トイレに落書きしたぐらいで、逮捕されて報道されるなどということは、ふつうはありえない。
皇居内トイレに落書き疑い 一般参賀中、男逮捕―皇宮警察:時事ドットコム(2025年01月02日16時13分)
なぜ警察が逮捕したうえにわざわざマスコミに情報を流して報道させるのかといえば、落書きしたのが皇居内のトイレだからだ。わかりきったことだ。
公園のトイレや堤防の壁などに落書きをして同じように逮捕され報道されることがあるかといえば、あまり考えられない。たしかに建物などの所有者や管理者にとって落書き被害が深刻なほどになれば、警察に被害届を出すことはあるだろう。その結果、落書きした人が罰せられるということはありうる。この場合、罰せられたり逮捕されたりするのは、べつに政治的な理由からではない。
でも、皇居内トイレの件は、そういうのとはあきらかに違う。皇居内でやったから、警察は逮捕したのだし、また警察から情報提供を受けたマスコミもいちいち記事にしたのだろう。いわば「不敬罪」が生きているということ。「不敬」とみなされることをしたら、つかまるんだぞ! 警察はそういう警告として逮捕の事実をマスコミに流し、マスコミもほいほいとこれを記事にする。
この件は、時事通信のほか、NHK、フジテレビ、日本テレビなどが報道しているのをみたが、逮捕された人がどうなったのか、その後の経過はおそらく報じられないだろう。かくして、私たちの記憶には、皇居のトイレにいたずらをした人がいて、その逮捕されたという事実だけがなんとなく残る。
天皇や皇族どもは、アイドルのような存在とも類比されるけれど、両者のあいだには根本的なちがいもある。アイドルの人気は(私はよくわかっていないかもだけど)、暴力や脅迫によってささえられているわけではない(ですよね?)。でも、天皇や皇族は、一部の人民たちから敬愛のような感情をいだかれているとしても、そこには暴力や脅迫が介在している。
「不敬」とみなされる行為に対しては、たんに「不敬」だという理由によって(ほかに思い当たるような理由はない)身体を拘束されたりする。私たちは今回のような報道をとおして、タブーが侵犯され、その報いとして侵犯したものが罰せられるという劇を見させられている。こうして、私たちはそこにタブーがあることを学習させられる。
客観的な事実として、天皇・皇族の地位と権威が、国家の暴力と右翼のテロによって支えられているのは、いちいち例をあげるまでもなくあきらかだ。連中は、自分たちにはなんの権力もありません、我が国と世界の人々の幸せを祈ることがわたしにできることのすべてです、みたいな顔している。しかし、連中が主観的にどう思おうが、「不敬」なやつらをかわりにとっちめてくれる警察組織や右翼たちの汚れ仕事のおかげで天皇や皇族としてのほほんと生きていけているのである。そうじゃなきゃあんなのとっくに打倒されてるよ。
天皇らに敬愛の感情をいだく人がおおぜいいるのだとしても、その「敬愛」は、「不敬」をはたらけば罰してくるような相手に対する感情である。それを「敬愛」と思うのもその人たちの勝手だけれど、暴力と脅迫に屈しているのを、まるで自発的に相手に従っているかのように合理化しているにすぎない。
というわけで、天皇や皇族がいる国はろくなものじゃないですね。とはいえ、国家の暴力機構にはひとりで立ち向かえるものでもない。心のもちようでどうにかなるものでもない。こわいものはこわい。こわがってる自分(たち)とむきあいながら、ゆるりとおたがいつながっていけたらよいなと思います(正月気分がまだぬけないので、新年の抱負っぽくまとめてみました)。
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