとう」「助けてください」とさけぶ声も、聞こえていた。学生さんたちが言うには、自分たちは近く国家試験をひかえているのだけれども、私たちの抗議の声がけっこう声がひびいてしまっており、勉強のさまたげになっているのだということだった。


 公共の場でおこなわれる抗議というのは、他人の生活に介入することになることもしばしばで、その介入のしかたはある意味で暴力的でもありうる。自室や教室などで勉強している人にとって抗議の声はジャマな騒音でしかないだろうし、デモ行進はこれもまた迷惑な交通渋滞をひきおこすことがある。


 抗議をジャマだ迷惑だと言う側からは、「時と場所をえらんでやればいいじゃないか」と言われることがある。でも、時と場所を選んでいられないことだってある。路上で倒れてうごけなくなっている人は、通行人に助けをもとめるのに時と場所をえらんでる余裕はない。自分以外のだれかが助けを必要としているという場合でもおなじだ。危機にひんしているだれかを自分ひとりでは助けられないときは、ほかのだれかに呼びかけて手をかしてもらうしかない。それも時と場所をえらんではいられない。


 私たちが抗議をしているのも、それぐらいせっぱつぱった事情があってのことだ。人の生き死ににかかわることで、声をあげている。


 抗議の声や行動がうっとおしく感じる人は、それぞれの生活があり事情があってそう感じているのだということは、わかっている。国家試験はその人にとっての一大事だろうし、重要な商談があって渋滞にはまってる場合じゃないということだってあるだろう。でも、抗議する者にとって、そんなのかまってられないということだってある。


 そこにはある種の敵対性があるのだということは否定できない。敵対性は、抗議する者とその抗議しようとする相手とのあいだにあるだけではない。抗議者とこれをジャマに思う通行人や近隣住民とのあいだにも、それはたしかにある。


 抗議の声をやかましく感じ、デモを迷惑だと言う人は、試験勉強したり商談にむかおうとしたりしている自分をそこに「巻きこまないでほしい」と思うだろう。そう思うのは、その抗議の内容が自分と無関係だと考えるからだ。そういう人は抗議者に「ヨソでやってくれよ」と言うだろう。でも、この社会の差別や政治の作為・不作為によってだれかが命や生活を破壊されようとしているとき、それと無関係な第三者なんてものは存在しない。だから、抗議者は公共の場所、通行する人たちや職場や学校がそこにある人たちの視界や耳にいやおうなしに入ってくる場所に立ち声をあげる。



(2)だまらせたい、耳をふさぎたい

 さて、国家試験の勉強をしているところに、前の道路で拡声器をつかった抗議行動をされたら、うるさいと感じるのは当然でもある。しかし、抗議の声がうるさく感じられるのは、かならずしもその声の物理的な大きさだけに由来するわけではない。


 自分自身がまさに抗議によって問われているという自覚が多少なりともある人は、それが自分とはまったく無関係だと思って聞いている人以上に抗議の声をうるさく感じることがあるだろう。たとえば、女性があげる性差別への抗議の声を男性はしばしばうるさく粗暴なものとしてあつかう。実際、女性による抗議の声は、男性によってヒステリックなもの、論理性に欠けた感情的なものとして表象されてきた。


 自分自身のあり方が問われているということ、自身があたりまえであると感じてきたことが男性という属性に付与された不当な特権であるということ。そのことが抗議によって自身につきつけられている。そう自覚しつつも、その認識を否認しようとする身ぶりが、抗議の声をヒステリックなものと決めつける男性のふるまいにほかならない。


 他者の声にヒステリーという意味づけをするところには、ひとつには、うるさいから相手をだまらせたいというおもわくがある。と同時に、そこには相手の抗議・批判をまともにとりあう必要のないものとして矮小化しようという意思がはたらいている。相手の言葉を矮小化したいのは、それによって自分が問われているということ、その批判が必ずしもマトはずれなものではないということを、多少なりとも理解しているからだ。無視できないということがわかっているからこそ、それを矮小化しようとするのである。相手の言葉をとるにたらないものと矮小化するのは、相手をだまらせるためというよりも、自分(たち)の耳をふさいで相手の声を聞こえなくしようとする身ぶりである。


 声がヒステリックに聞こえるのは、聞いている側がそう意味づけているからであって、抗議者の声にそう聞こえる原因があると考えるべきではない。また、抗議の声をヒステリックなものとしてあつかおうとするのは、それを向けられた者がこれを拒絶しようとしているということであって、それは同時に声が届いているということのあかしでもある。抗議の声が自分にとって無視できないものだと受け取っているからこそ、これをヒステリックな声であるとして拒絶しようとするのだ。


 だから、抗議をおこなう側にとって、相手がうるさく感じないように、自分の声がヒステリックなものと受け取られないようにするのは、意味がないし、本末転倒ですらある。



(3)小さな声を、聴く力

 岸田首相は、昨年9月の自民党総裁選で「聞く力」が自身のアピール・ポイントだと語っていたようだ。また、連立与党の公明党は、2019年から「小さな声を、聴く力」というキャッチコピーをつけたポスターを街頭などに貼りだしている。


 しかし、権力をもつ者がアピールする「聞く力」などというものを真に受けるべきではない。どの声を聞き、また、どの声を聞かずに無視するのか。それを思うがままに選択できるということが、権力をもつということだからだ。「小さな声を、聴く」などと言っている政治家も、こっちがほんとうに小さな声でうったえたら聞こえないふりをしてくるかもしれない。しかたなく大きな声を出したら「うるさい」と言われて聞いてくれないということもある。聞きたい声だけを聞き、聞きたくない声は聞こえなかったことにする。その選択ができるということが権力なのだ。


 これは首相や与党政治家といった、多数の人間に政治権力を行使できる立場にある者たちだけに関係する話ではない。上司と部下、教師と学生といった非対称な権力関係が生じる場面すべてにあてはまる話である。2人の人間がいて、そこに権力差があるとき、権力の小さい者は相手の声を無視するということがむずかしい。しかし、権力の大きい者にとっては、相手の声を聞いたり聞こえなかったふりをしたりという選択が容易にできる。


 権力の大きい者は、相手が小声でささやくのに対し、聞こえていないふりができる。相手が大声をだせば、さすがに聞こえていないふりをするのはいくらか難しくはなるだろう。しかし、その場合でも権力の大きい者は、相手の声は聞くにあたいしないのだということを言いたてることができる。あなたの言い方はヒステリックだから、粗暴だから、私を傷つけるから、だから聞く必要はないのだ、私が耳をかたむけないのはあなたに原因があるのだ、と。聞いてほしければ、感情的にならずに冷静に話してくれ、と。トーン・ポリシングというやつだ。


 抗議の声をあげようとする者は、こうしたトーン・ポリシングに耳をかす必要はない。自分の声を相手が聞こうとしないのは、それがヒステリックだからではない。粗暴だからではない。冷静さを欠いているからではない。礼儀にかなっていないからでもない。そこに権力差があるからだ。相手が自分の声を無視できる権力をもっているからだ。



(4)いきり立ったヒステリックな人々

 脚本家の太田愛氏のブログ記事が話題になっている。


相棒20元日SPについて(視聴を終えた方々へ) | 脚本家/小説家・太田愛のブログ


 この記事では、元日に放送されたテレビ朝日のドラマ『相棒』に、太田氏の脚本にはなかったシーンが不本意なかたちで入っていたということが、以下のように述べられている。



右京さんと亘さんが、鉄道会社の子会社であるデイリーハピネス本社で、プラカードを掲げた人々に取り囲まれるというシーンは脚本では存在しませんでした。


あの場面は、デイリーハピネス本社の男性平社員二名が、駅売店の店員さんたちが裁判に訴えた経緯を、思いを込めて語るシーンでした。現実にもよくあることですが、デイリーハピネスは親会社の鉄道会社の天下り先で、幹部職員は役員として五十代で入社し、三、四年で再び退職金を得て辞めていく。その一方で、ワンオペで水分を取るのもひかえて働き、それでもいつも笑顔で「いってらっしゃい」と言ってくれる駅売店のおばさんたちは、非正規社員というだけで、正社員と同じ仕事をしても基本給は低いまま、退職金もゼロ。しかも店員の大半が非正規社員という状況の中、子会社の平社員達も、裁判に踏み切った店舗のおばさんたちに肩入れし、大いに応援しているという場面でした。


同一労働をする被雇用者の間に不合理なほどの待遇の格差があってはならないという法律が出来ても、会社に勤めながら声を上げるのは大変に勇気がいることです。また、一日中働いてくたくたな上に裁判となると、さらに大きな時間と労力を割かれます。ですが、自分たちと次の世代の非正規雇用者のために、なんとか、か細いながらも声をあげようとしている人々がおり、それを支えようとしている人々がいます。そのような現実を数々のルポルタージュを読み、当事者の方々のお話を伺いながら執筆しましたので、訴訟を起こした当事者である非正規の店舗のおばさんたちが、あのようにいきり立ったヒステリックな人々として描かれるとは思ってもいませんでした。同時に、今、苦しい立場で闘っておられる方々を傷つけたのではないかと思うと、とても申し訳なく思います。どのような場においても、社会の中で声を上げていく人々に冷笑や揶揄の目が向けられないようにと願います。



 私はこの放送を見ていないのだけれど、声をあげる者、権力にあらがう者を粗暴な存在としておとしめる表現は、この国ではありふれている。「いきり立ったヒステリックな人々として描かれる」のは、たとえばフェミニズムをおとしめるのに定番のイメージとなっている。太田氏のブログは、不公正や差別に立ち向かい声をあげるという行為に対し悪意をもってことさら否定的に描写しようとするドラマ制作者のありようを記録し、これを問題化したという点で、貴重なものだと思う。



(5)ヒステリックでなにがわるい?

 さて、太田氏は「今、苦しい立場で闘っておられる方々を傷つけたのではないかと思うと、とても申し訳なく思います」と書き、また「社会の中で声を上げていく人々に冷笑や揶揄の目が向けられないようにと願います」と書いている。こうした発言は、不公正や差別にあらがい声をあげていこうとする人びとに寄り添っていこうとするものなのだとは思う。


 でも、そうやって寄り添おうとしたり、あるいはともに声をあげようとしたりするときに、「いきり立ったヒステリックな人々」とみられ「冷笑や揶揄の目」を向けられながら、それでも声をあげてきた先人たちへのリスペクトはもち続けていたい。これは私自身のこととしてそう思っている。


 声をあげるときに、相手からそれがヒステリックな声と受け取られないように、いきり立った人たちと自分が同類だとみられないように、あるいは世間からスマートにみられるようにと自己規制したくなったら、それはまちがった方向に進みつつある兆候である。それは、世間の多数者や権力のある者に自分がみばえよくうつるようにありたいという誘惑であって、声のもつ力をそぐものである。


2021年12月22日

議論があることはかならずしもよいことではない――玉木雄一郎氏の人権否定発言について


【ふりがなを つける】(powered by ひらがなめがね)



 武蔵野市議会で審議されていた住民投票条例案が21日、否決され、成立しなかった。


 産経新聞によると、国民民主党代表の玉木雄一郎氏は、条例案が外国人住民にも投票権を認めていたことについて、「こういうことが(外国人に対する)地方参政権の容認につながっていく。否決されて安心したというのが率直な思いだ」と述べたそうだ。


国民民主・玉木氏「否決され安心」 武蔵野条例案 - 産経ニュース(2021/12/21 17:40)


 産経の同じ記事によると、玉木はこうも言ったのだという(太字での強調は引用者)。


 玉木氏は今回の住民投票条例案に関し「外国人の権利の保護を否定するものではないが、極めて慎重な議論が必要だ」と指摘。その上で「憲法に外国人の権利をどうするのかという基本原則が定められておらず、ここが一番の問題」との認識を示した。

 さらに、「まずは外国人の人権について憲法上どうするのか議論すべきで、そういう議論がなく拙速に外国人にさまざまな権利を認めるのは、極めて慎重であるべきだ」と強調した。


 「外国人の権利の保護を否定するものではない」と言っているが、玉木氏は明確に外国人の権利を否定している。


 玉木氏は、「まずは外国人の人権について憲法上どうするのか議論すべきで、そういう議論がなく拙速に外国人にさまざまな権利を認めるのは、極めて慎重であるべきだ」と言っている。なるほど、「議論すべき」だと。なんとなくいいことを言っているようにも聞こえますね。議論することは大事だ、と。なるほど。


 しかし、ここで問題になっているのは、「外国人の人権」である。それ、議論が必要なんですか? 「外国人の人権」を認めるべきかどうか、議論しないと決められないんですか? あと憲法がどうのと言ってますけど、憲法で人権をいかに制約するかとか議論するつもりなんですか? おそろしい!


 もうすこしわかりやすいよう、親切に説明してみますね。


 「玉木雄一郎をぶっ殺そうと思うんだけど、みなさんの意見はどうですか?」と私が議論を提案したとします。玉木氏は「なにおそろしいこと言ってんの!」と思うんじゃないですか。そしたら、私は玉木氏に言うわけです。「おまえに聞いてないよ。あっち行け」。


 私はなにも極端なたとえ話をしているわけではない。人権というのは、自分が住んでる国や地域の意思決定への参加の権利もふくめて、その人の生き死ににかかわることがらだからだ。外国人の人権について「議論すべき」だという玉木氏の発言は、それ自体が「外国人の権利の保護を否定するもの」にほかならない。しかも、その議論は、当の外国人住民ぬきでやるというわけでしょう。


 「議論があることはよいことだ」ということをおっしゃるかたはよくいる。でも、「議論がある」ということ自体、また「議論の余地があると考えられている」ということ自体が、その社会のマジョリティがマイノリティにむけている暴力性をしめしている、という場合がある。「外国人の人権を認めるべきかどうか」「女性の人権をどの範囲まで認めるべきか」「障害者に人権はあるか」「セクシュアルマイノリティの人権を認めてもよいか」。そういった議論が推奨される社会、そこに議論の余地があると考えられている社会がだれをおびやかしているかということに、マジョリティはなかなか気づきにくい。


 これは玉木氏だけの問題ではない。げんに、武蔵野市の住民投票条例案については、外国人住民の投票権を認めるべきかどうかということが、なんと議論の対象になったのである。そしてこうした侮蔑的な暴力的な「議論」がなされてしまうのは、いまに始まったことではない。そのこと自体が深く恥ずべき事態であって、同時に私は強いいきどおりをおぼえる。玉木氏のような差別主義者は「もっと議論を」と言うだろうが、私は「もっと怒りを」と言うところから始めたい。



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追記(12月23日、20:29)


 上の産経の報道を受けて、玉木氏は自身のツイッターにつぎのように投稿している。

外国人の人権享有主体性については様々な意見があります。100%これが正しい、これが間違っているというものではありません。我が党としては、憲法上の位置付けをどうするかも要検討としています。だだ今回は民主的手続きを経て否決された以上、慎重に対応すべきでしょう。

 やはりこの人は筋金入りの差別主義者なのだなとあらためて確信するとともに、上に述べてきたことにもうひとつ付け加えるべきことがあると思った。

 それは、玉木氏はみずからは議論しないということだ。「議論が必要だ」「議論すべき」「様々な意見があります」「要検討」とは言うけれど、そう言うだけで、議論はしていないし、しようともしていない。ただただ、「外国人には人権がある」という自明な、また自明でなければならない命題について、議論の余地があるのかのようにほのめかし、これに留保をつけようとしている。遊ぶように差別を遂行しているのだ。

 つまるところ、本文とおなじ結論にゆきつく。こういう不誠実のきわみのような連中にむかって議論しようとしても徒労に終わるしかないのであって、怒りをあらわすところから始めるしかない。

2021年12月19日

「どうして逃げるんですか?」


【ふりがなを つける】(powered by ひらがなめがね)

 


(1)


 警察官の職務質問というやつ。クソうざいですよね、あれ。


 法律では職務質問はあくまでも任意で、警官が質問に答えさせることを私たちに強制する権限などないはず。けれど、やつらは行く手をさえぎったり、取り囲んだりして、答えることをこちらに強制しようとしてくる。


 あるとき、「任意ですよね。拒否します」と言って立ち去ろうとした私に、やつらは「どうして逃げるんですか?」と言ってきた。


 逃げる? 私は行きたいところに行くだけだ。自分の意思で自分の行き先を決めるのであって、あんたたちから逃げているわけではないのに。


 ところが、私が私の勝手で歩いているという、その私の行為が、警官には「逃亡」とうつるらしい。何なのだろう、これは。


 まず、ただ歩いているという私の行為を「逃亡」とみなしているのは警官である。それを「逃亡」たらしめているのは、私の行為の性質ではない。警官の思考が、私の行為を「逃亡」と意味づけている。


 そして、私の行為を「逃亡」とみなす警官は、私が自由な存在であることを認めていない。やつらは、私を拘束してもよいのだと、そういう権限が自分たちにはあるのだと思い込んでいる。だから、自分の思い通りにならない行動をとって立ち去ろうとする私に、「どうして逃げるんですか?」という質問をむけてくるのである。


 立ち去ろうとするのは私の勝手だ。もし、警官もそれが私の勝手だとみなすならば、歩き去っていく私の行為は、たんに歩き去っていくという他者の行為にすぎず、それを「逃亡」と認識することはないだろう。自分は相手を拘束してよいという思い上がり、また相手を拘束しようという意思が、他者の行為を「逃亡」とみなす条件なのではないか。




(2)


 産経新聞がつぎのような記事を出している。


<独自>仮放免外国人195人が逃亡 保証人に偏り - 産経ニュース(2021/12/16 20:40)


 仮放免されている外国人が「逃亡」するケースが増加しており、その「逃亡」事例が特定の身元保証人にかたよっているのだという内容の記事だ。もっぱら入管庁の提供する統計に依存した記事で、その背景を取材したり、統計の方法への批判的な考察をへたりした形跡はない。ただただ入管の役人のリークをそのまま書き写しただけのもののようだ。簡単なお仕事でいいですね。


 この記事は、政府がめざしている入管法改定にむけての世論誘導のためのものであろう。仮放免者と一部の支援者を攻撃しこれを危険視する感情をあおることで、記事中にも言及のある「監理措置」制度の新設にむけての世論づくりをしようということだろう。


 この「監理措置」に対する批判はあらためてしなければならないし、仮放免者を「逃亡」に追い込んでいるのは入管庁の非人道的な施策であるということも言わなければならない。というのも、仮放免者の多くは、帰国しようにもそうできない事情をかかえているのであって、日本での在留を切実に望んでいる人たちだからだ。在留資格がいっそう遠のくような「逃亡」など、だれがしたくてするだろうか。それに、「逃亡」してしまうと、警官に職務質問でもされれば、ただちに「不法残留」として逮捕され入管収容施設に送られる、そういう不安をたえずかかえながら生きていくしかない。ある意味、仮放免状態にもまして過酷な状態である。「逃亡」する人の多くは、そうしたくてそうするわけではない。「逃亡」するのにもそれぞれ理由があり、その理由はかならずしも本人に責任があるものではない。


 でも、ここではその話はしない。「どうして逃げるのか?」 その理由を論じるべき局面はたしかにあるだろうし、わたしもそうすることがあるわけだけれども。しかし、それより先に言うべきもっと大事なことがあると思うからだ。それは、仮放免者は人間だということである。言うまでもないあたりまえのことだけれど、それがあたりまえだと思われていないから、上記の産経新聞の記事のようなものが書かれるのである。




(3)


 さきの産経新聞の記事は、「仮放免外国人195人が逃亡」という見出しをかかげている。まるでライオンか毒ヘビが逃げ出したかのような書きぶりである。相手が自分と対等な人間だと思っていたら、こんな無礼な言葉えらびができるわけがない。


 「仮放免」というのは、退去強制の対象となっている外国人を入管収容施設から一時的に出所させる措置である。定期的に入管局に出頭すること、入管局の許可した住所に住むことなどが義務づけられている。入管が「逃亡」と呼んでいるのは、仮放免者が出頭せず、居所が不明になるという事態だ。ようするに、入管にとって、連絡のとれない、どこに住んでいるのかわからない状態になったということだ。


 入管は仮放免者に対して、身体を拘束(収容)すべき存在とみなしている。一時的に収容は解いているけれど、本来は施設に収容して送還すべき対象なのだと考えている。だから、仮放免したひとがどこにいるかわからなくなったら、それを「逃亡」といいあらわす。入管の立場からそれが「逃亡」と呼ばれることは、理屈として理解できる。


 けれども、仮放免者が人間であるとともに、仮放免者でない人もふくめた私たちも人間である。私たちと入管の立場はちがうし、入管の言葉づかいに私たちがならうべき理由もない。産経新聞や、その下劣な記事を掲載したYAHOOニュース(こちらはリンクを貼らないが)も、人間を毒ヘビあつかいして侮蔑する記事を自身のニュースサイトにのせない自由も、じつはあったのだ。


 くりかえすが、入管は仮放免者を拘束すべき存在とみなすからこそ、「逃亡」という言葉を使う。でも、在留資格がまだ認められていないけれど私たちの社会でともに生きている住民、また、国籍国に帰るのは危険だからとここに残ることを希望している人たちは、「拘束されてしかるべき存在」なのか? 私はそうは思わない。あなたはどう思いますか?


 「どうして逃げるんですか?」 その問いを口にするまえに、私がその問いを発するべき立場なのか考えたい。たとえば、知り合いや家族が私との連絡をたってゆくえ知らずになったら、それを「逃亡」「逃げた」と言いあらわすだろうか? それを「逃亡」「逃げた」と言いあらわしたくなるのは、どんなときだろうか? 仮放免者、あるいは技能実習生について「逃亡」という言葉が使われることがしばしばあるけれど、そのことに違和感をおぼえないとしたら、それはなぜなのだろうか?