2024年7月23日

【読書ノート】デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』


 2020年に日本語版が刊行されてから、読もうと思いつつその分量の分厚さにおじけづいて(本文と注で400ページぐらいある)手を出せずにいたのだが、近所の図書館で借りてきてようやく読みました。刺激的な論考でした。


『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』
著者:デヴィッド・グレーバー
訳者:酒井隆史, 芳賀達彦,森田和樹
2020年7月29日, 岩波書店 発行










 本書の執筆は、2013年にグレーバーがウェブ上に公開した「ブルシット・ジョブ現象について」という小論がきっかけとなっているとのこと。英語で書かれたこの小論が大きな反響を呼び、またたく間にさまざまな言語に翻訳された。グレーバーのもとには、たくさんの人から自分のやっている仕事もまさにブルシット・ジョブであるとの声が寄せられたそうだ。本書では、そうして集まったインフォーマントのブルシット・ジョブ体験を読めるのも興味深い。

 グレーバーの問題関心は、その「ブルシット・ジョブ現象について」(7ページほどの分量。本書の序章にも掲載されている。本書の出版元の岩波書店のサイトから「試し読み」で全文読めるようになっています)に凝縮されている。

 この小論は、ケインズの予測がなぜ実現されなかったのかという疑問から始められている。1930年にケインズは、20世紀末までに英米などでは、テクノロジーの進歩によって週15時間労働が達成されるだろうとの予測を書いている。テクノロジーの観点からすればあきらかに達成可能なこの予測が実現されていないのは、なぜなのか。

 「消費主義の大幅な増大」のせいではない。つまり、テクノロジーの飛躍的な進歩にもかかわらず、労働時間の大幅な短縮がなされなかったのは、私たちが「労働時間をもっと少なく」ということよりも「おもちゃと娯楽をもっと多く」という選択肢を選んだことの結果ではない。グレーバーは、前世紀を通じて、工業や農業部門で自動化が進み、そこで働く人が劇的に減少する一方、「専門職、管理職、事務職、販売営業職、サービス業」にたずさわる働き手の数と比率が飛躍的に増加していることを指摘している。


 しかし、労働時間が大幅に削減されることによって、世界中の人びとが、それぞれに抱く計画(プロジェクト)や楽しみ、あるいは展望や理想を自由に追求することが可能になることはなかった。それどころか、わたしたちが目の当たりにしてきたのは、「サービス」部門というよりは管理部門の膨張である。そのことは、金融サービスやテレマーケティング〔電話勧誘業、電話を使って顧客に直接販売する〕といったあたらしい産業まるごとの創出や、企業法務や学校管理・健康管理、人材管理、広報といった諸部門の前例なき拡張によって示されている。(中略)

 これらは、わたしが「ブルシット・ジョブ」と呼ぶことを提案する仕事である。

 まるで何者かが、わたしたちすべてを働かせつづけるためだけに、無意味な仕事を世の中にでっちあげているかのようなのだ。そして、謎(ミステリー)があるとしたらまさにここなのである。資本主義においては、こんなことは起きようがないと想定されているのだから。[4-5ページ]


 市場での競争のメカニズムにおいては淘汰されるはずの無意味で役に立たない仕事がますます増殖しているという事態は、たしかに謎である。グレーバーは、ブルシット・ジョブが増大しているのは、政府の官僚機構よりもむしろ民間の企業の管理部門においてであることも指摘している[215-8ページ]。

 いわば、市場メカニズムなるものは均等に働いているのではない。現に、それが働いているとはとうていいえない領域があるのだ。


 企業による容赦のない人員削減がすすめられるなかで、解雇と労働強化がふりかかってきたのは、きまって、実際にモノを製造し、運送し、修理し、保守している人びとからなる層(クラス)であった。けれども、だれもまったく説明できない不思議な錬金術によって、有給の書類屋(ペーパー・プッシャー)の数は、結局のところ増加しているようにみえる。そして、ますます多くの被雇用者、気がつけば、ケインズが予測したように週15時間を効率的に働くどころか――実際には、ソ連の労働者たちと大して変わらず――週に40時間、あまつさえ50時間も書類作成にいそしみ、そして残された時間を自己啓発セミナーの開催や出席、Facebook のプロフィール更新、TV番組のボックス・セットのダウンロードに費やしているのである。[5ページ]


 グレーバーは「実際にモノを製造し、運送し、修理し、保守」するような「実質のある仕事(リアル・ジョブ)」を、ブルシット・ジョブと対比させている。本書では、後者がこれに従事する人に与える精神的悪影響が当事者の証言をもとに分析される一方で、前者の仕事やそれに従事する人が低い評価しか与えられないのはどうしてなのかということが論じられている。この2つを連続した問題としてとらえ論じているところが、本書の刺激的なところだ。以下も、小論「ブルシット・ジョブ現象について」の一節。長くなるが引用する。


 ここには深遠なる精神的暴力がひそんでいる。自分の仕事が存在しないほうがましだとひそかに感じているようなとき、かりそめにも労働の尊厳について語ることなど、どうしてできようか。深い怒りと反感の感覚を生み出さずに、どうしていられようか。とはいえ、その支配者たちが、人びとの怒りの矛先をまさしく意味のある仕事をする人たちへと仕向けることでうやむやにしてきた(中略)というのは、わたしたちの社会の奇妙な風潮である。たとえば、わたしたちの社会では、はっきりと他者に寄与する仕事であればあるほど、対価はより少なくなるという原則が存在するようである。くり返せば、[他者に寄与する仕事であるかどうかを評価するための]客観的な尺度をみつけることは困難である。しかし、なんとなく感じとるための簡単な方法はある。ある職種(クラス)の人間すべてがすっかり消えてしまったらいったいどうなるだろうか、と、問うてみることである。かりに看護師やゴミ収集人、あるいは整備工であれば、もしも、かれらが煙のごとく消えてしまったなら、だれがなんといおうが、その結果はただちに壊滅的なものとしてあらわれるであろう。教師や港湾労働者のいない世の中はトラブルだらけになるだろうし、SF作家やスカ・ミュージシャンのいない世界がつまらないものになるのはあきらかだ。ただ、プライベート・エクイティ〔特定の企業の株を取得し、その企業の経営に深く関与して、人員削減などによって企業価値を高めた後、売却することで利益を得る〕CEOやロビイスト、広報調査員、保険数理士、テレマーケター、裁判所の廷吏、リーガル・コンサルタントが同じように消え去ったとして、わたしたちの人間性がどのような影響をこうむるのかは、わたしにはあまりはっきりしない(いちじるしく改善するのではないかと疑っている人間は数多い)。にもかかわらず、もてはやされる一握りの例外(医師)を除いて、この原則はおどろくほど当てはまっている。

 さらにいっそう倒錯したことに、これが物事のあるべき姿だという感覚が広範に浸透しているようにみえる。これが右翼ポピュリズムの力強さのひとつの秘密だ。こうした感覚を、労働争議のさいにロンドンを麻痺させたとして、地下鉄労働者への怒りを複数のタブロイド紙が煽り立てた事例にみることができる。すなわち、地下鉄労働者がロンドンを麻痺させることができるというまさにその事実こそ、まさしく人びとを苛立たせた一因であるようなのだ。共和党議員が学校教員と自動車工に対する反感を動員することに反感を動員することにいちるしい成功をおさめてきたアメリカでは、それはいっそうはっきりしている(そして意味深なことに、この反感が、実際に問題を生じさせている学校管理者(スクール・アドミニストレータ―)や自動車産業の経営陣(エグゼクティヴ)に向けられることはなかった)。「だって、きみたちは子どもたちに勉強を教えることができるじゃないか! 車の製造ができるじゃないか! このうえ、あつかましくも中産階級なみの年金や医療まで期待するというのか?」と、いわんばかりに。[7-9ページ]


 ここであげられているような「実質のある仕事」に対する怒りや反感は、日本でもなじみのあるものだし、そうした怒りや反感を右派ポピュリストが扇動する光景も、たとえば大阪市長だった橋下徹の市バス運転手への攻撃(ググってみたら2012年のことだって。そんなに前の話だったか。運転手をその年収が高すぎると言って攻撃し、市バスの民営化を主張した)などが思い当たる。最近では、東京で若年女性を支援する活動をおこなっている団体Colaboに対する攻撃などが、同様の怒りと反感によって駆動されている事例としてあげられると思う。あきらかに有意義な仕事をしている人たちに対するこうした怒りや反感をいだく者たちは、その人たちが「分不相応に報酬なり利益なりを受け取っている」というフィクションに憎しみをつのらせている。「運転手のくせに」「慈善事業をやってるくせに」利益を受け取っている(ようにみえる)のはケシカラン、というわけだ。

 グレーバーは、「これらの影響[ブルシット・ジョブの普及の精神的・社会的・政治的影響]は、性質(たち)の悪い深刻なものだと、わたしは確信している。無益な雇用の罠にはめられたおかげで、社会で最も有益なことをおこなっている人びとや見返りを求めない仕事に就く人びとに対して、人口の大半が反感を抱いたり軽蔑してしまう社会を、わたしたちはつくりあげてしまった」とも書いている[23-4ページ]。

 このようにブルシット・ジョブの増殖と、「ブルシット」ではない仕事が低く評価され、それどころかそれに従事する人びとに反感・嫉妬がむけられるという事態を、連続した問題としてとらえた議論が展開されているところが、わたしには興味深かった。

 われわれは、わたしたちが想定しているほど利己的ではない。というか、他者にかかわってよき(と自分が考える)影響をあたえたいとか、自分だけでなくわたしたちにとって生きやすいように社会がかわっていくように働きかけたいとか、そうした欲求がわれわれにとってわりと本質的なのではないか、ということ。だから、ブルシット・ジョブに自分の人生の時間を浪費せざるをえない経験は、高い報酬をもらっていてもたえがたい苦痛をもたらしうる。

 ちなみに、本書では第1章をつうじて、「ブルシット・ジョブ」の定義をねりあげていく作業がなされているのだが、それは最終的にはつぎのように定義される。


最終的な実用的定義=ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。[27-8ページ]


 われわれにとって、自分のなしていることが「完璧に無意味で、不必要で、有害でもある」と考えざるをえないのはたえがたいことであって、だからこそブルシット・ジョブは「そうではないと取り繕わなければならないように感じ」られるものなのだろう。だからこそ、ブルシット・ジョブがブルシット・ジョブとして語られることは、グレーバーによって「ブルシット・ジョブ現象について」が書かれるまでは稀(まれ)だったのだろうし、それについて直接に語ることが抑圧されるからこそ、そのたえがたさは、「実質のある仕事(リアル・ジョブ)」に従事する者への怒りや反感としてあらわれるのではないか。そういった怒りや反感をむけられる側からすればたまったものではないが。

 もっとも、橋下の市バス運転手への攻撃に喝采を送ったり、ツイッターにかじりついてColabo攻撃にいそしんだりしている人たちというのは、ブルシット・ジョブに従事している人ばかりではない、というのもおそらく事実である。だから、問題なのは、実際にブルシット・ジョブに従事している、あるいは従事したことのある人だけではなく、もっと広く社会的に共有されてしまっているものの見方(「イデオロギー」と呼んでもよいだろう)なのだ。さらにいえば、重要なのは、そのものの見方を人びとが受け入れるのはなぜなのか、という問題である。

 さて、本書は、終わりの第6~7章でケア労働、そしてベーシックインカムをめぐる議論へと収束していく。これはとても示唆的だと思った。そうだよねー、やっぱそこを論じないとだよねー、という納得感があった、というか。

 ベーシックインカムについてはここでは立ち入らないが、ケア労働についてちょっとだけ触れておきたい。

 グレーバーは、第6章で「仕事それ自体に関する観念の変遷史を考察」しながら(考察されるのは西欧や北米の歴史なのだが、そこでの議論は日本における「仕事」観にも共通している部分がかなり大きいと感じられた)、われわれの仕事に関する観念にはケアリングの要素が欠落しているということを見いだしていく。

 さきのロンドンの地下鉄労働者の争議をめぐり、「公共交通機関の労働者たちが実際にはなにをやっているのか」[306ページ]にグレーバーは目を向けている。電車の遅延や事故、事件があったときの乗客への対応は、自動化・機械化するのが難しい仕事であろうが、これらをになっているのは労働者である。また、ロンドン地下鉄の労働者が削減された場合に大きな影響を受けるのは、障害をかかえていたり、ロンドンにうとかったり、小さな子どもや高齢であったりする乗客なのだ。


 このようにみるならば、地下鉄労働者が実際におこなっていることは、フェミニストが「ケアリング労働」と呼ぶものにかなり近いものである。それはレンガ職人よりも看護師の仕事のほうに共通点を多くもっているのだ。女性の不払いケアリング労働が「経済」についての説明から抜け落ちているのと同じように、労働者階級の仕事におけるケアリングの側面はみえなくなっている。ケアリング労働にかんするイギリス労働者階級の伝統は、労働者階級の生み出した大衆文化に表現されているといえるかもしれない。たとえば、労働者階級の人びとがたがいに励まし合う独特の身ぶりや様式、調子は、イギリスの音楽、コメディ、児童文学のうちにすべて反映されている。しかし、それ自体は価値創造的な労働として認識されていないのである。[307ページ]


 このように仕事におけるケアリングの側面が認識から抜け落ちることと、「実質のある仕事(リアル・ジョブ)」が低くしか評価されないという事態はつながっている。

 さらに、それはたんに認識の問題ではない。ケアリングという観点に着目することで、「実質のある仕事(リアル・ジョブ)」が低く評価され、軽蔑さえされるという現象がどのような社会的な関係性のもとで生じているのかという問題にも接近することができる。またまた長くなってしまうが引用する。

 「ケアリング労働」は、一般的に他者にむけられた労働とみなされており、そこにはつねにある種の解釈労働や共感、理解がふくまれている。それは仕事などではなく、たんなる生活、まっとうな生活にすぎないということも、ある程度は可能である。人間は元来、共感する存在であり他者とコミュニケーションし合うものであるがゆえに、わたしたちは、たえずたがいの立場を想像してそこに身を置き、他者がなにを考え、なにを感じているか、理解しようと努めなければならない。たいてい、こうしたことは、少なくともいくぶんかは他者に対するケアをふくんでいる――ところが、共感や想像的同一化が総じて一方の側に偏しているようなとき、それは多分に仕事(ワーク)となる。商品としてのケアリング労働(レイバー)の核心は、一方だけがケアをして、一方はしないという点にあるのだ。「サービス」(古い封建制に由来するこの語がいまも残存していることに注意せよ)に対価を払う人びとは、みずからは解釈労働に従事する必要がないと感じている。このことは、だれか別の人間のために働いているようなときは、レンガ職人にすらあてはまる。部下はたえず上司の考えていることを把握しなければならないが、上司は部下たちが考えていることを気にかける必要はない。心理学の研究においてしばしば示されるように、労働者階級出身の人びとが、富裕層出身はもとより中産階級出身の人びとよりも、他者の感情の理解や共感や配慮(ケア)に長じているのは、このためである。他者の感情を読むスキルは、いくぶんかは労働者階級の仕事の内容がもたらしたものである。要するに、富裕な人びとは解釈労働の方法を学ぶ必要がない。というのも、他人を雇い入れて解釈労働をやらせればよいからである。他者の考えを理解する習慣を深めなければならない雇われ人は、同時にその他者を気遣う(ケア)傾向にあるのである。[307-8ページ]


 社会が水平的でなく階級的に編成されているならば、ケアをたくさんしなければならない人間がいるいっぽうで、他人からたくさんケアを受けるが自分は他人をあまりケアする必要のない人間がでてくる。後者の人間は、他人をケアしないばかりではなく、自分自身のケアすら(他人にたくさんやらせるのだから)自分ではあまりやらないということになるだろう。

 こうして社会が平等でない、ということによって、人間のやっている仕事のケアリングの側面はますます見落とされ、「実質のある仕事(リアル・ジョブ)」はますます低くしか評価されない、という状況が強化されているのではないだろうか。

 引用ばかりしてますが、この読書ノートの最後も引用でしめます。


 ところがふつう、「生産的」であるということは、自動車やティーバッグ、医薬品などが、女性が赤ん坊を生産するのと同様の痛みに満ちた、どこかミステリアスである「労働」を介して工場から「生産される」という、魔術的変容のことを意味している。そして、労働の価値をそれが「生産的」であるかどうかで考えること、生産的労働の典型を工場労働として考えることは、こうした〔ケアにかかわる〕すべてを抹消してすませてしまうことである。さらにいえば、こういう発想があるから、工場所有者はいともたやすく、労働者は実際にはかれらの操作する機械となんら変わるところがないと考えることができるのである。これはあきらかに、「科学的管理法」と呼びならわされるようになったものが発展するにつれ、いっそう容易になった。だが、人びとが「労働者」と聞いて、料理人や庭師や女性マッサージ師を思い浮かべるようであれば、そのようなことは起こりえなかっただろう。[308ページ]


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