2021年4月7日

伊是名夏子氏への不当なバッシングについて


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1.車いすユーザーが負担させられている労力と時間


 コラムニストの伊是名夏子(いぜな・なつこ)さんが電車で乗車拒否をされたことをブログに書いている。


JRで車いすは乗車拒否されました : コラムニスト伊是名夏子ブログ


 車椅子ユーザーである伊是名さんが、公共交通機関を使って行きたいところまで移動しようとすると、乗車拒否がなかったとしても、大変な労力と時間をかけなければならないのだということが、わかる。車いすや杖などの補助具を使わずに歩いている私にとって、かけなくてすんでいる労力と時間である。


 事前に目的地の駅の構内図をインターネットで確認する。駅に30分前には着くように早めに家を出る。乗り換え駅や目的地の駅にエレベーターがなければ、駅員に話をして移動の支援を依頼する。こういった負担が、私にはかかっておらず、伊是名さんたち車いすユーザーにはかかっている。


 しかも、この件では伊是名さんは、エレベーターの設置されていない駅での移動支援を当初は鉄道会社から拒否されたため、本来しなくてもよいはずの交渉にも時間と労力をかけなければならず、乗る電車を予定よりも遅らせざるをえなかった。


 そこで伊是名さんがおこなったような、鉄道会社と話をし、マスコミに話をし、ブログを書くことなどもふくめた、現状を問題化して差別をなくしていくための取り組みは、本来は社会全体でになわなければならないことのはずだ。しかし、そうした現状をただすための労力やコストの点でも、差別による不利益をこうむっている伊是名さんたちに大きな負担がかかかっている。それはつまり、車いすユーザーでない人びとの多くが、本来であれば負担しなければならないコストをはらっていないということでもある。




2.膨大な差別リプライ


 さて、この乗車拒否の経緯をブログで公表した伊是名さんのツイッターには、膨大な数の差別的なリプライがよせられている。


https://twitter.com/izenanatsuko/status/1378535246841274371

https://twitter.com/izenanatsuko/status/1378535246841274371/retweets/with_comments


 引用はさけるが、私が読んでいてもかなりしんどく感じる内容のリプライが大量についており、これらの言葉を直接むけられている伊是名さんらの心痛はいかほどかと思う。


 大量のリプライを読んでいくと、つぎのような内容の文句がくりかえし出てくる。


  • (伊是名氏が)感謝の気持ちを述べていないのが気に食わない。
  • 電話などで事前に確認・依頼したうえで駅・電車を利用すべき。
  • 世話されるのが当たり前だと思っているようにみえてむかつく。
  • こんなクレーマーみたいなやり方では伊是名氏や障害者の味方は増えない。
  • 予算や人員にはかぎりがあるのだから、要求がとおらないことがあるのは当たり前。


 こういった内容のリプライ群のなかに、身体障害者だけでなく知的障害者や精神障害者に向けられた差別的文言、あるいは人種差別・民族差別の常套句が多数まじっており、さながらヘドロのような腐臭を発するような状況になっている。


 これらのリプライをのこしていく者たちに共通する感情がどのようなものなのか察するのは、そうむずかしくはない。この人たちには、伊是名さんや障害者が社会から「特別な配慮」を受けているというふうにみえていて、だからそれにふさわしいふるまいをせよと言いたいのである。「特別に」支援してもらっているのだから、それがさも当然であるかのように「感謝しない」のは気に食わないし、「当然ではない」「特別な」ことを駅員などにやってもらうのだから、事前に連絡して相手の都合を確認すべきだ、というわけである。


 また、この人たちの考えでは、障害者が電車に乗って行きたいところに旅行するのは「特別な配慮」によって可能になるものなのだから、それを実現するためには多数者を「味方」につけるようにふるまうのが障害者のとるべき戦略だということになる。それをあたかも「当然の権利」であるかのように主張するのは「クレーマー」とおなじである、と。




3.健常者は自分が「配慮」されていることを意識しない


 しかし、障害者を「特別な配慮」を受けている人、あるいは「特別な配慮」を必要とする人とみる見方は、正しいのだろうか。


 それについて、十何年か前に読んで目からうろこの落ちるような思いをした文章がある。石川准(いしかわ・じゅん)さんの「本を読む権利はみんなにある」(『ケアという思想』岩波書店、2008年)というものだ。2006年に国連総会で採択された「障害者の権利条約」を受けて、視覚障害と情報アクセスの平等について考察されている文章である。


 石川さんは、この条約をつらぬく「合理的な配慮」(reasonable accommodation)という考え方について、つぎのように説明している(93-4ページ)。


 多くの人は「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」と考えている。しかし、「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」というようには言えないだろうか。


 たとえば、駅の階段とエレベーターを比較してみる。階段は当然あるべきものであるのに対して、一般にはエレベーターは車椅子の人や足の悪い人のための特別な配慮と思われている。だが階段がなければ誰も上の階には上がれない。とすれば、エレベーターを配慮と呼ぶなら階段も配慮と呼ばなければならないし、階段を当然あるべきものとするならばエレベータも当然あるべきものとしなければフェアではない。実際、高層ビルではエレベータはだれにとっても必須であり、あるのが当たり前のものである。それを特別な配慮と思う人はだれひとりいない。と同時に、停電かなにかでエレベータの止まった高層ビルの上層階に取り残された人はだれしも一瞬にして移動障害者となる。


 大きな会場でのセミナーではマイクとスピーカーが用意される。配布資料を用意するように求められることも多い。プロジェクタを使ってスライドを見せることも当たり前のこととなってきた。マイクの準備を怠って、聴力レベル〇デシベル周辺のいわゆる健聴の人たちにとっても話が聞こえにくい場合には、主催者の失態とみなされる。配布資料もなく、スライドもないというようなセミナーは手抜きということになる。一方、聴覚障害者やろう者のために要約筆記や手話通訳を用意するシンポジウムや講演会はきわめて例外的だ。点字の資料が出てくることはさらに稀だ。だが、もしそれらが提供されるセミナーであれば、障害者に配慮したセミナーであるとされる。当然あるはずのものがないときと、特別なものがあるときの人々の反応はまったく違う。


 要するに、障害は環境依存的なものだということである。人の多様性への配慮が理想的に行き届いたところには障害者はおらず、だれにも容赦しない過酷な環境には健常者はいない。そして中間的な環境には健常者と障害者がいる。そしてそのような中間的な環境では、多数者への配慮は当然のこととされ、配慮とはいわれないが、少数者への配慮は特別なこととして意識される。だから、障害者の権利条約における合理的配慮とは、配慮の不平等を是正するための「必要かつ適切な変更及び調整」という意味であり、過度な負担とはならないにもかかわらず、配慮の不平等を容認、放置することは差別であると明確に規定しているのである。


 障害者の受けている「配慮」(という言葉が適切かどうかはわからないが)は「特別な配慮」としてことさら強く意識されるいっぽうで、健常者はみずからが「配慮」されていることを自身の意識から消しがちだ。さきにみた伊是名さんへの大量の差別リプライにあらわれていたものこそ、こうした意識のありようだった。




4.予算や人員にはかぎりがあるから?


 伊是名さんの今回の行動やブログでの発言を非難するリプライのなかには、障害者の移動を支援するための予算や人員にはかぎりがあるのだから、声高に主張し要求するのには違和感をおぼえるというようなものもあった。でも、予算も人員もこれまで健常者のためにこそ圧倒的に手あつく割かれてきたのである。車いすでは通れない道路をつくるのにどれほどのコストがかけられてきた(いる)だろうか。ところが、もっぱら健常者だけのためにふんだんにつぎこまれてきた予算や人員は、「ムダなコスト」として意識にのぼることがすくない。反対に、障害者に使われようとする予算や人員ばかりが、レンズで拡大されたように私たちの注意をひきやすいのである。


 予算や人員にかぎりがあることは、配慮の不平等を容認・放置する言いわけにはならない。予算や人員を考える以前に大事なのは、私たちがどのような社会をつくっていこうとするのかという理念なのだと思う。差別・不平等をひとつひとつ解消していき、すべての人の移動の自由、それぞれの人の必要とするものや情報へのアクセスが平等に「配慮」される社会をめざすのか。それとも、いまある差別・不平等をいろいろと口実をつけて放置し容認するのか。私は前者をめざすことをえらびたい。


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