参議院本会議での入管法改定案の審議で、梅村みずほ議員(日本維新の会)が支援者を攻撃する発言をしたことが話題になっています。
「支援者がウィシュマさんに淡い期待させた」 維新・梅村氏が発言 [維新]:朝日新聞デジタル(2023年5月12日 20時30分)
梅村発言に対してはSNSなどでもすでに多くの批判がなされているようですが、私としても思うところがあるので、いくつか書きとめておきたいと思います。
梅村議員は、法務大臣への質問としてつぎのように述べています。以下にしるした梅村氏の発言は、リンク先の動画から文字起こししたものです(23:11あたりから)。
つぎに入管被収容者に対する支援のあり方についておたずねします。医師の診療情報提供書や面会記録等をふくめた資料とともにウィシュマさんの映像を総合的に見ていきますと、よかれと思った支援者の一言が、皮肉にも、ウィシュマさんに「病気になれば仮釈放してもらえる」という淡い期待をいだかせ、医師から詐病の可能性を指摘される状況につながったおそれも否定できません。自分が何とかしなければという正義感や善意からとはいえ、なかには一度も面識のない被収容外国人につぎからつぎへとアクセスする支援者もいらっしゃいます。難民認定要件を満たしているのに不当に長期収容されているのではないのか、弱い人を救いたいという支援者の必死の手助けや助言は、場合によってはかえって、被収容者にとって、見なければよかった夢、すがってはいけない藁(わら)になる可能性もあると考えますが、法務大臣はどのようにお考えでしょうか。[太字強調は引用者]
梅村氏の発言を検討するまえに、確認しておくべきことが一点あります。それは、入管は入管法という法にもとづいてであれ、ウィシュマさんを収容し、その自由をうばっていたということです。ウィシュマさんは、施設に監禁されて、自分の意思で行きたいときに病院に行くこともできず、診療先の病院や医者を選ぶこともできませんでした。したがって、入管は自分たちが収容しているウィシュマさんに適切な診療を受けさせ、その命と健康を守る責任を負っていたということになります。
一方、ウィシュマさん本人にも、支援者にも、その力はありませんでした。もし収容(=監禁)されているのでなければ、ウィシュマさんは自分の意思で病院に行き、希望していた点滴治療を受けることができたでしょうし、支援者もウィシュマさんを病院に連れていくこともできたでしょう。しかし、入管がウィシュマさんを収容していたため、ウィシュマさん本人も支援者もそれができませんでした。そして、唯一、ウィシュマさんに適切な医療を受けさせる権限・能力をもっていた入管が、その責任をはたさなかったために、ウィシュマさんは命を落としたのです。
それが、なんですか、この梅村さんの言いようは。権限・能力のあった入管の責任を問うかわりに、その権限・能力がなく、ウィシュマさんの入院と点滴治療を入管に求めるしかなかった(そして実際にくり返し求めた)支援者に責任を転嫁するとは、あべこべにもほどがあります。権力を持ってる者にはとことん甘く、それを批判する者にあべこべに責任を転嫁するのは、いかにも右翼の維新らしい卑怯な詭弁です。
ただ、わたし自身、支援者のはしくれのそのまたはしくれぐらいのことをやってますけれど、梅村氏の発言において支援者が攻撃されている点は、まだガマンできます。支援者攻撃以上に注目しなければならないのは、梅村氏がウィシュマさんについて、また被収容者について、何を言っているのかということです。
梅村氏は「淡い期待をいだかせ」と言っています。ウィシュマさんに「淡い期待」をもたせたのが問題だ、わるかったのだと言うわけです。「被収容者にとって、見なければよかった夢、すがってはいけない藁(わら)」とも言っています。拘束を解かれて施設から出たいという希望が「見なければよかった夢」? 何を言っているんだ、この人は。
わたしは支援者のはしくれとして、国に帰れば命の危険があるから帰れないという被収容者に多く出会ってきました。送還されれば家族と離ればなれになってしまうという人、送還先の国が知り合いもおらず見知らぬ国だという人とも、たくさん会ってきました。「帰れ」と言われても帰れない。あるいは日本で生まれ育ったから「帰る」とすれば帰る先は日本しかない。そういう人たちが、送還されるのではなく、不自由な仮放免状態であっても施設の外に出て暮らしたいというのは、いだくべきでない「淡い期待」であり、「見なければよかった夢」だと言うのか。
梅村氏が言っているのは、「淡い期待」「夢」などもたずに、さっさと帰国しろということです。しかし、ウィシュマさんは元交際相手の暴力をおそれ、帰ることはできないとうったえていたのです。ようするに、梅村議員が「期待」「夢」なんかみるなと言うのは、お前なんか死ねと言っているのにひとしい。梅村氏は「すがってはいけない藁(わら)」などとほざいてますが、帰国すれば殺されるかひどい暴力を受けるかもしれないと言って藁にもすがろうとしていたのを、それは「すがってはいけない藁」だと言い放っているのです。「死ねばいい」と言ってるのとなにがちがうんですか。「すがってはいけない藁」だと言うなら、「すがってもよい浮き輪」をどう投げてやれるのかということを、ふつうだったら考えようとするものだけど。しかし、梅村氏が言うのは、「藁なんか投げずに、おぼれるにまかせよ」ということです。どうかしてます。
ところが、この維新梅村氏の発言は、収容や送還をめぐって入管が言ってきたこと、また実際にやってきたことを少しも逸脱するものではありません。だから、その意味ではわたしにはあまりおどろきはありませんでした。入管がいつも言い、やってることだ、と。
ウィシュマさんが亡くなったのは2021年の3月6日です。奇しくもその前日、当時の上川陽子法務大臣は、記者会見でおどろくべき発言をしています。わたしは、この発言をあちこちで引いて話をしてまして、このブログでとりあげるのも何度目かよくわからないぐらいですが、しつこくこの話をするのは、この法務大臣の発言に体のふるえるほどの怒りをおぼえているからです。
2点目の収容期間の上限を設けるということについてでありますが,収容期間の上限を設けますと,送還をかたくなに忌避し,収容期間の上限を経過した者全員の収容を解かざるを得なくなるということになります。また,収容を解かれることを期待しての送還忌避を誘発するおそれもあるということでありまして,適当ではないと考えたところでございます。
このとき、いま参議院で審議されているのとほぼ同じ内容の入管法改悪案が国会に出されていたのですが、収容期間の上限を設定しないのはどうしてなのかという趣旨の記者の質問に対する上川大臣の答えが、上に引用した部分です。
「収容を解かれることを期待しての送還忌避を誘発する」のだと上川氏は述べています。たとえば6か月以上は収容できないと法律に書きこむと、被収容者が「収容を解かれることを期待」するからダメなのだと。よくもこんなことを記者会見で言える(入管の役人の書いた原稿を「読んだ」のでしょうけど)ものだと思います。
上川氏が、あるいはその原稿を書いた役人がここで正直にゲロってるとおり、「期待」「希望」「夢」をみさせない、あるいはそれを徹底的に打ち砕くために、入管は収容(=監禁)という措置をもちいています。なんとか収容を解かれて施設の外に出たい。その「期待」をもたせないために、収容期間の上限はあえてさだめない。そうして「淡い期待」を粉砕することで、帰国を強要するということをやっているのが、入管の収容施設です。
「人間を絶望させる」ということ。それは入管にとっては、許されざるべき悪徳ではなく、収容施設に組み込まれた(組み込まれるべき)必要な機能だというわけです。「淡い期待? そんなもんぶちやぶってやればいいんだよ」「おぼれそうな人間に藁なんか投げるなんて、かえって本人がかわいそうじゃん。ほっとけばいいのに」というようなことをべらべらしゃべってるのが、入管の幹部役人であり、法務大臣であり、いま出されている入管法改悪案に賛成している梅村氏のような議員なのです。およそ倫理観のぶっこわれた連中であって、こんな人たちが成立させようとしている法案は廃案一択です。おぼれそうな人がいたら助けるもんだろうよ。私はそういう社会にしたいよ。
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