2024年6月8日

6/10の改悪入管法施行にむけて 反対運動の私的記録


 6月10日に昨年可決成立した改悪入管法が全面施行されます。

 難民申請中は強制送還が停止されるという規定に例外がもうけられる、また監理措置制度の創設など、非常に問題ぶくみの法改悪です。

 昨年の6月9日にこの改悪法が強行採決によって可決されるまで、反対運動の大きな盛り上がりがありました。改悪法の可決はゆるしたものの、国会やマスメディアもまきこんで、強力な反対運動が展開されたことは、多様な視点から記録されることが重要なのではないか。そうした記録が、改悪法施行後に強まることが危惧される人権侵害に今後対抗していくうえで、参照される価値がでてくるのではないだろうか。

 そんなことを思い、1年ほどまえに、私なりに入管法改悪反対運動をふりかえって書いた文章をこのブログに再録することにしました。

 昨今では、SNSに社会運動の膨大な量の記録がなされているでしょうが、それらはあとから参照されるのに不向きだと思われるし、おそらくそう長くない期間で消えてしまうのではないでしょうか。

 以下は、『人民新聞』(2023年7月5日号)に掲載した文章の元原稿です。掲載されたものは、校閲等をへて元原稿と少し変わっているところがあるかもしれないし、編集部がつけた写真や見出し等もあるのですが、ここにはオリジナルの原稿のままのせます。



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  6月9日、参議院本会議で入管法改悪案が可決・成立した。議席数で圧倒的にまさる与党(自公)および一部野党(維国)が賛成しての可決であった。

 しかし、街頭など国会外での反対運動は入管問題では近年例がないほどの盛り上がりをみせた。また、これに呼応するように国会審議でも、特に参院へ法案が送られて以降、野党の法務委員(立民・共産・社民)が奮闘し、議論の内容では政府側を圧倒していた。

 この間の国会審議、メディア報道、弁護士や支援者の活動、SNSや街頭等での議論を通じて、今回の法案の問題点はもとより、ウソと隠蔽とゼノフォビアにまみれた入管の組織体質、でたらめな難民審査のありようなどが次々と暴露され、多くの人の知るところとなった。難民申請者や非正規滞在の外国人の人権状況をますます悪化させる改悪法案は通してしまったが、今後の闘いにいきる糧を多く得られたのも事実である。本稿では、今回の入管法改悪反対の運動を振り返るととともに、今後の闘いへの展望を私なりに述べたい。

 もっとも、私が観測できたのは大きく広がった運動のごく一部にすぎない。私自身は「入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合」(以下「市民連合」)の事務局に属する位置から、この改悪阻止の運動にコミットした。組織に属して動いてきた身からすると、今回の入管法改悪反対の運動は、予測・観測しうる範囲を大きく超えて拡大していた。SNS等をつうじたスタンディング・アクションなどの全国各所へ瞬く間に広がっていくさまは、(組織化されていないという意味で)自然発生的なもののようにもみえた。


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 さて、今回の入管法改悪の問題点は様々にあるが、ここでは最大の問題として危惧されている一点だけ述べる。入管法では、難民条約で規定されたノン・ルフールマン原則(迫害の危険のある国への送還を禁止する原則)にもとづき、難民申請者の送還は停止されることになっている。今回の改悪はこの送還停止効に例外をもうけ、3回目以降の難民申請者などを送還可能にするものである。

 この点をはじめ、今回の改悪は入管が送還をより強力に進めるための内容がいくつも含まれている。そして、この改悪法案は、2年前の2021年の5月に反対運動の盛り上がりに直面して廃案となった法案とほぼ同内容のものであった。

 しかし、私たちはこの改悪法案がいずれ再提出されてくるだろうことは、21年にそれがいったん廃案となった時点で予期していた。そして21年3月6日に名古屋入管に収容されていたウィシュマ・サンダマリさんが医療放置により見殺しにされた事件が、日本社会から忘れ去られ風化してはならない。そこで、入管問題等に取り組む団体や個人が集い「ウィシュマさん死亡事件の真相究明を求める学生・市民の会」を結成。同年7月から、ウィシュマさんが亡くなるまでの状況を記録した監視カメラ映像の開示や事件の再発防止を求める署名運動を開始し、同趣旨での集会や全国一斉での街頭行動などにも取り組んだ。

 同年12月には、この「学生・市民の会」を前身に、全国の団体・個人に呼びかけて前述の市民連合を結成した。市民連合は、ウィシュマさん事件の真相究明に引き続き取り組むと同時に、きたるべき入管法改悪案の阻止も運動の大きな柱とした。全国的な街頭行動の呼びかけや主催、ハッシュタグデモなどSNSの活用、オンラインも含めた集会・学習会の開催、入管問題を解説したパンフレットの作成・配布、署名運動等に取り組んできた。

 結果的には、2022年の通常国会と臨時国会とにおいて、政府の改悪法案提出は2度にわたり見送られることになった。とりわけ重要だったのは、「ウィシュマさん事件真相解明のための9・4全国アクション」である。全国10か所で各地の団体がデモやスタンディング等を主催し、総計500名が参加し、同時にツイッターでのハッシュタグデモも行なった。直後の9月7日、マスコミ各社は政府が法案再提出を見送ったと一斉に報じた。

 このように21年5月の廃案後も、市民連合は同様の法案の再提出を警戒して運動の継続・持続を図ってきた。それは2度にわたり国会での法案提出が阻止されたこと、またウィシュマさん事件への市民の関心が風化せず持続したことに、少なからず寄与したのではないか。また今年に入っての法案再提出後の、自然発生的にもみえた反対運動の盛り上がりも、この間の各所での地道で持続的な取り組みを養分として成長したということも、いくぶんかは言えよう。


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 今年に入ると、政府の改悪法案提出の動きが顕在化し、これに反対する運動も本格化した。いまだ法案が提出されてない2月中旬から東京と大阪で毎週定例の街頭行動が開始し、3月7日の法案提出、4月13日の衆院での審議入りをへて、これらの行動の参加人数は増していき、大都市以外でも各所にスタンディング等の行動を始める人たちが現れた。

 それらの担い手も多様化し、難民等の支援者・支援団体のみならず、弁護士の有志たち、ふだんは労働運動など他分野に取り組んでいる個人や団体、さらにSNSや報道を通して関心をもった市民などが次々と街頭での行動を始めた。児玉晃一弁護士がツイッター等での予告・報告を集計したところによると、勇気を出して一人で地元の街頭に立ったというものも含め、全国147か所で改悪反対のスタンディングが行われた(6月22日時点)。

 国会で改悪法案は可決成立したわけだが、その結果だけではなく、こうした運動の盛り上がりが国会審議にどう影響したのかをみることが、今後の闘いの展望を描く上で大切だ。

 2点指摘したい。1つは、議会の外での市民の闘いが、密室での談合で政府側に妥協しようとした一部野党議員をけん制し、野党を市民との共闘に引き戻したことである。

 衆議院では、自公維国のみならず立憲までもが加わって法案の修正協議がもたれた。与党の提示した「修正」案とは、3回目以降の難民申請者の送還を可能にする等の条項はそのままで、難民審査を行う第三者機関の設置を「検討する」との「付則」を加えるといったものだった。難民を死地に追い返す規定は残したまま。第三者機関についても期限を切って設置を義務づけるものではない。「検討する」との空文句が、本文でなく「付則」に書かれるにすぎない。

 このため市民や弁護士・支援団体から大きな批判や憂慮の声があがり、立憲は修正協議を離脱し、法案の廃案を目指す市民との共闘にかろうじて踏みとどまった。

 第2に、こうして街頭やSNS等にあらわれた改悪法案への怒りの声を行動に背中をおされるかたちで、法案の衆院通過後は、参院の立憲・共産・社民の法務委員たちが、政府案に対する徹底的な追及に奮闘したことである。

 その過程で、難民認定の二次審査をになう難民審査参与員の制度が完全に形骸化している実態が明らかになってきた。日本の難民認定率が低いのは「分母である申請者の中に難民がほとんどいない」からだと公言する参与員柳瀬房子氏が年間数千件をこえる案件を担当する一方、難民として認定すべきとの意見を積極的に述べた参与員には翌年から担当する案件が減らされる。つまり、入管による一次審査の不認定処分を追認する傾向の高い参与員に大量の案件がまわされ、しかも1件あたりの処理時間が10分にも満たないという杜撰な審査の実態が明らかになったのだ。

 くり返しの難民申請者は送還してもよいのだと法律を変えるなら、難民として保護すべき人を確実に保護できていることが大前提になるはずだ。ところが、この大前提が崩壊したのである。

 同様に、ウィシュマさん事件の再発を防止すべく常勤医確保など医療体制の強化を実現したということも、今回の法改定の前提として法務大臣答弁において確認されてきたことである。しかし、大阪入管で常勤医師が酒に酔って診療をおこなって診療室勤務から外されていたこと、また法務大臣が2月にはその報告を受けていたにもかかわらず、これを隠蔽して国会審議にのぞんでいたことが明らかになった。この点でも法改定の前提は崩れた。

 こうして法律の前提が崩れ去ったなかで強行採決により成立したのが、今回の改悪入管法である。その過程で、難民認定手続きのイカサマぶり、収容や送還における入管の無法者ぶり、入管組織のウソと隠蔽にまみれた体質があらわになった。今後とも国会などで継続して追及しなければならない課題が山積みになったのだ。

 そして、入管法改悪反対の運動を通して、入管の人権侵害に怒り、さらにそれを行動に移す市民のすそ野は格段に広がった。そうした広範な市民、難民等の支援者、様々な分野の専門家、弁護士、さらには議員の間での協働・連帯の関係性も飛躍的に深まった。

 改悪された入管法の施行まで1年。これを施行させずに廃止に追い込むこと。また、帰国できない事情をかかえる人びとを送還から守ること。そのために有効なのは、在留特別許可や難民認定によって一人でも多く私たちの隣人が在留資格を獲得できるよう、ともに手を取り合い連携して闘うことである。そのための可能性と力を私たちは今回の苦い敗北を通して得たのではないか。落胆している暇はない。

2024年5月18日

入管収容死 「医療体制」の問題にすり替えるな

 


入管施設収容 カメルーン人男性死亡 2審も賠償命じる 東京高裁 | NHK | 茨城県(2024年5月16日 18時46分)


 入管職員が注意義務をおこたったとして国の責任を認めた一審判決(ただし死亡との因果関係は認めず)が、維持されたそうです。

 ところで、入管施設での死亡事件がくり返されていることについて、しばしば施設の「医療体制」の問題として語られます。このNHKの報道も一見したところ、そうみえなくもない。


入管施設の医療をめぐっては3年前、スリランカ人のウィシュマ・サンダマリさんが名古屋市にある入管施設で体調不良を訴えて死亡した問題でも体制面などの課題が明らかになりました。

(中略)

出入国在留管理庁によりますと、ウィシュマさんの問題で課題として指摘された常勤の医師については、診療室がある収容施設6か所のうち、4か所に配置できているということです。

先月には定員も2人に増やしましたが、医師の確保が難しいことから来月からは別の医療機関との兼業も可能にするとしています。

また、施設内で対応できないケースに備えて外部病院との連携も進めているということです。

職員の意識改革をはかる研修や、救急対応が必要になった場合のマニュアル整備なども行っているということで、出入国在留管理庁は、「改善できる点は継続していきたい」としています。


 しかし、入管施設でのあいつぐ死亡事件を「医療体制」の問題として語るのは、かなりズレています(ただし、このNHK記事は、カメルーン人男性の亡くなった経緯をくわしく追うことで、またあとでみるように指宿弁護士のコメントを紹介することで、「医療体制」が問題の本質ではないことを示す構成にじつはなっています)。

 2014年の牛久入管でのカメルーン人にしても、2021年の名古屋入管でのウィシュマさんにしても、入管職員の医療ネグレクトによって亡くなっています。あきらかに深刻な病変がみられたあとも救急搬送しなかったすえに亡くなっているという点で、2つの事件は共通しています。

 入管施設の医療体制に不備があるのはそのとおりでしょうが、電話があるんだから救急車ぐらい呼べるでしょう。また、呼べば救急車は来るでしょう。牛久入管も名古屋入管も、孤島や車の通れないところにあるわけじゃないのだから。

 「医療体制の不備」によって亡くなったということであるなら、それは「(救おうとしたが)救えなかった」という問題ですが、この2つの死亡事件はあきらかにそうではない。「救えたはずの命を救おうとせず救わなかった」結果として2人を死に追いやったのであって、問題は入管という組織をつらぬく外国人に対する人命軽視です。

 さきのNHKの記事は、入管の言うような「医療体制の強化」が問題の本質ではないことを指摘した指宿弁護士のコメントで結ばれています。


一方、ウィシュマさんの遺族の代理人をつとめる指宿昭一弁護士は、「入管はウィシュマさんの死の責任を認めておらず、根本的な反省はしていないと思う。外国人の命や健康を守る意志を誰も持っておらず、組織としての明確な方針が無かったから亡くなったのであり、組織として反省しないことには、医療体制の強化と言っても実効性はない」と指摘しています。


 ウィシュマさん死亡事件のあと、入管庁は、死因は明らかにならなかったと言って名古屋入管の責任を否定したうえで、ただし改善すべき問題点として「医療体制の不備」があったとしました(2021年8月10日「名古屋出入国在留管理局被収容者死亡事案に関する調査報告書」)。さらに、入管庁はこの「調査報告書」にもとづき、有識者会議に「入管施設における医療体制の強化に関する提言」(2022年2月28日)をまとめさせました。

 この一連の過程は、入管の医療ネグレクトによるウィシュマさんの死を「医療体制の不備」の問題へと矮小化し、あるいはすり替え、入管の責任を否定するという、まさに詐術と言うべきものでした。

 だまされてはいけません。入管施設での死亡事件をくり返さないために必要なのは、「医療体制の強化」ではありません。必要なのは、入管の犯罪を問い、その責任を追及することです。その意味で、国の責任を認める一審判決が東京高裁で維持されたことは、前進と思います。



2024年4月27日

入管法施行反対 4.28全国行動 サ条約発効の日に

 

 前回記事の最後でふれましたが、4月28日(日)に入管問題について以下3つのテーマで全国一斉行動がおこなわれます。

(1)改悪入管法施行反対
(2)監理措置制度反対
(3)ウィシュマさん死亡事件の責任追及

 この日の行動の呼びかけは「入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合」によるもので、開催の趣旨等は、以下のリンク先で読めます。


【4.28全国一斉行動の呼びかけ】 #入管法改悪反対


 各地での開催予定については、(見落としなどあるかもしれませんが、私がみつけられたものを)リストアップしておきます。こういうとき、北から南の順番で並べることが多いと思うので、今回は南から順番にしてみます。


福岡

改悪入管法施行に抗議する連続アクション第2弾
(外国人差別に抗するお茶アクション)
【日時】4月28日(日)14:00~16:00
【場所】浜の町公園(福岡市中央区舞鶴3丁目4)
詳細(ツイッター)


高知

場所 こうちオーテピア西側
時間 11-12時
飛び入り参加可能
詳細(ツイッター)


広島

スタンディングアクション
13時~14時 
八丁堀福屋前
※チラシを配りながら市民の方に呼びかけます
※手ぶら/途中/初めて の参加歓迎!
詳細(ツイッター)


倉敷

日時:4月28日(日) 11時~12時
場所:倉敷駅前南デッキ(雨天の場合北デッキ)
形態:スタンディングアクション+デモ
主催:入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合
共催:憲法を守る倉敷市民の会、アムネスティ・インターナショナル日本 倉敷グループ


大阪

4/28(日)
13:00扇町公園集合・集会 
14:00デモ出発
詳細(ツイッター)


名古屋

日時 2024/4/28 13:30~14:30
場所 名古屋駅 桜通口交番前
携帯 スタンディングアクション
詳細(ツイッター)


川崎

2024年4月28日(日)14:00~15:00
JR川崎駅東口周辺にて
多文化共生推進の川崎市。#永住許可の取消しに反対します も訴えます。
主催団体なく、個人で集まりますので
賛同くださる方どなたでも飛び入り参加OKです。
詳細(ツイッター)


東京

4.28全国一斉アクション
改悪入管法施行反対デモ
in東京・上野
日時:2024年4月28日(日)13時半集合 14時デモ隊出発
場所:上野恩賜公園 湯島口(池之端一丁目交差点近く)
詳細(ツイッター)


仙台

2024.4.28(Sun. )
11:00~12:00
場所:「リッチモンドホテルプレミア仙台駅前」前
形態:スタンディングアクション
詳細(ツイッター)




 さて、今回の改悪入管法の施行とは、あんまり関係なさそうで、でもぜんぜん関係ないわけでもない話をちょっと。

 この全国一斉行動のおこなわれる日は4月28日ですが、奇(く)しくも1952年のこの日はサンフランシスコ講和条約が発効された日です。

 同条約発効にともない、日本政府は朝鮮人・台湾人の日本国籍を一方的に剥奪しました。そこにいたる経緯は、現在にも引きつがれている日本の入管政策・外国人政策のゆがみを考えるうえで重要なのではないかと思います。

 さかのぼること5年、1947年5月2日、日本国憲法施行の前日、天皇裕仁による最後の勅令「外国人登録令」が公布され、同時に施行されました。日本は台湾および朝鮮を侵略して植民地化したので、台湾人・朝鮮人は日本国籍を持つ日本国民にされていたわけです。ところが、「外国人登録令」は、「台湾人のうち内務大臣の定めるもの及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす。」(第11条)として、日本国民であるはずの旧植民地出身者に外国人登録を強制しました。

 こうして、日本にいる朝鮮人と台湾人は日本国民でありながら、みなし外国人として登録を強制され、日本国憲法の規定する権利主体としての「国民」の外に置かれ、差別的な管理・統制の対象にされました。

 そして、1952年4月28日、日本政府はその国籍を、当事者の意思確認をすることもいっさいなく、一方的に剥奪したのです。植民地化によって付与を強制した日本国籍を、こんどは強制的に剥奪したということです。

 日本の入管政策、もっと広くいえば外国人政策がこのようにして始まったということ、そしてその歴史への反省・総括を欠いているということは、くりかえし思い返し、問題にしなければならないと思っています。

 日本の敗戦をへて朝鮮人や台湾人が日本で暮らしてきたのは、いうまでもなく日本による侵略・植民地支配に起因することです。したがって本来であれば、その旧植民地出身者とその子孫について日本国家が在留管理の対象にする、つまり「日本にいてもよい/よくない」を日本の国家がきめてよいということにしている現行の制度自体が、おかしいのです。日本国家にそんな資格はない。

 ところが、おおざっぱながら上にみてきたように、まったく道理を欠いたかたちで、管理すべき対象としての「外国人」というカテゴリーを創出し、そこに朝鮮人や台湾人を置いた、というところに日本の入管政策は始まっているわけです。

 1990年の入管法等の法改定をへて、入管は、いわゆるニューカマーの外国人労働者を主たる管理対象とする組織へと変化してきたといえるでしょう。しかし、そうした変化はあっても、入管政策がその始まりにおいてかかえこんだゆがみは、正されることなく現在にもそのままひきつがれている。そう考えるほかない事実が、こんにちの入管をみていてもさまざまに見つかるのですけれど、その話はこんどまた書きたいと思います。

 わたくしは、28日は大阪の集会・デモに参加します。




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2024年4月16日

「痛みで沈静化させる必要があった」 入管、また犯罪を自白

  東日本入管センター職員による被収容者への集団暴行事件。暴行を受けたクルド人のデニズさんが国に賠償を求めた裁判の控訴審で、国に22万円の賠償を命じた一審判決を支持する判決が出たとのことです。


入管職員の暴行「合理的に必要な限度を超えた」と東京高裁 クルド人男性に国が22万円支払う一審判決を支持:東京新聞 TOKYO Web(2024年4月11日 19時23分)


 上記リンク先の東京新聞の報道によると、この控訴審で国側がとんでもない主張をしているようです。


 判決によると、デニズさんは2019年1月18日夜、居室内で睡眠薬の提供を拒否され、大声を出すなどして抗議。処遇室への移動を命じられ抵抗したため、複数の警備官が体を押さえつけた。警備官がデニズさんの顎の下の「痛点」を20秒以上強く押したり、後ろ手に手錠をかけた腕を持ち上げたりした行為を違法と認定した。

 控訴審で国は「痛みで沈静化させる必要があった」などと主張。弁護側は「もともと暴れておらず制圧の必要がなかった」とし、高裁はいずれも認めなかった。デニズさんの代理人の大橋毅弁護士は「デニズさんと相談して上告するかどうか検討する」と語った。


 国側が公然と「痛みで沈静化させる必要があった」と主張しているのは、おどろくべきことです。

 そもそも「痛みで沈静化させる」っていったい何なんですか。ぜんぜん意味がわかりません。「沈静化」とは、「落ち着かせる」ということでしょうか。デニズさんが興奮して落ち着かない状態にあったのだとして、「痛み」を与えたら興奮がおさまって落ち着く、などということがありますか??? ふつうは「沈静化」どころか、いっそう興奮するのではないですか。

 ところが、「痛みで沈静化させる必要があった」などというアホな書面を書いた国側の代理人の訟務検事ども、それからそんな書面を書かせた入管の役人どもは、そうではないようです。この人たちは、他者から痛いめにあわされたら、落ち着くんですって!

 私はこいつら一人ずつぶんなぐってやりたいですね。それで「痛い」「やめろ」「なにをするんだ」とか怒ってきたら、「落ち着けよ。おまえら痛みで沈静化するんだろ? ほら沈静化させてやるよ」と言ってもう一発ずつなぐりとばしてやりたい。

 もし「痛みで沈静化させ」たように暴力をふるった者の目に見えるなどということがあるとすれば、それはその暴力を受けた相手がはげしい痛みや恐怖のために、抗議や抵抗する意思をうしなったか、あるいはその意思を表現しなく(できなく)なったからです。このように、暴力をふるうことで痛みや恐怖を与え、その相手の意思や行動を変えようとする行為を、ふつう「拷問」といいます。

 つまり、「痛みで沈静化させる必要があった」ということを国側が法廷で主張したということは、デニズさんに対して「必要があったので拷問しました」と自白したことになります。ところが、判決は入管職員の違法行為を認定したものの、国に支払いを命じた賠償金は22万円!

 賠償金の額がどのように計算されて決まるのか知りませんが、公務員による「拷問」が賠償金たったの22万円ってどういうことなのでしょうか。下手人(=入管)が「あれは拷問でした」と自白しているのに?

 日本国憲法第36条には「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁じる」と書かれています。自民党は、この条文の「絶対に」を削除して、「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、これを禁止する」とする「憲法改正草案」を発表しています。つまり、公務員は必要とあれば拷問してもよい、というふうに、自民党は憲法を変えようとしているわけです。

 でも、わざわざ憲法を変えるまでもありませんね。公務員が暴行をはたらいて被害者から訴えられた裁判で、国側が事実上「あれは拷問だった」と悪びれもせずに認めている。しかも、それでも裁判官は入管職員の行為が憲法の禁じる「公務員による拷問」であると認定しない。賠償金もたったの22万円。改憲を待つまでもなく第36条はもはや死文化しているのではないでしょうか。



 最初にリンクして紹介した東京新聞の記事を書かれた池尾伸一さんは、ご自身のフェイスブックに以下のように投稿しています。


この裁判で腰が抜けるほど驚いたのは入管庁がデニズさんの顎下の「痛点」を押し続けた理由を「痛みによりおとなしくさせる必要があった」と正面から主張したことです。「痛み」を行政手段に使うのは近代国家ではありえない話。入管の人権感覚まひを象徴する発想です。

さらに驚いたのは、デニズさん側が勝ったのに、裁判所が国に命じたデニズさんへの賠償金が22万円だったこと。弁護士費用にもなりません。

政府も裁判所も一体どうなっているのでしょうか。国際的な人権感覚がここまで遅れて、経済だけでなく人権でも、歯止めなく「下流国家」に向かっているようです。


 「腰が抜けるほど驚いた」という池尾さんの感想に、強く共感をおぼえます。これはおどろかなければおかしい、おどろくべきことなのです。



 入管が長期収容を帰国強要の手段としておこなっていること、そしてそのことを隠してすらいないことを、私はくりかえし問題にしてきました。このブログでも、たとえば以下の記事で書いたように、そればっかり書いているぐらいです。


「すがってはいけないワラ」とか言うなら浮き輪でも投げて助けろよ 入管法審議での維新・梅村氏の発言について(2023年5月13日)

「強制送還を忌避」させないための無期限収容 入管庁西山次長の国会答弁は憲法36条への挑戦ではないのか?(2023年4月21日)


 入管が長期収容を通じて帰国を強要しているということ。つまり、それは「収容」という措置を相手の意思を変えさせるための手段としてもちいているということであり、精神的・肉体的な苦痛を与えることで他者を自分たちの思うように行動させようとしているということです。まさしく「拷問」と呼ぶべきことを入管はおこなっているのですが、もっとおどろくべきことは、上にリンクした記事で述べたように、法務大臣も入管庁次長もそのことを事実上みとめる「自白」をぽろぽろこぼしているという事実です。入管庁の公式ウェブサイトでも、入管のおこなう長期収容が帰国強要を目的にしたものであることを、正直に告白しています。

 ところが、法務大臣も入管庁次長もその発言を追及されて辞職に追い込まれることはなく、こんにちにいたるわけです。

 入管という組織が野蛮におおわれているのは明白ですが、その野蛮さはいまやまったくかくされていないのです。入管が拷問をおこなっている事実は、秘密でもなんでもない。だって、そこのトップやら幹部やらがそう自白しているのだから。

 問題なのは、私たちがそれを容認するのか、しないのかというところです。いちいちおどろくことをやめて、あたりまえなものとしてこれを受け入れてしまうならば、われわれもまた野蛮から抜け出す機会をうしなうことになるのではないでしょうか。(了)


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 4月28日に改悪入管法施行反対などをテーマに全国での街頭行動がよびかけられています。


【4.28全国一斉行動の呼びかけ】 #入管法改悪反対 - 入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合



 以下、大阪・東京でのデモの告知もはっておきます。


【大阪】

2024年4月28日(日)
13:00 扇町公園集合・集会
14:00 デモ出発→西梅田公園流れ解散




【東京】

日時:2024年4月28日(日)、13:30集合、14:00デモ隊出発
場所:上野恩賜公園 湯島口(池之端1丁目交差点近く)













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「すがってはいけないワラ」とか言うなら浮き輪でも投げて助けろよ 入管法審議での維新・梅村氏の発言について(2023年5月13日)


2024年3月21日

自治体の負担増加の原因は、「クルド人」ではなく入管行政

 

 以下、2月2日ということなので1か月半以上前の報道なのですが、おくればせながら興味深く読んだところです。


埼玉・川口市がクルド人めぐり国に異例の訴え なぜ?現場で何が? | NHK(2024年2月2日)


 川口市が国に対し、仮放免者の就労を可能にしてほしいなどの要望を出したことについて、その要望の背景を取材した報道です。

 人手不足が深刻なこの地域の解体業界で、仮放免の人もふくめたクルド人労働者が欠かせない担い手になっていること。また、クルドの子どもたちが市内の小学校などに通い、受け入れられていることなど。そうしたかたちで地域社会で共生がなされ、クルドの人たちもすでにそこに深く根ざしていることがうかがえる記事です。

 さて、このNHKの記事のなかの小見出しのひとつに、「教育や医療 増加する自治体の負担」というものがあります。自治体の負担を増加させている要因は何なのかという問いは、差別や排外主義におちいらないよう、注意深く語っていく必要があります。自治体の負担増という論点が、地域に新たに移住してきた人たちであったり貧困層であったりを差別・排除する言説につながっていくのは、しばしばみられるところです。この点を念頭において、記事の以下の部分を読んでいきます。


さらに、最近、市議会では医療費への懸念がたびたび取り上げられています。


川口市議会議員

「仮放免者は保険証もありませんから、請求される金額が高額になり、高額な医療費を払えずに滞納してしまうという事案もあります」


今、市の医療センターでは外国人による未払い金が7400万円ほどありますが、その中に仮放免のクルド人の治療費も含まれているとみています。


川口市は、実態に応じた制度の見直しが欠かせないと訴えます。


川口市 奥ノ木信夫市長

「人道的立場で、今にも赤ん坊が産まれそうな人は、病院で受け入れて診なければいけないし、病気で苦しんでいる人をほったらかして、うちでは診られませんとは言えません。

税金を払いたいし、保険証もほしいというクルド人は、いっぱいいるんですよ。在留許可や就労許可を国で出さないと、解決はしないと思います」


川口市の訴えを、国はどう受け止めているのか。出入国在留管理庁に聞きました。

出入国在留管理庁

「仮放免者の中で退去強制が確定した外国人は、速やかに日本から退去するのが原則となっています。よって仮放免者に国費で健康保険などの行政サービスの支援を行うことは困難です」


 「病気で苦しんでいる人」がいれば、その人を診察し治療するのが医療人というものだし、そのための仕組みや環境を整備するのが市や県などの行政にたずさわる人の仕事です。現にここに住んでいる人、ここにいる人のためにすべきことをする。そうした労働(この「労働」は賃金で報酬が支払われるものにかぎりません)の集積として地域社会が成り立っており、またその一部が自治体の施策としておこなわれるものであるわけです。

 ところが、このような地域社会の人びとのいとなみであったり、あるいは自治体の施策にとって、国の入管行政がまさに障害になっているということが、いま引用したところにあらわれている事態です。クルド難民たちを、「仮放免」という、堂々と就労することもできず、国民健康保険にも入れない状態にしばりつけ、医療費の滞納の原因を作っているのは、入管行政にほかなりません。

 入管庁の役人は「仮放免者に国費で健康保険などの行政サービスの支援を行うことは困難です」などと恥ずかしげもなく言っているようです。しかし、先の川口市長の発言のとおり「病気で苦しんでいる人をほったらかして、うちでは診られませんとは言えません」と考えるのがあたり前の医療人の立場だし、そのためのコーディネートをするのが市長ら行政の仕事です。

 それにしても入管はよくもまあ「行政サービスの支援を行うことは困難」などと言えるもんです。だいたい「行政サービス」を担っているのは、あんたら入管ではなく、地方自治体ですよね。入管のやっていることと言えば、住民のあいだに線引きをして、結果的に「行政サービスの支援」から排除される住民を作り出すことじゃないですか。上に述べたように、入管行政こそが「行政サービス」の阻害要因になっている。「行政サービスの支援を行うことは困難」? いや、ジャマしてるのはあんたたちではないですか、という。

 一方、自治体の現場の職員は、「住民」に対するサービスということを考えるのであって、ある住民が仮放免者であったり非正規滞在者であったりということは本質的な問題にはならないはずです。現行の制度では仮放免者や非正規滞在者は住民票に登録できませんが、行政サービスの観点からいえば、住民票はあくまでも住民の情報を登記する手段のひとつにすぎません。住民票がないから住民サービスから排除するというのでは、手段と目的が転倒してしまいます。

 ちなみに、10年ぐらい前までは、仮放免者が国民健康保険に加入していたり、生活保護を受けていたりというケースは、数は多くはないものの自治体によってはそれなりにありました。国(この場合は厚労省ですが)が横やりを入れて、そういったケースはなくなっていきましたが、自治体の行政の本来的なあり方からすれば、住民票の有無なんかよりも、その市区町村に居住の実態があるかどうかということのほうが、重要なのです。 

 記事に紹介された川口市長の発言をもう一度引きます。


「税金を払いたいし、保険証もほしいというクルド人は、いっぱいいるんですよ。在留許可や就労許可を国で出さないと、解決はしないと思います」


 入管は「仮放免者に国費で健康保険などの行政サービスの支援を行うことは困難です」などとくだらないことを言わずに、仮放免者の在留を正規化すれば、問題は解決するのです。在留資格を認められれば、就労できますし、国民健康保険にも加入できるので、医療費の滞納は減り、自治体の負担も軽減されます。

 入管がそれをせず、クルド人住民の多くを仮放免状態に放置していることで、自治体の負担増加をまねいているのだといえます。入管は社会に迷惑をかけるのをいいかげんやめてほしいものですね。



 ところで、この先は今回の本題からはそれる話です。NHK記事の以下の「監理措置」に関するところ、説明として適切ではないので、その点いちおう指摘しておきます。


川口市の要望については、2023年以降の国の方針によって、今後はある程度カバーされる可能性があると橋本さんは見ています。

政府は2023年8月、日本で生まれ育っていても在留資格がない小学生から高校生の外国人の子どもについて、親に国内での重大な犯罪歴がないなどの一定の条件を満たしていれば、親子に「在留特別許可」を与え、滞在を認める方針を示しました。

また、入管が認めた監理人と呼ばれる支援者らのもとで生活ができる「監理措置」という制度が改正入管法の下で近々導入され、就労をすることが可能になる予定です。


 たしかに、改定される入管法で創設される監理措置は、従来からある仮放免制度と異なり、就労が許可される場合があります。しかし、それはきわめて例外的な場面においてのみです。

 改定入管法のもとでは、退去強制処手続き中の人(退去強制処分を受けていない人)に監理措置が適用されたときに、入管は就労を許可することができるということになっています1。しかし、退去強制処分が出てしまった人については、全面的に就労は禁止されます2

 まず、NHK記事などでその困窮が問題にされている、在留の認められていないクルド人難民申請者の大多数は、すでに退去強制処分が出た人であって、就労不可です。そして、退去強制手続き中の人も、入管が在留を認めなければいずれ退去強制処分が出てしまいますから、そうなれば就労が許可されることはありません。

 しかも、監理措置制度では、許可を受けずに就労した場合に、刑事罰を科す規定まであります(第70条第9号、第10号)3

 つまり、監理措置においては、ごくごく例外的にしか就労は許可されないし、許可を受けない就労が犯罪化すらされるわけです。

 「川口市の要望については、2023年以降の国の方針によって、今後はある程度カバーされる可能性がある」というところ、「2023年以降の国の方針」が監理措置のことも指して述べているのであれば、この記述は明確にまちがいと言ってよいでしょう。



1: 第44条の5第1項「主任審査官は、被監理者の生計を維持するために必要であつて、相当と認めるときは、被監理者の申請(監理人の同意があるものに限る。)により、その生計の維持に必要な範囲内で、監理人による監理の下に、主任審査官が指定する本邦の公私の機関との雇用に関する契約に基づいて行う報酬を受ける活動として相当であるものを行うことを許可することができる。この場合において、主任審査官は、当該許可に必要な条件を付することができる。」 

2: 【改悪入管法を読む】監理措置とはなにか?〈2〉 

3: 【改悪入管法を読む】監理措置とはなにか?〈3〉



関連記事

産経新聞がクルド人へのヘイトスピーチを書き散らしている件(2023年7月31日)

【改悪入管法を読む】監理措置とはなにか?〈1〉(2023年12月2日)

【改悪入管法を読む】監理措置とはなにか?〈2〉(2023年12月6日)

【改悪入管法を読む】監理措置とはなにか?〈3〉(2023年12月14日)




2024年3月2日

法務省が検討中だという在留特別許可ガイドライン案がまたろくでもない


  法務省が在留特別許可のガイドラインの見直しを検討しているとの報道が出ています。


不法滞在外国人の在留 ガイドライン見直し案まとまる | NHK(2024年2月28日 11時55分)


 報道を引用します。


不法に滞在している外国人をめぐっては、出入国在留管理庁が、法務大臣の裁量で特別に在留を認める際の基準を定めたガイドラインを策定していますが、与野党内から「どのような時に在留が認められるのかが不明確だ」との指摘が出ていたことなどから、見直し案をまとめました。

それによりますと、▽在留資格がなくても親が地域社会に溶け込み、子どもが長期間、日本で教育を受けている場合や、▽正規の在留資格で入国し、長く活動していた場合、その後、資格が切れても在留を認める方向で検討します。

一方、▽不法入国などによって国の施設に収容され、その後、一時的に釈放された仮放免中に行方をくらませた場合や、▽不法滞在の期間が相当の長期間に及ぶ場合などは、在留を認めない方向で検討するということです。


 基準の緩和が一部検討されているようにもみえる一方で、最後に書かれている「不法滞在の期間が相当の長期間に及ぶ場合などは、在留を認めない方向で検討する」というところ、さらっと読み飛ばしてしまいそうになるかもですが、これはとんでもないです。

 正規滞在であれ、在留資格のない非正規滞在であれ、日本にいる期間が長期間におよぶ場合、一般論として地域社会に溶け込んでいたり、密接な人間関係をこの地で結んでいたりするものです。

 また、とくに非正規滞在者の在留が長期にわたっている場合、それは自国に帰ろうにも帰れない事情があるからだということも多々あります。在留資格のない状態では社会保障からも排除されるわけですし、就労先を探すにもきわめて不利なわけです。それに、長く離れていれば故郷の親が病気になったり亡くなったりなど、切実に帰りたくなる機会も出てくるものです。にもかかわらず在留資格のない状態での在留が長年にわたるのは、帰国できない深刻な事情があるからということも少なくないのです。

 ところが、報道されている法務省のガイドライン案では、その非正規滞在での在留期間が長くなるほど、在留を許可するにあたってマイナスに評価されるということになってしまいます。在留特別許可は、人道的な配慮をするための措置であって、懲罰のためのものではないにもかかわらずです。本来であれば在留期間が長くなるほど、人道措置として在留を認めるべき理由になるはずなのが、非正規滞在の場合、反対にそこがマイナスに評価される。あべこべにもほどがあります。


 で、ここからがとくに強調したいところなのですが、歴史的な経緯をふりかえったとき、「不法滞在の期間が相当の長期間に及ぶ場合などは、在留を認めない方向で検討する」という法務省の考えは、まったく道理に反しています。

 というのも、「不法滞在の期間が相当の長期間に及ぶ」ようなケースについて、そこに国・政府の責任がないとは言えないからです。法務省などの役人たちの呼ぶところの「不法滞在者」に一方的に責任を帰すことのできるようなものではありません。

 現在、退去強制処分を受けて仮放免の状態にある人たちが3,000人以上いますが、そのなかで来日時期がもっとも早い層は、1980年代の後半に来た人たちです。在留期間でいえば、35年ぐらいになる層。

 そのなかには、犯罪歴がないにもかかわらず、この間、一貫して在留資格がない状態で現在にいたるという人が相当数います。日本人や在留資格のある外国人と婚姻していない人や、婚姻していても実子のいない人などが、これまで在留特別許可の対象になってこなかったからです。

 「不法滞在の期間が相当の長期間に及ぶ場合などは、在留を認めない方向」でガイドラインが作られるならば、こうした人たちはますます在留を認められなくなるということになるでしょう。

 しかし、「不法滞在の期間が相当の長期間に及ぶ」ような状況は、非正規滞在者本人たちだけにその責任を帰すことはできません。

 バブル景気にわく80年代後半、日本人労働者が「3K」(きつい、汚い、危険)と呼んで忌避し、深刻な労働力不足にあった製造業などの中小零細企業には、外国人労働者によって救われたところも少なくありません。そこには、在留期間が切れて超過滞在(オーバーステイ)になった非正規滞在者も多くいました。

 90年代を通じて、非正規滞在の外国人は、中小零細の工場や建築現場などで欠かせない労働力としてありました。この時期、警察官が職務質問などで在留期間が過ぎていることを知っても、わざわざ摘発しないのが普通でした。

 関東地方で当時、非正規滞在の状態で暮らしていた外国人たちから、私自身そのような経験を数多く聞きました。あるフィリピン人からは、警察官はオーバーステイを問題にしないのがわかっていたから、交番で道を聞いたりということを当時は平気でできていたのだという話を聞いたこともあります。その人が言うには、ある時期から在留資格のない仲間たちがつぎつぎとつかまり送還されるようになり、職務質問などをされないように警察官を避けるようになったということでした。

 入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合の発行するパンフレット『なぜ入管で人が死ぬのか』(2022年発行)は、バブル期から日本で暮らす非正規滞在者の証言を紹介しています。


 1980年代末、20歳のとき渡日した非正規滞在のイラン人は、次のように述べています。

「警察がパスポートを見せろと度々尋ねてきた。パスポートを見てオーバーステイと分かっても摘発しなかった。街の祭りの後片付けを手伝っていたときには、警官は、頑張れよ、と声を掛けてきた。だからずっと日本に居られると思っていた。ところが 2005年に、突然、不法滞在で逮捕された。帰れというならもっと若い時になぜ言ってくれない。」

 また、同じバブル経済期に渡日した別の非正規滞在外国人は「警察に職務質問を受けて在留資格がないと分かってもパスポートの期限が切れておらず、工場で働いていることが分かれば『しっかり働けよ』と言って捕まえようとしなかった。だから真面目に働き、税金を払っていれば日本にずっといられる、と思った」と述べています。


 日本政府が、非正規滞在の外国人労働者の存在を許容しないという方向に政策転換したのは、2000年代に入ってからです。

 2003年10月に、法務省入国管理局、東京入国管理局、東京都、警視庁の四者による「首都東京における不法滞在外国人対策の強化に関する共同宣言」が出され、おなじ年の12月には政府の犯罪対策閣僚会議による「犯罪に強い社会の実現のための行動計画」が出ます。いずれの文書も、「不法滞在外国人」は「犯罪の温床」であると決めつけ、その摘発強化をうたったものです。後者の「行動計画」において、2004年からの5年間でいわゆる「不法滞在者」を半減するという計画が示されます。

 この政策転換のなかで、入管などが「送還忌避者」と呼ぶ、国外退去を求められているけれどこれを拒否している人が増大していったということ(2020年時点で3,000人超)。その増大した「送還忌避者」を強硬に送還する方針を2015年ごろに政府がたてて、これに固執し続けていることが入管施設での長期収容問題、あいつぐ死亡事件をはじめおびただしい数の人権侵害を生じさせているのだということ。こうしたことについて、さきのパンフレットではくわしく説明されています。

 私も作成にかかわっているので手前ミソにはなりますけれど、なかなかよくできたパンフレットなので、ぜひ手に取ってみてください。以下のリンク先から、PDF版が無料配布されています。


なぜ入管で人が死ぬのか | 入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合


 さて、政府が2000年代前半に非正規滞在外国人をめぐる政策を転換したことの是非については、ここで論じません。しかし、その存在をかつて事実上黙認していたことは、重要です。事実として、日本社会は非正規滞在外国人の労働力を活用してきたのであり、それは政府の黙認によって可能だったのです。

 そうして日本社会を支えてきた人たちを、政策が変わったからとか、もう用済みだからとか、排除するのだとしたら、それは無慈悲だというだけでなく、いちじるしく道理に反することです。

 ガイドライン案の「不法滞在の期間が相当の長期間に及ぶ場合などは、在留を認めない方向で検討する」というところは、撤回すべきです。バブル期から90年代を通じた政策があやまりだったというのであれば、その政策のツケを一方的に非正規滞在者にのみに押し付けるような恥知らずなことはすべきでありません。


2024年2月29日

卒業式の権威主義

 

 フェイスブックが「過去のこの日」などといって、何年か前の今日の投稿を表示してくれるのですが、そうか、今年も卒業式の季節ですね。子の卒業式に出席した日の投稿をこのブログにも再録しておきます。


 子の卒業式に出席してきました。コロナの感染防止ということで、生徒ひとりにつき保護者は1名までの出席ということで、今回は私がひとりで出てきました。

 毎度のことなのですが、開始そうそう「ご起立ください」と言われて起立すると突然テンスケをたたえる歌が流れてきたので、着席しました。戦争犯罪者とその地位を後継する一族が千代に八千代につづきますようになどというふざけた内容の歌を、500人ぐらいいる会場で(たぶんひとりだけ)すわって聞かされるという苦行に。

 校長は式辞にあたって壇上にあがると高いところにかかげられたクソ丸に真っ先に一礼するなど、なかなかスゴいものを見せられました。

 せっかくの祝福の儀式なのにこういうおかしなものを持ち込むのはやめてほしいよね。

 ほかにもひどく権威主義的な形式があちこちにみられて、いままでみた入学式・卒業式でもここまでのはみたことないという感じでした。根本には侵略戦争や植民地支配への無反省ということがあるのでしょうが、維新府政が続いていることでの教育の荒廃がすすんでいることのあらわれをみるような思いもしました。


 君が代を歌ったり日の丸をかかげたりという行為は、それ自体が侵略国家の国民の居直りとも言うべきで、悪質きわまりないものです。さらに、これを大人たちが権力をもって、さまざまなルーツをもつ子どもたちのいる学校という場所で強制しているということのろくでもなさ。今年もおなじ光景が、全国各地の学校でくり返されているのだろうということを思うに、あらためて慄然(りつぜん)とします。

 数年前に出席した卒業式(高校)では、上に書いたとおり、校長は壇上に上がるなり、まず日の丸に一礼をしました。卒業生たちやその保護者たちにではなく、来賓にむかってですらなく、一番先に頭をさげたのが日の丸に対してだったのです。

 この人は日々どこを向いて教育をやってるんだろうかと思いました。たかが儀礼的な様式じゃないかと言われれば、まあそうでしょうが、こうした儀礼的なふるまいが象徴している教師の日常や思考というのも、軽くみるべきではないとも思います。

 このときの卒業式では、卒業生の読んだ答辞は、内容としては心のこもったすばらしいものだと感じたのですが、儀式の形式がその内容とそぐわない残念なものになってしまっていました。卒業生はステージの下に立ち、壇上の校長にむかって、つまり校長をあおぎみるかっこうで答辞を読み上げる、という形式だったのです。

 校長の日の丸拝礼にしても、あおぎみての卒業生答辞にしても、これらは権威主義にほかなりません。だれが上位でだれが下位なのかを決め、その上下関係を目に見える形で表現するという儀式であるわけです。教師は生徒より上位であり、教師のなかでは校長が最上位にあり、しかしその校長より上位に日の丸が位置している。そういう上下関係を、あるべき秩序として維持しなければならない。こんな規範・価値観を儀式として表現する場にさきの卒業式はなっていたということです。

 こういう儀式への参加を学校教育の場などでくりかえし強いられると(私自身そういう教育をみっちりと受けてきたわけですけど)、それぞれが平等な立場から組織や共同体に参加し、いわば民主的に合意形成をはかっていく、みたいな能力や意思は破壊されちゃいますよね、と思います。破壊されたものを取り戻していくということを意識的にやらざるをえなくなる。これはなかなか難儀なことです。


2024年2月10日

差別は正しく「差別」と呼ばなければならない

  政府が、永住者の在留資格について、税金や社会保険料を納付しないケースなどで在留資格を取り消せるよう入管法を改悪する検討をしているとの報道が出ています。

税や保険料を納めない永住者、許可の取り消しも 政府が法改正を検討:朝日新聞デジタル(2024年2月5日 15時49分)

 記事の冒頭段落だけ引いておきます。


 政府は、「永住者」の在留許可を得た外国人について、税金や社会保険料を納付しない場合に在留資格を取り消せるようにする法改正の検討を始めた。外国人の受け入れが広がる中、公的義務を果たさないケースへの対応を強化し、永住の「適正化」を図る狙いだ。


 「適正化」ですって……!

 だれがそう言ったんでしょうか? 法務省か入管庁の役人の言葉なのでしょうけど、どういう意味で「適正化」などと言えるのか。「税金や社会保険料を納付しない場合に[永住者の]在留資格を取り消せるようにする」ことを「永住の適正化」と称するセンスには、驚愕(きょうがく)するほかありません。明白な差別ではないですか。

 これを報じる朝日新聞の記事では、「永住の『適正化』」と一応はカギカッコをつけてはいるものの、それを「適正化」なのだとする役人の言い分を、無批判にまとめるだけの記事になっています。カギカッコをつけるだけでごまかさずに、政府がもくろむ法改定が差別だということを指摘すべきではないでしょうか。

 当然ながら、「税金や社会保険料を納付しない場合」には、日本人であれ外国人であれ、おなじペナルティが科されることになっているわけです。滞納すれば督促状が送られてくる。それでも払わなければ延滞金を請求されます。預金や不動産など財産を差し押さえられることもあります。

 政府が「永住の適正化」と呼ぶ施策は、こうしたペナルティにくわえて、外国人の場合にのみ、さらに重ねてべつのペナルティをも科すということです。しかも、それは永住者の在留資格を取り消すという、きわめて重い不利益処分です。

 税金や社会保険料の未納・滞納という同一の行為について、特定の属性の住民にだけ特別に重いペナルティを科すのは、「差別」と呼ぶべき行為です。これを「永住の適正化」と言い表すのは、侵略を「進出」と呼び、敗走や撤退を「転進」、裏金作りを「収支報告書への不記載」と呼ぶのにも似た欺瞞(ぎまん)です。差別は正しく「差別」と呼ばなければなりません。

 さて、これも当然の話ですが、税や社会保険料をげんに負担しているのは、日本国民だけではありません。永住者の在留資格をもつ人もふくめ、外国人住民も、税や社会保険料の負担者です。その意味でも、日本社会は外国人をふくめた住民によってささえられているのであって、日本国民もそうした社会でささえられ生きているわけです。こうした認識からは、外国人の滞納者にのみことさら重いペナルティを科そうなどという、いまの政府のような発想がでてくるはずはありません。

 対して政府の発想は、「外国人が義務をはたさないために、国民が(日本人が)迷惑や過度な負担をこうむっている」という虚偽の、かつ差別的な認識に根ざしたものです。ここで「外国人が/国民が(日本人が)」という単純化された対立軸が設定されて、さらにマジョリティである「国民(日本人)」がいわば被害者側に位置づけられるという思考が、まさに差別的なのです。「在日特権」「逆差別」といったたわごととまさに同じ構造です。

2024年1月21日

ヤフーニュースのコメント欄と入管と

 

 1か月以上前の報道ですが。


【茨城新聞】不法滞在31年 容疑で85歳の韓国人逮捕 茨城県警水戸署(2023年12月9日(土))

31年間にわたり茨城県内で不法滞在を続けていたとして、県警水戸署は8日、入管難民法違反(不法残留)の疑いで、韓国籍の水戸市、無職、女(85)を逮捕した。

逮捕容疑は、在留期限が1991年12月末だったにもかかわらず、更新や変更を受けないまま、不法に残留した疑い。同署によると、容疑を認めている。同署員が8日、同市内で職務質問して発覚した。


 このかた、日本での暮らしがすくなくとも31年以上ということで、しかも在留期間が切れてからはおそらく一度も日本から出ていないのでしょうから、いまさら韓国に帰れと言われても相当にこまるのではないかなと想像します。

 上にリンクしたのは、茨城新聞のサイトなのですけれど、同じ記事は「Yahoo!ニュース」にも掲載されており、いつものごとく差別・排外主義にまみれたコメントがたくさんついています。「Yahoo!ニュース」については、私は前にこちらのブログ記事にも書いたとおり、リンクを貼らないことにしているので今回もリンクはしませんが、まあひどいものです。強制送還しろとのコメントがいくつもならんでいます。

 それらのコメントに共通するのは、自身の排外主義的な主張の盾(たて)として「法」を語っているというところです。日本は「法治国家」であるとか、「法は曲げられない」だとか、「不法」行為をおかした本人のせいなのだとか、いわば「法」を言い訳にするかたちで、強制送還すべき、あるいは強制送還するしかないのだというのです。

 また、こうした強制送還すべきと主張する言説の多くは、自身の主張を「法」に根拠を置く、いわば理性的なものと自負しているらしい一方で、自分と反対の立場の主張は「かわいそう」といった同情にもとづく感情論と決めつけているのが特徴的です。「強制送還に反対する者はかわいそうだなどと言うが、情で道理を曲げるわけにはいかない。日本は法治国家なのだから、不法滞在者は法を厳格に適用して強制送還すべきである」というわけです。

 なんだか、こういう「情」というものの価値を低くみたうえで、これに流されずに道理を通す理性的なオレ、みたいな自意識は、イヤなものです。こういう人間にはなりたくないなあ、ならないように気をつけよう、と思います。

 さて、Yahoo!ニュースのコメント欄やツイッターなどで排外主義言説をまきちらす右翼たちは、しばしば「不法滞在者は強制送還するのが法の正しい適用」「不法滞在者の在留を認めるのは法を曲げること」という前提で語ります。しかし、この認識は、入管法の理解としてもだいぶずれており、まちがっているように思います。

 現行の入管法では、たしかにいわゆる「不法残留」などを退去強制事由として規定しています。しかし、本人が在留を希望した場合、法務大臣がこの人の在留を特別に許可するかどうかの判断をしなければならないということも手続き上さだめられています。さきの報道の水戸市の女性についても、入管局の審査において不法残留であるとの認定がなされたとしても、本人が希望すれば、「違反」の事実以外の要素もふくめたもろもろの状況をみて在留特別許可をするかどうかの判断が、手続き上一応はなされるはずです。

 つまり、現行入管法においてさえも、いわゆる「不法滞在者」(クソな言葉だわ)を、必ずすべて送還しなければならない、あるいは送還できるという前提には立っていません。人道的にみて送還すべきではないということもあると想定されているからこそ、在留特別許可という措置が用意されているのでしょう。

 その意味で、「不法滞在」「不法残留」「不法入国」といった言葉をみると、「日本は法治国家だ!」「強制送還すべきだ!」となどとYahoo!ニュースのコメント欄などに書きこまずにはいられない右翼諸氏の主張は、本人たちがおそらく自己認識としていだいているようなイメージとは、正反対のものだということです。つまり、この人たちは、感情論とは対極にある冷静で理知的な議論を法の正しい理解にもとづいておこなっているつもりらしいのですが、実際のところは排外主義的な俗情をたれながしているにすぎない。

 しかし、いっそう深刻なのは、行政機関たる入管の役人たちの思考も、こういう右翼たちのそれとへだたってるとは思えないことです。たとえば、先日このブログで言及した*1つぎの事例などをみたときに。


「うれしいし驚きも」タイ人の母親のもとで日本で生まれた高校生と中学生の姉弟に在留特別許可 これまでは在留資格なく「仮放免」 | SBC NEWS | 長野のニュース | SBC信越放送(2023年12月26日(火) 12:09)


 報道されている在留の認められたきょうだいは、17歳と15歳です。このケースについて、入管は17年ものあいだ、日本生まれの未成年者を在留資格のないまま、また強制送還の対象としたまま、放置してきたわけです。人道上の配慮として在留を許可するという措置があるにもかかわらず、その措置をとらないという不作為を入管は17年間続けてきたのです。

 この不作為は、法にのっとった結果であるとか、あるいは現行制度のせいであるとか、のみ言うことはできません。在留を認めるという措置が可能でありながら、その措置を17年間にわたりとらなかったという入管の選択の結果なのです。それは「法」の必然的な帰結ではなく、それを選択した意思の帰結です。

 そして、今回、このきょうだいが在留を認められたのは、昨年8月に法務大臣が発表した特例的な政府方針、在留が長期化した子どもに対して、家族一体として在留特別許可をするという方針にもとづくものです。ところが、この長野県の家族のケースでは、在留が認められたのは子どもたちだけで、母親はまだ認められていません。「家族一体として」という方針を打ち出しながら、親子を分離するような措置をおこなっている。

 この入管の役人たちの不作為という選択から感じられる、暗い情念はいったい何なのでしょうか。それは、Yahoo!ニュースに排外主義的なコメントを書きこんでいる者たちの主張と、入管のとっている行動は、そうへだたっていないどころか、ぴったりと重なっているようにみえます。

 注でリンクした記事でも紹介しましたが、未成年の仮放免者とその家族に在留特別許可をせよと求める署名が呼びかけられています。署名は現在もひきつづき募集中です。


オンライン署名 ・ 日本に生まれ育った未成年の仮放免者とその家族に在留特別許可を! ・ Change.org




2024年1月8日

民主主義と災害


  年あけてそうそう元日に能登で大地震。だが、岸田首相はじめ自公政権の救助や被災者支援の動きがおどろくほどにぶい。被災者に無関心、ほとんど興味がないのだとしかみえない。

 岸田らが救助や被災者支援に本気で取り組む気がさらさらないのだということを示す例は枚挙にいとまがないが、一例をあげれば、つぎのニュース。


【速報】岸田首相は能登半島地震の物資支援のため9日に予備費使用の閣議決定を行うと表明した:時事ドットコム(2024年01月04日11時59分)



 この報道が1月4日(木)で、1日(月)の発災からすでに3日近く経過している。で、予備費使用を決める閣議をひらくのはさらに5日後の9日(火)まで待つのだそうだ。

 岸田らが、倒壊した建物の生き埋めになった住民や、避難所で寒さと飢えにされされている被災者に同情するような人間ではないのは今さらおどろかない。しかし、救助や支援をやる気がほとんどないことを隠そうともしない、やってるふりすらもはやしないのは、どういうことだろうか。それはそれでも自分らの権力や地位はおびやかされることはないと、たかをくくっているからだろう。

 こうした岸田らの態度をみながら、ずいぶん前に読んだアマルティア・センの文章を思い出した。そのなかに、飢饉と民主主義について述べられた、非常に印象深い一節があった。

 センは「世界の悲惨な飢饉の歴史の上で、比較的自由なメディアが存在した独立民主国家にあって、本格的な飢饉が発生した国は一つもない」として、以下のように述べる。


 飢饉は、自然災害のようなものとしばしば結びつけられてしまいます。たとえば、「躍進」期の中国に発生した大洪水、エチオピアの旱魃(かんばつ)、北朝鮮の凶作といった自然災害を、飢饉の単純な説明としてしまう論評がよくあります。しかし、実際には、そのような自然災害やもっとおそろしい災難に見舞われた多くの国々ですら、飢饉は起こっていないのです。なぜならば、それらの国々には、飢えの苦痛を軽減するために迅速に行動する政府が存在しているからです。飢饉の最初の犠牲者は最も貧しい人々ですから、たとえば、雇用計画などを立案して、飢饉の犠牲になる潜在的可能性の高い人々のために、その食糧購買力を高める新たな所得を創出すればよいのです。そうすれば、餓死は防止できます。1973年のインド、1980年代初頭のジンバブエやボツワナといった、世界で最も貧しい民主主義国ですら、実際に深刻な旱魃や洪水やその他の自然災害に見舞われた時には、食糧供給を行って飢饉の発生を被らずにすんだのです。

 飢饉は、それを防止しようという真剣な努力がありさえすれば、簡単に阻止できるものなのです。民主主義国家では選挙が行われ、野党や新聞からの批判にもさらされるので、政府はどうしてもそのような努力をせざるをえません。イギリス支配下にあったインドにおいて、独立直前まで飢饉が絶えることがなかったのも、当然でした。最後の飢饉が起こったのは、独立の4年前の1943年でしたが、当時子供であった私はそれを目撃しました。独立後のインドに、自由なメディアがあらわれて、複数政党制による民主主義体制が確立されると、飢饉は突然止んで二度と発生しなくなりました。

 実際には、飢饉の問題は民主主義がその本領を発揮するほんの一例にすぎませんが、多くの点で最も分析しやすいケースだと言えます。政治的・市民的権利は経済的・社会的破局の防止に、積極的な役割を果たすことができます。物事が順調に運び、すべてがいつものように滞りない状態にある場合には、民主主義が手段として果たす役割が切望されることはあまりないかもしれません。しかし、何らかの理由で、状況が急変するような場合には、民主的な統治が生み出す政治的インセンティヴが大きな実践的価値を持つのです。

アマルティア・セン『貧困の克服』(大石りら訳、集英社新書、2002年)


 もちろん飢饉と震災はおなじにあつかえないところもあるだろう。しかし、いま私たちが目にしているのは、まさしく「民主的な統治が生み出す政治的インセンティヴ」の欠如のために、「真剣な努力がありさえすれば」死なずにすんだはずの人間が殺されつつあるという状況だ。

 少しでも犠牲をなくすために必要なのは、自由なメディアであり、批判的な野党であり、自由で批判的な言論である。大きな災害などが起きたときには、権力に迎合的な言論がますます大きく強くなる傾向があるものだが、「非常時だから政府批判・与党批判はひかえよう」といった姿勢は、被害をおさえるということとは真逆の結果をもたらす。


 さて、冒頭でみたような、住民たちが倒壊した建物の生き埋めになっているのを首相らが平然とほったらかしているという事実が示しているのは、「民主的な統治が生み出す政治的インセンティヴ」がぜんぜん働いていないということであり、それは日本において民主主義が機能していないということにほかならない。

 センはおなじ文章のなかで、「民主主義とは正確にはいったい何なのでしょうか」という問いをたてて、つぎのように述べている。民主的な統治がなされているとみなされることのある日本の民主主義が、実際のところどれほど機能していると言えるのか、点検し考えなおすためのひとつの目安として、最後に抜粋しておきたい。


 民主主義とは正確にはいったい何なのでしょうか。私たちは、多数決原理が民主主義であると考えるべきではありません。民主主義がしっかり機能するためには、多くのさまざまな要求が満たされなくてはなりません。その中には、もちろん投票や選挙結果の尊重などが含まれますが、自由を守ること、法的権利や法的資格が尊重されること、自由な議論が交わされること、公正な意見と情報が検閲なしに公表されることなども保障されていなくてはなりません。選挙においては、反対陣営がそれぞれの主張を述べる十分な機会がなく、有権者が情報を得る自由を享受して対立候補たちの政見についてよく考えることができなければ、それはまさしく欠陥選挙といわなければなりません。民主主義は、さまざまな要求が満たされなければならないシステムで、多数決原理のような機械的な条件だけを切り離して採りいれているわけではないのです。