2021年12月19日

「どうして逃げるんですか?」


【ふりがなを つける】(powered by ひらがなめがね)

 


(1)


 警察官の職務質問というやつ。クソうざいですよね、あれ。


 法律では職務質問はあくまでも任意で、警官が質問に答えさせることを私たちに強制する権限などないはず。けれど、やつらは行く手をさえぎったり、取り囲んだりして、答えることをこちらに強制しようとしてくる。


 あるとき、「任意ですよね。拒否します」と言って立ち去ろうとした私に、やつらは「どうして逃げるんですか?」と言ってきた。


 逃げる? 私は行きたいところに行くだけだ。自分の意思で自分の行き先を決めるのであって、あんたたちから逃げているわけではないのに。


 ところが、私が私の勝手で歩いているという、その私の行為が、警官には「逃亡」とうつるらしい。何なのだろう、これは。


 まず、ただ歩いているという私の行為を「逃亡」とみなしているのは警官である。それを「逃亡」たらしめているのは、私の行為の性質ではない。警官の思考が、私の行為を「逃亡」と意味づけている。


 そして、私の行為を「逃亡」とみなす警官は、私が自由な存在であることを認めていない。やつらは、私を拘束してもよいのだと、そういう権限が自分たちにはあるのだと思い込んでいる。だから、自分の思い通りにならない行動をとって立ち去ろうとする私に、「どうして逃げるんですか?」という質問をむけてくるのである。


 立ち去ろうとするのは私の勝手だ。もし、警官もそれが私の勝手だとみなすならば、歩き去っていく私の行為は、たんに歩き去っていくという他者の行為にすぎず、それを「逃亡」と認識することはないだろう。自分は相手を拘束してよいという思い上がり、また相手を拘束しようという意思が、他者の行為を「逃亡」とみなす条件なのではないか。




(2)


 産経新聞がつぎのような記事を出している。


<独自>仮放免外国人195人が逃亡 保証人に偏り - 産経ニュース(2021/12/16 20:40)


 仮放免されている外国人が「逃亡」するケースが増加しており、その「逃亡」事例が特定の身元保証人にかたよっているのだという内容の記事だ。もっぱら入管庁の提供する統計に依存した記事で、その背景を取材したり、統計の方法への批判的な考察をへたりした形跡はない。ただただ入管の役人のリークをそのまま書き写しただけのもののようだ。簡単なお仕事でいいですね。


 この記事は、政府がめざしている入管法改定にむけての世論誘導のためのものであろう。仮放免者と一部の支援者を攻撃しこれを危険視する感情をあおることで、記事中にも言及のある「監理措置」制度の新設にむけての世論づくりをしようということだろう。


 この「監理措置」に対する批判はあらためてしなければならないし、仮放免者を「逃亡」に追い込んでいるのは入管庁の非人道的な施策であるということも言わなければならない。というのも、仮放免者の多くは、帰国しようにもそうできない事情をかかえているのであって、日本での在留を切実に望んでいる人たちだからだ。在留資格がいっそう遠のくような「逃亡」など、だれがしたくてするだろうか。それに、「逃亡」してしまうと、警官に職務質問でもされれば、ただちに「不法残留」として逮捕され入管収容施設に送られる、そういう不安をたえずかかえながら生きていくしかない。ある意味、仮放免状態にもまして過酷な状態である。「逃亡」する人の多くは、そうしたくてそうするわけではない。「逃亡」するのにもそれぞれ理由があり、その理由はかならずしも本人に責任があるものではない。


 でも、ここではその話はしない。「どうして逃げるのか?」 その理由を論じるべき局面はたしかにあるだろうし、わたしもそうすることがあるわけだけれども。しかし、それより先に言うべきもっと大事なことがあると思うからだ。それは、仮放免者は人間だということである。言うまでもないあたりまえのことだけれど、それがあたりまえだと思われていないから、上記の産経新聞の記事のようなものが書かれるのである。




(3)


 さきの産経新聞の記事は、「仮放免外国人195人が逃亡」という見出しをかかげている。まるでライオンか毒ヘビが逃げ出したかのような書きぶりである。相手が自分と対等な人間だと思っていたら、こんな無礼な言葉えらびができるわけがない。


 「仮放免」というのは、退去強制の対象となっている外国人を入管収容施設から一時的に出所させる措置である。定期的に入管局に出頭すること、入管局の許可した住所に住むことなどが義務づけられている。入管が「逃亡」と呼んでいるのは、仮放免者が出頭せず、居所が不明になるという事態だ。ようするに、入管にとって、連絡のとれない、どこに住んでいるのかわからない状態になったということだ。


 入管は仮放免者に対して、身体を拘束(収容)すべき存在とみなしている。一時的に収容は解いているけれど、本来は施設に収容して送還すべき対象なのだと考えている。だから、仮放免したひとがどこにいるかわからなくなったら、それを「逃亡」といいあらわす。入管の立場からそれが「逃亡」と呼ばれることは、理屈として理解できる。


 けれども、仮放免者が人間であるとともに、仮放免者でない人もふくめた私たちも人間である。私たちと入管の立場はちがうし、入管の言葉づかいに私たちがならうべき理由もない。産経新聞や、その下劣な記事を掲載したYAHOOニュース(こちらはリンクを貼らないが)も、人間を毒ヘビあつかいして侮蔑する記事を自身のニュースサイトにのせない自由も、じつはあったのだ。


 くりかえすが、入管は仮放免者を拘束すべき存在とみなすからこそ、「逃亡」という言葉を使う。でも、在留資格がまだ認められていないけれど私たちの社会でともに生きている住民、また、国籍国に帰るのは危険だからとここに残ることを希望している人たちは、「拘束されてしかるべき存在」なのか? 私はそうは思わない。あなたはどう思いますか?


 「どうして逃げるんですか?」 その問いを口にするまえに、私がその問いを発するべき立場なのか考えたい。たとえば、知り合いや家族が私との連絡をたってゆくえ知らずになったら、それを「逃亡」「逃げた」と言いあらわすだろうか? それを「逃亡」「逃げた」と言いあらわしたくなるのは、どんなときだろうか? 仮放免者、あるいは技能実習生について「逃亡」という言葉が使われることがしばしばあるけれど、そのことに違和感をおぼえないとしたら、それはなぜなのだろうか?


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