2024年10月29日

ゼノフォビアに迎合する玉木雄一郎

 

 おととい投開票がおこなわれた衆院選で国民民主党が躍進したようだ。

 党の代表の玉木雄一郎氏は、選挙の公示直前に「社会保障の保険料を下げるために」「尊厳死の法制化も含めて」「終末期医療の見直し」が必要だという趣旨の発言をおこなっている。前後の文脈からもあきらかなように*1、高齢者をスケープゴートにして若い世代からの支持をとりつけようという、さもしい発言である。

 玉木は、3年ほどまえには、外国籍住民を敵視する右翼に迎合するような発言をしており、このブログでも問題にした。


議論があることはかならずしもよいことではない――玉木雄一郎氏の人権否定発言について(2021年12月22日)


 今回の選挙で党の勢力が拡大してその影響力はますます軽視できなくなっているわけでもあるので、あらためて当時の玉木代表の発言をむしかえしておきたい。

 2021年12月21日、武蔵野市議会で住民投票条例案が否決された。外国人住民にも投票権を認めた条例案が成立しなかったことについて、玉木は「安心した」として、次のような発言をしたという(太字強調は引用者)。


 玉木氏は今回の住民投票条例案に関し「外国人の権利の保護を否定するものではないが、極めて慎重な議論が必要だ」と指摘。その上で「憲法に外国人の権利をどうするのかという基本原則が定められておらず、ここが一番の問題」との認識を示した。

 さらに、「まずは外国人の人権について憲法上どうするのか議論すべきで、そういう議論がなく拙速に外国人にさまざまな権利を認めるのは、極めて慎重であるべきだ」と強調した。

国民民主・玉木氏「否決され安心」 武蔵野条例案 - 産経ニュース(2021/12/21 17:40)】


 玉木はここで、論じるまでもなく自明なことについて、あたかも議論の余地がある「問題」であるかのように語ることで、その自明性を留保しようとしている。しかし、こんなことは議論の余地なく自明なのであって、論じるまでもない。「外国人の人権について憲法上どうするのか」などという問題にならないことをことさら問題にしようとすることこそが、問題である。

 「極めて慎重な議論が必要だ」? たとえば、女性の人権について、障害者の人権について、また外国人の人権について、どんな議論の余地があるというのか? それが議論の余地のある「問題」であるかのように語ること自体が、女性の、障害者の、外国人の権利を否定することにほかならない。

 上の産経の報道を受けて、玉木氏は自身のツイッターにつぎのように投稿している。


外国人の人権享有主体性については様々な意見があります。100%これが正しい、これが間違っているというものではありません。我が党としては、憲法上の位置付けをどうするかも要検討としています。だだ今回は民主的手続きを経て否決された以上、慎重に対応すべきでしょう。

玉木雄一郎(国民民主党代表) @tamakiyuichiro 午後6:51 ・ 2021年12月22日


 ここでも玉木氏は、「様々な意見があります」と言って、外国人が人権を享有する主体であるという自明に当然のことについて、留保しようとしている。

 こうした語り方は、卑怯でもある。玉木氏は、外国人が人権を享有する主体「ではない」とはみずから明言はしない。「外国人の権利の保護を否定するものではないが」などとも言ってみせる。

 でも、このお調子者は、排外主義的な世論にむけて、自分は外国人の権利について留保なく認めるべきだと考えるような人間ではないのだと、アピールしているのである。自分自身は差別主義者とのレッテルを貼られないように注意しながら。セコイよね。

 しかし、「同性愛者の人権享有主体性については様々な意見があります」などと語る人間を差別主義者と呼ぶのがなんらまちがいではないように、「外国人の人権享有主体性については様々な意見があります」と語る人間が差別主義者でないわけがなかろう。

 今回の選挙で、玉木と国民民主党は、「終末期医療」の過剰、あるいは「尊厳死」の不足が、若い世代を圧迫しているのだと考えるような人間たちの支持をとりつけ、自分たちの政治的な資源にしようとした。玉木はまた、外国人の人権など認めるべきでないと考えるような者たちに迎合し、これを自身の政治的な資源として取り込もうともしている。こういう政党が今回の選挙で躍進し、大きな影響力をもちつつあるという状況が、おそろしいです。



*1: 玉木の発言は、10月12日の日本記者クラブ主催の党首討論会でのもの。玉木は自身の発言が多くの批判を受けると、「日本記者クラブで、尊厳死の法制化を含めた終末期医療の見直しについて言及したところ、医療費削減のために高齢者の治療を放棄するのかなどのご指摘・ご批判をいただきましたが、尊厳死の法制化は医療費削減のためにやるものではありません」などと同日中に釈明した。しかし、以下のように玉木は明確に「社会保障の保険料を下げる」「医療給付を抑え、若い人の社会保険料給付(ママ)を抑える」という文脈のなかで「終末期医療の見直し」「尊厳死の法制化」に言及しており、釈明で言っていることは自身の元の発言とまったく整合しない。

 「社会保障の保険料を下げるためには、われわれは高齢者医療、とくに終末期医療の見直しにも踏み込みました。尊厳死の法制化も含めて。こういったことも含め医療給付を抑え、若い人の社会保険料給付を抑えることが、消費を活性化して、つぎの好循環と賃金上昇を生み出すと思っています」

 この玉木発言については、医師の木村知氏による以下の批判を参照してほしい。

玉木雄一郎代表の「尊厳死の法制化」発言に恐怖で震えた…現場医師が訴える「終末期の患者は管だらけ」の大誤解 「死なせてほしい」という意思はきっかけ一つで変わる | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)(2024/10/22 7:00)



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2024年10月25日

「被収容者の支援をしていたつもりが入管を支援していた」ということが起こりかねない

 

 自分みたいな者にそんな適性があるともあまり思えないのだけれど、支援者みたいな役回りをする場面が私にもある。

 そんな場面で気をつけるようにしているのが、支援はやりすぎにならないようにしたほうがよい、ということ。支援しすぎてしまうことの弊害というのは、たしかにある。それはたとえば、相手が自分でできることをうばってしまうということである。

 支援しようとする人は、相手が支援を必要としているとみなして、だから自分が支援しなければならないのだと考える。ただ、相手が「支援を必要としている」ということは、その相手が「無力である」こととイコールではない。けれども、支援をしよう、支援をしなければならないと考える人は、ここを混同して支援を必要とする人を無力な存在とみなしてしまうことがある。

 相手を無力な存在とみなしてしまうと、相手にもいろいろとできる可能性・能力があるということが、あまり見えなくなってしまう。それで、支援者は、相手のできることをかわりにやってしまう。結果として、支援者が相手の可能性・能力を発揮する機会をうばってしまうことになりかねない。ものごとを判断するとか、自身のすべきことを決定するとか、そういった可能性・能力を発揮する機会さえ、支援者がうばってしまうということが、おこりうる。

 でもまあ、「やりすぎ」にならないように、支援者が自分自身で抑制するのは、思いのほか簡単ではない。だからこそ、支援しようとするときは、その支援のありようについて、ややひいた立場からツッコミを入れてくれる人が近くにいてくれたほうがよいと思う。たとえば「あなたは『〇〇しなければならない』と言うけれど、そう思ってるのは(支援を受ける)相手の人? それとも(支援者である)あなた自身?」みたいな問いである。団体として、あるいは複数の人が連携して支援をおこなう場合は、そのときどきでだれかがこういうツッコミを入れる役割を買って出るようにするとよいかもしれない。


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 さて、いま述べてきたようなものとは別種の(しかし、関係するかもしれない)「支援のやりすぎ」もある。

 入管施設での面会活動などをやっていると、そこに収容されている人から、衣料品や衛生用品の提供を要請されることがある。夏に収容された人が収容が長引くなかで冬用の服が必要になったりするし、歯ブラシや石けん、シャンプー、洗濯洗剤などは、ないと困るものだ。でも、支援者が費用を負担してこれらを差入れしてしまうのは、おかしいと言えばおかしい。だって、本来的には、これらは収容して自由をうばっている入管が責任をもって被収容者に提供すべきものでしょう。入管のすべき仕事の肩代わりを支援者がするのはおかしい。

 一応、最低限の衣服や衛生用品を用意できない人に対しては、入管がそれらを提供することにはなっているのだけれど、あれこれ理由をつけて十分にやらず、実際問題として足りないので支援者がこれをおぎなうということがある。

 衣類などは入管が提供することがあるぶんまだマシだが、より深刻なのが被収容者の通信費の問題である。日本の入管施設は、被収容者を監禁したうえに、携帯電話を取り上げて使用を禁じ、インターネットに接続した端末もいっさい使わせない。収容された人にとって、外部に連絡する手段は、郵便とバカ高い公衆電話(国内通話で携帯電話にかけて1,000円で14分しか話せない)ぐらいしかない。収容する側(入管)が、無制限にとはいかなくても、一定の範囲で費用を負担して被収容者の通信の機会を保証すべきだろう。

 ところが、入管が本来ならば果たすべき責任を果さないでいるために、支援者がこれを肩代わりせざるをえない場面が出てくる。弁護士会に連絡したいけれど所持金がほとんどないからできない、とか。そういったときに、仲間の被収容者や外部の支援者が電話カード代を援助する。

 こういった支援は、ボランティアの支援者が本来やる必要がないことをしてしまっているという意味では、過剰な支援であり、「やりすぎ」と言える。もちろん、衣服や石けん、電話代や切手など被収容者にとって切迫した必要性があるから私たちも差し入れることがあるのだけど、その「必要性」は入管の不作為によって作り出されたものだ。

 こうして入管の不作為が作り出した「必要性」をおぎなうということを支援者が無批判に続けていると、結局のところ、入管施設の劣悪な処遇を固定化することにすらなる。劣悪な処遇や人権侵害に対しては、当然ながら被収容者から抗議や改善要求が起こるものだ。抑圧や侵害が引き起こす当事者の抗議・改善要求に対して、連帯してともにたたかうのが支援者の本来的な役割だと私は思うけれど、入管に対しては無批判なまま、不足している衣服や歯ブラシや電話代を差し入れるということだけやっていては、それは入管の収容施設運営を助けることにしかならないのではないか。

 もちろん、衣料品や衛生用品、通信手段の援助をすることがわるい、ということではない。それをするにしても、入管の収容施設運営に対する批判や抗議も同時にしたほうがよいし、すくなくとも、(この文章の前半で述べた文脈にひきよせて言うなら)被収容者がもっているはずの、抗議や要求を通して状況をみずから改善していく能力や可能性をうばわないようにしたい。


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 いま述べてきたような問題が、入管施設の処遇の問題にとどまるならば、(もちろんそれも重要だけれども)いちいちブログで書くほどのことでもないかもしれない。しかし、6月の改悪入管法施行にともなって創設された監理措置制度において、上にみたようなのとも似た構造の問題が、はるかに深刻なかたちで生じつつある。

 監理措置は、退去強制手続き中の、また退去強制処分を受けた外国人の収容を(一時的に)解除して、収容施設の外での生活を(さまざまな制限をつけたうえで)認める制度である。収容を解いて外での生活を認める措置としては、従来から仮放免というものがあるが、今回の法改定でこの仮放免制度は維持しつつ、監理措置があらたに創設された。

 くわしい話をするとややこしくなるので今回はしないけれど、6月以降、入管は重病人以外は仮放免を許可しなくなっている。したがって、現に収容されている人たちからすると、日本から出国する以外で収容から解放されるためには、監理措置を申請するしか方法はないと思わされてしまうような状況になっている。ところが、この監理措置は非常に問題の大きな制度であって、これが定着すれば、仮放免者をはじめ非正規滞在の外国人への締め付け・圧迫が今まで以上に強くなるのは確実である。

 このブログで何度も書いているとおり*1、入管の収容は「劣悪」とかそういう形容ではまったく足りないような、出国強要を目的とした「拷問」であって、しかもそれを法務大臣も入管幹部もまったく隠そうとすらしていない。そういう拷問施設からどんなかたちであれ一日でも早く解放されたいということは、被収容者にとって切迫した必要性だったりする。なので、被収容者が監理措置申請できるようにみずから「監理人」を引き受けようという支援者が出てくることは、不思議ではない。

 しかし、ボランティアの支援者が無批判に「監理人」を引き受け、監理措置が新しい制度として定着していくと、どういうことが起きるか? そこはよくよく考え、当事者とも話し合わなければならない。

 ということで、その問題については、今度あらためて書きます。



追記(2024年11月10日)

最後に予告していた監理措置と監理人にかんする記事を公開しました。

支援者を人権侵害の共犯者にする 監理措置制度のやばさ(2024年11月10日)


*1: 以下の記事などを参照。

2024年10月10日

収容によりあなたが受ける不利益を考慮しても


 6月10日から、昨年成立した改悪入管法が施行されています。難民申請が3回目以降の人の強制送還が可能になったなど、非常に問題のある改悪です。

 仮放免制度とはべつに、収容解除のためのもうひとつの制度としてあらたに創設された監理措置も、ここではくわしく書かないけれど*1、深刻な人権侵害をもたらすだろうことが危惧されます。

 ただ、新法ではこの監理措置や仮放免について、不許可の場合には申請者に書面でその理由を示すことになりました。入管がどんなふうに理由を書いてくるんだろうか。そこは気になるところです。

 で、私が大阪入管で面会している被収容者のひとりが、監理措置を申請していたのですが、その人が「不決定」の通知をもらったので、その文書を見せてもらいました。「監理措置決定をしない理由」として、つぎのように書かれていました。


●●●●氏が監理人になろうとしていることを考慮しても、あなたには逃亡及び不法就労活動をするおそれが相当程度認められ、収容によりあなたが受ける不利益の程度その他の事情を考慮してもなお、あなたを送還可能のときまで収容しないことが相当とは認められません。


 他のケースを知らないのですが、おそらくこの不決定理由は定型文で、不決定通知を受け取った他の人たちも同様の「理由」を入管から示されているのではないでしょうか。

 しかしまあ、なんというか、すごいこと書いてますよね。「収容によりあなたが受ける不利益の程度その他の事情を考慮しても」とか書いてますが、入管の役人たちはその「不利益」がどういうものだと考えているのか。というか、まじめにそれを考えたことが少しでもあるのだろうか。

 人を拘束して自由をうばうということが、どれほど重大なことなのか。それは一日であれ大変なことです。ましてや、半年とか、あるいは年単位で人間を拘束するということは、きわめて重大な人権侵害であって、それ相応の理由がなければゆるされるものではない。

 入管での収容は、近年よく知られるようになりましたが、その期間の上限が決まっていません。無期限収容というやつです。事情があって帰国できないという人にとって、いつ出られるのか、見込みがたたない。しかも、刑罰などとちがって、なんのために自分が拘束されているのか、納得できるような理由などない。意味のわからない拘束が、いつまでとも知れず続く。強制送還されるのではないかという恐怖もストレスになる。

 こういう環境で閉じこめられ、自由をうばわれていれば、人間はそう時間をかけずに心身がおかしくなります。

 ところが、入管は言う。「あなたには逃亡及び不法就労活動をするおそれが相当程度認められ、収容によりあなたが受ける不利益の程度その他の事情を考慮してもなお」収容をこのまま続けるのが相当と判断したのだ、と。

 たかが、「逃亡」だとか、「不法就労活動」だとか、それしきの「おそれ」があるから、閉じこめておくのだ、というのです。「逃亡」や「不法就労」でだれか傷つく人でもおるの? そんなくっそくだらない理由で、人間の心身を破壊してもよいというの? 完全に軽重の判断が狂っているとしか言いようがないわけだが、こういう人間たちが権力ふるってるのは、ほんとうにおぞましいことです。うんこ。




*1: 監理措置の問題性については、以下の記事で述べています。

 監理措置は、従来からある(6月に施行された改悪入管法でも、変更点はありつつも一応維持されている)仮放免とおなじく、退去強制手続き中の人、あるいは退去強制処分を受けた人の収容を一時的に解除する措置です。

 しかし、仮放免に対して監理措置の特異性は、収容を解かれた外国人(「被監理者」)をスパイする役目を民間人(「監理人」)に負わせる、というところにあります。上にリンクした「監理措置とはなにか?〈3〉」で、監理人に課される報告義務について書いたことを、抜粋・再掲しておきます。

 このように、監理人に被監理者の生活・行動を日常的に監視させて入管に報告させ、被監理者がアルバイトして報酬を受け取ったり監理措置条件への違反があったりすればそれを入管にたれ込めと要求するのが、この監理措置制度です。

 従来の仮放免制度においても、入管は「動静監視」と称して、仮放免者の生活・行動を調査し把握しようとしてきました。この「動静監視」を民間人である監理人にも一部アウトソース(外部委託)しようというのが、監理措置制度であると言えるでしょう。監理人は被監理者をスパイする役割を負わされることになります。

 被監理者にとってみれば、家族や友人、あるいは支援者や弁護士など、自分を支援する立場の人間をつうじて、自身の行動を監視・監督されるということです。自分にとって身近な存在、しかも自分に必要な生活上の資源や情報を提供してくれる者から見張られるとなれば、ある面では入国警備官に監視される以上にその監視の強度は高くなるでしょう。

 入管の視点からいえば、被監理者に対する支援者らの親密さや信頼関係を資源として利用することで、より強度の高い監視・管理をおこなおうというのが、監理措置制度を創設した意図としてあるでしょう。入管という組織を動かしている連中の反社会性、邪悪さがよくあらわれています。