2026年9月14日

坂中英徳を読む 元入管幹部の書いた移民政策論


 思うところがあって、「ミスター入管」こと坂中英徳の移民政策論を読んでいる。

 坂中は、1970年の法務省入省以来、2005年に退官するまで入管で官僚をつとめた人物である(退官時のポストは東京入管局長)。退官直後から、著作などをとおして「日本型移民国家」を提唱。1000万人の移民を50年かけて受け入れるべきだという主張を展開してきた。

 日本では、「外国人労働者」の受け入れ拡大を求める声は、1980年代以来、産業界からおそらくつねにあがってきたわけだけれど、「移民」を受け入れるべきだという主張を、それにともなう国のあり方の変革もふくめて正面から論じた議論というのは、ほとんどないのではないだろうか。積極的な移民受け入れ論を、しかも元入管官僚という立場の人が展開していたのは、かなり特異だと言えるのではないか。

 当然ながらその移民受け入れ論は、「国益」という観点からのものである。坂中の議論は、移住してくる人たちの人権の課題については、まったく無頓着というわけではないけれど、あくまで「国益」の追求が第一。それと齟齬(そご)をきたさない限りにおいて人権も尊重するに越したことはないよね、という程度のものだ。

 というわけなので、左翼のはしくれの私からすれば、その主張は根本的にあいいれないものだ。そもそも、出入国管理や在留管理なんて本質的に万国のプロレタリアに敵対するものでしかないのであって、「国益」とか言われても、そんなのわれわれ人民からしたら知ったこっちゃないのである。

 ところが、である。昨今の情勢のなかで読んでみると、そんな坂中の議論でも、かなり穏当なものにみえてしまう。というのも、2023年の改悪入管法*1の成立、翌24年6月の同法施行を機に、日本政府はそれまで以上に極端な排外主義的な政策をつぎつぎと打ち出しているからである*2

 日本においても国境をまたぐ人の移動があたりまえになって久しく、そのうちの一定数が日本を定住・永住の地に選ぶのはさけられるはずもない状況のなかで、「外国人」の定住・永住を徹底的に忌避しようとするかのような、およそ正気とは思えない政策が政権によってつぎつぎと打ち出されている。

 こんな現時点からみると、元入管官僚による10年ちょっと前の議論がしごくまっとうなものにみえてきてしまう。坂中の議論においては、日本の国・社会にとっての必要から移民に来てもらうのだから、その人たちに対して日本の国・社会は責任を負うのだという当然のことが、一応は前提になっているからだ。

 坂中はいまの現状をどう見ているだろうか。そんなことが気になって、インターネットで調べてみて、2023年の10月に亡くなられていることを知った。残念ながらいまの情勢を坂中がどうみているのか、聞くことはできない。

 というわけで、今回のこの記事では、坂中の主張の理屈にしたがって現在の「外国人」政策をみた場合、これをどう評価できるだろうかということを、思考実験的に書いてみたい。

 さっき書いたように、私からすれば、坂中の議論には受け入れられないところが多々ある。というか、読んでて数行ごとに文句をつけたくなるほどだ。けれども、今回はそこは極力がまんして、坂中をとおして、いまの情勢を考えるということを、やってみたい。



「国益」のために移民を受け入れる

 前置きが長くなったが、坂中英徳の日本型移民国家論をみていく。

 おもに引用は、『増補版 日本型移民国家への道』(2011年初版、2013年増補版、東信堂)から。『日本型移民国家の創造』(2016年、東信堂)も参照している。

 坂中は、坂中自身の回想によれば「行政官時代は移民規制の急先鋒だった」という*3。それは、日本社会の人口収容力がすでに限界状況にあること、経済成長が鈍化していくなか雇用情勢が厳しくなることといった見通しにもとづくものだった。

 ところが、「退官後はその立場をひるがえし、人口秩序を正し、日本の存続をはかる立場から、『移民50年間1000万人構想』を提案している」*4

 「移民規制の急先鋒」だった坂中は、なぜ積極的な移民受け入れ論者へと転向したのか? それは日本の人口動態についての見通しが変更をせまられたからである。

 坂中は、日本が深刻な人口減少問題に直面しており、出生率の向上に取り組むだけでこの危機に対処することはできないという見通しを述べたうえで、つぎのように言う。


 昨今、政治が改革を先送りし、人口危機の局面を打開できないと日本は沈没するという、きわめて悲観的な声が国の内外から出ている。私は移民国家の創建こそ究極の日本改革であって難局を一挙に収拾する解決策だと考える。

 実際、今すぐ抜本的対策を講じなければ、若年人口の激減に高齢人口の激増が重なる人口崩壊によって、生産・消費・税収・財政・年金・社会保障・国民生活などすべてが破綻するのは避けられない。衝撃の日本終焉をまぬかれる唯一の効果的対策は、新しい国民の増加につながる移民政策の導入である。*5


 みてのとおり、坂中の移民受け入れ論は、あくまでも「国益」という観点からのものである。日本の国・社会において「生産・消費・税収・財政・年金・社会保障・国民生活など」の破綻がこのままでは避けられない状況にあり、その破綻をまぬかれるために移民を導入してこれを活用しようというわけである。移民は「国益」のための手段として考えられているにすぎない。

 ただ、あとでみるように、日本の「生産・消費・税収・財政・年金・社会保障・国民生活など」を支えるために来てもらうのだという移民受け入れの目的意識が議論のなかできちんと明確にされているので、そうして日本を支えてくれる移民にはそれ相応の待遇をあたえなければならないということは、坂中の議論では当然の前提として述べられていくことになる。

 この点は、昨今の状況を知ってる者からみれば、とてもまっとうで、まぶしくさえ感じてしまうところだ。こんな当たり前のことを言われて、喜んでちゃダメなんですけど。

 著書などで主張が展開される場合、議論全体の体系性や論理的な一貫性をあまりおろそかにできないので、議論がまっとうなものになりやすいということはあるのかもしれない。ある程度の分量のある文章なんかで主張を述べる場合、たがいに矛盾したことなどあまりムチャクチャなことは言いにくい、というか。

 一方、SNS隆盛の現代では、短い言葉でそれらしいことを言えば、なんとなく説得力が出てしまうことがあるので、よくよく考えればおかしな主張が広い支持をうけてしまう、ということも起きやすいようにみえる。「移民」の存在が社会保障や税制の大きな負担になっている(なりうる)かのような、実際とは正反対と言ってよいイメージがばらまかれ、そうしたイメージを利用しながら「外国人」の定住・永住に強力な制限をかけていこうという排外主義的な政策が政府によってすすめられているのが現在の状況である。

 むしろ、外国からの移住者が安心して定住・永住を目指せる環境をととのえていくことは、税制や社会保障の支え手をぶあつくしていくことになるはずなのだが。そういう「国益」の観点からの合理性を考えようとする右派は絶滅しかけているようで、かわりに人権派的な論者とかへたすると左派までもが「もう少し冷静に国益の観点から考えましょう」的なことを(「国益」という語はさすがに出さないまでも)言い出してる状況が、たまらなく気色わるいです。こういうところから左派が転向していっちゃうのよね、みたいな話もしたくなるけど、今回はがまんします。



「外国人労働者」と「移民」の区別

 さて、坂中の移民受け入れ論では、なんと「外国人を人間として迎える」ことが大事だと説かれる!

 いや、こんなことで感心してては坂中に対してもさすがに失礼すぎるんじゃないかと思われるかもしれない。でも、入管にかぎらず「外国人」政策にかかわるこの国の官僚の多くは、「外国人材」とかいう言葉を作って平気で公文書にのっけたりする連中ですからね。木材や石材じゃあるまいし。「高度外国人材」とか。やつら、「外国人」を人間あつかいするつもりなんかまるでないのである。

 そういうわけで、その入管の幹部だった人物が「外国人を人間として迎える」べきだみたいなことを書いてるのを読むと、ちょっとびっくりしてしまう(赤字での強調は引用者=私によるものです。以下ぜんぶおなじ)。


 外国人技能実習生を含む「外国人労働者」の受け入れには反対である。なぜなら外国人を人間として迎える外国人政策ではないからだ。外国人労働者というと、産業界が労働力不足を補う目的で入れるもの、期間限定の低賃金労働者として酷使するもの、必要な時には入れて必要なくなれば追い返すものという性格が強い。本質的に日本人と共生する存在でも将来の国民でもないから、およそ人口減の国が求める人ではない。*6


 坂中は、「外国人労働者」と「移民」を区別したうえで、前者ではなく後者の受け入れを主張している。「外国人労働者」の受け入れは、「人間として迎える」ことにならない、だから反対だというわけである。

 坂中は1990年代以降に受け入れた日系ブラジル人について、「移民」であると明確に規定している。そりゃ「移民」でしょ、あたりまえじゃん、とも言いたくなる。でも、坂中が「外国人労働者」ではなく「移民」という言葉で呼ぶのは、つまり、この人たちを「人間」としてあつかうべきだということを語っているのである。

 リーマンショックのさいに、自動車産業が日系ブラジル人を大量に解雇したことについて、坂中はつぎのように述べている。


 建前上は雇用期限・派遣期限の到来とともに更新をしなかっただけだと言っても、実質的には雇用形態を奇禍として切り捨てたと批判されてもいたしかたないだろう。ここでは非正規雇用自体の問題はあえて問わないにしても、そもそも先祖の故郷へ期待に胸を躍らせて帰ってきた日系ブラジル人がそういう不安定な雇用形態の下に置かれていたことが問題だ。*7


 「必要な時には入れて必要なくなれば追い返すもの」として移民をあつかってはならない。それは「人間として迎える」ことではないからだ。こうした姿勢は、坂中の移民政策論において一貫してはいる。

 ところで、リーマンショックから10年あまり後のこと。2018年の入管法改定により、「特定技能」の在留資格が創設され、外国人労働者受け入れのさらなる拡大への道が開かれた。その際、当時の安倍首相はこう発言している。「いわゆる移民政策をとる考えはない。深刻な人手不足に対応するため、即戦力になる外国人材を期限付きで受け入れるものだ」と。

 まさに安倍は、「移民」という言葉を、坂中英徳が言うのと同じ意味で使っているのだ。坂中は外国人を「移民」として(つまり人間として)受け入れなければならないと言ったが、安倍は「移民」としての受け入れはせず、「人手不足に対応するため」「期限付き」の「外国人材」だけ欲しいのだと言っている。坂中の批判する「必要な時には入れて必要なくなれば追い返すもの」としての「外国人材」受け入れをおこなうのだというわけだ。

 外国人労働者を人間あつかいなどしないぞと安倍は堂々と宣言しているようなものである。この姿勢は、のちの菅・岸田・石破・高市の各政権でもそのまま引き継がれている。



受け入れる側の責任

 安倍政権以降の政府は、「外国人材」の受け入れ拡大を進める一方で、しかし「移民政策をとる考えはない」ことをくり返し言明してきた。

 坂中は、移民政策において、「移民の受け入れ態勢と制度を整えなければならない」*8と述べている。当然の理屈である。

 一方、安倍以降の各政権が、みずからの政策を移民政策ではないと言うのは、その受け入れ態勢と制度の整備の責任を回避するものだ。先の安倍の発言にあるとおり、「即戦力」の「外国人材」は欲しいが、それはあくまで「期限付き」で受け入れるのであって、「移民」として日本に定着・定住するのは歓迎しない。「外国人」を好きなように利用したいが、これを受け入れるのにともなう責任からはのがれたいというわけだ。まったくもって身勝手な話である。国をあげて「外国人」に寄生しようというのであって、ろくなものではない。

 坂中は、移民として受け入れる人に対して、永住を認め、すみやかに国籍を与えるということを想定している。当たり前の話である。制度面の整備としては、たとえばつぎのように述べている。


 国の外国人処遇のあり方も変革を迫られる。社会の少数者である外国人の立場に配慮した行政への転換が不可欠である。入国を認めた外国人の社会適応を促進するため、日本語教育と就職支援に行政の力点を置かなければならない。国籍行政については、できるだけ多くの移民を早く国民にする基本方針に基づき、移民一世の国籍取得に際し二重国籍を容認するほか、移民二世が出生により国籍を取得できる道を開くなど、移民の日本国籍取得を歓迎する国籍政策を推進する。*9


 移住してくる人は、元いた地に帰ったり、新たな別の地へさらに移動していったりする人も多いが、その一定数がこの地に定着・定住することになるのは当然である。このことは、政府が公式に「移民政策をとる」と言明しているかどうかとは関係ない。「移民」としてであれ、「外国人労働者」や「外国人材」としてであれ、労働力その他の必要性から国境をこえて人を呼び込む以上、そうしてやって来た人の一部がこの地に定着・定住することになるのは避けられるわけもない。移民は「人間」だからだ。

 坂中の議論は、移民を積極的に受け入れる政策を選択する限りにおいて、その受け入れ態勢・制度をととのえていくのは行政の責務であるという理屈になっている。だが、「移民政策をとる」と宣言するしないにかかわらず、定着・定住する人がいるということを想定して、その人たちが安心してこの地で暮らしていくことができるよう態勢・制度をととのえていくのは、行政の責務であるはずだ。

 政府の、在留資格の更新・変更手数料の大幅値上げや、永住許可要件の厳格化といった、外国籍者の定住・永住の可能性を極端にせばめようとするもろもろの政策は、そうした責務を一方的に放り投げるものだ。そこに「移民政策をとる考えはない」などという言い訳は通用しない。



「外国人の犯罪」を一方的に「外国人」に帰責すべきではないこと

 「移民を入れたら治安の悪化などの社会問題をかかえることになるのではないか」という主張に対して、坂中はつぎのように反論する。


 移民先進国のドイツ、フランスで移民の受け入れがうまくいかなかったのは、定住外国人とりわけ移民二世に対する教育と就職の支援をしっかり行わなかったからだ。

 移民二世の子供たちの多くは、言語能力に問題があって学校の授業についていけない。低学歴のゆえに適当な就職口もない。成人になっても生活保護に頼って生きていくしかない。そういう状態に置かれた若い世代の中から暴動を起こしたり、犯罪に走ったりする外国人が出てきたのである。*10


 ここでは海外(ヨーロッパ)の状況が想定されているが、坂中が移民政策論を精力的に提唱していた2010年代の日本においても、「移民を入れたら」というのはすでにたんなる仮定の話ではなかった。在日朝鮮人らのいわゆる「オールドカマー」はもちろん、1980年代から増えた「ニューカマー」、90年の入管法改定を契機にした中南米からの日系移民など、当時すでに「移民」は日本社会を構成する、無視しようのない要素であった。


 現在、定住外国人の子供が学校に行かず、非行に走り、犯罪に及ぶ「外国人問題」が起きている。外国人による少年犯罪が発生する背景のひとつに、外国人を受け入れた後の、日本語教育を中心とする定住支援がほとんど行われていないことがあげられる。孤立無援のままに置かれた定住外国人の子供は社会から疎外されていると感じ、それが犯罪にかり立てる一因となっているのではないか。

 移民開国が迫られる日本は、外国人問題を全面解決し、移民国家への道をつけるためにも、定住外国人の社会適応を助ける仕組みを早急に整備する必要がある。*11


 坂中は、「外国人」による非行や犯罪の背景に、「定住支援」(教育と就職の支援)の不備・欠如の問題をみている。犯罪等を安易に「外国人」に帰責してその排除を主張するのではなく、移民を受け入れる国や社会の側の問題を直視しようとしているのである。

 ここは、実際的にとても大事な主張だと思う。入管がげんにおこなってきた(いる)のは、それとは真逆のことだからだ。

 入管の収容施設での面会活動などをしていると、子どものころに親に連れられて日本に来た若者が、犯罪をおかして強制送還の対象になっているという事例に出会うことが少なくない。日本の国や社会が、移民の受け入れ態勢・制度を整備する責任を果たさず、「定住支援」を十分におこなってこなかったことが、それらの犯罪の背景の一部としてあることは否定できない。罪をおかした、しかし日本社会で育った人を、ゴミでも片づけるように国の外に追い出してオシマイという解決のしかたは、あまりに無責任だし道理を欠いている。

 幼いときから日本で暮らし、あるいは日本で生まれ、家族・親族も日本にいて長年日本で人間関係をきずいてきた人を、たまたま国籍がそこであるという以上の縁のない国へと送還することができる、という仕組みが存在していること自体もそもそもおかしい。



人権問題としての「不法滞在外国人問題」

 坂中の『日本型移民国家への道』は、初版が2011年5月に発行されているが、2013年1月に増補版が2つの章を加筆して発行されている。その加筆された部分で、坂中は当時6万人台とされた非正規滞在者(坂中は「不法滞在者」と呼ぶわけだが)について、興味深いことを述べている。

 2012年7月から新しい在留管理制度が始まり、これにともない外国人登録制度が廃止された。旧制度では非正規滞在の人も外国人登録ができたが、新しい制度では身分を証明するすべがなくなった。坂中は、新制度導入を契機に「不法滞在外国人問題が突然、注目されることになった」と述べたうえで、つぎのように続けている。


 1990年代はじめに30万人近くに達した不法滞在者は、その後、上陸審査体制・在留管理体制が強化されたこともあって減少に転じ、現在の6万人台にまで減った。米国の不法滞在者の数は1千万人を超える。EUにも難民を中心に約6百万人の不法滞在者がいるといわれている。

 欧米の主要国と比べると、日本の不法滞在者の数はけた違いに少ない。数だけを見れば、不法滞在の問題は出入国管理行政上の大きな問題ではなくなったと言えなくもない。しかし、その不法滞在者の中に不法滞在期間が20年を超える人がかなりいると推定されることからも明らかなように、この問題は依然として深刻な人権問題である。

 不法滞在者は町工場などでもくもくと働き、一方で入管や警察に見つからないかとびくびくしながら生活している。法違反者とはいえ、そんな不安におびえる生活を20年以上の長きにわたって強いることは人道にもとると言うべきである。

 公正な出入国管理を担う入管当局が不法滞在外国人の人権問題を放置しておいていいわけがない。*12


 2つ大事なことを言っていると思う。

 ひとつは、「数だけを見れば」との限定つきではあるものの、「不法滞在の問題は出入国管理行政上の大きな問題ではなくなった」と言っているところである。入管プロパーであった坂中がこう言っていることの意味はやはり大きいのではないか。

 ちなみに坂中が2012年末ごろに「6万人台にまで減った」と書いた「不法滞在者」数は、14年ほどたった現在も6万人台である。

 もうひとつ、坂中が大事なことを言っているのは、長期間にわたってここで暮らしている人が「不法滞在」状態に置かれていることを「深刻な人権問題」としていることである。「不法滞在外国人問題」というものがあるとすれば、それは「不法滞在外国人」の存在が日本社会になんらかの悪影響を与えるということではなく、「不法滞在外国人」の人権がまもられていないということこそがそうなのである。

 あらためて強調するが、こういう議論をしている坂中は、入管の幹部だった人物である。その坂中が、「不法滞在外国人」であっても、2012年スタートの新在留管理制度によって身分を証明するすべを失ったこと、また長年日本で働き暮らしてきた人が入管や警察に見つからないかとびくびくしなければならないことは、「人権問題」であり「人道にもとる」とはっきりと書いている。

 こんにちの状況と照らし合わせてみたとき、この10数年前の坂中の文章のまともさに驚いてしまう。坂中はなにも特別なことを書いているのではないけれど、現状があまりにもひどすぎるので、まともであるというただそれだけのことに驚きをおぼえてしまうのである。

 たとえば、立憲民主党の衆議院議員だった藤岡隆雄は、「不法滞在」の人が運転免許証を交付されて自動車を運転できたり、それを身分証として使えたりするのはケシカランという趣旨の国会質問をしている*13。昨年(2025年)の5月のことである。藤岡によると、「不法滞在」でも免許証を持てるのでは「不法滞在天国」になってしまうのだそうだ。

 藤岡の国会質問の影響かどうかはわからないが、事実この年の10月から運転免許証の取得および更新には住民票の提出が求められるように制度の運用が変更され、仮放免者など在留資格のない人は免許証を持てなくなった(持っていた人も更新できないので失効と同時に免許証を失うことになった)。

 坂中英徳なら、この事態を人権問題だと言うのではないだろうか。ところが、「不法滞在外国人」なんかの「人権」や「人道」を問題にするのもナンセンスであると言わんばかりの姿勢を示すということを、政治家などが人気取り目当てにおこなうのが、いまどきの風潮である。藤岡議員(当時)の下劣な国会質問はその一例にすぎない。

 さて、昨今とますます目立つようになった排外主義者であれば、「不法滞在者」の置かれている状況は人権問題であるなどと言おうものなら、「だったら強制送還すべきだ。それが当人たちのためでもある」などと言うであろう。

 坂中が「不法滞在者の中に不法滞在期間が20年を超える人がかなりいると推定される」と書いたのは2013年だが、現在はそこから10年以上もたっている。私の知っている仮放免者のなかにも、滞在期間がすでに30年を超えた人は相当数いる。それどころか、日本の製造業などで深刻な人手不足から外国人労働者をさかんに呼び込むようになったのは、バブル期の1980年代後半からである。滞在期間40年に達する人が出てきているのである。

 こうした滞在が長期にわたる人を強制送還することが、人権尊重や人道にかなうものであるなどと言えるはずがない。在留を正規化するということ以外に、この「人権問題」の解決策はありえない。坂中もつぎのように言っている。


 法務省当局にお願いがある。不法入国者や不法残留者が激減の傾向にあること、外国人住民基本台帳制度が導入されたことなど最近の不法滞在者をめぐる状況の変化を考慮し、「不法滞在期間が十年を超え、かつ家族を扶養している不法滞在者」については、法務大臣が在留特別許可を認める方向で検討してはどうか。*14


 この坂中の提案にケチをつけるとすれば、「不法滞在期間が十年を超え、かつ家族を扶養している不法滞在者」というところ、「かつ」は「または」に訂正したほうがいいよ、ということぐらい。あとは、大賛成!



移民はすでにここにいるということ

 入管という組織がになっているのは、「出入国管理」とか「在留管理」とかいう業務である。そこには、国境をこえた人間の移動だとか、「外国人」の在留だとか(そう、在留管理の対象とされるのは「外国人」のみである!)は、コントロール可能なものであり、またコントロールすべきものであるという前提がある。

 そのことの是非をここで議論するつもりはないけれど、現実問題として、コントロールしきれてないし、どうしたってコントロールできない部分は出てきますよねということは、言えるじゃないだろうか。

 日本は移民を受け入れるべきかどうか? 受け入れるとして、どれくらいの規模の移民を、どういう形で受け入れるのか? そういう議論は、したい人はすればいいと思うけど、私はそこにくわわるつもりはない。

 ただ、日本国が日本国としてどんな「外国人政策」を選択するとしても、あるいは今の政府がそうしているように「移民政策はとらない」と強弁したとしても、移民たちはすでにここにいる。その移民のなかには、坂中などの言う「不法滞在外国人」もいる。

 そういうすでにここにいる移民が、すでにここにいる人間として、あたりまえのようにその人権が尊重される社会であるべきだ。私は坂中英徳とは根本的にあいいれないところが多いと思ったけれど、日本の国や社会がそうあるべきだという一点においては、この人と考え方を共有できていたんじゃないかなと思う。そして、坂中とさえ共有できたであろうこの考え方が、日本社会で広く共有される日が来ないとも思えない。まあ、道のりは遠いかもしれませんけど。




*1: 「改悪」と評価すべき内容としては、難民申請中の送還は停止されるという規定に例外がもうけられたこと(3回目以後の難民申請、また無期または3年以上の拘禁刑に処せられた者の送還が可能になった)、監理措置制度の創設など。

*2: 永住者資格の取消事由を拡大する入管法改悪(24年6月)、在留資格「経営・管理」の要件の厳格化(25年10月)、国民健康保険料を滞納する外国人の在留資格更新を認めないとする新方針(25年11月発表、翌26年6月から)、在留資格の更新・変更手数料の大幅値上げ(26年10月から)、永住許可要件の厳格化。非正規滞在者に対しては、「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」(25年5月)、その強化版としての「不法滞在者ゼロプラン~強力推進パッケージ~」(26年5月)。

*3: 坂中英徳『日本型移民国家の創造』(東信堂、2016年)、206頁
*4: 同上。

*5: 坂中英徳『増補版 日本型移民国家への道』(東信堂、2013年)、8頁

*6: 前掲15頁。

*7: 前掲23頁。

*8: 前掲30頁。

*9: 前掲31頁。

*10: 前掲89-90頁。

*11: 前掲50-51頁。

*12: 前掲113-4頁。
 藤岡議員(当時)の国会質問については、このブログで批判記事を書いた。 

*14: 坂中『増補版 日本型移民国家への道』115頁。

2026年5月26日

AB型でRhマイナスの人と「不法残留者」と



5/24 10:23配信『静岡朝日テレビ』
ニュース画像のスクリーンショット。
「……在留期間を約2週間超えて不法残留 
インドネシア国籍の男(21)を逮捕」
との見出し

 

 けったくそ悪いので、写真だけ。リンクははらない。

 これは静岡朝日テレビのニュースだけど、ここ数年のあいだに、他のとくに地方のマスメディア(茨城新聞とか神戸新聞とか)でも、警察が「不法残留」あるいは「不法就労」の外国人を逮捕したというニュースがネットで配信されてるのを、やたら目にするようになった。

 こんなものを報道する意義がいったいどこにあるんだろうか?



 入管庁の発表によると、2026年1月1日時点での「不法残留者数」は6万8,488人だという。日本全国で6万人超もいるうちのひとりが見つかったから何だというのだろう。

 日本人の血液型でAB型は10人に1人ぐらい、Rhマイナスの人は200人に1人ぐらいなんだそうだ。したがって、AB型でRhマイナスの人は2000人に1人*1。日本の人口*2が1億2000万人ぐらいとして、その1/2000は6万人。「不法残留者」の人数とだいたい同じぐらい。

 「AB型でRhマイナスの人が菊川市内でみつかりました」などというニュースがナンセンスなのはあきらかだろう。それが「不法残留者が菊川市内でみつかりました」という話だと、わざわざ報道されてしまうのはなぜなのか? 「AB型でRhマイナスの人」と「不法残留者」のあいだのちがいとは?



 まあ、警察官が「不法残留者」を見つけたらつかまえる、というのはわかるのですよ。ただ、それは警察組織の上のほうで「不法残留者」を見つけたら逮捕するということに決めていて、末端の警察官たちはそう命令されているからにすぎない。

 その証拠に、1990年代には、警官に在留期間がすぎたオーバーステイだということがバレたり、あるいは自分からそれを話したりしても、逮捕なんかされなかったという例はめずらしくもなんともない。当時、オーバーステイだった人たちに話を聞くと、そんな証言は山ほど得られるよ。

 警察官が「不法残留」を見つけたらただちに逮捕するようになったのは、2000年代に入って、政府が「不法残留者」を徹底して減らそうという方針に転換して以降のこと。

 つまり、「不法残留者」が逮捕されるのは、警察の方針がそうなってるというだけのことにすぎないわけだけれど、まあそれはともかく、たしかに現在では警察官は「不法残留者」を見つけたら逮捕する。警察がそうするのは、まあわかる。いまどきの警察はそういう方針なんですね、と。

 でも、それ、静岡朝日放送さんが報道する意味がどこにあるんだろう?



 AB型でRhマイナスの人はたしかに「めずらしい」と言えば言えなくもないけど、日本全国に6万人もいるのであって、そのひとりが静岡県菊川市にいることがわかったからって、報道しなければならない理由になんかならない。

 ちょっとめずらしい血液型ではなく「不法残留者」だったらそこを報道すべき理由がなにか発生するのだろうか。その報道になにか公益性とかあるわけ? たいして希少性(めずらしさ)もなければ、それを報じることでわれわれ人民大衆の福祉が向上するなんてこともいっさいない。



 記事を読めばすぐわかるのだけど、これは静岡朝日放送さんが報道する意義があると判断して取材して報道したものではない。警察が提供した情報をそのまま流したものにすぎない。だから、警察の広報にテレビ局が自分の媒体を使わせてあげた、ということですね。

 では、どうして警察はこれを広報したいんだろうか? 「不法残留者をつかまえました」「認められた在留期間が120日だったのを2週間もオーバーして残留してたんです」。あっそう、だからなに? という話である。バカバカしいにもほどがある。



 確実に言えるのは、「警察が●●を不法残留の容疑で逮捕した」という報道がくり返されることで、外国人への偏見が読者・視聴者に植えつけられていくだろうということだ。「不法残留」している人が私たちにとってどんな不利益なり迷惑なり与えているのかということはなんら具体的に示されることなく(そんな不利益や迷惑など存在しないわけだけど)、外国人のなかには「不法残留」というルール違反をおかしている者がいるらしいという情報がわれわれの頭にたたきこまれていく。「警察がつかまえるくらいだから何か悪いやつなんだろう」というイメージをまといながら*3

 すくなくとも、「不法残留者」なるものが存在していることよりも、外国人への偏見をばらまく効果のある報道のほうがよっぽど有害じゃないんですかね。





*2: AB型などの血液型の出現率については「日本人」を分母とした話をしているので、ここで「日本の人口」を分母とする話をするのはほんとはおかしい(「日本の人口」を構成するのは「日本人」だけではないので)のですが……。 

*3: 今回書いたことの趣旨からは外れるのだが、「警察が外国人を不法残留(あるいは不法就労)で逮捕した」系のニュースというのは、つぎのような思考を読者・視聴者に植えつけていくという効果の点でも、重要だ(悪い意味で)と思う。つまり、外国人が日本国民には課されないルールを課されていており、なおかつそれは当然のことなのだという思考である。

2026年2月12日

強制送還に「密着」したと称する動画について



 入管の強制送還にテレビ初密着 「あと1日ほしい…」抵抗する人も “不法滞在者ゼロ”に向けた最前線に迫る(2026年02月02日) - YouTube


 「テレビ初密着」だそうだ。

 ナレーションでも「強制送還の一部始終をメディアとして初めて取材することができました」と言ってほこらしげだが、もちろんこれは入管の広報・宣伝にテレビ局が媒体を提供して協力したというものだ。

 入管が見せたい(あるいは見せてもよい)と考えている映像をテレビ局は撮らせてもらって放送しているにすぎないわけだから、「初めて取材することが……」などとまるで自分らのやっていることが報道の名にあたいする何かであるかのように言うのもずうずうしいなあと思うのですが、まあそれはどうでもいいです。フジテレビにジャーナリズムなど期待するだけムダだろうから。

 それより私が軽くショックを受けたのは、強制送還のこれほどむごい実態を見せてもマイナスにはならない、それどころかプラスになると入管がみつもっているのだなあということ。そして、入管がそうみつもるのは、少なくとも現時点においては正しいのだろうと考えざるをえないことに対してである。

 2人の人間の人生が強制送還によって暴力的に大きく変えられるのを放送したところで、「入管による人権侵害だ」などと言って問題にする人などほとんどいないだろう。むしろ、入管の仕事に対してコクミンの好意的な理解を得るのに有効だろう。そう見込んだからこそ入管はフジテレビに「密着」させてこんな映像を作らせたのだろう。

 私は、入管のその見込みどおりになるのを許すべきでない、見すごすべきでないと考えるので、いまこのブログを書いている。



 (フジテレビが制作・放送した)入管の広報映像には、東南アジア出身とされる2人の人が登場する。

 ひとりは、「20年間にわたり不法滞在してい」るとされる女性。入管職員から強制送還を執行するとつげられ、ひどく動揺するようすもうつし出される。少なくとも20年以上は日本で生活してきたということなので、当然だろう。長年ここできずきあげてきた人間関係から引きはがされて、20年以上ぶりのもはや変わりはてただろう「故郷」に放り込まれるのである。むごい話である。

 もうひとりは、トータルで30年、日本でくらしてきたという男性。はじめて来日したのはバブル期だったとのこと。過去にも送還されたことがあり、送還後の上陸拒否期間に他人名義のパスポートを使って来日したということらしい。家族を日本に残し、ひとり「母国」に送還されるとのこと。送還直前に荷物を整理しながら、長年日本でくらしてきたこの人は「オレの人生は日本」と言って涙をながす。むごい話である。

 フジテレビによる「報道(まがいの入管広報)」をみるかぎりでは、このおふたりは自身の難民性を主張しているわけではないようだ。入管がそういうケースを選んで撮影させたのだろう。ここらへんも、入管はコクミン世論をみすかしているんだろうなと感じた。迫害のおそれのなさそうな人を「不法滞在者」として送還することを問題視する声などあがらないだろう、と。

 ところが、映像というのは、ときとしてその制作者の意図をこえて雄弁に語ってしまう。いわゆる難民のケースでなくても、強制送還という措置がいかにむごたらしいものになることがあるのか、この15分ほどの動画は示してしまっている。そう私には思える。

 だから、この動画を、入管のプロパガンダのために作られた動画を、多くの人が見てほしいとすら思う。そうして感じたこと、自身の心の動きの経過に向き合い、できることなら言葉にしてシェアしてほしいと思う。皮肉として言ってるわけではない。まじめにそう思う。



 長年くらしてきた町から、見なれてきた風景から、なじんだ食生活から、結んできた人間関係から、当人の意に反して引きはがして追放する。そんな行為のむごたらしさをおおいかくすことはできない。入管の施策を正当化するために作られた動画ですら、そのむごたらしさを具体として表現してしまっている。

 おそらくこの動画を見た人の多くは、入管職員たちの行為を正当化できる理屈を探し始めるだろう。そこには「正当化」の必要な行為がうつしだされているからである。ある行為について「正当化」が必要なのは、その行為がすくなくとも全面的には正当ではないと感じているからである。その心の動きを私たちは直視すべきなのだと思う。

 気分がわるくなる人もいるだろうから、むりはしないでほしいのだけど、心に余裕のあるひとは冒頭のリンク先の動画についたコメントをいくつか読んでみてほしい。「不法滞在者」とされた人にむかってくちぎたなく攻撃するコメントのいくつかを見て、なぜこの人たちがこれほど余裕なく憎悪をたぎらせているのかと問うてみよう。この人たちは、画面にうつる入管職員の行為に、「正当化」しなければならない(つまりは、全面的に正当とは言えない)要素があることに、おそらく気づいている。

 ある行為の不当さ、あるいは加害性から目をそむけたいとき、私たちはそのむごたらしい目にあっている被害者のほうの瑕疵(かし)を探そうとする。「この人にも非があるのだから、ひどい目にあうのは仕方がない」と考えようとする。あるいは、もっと積極的に「制裁を科されるのは正当だ」と考えたりする。でも、「不法滞在」とやらはそんなに大きな瑕疵ですかね?



 動画の最後にはこんなナレーションが流れる。

 「不法滞在者を安全に送還するために、入管職員たちは日々慎重な対応にあたっています」

 このプロパガンダ動画の全体的なトーンがまさにこのような演出で作られている。入管職員が、送還しようとする「不法滞在者」に対して、あくまでも親切にていねいに対応しようとしているようすがうつされる。

 で、なかなか興味深いのは、そうした映像に対して、どんなコメントが書きこまれているのかということである。いくつか例をひいてみよう。


@surgekiller

最後の晩餐って2回目やん。

可哀想なんて微塵も思わない、むしろ犯罪者にこんな良い扱いに驚いた。


@ポクポク和尚

あのさぁ……

優しくしてどうすんの?

「日本人は冷たい」って思わすほど雑に扱った方がいいんだよ。


@ntakito138

優しすぎでしょ。税金もどうぜ払ってないんだし、全部没収すりゃよいじゃん


@momoy1027

なんでこんなに丁寧に対応してるんだろう


@カズくん-s5r

もっと対応を厳しく、優しすぎる。


 ひとつひとつはごく短いものにすぎないコメントに対し、その深層を推測するようなことを言うのはあまりフェアではないかもしれない。しかし、「不法滞在者」に「優しく」対応すること、「かわいそう」と同情することに、怒りと憎悪をぶつけるコメントが無数によせられることの意味をどう解釈したらよいのだろうか。まるで、「不法滞在者」に対しコメント者自身が同情をよせてしまう可能性に恐怖し、これをいわば「予防」しようと攻撃的な姿勢をとっているようにみえないだろうか。

 強制送還はコクミン世論のヘイトを扇動して作り出し、これを利用しながら進められている。でも、そのヘイトは強力でありながら、もろさをかかえているようにみえる。簡単ではないだろうが、絶対にこれをつきくずすことは可能だと私は思う。がんばろう。


2025年11月24日

「いま、ここにいるわたしを排除するな」デモに参加して

  11月23日、「いま、ここにいるわたしを排除するな」というデモに参加してきた。




 差別や排外主義に反対するというテーマがあるものの、参加者それぞれが自分の関心のある問題について自由にアピールしていくというデモだった。

 スピーチやコールは、やりたい人にマイクをまわして基本的に好きなようにやってもらうというスタイル。外国籍の人に対する排斥や入管の問題についてアピールする人もいれば、高市首相の中国への挑発を批判し戦争反対をうったえる人、韓米日の合同軍事演習反対、イスラエルのパレスチナ人虐殺やめろとか、大阪万博の未払い問題について維新や吉村大阪府知事への批判、カジノいらない、自民党も維新も参政党もいらない、などなど。

 街頭でめいめいが自分の関心におうじてアピールするのは、いいですね。

 ただ、中之島公園からなんばまで、御堂筋(みどうすじ)を歩く2時間をこえるコース。まあ、つかれました。

 沿道の人たちの反応は、かなり好意的だった。右翼のアホがなんにんかアホなことをわめきたててきたものの、それ以上に差別反対やパレスチナ連帯のメッセージに笑顔や手をふったりと賛意を示してくれた人がたくさんいた。そのなかには、外国にルーツがあるのかなと見えるかたも多かった。日本社会での排外主義の高まりに強い危機感と批判的な意識をもっている人というのは、それなりにいるのだろうということが感じられた。



 デモの前の集会では、入管関係でなんか話しますかと声をかけていただき、ちょこっとアピールをしてきた。入管をめぐる現状の報告と批判をすべきかなとも思ったのだけど、こんにちのように排外主義的な世論が大きくもりあがってしまっている状況でこそ、理念的なことを語っていく必要があるんじゃないかと考えた。それで、なぜ排外主義に私は反対するのか、どんな社会をめざそうとするのか、というところにつながっていくような話を、3分か4分ぐらいのわくで話してみたのが、以下です(自分がしゃべったのをスマホで録音しておいて、文字起こししました)。


▼ ▲ ▼ ▲ ▼ ▲ ▼ ▲


 こんにちは。ナガイと申します。

 入管問題やってるんですけど、15年くらい、細々と入管に収容されている人の面会活動だったりとか、仮放免者と言われる人、今日ちょっと説明はぶきますけど、その支援をやってきました。

 そのなかで私たちが主張してきたこととして、「仮放免者に在留資格を」ということを言ってきたんです。仮放免の人たち、外国籍で在留資格のまだ認められていない人たちというのは、たとえば日本に長期間くらしてる人、古い人だとバブル期1980年代の後半から日本にいて暮らしている。そういう人たちであったりとか、あるいは難民申請している人ですね、帰国したら危険がある、迫害されると。だから、保護してくださいという申請をしている人。そういう人たちの在留資格が認められてないんで、その在留資格を求める運動というのをやってきました。

 「仮放免者に在留資格を」というスローガンを私たち言ってきたんですけど、これは一方では言っていかなければならないスローガンだと思ってるんです。ただ、これだけで十分に排外主義とたたかえるかというと、十分じゃないんじゃないかということを、今日はお話したいと思います。

 たとえば、「仮放免者に在留資格を」と言うんですけど、「ここにいていいですよ」という資格というのを決めるのはだれでしょうか?

 入管という役所は「それは国の機関であるわれわれだ」と言ってるんです。「外国人は在留資格がないと日本にいてはいけない」というのは入管の主張。法律にも書いてあることですけども。で、その在留資格を決めるのはわれわれだと、法にもとづいて入管という組織が「おまえはここにいていい」「おまえはここにいてはいけない、だから強制送還するよ」と。そういうことをわれわれが決めていいんだということを言ってるのが入管という役所なんです。

 いまの排外主義に対して、「在留資格を認めてください」というだけでたたかえるかというと、私はちょっと足りないかなと思っています。なぜかというと、外国人を排斥する主張をしている人がどういう言い方をしているかというと、「おまえは外国人だから、日本が気に入らないんだったら自分の国に帰れ」と言うんですよ。これ、どういういい方かというと、私からすれば、これ入管のくちまねなんですよ。

 入管は、これ本当に、なにさまだと思ってわたし腹立つんだけど、「外国人がいていいかどうか、ここにくらしていいかどうかは、われわれが決める」と言っているわけ。なんの権利があってそんなこと言えるの?

 すでに外国籍の人たちここに暮らしています、現にね。それをわれわれといっしょにこの社会をつくってきたわけです、長いこと。そういう人を、なんか日本人だから、日本国籍を自分は持っているからということで、自分が決めていいんだと。「お前たちがここにいていいよ」と言うのも傲慢ですよ、はっきり言って。

「外国人もいてもいいんじゃないか」ではなくて、[私たちやあなたたちが]そんなのを決めていいのかどうかということを、やっぱり問わなきゃいけない。日本人だから日本国籍だからそんな特権があるのか、と。特権、認めていいのか、と。

 そういうところでの排外主義とのたたかいが必要だと思うんで、やはりここにかかげられてあるように、「いまここにいる私を排除するな」ということは、ほんとに大事なスローガンだと思います。いっしょに今日たたかいましょう。

 以上です。




2025年10月25日

「不法滞在者ゼロプラン」とは?

  「不法滞在者ゼロプラン」について別のところに書いた文章(3か月くらい前に書いたものですが)を転載します。

 関西で入管の被収容者や仮放免者の支援などに長年とりくんでいるWITH(旧名・西日本入管センターを考える会)という団体があります。そのWITHの会報『プラーツオ』(No.87 2025.8.1)に掲載していただいた原稿です。

 原稿の内容としては、入管庁の「ゼロプラン」というやつがいったい何なのか、これに反対する立場から解説を書いたものです。

 また、ゼロプランに反対したうえで、私たちとしてさらに何を主張していくべきなのかについて、私の考えを書きました。むろん「ゼロプラン反対!」とは言っていかなければならないのですけれど、それだけでは入管庁がつくった土俵のうえでの押し合いにしかならないし、「やめろ」「とめろ」という防御の主張にしかならない。反対する方にも、めざすべき着地点というか、出口のイメージが必要だろうと思います。


『プラーツオ』表紙
(タップで画像が拡大されます)

 今号の『プラーツオ』は、WITHの支援されているウガンダ難民の近況、23年の改悪入管法成立後の特例措置(日本生まれで在留資格のない子どもの一部に、家族一体で在留資格を出すというもの)で在留の認められた一家のその後など、長く地道に支援活動をされてきたグループならではの記事がもりだくさんです。

 表紙の画像(↑)に連絡先がありますので、購読されたい、あるいは活動にカンパされたいかたは、コンタクトをとってみてはいかがでしょうか。


 以下、『プラーツオ』に掲載していただいた文章を転載します。


◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


「不法滞在者ゼロプラン」とは

 「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」なるものが発表された。入管庁が策定したもので、5月23日の法務大臣記者会見でその資料が配布された。資料は入管庁のホームページでも読めるようになっている。

 名前だけみても、このプランのやばさが伝わってくる。「不法滞在者」がまるで「国民の安全・安心」をおびやかす存在だと言いたげだが、実際、入管庁はあとでみるように、こうした偏見に便乗し、またみずからこれをばらまきながら、排外主義的な政策を進めようとしている。


仮放免者らが「ゼロプラン」のターゲット

 資料をみると、いくつかの数値目標があげられている。


(1)難民審査の迅速化(現在20か月を超えている平均処理期間を、2030年までに6か月に短縮するなど)

(2)年間の護送官付き国費送還(無理やりの送還)を3年後に2倍に増やす(2024年の249人から2027年には500人に)

(3)退去強制が確定した外国人数(2024年末で3,122人)を2030年末までに半分に減らす


 まず(3)からは、このプランでどんな人たちがターゲットにされていのかがわかる。

 「不法滞在者ゼロプラン」とはいうけれど、入管がターゲットにするのは、いわゆる「不法滞在者」の全体ではないようである。「不法滞在者」という語は適当でないので以下「非正規滞在者」と言うことにするが、その非正規滞在者数は現在8万人ぐらいである。入管が半分に減らしたいと(3)で言っているのは、この8万人のうちの4%にもみたない約3,000人。すでに入管に摘発されるなどして「退去強制が確定した外国人」である。

 この「退去強制が確定した外国人」のうちわけは、3月の入管庁の報道発表によると、仮放免者2,448人、入管施設に収容中の人が461人などである。「不法滞在者ゼロプラン」とは、実質的に「仮放免者半減計画」と言ってもよさそうだ。

 そして、仮放免者らをもっぱら送還によって徹底的に排除しようという、この「ゼロプラン」にあらわれている入管の動きは、2年前の入管法改悪の延長線上にあるものである。仮放免者など「退去強制が確定した」けれども帰国をこばんでいる人を「送還忌避者」と呼び、これを送還によって排除するための強力な権限を入管に与えようというのが、入管法改悪のくわだてであった。3回目以上の難民申請者を強制送還してもよいことにし、また、収容を解かれた人を監視・管理するための監理措置制度の創設、送還に応じない人に刑事罰を科せるようにするなどが、その内容だった。

 この改悪入管法案は、2021年に一度は廃案になるなど、反対運動の大きなもりあがりがあったものの、23年に成立し、24年6月から完全施行されている。

 それからちょうど1年たった現在、仮放免者など「送還忌避者」をあくまでも送還によって徹底的に排除しようという新入管法にもとづいて、入管庁が打ち出してきたのが「ゼロプラン」である。


難民審査の「迅速化」と強制送還の「促進」

 では、この「ゼロプラン」は「退去強制が確定した外国人」をどうやって半分に減らそうというのだろうか。入管庁の資料を読むと、7つの方策が述べられているが、とくに目を引くのは、つぎの2つである。

 ひとつは、難民条約上の「迫害」にあきらかに該当しない主張を「類型化」することで、難民審査を迅速化しようというもの。つまり、「よくあるタイプの見当はずれな申請例」の見本をあらかじめいくつか作っておいて、これに沿うようにみえる申請はさっさと不認定の結論を出してしまえ、ということだ。ここで言われる「迅速化」とは、不認定の結論を「迅速に」出すということでしかない。難民認定率がきわめて低い現状で、このような「迅速化」が進められれば、難民として認定すべき人がますます取りこぼされていくのはまちがいない。

 もうひとつ目につくのは、上の(2)にもふれられている護送官付き国費送還(無理やりの送還)を促進するとしていることである。「ゼロプラン」の資料では、「令和5年[2023年]改正入管法により送還停止効の例外として送還が可能となった者や重大犯罪者などを中心に、計画的かつ確実に護送官付き国費送還を実施する」としている。

 さらに、この資料には言及されていないものの、この無理やりの送還についての入管の新しい動きもある。6月の下旬より、大阪入管は仮放免期間の延長手続きにおとずれる仮放免者らに新しいバージョンの「送還に関するお知らせ」という文書を配りはじめた。そこには新しく次の文言が書きくわえられていた。「なお、裁判所による執行停止等の仮の救済の決定がない限り、訴訟係属中であっても、送還を実施する場合がありますので、その旨、弁護士に伝えてください。」 同じ書面は東京入管など他の地方局でもくばられているようである。

 入管が具体的に今後どのような制度運用をしていくつもりなのか現時点では不明だが、今までおこなってこなかった裁判中での強制送還をする場合があると宣言したことには、深刻な危機感をいだかざるをえない。


「ゼロプラン」と正反対のやり方を!

 以上みてきたように、「ゼロプラン」とは、入管が「送還忌避者」と呼ぶ人たちを、むりやりの送還と難民審査の「迅速化」によって2030年までに半減させるという計画である。

 しかし、私たちが考えなければならないのは、そもそも3,000人をこえる「送還忌避者」と呼ばれる人たちがなぜ出てくるのかということである。「送還忌避者」とされる人の多くは、入管が退去強制を決定し、長期収容や人権のうばわれた仮放免状態におくことでいじめ倒しても、送還に応じられない人たちだ。それぞれに帰れない事情があって送還を拒否しているのである。こうした人たちの在留をがんとして認めず、あくまでも強制送還によって排除するのだという方針に入管が固執していることが、この「送還忌避者」を生み出しつづけているのだ。

 相手は人間である。「半減」やら「ゼロプラン」やらの下品な言葉でやっかいものあつかいをするのではなく、なぜ帰れないのか、そこに配慮すべき事情はないのか、また送還がその人にどんな不利益をもたらすのか、聞く姿勢が大事ではないのか。

 「ゼロプラン」が異様なのは、「送還忌避者」や非正規滞在者をもっぱら国外への排除のみによって減らそうとしていることである。しかし、これらの人たちを減らすには、「ゼロプラン」であげられているのと正反対の、つぎの2つの方法もある。

 ひとつは、難民審査を「迅速化」するのではなく、国際的な基準にのっとってこれを「適正化」することである。難民として認定すべき人をきちんと認定し、在留をみとめることである。

 もうひとつは、強制送還をふやすのではなく、現在きわめてせまくしか認めてない在留特別許可の運用をやはり「適正化」することである。送還すれば家族がばらばらになるような人や、長年日本でくらして出身国には生活基盤がもうない人、日本で生まれ育った子どもや若者たちに在留資格を出せばよい。

 ようするに帰るに帰れない人たち(「帰る」もなにも日本生まれの人すらいる)に送還一本やり排除一本やりで対応しようとするから、「送還忌避者」なるものが生じるのである。難民認定の適正化と在留特別許可の基準緩和によって、入管が「送還忌避者」と呼ぶ人の多くは正規の在留資格をえられるはずである。それは現行法の枠内でも十分にできることだ。入管がただしく方針をあらためられるよう、私たちが声をあげていくことが必要だと思う。


排外主義の共犯者、あるいは排外主義そのもの

 さて、入管庁のウェブサイトでは、この「ゼロプラン」がつくられた経緯をつぎのように説明している。

「昨今、ルールを守らない外国人に係る報道がなされるなど国民の間で不安が高まっている状況を受け……法務大臣より……ルールを守らない外国人を速やかに我が国から退去させるための対応策をまとめるよう指示があ」った、と。

 「ルールを守らない」のに日本人も外国人も関係ないはずだが、「ルールを守らない外国人」などと言ってあたかも外国人の問題であるかのように語るのは、まぎれもない人種差別である。人種差別にもとづく「報道」があるなら、その「報道」こそが問題であろう。ところが、入管庁は人種差別の問題を完全にスルーし、それどころか人種差別的な報道とこれによって高まる「国民の不安」を、自分たちの政策を正当化する根拠にしているのである。

 つまり、入管は恥知らずにも、いまはやりの排外主義、外国人差別の世論に便乗し、またこれを自分たちでもばらまくことで、「ゼロプラン」をすすめようとしている。私は反対に、ここに住むひとりひとりの人間が人権を尊重され、平等にあつかわれる社会をめざしたい。

『プラーツオ』(No.87 2025.8.1)

2025年8月31日

差別発言の場に居合わせたこと


 先日のこと。とある会食の場で差別発言が出るのに居合わせた。

 その人は、発言するときに口の前に人差し指を立てて、「ここだけの話なんだけど」とでも言いたげなしぐさをした。その直後に地域を差別する言葉がぽんと出てきた。

 会食の場には10人ぐらいいたのだが、その発言を聞いたのは私もふくめて近くにいた4人ぐらいだったと思う。

 差別発言やそれをした人については、ここであれこれ書くつもりはない。ただ、その発言がでたときの私たちの対応がどうだったかというと、反省しなければならない問題があるなと思い、いまこの文章を書いている。



 3人以上の人がいる場で差別発言が出たときにどうすべきか。最優先で考えなければならないのは、その人が差別発言をするのを続けさせないことである。

 その人が自身のやってしまった言動をふり返り、それが差別であることに気づき、「今後」同じような差別をしないようにしようと考えてくれれば、そりゃ一番いいのだろう。だから、まわりにいる人間は、その人がなぜそういう発言したのかを聞き、それが差別であるということをその人に納得させ、今後そうした発言をしないよう説得しようということを、ついつい試みてしまう。

 でも、差別発言が飛び出したときに、まわりの人間が最優先で対処すべきなのは、説得や議論などではなく、「いま」「この場で」おこなわれている差別発言をとにかくストップさせることである。

 ストップさせると一言でいっても、そのやり方にはいろいろと幅があると思う。こわい顔をして「だまれ」と言うものから、もう少しおだやかに話題を無害なものにずらすというやり方もあるだろう。差別発言した人と自分の力関係もあるので、つねに断固とした強い態度で「差別をやめて」と言えるわけではないだろうけれど、いずれにしろ一番の優先課題は「いま」「この場で」の差別発言をなんとかして止めるということだろうと思う。



 先日の会食では、まわりにいた4人ぐらいの人が、差別発言をした人と「議論」をしてしまった。今になって反省してみると、これはまちがいであった。

 私たちはその人に「あなたはなんでそう思ったの?」とか「どういう根拠があってそんなこと言えるの?」とか聞いてしまった。で、その質問に答えるたびに、その人はつぎつぎと新たな差別発言をくり出してくる。そのたびに「それは差別だ」と批判すれば、その人は自己正当化の理屈でまた新たに差別をぶちこんでくる。離れた席にいて当初このやり取りに参加していなかった人たちも、こちらが不穏な雰囲気をかもし出しているものだから、「なんの話してるんですか?」と会話にくわわってくる。こうして、差別発言のとびかう加害的な状況に、本来なら巻きこまなくてもよかった人まで巻きこんでしまった。

 もちろん、差別発言をするその人が全面的にわるいのだが、それをすぐに止めずに差別発言が出てくる状況を継続させてしまった責任は私たちまわりにいた者にもある。差別発言が出だした早い段階で発言を止める、あるいはその場の話題を別のものに転換させるということはできたはず。その人の考えを聞くにしても、その場から離れて別のところで話す(ゾーニング)という方法もあった。

 こうして後から考えてみると、とるべき対処というのはあきらかなのだけれど、その場ではまったく反対のまずい行動をしてしまったな、と。というわけで今後の教訓とします。


2025年8月24日

【韓ドラ感想】愛はビューティフル、人生はワンダフル


 最近みた韓国ドラマについて。


愛はビューティフル、人生はワンダフル | サンテレビ


 ドラマは立体的につくられていて、どの登場人物に注目するかによって、ちがった見え方がするのだろうけれども。私は、過去に加害行為をおこなった2人の人物に注目することで、興味深く見ることができた。

 ひとりは、裁判官のホン・ユラ。彼女は、自分の息子が老婆をひき逃げした証拠を隠滅し、その罪を他の少年におっかぶせる。老婆は亡くなり、息子は罪の意識にたえられずに自殺する。

 しかし、ホン・ユラは、息子の死が自殺によるものであることを知らない。ちょっとややこしい経緯があって、息子の死は川に落ちた少女を助けようとしておぼれた事故死として処理される。ホン・ユラはそこに疑念をいだくのだけれども、息子の死を「義死」として受け入れることにする。

 ここには自己欺瞞がある。彼女は、自身の行為が息子を自死へと追い込んだのではないかという可能性に当然ながら思いいたらずにはいられないのだが、息子の死を名誉の死だと思い込むことで、その可能性を打ち消そうとするわけである。

 このあたり、他国に対する侵略戦争にかりだして殺人と戦死を強(し)いた兵士を「英霊」などといって神格化する日本人の醜悪な姿のカリカチュアを見せられているように思えて、私にはなかなかきつかった。

 ドラマに登場するもうひとりの加害者は、ムン・ヘラン。彼女は高校時代に同級生(このドラマの主人公であるキム・チョンア)をいじめて、自殺未遂に追い込んだ人物である。9年たってムン・ヘランは被害者のキム・チョンアと期せずして再会してしまうが、自身の過去の加害を反省し、被害者に謝罪することができない。



 加害者が自分の罪に向き合ってつぐなおうとしないことで、被害者はもちろんのこと、加害者のまわりの人間も傷ついていくことになる。

 このドラマでは、2人の加害者が最終的には自分のおかした罪と向き合っていこうとするのだが、そこにいたる2人の葛藤・変化とともに、そのコミュニティの人間(家族)が加害者にどう関わっていくべきなのかという課題が提示されている。

 たとえば、裁判官ホン・ユラに対して、もうひとりの息子のク・ジュンフィ(自死した息子の兄にあたる)が寄りそいつつ、罪をつぐなうようにうながす。身内というのは、加害者にとって、自身の罪にふたをして向き合わない口実にもなる存在である(「自分の息子に自分の恥を背負わせたくない」などと言って)。しかし、ク・ジュンフィはそうやって母の共犯者に自身がなることをよしとせず、母が自身の罪を社会的に告白・公表し、被害者(息子のひき逃げの罪をきせた相手)に謝罪することを決意するのを、かたわらで待ち続け、ささえようとする。

 こういうふうに、加害者が時間をかけながらも変化し罪にむきあうことを、周囲の人間が支援していく過程がえがかれていて、娯楽作品としてそんなドラマがつくれるのはすごいなと感心してしまった。というか、現代の日本でこんな作品はだぶん作られることがないよね、というところにあらためて気づかされてしまった。社会全体で自国政府と自国民の加害の歴史にふたをしようと強迫的になっていることが、どれほど深刻にこの社会をこわしてしまっているのか、考えずにはいられない。



 というわけで、トータルな感想としては、とてもいいドラマを見せてもらいました、なのですけれど。ネガティブな感想も2つほど述べておきます。

 ひとつは、恋愛(男と女の)の要素が過剰で、それがドラマにおいてノイズに私には思えたこと。とくに主人公のキム・チョンアについて。彼女はホン・ユラの息子の自死に立ち会ってしまった人物で、それゆえにホン・ユラにとっても、またそのもうひとりの息子であるク・ジュンフィにとっても、のちに重要な役回りを果たすことになる。で、ドラマでは彼女をク・ジュンフィの恋人として登場させているのだけど、そこは恋愛的な要素ぬきの「友人」とかではダメだったわけ? という違和感はおぼえた。ドラマの中で彼女の果たした(果たしうる)役回りは、恋愛的な情緒に回収してしまうべきでない要素が多分にあるように思えたので。

 もうひとつは、高校生時代にそのキム・チョンアをいじめていたムン・ヘランをめぐって。自身の過去の加害行為に向き合おうとしない彼女に対して、その兄と父親がそれぞれビンタをするシーンがある。男性(父・兄)から女性(娘・妹)に対する暴力が、教育的指導的な目的でふるわれているからといって肯定的にえがかれてしまうのは、よくないと思った。