2025年3月4日

3・6ウィシュマさん追悼アクション


 名古屋入管で収容されていたウィシュマ・サンダマリさんが亡くなったのは、4年前、2021年でした。

 今年も命日にあたる3月6日には、各地でウィシュマさんを追悼する行動がとりくまれるようです。私は大阪でのスタンディングに参加してこようと思います。


◆3・6ウィシュマさん追悼アクション in 大阪◆

3月6日(木) 19:00~20:00

梅田ヨドバシカメラ前

スタンディングアクション


3・6ウィシュマさん
追悼アクションin大阪

 ちょうど1年前の3月に某所に投稿した文章が出てきたので、あらためてここにのせておきます。


#ウィシュマさんを忘れない

 3年前の3月6日、名古屋入管でウィシュマ・サンダマリさんが命を落としたのは、まぎれもなく拷問死でした。

 「拷問死」という言葉を使ったのは、比喩(まるで……のようだ)でもなければ、誇張でもありません。ウィシュマさんは、文字通りの意味で日本の入管による拷問で、命を奪われたのです。

 送還を拒否する人に対して、無期限収容・長期収容によって、自分から帰国するように追い込む。まさに、心身をいためつけることで相手の意思を変えようとすることであり、「拷問」と呼ぶべきです。しかし、日本政府は入管施設での収容が拷問であることを隠してすらいません。

 入管がウィシュマさんを殺害した当時の法務大臣上川陽子は、収容期間に上限をもうけるべきではないかと記者から問われ、「[上限をもうければ]収容を解かれることを期待しての送還忌避を誘発するおそれもあるということでありまして,適当ではない」と答えました。無期限収容・長期収容が帰国を強要するための手段であることを、あけすけに認めた発言です。奇しくも、ウィシュマさんの亡くなる前日、2021年3月5日の記者会見でのことです。

 ウィシュマさんの命は、早期に収容を解いていれば、そうでなくても点滴治療をしていれば、あるいは救急車を呼んでいれば、失われるはずがなかった。どれもぜんぜん難しいことではないですが、名古屋入管がそれをしなかったのは、収容を継続すること、ウィシュマさんに帰国を強要することを優先したからです。

 「救えなかった」のではない。119番に電話すれば、容易に救えたのだから。名古屋入管はウィシュマさんを「拷問のすえ殺した」のです。

 あきらかに国家犯罪ですが、名古屋地検は不起訴処分としてこの国家犯罪を不問にしました。

 しかし、だからといって、殺人者たちの責任を問い、入管施設でのこれ以上の拷問死をなくすことを、あきらめるわけにはいきません。ウィシュマさんが命を奪われたことを機に、また妹さんたちご遺族が真相解明・責任追及・再発防止のために声をあげておられる姿を目にして、自国の国家機関が日々おこなっている犯罪を許してはいけないと声をあげる仲間たちがふえていると思います。私もともに、取り組んでいきたいと思います。


 1年前に書いた文章ですが、やはり今年もおなじことを言わなければなりません。

 刑事事件としては、23年9月に名古屋地検が「嫌疑なし」(「証拠不十分」ですらなく!)ということで不起訴処分で決着させました。名古屋地裁での民事の裁判(遺族が訴えた国家賠償請求訴訟)では、国側はいまだウィシュマさんが亡くなるまでを記録した監視カメラ映像(295時間分)の開示をこばんでいます。国・政府をあげて、自分たちの責任が問われうる証拠を隠蔽し、身内でかばいあって、事件の真相究明を妨害しつづけているわけです。

 そのいっぽうで、当時の上川法務大臣が「収容を解かれることを期待しての送還忌避を誘発」しないためだと公言した無期限収容による帰国強要=拷問は、いまも各地の入管施設で続けられています。

 ウィシュマさんが日本国家によって拷問死させられた事件については、国の責任を追及することがいまだ欠かせない課題としてある。国がその責任から目をそむけ、逃げまわっているため、民事訴訟をつうじて遺族がその最前線に立たざるをえない状況になっています。市民として、国の責任を問う声をあげなければならないということだと思います。


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 3月6日の各地でのアクションの情報をのせておきます。

【名古屋】

日時:2025年3月6日(木)10:30~11:30

場所:名古屋入管前

内容:名古屋入管へ真相究明・再発防止を求める申入れ、スタンディングアクション

主催:START~外国人労働者・難民と共に歩む会~/名古屋入管死亡事件弁護団


【愛知県愛西市】

日時:2025年3月6日(木)

忘れなの鐘つき

14:15~ 有志の僧侶によるお勤め(真宗大谷派)

14:45~ 琴の奉納演奏(約10分)

15:00~ 支援者の報告など

15:25  鐘撞き(ウィシュマさん死亡時刻)3回

のち黙祷

ご遺族の挨拶

場所:明通寺
※下に掲載したチラシ画像参照


【東京】

日時:2025年3月6日(木)13時~14時

場所:東京出入国在留管理局前

内容:入管への申入れ、スタンディングアクション

主催:BOND~外国人労働者・難民と共に歩む会~


ウィシュマさん追悼アクション
2025年開催マップ

※画像では名古屋のスタンディングアクションが
「10時~11時」と記載されていますが、
運営から10:30~11:30に変更する
とのアナウンスがありました。


「3・6 忘れなの鐘つき」チラシ



 当日は、ハッシュタグデモもおこなわれます。


3.6ウィシュマさん追悼
ハッシュタグデモ


2025年2月25日

倒れたらみんなの迷惑になるから

 

 運転免許証の更新のための講習を受けてきた。

 講習が始まる前に、講師の人(警察官?)が「もし講習中に具合が悪くなったら、手を挙げて教えてください」という内容のことを言った。それが、体調がわるい人はムリしないでくださいねという気づかいからの言葉であればいいのだけど、その講師の言い方はひどく意地のわるいものだったので、びっくりした。

 記憶をたよりに再現してみると、だいたいつぎのような言い方だった。

「先月、講習中に倒れた人がいました。倒れた人が出てしまうと、救急車を呼ばなければならないことになっています。そうなると、講習をいったん止めて、ほかの受講生のみなさんには他の教室に移動してもらって続きの講習を受けてもらうということになります。講習が終わるのが予定の時間よりもだいぶ遅くなります。そういうわけで、倒れる前に、具合がわるいということをつたえてください。」

 なんでこんな言い方するのだろう? 「倒れるまでムリしないで、体調不良は早めに言って休んでくださいね」ぐらいに言うのをとどめておけば、受講者の体調を案じて言ってくれてるのだなとこちらも受け取るのだけど。なんでわざわざ、他の受講者の迷惑になるから、というようなことを言うのか。この講師が言っているのは、体調のわるい人は、他の人たちをわずらわせないよう、自分で退室できるうちに退室してくれ、ということでしょ。ひどいもんだ。

 私はこの講師の人の発言をとても不愉快に感じたのだけれど、どうしてそう感じたのかをいまになって考えてみるに、この人が人間の社会性みたいなものを低くみつもっているように思えるからだ。

 この人は私たちに対して、いわば「講習中に倒れる人が出たら、あなたたちにとって迷惑でしょう?」「迷惑に思うのが当たり前でしょう?」と同意を求めているのである。もっといえば、私たちにそれを「迷惑と思え!」というメッセージを向けていると言ってよいかもしれない。

 いや、べつに迷惑と思わないし。倒れた人がいたら、講習なんか止めてその人を助けるのがあたりまえでしょう?

 まあ、そう言ってるのは、キレイゴトではある。私だって、正直に言えば迷惑だと感じることはあるかもしれない。でも、それを口に出して言ったら下品というものである。

 さきの講師の言い方が不愉快だったのは、その人が下品な「本音」を当然の前提みたいにして、私たちに語りかけてきたからだと思う。あんまり私らを低くみつもらないでほしい。病人を迷惑者あつかいなんてしないよ。

 警察官らしい語り方といえばそうかもしれない。外から権力的な介入をしなくても私たちがときとして利他的にもふるまったりしながらたがいになんとかやっていけるのだとしたら、警察なんかいらねー、ということになるからね。

 権力的にふるまうということが習い性になってるひと(警官は職業的にそうしたふるまいを強いられている面があるだろう)は、人間の社会性、自治の能力を低くみつもりたくなるのだろう。きみら、倒れてる人をみたら迷惑だと思うでしょ、と。そうみなしたいのだ。力をふるって他者や集団をコントロールしようということが習い性になってしまえば(もちろん警察官にかぎった話ではない)、倒れてるひとを迷惑とみなさず、仕事の手をとめて当然のように助ける人間は脅威にうつるのではないか。「ほっといたら(権力的な介入なしには)、ただちに人間どうし反目し合い、対立して、社会が成り立たなくなる」という人間観・社会観がかれらのふるまいを正当化するために欠かせないのだから。


2025年2月14日

火のないところに偏見の煙を立てる


留学目的で入国し在留期間切れたまま滞在…別事件の関連で身分証提示で発覚、入管難民法違反の疑いで28歳スリランカ人の男を逮捕|HBC北海道放送(2025年02月13日(木) 19時29分 更新)


 警察には警察のおもわくがあってこの件をマスコミにリークしたのだろう。しかし、それを報道するかどうか、あるいはどう報道するのかということは、マスコミが判断することだ。北海道放送はどこにわざわざ報道すべき意義をみいだして、これを報じたのだろうか。

 記事を読んだところで、なにがどう問題なのか、私にはさっぱりわからない。問題にならないことを、あたかも問題であるかのように報じることで、偏見をばらまこうとする。そういう記事にしか、私にはみえない。

 記事を抜粋してみよう。なんでこんなものがニュースになるのか。こんなものがクソまじめなトーンでテレビで報じられているということが、つめたく狂った社会のありさまを示しているように思える。


 警察によりますと、13日、警察が別の事件に関連して男に身分証明書の提示を求めたところ、在留期間が切れていたことが発覚し、男をその場で逮捕しました。

 男は2018年4月に留学目的で、1年3か月の在留資格を得て日本に入国し、在留期間の2019年7月以降の足取りはわかっていませんが、去年7月17日までは「特定活動」の在留資格があったということです。

 取り調べに対し、スリランカ人の28歳の無職の男は、容疑を認めているということです。

 警察は、在留期間が切れた後の男の生活実態などを調べています。


 「在留期間の2019年7月以降の足取りはわかっていませんが」などと書いているが、警察であれ、これを報じている放送局であれ、そんなのおまえの知ったことかという話である。その間、どこで何をしていたかなんて、この逮捕されたかたの勝手なのであって。

 「特定活動」の在留資格が去年の7月まであったということは、このかたは入管局をおとずれて当初の「留学」から「特定活動」への在留資格変更申請をし、入管局もこれを許可したということだ。ところが、記事は、入管的な言い方をすれば「適法に在留していた」この期間についてすら、「足取りはわかっていませんが」などと書いている。外国人はその「足取り」をつかんでおかないとどんな悪いことをしているかわかったものではない、だから徹底的な監視・管理が必要なのだ、という前提がないと、こういう書き方にはならない。

 もちろん、このニュース原稿を書いた人は、警察が発表した内容を書き写しただけなのだろう。でも、そうして書き写した文章は、書き写した本人の自覚はなくても、「日本国民」ではない住民に対してこの国の治安当局がむけている視線をおぞましいほど正確に反映したものになっている。

 ニュースによると、逮捕された人は、2018年4月から6年あまりのあいだ続いていた在留資格が2024年7月に切れ、その後、7か月間ほどオーバーステイになっていたということのようだ。そりゃ入管法違反ということにはなるかもだけれど、オーバーステイなんてそれ自体はなにか悪さしたということではない。自動車の無免許運転とかだったら他人の生命を危険にさらすといえることもあるだろうけど、在留する、つまり「ここにいる」ということに国家機関の「許可」をえてなかったからといってなんだと言うのか。

 「警察は、在留期間が切れた後の男の生活実態などを調べています」なんて書かれちゃって、あんまりではないか。クソポリはそりゃ「調べ」るでしょうよ、入管体制・外国人管理制度というのはそういうクソなのであるから。でも、報道にたずさわる人は、「在留期間が切れた後の男」などと呼ばれる人間であれば、「生活実態」を調べられるのも当然なのだというような前提にたった、おぞましい文章を書かないでくれ。監視してないとなにか悪さをするだろう、悪さをするはずだという視線を「外国人」にあからさまにむけた文章を書いてることを自覚して、深く恥じ入ってくれ。相手もあんたと同じ人間だぞ。




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2025年2月2日

自由はなにより大切だ


 少し前のこと。監禁された人が解放されるためのちょっとしたお手伝いをした。その人が拘束を解かれるのに立ち会って、ほんとによかったなあと心の底から思った。

 おなじような形で人が解放されるのには、いく度も立ち会ってきたのだけれど、多くの人が言うのは、「つかまっているときのしんどさは、経験した人にしかわからない」ということ。私は「経験した人」ではないので、そのしんどさは、想像はするけれど、やはりわからないのだと思う。

 それでも、何か月かぶりで、あるいは何年かぶりに監禁を解かれて外の空気を吸う人のよろこぶ様子を目にすると、納得できるような理由もなく閉じこめられ、自由をうばわれつづける経験が、どれほどむごたらしいことなのか、いくらかわかるような気がする。解放されたその人の表情や声色、全身をのばすしぐさ、むかえる人を抱擁する姿をとおして。

 むごたらしい経験を強いられるのは、拘束された本人だけではない。通話アプリをつうじて、家族や友人たちが喜びと安堵の表情をみせ、私たちにも感謝の言葉を伝えてくださるのをみて、そのことを思い知らされた。息子・夫・弟が罪もないのに遠くの地で拘束されているのを知りながら、どれほど心配で落ち着かない気持ちで日々をすごしていたことか、と。

 人間をせまい区画に閉じこめたり、あるいは勝手な境界をひいて移動をさまたげたりして、自由をうばうこと。これは端的に言って悪である。当然と言えば当然で、あたりまえすぎることだ。けれど、急いでそのことをちゃんと言葉にしておかなければならない。いまそう思ってこの文章を書いている。

 不当な制約をとっぱらおうとすること、監禁をゆるさないこと、自由を最大限に擁護し、それをさまたげようとする力の行使にあらがうこと。それは、(留保なくそう言えるかわからないけれど)正しいことだ。私はそう確信している。

 でも、そういま確信していることを、私はあしたになったらわすれているかもしれない。だから、こうしていま書いている。

 なんでこんな大事な(と、いま思っている)ことをわすれてしまうかといえば、監禁を解かれて出てきた外の社会もまた、地獄のようなところだったりもするからだ。

 とくに、市民権から排除され、あるいは否定的なスティグマを貼りつけられた者にとって、拘束を解かれた外の社会は、生きていくための条件や可能性を極限までせばめられた場所であったりする。そういうわけで、拘束されていた人がそのひとつの拘束をなんとか脱して、いくらか自由をえたことが、ほんとによかったんだろうかなどと、ばかげた(といまは思える)疑念が生じてきたりするのだ。(人からもいろいろ言われるしね。)

 だから、わすれないうちにこうして書いておこう。自由はなにより大切なのだ、と。


2025年1月19日

「警備」と称するデモへの妨害

 

 前回記事の末尾に案内したデモに参加してきた。

 いつものことながら、「警備」と称してやって来る警官たちがうざかった。

 まず、中之島公園での出発のとき。警官が時計をみて、「出発時間になりました。出発してください」と言って、ピーっと笛をならす。

 どさくさにまぎれて、なんでおまえが指示してんの? 「ピーっ」じゃねえよ。

 デモが始まると、最後尾につけた警察車両が拡声器から通行人に語りかける。「ただいまデモ行進がおこなわれています。青信号ですが、デモ隊が通過するまでお待ちください」。

 制服の警官たちは、横断歩道のまえで足止めされた歩行者たちに頭をさげて、「ご協力ありがとうございます。デモが通るまでお待ちください」などと声をかけてまわってもいる。

 いやはや、めちゃくちゃなことを言っている。交差点で信号が赤に変わったあともデモ行進を渡らせ、そのために一般の歩行者や車は信号が青になっているのに足止めされるという状況は、警察が自分たちの「警備」の都合で作り出しているものにすぎない。

 デモをやってるわれわれからしたら、赤信号のたびに立ち止まって信号がかわるのを待つということでも、かまわないわけ。その間、一般の歩行者が道路を横断したり、車両が通ったりするのにむかってアピールすればよいのだから。

 というか、デモは自由な表現なので、それぞれの参加者が歩きたいときに歩き、立ち止まりたければ立ち止まる、というのが本来のあり方である。しかし、警察は、デモをなるべく短時間で終わらせたい(街頭にデモを滞留させたくない)といった勝手なおもわくから、信号が赤にかわったあともデモ隊を通行させたり、場合によってはデモ隊が交差点を渡りきるまで信号機を操作して青のままにしたりする。その結果、一般の歩行者や車が足止めをくらったりするのだが、それはくり返すけど警察の「警備」とやらの都合でそうなっているのである。急いでるのに横断できないのは、デモではなく、警察のせいなのだ。

 ところが、警察は一般の歩行者や車にむかって「デモ隊が通るのでご協力をおねがいします」などと頭を下げてまわるパフォーマンスをして、まるであたかもデモが一般の通行人のジャマをし迷惑をかけているかのような印象づけをしているのである。

 急いでつけくわえておくと、デモが「一般」の通行人に迷惑をかけるのがわるいなどと言うつもりはない。デモは自由な表現なので、私たち(あなたたち)は「一般」の通行人や「普通」の人に迷惑になる表現をとりたい、あるいはとるべきだと考えれば、迷惑な表現をとるだろうし、とればよい。しかし、それはデモをおこなうわれわれ(あなた)が選択することであって、警察が決めることではない。なのに警察は勝手に通行人に迷惑が大きい「警備」のやり方を勝手に選択したうえで、「みなさんに迷惑をかけてるのはデモのせいですよ」などとほざいてまわってるのだ。ふざけんな、という話である。


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 入管問題関係でおなじ主催のデモは継続的に参加しているのだが、今回の大阪府警の「警備」はちょっと特異だと感じた。

 いままでのデモでも、警察はデモの最後尾につけた車両から「デモ行進が通ります。ご協力お願いします」などと一般の通行人に呼びかけるアナウンスをしていた。それをわりと大きな音量でやられて、デモのコールやスピーチ聞こえなくなるということがたびたびあった。露骨なデモ妨害なので、そのたびに私は仲間といっしょにその場で警官たちに抗議するということをしてきた。

 今日のデモでは、それほど大きな音量でのアナウンスはなかったので、内心むかつきながら静観してしまったのだけど、やっぱりこうして今むかつきながらブログなど書くはめになっているので、ちゃんとその場で抗議しておくべきだった。後悔している。

 今回の警察の車両からのアナウンスは、音量こそおさえぎみだったにせよ、歩きながら「警備」にあたる警官たちは、足止めされた通行人への声がけをひんぱんにおこなっているように感じた。「一般の」通行人にとってデモ参加者が迷惑になっているという状況をつくって、両者を分離・隔離しようということを組織としていままで以上に自覚的・戦略的にやってきているのかもしれない。

 そういえば、デモがおわったあとに、記者のひとから「今日はいつもよりも警察の当たりが厳しかったですね」と声をかけられた。そのひとはデモ開始前に警官から「プレスのかたですか?」とたずねられ、そうだと答えると、「プレスはデモの参加者ではないので、赤信号でデモ隊を通すときも信号を守って止まってください」と言われたそうだ。

 なんとふざけた言い分であることか。なんで「デモの参加者」かどうかを、おまえら警官が決められると思っているのか。記者が取材しながらデモに参加するということだってあるし、あるいは記者になったり参加者になったりとスイッチをきりかえながら歩くことだってあるだろう。

 でも、警察がどういう考えで「警備」とやらをやってるのかがよくわかる発言ではある。デモ参加者はあくまでもデモ参加者。「一般の」通行人はあくまでも「一般の」人。通行人がデモに合流して参加することや、デモ参加者がデモから出たり入ったりすることを規制しなければならない、規制したい。それが警察の考えていることだ。

 次回からはデモの自由へのこうした妨害にたいしては、ちゃんと抗議していきたいと思いました。反省。


2025年1月17日

「だれもが救われない」もキツイが「私だけ救われない」もキツイ


 何度かこのブログでもとりあげてきましたが、昨年6月に改定入管法が施行され、監理措置制度というものがスタートしました。この新制度のもとで起きつつある重大な問題については、以下の記事などに書きましたので、ここではくり返しません。


支援者を人権侵害の共犯者にする 監理措置制度のやばさ(2024年11月10日)


 今回の記事では、この新しい制度の問題の本質ではないけれど、収容されている人への心理的影響として、気になっている点をちょっと書きます。

 新しい入管法のもとで、収容を解除するための制度が2つ併存することになりました。新たに創設された「監理措置」と、従来からある「仮放免」の2つです。

 法改定をへて仮放免は制度として残りましたが、入管庁は、新たな制度である監理措置を、被収容者の収容を解除するための原則的な手段と位置づけています。で、上のリンク先の記事でもふれましたが、入管の職員は仮放免は重病などの被収容者に例外的に適用すると案内しています。

 私が被収容者との面会活動をしている大阪入管では、監理措置のほうは申請すればほとんど許可されているという状況です。上にリンクを貼った記事では、この監理措置という制度が、これによって収容を解かれれる人(被監理者)にとっても、その監視役をになわされる民間人(監理人)にとっても、また入管法改悪前から仮放免されている人たちにとっても、問題の大きい制度だということを述べました。しかし、入管にとってみれば、この新しい措置を早く定着させたいというような思惑があるのでしょうか。大阪入管では、家族などを「監理人」に立てて監理措置を申請した被収容者は、ほぼほぼすべて許可されて収容を解かれています。新法施行後6か月ぐらいたった現在、すくなくとも20名以上の被収容者が監理措置によって収容を解除されているはずです。

 ところが、「監理人」の引き受け手がみつからない被収容者は、監理措置を申請できません。とくに、入国しようとして空港で拘束された難民申請者は、日本に人脈などまったくないという人も当然多いわけです。こういった被収容者たちについては、従来は、支援者や弁護士が身元保証人を引き受けて、仮放免を申請して収容を解かれるということが多くありました。しかし、さきにみたように仮放免は重病などの場合にのみ例外的に適用するという方針のもとでは、支援者や弁護士を保証人に申請しても、許可される見込みはない。

 というわけで、入管が仮放免を重病者のみに適用するという方針をあらためないかぎり、こうした人たちは収容を解かれる可能性はない、という状況に置かれるのです。

 身体拘束から解放される見通しがないということ自体、本人にとって絶望的なものでしょう。さらにこれにくわえ、おなじ施設に収容されている人たちで監理措置を申請した人はつぎつぎと出所していくという状況は、この絶望感をますます深めているようにみえます。まわりの人たちは、収容期間が3か月とか4か月ぐらいでみんな出ていくのに、自分はここに残され外に出られない、というわけです。

 長期収容ということであれば、2018~19年ごろ(新型コロナウイルスの感染拡大問題で、全国の入管施設が仮放免措置により収容人数を減らすようになった2020年以前)のほうが、現在よりもひどかったとは言えます。このときは、仮放免許可がほとんどまったくと言ってよいほど出なかった。3年をこえるようなすさまじい長期収容が常態化し、4年超という人もめずらしくなかった。そうしたなか、命がけでのハンストや自傷行為があいついだということは、当時よく報道もされていたとおりです*1

 現在は、6か月をこえるような長期収容は少なくなってはいます。しかし、入管が仮放免についていまの方針を続ければ、監理措置を申請しない/できない人の収容はまちがいなく長期化していきます。そして、監理措置を申請した人が半年たたずに解放されていくいっぽうで、収容施設に取り残されてしまう人は自身の不遇さをいっそう痛切に感じずにはいられないでしょう。かつての「だれもが解放されない」という状況における絶望感もすさまじかったはずですが、「解放される人もまわりにいるのに、自分だけ取り残されてしまっている」という不遇の感覚が心身をむしばむ影響は、けっして軽視できないほど深刻です。

 私が危惧するのは、2019年ごろとは状況にちがいがあるとはいえ、現在も当時におとらず被収容者の自死や自傷行為を引き起こしかねない危険性が高まりつつあると感じられることです。収容されている人と面会しながら、ここ数か月で私が強くいだきつつある危機感です。人間を監禁しその自由を奪うということが、どれほどその人の心身に対し破壊的にはたらくのか、軽く考えてはなりません。

 その危機感を共有したいという思いもあっていまこの文章を書いているのですが、今週末(1月19日(日))には、「改悪入管法撤廃!」などをテーマに、全国各地でデモやスタンディングなどのアクションがおこなわれます。私は、大阪でのアクションに参加して、監理措置への反対などの声をともにあげようと思います。


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1.19 全国一斉アクション

改悪入管法撤廃!

人命、人権よりも送還優先の

「送還一本やり方針」を許さない!


日時:1月19日(日曜)
場所:仙台、東京、名古屋、大阪、岡山、広島、高知、福岡など
※各地の開催情報は、
ご確認ください。

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大阪は、
集合場所:中之島公園女神像前
集会:13:00~
デモ行進:14:00出発
(デモのゴールは西梅田公園)














*1: 大村入管センターでは、通算3年半にもおよぶ超長期にわたり収容されていた人が、ハンストのすえ餓死するという事件が、2019年6月に起こっている。入管がこの人のハンストを放置して見殺しにしたこと、また、事件後も入管が反省せずに送還強硬方針を維持し、2021年3月に名古屋入管でのウィシュマさん死亡事件を引き起こしたことについては、以下の記事を参照してください。 

2025年1月3日

天皇制国家はこわいしやばい


 トイレに落書きしたぐらいで、逮捕されて報道されるなどということは、ふつうはありえない。


皇居内トイレに落書き疑い 一般参賀中、男逮捕―皇宮警察:時事ドットコム(2025年01月02日16時13分)


 なぜ警察が逮捕したうえにわざわざマスコミに情報を流して報道させるのかといえば、落書きしたのが皇居内のトイレだからだ。わかりきったことだ。

 公園のトイレや堤防の壁などに落書きをして同じように逮捕され報道されることがあるかといえば、あまり考えられない。たしかに建物などの所有者や管理者にとって落書き被害が深刻なほどになれば、警察に被害届を出すことはあるだろう。その結果、落書きした人が罰せられるということはありうる。この場合、罰せられたり逮捕されたりするのは、べつに政治的な理由からではない。

 でも、皇居内トイレの件は、そういうのとはあきらかに違う。皇居内でやったから、警察は逮捕したのだし、また警察から情報提供を受けたマスコミもいちいち記事にしたのだろう。いわば「不敬罪」が生きているということ。「不敬」とみなされることをしたら、つかまるんだぞ! 警察はそういう警告として逮捕の事実をマスコミに流し、マスコミもほいほいとこれを記事にする。

 この件は、時事通信のほか、NHK、フジテレビ、日本テレビなどが報道しているのをみたが、逮捕された人がどうなったのか、その後の経過はおそらく報じられないだろう。かくして、私たちの記憶には、皇居のトイレにいたずらをした人がいて、その逮捕されたという事実だけがなんとなく残る。

 天皇や皇族どもは、アイドルのような存在とも類比されるけれど、両者のあいだには根本的なちがいもある。アイドルの人気は(私はよくわかっていないかもだけど)、暴力や脅迫によってささえられているわけではない(ですよね?)。でも、天皇や皇族は、一部の人民たちから敬愛のような感情をいだかれているとしても、そこには暴力や脅迫が介在している。

 「不敬」とみなされる行為に対しては、たんに「不敬」だという理由によって(ほかに思い当たるような理由はない)身体を拘束されたりする。私たちは今回のような報道をとおして、タブーが侵犯され、その報いとして侵犯したものが罰せられるという劇を見させられている。こうして、私たちはそこにタブーがあることを学習させられる。

 客観的な事実として、天皇・皇族の地位と権威が、国家の暴力と右翼のテロによって支えられているのは、いちいち例をあげるまでもなくあきらかだ。連中は、自分たちにはなんの権力もありません、我が国と世界の人々の幸せを祈ることがわたしにできることのすべてです、みたいな顔している。しかし、連中が主観的にどう思おうが、「不敬」なやつらをかわりにとっちめてくれる警察組織や右翼たちの汚れ仕事のおかげで天皇や皇族としてのほほんと生きていけているのである。そうじゃなきゃあんなのとっくに打倒されてるよ。

 天皇らに敬愛の感情をいだく人がおおぜいいるのだとしても、その「敬愛」は、「不敬」をはたらけば罰してくるような相手に対する感情である。それを「敬愛」と思うのもその人たちの勝手だけれど、暴力と脅迫に屈しているのを、まるで自発的に相手に従っているかのように合理化しているにすぎない。

 というわけで、天皇や皇族がいる国はろくなものじゃないですね。とはいえ、国家の暴力機構にはひとりで立ち向かえるものでもない。心のもちようでどうにかなるものでもない。こわいものはこわい。こわがってる自分(たち)とむきあいながら、ゆるりとおたがいつながっていけたらよいなと思います(正月気分がまだぬけないので、新年の抱負っぽくまとめてみました)。


2025年1月1日

2025/1/3 新年のあいさつ行動@大阪入管前


あけましておめでとうございます。

新年早々ですが、大阪入管前にて抗議と収容されている人たちへの声かけをおこないます。


日時:2025年1月3日(金)
場所:大阪出入国在留管理局(→地図)の前

大阪入管の庁舎。2020年2月12日撮影。


年末年始は、入管局の庁舎が閉まり、収容された人は外部の人との面会ができません。

例年より長い9日間(12/28(土)~1/5(日))、入管は休みです。

というわけで、収容された人(と年末年始も勤務している看守職員のみなさん)に拡声器を使って新年のあいさつを届けにいきましょう。

よかったら参加してください。


年末年始の開庁日・閉庁日を示したカレンダー




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