2026年9月14日

坂中英徳を読む 元入管幹部の書いた移民政策論


 思うところがあって、「ミスター入管」こと坂中英徳の移民政策論を読んでいる。

 坂中は、1970年の法務省入省以来、2005年に退官するまで入管で官僚をつとめた人物である(退官時のポストは東京入管局長)。退官直後から、著作などをとおして「日本型移民国家」を提唱。1000万人の移民を50年かけて受け入れるべきだという主張を展開してきた。

 日本では、「外国人労働者」の受け入れ拡大を求める声は、1980年代以来、産業界からおそらくつねにあがってきたわけだけれど、「移民」を受け入れるべきだという主張を、それにともなう国のあり方の変革もふくめて正面から論じた議論というのは、ほとんどないのではないだろうか。積極的な移民受け入れ論を、しかも元入管官僚という立場の人が展開していたのは、かなり特異だと言えるのではないか。

 当然ながらその移民受け入れ論は、「国益」という観点からのものである。坂中の議論は、移住してくる人たちの人権の課題については、まったく無頓着というわけではないけれど、あくまで「国益」の追求が第一。それと齟齬(そご)をきたさない限りにおいて人権も尊重するに越したことはないよね、という程度のものだ。

 というわけなので、左翼のはしくれの私からすれば、その主張は根本的にあいいれないものだ。そもそも、出入国管理や在留管理なんて本質的に万国のプロレタリアに敵対するものでしかないのであって、「国益」とか言われても、そんなのわれわれ人民からしたら知ったこっちゃないのである。

 ところが、である。昨今の情勢のなかで読んでみると、そんな坂中の議論でも、かなり穏当なものにみえてしまう。というのも、2023年の改悪入管法*1の成立、翌24年6月の同法施行を機に、日本政府はそれまで以上に極端な排外主義的な政策をつぎつぎと打ち出しているからである*2

 日本においても国境をまたぐ人の移動があたりまえになって久しく、そのうちの一定数が日本を定住・永住の地に選ぶのはさけられるはずもない状況のなかで、「外国人」の定住・永住を徹底的に忌避しようとするかのような、およそ正気とは思えない政策が政権によってつぎつぎと打ち出されている。

 こんな現時点からみると、元入管官僚による10年ちょっと前の議論がしごくまっとうなものにみえてきてしまう。坂中の議論においては、日本の国・社会にとっての必要から移民に来てもらうのだから、その人たちに対して日本の国・社会は責任を負うのだという当然のことが、一応は前提になっているからだ。

 坂中はいまの現状をどう見ているだろうか。そんなことが気になって、インターネットで調べてみて、2023年の10月に亡くなられていることを知った。残念ながらいまの情勢を坂中がどうみているのか、聞くことはできない。

 というわけで、今回のこの記事では、坂中の主張の理屈にしたがって現在の「外国人」政策をみた場合、これをどう評価できるだろうかということを、思考実験的に書いてみたい。

 さっき書いたように、私からすれば、坂中の議論には受け入れられないところが多々ある。というか、読んでて数行ごとに文句をつけたくなるほどだ。けれども、今回はそこは極力がまんして、坂中をとおして、いまの情勢を考えるということを、やってみたい。



「国益」のために移民を受け入れる

 前置きが長くなったが、坂中英徳の日本型移民国家論をみていく。

 おもに引用は、『増補版 日本型移民国家への道』(2011年初版、2013年増補版、東信堂)から。『日本型移民国家の創造』(2016年、東信堂)も参照している。

 坂中は、坂中自身の回想によれば「行政官時代は移民規制の急先鋒だった」という*3。それは、日本社会の人口収容力がすでに限界状況にあること、経済成長が鈍化していくなか雇用情勢が厳しくなることといった見通しにもとづくものだった。

 ところが、「退官後はその立場をひるがえし、人口秩序を正し、日本の存続をはかる立場から、『移民50年間1000万人構想』を提案している」*4

 「移民規制の急先鋒」だった坂中は、なぜ積極的な移民受け入れ論者へと転向したのか? それは日本の人口動態についての見通しが変更をせまられたからである。

 坂中は、日本が深刻な人口減少問題に直面しており、出生率の向上に取り組むだけでこの危機に対処することはできないという見通しを述べたうえで、つぎのように言う。


 昨今、政治が改革を先送りし、人口危機の局面を打開できないと日本は沈没するという、きわめて悲観的な声が国の内外から出ている。私は移民国家の創建こそ究極の日本改革であって難局を一挙に収拾する解決策だと考える。

 実際、今すぐ抜本的対策を講じなければ、若年人口の激減に高齢人口の激増が重なる人口崩壊によって、生産・消費・税収・財政・年金・社会保障・国民生活などすべてが破綻するのは避けられない。衝撃の日本終焉をまぬかれる唯一の効果的対策は、新しい国民の増加につながる移民政策の導入である。*5


 みてのとおり、坂中の移民受け入れ論は、あくまでも「国益」という観点からのものである。日本の国・社会において「生産・消費・税収・財政・年金・社会保障・国民生活など」の破綻がこのままでは避けられない状況にあり、その破綻をまぬかれるために移民を導入してこれを活用しようというわけである。移民は「国益」のための手段として考えられているにすぎない。

 ただ、あとでみるように、日本の「生産・消費・税収・財政・年金・社会保障・国民生活など」を支えるために来てもらうのだという移民受け入れの目的意識が議論のなかできちんと明確にされているので、そうして日本を支えてくれる移民にはそれ相応の待遇をあたえなければならないということは、坂中の議論では当然の前提として述べられていくことになる。

 この点は、昨今の状況を知ってる者からみれば、とてもまっとうで、まぶしくさえ感じてしまうところだ。こんな当たり前のことを言われて、喜んでちゃダメなんですけど。

 著書などで主張が展開される場合、議論全体の体系性や論理的な一貫性をあまりおろそかにできないので、議論がまっとうなものになりやすいということはあるのかもしれない。ある程度の分量のある文章なんかで主張を述べる場合、たがいに矛盾したことなどあまりムチャクチャなことは言いにくい、というか。

 一方、SNS隆盛の現代では、短い言葉でそれらしいことを言えば、なんとなく説得力が出てしまうことがあるので、よくよく考えればおかしな主張が広い支持をうけてしまう、ということも起きやすいようにみえる。「移民」の存在が社会保障や税制の大きな負担になっている(なりうる)かのような、実際とは正反対と言ってよいイメージがばらまかれ、そうしたイメージを利用しながら「外国人」の定住・永住に強力な制限をかけていこうという排外主義的な政策が政府によってすすめられているのが現在の状況である。

 むしろ、外国からの移住者が安心して定住・永住を目指せる環境をととのえていくことは、税制や社会保障の支え手をぶあつくしていくことになるはずなのだが。そういう「国益」の観点からの合理性を考えようとする右派は絶滅しかけているようで、かわりに人権派的な論者とかへたすると左派までもが「もう少し冷静に国益の観点から考えましょう」的なことを(「国益」という語はさすがに出さないまでも)言い出してる状況が、たまらなく気色わるいです。こういうところから左派が転向していっちゃうのよね、みたいな話もしたくなるけど、今回はがまんします。



「外国人労働者」と「移民」の区別

 さて、坂中の移民受け入れ論では、なんと「外国人を人間として迎える」ことが大事だと説かれる!

 いや、こんなことで感心してては坂中に対してもさすがに失礼すぎるんじゃないかと思われるかもしれない。でも、入管にかぎらず「外国人」政策にかかわるこの国の官僚の多くは、「外国人材」とかいう言葉を作って平気で公文書にのっけたりする連中ですからね。木材や石材じゃあるまいし。「高度外国人材」とか。やつら、「外国人」を人間あつかいするつもりなんかまるでないのである。

 そういうわけで、その入管の幹部だった人物が「外国人を人間として迎える」べきだみたいなことを書いてるのを読むと、ちょっとびっくりしてしまう(赤字での強調は引用者=私によるものです。以下ぜんぶおなじ)。


 外国人技能実習生を含む「外国人労働者」の受け入れには反対である。なぜなら外国人を人間として迎える外国人政策ではないからだ。外国人労働者というと、産業界が労働力不足を補う目的で入れるもの、期間限定の低賃金労働者として酷使するもの、必要な時には入れて必要なくなれば追い返すものという性格が強い。本質的に日本人と共生する存在でも将来の国民でもないから、およそ人口減の国が求める人ではない。*6


 坂中は、「外国人労働者」と「移民」を区別したうえで、前者ではなく後者の受け入れを主張している。「外国人労働者」の受け入れは、「人間として迎える」ことにならない、だから反対だというわけである。

 坂中は1990年代以降に受け入れた日系ブラジル人について、「移民」であると明確に規定している。そりゃ「移民」でしょ、あたりまえじゃん、とも言いたくなる。でも、坂中が「外国人労働者」ではなく「移民」という言葉で呼ぶのは、つまり、この人たちを「人間」としてあつかうべきだということを語っているのである。

 リーマンショックのさいに、自動車産業が日系ブラジル人を大量に解雇したことについて、坂中はつぎのように述べている。


 建前上は雇用期限・派遣期限の到来とともに更新をしなかっただけだと言っても、実質的には雇用形態を奇禍として切り捨てたと批判されてもいたしかたないだろう。ここでは非正規雇用自体の問題はあえて問わないにしても、そもそも先祖の故郷へ期待に胸を躍らせて帰ってきた日系ブラジル人がそういう不安定な雇用形態の下に置かれていたことが問題だ。*7


 「必要な時には入れて必要なくなれば追い返すもの」として移民をあつかってはならない。それは「人間として迎える」ことではないからだ。こうした姿勢は、坂中の移民政策論において一貫してはいる。

 ところで、リーマンショックから10年あまり後のこと。2018年の入管法改定により、「特定技能」の在留資格が創設され、外国人労働者受け入れのさらなる拡大への道が開かれた。その際、当時の安倍首相はこう発言している。「いわゆる移民政策をとる考えはない。深刻な人手不足に対応するため、即戦力になる外国人材を期限付きで受け入れるものだ」と。

 まさに安倍は、「移民」という言葉を、坂中英徳が言うのと同じ意味で使っているのだ。坂中は外国人を「移民」として(つまり人間として)受け入れなければならないと言ったが、安倍は「移民」としての受け入れはせず、「人手不足に対応するため」「期限付き」の「外国人材」だけ欲しいのだと言っている。坂中の批判する「必要な時には入れて必要なくなれば追い返すもの」としての「外国人材」受け入れをおこなうのだというわけだ。

 外国人労働者を人間あつかいなどしないぞと安倍は堂々と宣言しているようなものである。この姿勢は、のちの菅・岸田・石破・高市の各政権でもそのまま引き継がれている。



受け入れる側の責任

 安倍政権以降の政府は、「外国人材」の受け入れ拡大を進める一方で、しかし「移民政策をとる考えはない」ことをくり返し言明してきた。

 坂中は、移民政策において、「移民の受け入れ態勢と制度を整えなければならない」*8と述べている。当然の理屈である。

 一方、安倍以降の各政権が、みずからの政策を移民政策ではないと言うのは、その受け入れ態勢と制度の整備の責任を回避するものだ。先の安倍の発言にあるとおり、「即戦力」の「外国人材」は欲しいが、それはあくまで「期限付き」で受け入れるのであって、「移民」として日本に定着・定住するのは歓迎しない。「外国人」を好きなように利用したいが、これを受け入れるのにともなう責任からはのがれたいというわけだ。まったくもって身勝手な話である。国をあげて「外国人」に寄生しようというのであって、ろくなものではない。

 坂中は、移民として受け入れる人に対して、永住を認め、すみやかに国籍を与えるということを想定している。当たり前の話である。制度面の整備としては、たとえばつぎのように述べている。


 国の外国人処遇のあり方も変革を迫られる。社会の少数者である外国人の立場に配慮した行政への転換が不可欠である。入国を認めた外国人の社会適応を促進するため、日本語教育と就職支援に行政の力点を置かなければならない。国籍行政については、できるだけ多くの移民を早く国民にする基本方針に基づき、移民一世の国籍取得に際し二重国籍を容認するほか、移民二世が出生により国籍を取得できる道を開くなど、移民の日本国籍取得を歓迎する国籍政策を推進する。*9


 移住してくる人は、元いた地に帰ったり、新たな別の地へさらに移動していったりする人も多いが、その一定数がこの地に定着・定住することになるのは当然である。このことは、政府が公式に「移民政策をとる」と言明しているかどうかとは関係ない。「移民」としてであれ、「外国人労働者」や「外国人材」としてであれ、労働力その他の必要性から国境をこえて人を呼び込む以上、そうしてやって来た人の一部がこの地に定着・定住することになるのは避けられるわけもない。移民は「人間」だからだ。

 坂中の議論は、移民を積極的に受け入れる政策を選択する限りにおいて、その受け入れ態勢・制度をととのえていくのは行政の責務であるという理屈になっている。だが、「移民政策をとる」と宣言するしないにかかわらず、定着・定住する人がいるということを想定して、その人たちが安心してこの地で暮らしていくことができるよう態勢・制度をととのえていくのは、行政の責務であるはずだ。

 政府の、在留資格の更新・変更手数料の大幅値上げや、永住許可要件の厳格化といった、外国籍者の定住・永住の可能性を極端にせばめようとするもろもろの政策は、そうした責務を一方的に放り投げるものだ。そこに「移民政策をとる考えはない」などという言い訳は通用しない。



「外国人の犯罪」を一方的に「外国人」に帰責すべきではないこと

 「移民を入れたら治安の悪化などの社会問題をかかえることになるのではないか」という主張に対して、坂中はつぎのように反論する。


 移民先進国のドイツ、フランスで移民の受け入れがうまくいかなかったのは、定住外国人とりわけ移民二世に対する教育と就職の支援をしっかり行わなかったからだ。

 移民二世の子供たちの多くは、言語能力に問題があって学校の授業についていけない。低学歴のゆえに適当な就職口もない。成人になっても生活保護に頼って生きていくしかない。そういう状態に置かれた若い世代の中から暴動を起こしたり、犯罪に走ったりする外国人が出てきたのである。*10


 ここでは海外(ヨーロッパ)の状況が想定されているが、坂中が移民政策論を精力的に提唱していた2010年代の日本においても、「移民を入れたら」というのはすでにたんなる仮定の話ではなかった。在日朝鮮人らのいわゆる「オールドカマー」はもちろん、1980年代から増えた「ニューカマー」、90年の入管法改定を契機にした中南米からの日系移民など、当時すでに「移民」は日本社会を構成する、無視しようのない要素であった。


 現在、定住外国人の子供が学校に行かず、非行に走り、犯罪に及ぶ「外国人問題」が起きている。外国人による少年犯罪が発生する背景のひとつに、外国人を受け入れた後の、日本語教育を中心とする定住支援がほとんど行われていないことがあげられる。孤立無援のままに置かれた定住外国人の子供は社会から疎外されていると感じ、それが犯罪にかり立てる一因となっているのではないか。

 移民開国が迫られる日本は、外国人問題を全面解決し、移民国家への道をつけるためにも、定住外国人の社会適応を助ける仕組みを早急に整備する必要がある。*11


 坂中は、「外国人」による非行や犯罪の背景に、「定住支援」(教育と就職の支援)の不備・欠如の問題をみている。犯罪等を安易に「外国人」に帰責してその排除を主張するのではなく、移民を受け入れる国や社会の側の問題を直視しようとしているのである。

 ここは、実際的にとても大事な主張だと思う。入管がげんにおこなってきた(いる)のは、それとは真逆のことだからだ。

 入管の収容施設での面会活動などをしていると、子どものころに親に連れられて日本に来た若者が、犯罪をおかして強制送還の対象になっているという事例に出会うことが少なくない。日本の国や社会が、移民の受け入れ態勢・制度を整備する責任を果たさず、「定住支援」を十分におこなってこなかったことが、それらの犯罪の背景の一部としてあることは否定できない。罪をおかした、しかし日本社会で育った人を、ゴミでも片づけるように国の外に追い出してオシマイという解決のしかたは、あまりに無責任だし道理を欠いている。

 幼いときから日本で暮らし、あるいは日本で生まれ、家族・親族も日本にいて長年日本で人間関係をきずいてきた人を、たまたま国籍がそこであるという以上の縁のない国へと送還することができる、という仕組みが存在していること自体もそもそもおかしい。



人権問題としての「不法滞在外国人問題」

 坂中の『日本型移民国家への道』は、初版が2011年5月に発行されているが、2013年1月に増補版が2つの章を加筆して発行されている。その加筆された部分で、坂中は当時6万人台とされた非正規滞在者(坂中は「不法滞在者」と呼ぶわけだが)について、興味深いことを述べている。

 2012年7月から新しい在留管理制度が始まり、これにともない外国人登録制度が廃止された。旧制度では非正規滞在の人も外国人登録ができたが、新しい制度では身分を証明するすべがなくなった。坂中は、新制度導入を契機に「不法滞在外国人問題が突然、注目されることになった」と述べたうえで、つぎのように続けている。


 1990年代はじめに30万人近くに達した不法滞在者は、その後、上陸審査体制・在留管理体制が強化されたこともあって減少に転じ、現在の6万人台にまで減った。米国の不法滞在者の数は1千万人を超える。EUにも難民を中心に約6百万人の不法滞在者がいるといわれている。

 欧米の主要国と比べると、日本の不法滞在者の数はけた違いに少ない。数だけを見れば、不法滞在の問題は出入国管理行政上の大きな問題ではなくなったと言えなくもない。しかし、その不法滞在者の中に不法滞在期間が20年を超える人がかなりいると推定されることからも明らかなように、この問題は依然として深刻な人権問題である。

 不法滞在者は町工場などでもくもくと働き、一方で入管や警察に見つからないかとびくびくしながら生活している。法違反者とはいえ、そんな不安におびえる生活を20年以上の長きにわたって強いることは人道にもとると言うべきである。

 公正な出入国管理を担う入管当局が不法滞在外国人の人権問題を放置しておいていいわけがない。*12


 2つ大事なことを言っていると思う。

 ひとつは、「数だけを見れば」との限定つきではあるものの、「不法滞在の問題は出入国管理行政上の大きな問題ではなくなった」と言っているところである。入管プロパーであった坂中がこう言っていることの意味はやはり大きいのではないか。

 ちなみに坂中が2012年末ごろに「6万人台にまで減った」と書いた「不法滞在者」数は、14年ほどたった現在も6万人台である。

 もうひとつ、坂中が大事なことを言っているのは、長期間にわたってここで暮らしている人が「不法滞在」状態に置かれていることを「深刻な人権問題」としていることである。「不法滞在外国人問題」というものがあるとすれば、それは「不法滞在外国人」の存在が日本社会になんらかの悪影響を与えるということではなく、「不法滞在外国人」の人権がまもられていないということこそがそうなのである。

 あらためて強調するが、こういう議論をしている坂中は、入管の幹部だった人物である。その坂中が、「不法滞在外国人」であっても、2012年スタートの新在留管理制度によって身分を証明するすべを失ったこと、また長年日本で働き暮らしてきた人が入管や警察に見つからないかとびくびくしなければならないことは、「人権問題」であり「人道にもとる」とはっきりと書いている。

 こんにちの状況と照らし合わせてみたとき、この10数年前の坂中の文章のまともさに驚いてしまう。坂中はなにも特別なことを書いているのではないけれど、現状があまりにもひどすぎるので、まともであるというただそれだけのことに驚きをおぼえてしまうのである。

 たとえば、立憲民主党の衆議院議員だった藤岡隆雄は、「不法滞在」の人が運転免許証を交付されて自動車を運転できたり、それを身分証として使えたりするのはケシカランという趣旨の国会質問をしている*13。昨年(2025年)の5月のことである。藤岡によると、「不法滞在」でも免許証を持てるのでは「不法滞在天国」になってしまうのだそうだ。

 藤岡の国会質問の影響かどうかはわからないが、事実この年の10月から運転免許証の取得および更新には住民票の提出が求められるように制度の運用が変更され、仮放免者など在留資格のない人は免許証を持てなくなった(持っていた人も更新できないので失効と同時に免許証を失うことになった)。

 坂中英徳なら、この事態を人権問題だと言うのではないだろうか。ところが、「不法滞在外国人」なんかの「人権」や「人道」を問題にするのもナンセンスであると言わんばかりの姿勢を示すということを、政治家などが人気取り目当てにおこなうのが、いまどきの風潮である。藤岡議員(当時)の下劣な国会質問はその一例にすぎない。

 さて、昨今とますます目立つようになった排外主義者であれば、「不法滞在者」の置かれている状況は人権問題であるなどと言おうものなら、「だったら強制送還すべきだ。それが当人たちのためでもある」などと言うであろう。

 坂中が「不法滞在者の中に不法滞在期間が20年を超える人がかなりいると推定される」と書いたのは2013年だが、現在はそこから10年以上もたっている。私の知っている仮放免者のなかにも、滞在期間がすでに30年を超えた人は相当数いる。それどころか、日本の製造業などで深刻な人手不足から外国人労働者をさかんに呼び込むようになったのは、バブル期の1980年代後半からである。滞在期間40年に達する人が出てきているのである。

 こうした滞在が長期にわたる人を強制送還することが、人権尊重や人道にかなうものであるなどと言えるはずがない。在留を正規化するということ以外に、この「人権問題」の解決策はありえない。坂中もつぎのように言っている。


 法務省当局にお願いがある。不法入国者や不法残留者が激減の傾向にあること、外国人住民基本台帳制度が導入されたことなど最近の不法滞在者をめぐる状況の変化を考慮し、「不法滞在期間が十年を超え、かつ家族を扶養している不法滞在者」については、法務大臣が在留特別許可を認める方向で検討してはどうか。*14


 この坂中の提案にケチをつけるとすれば、「不法滞在期間が十年を超え、かつ家族を扶養している不法滞在者」というところ、「かつ」は「または」に訂正したほうがいいよ、ということぐらい。あとは、大賛成!



移民はすでにここにいるということ

 入管という組織がになっているのは、「出入国管理」とか「在留管理」とかいう業務である。そこには、国境をこえた人間の移動だとか、「外国人」の在留だとか(そう、在留管理の対象とされるのは「外国人」のみである!)は、コントロール可能なものであり、またコントロールすべきものであるという前提がある。

 そのことの是非をここで議論するつもりはないけれど、現実問題として、コントロールしきれてないし、どうしたってコントロールできない部分は出てきますよねということは、言えるじゃないだろうか。

 日本は移民を受け入れるべきかどうか? 受け入れるとして、どれくらいの規模の移民を、どういう形で受け入れるのか? そういう議論は、したい人はすればいいと思うけど、私はそこにくわわるつもりはない。

 ただ、日本国が日本国としてどんな「外国人政策」を選択するとしても、あるいは今の政府がそうしているように「移民政策はとらない」と強弁したとしても、移民たちはすでにここにいる。その移民のなかには、坂中などの言う「不法滞在外国人」もいる。

 そういうすでにここにいる移民が、すでにここにいる人間として、あたりまえのようにその人権が尊重される社会であるべきだ。私は坂中英徳とは根本的にあいいれないところが多いと思ったけれど、日本の国や社会がそうあるべきだという一点においては、この人と考え方を共有できていたんじゃないかなと思う。そして、坂中とさえ共有できたであろうこの考え方が、日本社会で広く共有される日が来ないとも思えない。まあ、道のりは遠いかもしれませんけど。




*1: 「改悪」と評価すべき内容としては、難民申請中の送還は停止されるという規定に例外がもうけられたこと(3回目以後の難民申請、また無期または3年以上の拘禁刑に処せられた者の送還が可能になった)、監理措置制度の創設など。

*2: 永住者資格の取消事由を拡大する入管法改悪(24年6月)、在留資格「経営・管理」の要件の厳格化(25年10月)、国民健康保険料を滞納する外国人の在留資格更新を認めないとする新方針(25年11月発表、翌26年6月から)、在留資格の更新・変更手数料の大幅値上げ(26年10月から)、永住許可要件の厳格化。非正規滞在者に対しては、「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」(25年5月)、その強化版としての「不法滞在者ゼロプラン~強力推進パッケージ~」(26年5月)。

*3: 坂中英徳『日本型移民国家の創造』(東信堂、2016年)、206頁
*4: 同上。

*5: 坂中英徳『増補版 日本型移民国家への道』(東信堂、2013年)、8頁

*6: 前掲15頁。

*7: 前掲23頁。

*8: 前掲30頁。

*9: 前掲31頁。

*10: 前掲89-90頁。

*11: 前掲50-51頁。

*12: 前掲113-4頁。
 藤岡議員(当時)の国会質問については、このブログで批判記事を書いた。 

*14: 坂中『増補版 日本型移民国家への道』115頁。

2026年5月26日

AB型でRhマイナスの人と「不法残留者」と



5/24 10:23配信『静岡朝日テレビ』
ニュース画像のスクリーンショット。
「……在留期間を約2週間超えて不法残留 
インドネシア国籍の男(21)を逮捕」
との見出し

 

 けったくそ悪いので、写真だけ。リンクははらない。

 これは静岡朝日テレビのニュースだけど、ここ数年のあいだに、他のとくに地方のマスメディア(茨城新聞とか神戸新聞とか)でも、警察が「不法残留」あるいは「不法就労」の外国人を逮捕したというニュースがネットで配信されてるのを、やたら目にするようになった。

 こんなものを報道する意義がいったいどこにあるんだろうか?



 入管庁の発表によると、2026年1月1日時点での「不法残留者数」は6万8,488人だという。日本全国で6万人超もいるうちのひとりが見つかったから何だというのだろう。

 日本人の血液型でAB型は10人に1人ぐらい、Rhマイナスの人は200人に1人ぐらいなんだそうだ。したがって、AB型でRhマイナスの人は2000人に1人*1。日本の人口*2が1億2000万人ぐらいとして、その1/2000は6万人。「不法残留者」の人数とだいたい同じぐらい。

 「AB型でRhマイナスの人が菊川市内でみつかりました」などというニュースがナンセンスなのはあきらかだろう。それが「不法残留者が菊川市内でみつかりました」という話だと、わざわざ報道されてしまうのはなぜなのか? 「AB型でRhマイナスの人」と「不法残留者」のあいだのちがいとは?



 まあ、警察官が「不法残留者」を見つけたらつかまえる、というのはわかるのですよ。ただ、それは警察組織の上のほうで「不法残留者」を見つけたら逮捕するということに決めていて、末端の警察官たちはそう命令されているからにすぎない。

 その証拠に、1990年代には、警官に在留期間がすぎたオーバーステイだということがバレたり、あるいは自分からそれを話したりしても、逮捕なんかされなかったという例はめずらしくもなんともない。当時、オーバーステイだった人たちに話を聞くと、そんな証言は山ほど得られるよ。

 警察官が「不法残留」を見つけたらただちに逮捕するようになったのは、2000年代に入って、政府が「不法残留者」を徹底して減らそうという方針に転換して以降のこと。

 つまり、「不法残留者」が逮捕されるのは、警察の方針がそうなってるというだけのことにすぎないわけだけれど、まあそれはともかく、たしかに現在では警察官は「不法残留者」を見つけたら逮捕する。警察がそうするのは、まあわかる。いまどきの警察はそういう方針なんですね、と。

 でも、それ、静岡朝日放送さんが報道する意味がどこにあるんだろう?



 AB型でRhマイナスの人はたしかに「めずらしい」と言えば言えなくもないけど、日本全国に6万人もいるのであって、そのひとりが静岡県菊川市にいることがわかったからって、報道しなければならない理由になんかならない。

 ちょっとめずらしい血液型ではなく「不法残留者」だったらそこを報道すべき理由がなにか発生するのだろうか。その報道になにか公益性とかあるわけ? たいして希少性(めずらしさ)もなければ、それを報じることでわれわれ人民大衆の福祉が向上するなんてこともいっさいない。



 記事を読めばすぐわかるのだけど、これは静岡朝日放送さんが報道する意義があると判断して取材して報道したものではない。警察が提供した情報をそのまま流したものにすぎない。だから、警察の広報にテレビ局が自分の媒体を使わせてあげた、ということですね。

 では、どうして警察はこれを広報したいんだろうか? 「不法残留者をつかまえました」「認められた在留期間が120日だったのを2週間もオーバーして残留してたんです」。あっそう、だからなに? という話である。バカバカしいにもほどがある。



 確実に言えるのは、「警察が●●を不法残留の容疑で逮捕した」という報道がくり返されることで、外国人への偏見が読者・視聴者に植えつけられていくだろうということだ。「不法残留」している人が私たちにとってどんな不利益なり迷惑なり与えているのかということはなんら具体的に示されることなく(そんな不利益や迷惑など存在しないわけだけど)、外国人のなかには「不法残留」というルール違反をおかしている者がいるらしいという情報がわれわれの頭にたたきこまれていく。「警察がつかまえるくらいだから何か悪いやつなんだろう」というイメージをまといながら*3

 すくなくとも、「不法残留者」なるものが存在していることよりも、外国人への偏見をばらまく効果のある報道のほうがよっぽど有害じゃないんですかね。





*2: AB型などの血液型の出現率については「日本人」を分母とした話をしているので、ここで「日本の人口」を分母とする話をするのはほんとはおかしい(「日本の人口」を構成するのは「日本人」だけではないので)のですが……。 

*3: 今回書いたことの趣旨からは外れるのだが、「警察が外国人を不法残留(あるいは不法就労)で逮捕した」系のニュースというのは、つぎのような思考を読者・視聴者に植えつけていくという効果の点でも、重要だ(悪い意味で)と思う。つまり、外国人が日本国民には課されないルールを課されていており、なおかつそれは当然のことなのだという思考である。

2026年2月12日

強制送還に「密着」したと称する動画について



 入管の強制送還にテレビ初密着 「あと1日ほしい…」抵抗する人も “不法滞在者ゼロ”に向けた最前線に迫る(2026年02月02日) - YouTube


 「テレビ初密着」だそうだ。

 ナレーションでも「強制送還の一部始終をメディアとして初めて取材することができました」と言ってほこらしげだが、もちろんこれは入管の広報・宣伝にテレビ局が媒体を提供して協力したというものだ。

 入管が見せたい(あるいは見せてもよい)と考えている映像をテレビ局は撮らせてもらって放送しているにすぎないわけだから、「初めて取材することが……」などとまるで自分らのやっていることが報道の名にあたいする何かであるかのように言うのもずうずうしいなあと思うのですが、まあそれはどうでもいいです。フジテレビにジャーナリズムなど期待するだけムダだろうから。

 それより私が軽くショックを受けたのは、強制送還のこれほどむごい実態を見せてもマイナスにはならない、それどころかプラスになると入管がみつもっているのだなあということ。そして、入管がそうみつもるのは、少なくとも現時点においては正しいのだろうと考えざるをえないことに対してである。

 2人の人間の人生が強制送還によって暴力的に大きく変えられるのを放送したところで、「入管による人権侵害だ」などと言って問題にする人などほとんどいないだろう。むしろ、入管の仕事に対してコクミンの好意的な理解を得るのに有効だろう。そう見込んだからこそ入管はフジテレビに「密着」させてこんな映像を作らせたのだろう。

 私は、入管のその見込みどおりになるのを許すべきでない、見すごすべきでないと考えるので、いまこのブログを書いている。



 (フジテレビが制作・放送した)入管の広報映像には、東南アジア出身とされる2人の人が登場する。

 ひとりは、「20年間にわたり不法滞在してい」るとされる女性。入管職員から強制送還を執行するとつげられ、ひどく動揺するようすもうつし出される。少なくとも20年以上は日本で生活してきたということなので、当然だろう。長年ここできずきあげてきた人間関係から引きはがされて、20年以上ぶりのもはや変わりはてただろう「故郷」に放り込まれるのである。むごい話である。

 もうひとりは、トータルで30年、日本でくらしてきたという男性。はじめて来日したのはバブル期だったとのこと。過去にも送還されたことがあり、送還後の上陸拒否期間に他人名義のパスポートを使って来日したということらしい。家族を日本に残し、ひとり「母国」に送還されるとのこと。送還直前に荷物を整理しながら、長年日本でくらしてきたこの人は「オレの人生は日本」と言って涙をながす。むごい話である。

 フジテレビによる「報道(まがいの入管広報)」をみるかぎりでは、このおふたりは自身の難民性を主張しているわけではないようだ。入管がそういうケースを選んで撮影させたのだろう。ここらへんも、入管はコクミン世論をみすかしているんだろうなと感じた。迫害のおそれのなさそうな人を「不法滞在者」として送還することを問題視する声などあがらないだろう、と。

 ところが、映像というのは、ときとしてその制作者の意図をこえて雄弁に語ってしまう。いわゆる難民のケースでなくても、強制送還という措置がいかにむごたらしいものになることがあるのか、この15分ほどの動画は示してしまっている。そう私には思える。

 だから、この動画を、入管のプロパガンダのために作られた動画を、多くの人が見てほしいとすら思う。そうして感じたこと、自身の心の動きの経過に向き合い、できることなら言葉にしてシェアしてほしいと思う。皮肉として言ってるわけではない。まじめにそう思う。



 長年くらしてきた町から、見なれてきた風景から、なじんだ食生活から、結んできた人間関係から、当人の意に反して引きはがして追放する。そんな行為のむごたらしさをおおいかくすことはできない。入管の施策を正当化するために作られた動画ですら、そのむごたらしさを具体として表現してしまっている。

 おそらくこの動画を見た人の多くは、入管職員たちの行為を正当化できる理屈を探し始めるだろう。そこには「正当化」の必要な行為がうつしだされているからである。ある行為について「正当化」が必要なのは、その行為がすくなくとも全面的には正当ではないと感じているからである。その心の動きを私たちは直視すべきなのだと思う。

 気分がわるくなる人もいるだろうから、むりはしないでほしいのだけど、心に余裕のあるひとは冒頭のリンク先の動画についたコメントをいくつか読んでみてほしい。「不法滞在者」とされた人にむかってくちぎたなく攻撃するコメントのいくつかを見て、なぜこの人たちがこれほど余裕なく憎悪をたぎらせているのかと問うてみよう。この人たちは、画面にうつる入管職員の行為に、「正当化」しなければならない(つまりは、全面的に正当とは言えない)要素があることに、おそらく気づいている。

 ある行為の不当さ、あるいは加害性から目をそむけたいとき、私たちはそのむごたらしい目にあっている被害者のほうの瑕疵(かし)を探そうとする。「この人にも非があるのだから、ひどい目にあうのは仕方がない」と考えようとする。あるいは、もっと積極的に「制裁を科されるのは正当だ」と考えたりする。でも、「不法滞在」とやらはそんなに大きな瑕疵ですかね?



 動画の最後にはこんなナレーションが流れる。

 「不法滞在者を安全に送還するために、入管職員たちは日々慎重な対応にあたっています」

 このプロパガンダ動画の全体的なトーンがまさにこのような演出で作られている。入管職員が、送還しようとする「不法滞在者」に対して、あくまでも親切にていねいに対応しようとしているようすがうつされる。

 で、なかなか興味深いのは、そうした映像に対して、どんなコメントが書きこまれているのかということである。いくつか例をひいてみよう。


@surgekiller

最後の晩餐って2回目やん。

可哀想なんて微塵も思わない、むしろ犯罪者にこんな良い扱いに驚いた。


@ポクポク和尚

あのさぁ……

優しくしてどうすんの?

「日本人は冷たい」って思わすほど雑に扱った方がいいんだよ。


@ntakito138

優しすぎでしょ。税金もどうぜ払ってないんだし、全部没収すりゃよいじゃん


@momoy1027

なんでこんなに丁寧に対応してるんだろう


@カズくん-s5r

もっと対応を厳しく、優しすぎる。


 ひとつひとつはごく短いものにすぎないコメントに対し、その深層を推測するようなことを言うのはあまりフェアではないかもしれない。しかし、「不法滞在者」に「優しく」対応すること、「かわいそう」と同情することに、怒りと憎悪をぶつけるコメントが無数によせられることの意味をどう解釈したらよいのだろうか。まるで、「不法滞在者」に対しコメント者自身が同情をよせてしまう可能性に恐怖し、これをいわば「予防」しようと攻撃的な姿勢をとっているようにみえないだろうか。

 強制送還はコクミン世論のヘイトを扇動して作り出し、これを利用しながら進められている。でも、そのヘイトは強力でありながら、もろさをかかえているようにみえる。簡単ではないだろうが、絶対にこれをつきくずすことは可能だと私は思う。がんばろう。


2025年11月24日

「いま、ここにいるわたしを排除するな」デモに参加して

  11月23日、「いま、ここにいるわたしを排除するな」というデモに参加してきた。




 差別や排外主義に反対するというテーマがあるものの、参加者それぞれが自分の関心のある問題について自由にアピールしていくというデモだった。

 スピーチやコールは、やりたい人にマイクをまわして基本的に好きなようにやってもらうというスタイル。外国籍の人に対する排斥や入管の問題についてアピールする人もいれば、高市首相の中国への挑発を批判し戦争反対をうったえる人、韓米日の合同軍事演習反対、イスラエルのパレスチナ人虐殺やめろとか、大阪万博の未払い問題について維新や吉村大阪府知事への批判、カジノいらない、自民党も維新も参政党もいらない、などなど。

 街頭でめいめいが自分の関心におうじてアピールするのは、いいですね。

 ただ、中之島公園からなんばまで、御堂筋(みどうすじ)を歩く2時間をこえるコース。まあ、つかれました。

 沿道の人たちの反応は、かなり好意的だった。右翼のアホがなんにんかアホなことをわめきたててきたものの、それ以上に差別反対やパレスチナ連帯のメッセージに笑顔や手をふったりと賛意を示してくれた人がたくさんいた。そのなかには、外国にルーツがあるのかなと見えるかたも多かった。日本社会での排外主義の高まりに強い危機感と批判的な意識をもっている人というのは、それなりにいるのだろうということが感じられた。



 デモの前の集会では、入管関係でなんか話しますかと声をかけていただき、ちょこっとアピールをしてきた。入管をめぐる現状の報告と批判をすべきかなとも思ったのだけど、こんにちのように排外主義的な世論が大きくもりあがってしまっている状況でこそ、理念的なことを語っていく必要があるんじゃないかと考えた。それで、なぜ排外主義に私は反対するのか、どんな社会をめざそうとするのか、というところにつながっていくような話を、3分か4分ぐらいのわくで話してみたのが、以下です(自分がしゃべったのをスマホで録音しておいて、文字起こししました)。


▼ ▲ ▼ ▲ ▼ ▲ ▼ ▲


 こんにちは。ナガイと申します。

 入管問題やってるんですけど、15年くらい、細々と入管に収容されている人の面会活動だったりとか、仮放免者と言われる人、今日ちょっと説明はぶきますけど、その支援をやってきました。

 そのなかで私たちが主張してきたこととして、「仮放免者に在留資格を」ということを言ってきたんです。仮放免の人たち、外国籍で在留資格のまだ認められていない人たちというのは、たとえば日本に長期間くらしてる人、古い人だとバブル期1980年代の後半から日本にいて暮らしている。そういう人たちであったりとか、あるいは難民申請している人ですね、帰国したら危険がある、迫害されると。だから、保護してくださいという申請をしている人。そういう人たちの在留資格が認められてないんで、その在留資格を求める運動というのをやってきました。

 「仮放免者に在留資格を」というスローガンを私たち言ってきたんですけど、これは一方では言っていかなければならないスローガンだと思ってるんです。ただ、これだけで十分に排外主義とたたかえるかというと、十分じゃないんじゃないかということを、今日はお話したいと思います。

 たとえば、「仮放免者に在留資格を」と言うんですけど、「ここにいていいですよ」という資格というのを決めるのはだれでしょうか?

 入管という役所は「それは国の機関であるわれわれだ」と言ってるんです。「外国人は在留資格がないと日本にいてはいけない」というのは入管の主張。法律にも書いてあることですけども。で、その在留資格を決めるのはわれわれだと、法にもとづいて入管という組織が「おまえはここにいていい」「おまえはここにいてはいけない、だから強制送還するよ」と。そういうことをわれわれが決めていいんだということを言ってるのが入管という役所なんです。

 いまの排外主義に対して、「在留資格を認めてください」というだけでたたかえるかというと、私はちょっと足りないかなと思っています。なぜかというと、外国人を排斥する主張をしている人がどういう言い方をしているかというと、「おまえは外国人だから、日本が気に入らないんだったら自分の国に帰れ」と言うんですよ。これ、どういういい方かというと、私からすれば、これ入管のくちまねなんですよ。

 入管は、これ本当に、なにさまだと思ってわたし腹立つんだけど、「外国人がいていいかどうか、ここにくらしていいかどうかは、われわれが決める」と言っているわけ。なんの権利があってそんなこと言えるの?

 すでに外国籍の人たちここに暮らしています、現にね。それをわれわれといっしょにこの社会をつくってきたわけです、長いこと。そういう人を、なんか日本人だから、日本国籍を自分は持っているからということで、自分が決めていいんだと。「お前たちがここにいていいよ」と言うのも傲慢ですよ、はっきり言って。

「外国人もいてもいいんじゃないか」ではなくて、[私たちやあなたたちが]そんなのを決めていいのかどうかということを、やっぱり問わなきゃいけない。日本人だから日本国籍だからそんな特権があるのか、と。特権、認めていいのか、と。

 そういうところでの排外主義とのたたかいが必要だと思うんで、やはりここにかかげられてあるように、「いまここにいる私を排除するな」ということは、ほんとに大事なスローガンだと思います。いっしょに今日たたかいましょう。

 以上です。




2025年10月25日

「不法滞在者ゼロプラン」とは?

  「不法滞在者ゼロプラン」について別のところに書いた文章(3か月くらい前に書いたものですが)を転載します。

 関西で入管の被収容者や仮放免者の支援などに長年とりくんでいるWITH(旧名・西日本入管センターを考える会)という団体があります。そのWITHの会報『プラーツオ』(No.87 2025.8.1)に掲載していただいた原稿です。

 原稿の内容としては、入管庁の「ゼロプラン」というやつがいったい何なのか、これに反対する立場から解説を書いたものです。

 また、ゼロプランに反対したうえで、私たちとしてさらに何を主張していくべきなのかについて、私の考えを書きました。むろん「ゼロプラン反対!」とは言っていかなければならないのですけれど、それだけでは入管庁がつくった土俵のうえでの押し合いにしかならないし、「やめろ」「とめろ」という防御の主張にしかならない。反対する方にも、めざすべき着地点というか、出口のイメージが必要だろうと思います。


『プラーツオ』表紙
(タップで画像が拡大されます)

 今号の『プラーツオ』は、WITHの支援されているウガンダ難民の近況、23年の改悪入管法成立後の特例措置(日本生まれで在留資格のない子どもの一部に、家族一体で在留資格を出すというもの)で在留の認められた一家のその後など、長く地道に支援活動をされてきたグループならではの記事がもりだくさんです。

 表紙の画像(↑)に連絡先がありますので、購読されたい、あるいは活動にカンパされたいかたは、コンタクトをとってみてはいかがでしょうか。


 以下、『プラーツオ』に掲載していただいた文章を転載します。


◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


「不法滞在者ゼロプラン」とは

 「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」なるものが発表された。入管庁が策定したもので、5月23日の法務大臣記者会見でその資料が配布された。資料は入管庁のホームページでも読めるようになっている。

 名前だけみても、このプランのやばさが伝わってくる。「不法滞在者」がまるで「国民の安全・安心」をおびやかす存在だと言いたげだが、実際、入管庁はあとでみるように、こうした偏見に便乗し、またみずからこれをばらまきながら、排外主義的な政策を進めようとしている。


仮放免者らが「ゼロプラン」のターゲット

 資料をみると、いくつかの数値目標があげられている。


(1)難民審査の迅速化(現在20か月を超えている平均処理期間を、2030年までに6か月に短縮するなど)

(2)年間の護送官付き国費送還(無理やりの送還)を3年後に2倍に増やす(2024年の249人から2027年には500人に)

(3)退去強制が確定した外国人数(2024年末で3,122人)を2030年末までに半分に減らす


 まず(3)からは、このプランでどんな人たちがターゲットにされていのかがわかる。

 「不法滞在者ゼロプラン」とはいうけれど、入管がターゲットにするのは、いわゆる「不法滞在者」の全体ではないようである。「不法滞在者」という語は適当でないので以下「非正規滞在者」と言うことにするが、その非正規滞在者数は現在8万人ぐらいである。入管が半分に減らしたいと(3)で言っているのは、この8万人のうちの4%にもみたない約3,000人。すでに入管に摘発されるなどして「退去強制が確定した外国人」である。

 この「退去強制が確定した外国人」のうちわけは、3月の入管庁の報道発表によると、仮放免者2,448人、入管施設に収容中の人が461人などである。「不法滞在者ゼロプラン」とは、実質的に「仮放免者半減計画」と言ってもよさそうだ。

 そして、仮放免者らをもっぱら送還によって徹底的に排除しようという、この「ゼロプラン」にあらわれている入管の動きは、2年前の入管法改悪の延長線上にあるものである。仮放免者など「退去強制が確定した」けれども帰国をこばんでいる人を「送還忌避者」と呼び、これを送還によって排除するための強力な権限を入管に与えようというのが、入管法改悪のくわだてであった。3回目以上の難民申請者を強制送還してもよいことにし、また、収容を解かれた人を監視・管理するための監理措置制度の創設、送還に応じない人に刑事罰を科せるようにするなどが、その内容だった。

 この改悪入管法案は、2021年に一度は廃案になるなど、反対運動の大きなもりあがりがあったものの、23年に成立し、24年6月から完全施行されている。

 それからちょうど1年たった現在、仮放免者など「送還忌避者」をあくまでも送還によって徹底的に排除しようという新入管法にもとづいて、入管庁が打ち出してきたのが「ゼロプラン」である。


難民審査の「迅速化」と強制送還の「促進」

 では、この「ゼロプラン」は「退去強制が確定した外国人」をどうやって半分に減らそうというのだろうか。入管庁の資料を読むと、7つの方策が述べられているが、とくに目を引くのは、つぎの2つである。

 ひとつは、難民条約上の「迫害」にあきらかに該当しない主張を「類型化」することで、難民審査を迅速化しようというもの。つまり、「よくあるタイプの見当はずれな申請例」の見本をあらかじめいくつか作っておいて、これに沿うようにみえる申請はさっさと不認定の結論を出してしまえ、ということだ。ここで言われる「迅速化」とは、不認定の結論を「迅速に」出すということでしかない。難民認定率がきわめて低い現状で、このような「迅速化」が進められれば、難民として認定すべき人がますます取りこぼされていくのはまちがいない。

 もうひとつ目につくのは、上の(2)にもふれられている護送官付き国費送還(無理やりの送還)を促進するとしていることである。「ゼロプラン」の資料では、「令和5年[2023年]改正入管法により送還停止効の例外として送還が可能となった者や重大犯罪者などを中心に、計画的かつ確実に護送官付き国費送還を実施する」としている。

 さらに、この資料には言及されていないものの、この無理やりの送還についての入管の新しい動きもある。6月の下旬より、大阪入管は仮放免期間の延長手続きにおとずれる仮放免者らに新しいバージョンの「送還に関するお知らせ」という文書を配りはじめた。そこには新しく次の文言が書きくわえられていた。「なお、裁判所による執行停止等の仮の救済の決定がない限り、訴訟係属中であっても、送還を実施する場合がありますので、その旨、弁護士に伝えてください。」 同じ書面は東京入管など他の地方局でもくばられているようである。

 入管が具体的に今後どのような制度運用をしていくつもりなのか現時点では不明だが、今までおこなってこなかった裁判中での強制送還をする場合があると宣言したことには、深刻な危機感をいだかざるをえない。


「ゼロプラン」と正反対のやり方を!

 以上みてきたように、「ゼロプラン」とは、入管が「送還忌避者」と呼ぶ人たちを、むりやりの送還と難民審査の「迅速化」によって2030年までに半減させるという計画である。

 しかし、私たちが考えなければならないのは、そもそも3,000人をこえる「送還忌避者」と呼ばれる人たちがなぜ出てくるのかということである。「送還忌避者」とされる人の多くは、入管が退去強制を決定し、長期収容や人権のうばわれた仮放免状態におくことでいじめ倒しても、送還に応じられない人たちだ。それぞれに帰れない事情があって送還を拒否しているのである。こうした人たちの在留をがんとして認めず、あくまでも強制送還によって排除するのだという方針に入管が固執していることが、この「送還忌避者」を生み出しつづけているのだ。

 相手は人間である。「半減」やら「ゼロプラン」やらの下品な言葉でやっかいものあつかいをするのではなく、なぜ帰れないのか、そこに配慮すべき事情はないのか、また送還がその人にどんな不利益をもたらすのか、聞く姿勢が大事ではないのか。

 「ゼロプラン」が異様なのは、「送還忌避者」や非正規滞在者をもっぱら国外への排除のみによって減らそうとしていることである。しかし、これらの人たちを減らすには、「ゼロプラン」であげられているのと正反対の、つぎの2つの方法もある。

 ひとつは、難民審査を「迅速化」するのではなく、国際的な基準にのっとってこれを「適正化」することである。難民として認定すべき人をきちんと認定し、在留をみとめることである。

 もうひとつは、強制送還をふやすのではなく、現在きわめてせまくしか認めてない在留特別許可の運用をやはり「適正化」することである。送還すれば家族がばらばらになるような人や、長年日本でくらして出身国には生活基盤がもうない人、日本で生まれ育った子どもや若者たちに在留資格を出せばよい。

 ようするに帰るに帰れない人たち(「帰る」もなにも日本生まれの人すらいる)に送還一本やり排除一本やりで対応しようとするから、「送還忌避者」なるものが生じるのである。難民認定の適正化と在留特別許可の基準緩和によって、入管が「送還忌避者」と呼ぶ人の多くは正規の在留資格をえられるはずである。それは現行法の枠内でも十分にできることだ。入管がただしく方針をあらためられるよう、私たちが声をあげていくことが必要だと思う。


排外主義の共犯者、あるいは排外主義そのもの

 さて、入管庁のウェブサイトでは、この「ゼロプラン」がつくられた経緯をつぎのように説明している。

「昨今、ルールを守らない外国人に係る報道がなされるなど国民の間で不安が高まっている状況を受け……法務大臣より……ルールを守らない外国人を速やかに我が国から退去させるための対応策をまとめるよう指示があ」った、と。

 「ルールを守らない」のに日本人も外国人も関係ないはずだが、「ルールを守らない外国人」などと言ってあたかも外国人の問題であるかのように語るのは、まぎれもない人種差別である。人種差別にもとづく「報道」があるなら、その「報道」こそが問題であろう。ところが、入管庁は人種差別の問題を完全にスルーし、それどころか人種差別的な報道とこれによって高まる「国民の不安」を、自分たちの政策を正当化する根拠にしているのである。

 つまり、入管は恥知らずにも、いまはやりの排外主義、外国人差別の世論に便乗し、またこれを自分たちでもばらまくことで、「ゼロプラン」をすすめようとしている。私は反対に、ここに住むひとりひとりの人間が人権を尊重され、平等にあつかわれる社会をめざしたい。

『プラーツオ』(No.87 2025.8.1)

2025年8月31日

差別発言の場に居合わせたこと


 先日のこと。とある会食の場で差別発言が出るのに居合わせた。

 その人は、発言するときに口の前に人差し指を立てて、「ここだけの話なんだけど」とでも言いたげなしぐさをした。その直後に地域を差別する言葉がぽんと出てきた。

 会食の場には10人ぐらいいたのだが、その発言を聞いたのは私もふくめて近くにいた4人ぐらいだったと思う。

 差別発言やそれをした人については、ここであれこれ書くつもりはない。ただ、その発言がでたときの私たちの対応がどうだったかというと、反省しなければならない問題があるなと思い、いまこの文章を書いている。



 3人以上の人がいる場で差別発言が出たときにどうすべきか。最優先で考えなければならないのは、その人が差別発言をするのを続けさせないことである。

 その人が自身のやってしまった言動をふり返り、それが差別であることに気づき、「今後」同じような差別をしないようにしようと考えてくれれば、そりゃ一番いいのだろう。だから、まわりにいる人間は、その人がなぜそういう発言したのかを聞き、それが差別であるということをその人に納得させ、今後そうした発言をしないよう説得しようということを、ついつい試みてしまう。

 でも、差別発言が飛び出したときに、まわりの人間が最優先で対処すべきなのは、説得や議論などではなく、「いま」「この場で」おこなわれている差別発言をとにかくストップさせることである。

 ストップさせると一言でいっても、そのやり方にはいろいろと幅があると思う。こわい顔をして「だまれ」と言うものから、もう少しおだやかに話題を無害なものにずらすというやり方もあるだろう。差別発言した人と自分の力関係もあるので、つねに断固とした強い態度で「差別をやめて」と言えるわけではないだろうけれど、いずれにしろ一番の優先課題は「いま」「この場で」の差別発言をなんとかして止めるということだろうと思う。



 先日の会食では、まわりにいた4人ぐらいの人が、差別発言をした人と「議論」をしてしまった。今になって反省してみると、これはまちがいであった。

 私たちはその人に「あなたはなんでそう思ったの?」とか「どういう根拠があってそんなこと言えるの?」とか聞いてしまった。で、その質問に答えるたびに、その人はつぎつぎと新たな差別発言をくり出してくる。そのたびに「それは差別だ」と批判すれば、その人は自己正当化の理屈でまた新たに差別をぶちこんでくる。離れた席にいて当初このやり取りに参加していなかった人たちも、こちらが不穏な雰囲気をかもし出しているものだから、「なんの話してるんですか?」と会話にくわわってくる。こうして、差別発言のとびかう加害的な状況に、本来なら巻きこまなくてもよかった人まで巻きこんでしまった。

 もちろん、差別発言をするその人が全面的にわるいのだが、それをすぐに止めずに差別発言が出てくる状況を継続させてしまった責任は私たちまわりにいた者にもある。差別発言が出だした早い段階で発言を止める、あるいはその場の話題を別のものに転換させるということはできたはず。その人の考えを聞くにしても、その場から離れて別のところで話す(ゾーニング)という方法もあった。

 こうして後から考えてみると、とるべき対処というのはあきらかなのだけれど、その場ではまったく反対のまずい行動をしてしまったな、と。というわけで今後の教訓とします。


2025年8月24日

【韓ドラ感想】愛はビューティフル、人生はワンダフル


 最近みた韓国ドラマについて。


愛はビューティフル、人生はワンダフル | サンテレビ


 ドラマは立体的につくられていて、どの登場人物に注目するかによって、ちがった見え方がするのだろうけれども。私は、過去に加害行為をおこなった2人の人物に注目することで、興味深く見ることができた。

 ひとりは、裁判官のホン・ユラ。彼女は、自分の息子が老婆をひき逃げした証拠を隠滅し、その罪を他の少年におっかぶせる。老婆は亡くなり、息子は罪の意識にたえられずに自殺する。

 しかし、ホン・ユラは、息子の死が自殺によるものであることを知らない。ちょっとややこしい経緯があって、息子の死は川に落ちた少女を助けようとしておぼれた事故死として処理される。ホン・ユラはそこに疑念をいだくのだけれども、息子の死を「義死」として受け入れることにする。

 ここには自己欺瞞がある。彼女は、自身の行為が息子を自死へと追い込んだのではないかという可能性に当然ながら思いいたらずにはいられないのだが、息子の死を名誉の死だと思い込むことで、その可能性を打ち消そうとするわけである。

 このあたり、他国に対する侵略戦争にかりだして殺人と戦死を強(し)いた兵士を「英霊」などといって神格化する日本人の醜悪な姿のカリカチュアを見せられているように思えて、私にはなかなかきつかった。

 ドラマに登場するもうひとりの加害者は、ムン・ヘラン。彼女は高校時代に同級生(このドラマの主人公であるキム・チョンア)をいじめて、自殺未遂に追い込んだ人物である。9年たってムン・ヘランは被害者のキム・チョンアと期せずして再会してしまうが、自身の過去の加害を反省し、被害者に謝罪することができない。



 加害者が自分の罪に向き合ってつぐなおうとしないことで、被害者はもちろんのこと、加害者のまわりの人間も傷ついていくことになる。

 このドラマでは、2人の加害者が最終的には自分のおかした罪と向き合っていこうとするのだが、そこにいたる2人の葛藤・変化とともに、そのコミュニティの人間(家族)が加害者にどう関わっていくべきなのかという課題が提示されている。

 たとえば、裁判官ホン・ユラに対して、もうひとりの息子のク・ジュンフィ(自死した息子の兄にあたる)が寄りそいつつ、罪をつぐなうようにうながす。身内というのは、加害者にとって、自身の罪にふたをして向き合わない口実にもなる存在である(「自分の息子に自分の恥を背負わせたくない」などと言って)。しかし、ク・ジュンフィはそうやって母の共犯者に自身がなることをよしとせず、母が自身の罪を社会的に告白・公表し、被害者(息子のひき逃げの罪をきせた相手)に謝罪することを決意するのを、かたわらで待ち続け、ささえようとする。

 こういうふうに、加害者が時間をかけながらも変化し罪にむきあうことを、周囲の人間が支援していく過程がえがかれていて、娯楽作品としてそんなドラマがつくれるのはすごいなと感心してしまった。というか、現代の日本でこんな作品はだぶん作られることがないよね、というところにあらためて気づかされてしまった。社会全体で自国政府と自国民の加害の歴史にふたをしようと強迫的になっていることが、どれほど深刻にこの社会をこわしてしまっているのか、考えずにはいられない。



 というわけで、トータルな感想としては、とてもいいドラマを見せてもらいました、なのですけれど。ネガティブな感想も2つほど述べておきます。

 ひとつは、恋愛(男と女の)の要素が過剰で、それがドラマにおいてノイズに私には思えたこと。とくに主人公のキム・チョンアについて。彼女はホン・ユラの息子の自死に立ち会ってしまった人物で、それゆえにホン・ユラにとっても、またそのもうひとりの息子であるク・ジュンフィにとっても、のちに重要な役回りを果たすことになる。で、ドラマでは彼女をク・ジュンフィの恋人として登場させているのだけど、そこは恋愛的な要素ぬきの「友人」とかではダメだったわけ? という違和感はおぼえた。ドラマの中で彼女の果たした(果たしうる)役回りは、恋愛的な情緒に回収してしまうべきでない要素が多分にあるように思えたので。

 もうひとつは、高校生時代にそのキム・チョンアをいじめていたムン・ヘランをめぐって。自身の過去の加害行為に向き合おうとしない彼女に対して、その兄と父親がそれぞれビンタをするシーンがある。男性(父・兄)から女性(娘・妹)に対する暴力が、教育的指導的な目的でふるわれているからといって肯定的にえがかれてしまうのは、よくないと思った。


2025年8月6日

大野埼玉県知事、入管庁「ゼロプラン」、そして朝鮮学校排除


 埼玉県の大野元裕知事が法務省に対し、日本とトルコの相互査証免除協定の一時停止を要望したようだ。


埼玉知事「難民申請に課題」「治安悪化のファクトない」 ビザ問題で [埼玉県]:朝日新聞(2025年7月30日 10時30分)

埼玉県の大野元裕知事、外務省にトルコビザ免除協定の一時停止求める [埼玉県]:朝日新聞(2025年8月4日 20時40分)


 リンクした1つめの記事から、引用する(赤字強調はわたし。以下おなじ)。


 埼玉県の大野元裕知事が、日本とトルコとの相互査証(ビザ)免除協定の一時停止を要望する考えを明らかにした。大野知事は29日、難民申請について課題があるとし、「埼玉には難民申請を繰り返しているトルコ国籍の方が多く滞在しており、それに対する不安が(県に)寄せられていることが大きな理由だ」と説明した。

(中略)

大野知事は「治安が不安定化しているファクトはあまりないが、治安に対して不安感を抱いている方が多い」と強調した。


 知事が「トルコ国籍の方」をあからさまにやっかい者あつかいしているのにビビるのだが(思いっきり差別あおってるよね)、そのやっかい者あつかいしてもかまわないのだとこの人が主張する根拠が住民から「不安」の声がよせられているからなんだという。

 なんだそりゃ……。トルコ国籍の人によって引き起こされる治安悪化の「ファクト」はないけど「不安感」をいだく人が住民に多いから「トルコ国籍の方」は入国しにくいようにしろ、と。知事はそう国に「要望」しているのである。論理もなにもあったもんじゃない。。

 しかし、この埼玉県知事の発言、既視感ありまくりである。こういうの今までいくつも見てきたよ。

 最近では5月に入管が「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」なるものを公表した*1。そのプランをどういう経緯で作ることになったのか、入管庁のウェブサイトで説明されている。その入管庁の文章が、埼玉県知事の大野と同質のムチャクチャさなのである。


 これまで、ルールを守る外国人を積極的に受け入れる一方で、我が国の安全・安心を脅かす外国人の入国・在留を阻止し、確実に我が国から退去させることにより、円滑かつ厳格な出入国在留管理制度の実現を目指してきました。

 しかし、昨今、ルールを守らない外国人に係る報道がなされるなど国民の間で不安が高まっている状況を受け、そのような外国人の速やかな送還が強く求められていたところ、法務大臣から、法務大臣政務官に対し、誤用・濫用的な難民認定申請を繰り返している者を含め、ルールを守らない外国人を速やかに我が国から退去させるための対応策をまとめるよう指示がありました。

「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」について | 出入国在留管理庁】(2025年5月23日)


 「ルールを守らない外国人に係る報道」? 産経新聞とかが書き散らしてる差別記事*2のことか? 「ルールを守らない」に日本人も外国人もないのであって、それを「外国人」の問題として語ってる時点で人種差別以外のなにものでもない。そんな差別報道を真に受けてみせて、「外国人の速やかな送還が強く求められ」とかなんとか、めちゃくちゃにもほどがある。

 だいたい、「ルールを守らない」者は送還だ我が国から退去させるのだとか、さすがの入管法でもそんなザツなこと書いてないぞ。ヤフーニュースのコメント欄でわめいてるネトウヨの頭のなかの世界だよ、そんなの。

 「国民の間で不安が高まっている状況を受け」? 埼玉県知事とおなじこと言ってる。「ルールを守らない外国人がいる」などといって「不安」がってる人がいたら、あなたの言ってること差別だぞと指摘してやんないとダメでしょう。あんたの「不安」が外国人のせいで生じてるとみなし、実際にそう口に出して言うのは差別だよと。「国民の間で不安が高まっている」から外国人をどんどん退去させられるように「対応策」が必要だとか、なにをいってるんだか。

 埼玉県知事の大野や、入管庁の幹部役人たちがやっているように、「国民」「住民」の「不安」を口実に差別的な政策を主張していくのって、非常にタチがわるいものだから、なんかパッとわかりやすいような名前をつけられるとよいと思うんだけど。なにかいい呼び方はないだろうか。

 かつて、つねの・ゆうじろう氏が「差別のアウトソーシング」という見事なフレーズを使っていたものだけれど、大野知事らのやってることもその一種ではあろうと思う。


たとえば、岡林信康の「手紙」を思い出してください。

これは、「みつるさん」が「私」を「ヤリ逃げ」するという物語です。重要なのは、直接の当事者である「みつるさん」は差別主義者ではないことになっている点です。ここには、差別のアウトソーシングを見ることができます。差別をするのは自分ではなくて、「おじさん」なのです。「お前が部落だから結婚するのは嫌だ」というのではなくて、「お前が部落だからダメだとおじさんが言ってるからしょうがないでしょ。俺は気にしないんだけどね、そんなこと」というわけです。

手塚プロダクションの歴史主義とアウトソーシングされた差別 - (元)登校拒否系】(2008-01-20)


 みつるさんが「おじさん」にアウトソーシングしながらみずから差別を遂行するように、大野元裕や入管庁は「国民」や「住民」に差別をアウトソーシングしている。そこにみいだせる構造はおんなじである。差別主義者として想定された「国民」「住民」を口実にして、大野や入管は外国人に対する差別を遂行している。もうすこし適切に言いなおせば、「国民」「住民」を差別の共犯者にしたてあげることで、自身が差別を遂行しようとしている。

 そして、日本の行政のこういうやりかたは、「最近の傾向」などではない。日本政府が高校無償化政策から朝鮮学校を排除した差別のやり口を、いまいちど思い出しておこう。

 2010年4月に民主党政権にてスタートした高校無償化。朝鮮学校も明確にその基準をみたしていたが、政府は「審査中」などと称して朝鮮学校への適用を2年半以上にわたり保留しつづけた。

 2012年に自民党の安倍政権が成立すると、下村博文文科相は「朝鮮学校については、拉致問題に進展がないこと、朝鮮総聯と密接な関係にあり、教育内容、人事、財政にその影響が及んでいることなどから、現時点では国民の理解が得られない」と発言。翌13年2月20日、文科省は高校無償化法の施行規則(省令)を改定し、朝鮮学校がみたしていた適用の基準「ハ」をまるごと削除した。

 つまり、「国民の理解が得られない」という口実で、自分たちが作った法をねじまげて朝鮮学校を無償化政策から差別的に排除したのである。

 そのあたりの経緯は、以下のページがまとまっていてわかりやすいので、参考にしてほしい。


〈高校無償化〉朝鮮学校完全排除を狙った「改正案」、文科省が意見公募 | 朝鮮新報(2013年01月05日 16:00)


 そういえば、おなじ2010年代には、都道府県が朝鮮学校への補助金を打ち切る動きがあいついだが、その定番の口実が「県民の理解が得られない」であった。神奈川県も一例である。


 神奈川県の黒岩知事が13日、神奈川朝鮮学園に対して30年以上も続けて支給してきた補助金を突如打ち切るという暴挙に出たが、同学園に子どもを通わせている保護者らの怒りはおさまらず、県庁への要請が続いている。

 県知事は、「朝鮮学校と北朝鮮は関係ないと、県民に理解してもらう自信がない。盾になり続ける気持ちがうせた」(2月18日、神奈川新聞)と説明したが、国籍、出自にかかわらず、自治体首長には子どもを率先して守る責務がある。核実験と子どもたちはまったく関係ない。黒岩知事は最後まで子どもを守る盾になるべきで、打ち切りを撤回しない限り、子どもたちを再度、社会的な差別にさらすことになる。

黒岩知事は盾になったのか - イオWeb】(2013年2月21日)


 この黒岩神奈川県知事、最近では排外主義に対し「大変な違和感」などと言ってこれに反対するかっこうをつけたりしてて、話題になっていた。


 黒岩祐治知事は9日の定例会見で、参院選の街頭演説などで一部の政党や候補が外国人に対する排外主義的な主張を訴えていることについて、「外国人と共に生きる社会をつくることは基本であり、排外する動きには大変な違和感を持っている」と述べた。

(中略)

 県は多文化共生の取り組みを進めてきたとし、「外国人と調和しながら共に生きるのは県の特徴。しっかりと守り通したい」とも話した。

神奈川・黒岩知事「大変な違和感」 参院選、排外主義的な一部主張に懸念 参議院選挙2025 | カナロコ by 神奈川新聞】(2025年7月9日(水) 22:10)


 あれれ? 12年前に「県民に理解してもらう自信がない」といって朝鮮学校の補助金を打ち切った黒岩さんとおなじ黒岩さんだよね? どうなってるの? 「排外する動き」をになってきたのは、あなたもおなじじゃん。参政党と同類じゃないの? どうしてちゃっかり批判する側にまわってるの?

 しかし、おそらくこういう人は自身の言動に矛盾を自覚していない。みつるさんのように、自身の差別を他者にアウトソーシングしているからである。

 それにしても、私たちは、こうして黒岩や大野や文科省や入管庁などが差別の共犯者として期待する「国民」「住民」「県民」であることを拒否しなければならない。



*1: 宇宙広場で考える: 入管庁「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」がヤバすぎる(2025年6月7日) 

*2: 宇宙広場で考える: 産経新聞がクルド人へのヘイトスピーチを書き散らしている件(2023年7月31日)

2025年7月20日

参院選前日に参加したデモのことなど

 

 「悪政追放 7.19最近気になることデモ」ということで。


黄色の地に黒字で
「悪政追放 7・19最近気になることデモ」
と書かれた横断幕と
黒地に白抜きで「NO EXPO ANYWHERE」
と書かれた横断幕。

 いいタイミングでこういうのを企画・主催してくれた人たちがいたので、便乗して声をあげてきました。

 このデモを呼びかけていた人のひとりは、こう書いてました。「選挙期間、果たして選挙だけやってていいのか!?」

 おお! まさにそこをこそ問うべきだよな、選挙期間こそ。そう思って、ぷらっと出かけたのでした。

 中之島公園を午後6時に出発して、なんばまで2時間ほど20人くらいで歩きました。日が暮れていく時間帯とはいえ、熱かった。そして長かった。


この日、私がかかげたプラカード。
「日本政府&自・公・維・参など
の排外主義に反対
さべつに はんたい」
と手書きで書いてある。

 「最近気になることデモ」という名のとおり、スピーチやコールをしたい人にマイクをまわしながら、それぞれこの選挙期間中に考えたこと思ったことを話していくというスタイル。

 非常に印象深かったのは、マイクをもったどの人の言葉も(ひとりの例外もなく!)、今回の選挙について語りながらも、この選挙で語られることのないテーマ、いうならばこの選挙が抑圧しているテーマへとその語りをはみ出させていたことです。民主主義というのは、こういういとなみのことなのであって、それは制度化された選挙などというものにおさまるような小さいものではないのではないか。

 そんなことを感じながら歩いていたら、「コールしませんか?」とマイクをまわしてもらったので、その感じたことをコールで表現してみようと思いました。

 ひとつは、今回の選挙では、参政党という極右政党が大きな支持を集めており、そのことにリベラルや左派が危機感をいだくのは当然のことなのだけれども、その結果、争点が大きく右にずらされてるんじゃないか、という違和感。参政党を極右と言うと、自民党なんかは穏健右派ぐらいかなとうっかり思ってしまいかねないけど、そもそもあいつらも極右じゃん。自民党も維新も国民民主党もゼノフォビア(外国人嫌悪)をあおって有権者の人気をえようとしてきたし、2023年と24年の入管法改悪はそいつらと公明党が賛成して成立したよね。立憲民主党だって、人気取りに外国人差別をあおってる極右議員いるよ(例→「不法滞在天国になってしまう」だって…… 立民・藤岡議員の妄言)。これらぜんぶまとめて否定しなきゃ。おまえらぜんぶ退場じゃ。

 というわけで、参政党とあわせて自民・公明・維新・国民民主をディスるコールをしました。

 もうひとつは、今回の参政党現象にとどまらない、選挙というイベントがどうしてもはらんでしまう問題。各政党、各候補者は戦略的に争点をしぼろうとする。でも、すくなくとも社会の公正・公平にかかわるイシューについて、「どれかをとりあげ、どれかは後回しにする」なんてことは本来あってはならない。それは自己矛盾でしょ。「争点をしぼる」ということは、公正・公平を断念するということだから。

 だから、私たちうぞうむぞうは、小さく切りつめられた「争点」をおしひろげ、捨てられた「争点」を拾いあげる表現をしていかなければならない。それは候補者や政党じゃなくて、私たちうぞうむぞうの人民ができること。デモはそのための場のひとつ。「選挙期間、果たして選挙だけやってていいのか!?」というこのデモの呼びかけ人のつきつけた問いを、私はそんなふうに受け取りました。

 そういうわけで、私は「差別に反対」「差別をやめろ」とコールしながら、そこに差別にかかわるテーマを列挙してはさみこむようなコールをしてみました。

「差別に反対」

「入管解体」

「差別に反対」

「沖縄に基地を押しつけるな」

「差別をやめろ」

「天皇制反対」

「差別をやめろ」

「戸籍制度を廃止しろ」

「差別をやめろ」

「トランス差別やめろ」

……

という感じ。

 「もっとあれも言えばよかった」というテーマがいくつもあるのですが、ほかの参加者もみんな選挙戦ではあまり語られないけれどそれぞれ関心のあるテーマについてコールしたりスピーチしたりしていて、それを聞けたのはよかったなと思います。そうやってさまざまなイシューについて語っていくことは、たんにそれらを「列挙」しているだけでなく、それらの個別にみえるテーマがおたがいにつながり関連しあっていることを考えていく、そういう経験でもあります。

 コールしたあとには、ちょっぴりスピーチもしました。(少なくとも現行の)選挙制度は制限選挙でしかないこと、選挙制度自体が差別的なのだから選挙だけで差別の問題がよくなることはないこと、むしろ差別的な制度をそのままに選挙だけ投票だけやってたら差別は大きくなっていくこと、だからこうやって選挙の外でも差別をなくそうと声をあげていくことが大事だと思う、というようなことを話しました。

 まあなんというか、外国人住民を選挙権・被選挙権から完全に排除した現行選挙制度で、ろくでなしどもが外国人排斥をきそいあっている状況がふざけるなとまずは言いたいけれど。しかしだからといって制度の差別性を問うことなしに「ヘイトを受けている外国人は投票できないから、そのぶん私たちが責任もって一票を投じなければなりません」みたいなことを語るのもギマンがはなはだしい。

 有権者だって一票しか持ってないのだから、他人のぶんもかわりに投票することなんてできないし、そもそも権利をうばわれた人が自分で投票できないことの問題(不正義)は有権者の投票行動によってはなんら解消しない。

 ちゃんと言うべきなのだ。この選挙制度はクソだ、と。自分が投票するかしないかを有権者は選択できる(そして、その選択をせまられる)けれど、どちらを選択するにせよこの選挙そのものは公正じゃない。そこをまずはちゃんと認めないと、不公正なものを正していくことはできない。民主主義への道のりは遠い。でも、歩きはじめることはできる。


2025年6月17日

하녀들(ハニョドゥル/下女たち)

 

イニョプの道 | サンテレビ


 すこしまえから朝鮮語の勉強をやっておりまして、まだまだぜんぜんの初学者なのだけれど、韓ドラをみてて、ときたま字幕なしに言葉が頭に入って来るようなこともあったりして、おもしろいものである。

 最近みたドラマが、「イニョプの道」という日本語の題がついているのだが、オープニングのタイトルバックでその原題が「하녀들」だということを知った。「下女たち」という意味である。

 日本語版では、イニョプというこのドラマの主人公の名がタイトルに入っている。ところが、韓国で放送されたオリジナル版は、「하녀들」(ハニョドゥル)という、そっけなくも聞こえるタイトルが付けられていたのだと知って、しかしそこに制作者の思いがきっと込められているのだろうなと想像した。



 両班(やんばん)の若い女性であるイニョプは、父が謀反の罪をきせられ処刑されたため、奴婢の身分に落とされ、かつての親友の家に下女としてつかえることになる。イニョプは、苦難に立ち向かいながら、ついに父の無罪を証明し、家門を復活させて元の身分に復帰することができました! めでたしめでたし。

 乱暴にまとめてしまえば、こういうストーリーである。

 イニョプ自身は、身分を落とされることで、それまで人間以下のモノとしてあつかってきた下女たちとはじめて「人間」として出会うことができ、自分自身も「人間」として成長し始める。

 でも、結局のところ元の両班の身分にもどってハッピーエンドだと言われても、私は釈然としない。身分回復後のイニョプはかつての下女仲間の何人かを連れてきて、「あなたたちに苦労してほしくないから」とか言って、自分の家につかえさせたりもするのだけど、それでは「幸不幸は主人しだい」という彼女たちの立場はなにもかわらない。

 というわけで、イニョプというひとりの女性の物語としてみれば、もやもやが残る結末である。時代劇なので、その時代(朝鮮時代)の限界をこえた結末にはできないという制約はある。なので、あたりまえといえばあたりまえだけど、けっきょく身分制は温存されちゃうのね、という。



 しかし、だからこそ、「하녀들」(ハニョドゥル)というタイトルを制作者があえてつけているところに意味をみいだしたくもなるのだ。たんなる「両班のお嬢さまがいっとき奴婢に落とされたけれど、苦難を克服し、身分を回復できました」というイニョプの物語としてだけみないでね、と。イニョプが最終的には身分回復することで通りすぎてしまう、下女たちの生きざまをこそみなさい、と。

 イニョプが自身も下女になって初めてかいまみた下女たちの世界には、主人の目の届かないところでひそかになされるかばい合いがあり、助け合いがあった。奴婢たちには正義感があり、そこにプライドもあった。抑圧に無念さと無力感をいだかされながらも、一矢報いようという反抗の種はそこらじゅうにある。そのひとつひとつは消費しやすい物語にはならないかもしれないけれど、かけらのようにあちらこちらにちらばっている。そんな光景がいきいきと描かれる場面がこのドラマにはいくつかあった。

 こういうふうに身分制秩序のなかに、これをゆるがす反抗の契機をちりばめて描き、いずれそれが崩壊し人間によって克服されるであろうことを暗示するという仕掛けは、韓国でつくられる時代劇によくみられるように思う。そういうドラマをつくれる社会だということは、天皇制という野蛮な身分制秩序が国家の制度として恥知らずにも堂々と温存され、身分制が克服すべきものだということすらいまだ共通の了解として成立しない社会の住民からすると、いくらかまぶしく感じてしまう。


2025年6月12日

見下している相手から道義的に正しい抗議を受けたとき


 自分が下に見ている相手から道義的に正しい抗議を受けると、パニックになって激昂してしまう、ということがある。

 抗議を受けるというのは、おまえの行為は正しくないと指摘されることなのだから、なかなか心おだやかではいられない。必要以上に防御的な態度をとってしまうというのは、ありがちである。

 たとえば、抗議をしてきた人に対して「あなただって同じようなことしてるじゃないか」とか「私だってつらいんです」とか言ってしまうのが、それだ。前者は相手の抗議する資格を否定しようとする行動だし、後者は自分も被害者のポジションをとることで自分への抗議を無効化しようとする行動だ。どちらも、抗議から自分を守ろうという防御的な行動ではあるけれど、相手をだまらせて抗議をさせないようにしているのだから攻撃的な行動でもある。

 対等な立場の相手からの批判や抗議であっても、こういう攻撃的な反応をかえしてしまうことはしばしばあるものだけれど、これが自分が下に見ている相手からの抗議となると、ほとんどパニックとしか言いようのない激しく攻撃的な反応をしてしまうことがある。その抗議の内容の道義的な正しさが疑いようのないものであれば、その攻撃性はますます激しくなりうる。

 以下は、まさにそういうケースではないだろうかと思った。


パンツ一丁で身柄拘束は「違法」、都に33万円の賠償命令 原告代理人「言うことを聞かせるための拷問だ」東京地裁 - 弁護士ドットコム(2025年06月11日 16時50分)


 これは新宿警察署の警察官たちが、留置していた人に組織的に暴行をくわえたという事件で、その内容は口にするのもはばかられるほどひどい。で、気になるのが、なにがこの人たちをこういう行動にかりたてたのかという点である。


同年7月、同じ部屋に収容されていた1人が風邪の症状をうったえ、38.9度の熱があることが判明した際、別の収容者が毛布の差し入れを求めたものの、担当の警察官に拒否された。

そこで男性が「熱がある人を1時間放置するのか」「毛布1枚くらい入れてもいいのではないか」といった趣旨の発言をしたところ、保護室に連行された。

男性はそこで約2時間にわたり、服を脱がされパンツ一丁にさせられ、両方の手首と足首を縛られた状態にされたという。

その間、尿意を催した男性がトイレに行きたいと求めたが、「垂れ流せよ」などと言われ対応してもらえず、男性は我慢できずに身体拘束を受け寝転がされたまま排尿した。

また、身体拘束を解かれたあと、便意を催した際にはトイレットペーパーを要望したが無視され、男性はやむなく手に水をつけて拭かざるを得なかったという。


 いやはや常軌を逸した攻撃性があらわれており、警官たちは集団的にパニックにおちいってるようにしかみえない。で、この人たちを激昂させた原因は、「熱がある人を1時間放置するのか」「毛布1枚くらい入れてもいいのではないか」という、留置されてる人からのどう考えても道義的にまともな抗議の発言だったようである。というか、「抗議」以前にまっとうな「提案」であって、「そうですね、毛布持ってきますわ、ありがとう」とか言って対応すればよいものを、警官たちはなぜかブチ切れるのである。

 なぜブチ切れるかといえば、自分たちが見下している相手から、まっとうな批判を受けたからだろう。警察官たちにとっては、悪いことをしていることを取り締まっているのだという自負が、自分たちの道義的な優位性の根拠になっているということもあろう。「犯罪者」が警察官のプライドをささえてくれているのである。その「犯罪者」から「熱がある人を1時間放置するのか」と自分たちの正義に疑問をつきつける抗議(それもその内容はだれも否定できないような常識的に正しいものである)をつきつけられたからこそ、警官たちはパニックになったのであろう。

 警察官が職務上こういうパニックを起こしやすい位置にいるのは確かだろうから、組織として対策をとる必要があるのではないか。

 もっともこれは、警官とかだけでなく、教師とか福祉にたずさわる人とか、あるいはボランティアふくめ支援者的に他者に関わる機会のある人とか、育児をする人とか(←こうやってひとつひとつあげていくと、この社会で生きているだれでもそうじゃないかという話になるけど)にも関わってくる課題である。

 大事なのは、相手を見下さない、自分と対等な他者として相手と関わるということになるのだろうけれど、まずは相手よりよけいに権力をもっている場合に、自分も新宿署の警察官たちのようなパニックにおちいる可能性があるのだというところを自覚するところから始める必要があるのかも、と思いました。


2025年6月7日

入管庁「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」がヤバすぎる


  5月23日、法務大臣が記者会見をおこない、「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」なるものをあきらかにした。

「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」について | 出入国在留管理庁(2025年5月23日)


 入管庁作成の資料は、以下のリンクからみることができる。

「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」(PDF)


 資料をスキャンした画像もはっておく。

【入管庁資料「ゼロプラン」1ページ】


【入管庁資料「ゼロプラン」2ページ】

 この「ゼロプラン」に対しては、またあらためて批判を書きたいが、今回はざっと読んでの雑感を書きとめておく。



1.難民審査はますます雑に

 資料の2ページ目に、「不法滞在者ゼロプランによって期待される当面の効果(目標)」と題して、3つの数値目標がかかげられている。

 第1に、難民認定申請の審査を迅速化し、2030年までに平均処理期間6か月以内を目指すというもの。1ページ目の記述などとあわせてみると、「誤用・濫用的な難民認定申請」(と入管がみなす申請)を「類型化」することで審査を迅速化するということのようだ。ようするに、「こういうものは誤用・濫用的な申請だ」という典型例をあらかじめまとめておき、その典型例に類似しているようにみえる申請は申請者本人からのインタビューも省略するなどして「迅速」に結論を出してしまう、ということだろう。

 これは、先入観をもって審査をやりますよということを、公然と宣言しているようなものだ。「誤用・濫用的な申請」にありがちなパターンに合致しているようにみえるものは、時間をかけずに処理しますよ、と。その「早期かつ迅速な処理」は不認定の結論ありきで予断をもっておこなわれることになるだろう。

 しかし本来、難民審査というのは、保護すべき人をとりこぼしてしまうことを何よりおそれなければならないものである。ある申請の内容が、これまでの不認定の典型的なパターンに沿うようにみえたとしても、当然ながらそれぞれの審査は先入観にとらわれないようにていねいになされるべきだ。「類型化」によって審査を「迅速化」しようという入管庁の発想(しかも、これはあくまでも「難民として認定しない」という結論を出すのを「迅速化」しようという話だ)は、本末転倒である。

 しかも、日本では、現状すでに、難民として認定すべき人が適切に認定・保護を受けられているとはとうてい言えない状況にある。難民申請の99%以上は不認定である。こうした状況のなかで、「類型化」による審査の「迅速化」を進めようとすれば、認定・保護を受けるべき難民申請者がますます取りこぼされることになるのは、確実である。



2.仮放免者などを「半減」させる?

 資料の2ページ目に数値目標としてかかげられている2つめが、「退去強制が確定した外国人数」について、2030年末までに半減を目指すというもの。

 ここからわかるのは、「不法滞在者ゼロプラン」とは言っているものの、入管庁が主要なターゲットにしているのがいわゆる「不法滞在者」の全体ではなく、すでに「退去強制が確定した」仮放免者など(あとで述べるように入管はこれを「送還忌避者」という言葉で呼んできた)であるということである。

 なお、「不法滞在者」という言葉は、法務省が国民向けに摘発や収容・送還を正当化するために、そのいわば反社会性・犯罪性を誇張・ねつ造してもちいているものなので、ここでは「非正規滞在者」という、よりニュートラルな語を使うことにする。

 その非正規滞在者数は、正確な実数をつかむのが難しいのだが、8~9万人といったところではないかと思う。最新の入管白書によると、2024年1月1日時点の超過滞在者数(オーバーステイ)*1が7万9千人ほど。この数字は、1993年の29万人ほどをピークに下がりつづけ、2012年以降現在まで6~7万人ほどの横ばいで推移している。

 入管庁の「ゼロプラン」が問題にしているのは、この8~9万人ほどとみられる、そのほとんどは未摘発の非正規滞在者の全体ではない。すでに摘発されるなどして退去強制処分を受けて、出国していない人びとだ。今回入管庁が出してきた資料によると、その数は3,122人。3月にやはり入管庁がおこなった報道発表*2もあわせてみると、その内訳は被退令仮放免者2,448人、被退令監理者213人、被退令収容者461人とわかる。



3.入管政策の誤りを「送還忌避者」に責任転嫁

 この、退去強制処分を受けて、しかし退去にいたっていない人を、入管は「送還忌避者」と呼んできた。2016年ごろから顕著になった入管施設での長期収容問題は、入管がこの「送還忌避者」を減らそうという目的で収容を長期化させたことで生じたものだ。

 結局、「送還忌避者」を長期収容・くり返しの収容によって帰国に追いこみ減らしていこうという強硬な政策は、収容死をふくむおびただしい人権侵害を引き起こしながら、入管にとっても思うような成果をあげられなかった*3

 すると今度は入管は、「送還忌避者」が送還に応じないから収容が長期化するのだ、また難民認定申請の誤用・濫用的な申請が「送還忌避者」増加の原因になっているのだという理屈で、入管法の改定を画策し始めた(2019年10月に法相が「収容・送還に関する専門部会」設置)。

 2021年に3回目以降の難民申請者の送還を可能にするなどをふくむ改悪入管法が提出され、反対運動・世論のもりあがりのなか一度は廃案になったが、23年に同様の法案が再提出され、同年6月に可決・成立。24年6月10日から施行されている。

 この改悪された入管法を活用して、「送還忌避者」を減らしていこうというのが、今回の「ゼロプラン」である。

 しかし、「送還忌避者」なるものがなぜ増え、あるいは減らないのかといえば、それはこれまでの入管政策に原因があるとしか言いようがない*4。「送還忌避者」が生み出されるのは、入管が在留を認めるべき人に在留を認めず、退去強制処分を濫発していることによるところが大きい。

 ひとつには、在留特別許可の基準をきわめて厳しく設定しているということ。送還を実施すれば家族分離が引き起こされるなど人権上在留を認めなければならないケースなどにも退去強制処分が出ている。もうひとつには、難民認定が適切になされていないこと。

 つまるところ、在留を認めるべきケースにこれを認めず、退去強制令書が発付されているので、帰国しようにもできないから送還を拒否せざるをえないという人が多数出てくるのは当然である。入管政策が「送還忌避者」を生んできたのである。

 ところが入管は、みずからの政策・制度運用や難民審査のあり方を反省することはいっさいしないかわりに、送還を忌避する者が長期収容をもたらしているのだ(だから長期収容問題を解決するために送還を強化するための法改正が必要である)と、あべこべな主張をする。このあべこべな責任転嫁の論理のもと進められ成立してしまったのが昨年6月から施行されている改悪入管法であり、またそれらにもとづいて策定されたのが今回の「ゼロプラン」である。



4.無理やりの送還を激増させれば何がおきるのか?

 「不法滞在者ゼロプラン」なるものが、入管のいうところの「送還忌避者」(退去強制処分を受けたが仮放免や監理措置により収容を解かれている人、また同処分を受けたが送還をこばんでいる被収容者)をおもなターゲットにしているのは、いまみてきたとおりである。では、このプランはその「送還忌避者」をどうやって減らそうとしているのだろうか。

 資料の2ページ目にかかげられている数値目標のうち、3つめは「護送官付き国費送還」について、3年後に倍増を目指すというものである。「護送官付き国費送還」というのは、入国警備官が送還対象の人を拘束し飛行機に搭乗させるなどして送還先の国まで連行するというものである。これを2024年の249人から2027年には倍の500人ほどにしようというのである。

 送還されようとする人が抵抗すれば、入国警備官はこれを「制圧」して無理やり飛行機に乗せようとするので、非常に危険である。2010年3月には成田空港で送還中の「制圧」の過程でガーナ人が死亡するという事件も起きている。

 入管のいう「送還忌避者」のなかには、自国に帰れば生命の危険があって難民申請している人や、送還によって家族がばらばらになる人、長期間にわたり日本にいるため出身国には生活基盤がまったくないなど、帰国できない深刻な理由のある人たちが多くふくまれる。こうした人たちを送還しようとすれば、上で述べたような事故の危険性が高くなるし、事故が起きなくとも、送還そのものが深刻な人権侵害をもたらす。

 無理やりの送還には、取り返しのつかない事故の危険性があり(その危険性を予測できるのに実行した送還で人が死ぬのは、「事故」ではなく「殺人」と呼ぶべきだが)、それを回避したとしても送還された人の生命・安全にやはり取り返しのつかない損害をあたえる可能性がある。そのような権力行使について、数値目標を設定するという発想がそもそもヤバすぎないか。百人斬り競争かよ。入管の幹部の役人たち、倫理観がぶっこわれてないか。「不法滞在者」とやらより、おまえらのほうがよっぽどこわいよ。



5.入管施設での地獄が再現される

 「送還忌避者」減らす方策について、「ゼロプラン」が何を述べていないかという点も重要である。

 「送還忌避者」は送還を実施することでも減るが、その退去強制処分を取り消して在留を正規化することによっても減らすことができる。入管が今回公表したプランでは、後者についての言及がいっさいない。

 もっとも、1ページめの「(6)改正入管法の新制度を活用した自発的な帰国の促進」というところに、「出国命令制度や上陸拒否期間短縮制度の積極的な活用を促し、自発的な帰国を促進する」とあるのは、この「ゼロプラン」において唯一肯定的に評価できるところだと思う。上陸拒否期間短縮制度というのは、23年の入管法改定で新設された制度で、退去強制処分の確定した人は最低でも5年の上陸拒否期間が設定されるところを、場合によってはこれを1年に短縮できるというものである。一度帰国しなければならないので在留を正規化するということとは違うが、日本人の配偶者のいる人などは、これによって救済される人もあるだろう。

 しかし、これのほかに、在留を認めることで「送還忌避者」を減らしていくという方向での方策は、この「ゼロプラン」にはない。難民認定のプロセスを適正化することで、また在留特別許可の基準を見直すことで、退去強制処分を取り消して在留を認めるべき余地のある人は出てくる可能性はあるはずだが、それらの点は検討されないようだ。

 となると、「送還忌避者」をもっぱら送還によって減らすしかない、ということになる。3千人以上の「送還忌避者」を2030年までに半減させようとするなら、さきにふれた「護送官付き国費送還」を激増させ、他方では仮放免や監理措置で収容を解かれている人を再収容し、期限の上限が設定されていない長期の収容によって痛めつけ、帰国するように追い込んでいくということをするしかないだろう。2016年ごろから2020年にかけての、各地の入管収容施設の地獄が再現されることになるだろう。収容死する人がまた出てくるのを避けるのはむずかしいだろう。

 そうならないためには、この「ゼロプラン」なるものを撤回させ、もっぱら送還のみによって「送還忌避者」を減らしていこうという入管の方針を転換させなければならない。



6.ヘイトスピーカーと公然と手を組む国家機関

 この記事の最初にリンクした入管庁のページ「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」についてには、以下のような記述がある。この「ゼロプラン」がどのような経緯で作られることになったか、説明するくだりである。


……昨今、ルールを守らない外国人に係る報道がなされるなど国民の間で不安が高まっている状況を受け、そのような外国人の速やかな送還が強く求められていたところ、法務大臣から、法務大臣政務官に対し、誤用・濫用的な難民認定申請を繰り返している者を含め、ルールを守らない外国人を速やかに我が国から退去させるための対応策をまとめるよう指示がありました。


 「ルールを守らない外国人に係る報道がなされるなど国民の間で不安が高まっている状況を受け」などと書いているのは、産経新聞や、一部のジャーナリストを自称する者らが、クルド人住民に対する差別をあおる発信を報道と称しておこなっていることなどをも指しているのであろう。

 入管庁のサイトをみると、「共生社会の実現に向けた外国人の受け入れ環境の整備」も入管行政の基本的な役割のひとつだと言っている。ならば、報道と称しておこなわれている外国人住民への差別扇動やヘイトスピーチについて、安易にこれをうのみにして差別と排外主義に加担しないよう、国民に注意をよびかけることをこそ、入管庁はすべきではないのか。

【入管庁のサイトより「入管行政の基本的な役割」を説明した図。
3点目として「共生社会の実現に向けた外国人の受け入れ環境の整備」
がかかげられている。】

 ところが、入管庁がげんにやっているのは、一部の報道機関やジャーナリストがおこなっている差別扇動・ヘイトスピーチと、それらによって育てられつつある「国民の不安」を口実にして、みずからの政策を押し通そうというものである。入管は、産経のような差別扇動者のゴロツキどもと自分らが共犯者であることをかくそうともしていないのである。税金つかってなにやってるんだ、こいつら。



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*1: 在留期間が切れて在留している人数。法務省・入管用語では「不法残留者」という。この超過滞在者数に、密航など入管が把握していないかたちで日本に来て在留している人数を足したのが非正規滞在者数の全体ということになる。

*2: 令和6年における入管法違反事件について | 出入国在留管理庁(2025年3月14日)

*4: ここでは簡潔にしか述べないが、詳しくは以下のリンク先記事などを参照。

2025年5月29日

「不法滞在天国になってしまう」だって…… 立民・藤岡議員の妄言


「〇〇のくせに」という思考

 差別扇動で商売するゴミクズ新聞のサイトには、あまりリンクをはりたくないのですが。


運転免許証に在留期間記載なく「不法滞在天国に」 外国人の金属盗巡り立民・藤岡氏が指摘 - 産経ニュース(2025/5/23 12:55)


 国会質問などで外国人への嫌悪をあおるのが、議員にとって人気取りの有効な手段になっているということなのだろう。

 それにしても、「不法滞在天国」なんて言葉、よくもまあ口から出てくるものだと、ある意味感心してしまう。立憲民主党の衆議院議員・藤岡隆雄(栃木4区)の発言である。


また、藤岡氏は「不法滞在の人が在留期間を越えていて自動車を運転しても、不法滞在以外はなんの問題もないのか」との疑問をぶつけた。警察庁は「運転という観点では無免許運転には該当しない」と語った。藤岡氏は「不法滞在で運転はオーケーなら、やはり、不法滞在天国になってしまう懸念がある」と指摘した。


 運転免許が取得でき、自動車を運転できるというだけのことがなんで「天国」なのか、さっぱりわからない。

 差別主義の考え方におかされると、たとえば外国人なら外国人が、あるいは女性なら女性が、人間としてあたりまえのことをするのが「分不相応」だとか「生意気」だとかみえるものだ。男がやれば普通とされることでも、同じことを女がやると、「女のくせに」とかそういうことを言い出す。

 こういう差別主義的な考えは、相手になにか責められるような非があるようにみえるときには、いっそう勢いづく。たとえば外国人のなかでも、「不法滞在」というルール違反をおかしている相手だと思えば、ますます「〇〇のくせに」という、まさに差別的としか言いようのない発想をぶつけてもよいのだとなる人間はいるのだ。

 そういうわけで、藤岡とかいう議員のような人間には、「不法滞在のくせに運転免許を取得できるなんて!」「不法滞在で運転がオーケーなのか!」などというばかげたことが、おどろきポイントになってしまうのである。

 この人の「不法滞在天国になってしまう懸念がある」という発言なんて、どうみても誇大妄想としか言いようのないものだけれど、こういう発言が一定の有権者にウケるという計算があるのだろう。実際、産経新聞という排外主義的な連中を読者とする新聞がこうしてくわしく国会質問の様子を記事にして宣伝してくれているわけだし。



「天国」?

 上の産経の記事によると、藤岡が「不法滞在天国になってしまう」として、懸念してみせているのは2点あるようだ。ひとつは、運転免許証に在留期間が書かれていない、また在留期間が切れても免許証としては有効であるため、本人確認のための証明書に使えてしまうこと。もう1点が、さっき引用したように、在留期間が切れても免許証としては有効なので車の運転ができるということ。つまり、(在留期間が切れていることをあかさずに)本人確認ができたり、車の運転が合法的にできたりすることが、「不法滞在天国」だと言っているわけである。

 入管庁が出している入管白書をみると、超過滞在者(在留期間が切れて日本にとどまってる人。入管は「不法残留者」と呼んでいる)は、2024年1月時点で79,000人ほど。

 この人たちの実態を私はくわしく知っているわけではないけれど、「天国」じゃないと思うよ。

 大っぴらに就労できないので仕事みつけるのも大変だし、当然そのぶん条件のよくない仕事ばかり。健康保険に加入できないので病気やケガでも病院に行くのにためらわざるをえない。警察や入管に摘発されると、送還や入管施設への収容の危険がある。このことは、どうしても帰国できないという事情のある人(8万人弱のうちのごく少数だろうけれど)にとっては、非常に深刻な問題だ。なにか困った状況になっても、こわくて警察などをたよるのも難しい。ウィシュマさんだって、DVからのがれようと警察に行ったら、入管送りにされて、しまいには殺されたではないか。運転免許証の交付を受けられるぐらいで「不法滞在天国になってしまう」とか、ばかげた言いぐさにもほどがある。

 入管庁の報道資料によると、退去強制処分を受けて仮放免状態にある人は、2,448人(2024年末現在)だそうだ。こちらは、入管に自主出頭したり超過滞在を摘発されたりなどして、収容は解かれているものの定期的な出頭義務を課して入管が住所などを把握している人の人数。この退令仮放免者と呼ばれる人びとの状況は、私もある程度具体的に知っているけれど、「天国」などと言えるようなハッピーな暮らしをしている人はいない。就労は禁止され、移動の自由は住んでいる都道府県内に制限され、国民健康保険ふくめ社会保障から排除されている。1~2か月ごとの入管への出頭日のたびに、「収容されるかもしれない」「送還されるかもしれない」との恐怖にさらされる。

 仮放免の人なんかは、難民ふくめ国籍国には帰れないという人が多いし、退去強制処分が出てから10年以上という人はぜんぜんめずらしくない。日本での生活が20年とか30年超とかの人もざらにいる。そんな人たちをこれからどうするのかという問題はわきに置くにしても、現に日本に存在し生活している人たちである。車を運転する必要のあるという場合もあるだろうし、本人確認のために運転免許証があると便利だということもあるだろう。そういう生活のささやかな、しかし切実な必要性のあることについて、「不法滞在のくせに運転がオーケーなのか」「不法滞在天国だ」などという理屈にもならない言いがかりをつけるのは、やめてほしい。

 そもそも運転免許というのは、運転の適性のある人に免許を与えることによって道路交通の安全を確保するためのものであるはずで、それを一部の人間から取り上げていじわるすることで人気取りするためのものなんかではない。



「在留活動の禁止」という理屈

 産経新聞がくわしく報じている藤岡議員の国会質問は、入管からの入れ知恵があったのかどうか知らないけれど、その思想が入管っぽいなあという感想を私はいだいた。

 10年近くまえのこと。ある仮放免の人が、役所から紹介されて図書館の蔵書整理のボランティアに参加したことがあった。仮放免には、報酬を受ける活動はしないという条件がつけられているのだけれど、報酬のない活動には参加しても問題ないだろうとその人は判断したのだった。

 ところが、その人が住んでいた地方の入管支局が、これにいちゃもんをつけてきた。仮放免は「在留活動」が禁止されるので、報酬を受け取らないボランティアでもダメなのだという。

 「在留活動の禁止」? 「在留活動」とは何なのか? 道ばたに落ちているゴミを拾うのは「在留活動」か? 来客にお茶を出したり料理をふるまったりするのも「在留活動」か。車を運転して家族を送迎するのは? 息を吸ったりウンコしたりするのも外国人が日本でやれば「在留活動」だろうか?

 結局、図書館ボランティアの件は、入管地方支局に本人と家族・支援者が抗議し、本省(当時の法務省入管)にも問い合わせるなどして、仮放免者がおこなっても問題ないということになったのだと記憶するが、この「在留活動」というのは、その中身をいくらでも拡大して解釈できるところがミソである。

 そして、「在留活動の禁止」うんぬんということは、末端の職員が勝手に言っていることではなく、入管が組織として公式に言っている理屈だ。たとえば、以下の「収容・仮放免に関する現状」と題された入管庁作成の資料*1


収容・仮放免に関する現状[PDF]


 この資料の2枚目で「収容の制度概要」を説明するところに「退去強制手続は,送還の確実な実施,本邦における在留活動の禁止の目的から,身柄を収容して行うのが原則」と書いてある。

 「身柄を収容」する目的として、「送還の確実な実施」とあわせて「本邦における在留活動の禁止」というものがあげられている。これはおそらく、送還の見込みのない人が長期間収容される事例が多々あることを正当化するために言っていることだろうと考えられる。収容は、送還の実施のためだけではなく、「在留活動」をさせないためのものでもあるのだから、当面送還の見込みのない人を継続して収容することがあっても、いたしかたがないのだ、と。

 で、仮放免によって収容を解く場合でも、退去強制手続きにおいては「在留活動の禁止」が原則であるといったところが、図書館でのボランティア活動にいちゃもんをつけた入管職員の理屈であろう。

 このいちゃもん(どうみても嫌がらせ目的の「いちゃもん」でしょ?)にあっては、その理屈は入管の組織で用意しているわけである。その理屈をつかって、末端の職員が仮放免者などにいじわるをする。「在留活動」という言葉はいくらでもその意味を拡大して解釈できるから、職員の悪意しだいで、何でも言える。報酬もらってなくても「活動」だからダメだ、と。

 さすがに食事したり就寝したり子どもが学校に通ったりすることまで「在留活動」だからダメとは言わないかもしれないが、ディズニーランドに遊びに行くとかだったら、底意地のわるい職員だったらダメだとか言いだしかねない。

 「いじわる」とか「嫌がらせ」という言葉を使うと、語弊があるようにみえるかもしれない。しかし、執行部門という部署で働く入国警備官は、退去強制処分を受けた外国人に対して、処分を受け入れて飛行機のチケットを自費で買って帰国するよう「説得」することも職務として課されているのだ。仮放免者の図書館ボランティアにいちゃもんをつけた職員は、むろん職務として「説得」をおこなったものでもあるけれど、それは職務として「いじわる」「嫌がらせ」をしたということでもある。入管は職員に「いじわる」「嫌がらせ」を職務としてやらせているのである。

 図書館ボランティアの事例では、本人たちからの抗議があって、さすがにそこまで禁止するのはやりすぎでしょということに組織としてなったようだが、抗議がなかったり弱かったりすれば、嫌がらせは成功ということになっただろう。警察や役所のような公権力とヤクザなどならず者が、一見ばらばらに行動しているようで役割分担して連携しているのはよくあることだが、入管はそういう連携を組織内でもやっている。職員にもいろんな人がおり、そこは他の集団となんら変わらないと思うけれど、人をいじめるのが好きなひどく性格のわるいやつとか、あるいはある意味きまじめで融通のきかないタイプが、職務としていじわる・嫌がらせをする役目を買ってでているようである。もちろん、職員個々の問題と言うより、組織の問題ではある。



社会の入管化、排外主義天国

 藤岡とかいう議員の国会質問に話をもどそう。

 産経の記事をみるかぎり、この人の一連の国会質問は、まさしく入管の「在留活動の禁止」という発想を体現したものにみえる。この人がもし入国警備官だったら、「仮放免者がボランティア?」「これでは不法滞在天国になってしまうではないか」と意気込んでいじわるにはげむであろう。

 「藤岡議員よく言った」とばかりに記事にする産経の記者とか、その記事読んで「不法滞在でも運転免許が交付されるなんて許せん」などといきどおる読者とかも、入国警備官になったらいや~な仕事するだろうな。

 入管がひっそりとおこなっていたことが、国会質問の場で堂々とおこなわれ、肯定的なかたちで報道もされているのをみると、入管的なものが社会全体に広がりつつあるというか、社会が入管化しつつあるという感をいだいてしまう。「不法滞在天国」というより、「排外主義天国」ですわ。



*1: 「収容・送還に関する専門部会」の第3回会合(2019年11月25日)における入管庁による配布資料。

2025年5月8日

神隠し


  5月の大型連休になると思い出すことがある。

 40年もまえのこと、東北地方にある中学校に入学したてのころだった。

 ちょうどソ連のチェルノブイリで原発事故があった時期*1だが、それは今回の話とは関係がない。学校の規則で、男の生徒は学生帽をかぶって登校しなければならないことになっていたのだが、雨の中かぶらずに歩いていたら、上級生から「おめ、頭ぬらしたら放射能ではげるど。帽子かぶれ」と注意された。その先輩も帽子はかぶっていなかった。学生帽をかぶる規則などほとんどだれも守っていなかった。先輩が言いたかったことは、1年坊主のくせに校則無視するな、ナマイキだぞ、というところだろう。

 今にして思うに、規則とかルールとかいうものについての貴重な知見をこのときに得たのだと思うけれど*2、それは今回書こうとすることとあまり関係はない。

 私が当時くらしていた地域は、例年4月の後半ごろが桜の見ごろで、それは開花時期によって変わるけれど、4月末からの大型連休に街中の公園で敷物をしいて花見をした記憶もある。屋台なども出てにぎやかだった。



 4月下旬のある日、授業時間中の余談としてだったか、教師が話し始めた。連休をむかえるにあたっての注意喚起であった。

 昔その先生の教え子だった女性の話。連休のある日、中学生だった彼女は友人たちといっしょに桜の名所として有名な公園に出かけたそうだ。ところが、その日以来、家に帰ってくることはなかった。いっしょに花見にでかけた友人たちも彼女の行き先は知らず、家族は警察に捜索願を出したが、そのゆくえはついぞわからなかった。

 何年かがすぎ、また桜の咲く季節になった。中学のときの友人がばったりと彼女にでくわした。数年前に彼女の失踪したおなじ公園でのこと。立ち並んだたくさんの屋台のひとつで、彼女はいそがしく働いていた。

 聞くと、数年前ここに花見に来たとき、屋台で働く青年からアルバイト代を払うから少し店を手伝わないかとさそわれたのだという。店の仕事は楽しかったし、青年とも気が合ったので、青年とその家族らについていくことにした。それ以来、各地の縁日や祭りをまわりながら屋台で仕事をしながら暮らしている、と。



 教師がこの話を私たちにしたのは、連休の過ごし方についての注意喚起としてであったと思う。休みになると君たちも心がうわつくものであるし、いろいろな誘惑もあるので、思わぬ大変な目にあうこともあるから注意しなさい、知らない人について行ってはいけませんよ、とか。

 先生がこの教え子の話をしたときに、もっと私たちをこわがらせようとするディテールがそこに盛り込まれていたような気もする。数年ぶりにあらわれた彼女はかわいそうにやつれていたとか、ふけこんでいたとか、不幸そうにみえたとか。そのへんは、もうはっきりおぼえていない。

 ただ、子どもの時期からぬけようとしていた私たちに対し、教師はなにかタブーの存在を伝え、おどかそうという意図をもって話していたのはたしかだと思う。



 このある種の「神隠し譚」を教室で聞いたのは、40年も昔のことである。今やもうずいぶんと年をとった。しかし、なぜか私はそのときの心持ちを――ひんぱんではないものの――くり返し、思い出してきた。

 今いるところにうんざりしていて、そこからふっと消え去ってしまいたい。そういう欲求は当時たしかにいだいていたし、それは切実といえば切実だった。教師の語った物語は、そんな欲求は持つなと禁じようとするものだったけれど、その禁じようとする行為がかえってそれの禁じようとする欲求がそうおかしなものではないということをあかしているようにも思えた。で、その欲求を実現できる可能性もあるのだなと漠然とであれ思えることは、すこし痛快でもあった。

 結果的に私は、当時の家族や学校での人間関係から蒸発するようにいなくなることを選ばなかった。でも、選ぶこともありえたんだよな、私たちは。そこは思いのほか紙一重なのではないだろうか。

 そんなことを思うのは、たんなるノスタルジーのせいでもない。いま私の出会う人たちのなかにも、「この人はかつて生まれ故郷からふらっとゆくえをくらましてきたのかな」と思われるひとも少なくはない。他者というのは、自分のかつて選ばなかった選択肢を選んだ人であったり、あるいは自分の生きなかった可能性をげんに生きているひとであったりもする。そういう他者と出会うことは、よろこばしいことでもある。




*1: 事故発生は1986年4月26日。
*2: たとえばヤフーニュースのコメント欄やSNSなどで、「不法滞在者は犯罪者だ! 強制送還しろ」というような書きこみをしているバカをみかけると、40年まえ私に「おめ、放射能ではげるど」と言ったその上級生を思い出す。上段から人を見下ろして「身のほどを知れ」といばりちらすために規則やルールが都合よく持ち出される例はしばしば観察されるところではある。しかし、そんなふうに人間関係に上下の差別をつけるということは、たんなる規則やルールの「悪用」の結果ということではなく、規則・ルールというものが避けがたくもたされてしまう機能なのではないか。

2025年4月28日

「うその難民申請」を犯罪としてあつかう???


うその難民申請をした疑いでネパール人の男を書類送検 宮城県内では初の立件|FNNプライムオンライン(2025年4月25日 金曜 午後4:45)


 仙台放送の報道ですが、県警のやっていること、めちゃくちゃである。


おととし5月、うその難民申請をして日本に在留したとして、宮城県警はネパール国籍の男を書類送検しました。

虚偽申請違反の疑いで書類送検されたのは、栃木県に住むネパール国籍の男(34)です。警察によりますと、ネパール国籍の男性はおととし8月、難民認定に関する調査などを行う東京出入国在留管理局で、難民ではないのに「宗教上のトラブルで難民になった」とうそをつき、在留資格の許可を不正に受けた疑いが持たれています。


 まず疑問が浮かぶのは、宮城県警はどうやって「うその難民申請」だと判断したのか、ということである。

 上の記事の引用しなかった部分を読むと、県警はこの男性を別件(「不法就労」あっせんの容疑)で逮捕し、調べていたようである。おそらく、その調べの過程で、難民申請の内容がうそだったという本人の供述を引き出したということなのだろう。ニュースでは、男性が「金を稼ぐためにうその難民申請をした」と容疑を認めているということも報じている(県警がプレスにそう言っている、ということですね)。

 で、かりにこの人がそう「自白」したのだとして、それをうらづける根拠となるものはあるのだろうか。

 難民申請は、申請者本人が申請書類に記入して地方入管局に提出するものなので、その申請書は入管が保有している。しかし、その内容はきわめてセンシティブな個人情報であって、本人の同意なく第三者にもらしてよいものでは、けっしてない。たとえば、政治的な主張、活動の履歴、所属している党派、信仰、セクシュアリティなど、難民申請者にとって生命にもかかわりうるような秘匿すべき情報がそこにはふくまれていることがある。

 だから、入管が警察であれ第三者に個人の難民申請の内容を勝手に伝えるということはあってはならないし、ないはず(さすがに「ない」と思いたい)である。

 とすると、宮城県警は、本人の供述だけで、この人の難民申請を虚偽申請と判断して、送検したということだろうか。



 警察がどういうふうに「虚偽申請」だと判断したのかというところも疑問なのだが、そもそも、難民申請について「虚偽申請」を刑罰の対象にしてよいのか、という問題もある。

 もちろん一般論としては、虚偽の申請によって不正に利益を得ることを防止するため、これに刑罰を科すことが必要な場面があるということは、わかる。しかし、難民申請について、その一般論がなりたつだろうか。

 まず、先に述べたように、どうやって申請内容を虚偽だと判断するのかということがある。申請書類に警察などがアクセスするなど許されるべきでないし、アクセスしたとしても、申請内容がうそであるという判断を司法がどうして下せるのか。

 また、申請内容が警察ふくむ第三者にもれることがありうるとなったら、こわくて申請をためらうという人も出てくる可能性があるのではないか。難民認定制度は、命を救うための制度であるわけで、申請のハードルを上げるような要因はできるだけ取りのぞくべきだ。

 「虚偽申請」を刑罰の対象にしようとすること自体、申請のハードルを上げるねらいなのはあきらかだけれども、命を救うための制度でこれをやるのは、どう考えてもそぐわない。難民認定制度というのは、一応は「保護の必要な人は申請してください」という制度であるはずで、「刑罰を科すぞ」とおどして申請の心理的障壁を高くするのは、まったくもってちぐはぐである。

 「うそをつかなければいいじゃないいか」と言う人がいるかもしれないが、そう思えるのは、警察などを無批判に信頼できる、おめでたい人たちだけである。

 そういうわけで、難民申請について「虚偽申請」を犯罪としてあつかい刑罰の対象にするということには、いくつもの疑問をぬぐえない。


2025年3月31日

黙認から取り締まり強化へ 2000年ごろの政策転換

 

 5年ほど前にとあるSNSに投稿した文章を2つ、このブログ記事の下のほうに転載します。

 「2003年ごろの新聞記事シリーズ」と称して、当時の新聞記事を紹介しつつ、この時期にあった非正規滞在外国人をめぐる政策の変化、そのひとたちをとりまく社会の変容について考える糸口にしたいなあと思っていたのですが。まあ、あきっぽい性格なので「シリーズ」と言いながら2回だけ投稿しただけで、あとが続きませんでした。

 この2000年ごろに始まった日本政府の外国人政策の転換をどう理解し評価するのかということは、入管収容の問題、あるいは仮放免者と呼ばれる人びとがおかれている問題を解決するために見落とせない重要な要素のひとつだと、私は考えています。そういうわけで、当時の新聞記事を調べたりといった作業をちょっとずつやってたのです。

 そうやって集めた資料の一部は、仲間といっしょに以下のパンフレット(リンク先からPDFファイルをダウンロードできます)をつくるときに、活用しました。


なぜ入管で人が死ぬのか~入管がつくり出す「送還忌避者」問題の解決に向けて~
(2022年、入管の民族差別・侵害と闘う全国市民連合事務局 発行)


 現在ではよく知られるようになった入管収容や「仮放免」をめぐる人権侵害問題がどういう機序で起こっているのか。パンフレットではこの問題が、最近20年ほどの入管の政策・制度運用の変化と連続性を参照しながら分析されています。手前みそになりますけれど、なかなかおもしろい読み物だと思います。

 以下に転載する投稿を読んで興味をもたれたかたは、上にリンクしたパンフレットも見にいっていただけるとさいわいです。


~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ 


転載(1) 2020年3月24日の投稿

『日経新聞』
03年12月24日

 写真(クリックすると大きくなります)は、2003年12月24日の日経新聞の記事です。

 ちょっとわけがあって、この時期の非正規滞在外国人に関する記事をあつめています。

 政府による「不法滞在者半減5か年計画」なるものが始まるのがこの翌年の04年。入管だけでなく警察も連携するかたちで強力な摘発は、03年ぐらいに開始されています。

 記事では「黙認のツケ」と書いてますが、ビザのない外国人の存在を一定程度「黙認」して労働力として利用する政策からの転換がこの時期にはかられたのです。

 09年には入管法が改正され、12年に在留カードが導入されることがきまります。こんどまた書きますけど、この新しい制度というのは、ビザのない外国人は日本に存在しないということを前提としたものです。この新しい在留管理制度は、ビザのない人がなんとかかろうじて生きていくためのスキマのようなところを、徹底的につぶしにかかろうという意味のものだったと思います。

 日経新聞の記事では、「来日外国人による凶悪犯罪が増加の一途をたどる中」などと根拠のない、かつ差別をあおるようなろくでもないことを書いてますが、興味深いのは、摘発強化が零細企業の経営を直撃しているというところです。日本の産業がどれほどビザのない外国人労働者に依存してきたのかということの一端がここにあらわれています。

 03年以降というのは、現在の収容長期化問題がどのような経緯で生じてきたのか考えるうえで、決定的に重要な時期(のひとつ)だと思ってます。またこんど、この時期の新聞記事などで興味深いものをここにあげていこうと思います。



転載(2) 2020年3月28日の投稿

2003年ごろの新聞記事シリーズ第2弾

『朝日新聞』夕刊
03年7月11日

 1つめの画像は、外国人登録の手続きをする非正規滞在者が増えているという記事。03年7月11日の朝日新聞夕刊です。

 80年代後半から90年代前半から日本でくらしている人も、在留期間が10年をこえてきているわけで、生活の必要上、外国人登録をする人も増えてくるわけです。すでにこの時期に、いわゆるニューカマーの外国人住民の定住がすすんでいるということが、こういったニュースにもあらわれていると思います。

 外国人登録の情報を管理していたのは市役所などの自治体です。某市役所の市民課にむかし勤めていたひとに聞いたところ、外国人登録で「在留資格なし」という人はけっこういたけれども、そんなものをわざわざ問題にする雰囲気はなかったし、いわゆる「不法滞在」を入管に通報するなんて考えられなかったといいます。

 下の記事は、その3か月後の朝日新聞(03年10月22日付)。

 入管が外国人登録証の申請情報をつかって、1600人以上の非正規滞在者を摘発したというニュース。自治体が入管に求められてビザのない人の情報を提供したというわけでしょう。住民にサービスを提供するのが自治体の仕事。そのために保有している住民の情報を、そういう目的とぜんぜんちがうかたちで入管にわたすのは、けしからんです。

 03年ごろに開始される非正規滞在者の集中摘発が、入管だけではなく、警察や地方自治体など他との機関との連携・連絡のもとすすめられのだということも、このニュースにあらわれているかと思います。

『朝日新聞』03年10月22日










~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ 


 転載は以上です。

 現在「仮放免」という生存権の否定された状態におかれている3,000人ほどのうち、一定数(正確な数字はわかりませんが、少なくない人数ではあります)は、2000年代はじめごろの政策転換をまたいで日本でくらしてきた人たちです。日経新聞の記事のいうところの「黙認のツケ」を政府は、また日本社会は、いまだ清算していない、ということだと思います。


2025年3月29日

日本テレビの差別扇動について

 

 差別によって問題がおきたときに、その関係者たちはそれがあたかも差別によっておこった問題ではないかのように処理しようとするということが、しばしばある。このことが、差別の問題に対処しようとするときのなかなかやっかいなところのひとつではないだろうか。

 日本テレビの番組がひきおこした以下の件も、典型的な人種主義的な差別扇動をやらかしたという問題なのに、テレビ局はあたかも差別とはべつの問題であるかのようにこれを処理しようとしている。


日テレ・夜ふかし謝罪 中国女性「カラス食べる」と言っていないのに:朝日新聞(2025年3月27日 22時04分)


 日本テレビは27日、バラエティー番組「月曜から夜ふかし」の街頭インタビューで、中国出身の女性が「中国ではカラスを食べる」という趣旨の発言をしていないのに、制作スタッフが意図的に編集したとして番組公式サイトでおわびした。

 サイトによると、24日の放送で、女性が中国ではカラスがあまり飛んでいないという趣旨の発言をした後、「みんな食べてるから少ないです」「とにかく煮込んで食べて終わり」といったコメントが続いた。

 しかし、実際には女性が「中国ではカラスを食べる」という趣旨の発言をした事実は一切なかったという。

 別の話題について話した内容を制作スタッフが意図的に編集し、女性の発言の趣旨とは異なる内容にしていたという。(後略) 

 


 問題を2つにわけて考えることができる。

 ひとつは、番組制作者がこの女性の発言を勝手に改変し、この人が言っていないことをまるで言ったかのようにねつ造したという問題。

 もうひとつは、こうした発言の改変・ねつ造が人種主義的な差別行為にほかならないということだ。番組制作者が中国人女性の発言をでっちあげることを通じて視聴者に発しているメッセージは、「あいつら〇〇人は、(われわれがけっして食べない)△△を食うヤバンなやつらだ」という形式のもので、人種主義的な差別扇動として典型的なもののひとつである。(最近でも、デビ夫人やトランプがこの種の差別扇動をやっていたよね。)

 さて、番組の公式サイトでは、この件で「お詫び」をのせている。


月曜から夜ふかし|日本テレビ


 ところが、この「お詫び」文には、差別に関係する問題であるとして反省していることを示す文言がいっさいない。「このインタビューは、制作スタッフの意図的な編集によって女性の発言の趣旨とは全く異なる内容となってしまいました」として、改変・ねつ造をおこなったことを謝罪するにとどまっている。

 これはとても奇妙なことにみえる。番組がおこなったのは、たんなる発言の改変・ねつ造ではなく(それだけでも十分に問題ではあるけれど)、あきらかな人種差別の扇動なのだから。そこを知らんぷりして、どうやって「再発防止に努め」るというのか。

 番組のサイトでは、「日本テレビでは、直ちに今回の事実関係及び原因の確認を行うとともに、改めて番組制作のプロセスを徹底的に見直し」ますということなので、今後の検証作業を待ちたいところではある。これが差別の問題だということを直視し、きちんとそのことに向き合う検証をしてほしい。そこがむずかしいんでしょうけど。

【番組公式サイトに掲載された「お詫び」】




追記(5月15日)


 日本テレビの番組公式サイトhttps://www.ntv.co.jp/yofukashi/で、停止していた「街頭インタビュー」を再開するとの発表が12日にあったようである。

 当番組では、様々なテーマに沿って、街行く人の個性豊かなお話を放送してまいりました。多くの方に番組を楽しんでいただけるよう、そしてインタビューに応じていただいた方に「協力して良かった」と思っていただけるよう、スタッフ一同努めてまいりました。

 しかしながら、この度、不適切な編集をしたインタビューをそのまま放送してしまい、ご協力いただいた方に多大なご迷惑をおかけし、視聴者の皆様の信頼も裏切ってしまいました。あらためて心よりお詫び申し上げます。

 問題発覚後、直ちに街頭インタビューを停止して制作プロセスを見直しました。そして、同じ過ちを繰り返さないために、インタビューでお話しいただいた内容を複数の番組スタッフ、そして番組担当外の日本テレビ社員もチェックし、適切な編集かどうか確認することにいたしました。さらに、番組内で制作モラル向上のための研修を繰り返し実施することにいたしました。

 これらの再発防止策を実施できる体制が整ったため、街頭インタビューを再開することにいたしました。


 「不適切な編集」とはどう「不適切」だったのか。また、「同じ過ちを繰り返さないために」というというの「同じ過ち」とはなにか。日本テレビや番組スタッフがそこをどう認識しているのか、この文章を読んでもさっぱり明らかでない。
 「[インタビューに]ご協力いただいた方に多大なご迷惑をおかけし、視聴者の皆様の信頼も裏切ってしまいました」という一文から、発言の改変・ねつ造をおこなったことを問題だとしているのかなとかろうじて読みとれるけれど、その改変・ねつ造が人種差別的なものであったというところへの問題意識は文章全体をみてもまったく読みとれない。
 予想通りではあるが、やはり差別の問題にはまったく向き合うことないまま、再発防止策をとったことにしてこの問題は終わったことにしようという姿勢のようだ。

【番組の公式サイトに掲載された
「街頭インタビュー再開について」
との文章】



2025年3月28日

いじのわるい蛇口


 散歩でとおった公園の公衆トイレ。手をあらうときの蛇口のいじわるぶりにおどろきました。



【動画の説明】
手洗い用の蛇口を右手でひねる様子を撮影した動画。
ハンドルをひねると水が出るが、
手をはなすとバネでハンドルがもどり、
水が止まってしまう。


 右手か左手かどちらかでハンドルをおさえていないと水が流れなくなってしまうので、両方の手をゴシゴシこすりあわせて洗うという動作ができません。もうひとりだれか手伝ってくれる人がいてハンドルを持って水を流しててくれればべつですが、そんな人はいなかったので、片手ずつ水をかけるぐらいしかできませんでした。

 どちらかの手にまひがある人とかだったら、それすらひとりではできないかもしれませんね。

 私はとくに身体傷害などないのですが、こういう蛇口では手を洗うのに非常に支障があるわけです。つまり、ハンドルをひねると水が流れっぱなしになる一般的な蛇口とくらべて、おそらく《だれにとっても》使いにくい仕様のものをわざわざ設計して設置したということなのです。

 なんでこんなものを設計・設置したのでしょうか。これは市が管理する公園の公衆トイレです。市に聞いてみないとはっきりしたことは言えませんけれど、まぁ、野宿する人を排除する意図での設計だとみてまちがいないでしょう。頭や体を洗ったり衣服を洗濯したりできなくなるようにいじわるするためにこういう設計にしたのでしょう。

 こういうものをつくる人間というのは、そういう一定のひとへの悪意をなによりも優先して大事にするんですね。その結果《多数者ふくめただれにとっても》不便なシロモノができあがってもかまわないというくらいに。

 行政などによる野宿者の排除は、「みんなの場所」「公共の場」を「一部の人」が「占拠」「独占」するのをゆるすべきでないという理屈ですすめられてきたわけですけれど、そうした公共性の意味をゆがめ骨抜きにする思考のゆきつくさきのひとつが、この公衆トイレのおかしな蛇口であるよなあと思いました。


2025年3月4日

3・6ウィシュマさん追悼アクション


 名古屋入管で収容されていたウィシュマ・サンダマリさんが亡くなったのは、4年前、2021年でした。

 今年も命日にあたる3月6日には、各地でウィシュマさんを追悼する行動がとりくまれるようです。私は大阪でのスタンディングに参加してこようと思います。


◆3・6ウィシュマさん追悼アクション in 大阪◆

3月6日(木) 19:00~20:00

梅田ヨドバシカメラ前

スタンディングアクション


3・6ウィシュマさん
追悼アクションin大阪

 ちょうど1年前の3月に某所に投稿した文章が出てきたので、あらためてここにのせておきます。


#ウィシュマさんを忘れない

 3年前の3月6日、名古屋入管でウィシュマ・サンダマリさんが命を落としたのは、まぎれもなく拷問死でした。

 「拷問死」という言葉を使ったのは、比喩(まるで……のようだ)でもなければ、誇張でもありません。ウィシュマさんは、文字通りの意味で日本の入管による拷問で、命を奪われたのです。

 送還を拒否する人に対して、無期限収容・長期収容によって、自分から帰国するように追い込む。まさに、心身をいためつけることで相手の意思を変えようとすることであり、「拷問」と呼ぶべきです。しかし、日本政府は入管施設での収容が拷問であることを隠してすらいません。

 入管がウィシュマさんを殺害した当時の法務大臣上川陽子は、収容期間に上限をもうけるべきではないかと記者から問われ、「[上限をもうければ]収容を解かれることを期待しての送還忌避を誘発するおそれもあるということでありまして,適当ではない」と答えました。無期限収容・長期収容が帰国を強要するための手段であることを、あけすけに認めた発言です。奇しくも、ウィシュマさんの亡くなる前日、2021年3月5日の記者会見でのことです。

 ウィシュマさんの命は、早期に収容を解いていれば、そうでなくても点滴治療をしていれば、あるいは救急車を呼んでいれば、失われるはずがなかった。どれもぜんぜん難しいことではないですが、名古屋入管がそれをしなかったのは、収容を継続すること、ウィシュマさんに帰国を強要することを優先したからです。

 「救えなかった」のではない。119番に電話すれば、容易に救えたのだから。名古屋入管はウィシュマさんを「拷問のすえ殺した」のです。

 あきらかに国家犯罪ですが、名古屋地検は不起訴処分としてこの国家犯罪を不問にしました。

 しかし、だからといって、殺人者たちの責任を問い、入管施設でのこれ以上の拷問死をなくすことを、あきらめるわけにはいきません。ウィシュマさんが命を奪われたことを機に、また妹さんたちご遺族が真相解明・責任追及・再発防止のために声をあげておられる姿を目にして、自国の国家機関が日々おこなっている犯罪を許してはいけないと声をあげる仲間たちがふえていると思います。私もともに、取り組んでいきたいと思います。


 1年前に書いた文章ですが、やはり今年もおなじことを言わなければなりません。

 刑事事件としては、23年9月に名古屋地検が「嫌疑なし」(「証拠不十分」ですらなく!)ということで不起訴処分で決着させました。名古屋地裁での民事の裁判(遺族が訴えた国家賠償請求訴訟)では、国側はいまだウィシュマさんが亡くなるまでを記録した監視カメラ映像(295時間分)の開示をこばんでいます。国・政府をあげて、自分たちの責任が問われうる証拠を隠蔽し、身内でかばいあって、事件の真相究明を妨害しつづけているわけです。

 そのいっぽうで、当時の上川法務大臣が「収容を解かれることを期待しての送還忌避を誘発」しないためだと公言した無期限収容による帰国強要=拷問は、いまも各地の入管施設で続けられています。

 ウィシュマさんが日本国家によって拷問死させられた事件については、国の責任を追及することがいまだ欠かせない課題としてある。国がその責任から目をそむけ、逃げまわっているため、民事訴訟をつうじて遺族がその最前線に立たざるをえない状況になっています。市民として、国の責任を問う声をあげなければならないということだと思います。


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 3月6日の各地でのアクションの情報をのせておきます。

【名古屋】

日時:2025年3月6日(木)10:30~11:30

場所:名古屋入管前

内容:名古屋入管へ真相究明・再発防止を求める申入れ、スタンディングアクション

主催:START~外国人労働者・難民と共に歩む会~/名古屋入管死亡事件弁護団


【愛知県愛西市】

日時:2025年3月6日(木)

忘れなの鐘つき

14:15~ 有志の僧侶によるお勤め(真宗大谷派)

14:45~ 琴の奉納演奏(約10分)

15:00~ 支援者の報告など

15:25  鐘撞き(ウィシュマさん死亡時刻)3回

のち黙祷

ご遺族の挨拶

場所:明通寺
※下に掲載したチラシ画像参照


【東京】

日時:2025年3月6日(木)13時~14時

場所:東京出入国在留管理局前

内容:入管への申入れ、スタンディングアクション

主催:BOND~外国人労働者・難民と共に歩む会~


ウィシュマさん追悼アクション
2025年開催マップ

※画像では名古屋のスタンディングアクションが
「10時~11時」と記載されていますが、
運営から10:30~11:30に変更する
とのアナウンスがありました。


「3・6 忘れなの鐘つき」チラシ



 当日は、ハッシュタグデモもおこなわれます。


3.6ウィシュマさん追悼
ハッシュタグデモ


2025年2月25日

倒れたらみんなの迷惑になるから

 

 運転免許証の更新のための講習を受けてきた。

 講習が始まる前に、講師の人(警察官?)が「もし講習中に具合が悪くなったら、手を挙げて教えてください」という内容のことを言った。それが、体調がわるい人はムリしないでくださいねという気づかいからの言葉であればいいのだけど、その講師の言い方はひどく意地のわるいものだったので、びっくりした。

 記憶をたよりに再現してみると、だいたいつぎのような言い方だった。

「先月、講習中に倒れた人がいました。倒れた人が出てしまうと、救急車を呼ばなければならないことになっています。そうなると、講習をいったん止めて、ほかの受講生のみなさんには他の教室に移動してもらって続きの講習を受けてもらうということになります。講習が終わるのが予定の時間よりもだいぶ遅くなります。そういうわけで、倒れる前に、具合がわるいということをつたえてください。」

 なんでこんな言い方するのだろう? 「倒れるまでムリしないで、体調不良は早めに言って休んでくださいね」ぐらいに言うのをとどめておけば、受講者の体調を案じて言ってくれてるのだなとこちらも受け取るのだけど。なんでわざわざ、他の受講者の迷惑になるから、というようなことを言うのか。この講師が言っているのは、体調のわるい人は、他の人たちをわずらわせないよう、自分で退室できるうちに退室してくれ、ということでしょ。ひどいもんだ。

 私はこの講師の人の発言をとても不愉快に感じたのだけれど、どうしてそう感じたのかをいまになって考えてみるに、この人が人間の社会性みたいなものを低くみつもっているように思えるからだ。

 この人は私たちに対して、いわば「講習中に倒れる人が出たら、あなたたちにとって迷惑でしょう?」「迷惑に思うのが当たり前でしょう?」と同意を求めているのである。もっといえば、私たちにそれを「迷惑と思え!」というメッセージを向けていると言ってよいかもしれない。

 いや、べつに迷惑と思わないし。倒れた人がいたら、講習なんか止めてその人を助けるのがあたりまえでしょう?

 まあ、そう言ってるのは、キレイゴトではある。私だって、正直に言えば迷惑だと感じることはあるかもしれない。でも、それを口に出して言ったら下品というものである。

 さきの講師の言い方が不愉快だったのは、その人が下品な「本音」を当然の前提みたいにして、私たちに語りかけてきたからだと思う。あんまり私らを低くみつもらないでほしい。病人を迷惑者あつかいなんてしないよ。

 警察官らしい語り方といえばそうかもしれない。外から権力的な介入をしなくても私たちがときとして利他的にもふるまったりしながらたがいになんとかやっていけるのだとしたら、警察なんかいらねー、ということになるからね。

 権力的にふるまうということが習い性になってるひと(警官は職業的にそうしたふるまいを強いられている面があるだろう)は、人間の社会性、自治の能力を低くみつもりたくなるのだろう。きみら、倒れてる人をみたら迷惑だと思うでしょ、と。そうみなしたいのだ。力をふるって他者や集団をコントロールしようということが習い性になってしまえば(もちろん警察官にかぎった話ではない)、倒れてるひとを迷惑とみなさず、仕事の手をとめて当然のように助ける人間は脅威にうつるのではないか。「ほっといたら(権力的な介入なしには)、ただちに人間どうし反目し合い、対立して、社会が成り立たなくなる」という人間観・社会観がかれらのふるまいを正当化するために欠かせないのだから。