2025年2月2日

自由はなにより大切だ


 少し前のこと。監禁された人が解放されるためのちょっとしたお手伝いをした。その人が拘束を解かれるのに立ち会って、ほんとによかったなあと心の底から思った。

 おなじような形で人が解放されるのには、いく度も立ち会ってきたのだけれど、多くの人が言うのは、「つかまっているときのしんどさは、経験した人にしかわからない」ということ。私は「経験した人」ではないので、そのしんどさは、想像はするけれど、やはりわからないのだと思う。

 それでも、何か月かぶりで、あるいは何年かぶりに監禁を解かれて外の空気を吸う人のよろこぶ様子を目にすると、納得できるような理由もなく閉じこめられ、自由をうばわれつづける経験が、どれほどむごたらしいことなのか、いくらかわかるような気がする。解放されたその人の表情や声色、全身をのばすしぐさ、むかえる人を抱擁する姿をとおして。

 むごたらしい経験を強いられるのは、拘束された本人だけではない。通話アプリをつうじて、家族や友人たちが喜びと安堵の表情をみせ、私たちにも感謝の言葉を伝えてくださるのをみて、そのことを思い知らされた。息子・夫・弟が罪もないのに遠くの地で拘束されているのを知りながら、どれほど心配で落ち着かない気持ちで日々をすごしていたことか、と。

 人間をせまい区画に閉じこめたり、あるいは勝手な境界をひいて移動をさまたげたりして、自由をうばうこと。これは端的に言って悪である。当然と言えば当然で、あたりまえすぎることだ。けれど、急いでそのことをちゃんと言葉にしておかなければならない。いまそう思ってこの文章を書いている。

 不当な制約をとっぱらおうとすること、監禁をゆるさないこと、自由を最大限に擁護し、それをさまたげようとする力の行使にあらがうこと。それは、(留保なくそう言えるかわからないけれど)正しいことだ。私はそう確信している。

 でも、そういま確信していることを、私はあしたになったらわすれているかもしれない。だから、こうしていま書いている。

 なんでこんな大事な(と、いま思っている)ことをわすれてしまうかといえば、監禁を解かれて出てきた外の社会もまた、地獄のようなところだったりもするからだ。

 とくに、市民権から排除され、あるいは否定的なスティグマを貼りつけられた者にとって、拘束を解かれた外の社会は、生きていくための条件や可能性を極限までせばめられた場所であったりする。そういうわけで、拘束されていた人がそのひとつの拘束をなんとか脱して、いくらか自由をえたことが、ほんとによかったんだろうかなどと、ばかげた(といまは思える)疑念が生じてきたりするのだ。(人からもいろいろ言われるしね。)

 だから、わすれないうちにこうして書いておこう。自由はなにより大切なのだ、と。


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