2025年8月24日

【韓ドラ感想】愛はビューティフル、人生はワンダフル


 最近みた韓国ドラマについて。


愛はビューティフル、人生はワンダフル | サンテレビ


 ドラマは立体的につくられていて、どの登場人物に注目するかによって、ちがった見え方がするのだろうけれども。私は、過去に加害行為をおこなった2人の人物に注目することで、興味深く見ることができた。

 ひとりは、裁判官のホン・ユラ。彼女は、自分の息子が老婆をひき逃げした証拠を隠滅し、その罪を他の少年におっかぶせる。老婆は亡くなり、息子は罪の意識にたえられずに自殺する。

 しかし、ホン・ユラは、息子の死が自殺によるものであることを知らない。ちょっとややこしい経緯があって、息子の死は川に落ちた少女を助けようとしておぼれた事故死として処理される。ホン・ユラはそこに疑念をいだくのだけれども、息子の死を「義死」として受け入れることにする。

 ここには自己欺瞞がある。彼女は、自身の行為が息子を自死へと追い込んだのではないかという可能性に当然ながら思いいたらずにはいられないのだが、息子の死を名誉の死だと思い込むことで、その可能性を打ち消そうとするわけである。

 このあたり、他国に対する侵略戦争にかりだして殺人と戦死を強(し)いた兵士を「英霊」などといって神格化する日本人の醜悪な姿のカリカチュアを見せられているように思えて、私にはなかなかきつかった。

 ドラマに登場するもうひとりの加害者は、ムン・ヘラン。彼女は高校時代に同級生(このドラマの主人公であるキム・チョンア)をいじめて、自殺未遂に追い込んだ人物である。9年たってムン・ヘランは被害者のキム・チョンアと期せずして再会してしまうが、自身の過去の加害を反省し、被害者に謝罪することができない。



 加害者が自分の罪に向き合ってつぐなおうとしないことで、被害者はもちろんのこと、加害者のまわりの人間も傷ついていくことになる。

 このドラマでは、2人の加害者が最終的には自分のおかした罪と向き合っていこうとするのだが、そこにいたる2人の葛藤・変化とともに、そのコミュニティの人間(家族)が加害者にどう関わっていくべきなのかという課題が提示されている。

 たとえば、裁判官ホン・ユラに対して、もうひとりの息子のク・ジュンフィ(自死した息子の兄にあたる)が寄りそいつつ、罪をつぐなうようにうながす。身内というのは、加害者にとって、自身の罪にふたをして向き合わない口実にもなる存在である(「自分の息子に自分の恥を背負わせたくない」などと言って)。しかし、ク・ジュンフィはそうやって母の共犯者に自身がなることをよしとせず、母が自身の罪を社会的に告白・公表し、被害者(息子のひき逃げの罪をきせた相手)に謝罪することを決意するのを、かたわらで待ち続け、ささえようとする。

 こういうふうに、加害者が時間をかけながらも変化し罪にむきあうことを、周囲の人間が支援していく過程がえがかれていて、娯楽作品としてそんなドラマがつくれるのはすごいなと感心してしまった。というか、現代の日本でこんな作品はだぶん作られることがないよね、というところにあらためて気づかされてしまった。社会全体で自国政府と自国民の加害の歴史にふたをしようと強迫的になっていることが、どれほど深刻にこの社会をこわしてしまっているのか、考えずにはいられない。



 というわけで、トータルな感想としては、とてもいいドラマを見せてもらいました、なのですけれど。ネガティブな感想も2つほど述べておきます。

 ひとつは、恋愛(男と女の)の要素が過剰で、それがドラマにおいてノイズに私には思えたこと。とくに主人公のキム・チョンアについて。彼女はホン・ユラの息子の自死に立ち会ってしまった人物で、それゆえにホン・ユラにとっても、またそのもうひとりの息子であるク・ジュンフィにとっても、のちに重要な役回りを果たすことになる。で、ドラマでは彼女をク・ジュンフィの恋人として登場させているのだけど、そこは恋愛的な要素ぬきの「友人」とかではダメだったわけ? という違和感はおぼえた。ドラマの中で彼女の果たした(果たしうる)役回りは、恋愛的な情緒に回収してしまうべきでない要素が多分にあるように思えたので。

 もうひとつは、高校生時代にそのキム・チョンアをいじめていたムン・ヘランをめぐって。自身の過去の加害行為に向き合おうとしない彼女に対して、その兄と父親がそれぞれビンタをするシーンがある。男性(父・兄)から女性(娘・妹)に対する暴力が、教育的指導的な目的でふるわれているからといって肯定的にえがかれてしまうのは、よくないと思った。


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