2026年9月14日

坂中英徳を読む 元入管幹部の書いた移民政策論


 思うところがあって、「ミスター入管」こと坂中英徳の移民政策論を読んでいる。

 坂中は、1970年の法務省入省以来、2005年に退官するまで入管で官僚をつとめた人物である(退官時のポストは東京入管局長)。退官直後から、著作などをとおして「日本型移民国家」を提唱。1000万人の移民を50年かけて受け入れるべきだという主張を展開してきた。

 日本では、「外国人労働者」の受け入れ拡大を求める声は、1980年代以来、産業界からおそらくつねにあがってきたわけだけれど、「移民」を受け入れるべきだという主張を、それにともなう国のあり方の変革もふくめて正面から論じた議論というのは、ほとんどないのではないだろうか。積極的な移民受け入れ論を、しかも元入管官僚という立場の人が展開していたのは、かなり特異だと言えるのではないか。

 当然ながらその移民受け入れ論は、「国益」という観点からのものである。坂中の議論は、移住してくる人たちの人権の課題については、まったく無頓着というわけではないけれど、あくまで「国益」の追求が第一。それと齟齬(そご)をきたさない限りにおいて人権も尊重するに越したことはないよね、という程度のものだ。

 というわけなので、左翼のはしくれの私からすれば、その主張は根本的にあいいれないものだ。そもそも、出入国管理や在留管理なんて本質的に万国のプロレタリアに敵対するものでしかないのであって、「国益」とか言われても、そんなのわれわれ人民からしたら知ったこっちゃないのである。

 ところが、である。昨今の情勢のなかで読んでみると、そんな坂中の議論でも、かなり穏当なものにみえてしまう。というのも、2023年の改悪入管法*1の成立、翌24年6月の同法施行を機に、日本政府はそれまで以上に極端な排外主義的な政策をつぎつぎと打ち出しているからである*2

 日本においても国境をまたぐ人の移動があたりまえになって久しく、そのうちの一定数が日本を定住・永住の地に選ぶのはさけられるはずもない状況のなかで、「外国人」の定住・永住を徹底的に忌避しようとするかのような、およそ正気とは思えない政策が政権によってつぎつぎと打ち出されている。

 こんな現時点からみると、元入管官僚による10年ちょっと前の議論がしごくまっとうなものにみえてきてしまう。坂中の議論においては、日本の国・社会にとっての必要から移民に来てもらうのだから、その人たちに対して日本の国・社会は責任を負うのだという当然のことが、一応は前提になっているからだ。

 坂中はいまの現状をどう見ているだろうか。そんなことが気になって、インターネットで調べてみて、2023年の10月に亡くなられていることを知った。残念ながらいまの情勢を坂中がどうみているのか、聞くことはできない。

 というわけで、今回のこの記事では、坂中の主張の理屈にしたがって現在の「外国人」政策をみた場合、これをどう評価できるだろうかということを、思考実験的に書いてみたい。

 さっき書いたように、私からすれば、坂中の議論には受け入れられないところが多々ある。というか、読んでて数行ごとに文句をつけたくなるほどだ。けれども、今回はそこは極力がまんして、坂中をとおして、いまの情勢を考えるということを、やってみたい。



「国益」のために移民を受け入れる

 前置きが長くなったが、坂中英徳の日本型移民国家論をみていく。

 おもに引用は、『増補版 日本型移民国家への道』(2011年初版、2013年増補版、東信堂)から。『日本型移民国家の創造』(2016年、東信堂)も参照している。

 坂中は、坂中自身の回想によれば「行政官時代は移民規制の急先鋒だった」という*3。それは、日本社会の人口収容力がすでに限界状況にあること、経済成長が鈍化していくなか雇用情勢が厳しくなることといった見通しにもとづくものだった。

 ところが、「退官後はその立場をひるがえし、人口秩序を正し、日本の存続をはかる立場から、『移民50年間1000万人構想』を提案している」*4

 「移民規制の急先鋒」だった坂中は、なぜ積極的な移民受け入れ論者へと転向したのか? それは日本の人口動態についての見通しが変更をせまられたからである。

 坂中は、日本が深刻な人口減少問題に直面しており、出生率の向上に取り組むだけでこの危機に対処することはできないという見通しを述べたうえで、つぎのように言う。


 昨今、政治が改革を先送りし、人口危機の局面を打開できないと日本は沈没するという、きわめて悲観的な声が国の内外から出ている。私は移民国家の創建こそ究極の日本改革であって難局を一挙に収拾する解決策だと考える。

 実際、今すぐ抜本的対策を講じなければ、若年人口の激減に高齢人口の激増が重なる人口崩壊によって、生産・消費・税収・財政・年金・社会保障・国民生活などすべてが破綻するのは避けられない。衝撃の日本終焉をまぬかれる唯一の効果的対策は、新しい国民の増加につながる移民政策の導入である。*5


 みてのとおり、坂中の移民受け入れ論は、あくまでも「国益」という観点からのものである。日本の国・社会において「生産・消費・税収・財政・年金・社会保障・国民生活など」の破綻がこのままでは避けられない状況にあり、その破綻をまぬかれるために移民を導入してこれを活用しようというわけである。移民は「国益」のための手段として考えられているにすぎない。

 ただ、あとでみるように、日本の「生産・消費・税収・財政・年金・社会保障・国民生活など」を支えるために来てもらうのだという移民受け入れの目的意識が議論のなかできちんと明確にされているので、そうして日本を支えてくれる移民にはそれ相応の待遇をあたえなければならないということは、坂中の議論では当然の前提として述べられていくことになる。

 この点は、昨今の状況を知ってる者からみれば、とてもまっとうで、まぶしくさえ感じてしまうところだ。こんな当たり前のことを言われて、喜んでちゃダメなんですけど。

 著書などで主張が展開される場合、議論全体の体系性や論理的な一貫性をあまりおろそかにできないので、議論がまっとうなものになりやすいということはあるのかもしれない。ある程度の分量のある文章なんかで主張を述べる場合、たがいに矛盾したことなどあまりムチャクチャなことは言いにくい、というか。

 一方、SNS隆盛の現代では、短い言葉でそれらしいことを言えば、なんとなく説得力が出てしまうことがあるので、よくよく考えればおかしな主張が広い支持をうけてしまう、ということも起きやすいようにみえる。「移民」の存在が社会保障や税制の大きな負担になっている(なりうる)かのような、実際とは正反対と言ってよいイメージがばらまかれ、そうしたイメージを利用しながら「外国人」の定住・永住に強力な制限をかけていこうという排外主義的な政策が政府によってすすめられているのが現在の状況である。

 むしろ、外国からの移住者が安心して定住・永住を目指せる環境をととのえていくことは、税制や社会保障の支え手をぶあつくしていくことになるはずなのだが。そういう「国益」の観点からの合理性を考えようとする右派は絶滅しかけているようで、かわりに人権派的な論者とかへたすると左派までもが「もう少し冷静に国益の観点から考えましょう」的なことを(「国益」という語はさすがに出さないまでも)言い出してる状況が、たまらなく気色わるいです。こういうところから左派が転向していっちゃうのよね、みたいな話もしたくなるけど、今回はがまんします。



「外国人労働者」と「移民」の区別

 さて、坂中の移民受け入れ論では、なんと「外国人を人間として迎える」ことが大事だと説かれる!

 いや、こんなことで感心してては坂中に対してもさすがに失礼すぎるんじゃないかと思われるかもしれない。でも、入管にかぎらず「外国人」政策にかかわるこの国の官僚の多くは、「外国人材」とかいう言葉を作って平気で公文書にのっけたりする連中ですからね。木材や石材じゃあるまいし。「高度外国人材」とか。やつら、「外国人」を人間あつかいするつもりなんかまるでないのである。

 そういうわけで、その入管の幹部だった人物が「外国人を人間として迎える」べきだみたいなことを書いてるのを読むと、ちょっとびっくりしてしまう(赤字での強調は引用者=私によるものです。以下ぜんぶおなじ)。


 外国人技能実習生を含む「外国人労働者」の受け入れには反対である。なぜなら外国人を人間として迎える外国人政策ではないからだ。外国人労働者というと、産業界が労働力不足を補う目的で入れるもの、期間限定の低賃金労働者として酷使するもの、必要な時には入れて必要なくなれば追い返すものという性格が強い。本質的に日本人と共生する存在でも将来の国民でもないから、およそ人口減の国が求める人ではない。*6


 坂中は、「外国人労働者」と「移民」を区別したうえで、前者ではなく後者の受け入れを主張している。「外国人労働者」の受け入れは、「人間として迎える」ことにならない、だから反対だというわけである。

 坂中は1990年代以降に受け入れた日系ブラジル人について、「移民」であると明確に規定している。そりゃ「移民」でしょ、あたりまえじゃん、とも言いたくなる。でも、坂中が「外国人労働者」ではなく「移民」という言葉で呼ぶのは、つまり、この人たちを「人間」としてあつかうべきだということを語っているのである。

 リーマンショックのさいに、自動車産業が日系ブラジル人を大量に解雇したことについて、坂中はつぎのように述べている。


 建前上は雇用期限・派遣期限の到来とともに更新をしなかっただけだと言っても、実質的には雇用形態を奇禍として切り捨てたと批判されてもいたしかたないだろう。ここでは非正規雇用自体の問題はあえて問わないにしても、そもそも先祖の故郷へ期待に胸を躍らせて帰ってきた日系ブラジル人がそういう不安定な雇用形態の下に置かれていたことが問題だ。*7


 「必要な時には入れて必要なくなれば追い返すもの」として移民をあつかってはならない。それは「人間として迎える」ことではないからだ。こうした姿勢は、坂中の移民政策論において一貫してはいる。

 ところで、リーマンショックから10年あまり後のこと。2018年の入管法改定により、「特定技能」の在留資格が創設され、外国人労働者受け入れのさらなる拡大への道が開かれた。その際、当時の安倍首相はこう発言している。「いわゆる移民政策をとる考えはない。深刻な人手不足に対応するため、即戦力になる外国人材を期限付きで受け入れるものだ」と。

 まさに安倍は、「移民」という言葉を、坂中英徳が言うのと同じ意味で使っているのだ。坂中は外国人を「移民」として(つまり人間として)受け入れなければならないと言ったが、安倍は「移民」としての受け入れはせず、「人手不足に対応するため」「期限付き」の「外国人材」だけ欲しいのだと言っている。坂中の批判する「必要な時には入れて必要なくなれば追い返すもの」としての「外国人材」受け入れをおこなうのだというわけだ。

 外国人労働者を人間あつかいなどしないぞと安倍は堂々と宣言しているようなものである。この姿勢は、のちの菅・岸田・石破・高市の各政権でもそのまま引き継がれている。



受け入れる側の責任

 安倍政権以降の政府は、「外国人材」の受け入れ拡大を進める一方で、しかし「移民政策をとる考えはない」ことをくり返し言明してきた。

 坂中は、移民政策において、「移民の受け入れ態勢と制度を整えなければならない」*8と述べている。当然の理屈である。

 一方、安倍以降の各政権が、みずからの政策を移民政策ではないと言うのは、その受け入れ態勢と制度の整備の責任を回避するものだ。先の安倍の発言にあるとおり、「即戦力」の「外国人材」は欲しいが、それはあくまで「期限付き」で受け入れるのであって、「移民」として日本に定着・定住するのは歓迎しない。「外国人」を好きなように利用したいが、これを受け入れるのにともなう責任からはのがれたいというわけだ。まったくもって身勝手な話である。国をあげて「外国人」に寄生しようというのであって、ろくなものではない。

 坂中は、移民として受け入れる人に対して、永住を認め、すみやかに国籍を与えるということを想定している。当たり前の話である。制度面の整備としては、たとえばつぎのように述べている。


 国の外国人処遇のあり方も変革を迫られる。社会の少数者である外国人の立場に配慮した行政への転換が不可欠である。入国を認めた外国人の社会適応を促進するため、日本語教育と就職支援に行政の力点を置かなければならない。国籍行政については、できるだけ多くの移民を早く国民にする基本方針に基づき、移民一世の国籍取得に際し二重国籍を容認するほか、移民二世が出生により国籍を取得できる道を開くなど、移民の日本国籍取得を歓迎する国籍政策を推進する。*9


 移住してくる人は、元いた地に帰ったり、新たな別の地へさらに移動していったりする人も多いが、その一定数がこの地に定着・定住することになるのは当然である。このことは、政府が公式に「移民政策をとる」と言明しているかどうかとは関係ない。「移民」としてであれ、「外国人労働者」や「外国人材」としてであれ、労働力その他の必要性から国境をこえて人を呼び込む以上、そうしてやって来た人の一部がこの地に定着・定住することになるのは避けられるわけもない。移民は「人間」だからだ。

 坂中の議論は、移民を積極的に受け入れる政策を選択する限りにおいて、その受け入れ態勢・制度をととのえていくのは行政の責務であるという理屈になっている。だが、「移民政策をとる」と宣言するしないにかかわらず、定着・定住する人がいるということを想定して、その人たちが安心してこの地で暮らしていくことができるよう態勢・制度をととのえていくのは、行政の責務であるはずだ。

 政府の、在留資格の更新・変更手数料の大幅値上げや、永住許可要件の厳格化といった、外国籍者の定住・永住の可能性を極端にせばめようとするもろもろの政策は、そうした責務を一方的に放り投げるものだ。そこに「移民政策をとる考えはない」などという言い訳は通用しない。



「外国人の犯罪」を一方的に「外国人」に帰責すべきではないこと

 「移民を入れたら治安の悪化などの社会問題をかかえることになるのではないか」という主張に対して、坂中はつぎのように反論する。


 移民先進国のドイツ、フランスで移民の受け入れがうまくいかなかったのは、定住外国人とりわけ移民二世に対する教育と就職の支援をしっかり行わなかったからだ。

 移民二世の子供たちの多くは、言語能力に問題があって学校の授業についていけない。低学歴のゆえに適当な就職口もない。成人になっても生活保護に頼って生きていくしかない。そういう状態に置かれた若い世代の中から暴動を起こしたり、犯罪に走ったりする外国人が出てきたのである。*10


 ここでは海外(ヨーロッパ)の状況が想定されているが、坂中が移民政策論を精力的に提唱していた2010年代の日本においても、「移民を入れたら」というのはすでにたんなる仮定の話ではなかった。在日朝鮮人らのいわゆる「オールドカマー」はもちろん、1980年代から増えた「ニューカマー」、90年の入管法改定を契機にした中南米からの日系移民など、当時すでに「移民」は日本社会を構成する、無視しようのない要素であった。


 現在、定住外国人の子供が学校に行かず、非行に走り、犯罪に及ぶ「外国人問題」が起きている。外国人による少年犯罪が発生する背景のひとつに、外国人を受け入れた後の、日本語教育を中心とする定住支援がほとんど行われていないことがあげられる。孤立無援のままに置かれた定住外国人の子供は社会から疎外されていると感じ、それが犯罪にかり立てる一因となっているのではないか。

 移民開国が迫られる日本は、外国人問題を全面解決し、移民国家への道をつけるためにも、定住外国人の社会適応を助ける仕組みを早急に整備する必要がある。*11


 坂中は、「外国人」による非行や犯罪の背景に、「定住支援」(教育と就職の支援)の不備・欠如の問題をみている。犯罪等を安易に「外国人」に帰責してその排除を主張するのではなく、移民を受け入れる国や社会の側の問題を直視しようとしているのである。

 ここは、実際的にとても大事な主張だと思う。入管がげんにおこなってきた(いる)のは、それとは真逆のことだからだ。

 入管の収容施設での面会活動などをしていると、子どものころに親に連れられて日本に来た若者が、犯罪をおかして強制送還の対象になっているという事例に出会うことが少なくない。日本の国や社会が、移民の受け入れ態勢・制度を整備する責任を果たさず、「定住支援」を十分におこなってこなかったことが、それらの犯罪の背景の一部としてあることは否定できない。罪をおかした、しかし日本社会で育った人を、ゴミでも片づけるように国の外に追い出してオシマイという解決のしかたは、あまりに無責任だし道理を欠いている。

 幼いときから日本で暮らし、あるいは日本で生まれ、家族・親族も日本にいて長年日本で人間関係をきずいてきた人を、たまたま国籍がそこであるという以上の縁のない国へと送還することができる、という仕組みが存在していること自体もそもそもおかしい。



人権問題としての「不法滞在外国人問題」

 坂中の『日本型移民国家への道』は、初版が2011年5月に発行されているが、2013年1月に増補版が2つの章を加筆して発行されている。その加筆された部分で、坂中は当時6万人台とされた非正規滞在者(坂中は「不法滞在者」と呼ぶわけだが)について、興味深いことを述べている。

 2012年7月から新しい在留管理制度が始まり、これにともない外国人登録制度が廃止された。旧制度では非正規滞在の人も外国人登録ができたが、新しい制度では身分を証明するすべがなくなった。坂中は、新制度導入を契機に「不法滞在外国人問題が突然、注目されることになった」と述べたうえで、つぎのように続けている。


 1990年代はじめに30万人近くに達した不法滞在者は、その後、上陸審査体制・在留管理体制が強化されたこともあって減少に転じ、現在の6万人台にまで減った。米国の不法滞在者の数は1千万人を超える。EUにも難民を中心に約6百万人の不法滞在者がいるといわれている。

 欧米の主要国と比べると、日本の不法滞在者の数はけた違いに少ない。数だけを見れば、不法滞在の問題は出入国管理行政上の大きな問題ではなくなったと言えなくもない。しかし、その不法滞在者の中に不法滞在期間が20年を超える人がかなりいると推定されることからも明らかなように、この問題は依然として深刻な人権問題である。

 不法滞在者は町工場などでもくもくと働き、一方で入管や警察に見つからないかとびくびくしながら生活している。法違反者とはいえ、そんな不安におびえる生活を20年以上の長きにわたって強いることは人道にもとると言うべきである。

 公正な出入国管理を担う入管当局が不法滞在外国人の人権問題を放置しておいていいわけがない。*12


 2つ大事なことを言っていると思う。

 ひとつは、「数だけを見れば」との限定つきではあるものの、「不法滞在の問題は出入国管理行政上の大きな問題ではなくなった」と言っているところである。入管プロパーであった坂中がこう言っていることの意味はやはり大きいのではないか。

 ちなみに坂中が2012年末ごろに「6万人台にまで減った」と書いた「不法滞在者」数は、14年ほどたった現在も6万人台である。

 もうひとつ、坂中が大事なことを言っているのは、長期間にわたってここで暮らしている人が「不法滞在」状態に置かれていることを「深刻な人権問題」としていることである。「不法滞在外国人問題」というものがあるとすれば、それは「不法滞在外国人」の存在が日本社会になんらかの悪影響を与えるということではなく、「不法滞在外国人」の人権がまもられていないということこそがそうなのである。

 あらためて強調するが、こういう議論をしている坂中は、入管の幹部だった人物である。その坂中が、「不法滞在外国人」であっても、2012年スタートの新在留管理制度によって身分を証明するすべを失ったこと、また長年日本で働き暮らしてきた人が入管や警察に見つからないかとびくびくしなければならないことは、「人権問題」であり「人道にもとる」とはっきりと書いている。

 こんにちの状況と照らし合わせてみたとき、この10数年前の坂中の文章のまともさに驚いてしまう。坂中はなにも特別なことを書いているのではないけれど、現状があまりにもひどすぎるので、まともであるというただそれだけのことに驚きをおぼえてしまうのである。

 たとえば、立憲民主党の衆議院議員だった藤岡隆雄は、「不法滞在」の人が運転免許証を交付されて自動車を運転できたり、それを身分証として使えたりするのはケシカランという趣旨の国会質問をしている*13。昨年(2025年)の5月のことである。藤岡によると、「不法滞在」でも免許証を持てるのでは「不法滞在天国」になってしまうのだそうだ。

 藤岡の国会質問の影響かどうかはわからないが、事実この年の10月から運転免許証の取得および更新には住民票の提出が求められるように制度の運用が変更され、仮放免者など在留資格のない人は免許証を持てなくなった(持っていた人も更新できないので失効と同時に免許証を失うことになった)。

 坂中英徳なら、この事態を人権問題だと言うのではないだろうか。ところが、「不法滞在外国人」なんかの「人権」や「人道」を問題にするのもナンセンスであると言わんばかりの姿勢を示すということを、政治家などが人気取り目当てにおこなうのが、いまどきの風潮である。藤岡議員(当時)の下劣な国会質問はその一例にすぎない。

 さて、昨今とますます目立つようになった排外主義者であれば、「不法滞在者」の置かれている状況は人権問題であるなどと言おうものなら、「だったら強制送還すべきだ。それが当人たちのためでもある」などと言うであろう。

 坂中が「不法滞在者の中に不法滞在期間が20年を超える人がかなりいると推定される」と書いたのは2013年だが、現在はそこから10年以上もたっている。私の知っている仮放免者のなかにも、滞在期間がすでに30年を超えた人は相当数いる。それどころか、日本の製造業などで深刻な人手不足から外国人労働者をさかんに呼び込むようになったのは、バブル期の1980年代後半からである。滞在期間40年に達する人が出てきているのである。

 こうした滞在が長期にわたる人を強制送還することが、人権尊重や人道にかなうものであるなどと言えるはずがない。在留を正規化するということ以外に、この「人権問題」の解決策はありえない。坂中もつぎのように言っている。


 法務省当局にお願いがある。不法入国者や不法残留者が激減の傾向にあること、外国人住民基本台帳制度が導入されたことなど最近の不法滞在者をめぐる状況の変化を考慮し、「不法滞在期間が十年を超え、かつ家族を扶養している不法滞在者」については、法務大臣が在留特別許可を認める方向で検討してはどうか。*14


 この坂中の提案にケチをつけるとすれば、「不法滞在期間が十年を超え、かつ家族を扶養している不法滞在者」というところ、「かつ」は「または」に訂正したほうがいいよ、ということぐらい。あとは、大賛成!



移民はすでにここにいるということ

 入管という組織がになっているのは、「出入国管理」とか「在留管理」とかいう業務である。そこには、国境をこえた人間の移動だとか、「外国人」の在留だとか(そう、在留管理の対象とされるのは「外国人」のみである!)は、コントロール可能なものであり、またコントロールすべきものであるという前提がある。

 そのことの是非をここで議論するつもりはないけれど、現実問題として、コントロールしきれてないし、どうしたってコントロールできない部分は出てきますよねということは、言えるじゃないだろうか。

 日本は移民を受け入れるべきかどうか? 受け入れるとして、どれくらいの規模の移民を、どういう形で受け入れるのか? そういう議論は、したい人はすればいいと思うけど、私はそこにくわわるつもりはない。

 ただ、日本国が日本国としてどんな「外国人政策」を選択するとしても、あるいは今の政府がそうしているように「移民政策はとらない」と強弁したとしても、移民たちはすでにここにいる。その移民のなかには、坂中などの言う「不法滞在外国人」もいる。

 そういうすでにここにいる移民が、すでにここにいる人間として、あたりまえのようにその人権が尊重される社会であるべきだ。私は坂中英徳とは根本的にあいいれないところが多いと思ったけれど、日本の国や社会がそうあるべきだという一点においては、この人と考え方を共有できていたんじゃないかなと思う。そして、坂中とさえ共有できたであろうこの考え方が、日本社会で広く共有される日が来ないとも思えない。まあ、道のりは遠いかもしれませんけど。




*1: 「改悪」と評価すべき内容としては、難民申請中の送還は停止されるという規定に例外がもうけられたこと(3回目以後の難民申請、また無期または3年以上の拘禁刑に処せられた者の送還が可能になった)、監理措置制度の創設など。

*2: 永住者資格の取消事由を拡大する入管法改悪(24年6月)、在留資格「経営・管理」の要件の厳格化(25年10月)、国民健康保険料を滞納する外国人の在留資格更新を認めないとする新方針(25年11月発表、翌26年6月から)、在留資格の更新・変更手数料の大幅値上げ(26年10月から)、永住許可要件の厳格化。非正規滞在者に対しては、「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」(25年5月)、その強化版としての「不法滞在者ゼロプラン~強力推進パッケージ~」(26年5月)。

*3: 坂中英徳『日本型移民国家の創造』(東信堂、2016年)、206頁
*4: 同上。

*5: 坂中英徳『増補版 日本型移民国家への道』(東信堂、2013年)、8頁

*6: 前掲15頁。

*7: 前掲23頁。

*8: 前掲30頁。

*9: 前掲31頁。

*10: 前掲89-90頁。

*11: 前掲50-51頁。

*12: 前掲113-4頁。
 藤岡議員(当時)の国会質問については、このブログで批判記事を書いた。 

*14: 坂中『増補版 日本型移民国家への道』115頁。

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