2024年8月8日

差別主義者の設定した論点であらそわなければならないという不条理


  外国人を生活保護の対象外とした東京高裁判決について。以下、SNSなどでほえてる右翼が言うような、とんでもない言いぐさですが、裁判官なんだそうだ。


 松井英隆裁判長は判決理由で「政治判断により、限られた財源の下で自国民を在留外国人より優先的に扱うことも許容される」と述べ、在留外国人を生活保護法の適用外とする最高裁判例を踏襲。「生活保護法が一定の範囲の外国人に適用される根拠はない」と指摘した。

 原告側は控訴審で「少なくとも住民票を有するなどの一定の外国人には保護を認めるべきだ」と主張したが、判決は「外国人を公的扶助の対象とするかは立法府の幅広い裁量に委ねられる」と退けた。

[生活活保護、また認められず…重病のガーナ人男性落胆 東京高裁「限られた財源で自国民優先は許容される」:東京新聞 TOKYO Web](2024年8月6日 21時08分)


 外国籍の住民にも日本国民同様に納税の義務を課すくせに、「限られた財源」を理由に自国民優先を正当化するのなら、その政府は端的に言ってどろぼうである。どろぼうもそれをやるのが政府ならばお墨つきをあたえてくれるのが、この国の裁判所なのだということらしい。くさりきってますね。

 住民の生活保護申請に対し国籍を理由に却下した自治体(千葉市)の対応が差別であるのは、明白だ。本来ならば、そこに議論の余地などない。

 念のため言っておくと、そうした取り扱いを指示あるいは容認するような法令なり通達なりがあるならば、それらも差別と言うべきであって、そこにも本来ならば議論の余地はない。


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 議論すること自体が差別主義にもとづかなければ不可能であったり、議論の余地があるかのようにふるまうことそのものが差別の遂行にほかならなかったり、ということがある。

 たとえば、このブログでもまえに批判したが、国民民主党代表の玉木雄一郎が「まずは外国人の人権について憲法上どうするのか議論すべきで、そういう議論がなく拙速に外国人にさまざまな権利を認めるのは、極めて慎重であるべきだ」と発言したことがあった。

 ここで玉木が言っているのは、外国人の人権を認めるかどうかは自明ではなく、議論の余地があり、議論する必要があるのだということである。

 いやいや、そんなん、議論の余地ないでしょ。外国人に人権があるのは自明だし、自明でなければならない。そんなこと議論しないとわからないとか言う人がいたら、その人の考えがやばいです。

 玉木のような人は、「外国人には人権がある」という自明な、また自明でなければならない命題について、議論の余地があるかのようにほのめかし、これに留保をつけようとする。こうした行為自体が、差別の遂行と言うべきだし、聴衆にむけての差別の扇動でもある。


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 話をもどすと、生活保護をめぐる裁判の控訴審で敗訴した原告が、生存権を保障されるべき存在であること、また国籍を理由にそのことを否定するのは差別であるということは、自明だし、自明でなければならない。そこに議論の余地は本来あってはならない。原告ご本人と弁護団は、この裁判で大変な労力をかけて千葉市の処分が違法だということを裁判で立証してこられたのだと想像するけれども、そうした苦労を原告側が負わなければならないということも、とてつもなく不当なことではないだろうか。

 まあ、そんなことを言ってもしょうがないではないかと言われるかもしれないし、そう言われるとそうかもなとも思うのだけど。ただ、本来はとてもシンプルな話で、「千葉市は差別やめろ」のひと言ですむはずなのだ。その本当は簡単なはずの問題が、なぜか裁判でおびただしい量の書面が原告・被告双方からとびかう、ややこしい話になっているというところに、私たちは異常さをもっと感じ取らなければならないのではないか。差別主義者の設定したバカげた論点であらそわなければならないという不条理。


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 たとえば、つぎのような問題が「問題」として議論されるような世界があるとすれば、その世界は野蛮である。しかし、こうした問いが発せられるということそのものが野蛮であるということを、私たちは自明な常識として共有しているんだろうか。

「外国人の人権を認めるべきかどうか?」「女性の人権をどの範囲まで認めるべきか?」「障害者に人権はあるか?」「セクシュアルマイノリティの人権を認めてもよいか?」。

 これらの問いを議論の余地のある「問題」かのようにあつかうこと自体が恥ずべきことであるのと同じで、つぎのような問いを論じるにあたいするまともな「問題」とすることも恥ずべきことである。

「政治判断により、限られた財源の下で自国民を在留外国人より優先的に扱うことは許容されるか?」

 東京高裁の松井英隆裁判長は恥を知るべきであろう。

 なお、「限られた財源」をこうして口実にすることがゆるされるなら、国籍差別にとどまらず、あらゆる差別的なとりあつかいが許容されることになる。こんな屁理屈が通用してもよいとするなら、どんな差別であれ正当化できることになる。そんな屁理屈を判決文に書きこんでしまうような裁判官の存在が、日本という国の野蛮さをあらわしている。


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