2024年10月29日

ゼノフォビアに迎合する玉木雄一郎

 

 おととい投開票がおこなわれた衆院選で国民民主党が躍進したようだ。

 党の代表の玉木雄一郎氏は、選挙の公示直前に「社会保障の保険料を下げるために」「尊厳死の法制化も含めて」「終末期医療の見直し」が必要だという趣旨の発言をおこなっている。前後の文脈からもあきらかなように*1、高齢者をスケープゴートにして若い世代からの支持をとりつけようという、さもしい発言である。

 玉木は、3年ほどまえには、外国籍住民を敵視する右翼に迎合するような発言をしており、このブログでも問題にした。


議論があることはかならずしもよいことではない――玉木雄一郎氏の人権否定発言について(2021年12月22日)


 今回の選挙で党の勢力が拡大してその影響力はますます軽視できなくなっているわけでもあるので、あらためて当時の玉木代表の発言をむしかえしておきたい。

 2021年12月21日、武蔵野市議会で住民投票条例案が否決された。外国人住民にも投票権を認めた条例案が成立しなかったことについて、玉木は「安心した」として、次のような発言をしたという(太字強調は引用者)。


 玉木氏は今回の住民投票条例案に関し「外国人の権利の保護を否定するものではないが、極めて慎重な議論が必要だ」と指摘。その上で「憲法に外国人の権利をどうするのかという基本原則が定められておらず、ここが一番の問題」との認識を示した。

 さらに、「まずは外国人の人権について憲法上どうするのか議論すべきで、そういう議論がなく拙速に外国人にさまざまな権利を認めるのは、極めて慎重であるべきだ」と強調した。

国民民主・玉木氏「否決され安心」 武蔵野条例案 - 産経ニュース(2021/12/21 17:40)】


 玉木はここで、論じるまでもなく自明なことについて、あたかも議論の余地がある「問題」であるかのように語ることで、その自明性を留保しようとしている。しかし、こんなことは議論の余地なく自明なのであって、論じるまでもない。「外国人の人権について憲法上どうするのか」などという問題にならないことをことさら問題にしようとすることこそが、問題である。

 「極めて慎重な議論が必要だ」? たとえば、女性の人権について、障害者の人権について、また外国人の人権について、どんな議論の余地があるというのか? それが議論の余地のある「問題」であるかのように語ること自体が、女性の、障害者の、外国人の権利を否定することにほかならない。

 上の産経の報道を受けて、玉木氏は自身のツイッターにつぎのように投稿している。


外国人の人権享有主体性については様々な意見があります。100%これが正しい、これが間違っているというものではありません。我が党としては、憲法上の位置付けをどうするかも要検討としています。だだ今回は民主的手続きを経て否決された以上、慎重に対応すべきでしょう。

玉木雄一郎(国民民主党代表) @tamakiyuichiro 午後6:51 ・ 2021年12月22日


 ここでも玉木氏は、「様々な意見があります」と言って、外国人が人権を享有する主体であるという自明に当然のことについて、留保しようとしている。

 こうした語り方は、卑怯でもある。玉木氏は、外国人が人権を享有する主体「ではない」とはみずから明言はしない。「外国人の権利の保護を否定するものではないが」などとも言ってみせる。

 でも、このお調子者は、排外主義的な世論にむけて、自分は外国人の権利について留保なく認めるべきだと考えるような人間ではないのだと、アピールしているのである。自分自身は差別主義者とのレッテルを貼られないように注意しながら。セコイよね。

 しかし、「同性愛者の人権享有主体性については様々な意見があります」などと語る人間を差別主義者と呼ぶのがなんらまちがいではないように、「外国人の人権享有主体性については様々な意見があります」と語る人間が差別主義者でないわけがなかろう。

 今回の選挙で、玉木と国民民主党は、「終末期医療」の過剰、あるいは「尊厳死」の不足が、若い世代を圧迫しているのだと考えるような人間たちの支持をとりつけ、自分たちの政治的な資源にしようとした。玉木はまた、外国人の人権など認めるべきでないと考えるような者たちに迎合し、これを自身の政治的な資源として取り込もうともしている。こういう政党が今回の選挙で躍進し、大きな影響力をもちつつあるという状況が、おそろしいです。



*1: 玉木の発言は、10月12日の日本記者クラブ主催の党首討論会でのもの。玉木は自身の発言が多くの批判を受けると、「日本記者クラブで、尊厳死の法制化を含めた終末期医療の見直しについて言及したところ、医療費削減のために高齢者の治療を放棄するのかなどのご指摘・ご批判をいただきましたが、尊厳死の法制化は医療費削減のためにやるものではありません」などと同日中に釈明した。しかし、以下のように玉木は明確に「社会保障の保険料を下げる」「医療給付を抑え、若い人の社会保険料給付(ママ)を抑える」という文脈のなかで「終末期医療の見直し」「尊厳死の法制化」に言及しており、釈明で言っていることは自身の元の発言とまったく整合しない。

 「社会保障の保険料を下げるためには、われわれは高齢者医療、とくに終末期医療の見直しにも踏み込みました。尊厳死の法制化も含めて。こういったことも含め医療給付を抑え、若い人の社会保険料給付を抑えることが、消費を活性化して、つぎの好循環と賃金上昇を生み出すと思っています」

 この玉木発言については、医師の木村知氏による以下の批判を参照してほしい。

玉木雄一郎代表の「尊厳死の法制化」発言に恐怖で震えた…現場医師が訴える「終末期の患者は管だらけ」の大誤解 「死なせてほしい」という意思はきっかけ一つで変わる | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)(2024/10/22 7:00)



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2024年10月25日

「被収容者の支援をしていたつもりが入管を支援していた」ということが起こりかねない

 

 自分みたいな者にそんな適性があるともあまり思えないのだけれど、支援者みたいな役回りをする場面が私にもある。

 そんな場面で気をつけるようにしているのが、支援はやりすぎにならないようにしたほうがよい、ということ。支援しすぎてしまうことの弊害というのは、たしかにある。それはたとえば、相手が自分でできることをうばってしまうということである。

 支援しようとする人は、相手が支援を必要としているとみなして、だから自分が支援しなければならないのだと考える。ただ、相手が「支援を必要としている」ということは、その相手が「無力である」こととイコールではない。けれども、支援をしよう、支援をしなければならないと考える人は、ここを混同して支援を必要とする人を無力な存在とみなしてしまうことがある。

 相手を無力な存在とみなしてしまうと、相手にもいろいろとできる可能性・能力があるということが、あまり見えなくなってしまう。それで、支援者は、相手のできることをかわりにやってしまう。結果として、支援者が相手の可能性・能力を発揮する機会をうばってしまうことになりかねない。ものごとを判断するとか、自身のすべきことを決定するとか、そういった可能性・能力を発揮する機会さえ、支援者がうばってしまうということが、おこりうる。

 でもまあ、「やりすぎ」にならないように、支援者が自分自身で抑制するのは、思いのほか簡単ではない。だからこそ、支援しようとするときは、その支援のありようについて、ややひいた立場からツッコミを入れてくれる人が近くにいてくれたほうがよいと思う。たとえば「あなたは『〇〇しなければならない』と言うけれど、そう思ってるのは(支援を受ける)相手の人? それとも(支援者である)あなた自身?」みたいな問いである。団体として、あるいは複数の人が連携して支援をおこなう場合は、そのときどきでだれかがこういうツッコミを入れる役割を買って出るようにするとよいかもしれない。


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 さて、いま述べてきたようなものとは別種の(しかし、関係するかもしれない)「支援のやりすぎ」もある。

 入管施設での面会活動などをやっていると、そこに収容されている人から、衣料品や衛生用品の提供を要請されることがある。夏に収容された人が収容が長引くなかで冬用の服が必要になったりするし、歯ブラシや石けん、シャンプー、洗濯洗剤などは、ないと困るものだ。でも、支援者が費用を負担してこれらを差入れしてしまうのは、おかしいと言えばおかしい。だって、本来的には、これらは収容して自由をうばっている入管が責任をもって被収容者に提供すべきものでしょう。入管のすべき仕事の肩代わりを支援者がするのはおかしい。

 一応、最低限の衣服や衛生用品を用意できない人に対しては、入管がそれらを提供することにはなっているのだけれど、あれこれ理由をつけて十分にやらず、実際問題として足りないので支援者がこれをおぎなうということがある。

 衣類などは入管が提供することがあるぶんまだマシだが、より深刻なのが被収容者の通信費の問題である。日本の入管施設は、被収容者を監禁したうえに、携帯電話を取り上げて使用を禁じ、インターネットに接続した端末もいっさい使わせない。収容された人にとって、外部に連絡する手段は、郵便とバカ高い公衆電話(国内通話で携帯電話にかけて1,000円で14分しか話せない)ぐらいしかない。収容する側(入管)が、無制限にとはいかなくても、一定の範囲で費用を負担して被収容者の通信の機会を保証すべきだろう。

 ところが、入管が本来ならば果たすべき責任を果さないでいるために、支援者がこれを肩代わりせざるをえない場面が出てくる。弁護士会に連絡したいけれど所持金がほとんどないからできない、とか。そういったときに、仲間の被収容者や外部の支援者が電話カード代を援助する。

 こういった支援は、ボランティアの支援者が本来やる必要がないことをしてしまっているという意味では、過剰な支援であり、「やりすぎ」と言える。もちろん、衣服や石けん、電話代や切手など被収容者にとって切迫した必要性があるから私たちも差し入れることがあるのだけど、その「必要性」は入管の不作為によって作り出されたものだ。

 こうして入管の不作為が作り出した「必要性」をおぎなうということを支援者が無批判に続けていると、結局のところ、入管施設の劣悪な処遇を固定化することにすらなる。劣悪な処遇や人権侵害に対しては、当然ながら被収容者から抗議や改善要求が起こるものだ。抑圧や侵害が引き起こす当事者の抗議・改善要求に対して、連帯してともにたたかうのが支援者の本来的な役割だと私は思うけれど、入管に対しては無批判なまま、不足している衣服や歯ブラシや電話代を差し入れるということだけやっていては、それは入管の収容施設運営を助けることにしかならないのではないか。

 もちろん、衣料品や衛生用品、通信手段の援助をすることがわるい、ということではない。それをするにしても、入管の収容施設運営に対する批判や抗議も同時にしたほうがよいし、すくなくとも、(この文章の前半で述べた文脈にひきよせて言うなら)被収容者がもっているはずの、抗議や要求を通して状況をみずから改善していく能力や可能性をうばわないようにしたい。


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 いま述べてきたような問題が、入管施設の処遇の問題にとどまるならば、(もちろんそれも重要だけれども)いちいちブログで書くほどのことでもないかもしれない。しかし、6月の改悪入管法施行にともなって創設された監理措置制度において、上にみたようなのとも似た構造の問題が、はるかに深刻なかたちで生じつつある。

 監理措置は、退去強制手続き中の、また退去強制処分を受けた外国人の収容を(一時的に)解除して、収容施設の外での生活を(さまざまな制限をつけたうえで)認める制度である。収容を解いて外での生活を認める措置としては、従来から仮放免というものがあるが、今回の法改定でこの仮放免制度は維持しつつ、監理措置があらたに創設された。

 くわしい話をするとややこしくなるので今回はしないけれど、6月以降、入管は重病人以外は仮放免を許可しなくなっている。したがって、現に収容されている人たちからすると、日本から出国する以外で収容から解放されるためには、監理措置を申請するしか方法はないと思わされてしまうような状況になっている。ところが、この監理措置は非常に問題の大きな制度であって、これが定着すれば、仮放免者をはじめ非正規滞在の外国人への締め付け・圧迫が今まで以上に強くなるのは確実である。

 このブログで何度も書いているとおり*1、入管の収容は「劣悪」とかそういう形容ではまったく足りないような、出国強要を目的とした「拷問」であって、しかもそれを法務大臣も入管幹部もまったく隠そうとすらしていない。そういう拷問施設からどんなかたちであれ一日でも早く解放されたいということは、被収容者にとって切迫した必要性だったりする。なので、被収容者が監理措置申請できるようにみずから「監理人」を引き受けようという支援者が出てくることは、不思議ではない。

 しかし、ボランティアの支援者が無批判に「監理人」を引き受け、監理措置が新しい制度として定着していくと、どういうことが起きるか? そこはよくよく考え、当事者とも話し合わなければならない。

 ということで、その問題については、今度あらためて書きます。


*1: 以下の記事などを参照。

2024年10月10日

収容によりあなたが受ける不利益を考慮しても


 6月10日から、昨年成立した改悪入管法が施行されています。難民申請が3回目以降の人の強制送還が可能になったなど、非常に問題のある改悪です。

 仮放免制度とはべつに、収容解除のためのもうひとつの制度としてあらたに創設された監理措置も、ここではくわしく書かないけれど*1、深刻な人権侵害をもたらすだろうことが危惧されます。

 ただ、新法ではこの監理措置や仮放免について、不許可の場合には申請者に書面でその理由を示すことになりました。入管がどんなふうに理由を書いてくるんだろうか。そこは気になるところです。

 で、私が大阪入管で面会している被収容者のひとりが、監理措置を申請していたのですが、その人が「不決定」の通知をもらったので、その文書を見せてもらいました。「監理措置決定をしない理由」として、つぎのように書かれていました。


●●●●氏が監理人になろうとしていることを考慮しても、あなたには逃亡及び不法就労活動をするおそれが相当程度認められ、収容によりあなたが受ける不利益の程度その他の事情を考慮してもなお、あなたを送還可能のときまで収容しないことが相当とは認められません。


 他のケースを知らないのですが、おそらくこの不決定理由は定型文で、不決定通知を受け取った他の人たちも同様の「理由」を入管から示されているのではないでしょうか。

 しかしまあ、なんというか、すごいこと書いてますよね。「収容によりあなたが受ける不利益の程度その他の事情を考慮しても」とか書いてますが、入管の役人たちはその「不利益」がどういうものだと考えているのか。というか、まじめにそれを考えたことが少しでもあるのだろうか。

 人を拘束して自由をうばうということが、どれほど重大なことなのか。それは一日であれ大変なことです。ましてや、半年とか、あるいは年単位で人間を拘束するということは、きわめて重大な人権侵害であって、それ相応の理由がなければゆるされるものではない。

 入管での収容は、近年よく知られるようになりましたが、その期間の上限が決まっていません。無期限収容というやつです。事情があって帰国できないという人にとって、いつ出られるのか、見込みがたたない。しかも、刑罰などとちがって、なんのために自分が拘束されているのか、納得できるような理由などない。意味のわからない拘束が、いつまでとも知れず続く。強制送還されるのではないかという恐怖もストレスになる。

 こういう環境で閉じこめられ、自由をうばわれていれば、人間はそう時間をかけずに心身がおかしくなります。

 ところが、入管は言う。「あなたには逃亡及び不法就労活動をするおそれが相当程度認められ、収容によりあなたが受ける不利益の程度その他の事情を考慮してもなお」収容をこのまま続けるのが相当と判断したのだ、と。

 たかが、「逃亡」だとか、「不法就労活動」だとか、それしきの「おそれ」があるから、閉じこめておくのだ、というのです。「逃亡」や「不法就労」でだれか傷つく人でもおるの? そんなくっそくだらない理由で、人間の心身を破壊してもよいというの? 完全に軽重の判断が狂っているとしか言いようがないわけだが、こういう人間たちが権力ふるってるのは、ほんとうにおぞましいことです。うんこ。




*1: 監理措置の問題性については、以下の記事で述べています。

 監理措置は、従来からある(6月に施行された改悪入管法でも、変更点はありつつも一応維持されている)仮放免とおなじく、退去強制手続き中の人、あるいは退去強制処分を受けた人の収容を一時的に解除する措置です。

 しかし、仮放免に対して監理措置の特異性は、収容を解かれた外国人(「被監理者」)をスパイする役目を民間人(「監理人」)に負わせる、というところにあります。上にリンクした「監理措置とはなにか?〈3〉」で、監理人に課される報告義務について書いたことを、抜粋・再掲しておきます。

 このように、監理人に被監理者の生活・行動を日常的に監視させて入管に報告させ、被監理者がアルバイトして報酬を受け取ったり監理措置条件への違反があったりすればそれを入管にたれ込めと要求するのが、この監理措置制度です。

 従来の仮放免制度においても、入管は「動静監視」と称して、仮放免者の生活・行動を調査し把握しようとしてきました。この「動静監視」を民間人である監理人にも一部アウトソース(外部委託)しようというのが、監理措置制度であると言えるでしょう。監理人は被監理者をスパイする役割を負わされることになります。

 被監理者にとってみれば、家族や友人、あるいは支援者や弁護士など、自分を支援する立場の人間をつうじて、自身の行動を監視・監督されるということです。自分にとって身近な存在、しかも自分に必要な生活上の資源や情報を提供してくれる者から見張られるとなれば、ある面では入国警備官に監視される以上にその監視の強度は高くなるでしょう。

 入管の視点からいえば、被監理者に対する支援者らの親密さや信頼関係を資源として利用することで、より強度の高い監視・管理をおこなおうというのが、監理措置制度を創設した意図としてあるでしょう。入管という組織を動かしている連中の反社会性、邪悪さがよくあらわれています。



2024年9月24日

メ~テレ「入管ドクター」を視聴して / 疑似問題あるいは煙幕としての「医療体制」問題

 

1.はじめに

 少し古い番組で話題にするのがやや遅すぎる感もあるのですが、メ~テレ(名古屋テレビ放送)制作の「入管ドクター」を視聴しました。7月20日にテレビ朝日系列で全国放送された番組のようです。私はユーチューブの以下のリンクでみました。


“ブラックボックス”だった名古屋入管の医療現場に初のカメラ取材 3年前の“ウィシュマさん死亡”は、なぜ起きたのか?医師の診療を通して見えた入管行政の現状と課題【テレメンタリー】 - YouTube


 番組は、ウィシュマさん死亡事件から3年後の名古屋入管に取材したもので、事件後に着任した名古屋入管の局長や常勤医師がインタビューに応じている映像のほか、診療室での診察の様子もうつされています。

 私としては、事件について現名古屋入管局長がどのように語るのかとか、新たに着任した常勤医師の目に入管施設の医療がどのようにうつったのかとか、興味深くみたところはありました。

 しかし、番組は、ウィシュマさん事件を考えるうえでその本質から決定的にずれており、その点でとても残念なものでした。事件後、入管は事件の調査報告書などを通じて、論点を事件の本質からずらすような認識操作をおこなってきました。番組の制作者がその論理に無批判に乗せられてしまったということだと思います。

 番組については、すでに以下の記事で的確な批判がなされており、私が指摘しようとする問題点もここで述べられているところと重なるところが大きいのですが、私なりのしかたで批判を書いてみようと思います。


ウィシュマさんの死は「医療事故」ではなく「殺人事件」 - 猿虎日記(2024-07-28)



2.「入管も反省して真剣に改革に取り組んでいる」というストーリー

 番組は、名古屋入管がその収容場における医療体制の改革に取り組んでいる過程を、とくに2023年4月に常勤医師として着任した間淵則文氏の奮闘に焦点をあてて追いかけています。

 批判的な視点をもたずにぼんやり視聴するならば、「名古屋入管も3年前の悲惨な事件を反省し、これをくり返さないために常勤医師を先頭に懸命に努力しているんだなあ」という感想をもってしまいそうです。

 番組の最初のほうで、2023年9月に着任した名古屋入管の市村信之局長は、つぎのように語っています。


 われわれの収容施設の中でお亡くなりになるというのは、私はありえないと思っているので、その重い責任を認識している。こういう施設で人の命をあずかっているという。で、あとは診療体制も3年間で大きく変わっています。


 ここで市村局長は、ウィシュマさんの死亡について「重い責任」を感じているということと、入管としてその後「診療体制」の改善に取り組んできたのだということを、結び付けて語っています。この2つはおたがいに結び付けて語るのにふさわしいことなのか、という疑問を私は強くいだきますが、それはあとで検討します。

 では、市村氏の言う診療体制が「大きく変わっ」たとは、どういうことなのか。番組では、以下の改善点が紹介されています。


  1. 非常勤しかいなかった名古屋入管の医師に常勤(間淵氏)がくわわった。
  2. 救急車が来て病院に患者を搬送するまでの間の救急救命治療のための医療機器、薬品をそろえた。
  3. 医師と局長ら幹部との医療カンファレンスを平日は毎日おこない、情報共有をしている。


 こうした点が示されることで、視聴者の多くは「名古屋入管も事件を反省して真剣に医療体制の改善に取り組んでいるだなあ」という印象を受けることでしょう。

 もっとも、番組全体としては、入管医療に依然として課題が残っていることにもふれてはいます。たとえば、常勤医師について、入管は全国6施設に合計12人の配置しようとしているところ、現状では4人にとどまっているということなどです。また、番組スタッフが面会した名古屋入管の被収容者から「診察を希望しても1週間程度かかる」「内視鏡の検査をしてくれない」といった声があったことを紹介しています。そういった点で、入管に対してまったく無批判につくられた番組というわけではありません。

 しかし、ウィシュマさん事件への反省のうえに上記の改革がすすめられているということを、番組の制作者はおおむね肯定的にとらえており、そこでの関係者の真剣さ・真摯さについてもとくに疑いをはさまずに報じているようにみえます。

 でも、3はともかく、1と2はウィシュマさん事件となんの関係があるのでしょうか。(3のようなかたちで情報共有の課題をウィシュマさんの死亡と結びつけて語ることにも、私は大きな問題があると考えていますが、その話はとりあえずここではおいておきます)。すくなくとも、1と2は、以下でくわしくみるように、ウィシュマさんの亡くなった経緯とまったく無関係の問題であって、これらを持ち出すのは事件の本質から論点をずらすミスリードと言うべきです。

「診療体制もですね、3年間でお~きく変わっています」と語る名古屋入管局長、市村信之氏。



3.職員に「医療知識がほとんどない」ためにウィシュマさんは放置された?

 それぞれについて、検討していきましょう。

 まず、1の常勤医の配置について。番組では、常勤医である間淵氏の判断により、体調不良で食事のとれない状態になっている被収容者が、外部病院での入院と点滴治療につながった事例が紹介されています。

 間淵医師はつぎのように述べます。


 ウィシュマさんのときとちがって、医師が常駐していて、悪くなっていっているというのをちゃんと評価をしながら、すぐ点滴も始めて、危機的なところは脱したけれども、それでもご飯を食べれないということで入院に持っていった。二度と[ウィシュマさんのときと]同じ失敗をくりかえさないということは、うまくいっていると思います。


 番組で紹介されているこのケースについて言うならば、被収容者の命と健康を守るうえで常勤医の設置がプラスに働いた事例と言えるかもしれません。しかし、ウィシュマさん死亡事件について間淵医師が語る内容には、疑問をいだかずにいられません。


 医療知識がほとんどないような人たちが、ウィシュマさんちょっとやばいのかな、しゃべってるからまだいいのかとか、その程度のことでやってたんだよね。お医者さんがみれば、これは検査するまでもなくこれはうちでみとったらあかんわというところで、おそらく救急車を呼んだり、大きい病院に行きなさいと言ったりするわけですよ。それをここにとめとったというところは、言われてもしゃあないな、と。


 間渕氏は、ウィシュマさんが適切な治療を受けられずに放置されたことに関して、救急車を呼んだり大きな病院に連れて行ったりすべきどうかかの判断が「医療知識がほとんどないような人たち」によって行なわれていたことが問題であったと言っているわけです。このような認識からすれば、常勤医が入管に常駐していることで、同様の事件が起こるリスクは回避できるはずだという話になるのも、たしかに道理ではあります。

 一般論として言えば、医師が常駐していることで、入所者の病状についての評価が適切かつ迅速におこなわれやすいという利点は、たしかにあるでしょう。その意味で、多人数の人が収容されている施設において、常勤医師を置いたほうがよいだろうということは、一般論としては理解できなくはありません*1

 けれども、ウィシュマさん事件の理解としては、この間淵医師の発言は的外れです。というのも、ウィシュマさんが適切な医療を受けられずに死ぬまで放置された原因は、「医療知識がほとんどないような人たち」(名古屋入管の看守職員たち)が、「医療知識がほとんどない」がゆえに、ウィシュマさんの深刻な病状を適切に評価できなかったからなどでは、断じてないからです。

 ウィシュマさんが亡くなって5か月たった2021年8月10日に、入管庁は「名古屋出入国在留管理局被収容者死亡事案に関する調査報告書」(以下「調査報告書」といいます)というものを公開しています。この入管側の文書で明らかにされている事実を、2点示しておきます。


(1)2月15日の尿検査で「飢餓状態」を示すとされる数値(ケトン体3+)を示した。ところが、名古屋入管は3月4日に精神科を受診させたのを除いてはウィシュマさんが3月6日に亡くなるまで病院に連れていくことはせず、「飢餓状態」を改善させるための治療を受けさせることはなかった。

(2)亡くなる前日の5日の朝、看守職員がウィシュマさんのバイタルチェックをおこなったが、脱力のため血圧・脈拍を測定できなかった。


 名古屋入管は、(1)のような状況にあっても、点滴治療を受けさせることは最後までありませんでした。ウィシュマさん本人や支援者から再三の要求があったにもかかわらずです。こうしてウィシュマさんが放置されたのは、なぜでしょうか? その病状を適切に評価できる知識と経験のある医師が常駐していなかったからでしょうか? あるいは看守職員らは「医療知識がほとんどないような人たち」だったからウィシュマさんを放置したのでしょうか?

 また、「調査報告書」には「別添」として、1月15日からウィシュマさんが亡くなる3月6日までの経過等の詳細を記した資料が付けられています。これを読むと、常識的な判断として病院にただちに搬送すべきだろうと思わざるをえない状況にいくども出くわします。(2)もそのひとつです。しかし、結果的に名古屋入管はウィシュマさんが死ぬまで救急車を呼ばなかったのです。たとえば、血圧も脈拍も測定不能な状態にある人間を病院に連れて行かず、居室に寝かしたままに放置したのは、入管職員たちが「医療知識がほとんどないような人たち」だったからでしょうか?

 常識的に考えてみましょう。自力で食事をとるのがむずかしく、衰弱しているとはっきりわかる人をみたとき、間淵医師のいう「医療知識がほとんどないような人たち」(私もそのひとりですが)は普通どうするでしょうか。普通、心配してとても不安になるのではないでしょうか。そして、「医療知識がほとんどない」からこそ、病院に連れて行って医師に診てもらおうとするのではないでしょうか。「医療知識がほとんどないような人たち」は、食事をとれずに衰弱している人をほったらかす、などということを、普通はしません。

 しかも、ウィシュマさんの場合、尿検査をしてその数値が飢餓状態を示していたのですから、なおさらです。周りにいる人間が医療の素人ばかりだったから判断を誤った、などという次元の話ではありません。

 救急車を呼ばなかったということについても、同じです。「医療知識がほとんどないような人たち」は、(2)のような状態の人をみたら、普通あわてて救急車を呼ぶでしょう。

 先ほど言及した、食事をとれない状態になって外部の病院に入院した被収容者がいたという事例がありましたが、この人を支援している友人は、番組スタッフの「ウィシュマさんが死んだときはどう思いましたか?」という質問につぎのように答えています。


 こわくて、いやな気持ちになった。入管、そんなに人間としてなんでそこまで放っておけるのか、わからんかった。今でもわからん。どういう気持ちで人間を放っておけたのか、死ぬまで。


 まさにこれこそ、問うべきことがらでしょう。どうして、名古屋入管の職員たちは普通の(常識的な)行動をとらなかった(とれなかった?)のか、ということ。この問いを回避して、現場職員の医療知識や常勤医の設置がどうのこうのといったことを問題にするのは、まったくのナンセンスです。

「人間としてなんでそこまで放っておけるのか、わからん」という疑問。これが問わずにはいられない疑問なのだということは、理解が難しいことなのだろうか。



4.疑似問題としての「医療体制の不備」

 番組では、上でみたように、名古屋入管が医療体制改革の一環として、救急車が到着するまでの救急救命治療のために必要な医療機器や薬品をそろえたということを紹介しています。もちろん、このこと自体は被収容者の命と健康を守るうえでの重要な改善です。しかし、名古屋入管は救急車を呼ばずにウィシュマさんを見殺しにしたのであって、人命を軽くあつかう人間たちが運営する施設では、救急救命のための医療機器や薬品があったとしても宝の持ち腐れです。

 ウィシュマさんを死にいたらしめのは、救急救命のための医療機器・薬品だとか、常勤医師の設置だとか、そうした医療体制の問題ではないのです。「医療体制はまったく関係がない」と言っても言いすぎではありません。だって、当時(2021年)の名古屋入管の医療体制であっても、職員らが常識的に行動していさえすれば、ウィシュマさんの死は避けられたはずだからです。

 みなさんがびっくりするかもしれない事実を、いくつか指摘してみましょうか。名古屋入管は名古屋市内にあります! 番組でもうつっていましたが、名古屋入管のまわりには自動車の通れるアスファルトの広い道路が通っています。名古屋入管は、車の走れない山道の奥にあるわけでも、救急搬送にヘリの不可欠な離島にあるわけでもありません。救急車を呼べば来ますし、患者を入院させてを受けさせるために車で連れていける病院もあります。それらを名古屋入管がしなかったのは、医療体制に不備があったからではありません。

 常勤医師はいないよりもいたほうがよいことも、場合によってはあるかもしれません。救急救命のための医療機器や薬品も、あるに越したことはないでしょう。しかし、それらがなくても、電話も立派な道路も名古屋入管には通っているのだから救急車を呼べたはずだし、入管の車でウィシュマさんを病院に連れていくこともできたはずです。ウィシュマさんを死なせないために支障となるような「医療体制の不備」など存在しませんでした。

 こうしてみると、ウィシュマさんの事件の背景や原因に「医療体制の不備」をみる見方がいかに見当はずれなものか、わかるのではないでしょうか。名古屋入管はたんにウィシュマさんを見殺しにしたのです。



5.「調査報告書」「提言」の欺瞞性

 さっきもすこしふれたとおり、入管庁は事件後21年8月に「調査報告書」を公表しました。その重要なポイントは2つあります。1つは、死因は特定できなかったとして、ウィシュマさんの死亡について名古屋入管の責任を否定していることです*2。もう1つは、改善すべき課題として、全職員の意識改革や被収容者の健康状態等が適切に把握・共有されるための組織改革などとともに、「医療体制の強化」があげられたことです。

 この「調査報告書」を受けて翌22年2月28日には、法務大臣の設置した有識者会議が「入管施設における医療体制の強化に関する提言」(以下、「提言」と言います)をまとめています。


報告書「入管収容施設における医療体制の強化に関する提言」について | 出入国在留管理庁


 「提言」は、常勤医師の確保などによる診療体制の強化、外部医療機関との連携体制の構築・強化、医療用機器の整備などの必要性を述べています。

 「提言」については、「入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合」による批判が出ていますので、読んでみてください。ウィシュマさんは、医療ネグレクトにより見殺しにされたのであって、その背景には収容・送還を人命よりも優先する入管の政策・方針がある。「提言」は「医療体制」に問題を矮小化することで、こうした政策・方針をすすめてきた者たちの責任をごまかしている。そういった批判です。


「入管収容施設における医療体制の強化に関する提言」に対する見解 | 入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合


 「調査報告書」と「提言」をつうじて、入管庁はつぎのように主張していると言えます。すなわち、ウィシュマさんの死亡事案について、死因を特定できなかったので入管の責任だとはいえない。ただし、その経緯を調査をする過程で、医療体制の不備などの課題がみつかったので、これらを改善すべく取り組んでいくつもりである、と。

 入管は、あきらかに重篤である病人をほったらかして殺したことについて、ぜんぜん反省なんかしてないわけです。「医療体制の不備」などというまったく本質的でない問題を煙幕のように出してきて、その改善に取り組む姿勢をみせることで、自分たちがあたかも人権と人命を尊重しているかのように演出している。

 メ~テレ制作の「入管ドクター」は、こうしたはなはだしく欺瞞的な入管の自己演出・宣伝の論理をそのままなぞる番組になってしまっているのです。



6.入管幹部の責任はどこいった?

 メ~テレの番組「入管ドクター」への批判としては、以上でだいたい書きたいことは書きました。

 あとは、さきほど提起した、「なぜ名古屋入管の職員たちは救急車を呼ぶなどの常識的な行動をとらなかった(とれなかった)のか?」という問いについて、すこし述べておきたいと思います。入管職員たちがウィシュマさんを死ぬまで「放っておけた」ということの意味は、正面から考えなければならない問題のはずです。

 番組のなかで名古屋入管局長の市村氏は、つぎのように語っています。ここでの市村氏の発言は、ウィシュマさん死亡事件について述べているものと思われます*3


いわゆる管理するっていう点ばっかりが入管の仕事っていうふうに強調して教え込まれた方が、何人かおられたのかもしれませんね。

(番組スタッフ:そういう時代があったんですか?)まあずっと……私入ったときからそうでしたね、まさに昭和。やっぱり外国人の管理がわれわれの仕事、送還するのがわれわれの仕事、と。[太字強調は引用者] 


 私は、この市村局長の語りを聞いて「ずるいなあ」と思いました。

 市村氏は、被収容者をもっぱら管理の対象としてみるような「入管の仕事」のありようを問題にしているようにはみえるのですが、しかしここで問題にされるのは、「管理するっていう点ばっかりが入管の仕事っていうふうに強調して教え込まれた方」、つまり現場の看守職員のほうだけなのです。一方で、外国人を管理するのがお前たちの仕事だと教え込んできた側を問題にする気はないみたいです。現場職員(「強調して教え込まれた方」)のうちの、一部の職員が問題だった(「何人かおられたのかもしれませんね」)のであって、入管の組織全体を否定すべきではない、とでも言いたそうです。

 番組の他の場面では市村局長は、3年前にはなかったという「職員心得」の一節を指さし、読み上げながら、こう言います。


「人権と尊厳を尊重し礼節を保つ」。これが最上位の心得だと私は思っています。


 言っていることそれ自体は、もっともなことです。しかし、ここでも、入管の幹部の責任は回避しようという市村氏の姿勢があらわれています。

 この「心得」とは、2022年1月に策定された「出入国管理庁職員の使命と心得」と題された文書で、佐々木聖子入管庁長官(当時)の説明によると、名古屋入管での「死亡事案」を受けて、「全職員がその策定プロセスに主体的に参加して作り上げたものです」とのことです*4。いわば、全職員が参加して作り上げた全職員が胸に刻むべき心得といったところなのでしょうが、こうした構図であいまいにされるのは、幹部の責任です。なんか敗戦直後の卑劣かつ恥知らずなアレとそっくりですね。天皇や政府、軍部、財閥など侵略戦争を主導した者たちの戦争責任を棚上げし、「国民全体」が反省し懺悔すべきだとした皇族首相・東久邇宮による「一億総懺悔」論とよく似ています。

 ウィシュマさん事件について、現場で勤務していた看守職員たちの責任を問えないとはもちろん思いません。しかし、現場の職員たちにばかり責任を押しつけて(といってもきっちり処分をしたわけではないですが)、上司が(部下とのあいだのどのような関係性のもとで)どういう指示を出していたのか、またその指示が組織のどういう方針のもとで出されていたのか、といったところの点検がなされないのであれば、その組織は職員たちにとってもクソとしか言いようがありません。

 上の2でみたように番組では、医師と局長ら名古屋入管幹部による医療カンファレンスが開かれるようになったことが医療体制の改善例としてとりあげられています。こういう取り組みそれ自体は、もちろんよいことです。しかし、ウィシュマさん事件への反省に立ってこれを始めたのだという話になると、やはりそれはおかしいでしょう。だって、現場の重要な情報が幹部のところまで来なかった、つまり現場の職員がきちんと報告しなかったのが悪かったのだという、責任転嫁の論理がその前提にあるのだから。ウィシュマさん事件について言えば、こういう前提でしゃべるのは、より大きな責任を問われるべき幹部を免責しようとする問題のすりかえと言うべきです。

 冒頭の1でリンクしたブログ「猿虎日記」で、永野潤さんはこう書いています。


 しかし、ウィシュマさんの死亡は、現場の職員の「知識」の問題でもないし、ましてや現場の職員の「心」の問題などでは断じてない。現場の職員は、病院に連れて行ってと懇願するウィシュマさんに「ボスに言うけど、連れて行ってあげたいけど、私はパワー(権力)がないから」と言っていたではないか。


 看守職員の「ボスに言うけど、連れて行ってあげたいけど、私はパワー(権力)がないから」という発言は、入管庁が裁判の過程で出してきた、ウィシュマさんが亡くなるまえの過程を記録した監視カメラの映像の一部(弁護団が公表しており、マスコミも報じているので、見たことのあるかたも多いかもしれません)で確認できます。

 パワーがある者の責任をきちんと追及することこそ、報道が大きな役割を果しうるところでしょうし、私たち市民にとっても取り組むべき課題としてあるのではないでしょうか。

 なお、ウィシュマさん見殺し事件が、入管の非正規滞在外国人をめぐるこの20年ほどの政策・方針のどのような推移のもとで起こったのか、以下のパンフレットで分析されております。私も執筆にかかわっているひとりであるので、手前みそになってしまい恐縮ですけれど、ほんとうによく考察されていますので、おすすめです。入管の政策や方針との関連を考察することなしに、名古屋入管の職員らがなぜウィシュマさんを見殺しにできたのかという問題にせまることは絶対にできません。


なぜ入管で人が死ぬのか | 入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合


 当然ながら、政策も方針も、人間が決めて人間が実行するものであって、そこには責任がともないますし、その責任には軽重があります。だれが何をどうやって決めてきたのか。あるいは、だれが何をどうやって指示してきたのか。民主的なコントロールの外にある官僚機構でおこなわれてきたこれらは、まだまったく十分にあきらかになっていません。

 入管の「ブラックボックス」と言うなら、そこにこそ真のブラックボックスがあるのではないでしょうか。名古屋入管の診療室にカメラが入ったところで、ウィシュマさん事件でかいまみえた「闇」にどれだけせまることができたでしょうか。(了)



名古屋入管前で抗議行動する人たちの映像。ウィシュマさん事件の真相究明と責任追及をうったえている。事件の再発防止のために不可欠なはずのこの2点こそ、本来はもっと時間をさいて番組であつかうべきテーマだったのではないだろうか。



*1: ただし、入管施設においては、常勤医師を置きさえすれば被収容者にとってよりよい医療が提供されると楽観的に考えることはできません。常勤の医師が、入管の送還業務と癒着して医療従事者として本来もつべき独立性をうしなえば、被収容者はまともな医療を受ける機会からますます疎外されることになるからです。入管施設では、常勤医師の存在が被収容者の医療へのアクセスをさまたげるということすらおこりえます。実際、過去の東日本入管センターでは、こうした理由で多数の被収容者から常勤医の免職要求があがり、2012年に常勤医が辞職するということもありました。 


 *2: ウィシュマさんの死因について、「調査報告書」は以下のように結論づけています。 「A氏[ウィシュマさん]の死亡については、司法解剖結果にもあるとおり『病死』と認められるものの、詳細な死因に関しては、複数の要因が影響した可能性があり、専門医らの見解によっても、各要因が死亡に及ぼした影響の有無・程度や死亡に至った具体的な経過(機序)を特定することは困難であると言わざるを得ないとの結論に至った。」(34-5ページ)。 

 ウィシュマさんの遺族が提起し名古屋地裁でおこなわれている国家賠償請求訴訟においても、被告(国)は、死亡に至った具体的な機序を特定できないから国の責任を問えないという趣旨の主張をしているそうです。医療過誤があったのかどうかを争う裁判であれば、この「機序」の特定が重要になるのも理解できるのですが、ウィシュマさんが命をうばわれた過程において、医療上の判断が適切だったかどうかという問題はさほど重要とは思えません。医療上の判断の適切さ以上に、人命を尊重しているのであれば常識的にとるだろう対処を名古屋入管がとらなかったということこそが、重要な点ではないでしょうか。その意味で、死亡に至った具体的な機序がどうだったかということを、国の責任を問うための条件として設定しようとする国の姿勢には、強い違和感をおぼえます。

  そもそも、機序が特定できないから国の責任は問えないなどという理屈を認めるならば、入管は被収容者になるべく診療を受けさせないほうが自分たちの責任を問われないですむ、ということにもなります。被収容者を受診させなければ、その人が死んでもその機序の特定がむずかしくなるのですから。 


*3: ここでの市村氏の発言がどのような文脈でなされたのか(番組スタッフがこの前にどのような質問をしているのか、など)は、番組の映像からは明示されていません。番組の編集上は、さきにふれた被収容者の友人がウィシュマさん死亡事件について「今でもわからん。どういう気持ちで人間を放っておけたのか、死ぬまで。」と語る場面の直後に、この市村氏の発言の場面がつづくという構成になっています。 


*4: 「出入国在留管理庁職員の使命と心得」について | 出入国在留管理庁



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2024年8月23日

川口市議会の差別意見書を添削してみた


 1.立民、差別意見書に賛成した元市議を公認

立憲、衆院選に元川口市議を擁立 在日クルド人念頭の意見書に賛成:朝日新聞デジタル(2024年7月30日 20時44分)

 ↑の記事より、以下引用。


 立憲民主党は30日、次期衆院選の愛知15区に、新顔で埼玉県川口市の元市議、小山千帆氏(49)の公認内定を発表した。小山氏は、在日クルド人を念頭にした犯罪取り締まり強化の同市議会提出の意見書に賛成していた。多文化共生を重んじる党のスタンスと矛盾するとの指摘がネット上などで出ていた。


 そんな意見書を川口市が出してたのか? ということで、遅ればせながら一読してみたのですが……。これはひどい、とんでもないものでした。

 意見書は「一部外国人による犯罪の取り締まり強化を求める意見書」と題され、昨年6月29日付、川口市議会議長名で出されており、あて先は衆参両院議長、内閣総理大臣のほか、国家公安委員長や埼玉県警などとなっています。

 川口市議会のウェブサイトの以下のページ、「令和5年6月定例会」というところから、意見書のPDFファイルはダウンロードできます。歴史的に記録されるべき差別文書といえるものなので、スキャンした画像もはっておきます。

意見書 | 川口市議会

画像
「一部外国人による犯罪の取り締まり強化を求める意見書」


 この川口市議会の意見書が、人種差別を遂行しているものだということは、議論の余地がないくらい明白です。だから、この意見書に市議会議員として賛成した小山氏が公的に自身のその行為を自己批判して誤りをみとめたというのでないかぎりは、同氏を公認候補として擁立すると発表した立憲民主党がそのスタンスをきびしく批判されるのは当然のことです。

 ただそうは言っても、これがなぜ差別にあたるのかということを言葉にして言うことも大事でしょうから、多くの人もそれぞれの言葉でそれを語っているようですけれど、私もここに書いておこうと思います。



2.なぜ差別だと言えるのか?

 意見書は、「一部の外国人」が暴走行為や煽り運転をくり返しており、また窃盗、傷害などの犯罪行為も見すごすことができないとし、国や県、警察に対して、「一部外国人」の犯罪や交通違反などの取り締まりを強化せよと求めたものです。

 暴走や窃盗を問題にしたいのなら、端的にその行為を問題にすべきだし、取り締まりを強化しろと言いたいなら、そうした行為を取り締まれと言えばよい話です。暴走や煽り運転にしろ、窃盗や傷害にしろ、外国人もやるでしょうが、日本人だってやるのであって。「外国人の」犯罪を取り締まれなんて言う必要はない。たんに「犯罪を」取り締まれと言えばいいでしょう。そこに「外国人」などという属性をもちだしている点で、川口市議会の意見書は人種差別なのです。

 つまり、これは、差別的な権力行使を行政に対して主張・要求し、市民・住民の差別を扇動する、きわめて悪質な文書というべきです。



3.差別意見書を添削してみる

 では、この意見書は、どう修正すればよいのでしょうか。こころみに添削してみました。訂正線を引いたのは原文が差別的であるため消した部分、赤字は原文に私が加筆したところです。


議員提案第1号

一部外国人住民による犯罪の取り締まり強化を求める意見書

 現在、川口市には40,000600,000人を超える日本国籍および外国籍の住民がおり、加えて、住民票をもたない外国人の中には仮放免中の方も相当数いるものと推定されている。多くの外国人住民は善良に暮らしているものの、一部の外国人住民は生活圏内である資材置場周辺や住宅密集地域などで暴走行為、煽り運転を繰り返し、人身、物損事故を多く発生させ、被害者が保険で対応するという声がある。すでに死亡事故も起こしており、看過できない状況が続いているが、事態が改善しないのは、警察官不足により、適切な対応ができていないものと考えている。

 また、新聞報道にある窃盗、傷害などの犯罪も見過ごすことはできない。

 現在、地域住民の生活は恐怖のレベルに達しており、警察力の強化は地域の治安維持のためにも緊急かつ必要不可欠となっている。このような一部外国人住民の行為は、その他多くの善良な外国人住民に対しても差別と偏見を助長することとなっており、到底見過ごすことはできない。

 このことから、この度、地域の窮状を伝え緊急的に解決を図るため、以下要望する。

1 警察官を増員し、一部外国人の犯罪の取り締まりを強化すること

2 資材置場周辺のパトロールを強化すること

3 暴走行為等の交通違反の取り締まりを強化すること

  以上、地方自治法第99条の規定にもとづき、意見書を提出する。

     令和52023年6月29日

(以下略)


 どうでしょうか。「このような一部外国人住民の行為は、その他多くの善良な外国人住民に対しても差別と偏見を助長することとなっており」というくだりなどは、修正したことで意味不明になってしまっていますが、「外国人」という語を正しく「住民」に置きかえることで、全体として元の意見書にあった差別的な効果はほとんど(「完全に」とは言いませんが)消えているのではないかと思います。

 この修正後のような意見書ならば、わざわざ市議会で議決をとって国や警察などに提出するなどということはなされなかったのではないでしょうか。この意見書を決議した者たちにとっておそらく重要だったのは、「外国人」をトラブルメーカー、善良な住民にとっての脅威として描き出すことであって、添削後のような意見書ではそうした趣旨にはそぐわないのでしょう。



4.「これは差別ではない」との言い訳

 もっとも、差別しようとする対象を指す言葉(「外国人」「クルド人」など)を直接には使わずに表現において差別を遂行するということも、その表現を受け取る者たちが共有する文脈によっては可能です。たとえば、いま問題にしている川口市議会の意見書も、「外国人」という語を使いこそすれ「クルド人」とは言ってないわけですけれど、クルド人住民を念頭において問題にしている文書であることは、文脈上あきらかです。

 読み手は、「住民票をもたない外国人の中には仮放免中の方も相当数いるものと推定され」うんぬんとか「一部の外国人は生活圏内である資材置場周辺や」といったくだりで、意見書がクルド人住民について述べているものだとわかるわけですが、それが「わかる」のは、なぜでしょうか。これまで産経新聞のような差別をあおることを商売にしているゴミ新聞のゴミ記者などがクルド人差別を扇動するゴミ記事を書きちらかしてきたからです。この意見書を読む者も、そうしたゴミがばらまいてきた差別的な言説によって形成された文脈を共有していれば、「外国人」の語がとくに「クルド人」を念頭において使われていることが了解できるわけです。

 これとおなじ理屈で、この意見書も、(上で私が添削し修正したように)「外国人」とは言わずに「住民」などの語を使えば、差別であることをまぬがれられるとは、かならずしもいえません。ある文書が差別的な効果をもつかどうかは、その表現がなされる文脈との関係できまるからです。

 また、差別は、「これは差別ではない」という言い訳・弁明をしながら遂行されることがしばしばあります。川口市議会の意見書が「一部の外国人」という言葉をもちいているのも、それです。「多くの外国人は善良に暮らしている」などと、わざわざ書いてもいます。外国人の全体を問題にしているのではない、だからわれわれのやっていることは差別ではない、と言いたいのでしょう。

 しかし、そうした言い訳・弁明をしようと、「住民」といえばすむことをわざわざ「外国人」の問題だとしている点で、意見書がその表現において差別を遂行していることは客観的にあきらかです。そのことをわかりやすく示すために、上のような添削をしてみたわけです。


5.「警察力の強化」のために差別を利用している

 ただし、この添削によって、わたしは「こう書けばよかったのに」という改善案・対案のようなものを示したかったわけではありません。添削といっても、ここでやっているのは、たんに「外国人」を「住民」という言葉に置きかえるという単純な操作にほとんどすぎないわけですが、こうした操作によって元の意見書のおかしさというのが、うかびあがってくるように思います。

 添削後の意見書は、ひどく間抜けな感じがします。警察官を増員しろとか、犯罪の取り締まりを強化しろとかを要求する内容ではあるものの、なぜそうしなければならないのかという必要性・切迫性があまり伝わってこないのです。

 警察権力をもっと強大にする必要があるという言説が説得力をもつのは、われわれの外部にわれわれをおびやかす深刻な脅威が存在していると信じられるときです。外からくる脅威からわれわれを守る警察権力を強化しなければならない、というわけです。こうした思考においては、警察権力がわれわれをおびやかすことはなく、もっぱらその力は外部からくる他者に対してのみもちいられるというフィクションが無邪気に信じられています。

 オリジナルの意見書では、「一部外国人の行為」によって「地域住民の生活は恐怖のレベルに達しており、警察力の強化は地域の治安維持のためにも緊急かつ必要不可欠」だという論理になっています。害をなす「一部外国人」と善良な「地域住民」が対照されて、前者が後者をおびやかすから「警察力の強化」が必要だというわけです。

 ところが、添削後のように「一部外国人」を「一部住民」に置きかえてしまうと、そうした対照・対立の図式がぼやけてしまいます。「住民」のあいだになにかトラブルが生じているというだけの話になり、なんで「警察力の強化」が必要なのか、よくわからなくなります。

 結果的に警察力でもって介入する必要がでてくることもあるかもしれないですが、いきなり一足飛びでそういう話になるのは論理の飛躍もいいとこでしょう。「住民」どうし話し合うことで解決することだってできるかもしれないし、警察力でなくても第三者が仲介してトラブルを解決するという可能性もあるかもしれない。

 こうみてくると、なぜ川口市議会の意見書をつくった人たちが、たんに「住民」のあいだで生じていると言うべき問題を、「外国人」のもたらしている問題であるとして描き出さなければならなかったのか、わかってきます。そうしないと、「警察力の強化」が必要であるという論理をみちびきだすことができないからです。

 今回の川口の意見書は、市の側から国や警察に対して、外国人に対する取り締まり強化と警察力の強化を要求するというものではありました。しかし、国というものは、「外国人」の存在を脅威であるとして描き出し、つまりマジョリティ住民の「外国人」住民に対する差別感情をあおることで、警察権力の強化やその行使を正当化するということをこれまでしてきたのだということを、見落とすわけにいきません*1。川口市議会の意見書は、国がこうしてしばしばおこなってきた、統治のために差別を扇動し、差別を利用するということを是としているという点で、けっして容認できるものではありません。



*1: 一例として、以下の記事で言及した、法務省入国管理局、東京入国管理局、東京都、警視庁の四者による「首都東京における不法滞在外国人対策の強化に関する共同宣言」(2003年10月)をあげておく。 



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2024年8月13日

【転載】福岡入管死亡事件 8/20裁判傍聴の呼びかけ(大阪地裁)


 2018年11月に福岡入管に収容されていた中国人男性が死亡した事件。その娘さんが国に賠償を求めた裁判が、重要な局面をむかえています。お父さんを亡くした原告、それから当時の福岡入管の職員(統括警備官)の証人尋問がおこなわれます。

 ということで、傍聴がよびかけられています。


【傍聴呼びかけのチラシ(クリックで拡大)】













 以下、画像(↑)の傍聴呼びかけのチラシより。


◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  


福岡入管死亡事件 証人尋問

8月20日(火)

11時~夕方

大阪地裁本館 202号法廷(→地図

大阪メトロ・京阪本線

淀屋橋駅/北浜駅 徒歩10分



訴え

 2018年10月中旬、ルー・ヨンダー、ルー・リーファ父娘は難民として保護を求め、中国から来日しました。ところが、福岡入管は父娘を収容して帰国するようせまりました。収容中にヨンダーさんの持病が悪化、娘のリーファさんはお父さんの治療を求めましたが、入管は適切な診療を受けさせずに放置。11月初旬、ヨンダーさんは死亡しました。

 2020年12月、娘のリーファさんは国に賠償を求め提訴。いま大阪地裁での裁判は大詰めをむかえ、原告のリーファさん、そして福岡入管職員の尋問が開かれます。



難民を追い返す入管行政

 日本は1981年から難民条約に加盟しており、難民を保護する義務があります。

 しかし、福岡入管は、ルーさん父娘に対して当初4日間にわたって申請用紙の交付を拒否して帰国をせまり、難民申請を妨害しました。

 ルーさんたちが粘り強く求めてようやく開始された難民手続きが、短期間かつ収容(監禁)下においておこなわれた点も問題です。リーファさんは難民申請から39日後に難民不認定の通知を受けています。通信の自由がいちじるしく制限された収容場で、しかもこんな短期間で、自分たちの難民性を立証する資料を収集するなど不可能に決まってます。ルーさんたちはUSBメモリで自分たちの難民性を主張する根拠となる多くのデータを持っていましたが、これも収容下のため印刷するなどして提出することができませんでした。

 不当な収容(監禁)によって難民申請者の立証作業を妨害し、保護を求めてやってきた難民を追い返そうとする。ルー・ヨンダーさんの死は、こうしたゆがんだ入管行政の結果でもあります。



《ご案内》

  • 202号法廷は、正面玄関入ったところの階段を上がってすぐです。エレベーターもあります。
  • 裁判所の建物に入る際には、手荷物検査があります。
  • 11時開始ですが、間に合わなくても傍聴できます。傍聴席では着席して傍聴します。
  • 傍聴席の出入りは自由です。


裁判終了後、裁判所敷地南側にて、担当の弁護士から、今日の解説があります(予定)。弁護士をはじめ、原告本人やこの事件にずっとたずさわってきた人たちも集まりますので、質問をしたり交流したりできます。




2024年8月8日

差別主義者の設定した論点であらそわなければならないという不条理


  外国人を生活保護の対象外とした東京高裁判決について。以下、SNSなどでほえてる右翼が言うような、とんでもない言いぐさですが、裁判官なんだそうだ。


 松井英隆裁判長は判決理由で「政治判断により、限られた財源の下で自国民を在留外国人より優先的に扱うことも許容される」と述べ、在留外国人を生活保護法の適用外とする最高裁判例を踏襲。「生活保護法が一定の範囲の外国人に適用される根拠はない」と指摘した。

 原告側は控訴審で「少なくとも住民票を有するなどの一定の外国人には保護を認めるべきだ」と主張したが、判決は「外国人を公的扶助の対象とするかは立法府の幅広い裁量に委ねられる」と退けた。

[生活保護、また認められず…重病のガーナ人男性落胆 東京高裁「限られた財源で自国民優先は許容される」:東京新聞 TOKYO Web](2024年8月6日 21時08分)


 外国籍の住民にも日本国民同様に納税の義務を課すくせに、「限られた財源」を理由に自国民優先を正当化するのなら、その政府は端的に言ってどろぼうである。どろぼうもそれをやるのが政府ならばお墨つきをあたえてくれるのが、この国の裁判所なのだということらしい。くさりきってますね。

 住民の生活保護申請に対し国籍を理由に却下した自治体(千葉市)の対応が差別であるのは、明白だ。本来ならば、そこに議論の余地などない。

 念のため言っておくと、そうした取り扱いを指示あるいは容認するような法令なり通達なりがあるならば、それらも差別と言うべきであって、そこにも本来ならば議論の余地はない。


◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


 議論すること自体が差別主義にもとづかなければ不可能であったり、議論の余地があるかのようにふるまうことそのものが差別の遂行にほかならなかったり、ということがある。

 たとえば、このブログでもまえに批判したが、国民民主党代表の玉木雄一郎が「まずは外国人の人権について憲法上どうするのか議論すべきで、そういう議論がなく拙速に外国人にさまざまな権利を認めるのは、極めて慎重であるべきだ」と発言したことがあった。

 ここで玉木が言っているのは、外国人の人権を認めるかどうかは自明ではなく、議論の余地があり、議論する必要があるのだということである。

 いやいや、そんなん、議論の余地ないでしょ。外国人に人権があるのは自明だし、自明でなければならない。そんなこと議論しないとわからないとか言う人がいたら、その人の考えがやばいです。

 玉木のような人は、「外国人には人権がある」という自明な、また自明でなければならない命題について、議論の余地があるかのようにほのめかし、これに留保をつけようとする。こうした行為自体が、差別の遂行と言うべきだし、聴衆にむけての差別の扇動でもある。


◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


 話をもどすと、生活保護をめぐる裁判の控訴審で敗訴した原告が、生存権を保障されるべき存在であること、また国籍を理由にそのことを否定するのは差別であるということは、自明だし、自明でなければならない。そこに議論の余地は本来あってはならない。原告ご本人と弁護団は、この裁判で大変な労力をかけて千葉市の処分が違法だということを裁判で立証してこられたのだと想像するけれども、そうした苦労を原告側が負わなければならないということも、とてつもなく不当なことではないだろうか。

 まあ、そんなことを言ってもしょうがないではないかと言われるかもしれないし、そう言われるとそうかもなとも思うのだけど。ただ、本来はとてもシンプルな話で、「千葉市は差別やめろ」のひと言ですむはずなのだ。その本当は簡単なはずの問題が、なぜか裁判でおびただしい量の書面が原告・被告双方からとびかう、ややこしい話になっているというところに、私たちは異常さをもっと感じ取らなければならないのではないか。差別主義者の設定したバカげた論点であらそわなければならないという不条理。


◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


 たとえば、つぎのような問題が「問題」として議論されるような世界があるとすれば、その世界は野蛮である。しかし、こうした問いが発せられるということそのものが野蛮であるということを、私たちは自明な常識として共有しているんだろうか。

「外国人の人権を認めるべきかどうか?」「女性の人権をどの範囲まで認めるべきか?」「障害者に人権はあるか?」「セクシュアルマイノリティの人権を認めてもよいか?」。

 これらの問いを議論の余地のある「問題」かのようにあつかうこと自体が恥ずべきことであるのと同じで、つぎのような問いを論じるにあたいするまともな「問題」とすることも恥ずべきことである。

「政治判断により、限られた財源の下で自国民を在留外国人より優先的に扱うことは許容されるか?」

 東京高裁の松井英隆裁判長は恥を知るべきであろう。

 なお、「限られた財源」をこうして口実にすることがゆるされるなら、国籍差別にとどまらず、あらゆる差別的なとりあつかいが許容されることになる。こんな屁理屈が通用してもよいとするなら、どんな差別であれ正当化できることになる。そんな屁理屈を判決文に書きこんでしまうような裁判官の存在が、日本という国の野蛮さをあらわしている。


2024年7月23日

【読書ノート】デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』


 2020年に日本語版が刊行されてから、読もうと思いつつその分量の分厚さにおじけづいて(本文と注で400ページぐらいある)手を出せずにいたのだが、近所の図書館で借りてきてようやく読みました。刺激的な論考でした。


『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』
著者:デヴィッド・グレーバー
訳者:酒井隆史, 芳賀達彦,森田和樹
2020年7月29日, 岩波書店 発行










 本書の執筆は、2013年にグレーバーがウェブ上に公開した「ブルシット・ジョブ現象について」という小論がきっかけとなっているとのこと。英語で書かれたこの小論が大きな反響を呼び、またたく間にさまざまな言語に翻訳された。グレーバーのもとには、たくさんの人から自分のやっている仕事もまさにブルシット・ジョブであるとの声が寄せられたそうだ。本書では、そうして集まったインフォーマントのブルシット・ジョブ体験を読めるのも興味深い。

 グレーバーの問題関心は、その「ブルシット・ジョブ現象について」(7ページほどの分量。本書の序章にも掲載されている。本書の出版元の岩波書店のサイトから「試し読み」で全文読めるようになっています)に凝縮されている。

 この小論は、ケインズの予測がなぜ実現されなかったのかという疑問から始められている。1930年にケインズは、20世紀末までに英米などでは、テクノロジーの進歩によって週15時間労働が達成されるだろうとの予測を書いている。テクノロジーの観点からすればあきらかに達成可能なこの予測が実現されていないのは、なぜなのか。

 「消費主義の大幅な増大」のせいではない。つまり、テクノロジーの飛躍的な進歩にもかかわらず、労働時間の大幅な短縮がなされなかったのは、私たちが「労働時間をもっと少なく」ということよりも「おもちゃと娯楽をもっと多く」という選択肢を選んだことの結果ではない。グレーバーは、前世紀を通じて、工業や農業部門で自動化が進み、そこで働く人が劇的に減少する一方、「専門職、管理職、事務職、販売営業職、サービス業」にたずさわる働き手の数と比率が飛躍的に増加していることを指摘している。


 しかし、労働時間が大幅に削減されることによって、世界中の人びとが、それぞれに抱く計画(プロジェクト)や楽しみ、あるいは展望や理想を自由に追求することが可能になることはなかった。それどころか、わたしたちが目の当たりにしてきたのは、「サービス」部門というよりは管理部門の膨張である。そのことは、金融サービスやテレマーケティング〔電話勧誘業、電話を使って顧客に直接販売する〕といったあたらしい産業まるごとの創出や、企業法務や学校管理・健康管理、人材管理、広報といった諸部門の前例なき拡張によって示されている。(中略)

 これらは、わたしが「ブルシット・ジョブ」と呼ぶことを提案する仕事である。

 まるで何者かが、わたしたちすべてを働かせつづけるためだけに、無意味な仕事を世の中にでっちあげているかのようなのだ。そして、謎(ミステリー)があるとしたらまさにここなのである。資本主義においては、こんなことは起きようがないと想定されているのだから。[4-5ページ]


 市場での競争のメカニズムにおいては淘汰されるはずの無意味で役に立たない仕事がますます増殖しているという事態は、たしかに謎である。グレーバーは、ブルシット・ジョブが増大しているのは、政府の官僚機構よりもむしろ民間の企業の管理部門においてであることも指摘している[215-8ページ]。

 いわば、市場メカニズムなるものは均等に働いているのではない。現に、それが働いているとはとうていいえない領域があるのだ。


 企業による容赦のない人員削減がすすめられるなかで、解雇と労働強化がふりかかってきたのは、きまって、実際にモノを製造し、運送し、修理し、保守している人びとからなる層(クラス)であった。けれども、だれもまったく説明できない不思議な錬金術によって、有給の書類屋(ペーパー・プッシャー)の数は、結局のところ増加しているようにみえる。そして、ますます多くの被雇用者、気がつけば、ケインズが予測したように週15時間を効率的に働くどころか――実際には、ソ連の労働者たちと大して変わらず――週に40時間、あまつさえ50時間も書類作成にいそしみ、そして残された時間を自己啓発セミナーの開催や出席、Facebook のプロフィール更新、TV番組のボックス・セットのダウンロードに費やしているのである。[5ページ]


 グレーバーは「実際にモノを製造し、運送し、修理し、保守」するような「実質のある仕事(リアル・ジョブ)」を、ブルシット・ジョブと対比させている。本書では、後者がこれに従事する人に与える精神的悪影響が当事者の証言をもとに分析される一方で、前者の仕事やそれに従事する人が低い評価しか与えられないのはどうしてなのかということが論じられている。この2つを連続した問題としてとらえ論じているところが、本書の刺激的なところだ。以下も、小論「ブルシット・ジョブ現象について」の一節。長くなるが引用する。


 ここには深遠なる精神的暴力がひそんでいる。自分の仕事が存在しないほうがましだとひそかに感じているようなとき、かりそめにも労働の尊厳について語ることなど、どうしてできようか。深い怒りと反感の感覚を生み出さずに、どうしていられようか。とはいえ、その支配者たちが、人びとの怒りの矛先をまさしく意味のある仕事をする人たちへと仕向けることでうやむやにしてきた(中略)というのは、わたしたちの社会の奇妙な風潮である。たとえば、わたしたちの社会では、はっきりと他者に寄与する仕事であればあるほど、対価はより少なくなるという原則が存在するようである。くり返せば、[他者に寄与する仕事であるかどうかを評価するための]客観的な尺度をみつけることは困難である。しかし、なんとなく感じとるための簡単な方法はある。ある職種(クラス)の人間すべてがすっかり消えてしまったらいったいどうなるだろうか、と、問うてみることである。かりに看護師やゴミ収集人、あるいは整備工であれば、もしも、かれらが煙のごとく消えてしまったなら、だれがなんといおうが、その結果はただちに壊滅的なものとしてあらわれるであろう。教師や港湾労働者のいない世の中はトラブルだらけになるだろうし、SF作家やスカ・ミュージシャンのいない世界がつまらないものになるのはあきらかだ。ただ、プライベート・エクイティ〔特定の企業の株を取得し、その企業の経営に深く関与して、人員削減などによって企業価値を高めた後、売却することで利益を得る〕CEOやロビイスト、広報調査員、保険数理士、テレマーケター、裁判所の廷吏、リーガル・コンサルタントが同じように消え去ったとして、わたしたちの人間性がどのような影響をこうむるのかは、わたしにはあまりはっきりしない(いちじるしく改善するのではないかと疑っている人間は数多い)。にもかかわらず、もてはやされる一握りの例外(医師)を除いて、この原則はおどろくほど当てはまっている。

 さらにいっそう倒錯したことに、これが物事のあるべき姿だという感覚が広範に浸透しているようにみえる。これが右翼ポピュリズムの力強さのひとつの秘密だ。こうした感覚を、労働争議のさいにロンドンを麻痺させたとして、地下鉄労働者への怒りを複数のタブロイド紙が煽り立てた事例にみることができる。すなわち、地下鉄労働者がロンドンを麻痺させることができるというまさにその事実こそ、まさしく人びとを苛立たせた一因であるようなのだ。共和党議員が学校教員と自動車工に対する反感を動員することに反感を動員することにいちるしい成功をおさめてきたアメリカでは、それはいっそうはっきりしている(そして意味深なことに、この反感が、実際に問題を生じさせている学校管理者(スクール・アドミニストレータ―)や自動車産業の経営陣(エグゼクティヴ)に向けられることはなかった)。「だって、きみたちは子どもたちに勉強を教えることができるじゃないか! 車の製造ができるじゃないか! このうえ、あつかましくも中産階級なみの年金や医療まで期待するというのか?」と、いわんばかりに。[7-9ページ]


 ここであげられているような「実質のある仕事」に対する怒りや反感は、日本でもなじみのあるものだし、そうした怒りや反感を右派ポピュリストが扇動する光景も、たとえば大阪市長だった橋下徹の市バス運転手への攻撃(ググってみたら2012年のことだって。そんなに前の話だったか。運転手をその年収が高すぎると言って攻撃し、市バスの民営化を主張した)などが思い当たる。最近では、東京で若年女性を支援する活動をおこなっている団体Colaboに対する攻撃などが、同様の怒りと反感によって駆動されている事例としてあげられると思う。あきらかに有意義な仕事をしている人たちに対するこうした怒りや反感をいだく者たちは、その人たちが「分不相応に報酬なり利益なりを受け取っている」というフィクションに憎しみをつのらせている。「運転手のくせに」「慈善事業をやってるくせに」利益を受け取っている(ようにみえる)のはケシカラン、というわけだ。

 グレーバーは、「これらの影響[ブルシット・ジョブの普及の精神的・社会的・政治的影響]は、性質(たち)の悪い深刻なものだと、わたしは確信している。無益な雇用の罠にはめられたおかげで、社会で最も有益なことをおこなっている人びとや見返りを求めない仕事に就く人びとに対して、人口の大半が反感を抱いたり軽蔑してしまう社会を、わたしたちはつくりあげてしまった」とも書いている[23-4ページ]。

 このようにブルシット・ジョブの増殖と、「ブルシット」ではない仕事が低く評価され、それどころかそれに従事する人びとに反感・嫉妬がむけられるという事態を、連続した問題としてとらえた議論が展開されているところが、わたしには興味深かった。

 われわれは、わたしたちが想定しているほど利己的ではない。というか、他者にかかわってよき(と自分が考える)影響をあたえたいとか、自分だけでなくわたしたちにとって生きやすいように社会がかわっていくように働きかけたいとか、そうした欲求がわれわれにとってわりと本質的なのではないか、ということ。だから、ブルシット・ジョブに自分の人生の時間を浪費せざるをえない経験は、高い報酬をもらっていてもたえがたい苦痛をもたらしうる。

 ちなみに、本書では第1章をつうじて、「ブルシット・ジョブ」の定義をねりあげていく作業がなされているのだが、それは最終的にはつぎのように定義される。


最終的な実用的定義=ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。[27-8ページ]


 われわれにとって、自分のなしていることが「完璧に無意味で、不必要で、有害でもある」と考えざるをえないのはたえがたいことであって、だからこそブルシット・ジョブは「そうではないと取り繕わなければならないように感じ」られるものなのだろう。だからこそ、ブルシット・ジョブがブルシット・ジョブとして語られることは、グレーバーによって「ブルシット・ジョブ現象について」が書かれるまでは稀(まれ)だったのだろうし、それについて直接に語ることが抑圧されるからこそ、そのたえがたさは、「実質のある仕事(リアル・ジョブ)」に従事する者への怒りや反感としてあらわれるのではないか。そういった怒りや反感をむけられる側からすればたまったものではないが。

 もっとも、橋下の市バス運転手への攻撃に喝采を送ったり、ツイッターにかじりついてColabo攻撃にいそしんだりしている人たちというのは、ブルシット・ジョブに従事している人ばかりではない、というのもおそらく事実である。だから、問題なのは、実際にブルシット・ジョブに従事している、あるいは従事したことのある人だけではなく、もっと広く社会的に共有されてしまっているものの見方(「イデオロギー」と呼んでもよいだろう)なのだ。さらにいえば、重要なのは、そのものの見方を人びとが受け入れるのはなぜなのか、という問題である。

 さて、本書は、終わりの第6~7章でケア労働、そしてベーシックインカムをめぐる議論へと収束していく。これはとても示唆的だと思った。そうだよねー、やっぱそこを論じないとだよねー、という納得感があった、というか。

 ベーシックインカムについてはここでは立ち入らないが、ケア労働についてちょっとだけ触れておきたい。

 グレーバーは、第6章で「仕事それ自体に関する観念の変遷史を考察」しながら(考察されるのは西欧や北米の歴史なのだが、そこでの議論は日本における「仕事」観にも共通している部分がかなり大きいと感じられた)、われわれの仕事に関する観念にはケアリングの要素が欠落しているということを見いだしていく。

 さきのロンドンの地下鉄労働者の争議をめぐり、「公共交通機関の労働者たちが実際にはなにをやっているのか」[306ページ]にグレーバーは目を向けている。電車の遅延や事故、事件があったときの乗客への対応は、自動化・機械化するのが難しい仕事であろうが、これらをになっているのは労働者である。また、ロンドン地下鉄の労働者が削減された場合に大きな影響を受けるのは、障害をかかえていたり、ロンドンにうとかったり、小さな子どもや高齢であったりする乗客なのだ。


 このようにみるならば、地下鉄労働者が実際におこなっていることは、フェミニストが「ケアリング労働」と呼ぶものにかなり近いものである。それはレンガ職人よりも看護師の仕事のほうに共通点を多くもっているのだ。女性の不払いケアリング労働が「経済」についての説明から抜け落ちているのと同じように、労働者階級の仕事におけるケアリングの側面はみえなくなっている。ケアリング労働にかんするイギリス労働者階級の伝統は、労働者階級の生み出した大衆文化に表現されているといえるかもしれない。たとえば、労働者階級の人びとがたがいに励まし合う独特の身ぶりや様式、調子は、イギリスの音楽、コメディ、児童文学のうちにすべて反映されている。しかし、それ自体は価値創造的な労働として認識されていないのである。[307ページ]


 このように仕事におけるケアリングの側面が認識から抜け落ちることと、「実質のある仕事(リアル・ジョブ)」が低くしか評価されないという事態はつながっている。

 さらに、それはたんに認識の問題ではない。ケアリングという観点に着目することで、「実質のある仕事(リアル・ジョブ)」が低く評価され、軽蔑さえされるという現象がどのような社会的な関係性のもとで生じているのかという問題にも接近することができる。またまた長くなってしまうが引用する。

 「ケアリング労働」は、一般的に他者にむけられた労働とみなされており、そこにはつねにある種の解釈労働や共感、理解がふくまれている。それは仕事などではなく、たんなる生活、まっとうな生活にすぎないということも、ある程度は可能である。人間は元来、共感する存在であり他者とコミュニケーションし合うものであるがゆえに、わたしたちは、たえずたがいの立場を想像してそこに身を置き、他者がなにを考え、なにを感じているか、理解しようと努めなければならない。たいてい、こうしたことは、少なくともいくぶんかは他者に対するケアをふくんでいる――ところが、共感や想像的同一化が総じて一方の側に偏しているようなとき、それは多分に仕事(ワーク)となる。商品としてのケアリング労働(レイバー)の核心は、一方だけがケアをして、一方はしないという点にあるのだ。「サービス」(古い封建制に由来するこの語がいまも残存していることに注意せよ)に対価を払う人びとは、みずからは解釈労働に従事する必要がないと感じている。このことは、だれか別の人間のために働いているようなときは、レンガ職人にすらあてはまる。部下はたえず上司の考えていることを把握しなければならないが、上司は部下たちが考えていることを気にかける必要はない。心理学の研究においてしばしば示されるように、労働者階級出身の人びとが、富裕層出身はもとより中産階級出身の人びとよりも、他者の感情の理解や共感や配慮(ケア)に長じているのは、このためである。他者の感情を読むスキルは、いくぶんかは労働者階級の仕事の内容がもたらしたものである。要するに、富裕な人びとは解釈労働の方法を学ぶ必要がない。というのも、他人を雇い入れて解釈労働をやらせればよいからである。他者の考えを理解する習慣を深めなければならない雇われ人は、同時にその他者を気遣う(ケア)傾向にあるのである。[307-8ページ]


 社会が水平的でなく階級的に編成されているならば、ケアをたくさんしなければならない人間がいるいっぽうで、他人からたくさんケアを受けるが自分は他人をあまりケアする必要のない人間がでてくる。後者の人間は、他人をケアしないばかりではなく、自分自身のケアすら(他人にたくさんやらせるのだから)自分ではあまりやらないということになるだろう。

 こうして社会が平等でない、ということによって、人間のやっている仕事のケアリングの側面はますます見落とされ、「実質のある仕事(リアル・ジョブ)」はますます低くしか評価されない、という状況が強化されているのではないだろうか。

 引用ばかりしてますが、この読書ノートの最後も引用でしめます。


 ところがふつう、「生産的」であるということは、自動車やティーバッグ、医薬品などが、女性が赤ん坊を生産するのと同様の痛みに満ちた、どこかミステリアスである「労働」を介して工場から「生産される」という、魔術的変容のことを意味している。そして、労働の価値をそれが「生産的」であるかどうかで考えること、生産的労働の典型を工場労働として考えることは、こうした〔ケアにかかわる〕すべてを抹消してすませてしまうことである。さらにいえば、こういう発想があるから、工場所有者はいともたやすく、労働者は実際にはかれらの操作する機械となんら変わるところがないと考えることができるのである。これはあきらかに、「科学的管理法」と呼びならわされるようになったものが発展するにつれ、いっそう容易になった。だが、人びとが「労働者」と聞いて、料理人や庭師や女性マッサージ師を思い浮かべるようであれば、そのようなことは起こりえなかっただろう。[308ページ]


2024年6月8日

6/10の改悪入管法施行にむけて 反対運動の私的記録


 6月10日に昨年可決成立した改悪入管法が全面施行されます。

 難民申請中は強制送還が停止されるという規定に例外がもうけられる、また監理措置制度の創設など、非常に問題ぶくみの法改悪です。

 昨年の6月9日にこの改悪法が強行採決によって可決されるまで、反対運動の大きな盛り上がりがありました。改悪法の可決はゆるしたものの、国会やマスメディアもまきこんで、強力な反対運動が展開されたことは、多様な視点から記録されることが重要なのではないか。そうした記録が、改悪法施行後に強まることが危惧される人権侵害に今後対抗していくうえで、参照される価値がでてくるのではないだろうか。

 そんなことを思い、1年ほどまえに、私なりに入管法改悪反対運動をふりかえって書いた文章をこのブログに再録することにしました。

 昨今では、SNSに社会運動の膨大な量の記録がなされているでしょうが、それらはあとから参照されるのに不向きだと思われるし、おそらくそう長くない期間で消えてしまうのではないでしょうか。

 以下は、『人民新聞』(2023年7月5日号)に掲載した文章の元原稿です。掲載されたものは、校閲等をへて元原稿と少し変わっているところがあるかもしれないし、編集部がつけた写真や見出し等もあるのですが、ここにはオリジナルの原稿のままのせます。



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  6月9日、参議院本会議で入管法改悪案が可決・成立した。議席数で圧倒的にまさる与党(自公)および一部野党(維国)が賛成しての可決であった。

 しかし、街頭など国会外での反対運動は入管問題では近年例がないほどの盛り上がりをみせた。また、これに呼応するように国会審議でも、特に参院へ法案が送られて以降、野党の法務委員(立民・共産・社民)が奮闘し、議論の内容では政府側を圧倒していた。

 この間の国会審議、メディア報道、弁護士や支援者の活動、SNSや街頭等での議論を通じて、今回の法案の問題点はもとより、ウソと隠蔽とゼノフォビアにまみれた入管の組織体質、でたらめな難民審査のありようなどが次々と暴露され、多くの人の知るところとなった。難民申請者や非正規滞在の外国人の人権状況をますます悪化させる改悪法案は通してしまったが、今後の闘いにいきる糧を多く得られたのも事実である。本稿では、今回の入管法改悪反対の運動を振り返るととともに、今後の闘いへの展望を私なりに述べたい。

 もっとも、私が観測できたのは大きく広がった運動のごく一部にすぎない。私自身は「入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合」(以下「市民連合」)の事務局に属する位置から、この改悪阻止の運動にコミットした。組織に属して動いてきた身からすると、今回の入管法改悪反対の運動は、予測・観測しうる範囲を大きく超えて拡大していた。SNS等をつうじたスタンディング・アクションなどの全国各所へ瞬く間に広がっていくさまは、(組織化されていないという意味で)自然発生的なもののようにもみえた。


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 さて、今回の入管法改悪の問題点は様々にあるが、ここでは最大の問題として危惧されている一点だけ述べる。入管法では、難民条約で規定されたノン・ルフールマン原則(迫害の危険のある国への送還を禁止する原則)にもとづき、難民申請者の送還は停止されることになっている。今回の改悪はこの送還停止効に例外をもうけ、3回目以降の難民申請者などを送還可能にするものである。

 この点をはじめ、今回の改悪は入管が送還をより強力に進めるための内容がいくつも含まれている。そして、この改悪法案は、2年前の2021年の5月に反対運動の盛り上がりに直面して廃案となった法案とほぼ同内容のものであった。

 しかし、私たちはこの改悪法案がいずれ再提出されてくるだろうことは、21年にそれがいったん廃案となった時点で予期していた。そして21年3月6日に名古屋入管に収容されていたウィシュマ・サンダマリさんが医療放置により見殺しにされた事件が、日本社会から忘れ去られ風化してはならない。そこで、入管問題等に取り組む団体や個人が集い「ウィシュマさん死亡事件の真相究明を求める学生・市民の会」を結成。同年7月から、ウィシュマさんが亡くなるまでの状況を記録した監視カメラ映像の開示や事件の再発防止を求める署名運動を開始し、同趣旨での集会や全国一斉での街頭行動などにも取り組んだ。

 同年12月には、この「学生・市民の会」を前身に、全国の団体・個人に呼びかけて前述の市民連合を結成した。市民連合は、ウィシュマさん事件の真相究明に引き続き取り組むと同時に、きたるべき入管法改悪案の阻止も運動の大きな柱とした。全国的な街頭行動の呼びかけや主催、ハッシュタグデモなどSNSの活用、オンラインも含めた集会・学習会の開催、入管問題を解説したパンフレットの作成・配布、署名運動等に取り組んできた。

 結果的には、2022年の通常国会と臨時国会とにおいて、政府の改悪法案提出は2度にわたり見送られることになった。とりわけ重要だったのは、「ウィシュマさん事件真相解明のための9・4全国アクション」である。全国10か所で各地の団体がデモやスタンディング等を主催し、総計500名が参加し、同時にツイッターでのハッシュタグデモも行なった。直後の9月7日、マスコミ各社は政府が法案再提出を見送ったと一斉に報じた。

 このように21年5月の廃案後も、市民連合は同様の法案の再提出を警戒して運動の継続・持続を図ってきた。それは2度にわたり国会での法案提出が阻止されたこと、またウィシュマさん事件への市民の関心が風化せず持続したことに、少なからず寄与したのではないか。また今年に入っての法案再提出後の、自然発生的にもみえた反対運動の盛り上がりも、この間の各所での地道で持続的な取り組みを養分として成長したということも、いくぶんかは言えよう。


◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  


 今年に入ると、政府の改悪法案提出の動きが顕在化し、これに反対する運動も本格化した。いまだ法案が提出されてない2月中旬から東京と大阪で毎週定例の街頭行動が開始し、3月7日の法案提出、4月13日の衆院での審議入りをへて、これらの行動の参加人数は増していき、大都市以外でも各所にスタンディング等の行動を始める人たちが現れた。

 それらの担い手も多様化し、難民等の支援者・支援団体のみならず、弁護士の有志たち、ふだんは労働運動など他分野に取り組んでいる個人や団体、さらにSNSや報道を通して関心をもった市民などが次々と街頭での行動を始めた。児玉晃一弁護士がツイッター等での予告・報告を集計したところによると、勇気を出して一人で地元の街頭に立ったというものも含め、全国147か所で改悪反対のスタンディングが行われた(6月22日時点)。

 国会で改悪法案は可決成立したわけだが、その結果だけではなく、こうした運動の盛り上がりが国会審議にどう影響したのかをみることが、今後の闘いの展望を描く上で大切だ。

 2点指摘したい。1つは、議会の外での市民の闘いが、密室での談合で政府側に妥協しようとした一部野党議員をけん制し、野党を市民との共闘に引き戻したことである。

 衆議院では、自公維国のみならず立憲までもが加わって法案の修正協議がもたれた。与党の提示した「修正」案とは、3回目以降の難民申請者の送還を可能にする等の条項はそのままで、難民審査を行う第三者機関の設置を「検討する」との「付則」を加えるといったものだった。難民を死地に追い返す規定は残したまま。第三者機関についても期限を切って設置を義務づけるものではない。「検討する」との空文句が、本文でなく「付則」に書かれるにすぎない。

 このため市民や弁護士・支援団体から大きな批判や憂慮の声があがり、立憲は修正協議を離脱し、法案の廃案を目指す市民との共闘にかろうじて踏みとどまった。

 第2に、こうして街頭やSNS等にあらわれた改悪法案への怒りの声を行動に背中をおされるかたちで、法案の衆院通過後は、参院の立憲・共産・社民の法務委員たちが、政府案に対する徹底的な追及に奮闘したことである。

 その過程で、難民認定の二次審査をになう難民審査参与員の制度が完全に形骸化している実態が明らかになってきた。日本の難民認定率が低いのは「分母である申請者の中に難民がほとんどいない」からだと公言する参与員柳瀬房子氏が年間数千件をこえる案件を担当する一方、難民として認定すべきとの意見を積極的に述べた参与員には翌年から担当する案件が減らされる。つまり、入管による一次審査の不認定処分を追認する傾向の高い参与員に大量の案件がまわされ、しかも1件あたりの処理時間が10分にも満たないという杜撰な審査の実態が明らかになったのだ。

 くり返しの難民申請者は送還してもよいのだと法律を変えるなら、難民として保護すべき人を確実に保護できていることが大前提になるはずだ。ところが、この大前提が崩壊したのである。

 同様に、ウィシュマさん事件の再発を防止すべく常勤医確保など医療体制の強化を実現したということも、今回の法改定の前提として法務大臣答弁において確認されてきたことである。しかし、大阪入管で常勤医師が酒に酔って診療をおこなって診療室勤務から外されていたこと、また法務大臣が2月にはその報告を受けていたにもかかわらず、これを隠蔽して国会審議にのぞんでいたことが明らかになった。この点でも法改定の前提は崩れた。

 こうして法律の前提が崩れ去ったなかで強行採決により成立したのが、今回の改悪入管法である。その過程で、難民認定手続きのイカサマぶり、収容や送還における入管の無法者ぶり、入管組織のウソと隠蔽にまみれた体質があらわになった。今後とも国会などで継続して追及しなければならない課題が山積みになったのだ。

 そして、入管法改悪反対の運動を通して、入管の人権侵害に怒り、さらにそれを行動に移す市民のすそ野は格段に広がった。そうした広範な市民、難民等の支援者、様々な分野の専門家、弁護士、さらには議員の間での協働・連帯の関係性も飛躍的に深まった。

 改悪された入管法の施行まで1年。これを施行させずに廃止に追い込むこと。また、帰国できない事情をかかえる人びとを送還から守ること。そのために有効なのは、在留特別許可や難民認定によって一人でも多く私たちの隣人が在留資格を獲得できるよう、ともに手を取り合い連携して闘うことである。そのための可能性と力を私たちは今回の苦い敗北を通して得たのではないか。落胆している暇はない。

2024年5月18日

入管収容死 「医療体制」の問題にすり替えるな

 


入管施設収容 カメルーン人男性死亡 2審も賠償命じる 東京高裁 | NHK | 茨城県(2024年5月16日 18時46分)


 入管職員が注意義務をおこたったとして国の責任を認めた一審判決(ただし死亡との因果関係は認めず)が、維持されたそうです。

 ところで、入管施設での死亡事件がくり返されていることについて、しばしば施設の「医療体制」の問題として語られます。このNHKの報道も一見したところ、そうみえなくもない。


入管施設の医療をめぐっては3年前、スリランカ人のウィシュマ・サンダマリさんが名古屋市にある入管施設で体調不良を訴えて死亡した問題でも体制面などの課題が明らかになりました。

(中略)

出入国在留管理庁によりますと、ウィシュマさんの問題で課題として指摘された常勤の医師については、診療室がある収容施設6か所のうち、4か所に配置できているということです。

先月には定員も2人に増やしましたが、医師の確保が難しいことから来月からは別の医療機関との兼業も可能にするとしています。

また、施設内で対応できないケースに備えて外部病院との連携も進めているということです。

職員の意識改革をはかる研修や、救急対応が必要になった場合のマニュアル整備なども行っているということで、出入国在留管理庁は、「改善できる点は継続していきたい」としています。


 しかし、入管施設でのあいつぐ死亡事件を「医療体制」の問題として語るのは、かなりズレています(ただし、このNHK記事は、カメルーン人男性の亡くなった経緯をくわしく追うことで、またあとでみるように指宿弁護士のコメントを紹介することで、「医療体制」が問題の本質ではないことを示す構成にじつはなっています)。

 2014年の牛久入管でのカメルーン人にしても、2021年の名古屋入管でのウィシュマさんにしても、入管職員の医療ネグレクトによって亡くなっています。あきらかに深刻な病変がみられたあとも救急搬送しなかったすえに亡くなっているという点で、2つの事件は共通しています。

 入管施設の医療体制に不備があるのはそのとおりでしょうが、電話があるんだから救急車ぐらい呼べるでしょう。また、呼べば救急車は来るでしょう。牛久入管も名古屋入管も、孤島や車の通れないところにあるわけじゃないのだから。

 「医療体制の不備」によって亡くなったということであるなら、それは「(救おうとしたが)救えなかった」という問題ですが、この2つの死亡事件はあきらかにそうではない。「救えたはずの命を救おうとせず救わなかった」結果として2人を死に追いやったのであって、問題は入管という組織をつらぬく外国人に対する人命軽視です。

 さきのNHKの記事は、入管の言うような「医療体制の強化」が問題の本質ではないことを指摘した指宿弁護士のコメントで結ばれています。


一方、ウィシュマさんの遺族の代理人をつとめる指宿昭一弁護士は、「入管はウィシュマさんの死の責任を認めておらず、根本的な反省はしていないと思う。外国人の命や健康を守る意志を誰も持っておらず、組織としての明確な方針が無かったから亡くなったのであり、組織として反省しないことには、医療体制の強化と言っても実効性はない」と指摘しています。


 ウィシュマさん死亡事件のあと、入管庁は、死因は明らかにならなかったと言って名古屋入管の責任を否定したうえで、ただし改善すべき問題点として「医療体制の不備」があったとしました(2021年8月10日「名古屋出入国在留管理局被収容者死亡事案に関する調査報告書」)。さらに、入管庁はこの「調査報告書」にもとづき、有識者会議に「入管施設における医療体制の強化に関する提言」(2022年2月28日)をまとめさせました。

 この一連の過程は、入管の医療ネグレクトによるウィシュマさんの死を「医療体制の不備」の問題へと矮小化し、あるいはすり替え、入管の責任を否定するという、まさに詐術と言うべきものでした。

 だまされてはいけません。入管施設での死亡事件をくり返さないために必要なのは、「医療体制の強化」ではありません。必要なのは、入管の犯罪を問い、その責任を追及することです。その意味で、国の責任を認める一審判決が東京高裁で維持されたことは、前進と思います。



2024年4月27日

入管法施行反対 4.28全国行動 サ条約発効の日に

 

 前回記事の最後でふれましたが、4月28日(日)に入管問題について以下3つのテーマで全国一斉行動がおこなわれます。

(1)改悪入管法施行反対
(2)監理措置制度反対
(3)ウィシュマさん死亡事件の責任追及

 この日の行動の呼びかけは「入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合」によるもので、開催の趣旨等は、以下のリンク先で読めます。


【4.28全国一斉行動の呼びかけ】 #入管法改悪反対


 各地での開催予定については、(見落としなどあるかもしれませんが、私がみつけられたものを)リストアップしておきます。こういうとき、北から南の順番で並べることが多いと思うので、今回は南から順番にしてみます。


福岡

改悪入管法施行に抗議する連続アクション第2弾
(外国人差別に抗するお茶アクション)
【日時】4月28日(日)14:00~16:00
【場所】浜の町公園(福岡市中央区舞鶴3丁目4)
詳細(ツイッター)


高知

場所 こうちオーテピア西側
時間 11-12時
飛び入り参加可能
詳細(ツイッター)


広島

スタンディングアクション
13時~14時 
八丁堀福屋前
※チラシを配りながら市民の方に呼びかけます
※手ぶら/途中/初めて の参加歓迎!
詳細(ツイッター)


倉敷

日時:4月28日(日) 11時~12時
場所:倉敷駅前南デッキ(雨天の場合北デッキ)
形態:スタンディングアクション+デモ
主催:入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合
共催:憲法を守る倉敷市民の会、アムネスティ・インターナショナル日本 倉敷グループ


大阪

4/28(日)
13:00扇町公園集合・集会 
14:00デモ出発
詳細(ツイッター)


名古屋

日時 2024/4/28 13:30~14:30
場所 名古屋駅 桜通口交番前
携帯 スタンディングアクション
詳細(ツイッター)


川崎

2024年4月28日(日)14:00~15:00
JR川崎駅東口周辺にて
多文化共生推進の川崎市。#永住許可の取消しに反対します も訴えます。
主催団体なく、個人で集まりますので
賛同くださる方どなたでも飛び入り参加OKです。
詳細(ツイッター)


東京

4.28全国一斉アクション
改悪入管法施行反対デモ
in東京・上野
日時:2024年4月28日(日)13時半集合 14時デモ隊出発
場所:上野恩賜公園 湯島口(池之端一丁目交差点近く)
詳細(ツイッター)


仙台

2024.4.28(Sun. )
11:00~12:00
場所:「リッチモンドホテルプレミア仙台駅前」前
形態:スタンディングアクション
詳細(ツイッター)




 さて、今回の改悪入管法の施行とは、あんまり関係なさそうで、でもぜんぜん関係ないわけでもない話をちょっと。

 この全国一斉行動のおこなわれる日は4月28日ですが、奇(く)しくも1952年のこの日はサンフランシスコ講和条約が発効された日です。

 同条約発効にともない、日本政府は朝鮮人・台湾人の日本国籍を一方的に剥奪しました。そこにいたる経緯は、現在にも引きつがれている日本の入管政策・外国人政策のゆがみを考えるうえで重要なのではないかと思います。

 さかのぼること5年、1947年5月2日、日本国憲法施行の前日、天皇裕仁による最後の勅令「外国人登録令」が公布され、同時に施行されました。日本は台湾および朝鮮を侵略して植民地化したので、台湾人・朝鮮人は日本国籍を持つ日本国民にされていたわけです。ところが、「外国人登録令」は、「台湾人のうち内務大臣の定めるもの及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす。」(第11条)として、日本国民であるはずの旧植民地出身者に外国人登録を強制しました。

 こうして、日本にいる朝鮮人と台湾人は日本国民でありながら、みなし外国人として登録を強制され、日本国憲法の規定する権利主体としての「国民」の外に置かれ、差別的な管理・統制の対象にされました。

 そして、1952年4月28日、日本政府はその国籍を、当事者の意思確認をすることもいっさいなく、一方的に剥奪したのです。植民地化によって付与を強制した日本国籍を、こんどは強制的に剥奪したということです。

 日本の入管政策、もっと広くいえば外国人政策がこのようにして始まったということ、そしてその歴史への反省・総括を欠いているということは、くりかえし思い返し、問題にしなければならないと思っています。

 日本の敗戦をへて朝鮮人や台湾人が日本で暮らしてきたのは、いうまでもなく日本による侵略・植民地支配に起因することです。したがって本来であれば、その旧植民地出身者とその子孫について日本国家が在留管理の対象にする、つまり「日本にいてもよい/よくない」を日本の国家がきめてよいということにしている現行の制度自体が、おかしいのです。日本国家にそんな資格はない。

 ところが、おおざっぱながら上にみてきたように、まったく道理を欠いたかたちで、管理すべき対象としての「外国人」というカテゴリーを創出し、そこに朝鮮人や台湾人を置いた、というところに日本の入管政策は始まっているわけです。

 1990年の入管法等の法改定をへて、入管は、いわゆるニューカマーの外国人労働者を主たる管理対象とする組織へと変化してきたといえるでしょう。しかし、そうした変化はあっても、入管政策がその始まりにおいてかかえこんだゆがみは、正されることなく現在にもそのままひきつがれている。そう考えるほかない事実が、こんにちの入管をみていてもさまざまに見つかるのですけれど、その話はこんどまた書きたいと思います。

 わたくしは、28日は大阪の集会・デモに参加します。




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2024年4月16日

「痛みで沈静化させる必要があった」 入管、また犯罪を自白

  東日本入管センター職員による被収容者への集団暴行事件。暴行を受けたクルド人のデニズさんが国に賠償を求めた裁判の控訴審で、国に22万円の賠償を命じた一審判決を支持する判決が出たとのことです。


入管職員の暴行「合理的に必要な限度を超えた」と東京高裁 クルド人男性に国が22万円支払う一審判決を支持:東京新聞 TOKYO Web(2024年4月11日 19時23分)


 上記リンク先の東京新聞の報道によると、この控訴審で国側がとんでもない主張をしているようです。


 判決によると、デニズさんは2019年1月18日夜、居室内で睡眠薬の提供を拒否され、大声を出すなどして抗議。処遇室への移動を命じられ抵抗したため、複数の警備官が体を押さえつけた。警備官がデニズさんの顎の下の「痛点」を20秒以上強く押したり、後ろ手に手錠をかけた腕を持ち上げたりした行為を違法と認定した。

 控訴審で国は「痛みで沈静化させる必要があった」などと主張。弁護側は「もともと暴れておらず制圧の必要がなかった」とし、高裁はいずれも認めなかった。デニズさんの代理人の大橋毅弁護士は「デニズさんと相談して上告するかどうか検討する」と語った。


 国側が公然と「痛みで沈静化させる必要があった」と主張しているのは、おどろくべきことです。

 そもそも「痛みで沈静化させる」っていったい何なんですか。ぜんぜん意味がわかりません。「沈静化」とは、「落ち着かせる」ということでしょうか。デニズさんが興奮して落ち着かない状態にあったのだとして、「痛み」を与えたら興奮がおさまって落ち着く、などということがありますか??? ふつうは「沈静化」どころか、いっそう興奮するのではないですか。

 ところが、「痛みで沈静化させる必要があった」などというアホな書面を書いた国側の代理人の訟務検事ども、それからそんな書面を書かせた入管の役人どもは、そうではないようです。この人たちは、他者から痛いめにあわされたら、落ち着くんですって!

 私はこいつら一人ずつぶんなぐってやりたいですね。それで「痛い」「やめろ」「なにをするんだ」とか怒ってきたら、「落ち着けよ。おまえら痛みで沈静化するんだろ? ほら沈静化させてやるよ」と言ってもう一発ずつなぐりとばしてやりたい。

 もし「痛みで沈静化させ」たように暴力をふるった者の目に見えるなどということがあるとすれば、それはその暴力を受けた相手がはげしい痛みや恐怖のために、抗議や抵抗する意思をうしなったか、あるいはその意思を表現しなく(できなく)なったからです。このように、暴力をふるうことで痛みや恐怖を与え、その相手の意思や行動を変えようとする行為を、ふつう「拷問」といいます。

 つまり、「痛みで沈静化させる必要があった」ということを国側が法廷で主張したということは、デニズさんに対して「必要があったので拷問しました」と自白したことになります。ところが、判決は入管職員の違法行為を認定したものの、国に支払いを命じた賠償金は22万円!

 賠償金の額がどのように計算されて決まるのか知りませんが、公務員による「拷問」が賠償金たったの22万円ってどういうことなのでしょうか。下手人(=入管)が「あれは拷問でした」と自白しているのに?

 日本国憲法第36条には「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁じる」と書かれています。自民党は、この条文の「絶対に」を削除して、「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、これを禁止する」とする「憲法改正草案」を発表しています。つまり、公務員は必要とあれば拷問してもよい、というふうに、自民党は憲法を変えようとしているわけです。

 でも、わざわざ憲法を変えるまでもありませんね。公務員が暴行をはたらいて被害者から訴えられた裁判で、国側が事実上「あれは拷問だった」と悪びれもせずに認めている。しかも、それでも裁判官は入管職員の行為が憲法の禁じる「公務員による拷問」であると認定しない。賠償金もたったの22万円。改憲を待つまでもなく第36条はもはや死文化しているのではないでしょうか。



 最初にリンクして紹介した東京新聞の記事を書かれた池尾伸一さんは、ご自身のフェイスブックに以下のように投稿しています。


この裁判で腰が抜けるほど驚いたのは入管庁がデニズさんの顎下の「痛点」を押し続けた理由を「痛みによりおとなしくさせる必要があった」と正面から主張したことです。「痛み」を行政手段に使うのは近代国家ではありえない話。入管の人権感覚まひを象徴する発想です。

さらに驚いたのは、デニズさん側が勝ったのに、裁判所が国に命じたデニズさんへの賠償金が22万円だったこと。弁護士費用にもなりません。

政府も裁判所も一体どうなっているのでしょうか。国際的な人権感覚がここまで遅れて、経済だけでなく人権でも、歯止めなく「下流国家」に向かっているようです。


 「腰が抜けるほど驚いた」という池尾さんの感想に、強く共感をおぼえます。これはおどろかなければおかしい、おどろくべきことなのです。



 入管が長期収容を帰国強要の手段としておこなっていること、そしてそのことを隠してすらいないことを、私はくりかえし問題にしてきました。このブログでも、たとえば以下の記事で書いたように、そればっかり書いているぐらいです。


「すがってはいけないワラ」とか言うなら浮き輪でも投げて助けろよ 入管法審議での維新・梅村氏の発言について(2023年5月13日)

「強制送還を忌避」させないための無期限収容 入管庁西山次長の国会答弁は憲法36条への挑戦ではないのか?(2023年4月21日)


 入管が長期収容を通じて帰国を強要しているということ。つまり、それは「収容」という措置を相手の意思を変えさせるための手段としてもちいているということであり、精神的・肉体的な苦痛を与えることで他者を自分たちの思うように行動させようとしているということです。まさしく「拷問」と呼ぶべきことを入管はおこなっているのですが、もっとおどろくべきことは、上にリンクした記事で述べたように、法務大臣も入管庁次長もそのことを事実上みとめる「自白」をぽろぽろこぼしているという事実です。入管庁の公式ウェブサイトでも、入管のおこなう長期収容が帰国強要を目的にしたものであることを、正直に告白しています。

 ところが、法務大臣も入管庁次長もその発言を追及されて辞職に追い込まれることはなく、こんにちにいたるわけです。

 入管という組織が野蛮におおわれているのは明白ですが、その野蛮さはいまやまったくかくされていないのです。入管が拷問をおこなっている事実は、秘密でもなんでもない。だって、そこのトップやら幹部やらがそう自白しているのだから。

 問題なのは、私たちがそれを容認するのか、しないのかというところです。いちいちおどろくことをやめて、あたりまえなものとしてこれを受け入れてしまうならば、われわれもまた野蛮から抜け出す機会をうしなうことになるのではないでしょうか。(了)


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 4月28日に改悪入管法施行反対などをテーマに全国での街頭行動がよびかけられています。


【4.28全国一斉行動の呼びかけ】 #入管法改悪反対 - 入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合



 以下、大阪・東京でのデモの告知もはっておきます。


【大阪】

2024年4月28日(日)
13:00 扇町公園集合・集会
14:00 デモ出発→西梅田公園流れ解散




【東京】

日時:2024年4月28日(日)、13:30集合、14:00デモ隊出発
場所:上野恩賜公園 湯島口(池之端1丁目交差点近く)













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「すがってはいけないワラ」とか言うなら浮き輪でも投げて助けろよ 入管法審議での維新・梅村氏の発言について(2023年5月13日)


2024年3月21日

自治体の負担増加の原因は、「クルド人」ではなく入管行政

 

 以下、2月2日ということなので1か月半以上前の報道なのですが、おくればせながら興味深く読んだところです。


埼玉・川口市がクルド人めぐり国に異例の訴え なぜ?現場で何が? | NHK(2024年2月2日)


 川口市が国に対し、仮放免者の就労を可能にしてほしいなどの要望を出したことについて、その要望の背景を取材した報道です。

 人手不足が深刻なこの地域の解体業界で、仮放免の人もふくめたクルド人労働者が欠かせない担い手になっていること。また、クルドの子どもたちが市内の小学校などに通い、受け入れられていることなど。そうしたかたちで地域社会で共生がなされ、クルドの人たちもすでにそこに深く根ざしていることがうかがえる記事です。

 さて、このNHKの記事のなかの小見出しのひとつに、「教育や医療 増加する自治体の負担」というものがあります。自治体の負担を増加させている要因は何なのかという問いは、差別や排外主義におちいらないよう、注意深く語っていく必要があります。自治体の負担増という論点が、地域に新たに移住してきた人たちであったり貧困層であったりを差別・排除する言説につながっていくのは、しばしばみられるところです。この点を念頭において、記事の以下の部分を読んでいきます。


さらに、最近、市議会では医療費への懸念がたびたび取り上げられています。


川口市議会議員

「仮放免者は保険証もありませんから、請求される金額が高額になり、高額な医療費を払えずに滞納してしまうという事案もあります」


今、市の医療センターでは外国人による未払い金が7400万円ほどありますが、その中に仮放免のクルド人の治療費も含まれているとみています。


川口市は、実態に応じた制度の見直しが欠かせないと訴えます。


川口市 奥ノ木信夫市長

「人道的立場で、今にも赤ん坊が産まれそうな人は、病院で受け入れて診なければいけないし、病気で苦しんでいる人をほったらかして、うちでは診られませんとは言えません。

税金を払いたいし、保険証もほしいというクルド人は、いっぱいいるんですよ。在留許可や就労許可を国で出さないと、解決はしないと思います」


川口市の訴えを、国はどう受け止めているのか。出入国在留管理庁に聞きました。

出入国在留管理庁

「仮放免者の中で退去強制が確定した外国人は、速やかに日本から退去するのが原則となっています。よって仮放免者に国費で健康保険などの行政サービスの支援を行うことは困難です」


 「病気で苦しんでいる人」がいれば、その人を診察し治療するのが医療人というものだし、そのための仕組みや環境を整備するのが市や県などの行政にたずさわる人の仕事です。現にここに住んでいる人、ここにいる人のためにすべきことをする。そうした労働(この「労働」は賃金で報酬が支払われるものにかぎりません)の集積として地域社会が成り立っており、またその一部が自治体の施策としておこなわれるものであるわけです。

 ところが、このような地域社会の人びとのいとなみであったり、あるいは自治体の施策にとって、国の入管行政がまさに障害になっているということが、いま引用したところにあらわれている事態です。クルド難民たちを、「仮放免」という、堂々と就労することもできず、国民健康保険にも入れない状態にしばりつけ、医療費の滞納の原因を作っているのは、入管行政にほかなりません。

 入管庁の役人は「仮放免者に国費で健康保険などの行政サービスの支援を行うことは困難です」などと恥ずかしげもなく言っているようです。しかし、先の川口市長の発言のとおり「病気で苦しんでいる人をほったらかして、うちでは診られませんとは言えません」と考えるのがあたり前の医療人の立場だし、そのためのコーディネートをするのが市長ら行政の仕事です。

 それにしても入管はよくもまあ「行政サービスの支援を行うことは困難」などと言えるもんです。だいたい「行政サービス」を担っているのは、あんたら入管ではなく、地方自治体ですよね。入管のやっていることと言えば、住民のあいだに線引きをして、結果的に「行政サービスの支援」から排除される住民を作り出すことじゃないですか。上に述べたように、入管行政こそが「行政サービス」の阻害要因になっている。「行政サービスの支援を行うことは困難」? いや、ジャマしてるのはあんたたちではないですか、という。

 一方、自治体の現場の職員は、「住民」に対するサービスということを考えるのであって、ある住民が仮放免者であったり非正規滞在者であったりということは本質的な問題にはならないはずです。現行の制度では仮放免者や非正規滞在者は住民票に登録できませんが、行政サービスの観点からいえば、住民票はあくまでも住民の情報を登記する手段のひとつにすぎません。住民票がないから住民サービスから排除するというのでは、手段と目的が転倒してしまいます。

 ちなみに、10年ぐらい前までは、仮放免者が国民健康保険に加入していたり、生活保護を受けていたりというケースは、数は多くはないものの自治体によってはそれなりにありました。国(この場合は厚労省ですが)が横やりを入れて、そういったケースはなくなっていきましたが、自治体の行政の本来的なあり方からすれば、住民票の有無なんかよりも、その市区町村に居住の実態があるかどうかということのほうが、重要なのです。 

 記事に紹介された川口市長の発言をもう一度引きます。


「税金を払いたいし、保険証もほしいというクルド人は、いっぱいいるんですよ。在留許可や就労許可を国で出さないと、解決はしないと思います」


 入管は「仮放免者に国費で健康保険などの行政サービスの支援を行うことは困難です」などとくだらないことを言わずに、仮放免者の在留を正規化すれば、問題は解決するのです。在留資格を認められれば、就労できますし、国民健康保険にも加入できるので、医療費の滞納は減り、自治体の負担も軽減されます。

 入管がそれをせず、クルド人住民の多くを仮放免状態に放置していることで、自治体の負担増加をまねいているのだといえます。入管は社会に迷惑をかけるのをいいかげんやめてほしいものですね。



 ところで、この先は今回の本題からはそれる話です。NHK記事の以下の「監理措置」に関するところ、説明として適切ではないので、その点いちおう指摘しておきます。


川口市の要望については、2023年以降の国の方針によって、今後はある程度カバーされる可能性があると橋本さんは見ています。

政府は2023年8月、日本で生まれ育っていても在留資格がない小学生から高校生の外国人の子どもについて、親に国内での重大な犯罪歴がないなどの一定の条件を満たしていれば、親子に「在留特別許可」を与え、滞在を認める方針を示しました。

また、入管が認めた監理人と呼ばれる支援者らのもとで生活ができる「監理措置」という制度が改正入管法の下で近々導入され、就労をすることが可能になる予定です。


 たしかに、改定される入管法で創設される監理措置は、従来からある仮放免制度と異なり、就労が許可される場合があります。しかし、それはきわめて例外的な場面においてのみです。

 改定入管法のもとでは、退去強制処手続き中の人(退去強制処分を受けていない人)に監理措置が適用されたときに、入管は就労を許可することができるということになっています1。しかし、退去強制処分が出てしまった人については、全面的に就労は禁止されます2

 まず、NHK記事などでその困窮が問題にされている、在留の認められていないクルド人難民申請者の大多数は、すでに退去強制処分が出た人であって、就労不可です。そして、退去強制手続き中の人も、入管が在留を認めなければいずれ退去強制処分が出てしまいますから、そうなれば就労が許可されることはありません。

 しかも、監理措置制度では、許可を受けずに就労した場合に、刑事罰を科す規定まであります(第70条第9号、第10号)3

 つまり、監理措置においては、ごくごく例外的にしか就労は許可されないし、許可を受けない就労が犯罪化すらされるわけです。

 「川口市の要望については、2023年以降の国の方針によって、今後はある程度カバーされる可能性がある」というところ、「2023年以降の国の方針」が監理措置のことも指して述べているのであれば、この記述は明確にまちがいと言ってよいでしょう。



1: 第44条の5第1項「主任審査官は、被監理者の生計を維持するために必要であつて、相当と認めるときは、被監理者の申請(監理人の同意があるものに限る。)により、その生計の維持に必要な範囲内で、監理人による監理の下に、主任審査官が指定する本邦の公私の機関との雇用に関する契約に基づいて行う報酬を受ける活動として相当であるものを行うことを許可することができる。この場合において、主任審査官は、当該許可に必要な条件を付することができる。」 

2: 【改悪入管法を読む】監理措置とはなにか?〈2〉 

3: 【改悪入管法を読む】監理措置とはなにか?〈3〉



関連記事

産経新聞がクルド人へのヘイトスピーチを書き散らしている件(2023年7月31日)

【改悪入管法を読む】監理措置とはなにか?〈1〉(2023年12月2日)

【改悪入管法を読む】監理措置とはなにか?〈2〉(2023年12月6日)

【改悪入管法を読む】監理措置とはなにか?〈3〉(2023年12月14日)




2024年3月2日

法務省が検討中だという在留特別許可ガイドライン案がまたろくでもない


  法務省が在留特別許可のガイドラインの見直しを検討しているとの報道が出ています。


不法滞在外国人の在留 ガイドライン見直し案まとまる | NHK(2024年2月28日 11時55分)


 報道を引用します。


不法に滞在している外国人をめぐっては、出入国在留管理庁が、法務大臣の裁量で特別に在留を認める際の基準を定めたガイドラインを策定していますが、与野党内から「どのような時に在留が認められるのかが不明確だ」との指摘が出ていたことなどから、見直し案をまとめました。

それによりますと、▽在留資格がなくても親が地域社会に溶け込み、子どもが長期間、日本で教育を受けている場合や、▽正規の在留資格で入国し、長く活動していた場合、その後、資格が切れても在留を認める方向で検討します。

一方、▽不法入国などによって国の施設に収容され、その後、一時的に釈放された仮放免中に行方をくらませた場合や、▽不法滞在の期間が相当の長期間に及ぶ場合などは、在留を認めない方向で検討するということです。


 基準の緩和が一部検討されているようにもみえる一方で、最後に書かれている「不法滞在の期間が相当の長期間に及ぶ場合などは、在留を認めない方向で検討する」というところ、さらっと読み飛ばしてしまいそうになるかもですが、これはとんでもないです。

 正規滞在であれ、在留資格のない非正規滞在であれ、日本にいる期間が長期間におよぶ場合、一般論として地域社会に溶け込んでいたり、密接な人間関係をこの地で結んでいたりするものです。

 また、とくに非正規滞在者の在留が長期にわたっている場合、それは自国に帰ろうにも帰れない事情があるからだということも多々あります。在留資格のない状態では社会保障からも排除されるわけですし、就労先を探すにもきわめて不利なわけです。それに、長く離れていれば故郷の親が病気になったり亡くなったりなど、切実に帰りたくなる機会も出てくるものです。にもかかわらず在留資格のない状態での在留が長年にわたるのは、帰国できない深刻な事情があるからということも少なくないのです。

 ところが、報道されている法務省のガイドライン案では、その非正規滞在での在留期間が長くなるほど、在留を許可するにあたってマイナスに評価されるということになってしまいます。在留特別許可は、人道的な配慮をするための措置であって、懲罰のためのものではないにもかかわらずです。本来であれば在留期間が長くなるほど、人道措置として在留を認めるべき理由になるはずなのが、非正規滞在の場合、反対にそこがマイナスに評価される。あべこべにもほどがあります。


 で、ここからがとくに強調したいところなのですが、歴史的な経緯をふりかえったとき、「不法滞在の期間が相当の長期間に及ぶ場合などは、在留を認めない方向で検討する」という法務省の考えは、まったく道理に反しています。

 というのも、「不法滞在の期間が相当の長期間に及ぶ」ようなケースについて、そこに国・政府の責任がないとは言えないからです。法務省などの役人たちの呼ぶところの「不法滞在者」に一方的に責任を帰すことのできるようなものではありません。

 現在、退去強制処分を受けて仮放免の状態にある人たちが3,000人以上いますが、そのなかで来日時期がもっとも早い層は、1980年代の後半に来た人たちです。在留期間でいえば、35年ぐらいになる層。

 そのなかには、犯罪歴がないにもかかわらず、この間、一貫して在留資格がない状態で現在にいたるという人が相当数います。日本人や在留資格のある外国人と婚姻していない人や、婚姻していても実子のいない人などが、これまで在留特別許可の対象になってこなかったからです。

 「不法滞在の期間が相当の長期間に及ぶ場合などは、在留を認めない方向」でガイドラインが作られるならば、こうした人たちはますます在留を認められなくなるということになるでしょう。

 しかし、「不法滞在の期間が相当の長期間に及ぶ」ような状況は、非正規滞在者本人たちだけにその責任を帰すことはできません。

 バブル景気にわく80年代後半、日本人労働者が「3K」(きつい、汚い、危険)と呼んで忌避し、深刻な労働力不足にあった製造業などの中小零細企業には、外国人労働者によって救われたところも少なくありません。そこには、在留期間が切れて超過滞在(オーバーステイ)になった非正規滞在者も多くいました。

 90年代を通じて、非正規滞在の外国人は、中小零細の工場や建築現場などで欠かせない労働力としてありました。この時期、警察官が職務質問などで在留期間が過ぎていることを知っても、わざわざ摘発しないのが普通でした。

 関東地方で当時、非正規滞在の状態で暮らしていた外国人たちから、私自身そのような経験を数多く聞きました。あるフィリピン人からは、警察官はオーバーステイを問題にしないのがわかっていたから、交番で道を聞いたりということを当時は平気でできていたのだという話を聞いたこともあります。その人が言うには、ある時期から在留資格のない仲間たちがつぎつぎとつかまり送還されるようになり、職務質問などをされないように警察官を避けるようになったということでした。

 入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合の発行するパンフレット『なぜ入管で人が死ぬのか』(2022年発行)は、バブル期から日本で暮らす非正規滞在者の証言を紹介しています。


 1980年代末、20歳のとき渡日した非正規滞在のイラン人は、次のように述べています。

「警察がパスポートを見せろと度々尋ねてきた。パスポートを見てオーバーステイと分かっても摘発しなかった。街の祭りの後片付けを手伝っていたときには、警官は、頑張れよ、と声を掛けてきた。だからずっと日本に居られると思っていた。ところが 2005年に、突然、不法滞在で逮捕された。帰れというならもっと若い時になぜ言ってくれない。」

 また、同じバブル経済期に渡日した別の非正規滞在外国人は「警察に職務質問を受けて在留資格がないと分かってもパスポートの期限が切れておらず、工場で働いていることが分かれば『しっかり働けよ』と言って捕まえようとしなかった。だから真面目に働き、税金を払っていれば日本にずっといられる、と思った」と述べています。


 日本政府が、非正規滞在の外国人労働者の存在を許容しないという方向に政策転換したのは、2000年代に入ってからです。

 2003年10月に、法務省入国管理局、東京入国管理局、東京都、警視庁の四者による「首都東京における不法滞在外国人対策の強化に関する共同宣言」が出され、おなじ年の12月には政府の犯罪対策閣僚会議による「犯罪に強い社会の実現のための行動計画」が出ます。いずれの文書も、「不法滞在外国人」は「犯罪の温床」であると決めつけ、その摘発強化をうたったものです。後者の「行動計画」において、2004年からの5年間でいわゆる「不法滞在者」を半減するという計画が示されます。

 この政策転換のなかで、入管などが「送還忌避者」と呼ぶ、国外退去を求められているけれどこれを拒否している人が増大していったということ(2020年時点で3,000人超)。その増大した「送還忌避者」を強硬に送還する方針を2015年ごろに政府がたてて、これに固執し続けていることが入管施設での長期収容問題、あいつぐ死亡事件をはじめおびただしい数の人権侵害を生じさせているのだということ。こうしたことについて、さきのパンフレットではくわしく説明されています。

 私も作成にかかわっているので手前ミソにはなりますけれど、なかなかよくできたパンフレットなので、ぜひ手に取ってみてください。以下のリンク先から、PDF版が無料配布されています。


なぜ入管で人が死ぬのか | 入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合


 さて、政府が2000年代前半に非正規滞在外国人をめぐる政策を転換したことの是非については、ここで論じません。しかし、その存在をかつて事実上黙認していたことは、重要です。事実として、日本社会は非正規滞在外国人の労働力を活用してきたのであり、それは政府の黙認によって可能だったのです。

 そうして日本社会を支えてきた人たちを、政策が変わったからとか、もう用済みだからとか、排除するのだとしたら、それは無慈悲だというだけでなく、いちじるしく道理に反することです。

 ガイドライン案の「不法滞在の期間が相当の長期間に及ぶ場合などは、在留を認めない方向で検討する」というところは、撤回すべきです。バブル期から90年代を通じた政策があやまりだったというのであれば、その政策のツケを一方的に非正規滞在者にのみに押し付けるような恥知らずなことはすべきでありません。


2024年2月29日

卒業式の権威主義

 

 フェイスブックが「過去のこの日」などといって、何年か前の今日の投稿を表示してくれるのですが、そうか、今年も卒業式の季節ですね。子の卒業式に出席した日の投稿をこのブログにも再録しておきます。


 子の卒業式に出席してきました。コロナの感染防止ということで、生徒ひとりにつき保護者は1名までの出席ということで、今回は私がひとりで出てきました。

 毎度のことなのですが、開始そうそう「ご起立ください」と言われて起立すると突然テンスケをたたえる歌が流れてきたので、着席しました。戦争犯罪者とその地位を後継する一族が千代に八千代につづきますようになどというふざけた内容の歌を、500人ぐらいいる会場で(たぶんひとりだけ)すわって聞かされるという苦行に。

 校長は式辞にあたって壇上にあがると高いところにかかげられたクソ丸に真っ先に一礼するなど、なかなかスゴいものを見せられました。

 せっかくの祝福の儀式なのにこういうおかしなものを持ち込むのはやめてほしいよね。

 ほかにもひどく権威主義的な形式があちこちにみられて、いままでみた入学式・卒業式でもここまでのはみたことないという感じでした。根本には侵略戦争や植民地支配への無反省ということがあるのでしょうが、維新府政が続いていることでの教育の荒廃がすすんでいることのあらわれをみるような思いもしました。


 君が代を歌ったり日の丸をかかげたりという行為は、それ自体が侵略国家の国民の居直りとも言うべきで、悪質きわまりないものです。さらに、これを大人たちが権力をもって、さまざまなルーツをもつ子どもたちのいる学校という場所で強制しているということのろくでもなさ。今年もおなじ光景が、全国各地の学校でくり返されているのだろうということを思うに、あらためて慄然(りつぜん)とします。

 数年前に出席した卒業式(高校)では、上に書いたとおり、校長は壇上に上がるなり、まず日の丸に一礼をしました。卒業生たちやその保護者たちにではなく、来賓にむかってですらなく、一番先に頭をさげたのが日の丸に対してだったのです。

 この人は日々どこを向いて教育をやってるんだろうかと思いました。たかが儀礼的な様式じゃないかと言われれば、まあそうでしょうが、こうした儀礼的なふるまいが象徴している教師の日常や思考というのも、軽くみるべきではないとも思います。

 このときの卒業式では、卒業生の読んだ答辞は、内容としては心のこもったすばらしいものだと感じたのですが、儀式の形式がその内容とそぐわない残念なものになってしまっていました。卒業生はステージの下に立ち、壇上の校長にむかって、つまり校長をあおぎみるかっこうで答辞を読み上げる、という形式だったのです。

 校長の日の丸拝礼にしても、あおぎみての卒業生答辞にしても、これらは権威主義にほかなりません。だれが上位でだれが下位なのかを決め、その上下関係を目に見える形で表現するという儀式であるわけです。教師は生徒より上位であり、教師のなかでは校長が最上位にあり、しかしその校長より上位に日の丸が位置している。そういう上下関係を、あるべき秩序として維持しなければならない。こんな規範・価値観を儀式として表現する場にさきの卒業式はなっていたということです。

 こういう儀式への参加を学校教育の場などでくりかえし強いられると(私自身そういう教育をみっちりと受けてきたわけですけど)、それぞれが平等な立場から組織や共同体に参加し、いわば民主的に合意形成をはかっていく、みたいな能力や意思は破壊されちゃいますよね、と思います。破壊されたものを取り戻していくということを意識的にやらざるをえなくなる。これはなかなか難儀なことです。


2024年2月10日

差別は正しく「差別」と呼ばなければならない

  政府が、永住者の在留資格について、税金や社会保険料を納付しないケースなどで在留資格を取り消せるよう入管法を改悪する検討をしているとの報道が出ています。

税や保険料を納めない永住者、許可の取り消しも 政府が法改正を検討:朝日新聞デジタル(2024年2月5日 15時49分)

 記事の冒頭段落だけ引いておきます。


 政府は、「永住者」の在留許可を得た外国人について、税金や社会保険料を納付しない場合に在留資格を取り消せるようにする法改正の検討を始めた。外国人の受け入れが広がる中、公的義務を果たさないケースへの対応を強化し、永住の「適正化」を図る狙いだ。


 「適正化」ですって……!

 だれがそう言ったんでしょうか? 法務省か入管庁の役人の言葉なのでしょうけど、どういう意味で「適正化」などと言えるのか。「税金や社会保険料を納付しない場合に[永住者の]在留資格を取り消せるようにする」ことを「永住の適正化」と称するセンスには、驚愕(きょうがく)するほかありません。明白な差別ではないですか。

 これを報じる朝日新聞の記事では、「永住の『適正化』」と一応はカギカッコをつけてはいるものの、それを「適正化」なのだとする役人の言い分を、無批判にまとめるだけの記事になっています。カギカッコをつけるだけでごまかさずに、政府がもくろむ法改定が差別だということを指摘すべきではないでしょうか。

 当然ながら、「税金や社会保険料を納付しない場合」には、日本人であれ外国人であれ、おなじペナルティが科されることになっているわけです。滞納すれば督促状が送られてくる。それでも払わなければ延滞金を請求されます。預金や不動産など財産を差し押さえられることもあります。

 政府が「永住の適正化」と呼ぶ施策は、こうしたペナルティにくわえて、外国人の場合にのみ、さらに重ねてべつのペナルティをも科すということです。しかも、それは永住者の在留資格を取り消すという、きわめて重い不利益処分です。

 税金や社会保険料の未納・滞納という同一の行為について、特定の属性の住民にだけ特別に重いペナルティを科すのは、「差別」と呼ぶべき行為です。これを「永住の適正化」と言い表すのは、侵略を「進出」と呼び、敗走や撤退を「転進」、裏金作りを「収支報告書への不記載」と呼ぶのにも似た欺瞞(ぎまん)です。差別は正しく「差別」と呼ばなければなりません。

 さて、これも当然の話ですが、税や社会保険料をげんに負担しているのは、日本国民だけではありません。永住者の在留資格をもつ人もふくめ、外国人住民も、税や社会保険料の負担者です。その意味でも、日本社会は外国人をふくめた住民によってささえられているのであって、日本国民もそうした社会でささえられ生きているわけです。こうした認識からは、外国人の滞納者にのみことさら重いペナルティを科そうなどという、いまの政府のような発想がでてくるはずはありません。

 対して政府の発想は、「外国人が義務をはたさないために、国民が(日本人が)迷惑や過度な負担をこうむっている」という虚偽の、かつ差別的な認識に根ざしたものです。ここで「外国人が/国民が(日本人が)」という単純化された対立軸が設定されて、さらにマジョリティである「国民(日本人)」がいわば被害者側に位置づけられるという思考が、まさに差別的なのです。「在日特権」「逆差別」といったたわごととまさに同じ構造です。

2024年1月21日

ヤフーニュースのコメント欄と入管と

 

 1か月以上前の報道ですが。


【茨城新聞】不法滞在31年 容疑で85歳の韓国人逮捕 茨城県警水戸署(2023年12月9日(土))

31年間にわたり茨城県内で不法滞在を続けていたとして、県警水戸署は8日、入管難民法違反(不法残留)の疑いで、韓国籍の水戸市、無職、女(85)を逮捕した。

逮捕容疑は、在留期限が1991年12月末だったにもかかわらず、更新や変更を受けないまま、不法に残留した疑い。同署によると、容疑を認めている。同署員が8日、同市内で職務質問して発覚した。


 このかた、日本での暮らしがすくなくとも31年以上ということで、しかも在留期間が切れてからはおそらく一度も日本から出ていないのでしょうから、いまさら韓国に帰れと言われても相当にこまるのではないかなと想像します。

 上にリンクしたのは、茨城新聞のサイトなのですけれど、同じ記事は「Yahoo!ニュース」にも掲載されており、いつものごとく差別・排外主義にまみれたコメントがたくさんついています。「Yahoo!ニュース」については、私は前にこちらのブログ記事にも書いたとおり、リンクを貼らないことにしているので今回もリンクはしませんが、まあひどいものです。強制送還しろとのコメントがいくつもならんでいます。

 それらのコメントに共通するのは、自身の排外主義的な主張の盾(たて)として「法」を語っているというところです。日本は「法治国家」であるとか、「法は曲げられない」だとか、「不法」行為をおかした本人のせいなのだとか、いわば「法」を言い訳にするかたちで、強制送還すべき、あるいは強制送還するしかないのだというのです。

 また、こうした強制送還すべきと主張する言説の多くは、自身の主張を「法」に根拠を置く、いわば理性的なものと自負しているらしい一方で、自分と反対の立場の主張は「かわいそう」といった同情にもとづく感情論と決めつけているのが特徴的です。「強制送還に反対する者はかわいそうだなどと言うが、情で道理を曲げるわけにはいかない。日本は法治国家なのだから、不法滞在者は法を厳格に適用して強制送還すべきである」というわけです。

 なんだか、こういう「情」というものの価値を低くみたうえで、これに流されずに道理を通す理性的なオレ、みたいな自意識は、イヤなものです。こういう人間にはなりたくないなあ、ならないように気をつけよう、と思います。

 さて、Yahoo!ニュースのコメント欄やツイッターなどで排外主義言説をまきちらす右翼たちは、しばしば「不法滞在者は強制送還するのが法の正しい適用」「不法滞在者の在留を認めるのは法を曲げること」という前提で語ります。しかし、この認識は、入管法の理解としてもだいぶずれており、まちがっているように思います。

 現行の入管法では、たしかにいわゆる「不法残留」などを退去強制事由として規定しています。しかし、本人が在留を希望した場合、法務大臣がこの人の在留を特別に許可するかどうかの判断をしなければならないということも手続き上さだめられています。さきの報道の水戸市の女性についても、入管局の審査において不法残留であるとの認定がなされたとしても、本人が希望すれば、「違反」の事実以外の要素もふくめたもろもろの状況をみて在留特別許可をするかどうかの判断が、手続き上一応はなされるはずです。

 つまり、現行入管法においてさえも、いわゆる「不法滞在者」(クソな言葉だわ)を、必ずすべて送還しなければならない、あるいは送還できるという前提には立っていません。人道的にみて送還すべきではないということもあると想定されているからこそ、在留特別許可という措置が用意されているのでしょう。

 その意味で、「不法滞在」「不法残留」「不法入国」といった言葉をみると、「日本は法治国家だ!」「強制送還すべきだ!」となどとYahoo!ニュースのコメント欄などに書きこまずにはいられない右翼諸氏の主張は、本人たちがおそらく自己認識としていだいているようなイメージとは、正反対のものだということです。つまり、この人たちは、感情論とは対極にある冷静で理知的な議論を法の正しい理解にもとづいておこなっているつもりらしいのですが、実際のところは排外主義的な俗情をたれながしているにすぎない。

 しかし、いっそう深刻なのは、行政機関たる入管の役人たちの思考も、こういう右翼たちのそれとへだたってるとは思えないことです。たとえば、先日このブログで言及した*1つぎの事例などをみたときに。


「うれしいし驚きも」タイ人の母親のもとで日本で生まれた高校生と中学生の姉弟に在留特別許可 これまでは在留資格なく「仮放免」 | SBC NEWS | 長野のニュース | SBC信越放送(2023年12月26日(火) 12:09)


 報道されている在留の認められたきょうだいは、17歳と15歳です。このケースについて、入管は17年ものあいだ、日本生まれの未成年者を在留資格のないまま、また強制送還の対象としたまま、放置してきたわけです。人道上の配慮として在留を許可するという措置があるにもかかわらず、その措置をとらないという不作為を入管は17年間続けてきたのです。

 この不作為は、法にのっとった結果であるとか、あるいは現行制度のせいであるとか、のみ言うことはできません。在留を認めるという措置が可能でありながら、その措置を17年間にわたりとらなかったという入管の選択の結果なのです。それは「法」の必然的な帰結ではなく、それを選択した意思の帰結です。

 そして、今回、このきょうだいが在留を認められたのは、昨年8月に法務大臣が発表した特例的な政府方針、在留が長期化した子どもに対して、家族一体として在留特別許可をするという方針にもとづくものです。ところが、この長野県の家族のケースでは、在留が認められたのは子どもたちだけで、母親はまだ認められていません。「家族一体として」という方針を打ち出しながら、親子を分離するような措置をおこなっている。

 この入管の役人たちの不作為という選択から感じられる、暗い情念はいったい何なのでしょうか。それは、Yahoo!ニュースに排外主義的なコメントを書きこんでいる者たちの主張と、入管のとっている行動は、そうへだたっていないどころか、ぴったりと重なっているようにみえます。

 注でリンクした記事でも紹介しましたが、未成年の仮放免者とその家族に在留特別許可をせよと求める署名が呼びかけられています。署名は現在もひきつづき募集中です。


オンライン署名 ・ 日本に生まれ育った未成年の仮放免者とその家族に在留特別許可を! ・ Change.org




2024年1月8日

民主主義と災害


  年あけてそうそう元日に能登で大地震。だが、岸田首相はじめ自公政権の救助や被災者支援の動きがおどろくほどにぶい。被災者に無関心、ほとんど興味がないのだとしかみえない。

 岸田らが救助や被災者支援に本気で取り組む気がさらさらないのだということを示す例は枚挙にいとまがないが、一例をあげれば、つぎのニュース。


【速報】岸田首相は能登半島地震の物資支援のため9日に予備費使用の閣議決定を行うと表明した:時事ドットコム(2024年01月04日11時59分)



 この報道が1月4日(木)で、1日(月)の発災からすでに3日近く経過している。で、予備費使用を決める閣議をひらくのはさらに5日後の9日(火)まで待つのだそうだ。

 岸田らが、倒壊した建物の生き埋めになった住民や、避難所で寒さと飢えにされされている被災者に同情するような人間ではないのは今さらおどろかない。しかし、救助や支援をやる気がほとんどないことを隠そうともしない、やってるふりすらもはやしないのは、どういうことだろうか。それはそれでも自分らの権力や地位はおびやかされることはないと、たかをくくっているからだろう。

 こうした岸田らの態度をみながら、ずいぶん前に読んだアマルティア・センの文章を思い出した。そのなかに、飢饉と民主主義について述べられた、非常に印象深い一節があった。

 センは「世界の悲惨な飢饉の歴史の上で、比較的自由なメディアが存在した独立民主国家にあって、本格的な飢饉が発生した国は一つもない」として、以下のように述べる。


 飢饉は、自然災害のようなものとしばしば結びつけられてしまいます。たとえば、「躍進」期の中国に発生した大洪水、エチオピアの旱魃(かんばつ)、北朝鮮の凶作といった自然災害を、飢饉の単純な説明としてしまう論評がよくあります。しかし、実際には、そのような自然災害やもっとおそろしい災難に見舞われた多くの国々ですら、飢饉は起こっていないのです。なぜならば、それらの国々には、飢えの苦痛を軽減するために迅速に行動する政府が存在しているからです。飢饉の最初の犠牲者は最も貧しい人々ですから、たとえば、雇用計画などを立案して、飢饉の犠牲になる潜在的可能性の高い人々のために、その食糧購買力を高める新たな所得を創出すればよいのです。そうすれば、餓死は防止できます。1973年のインド、1980年代初頭のジンバブエやボツワナといった、世界で最も貧しい民主主義国ですら、実際に深刻な旱魃や洪水やその他の自然災害に見舞われた時には、食糧供給を行って飢饉の発生を被らずにすんだのです。

 飢饉は、それを防止しようという真剣な努力がありさえすれば、簡単に阻止できるものなのです。民主主義国家では選挙が行われ、野党や新聞からの批判にもさらされるので、政府はどうしてもそのような努力をせざるをえません。イギリス支配下にあったインドにおいて、独立直前まで飢饉が絶えることがなかったのも、当然でした。最後の飢饉が起こったのは、独立の4年前の1943年でしたが、当時子供であった私はそれを目撃しました。独立後のインドに、自由なメディアがあらわれて、複数政党制による民主主義体制が確立されると、飢饉は突然止んで二度と発生しなくなりました。

 実際には、飢饉の問題は民主主義がその本領を発揮するほんの一例にすぎませんが、多くの点で最も分析しやすいケースだと言えます。政治的・市民的権利は経済的・社会的破局の防止に、積極的な役割を果たすことができます。物事が順調に運び、すべてがいつものように滞りない状態にある場合には、民主主義が手段として果たす役割が切望されることはあまりないかもしれません。しかし、何らかの理由で、状況が急変するような場合には、民主的な統治が生み出す政治的インセンティヴが大きな実践的価値を持つのです。

アマルティア・セン『貧困の克服』(大石りら訳、集英社新書、2002年)


 もちろん飢饉と震災はおなじにあつかえないところもあるだろう。しかし、いま私たちが目にしているのは、まさしく「民主的な統治が生み出す政治的インセンティヴ」の欠如のために、「真剣な努力がありさえすれば」死なずにすんだはずの人間が殺されつつあるという状況だ。

 少しでも犠牲をなくすために必要なのは、自由なメディアであり、批判的な野党であり、自由で批判的な言論である。大きな災害などが起きたときには、権力に迎合的な言論がますます大きく強くなる傾向があるものだが、「非常時だから政府批判・与党批判はひかえよう」といった姿勢は、被害をおさえるということとは真逆の結果をもたらす。


 さて、冒頭でみたような、住民たちが倒壊した建物の生き埋めになっているのを首相らが平然とほったらかしているという事実が示しているのは、「民主的な統治が生み出す政治的インセンティヴ」がぜんぜん働いていないということであり、それは日本において民主主義が機能していないということにほかならない。

 センはおなじ文章のなかで、「民主主義とは正確にはいったい何なのでしょうか」という問いをたてて、つぎのように述べている。民主的な統治がなされているとみなされることのある日本の民主主義が、実際のところどれほど機能していると言えるのか、点検し考えなおすためのひとつの目安として、最後に抜粋しておきたい。


 民主主義とは正確にはいったい何なのでしょうか。私たちは、多数決原理が民主主義であると考えるべきではありません。民主主義がしっかり機能するためには、多くのさまざまな要求が満たされなくてはなりません。その中には、もちろん投票や選挙結果の尊重などが含まれますが、自由を守ること、法的権利や法的資格が尊重されること、自由な議論が交わされること、公正な意見と情報が検閲なしに公表されることなども保障されていなくてはなりません。選挙においては、反対陣営がそれぞれの主張を述べる十分な機会がなく、有権者が情報を得る自由を享受して対立候補たちの政見についてよく考えることができなければ、それはまさしく欠陥選挙といわなければなりません。民主主義は、さまざまな要求が満たされなければならないシステムで、多数決原理のような機械的な条件だけを切り離して採りいれているわけではないのです。