2024年8月23日

川口市議会の差別意見書を添削してみた


 1.立民、差別意見書に賛成した元市議を公認

立憲、衆院選に元川口市議を擁立 在日クルド人念頭の意見書に賛成:朝日新聞デジタル(2024年7月30日 20時44分)

 ↑の記事より、以下引用。


 立憲民主党は30日、次期衆院選の愛知15区に、新顔で埼玉県川口市の元市議、小山千帆氏(49)の公認内定を発表した。小山氏は、在日クルド人を念頭にした犯罪取り締まり強化の同市議会提出の意見書に賛成していた。多文化共生を重んじる党のスタンスと矛盾するとの指摘がネット上などで出ていた。


 そんな意見書を川口市が出してたのか? ということで、遅ればせながら一読してみたのですが……。これはひどい、とんでもないものでした。

 意見書は「一部外国人による犯罪の取り締まり強化を求める意見書」と題され、昨年6月29日付、川口市議会議長名で出されており、あて先は衆参両院議長、内閣総理大臣のほか、国家公安委員長や埼玉県警などとなっています。

 川口市議会のウェブサイトの以下のページ、「令和5年6月定例会」というところから、意見書のPDFファイルはダウンロードできます。スキャンした画像もはっておきます。

意見書 | 川口市議会

画像
「一部外国人による犯罪の取り締まり強化を求める意見書」


 この川口市議会の意見書が、人種差別を遂行しているものだということは、議論の余地がないくらい明白です。だから、この意見書に市議会議員として賛成した小山氏が公的に自身のその行為を自己批判して誤りをみとめたというのでないかぎりは、同氏を公認候補として擁立すると発表した立憲民主党がそのスタンスをきびしく批判されるのは当然のことです。

 ただそうは言っても、これがなぜ差別にあたるのかということを言葉にして言うことも大事でしょうから、多くの人もそれぞれの言葉でそれを語っているようですけれど、私もここに書いておこうと思います。



2.なぜ差別だと言えるのか?

 意見書は、「一部の外国人」が暴走行為や煽り運転をくり返しており、また窃盗、傷害などの犯罪行為も見すごすことができないとし、国や県、警察に対して、「一部外国人」の犯罪や交通違反などの取り締まりを強化せよと求めたものです。

 暴走や窃盗を問題にしたいのなら、端的にその行為を問題にすべきだし、取り締まりを強化しろと言いたいなら、そうした行為を取り締まれと言えばよい話です。暴走や煽り運転にしろ、窃盗や傷害にしろ、外国人もやるでしょうが、日本人だってやるのであって。「外国人の」犯罪を取り締まれなんて言う必要はない。たんに「犯罪を」取り締まれと言えばいいでしょう。そこに「外国人」などという属性をもちだしている点で、川口市議会の意見書は人種差別なのです。

 つまり、これは、差別的な権力行使を行政に対して主張・要求し、市民・住民の差別を扇動する、きわめて悪質な文書というべきです。



3.差別意見書を添削してみる

 では、この意見書は、どう修正すればよいのでしょうか。こころみに添削してみました。訂正線を引いたのは原文が差別的であるため消した部分、赤字は原文に私が加筆したところです。


議員提案第1号

一部外国人住民による犯罪の取り締まり強化を求める意見書

 現在、川口市には40,000600,000人を超える日本国籍および外国籍の住民がおり、加えて、住民票をもたない外国人の中には仮放免中の方も相当数いるものと推定されている。多くの外国人住民は善良に暮らしているものの、一部の外国人住民は生活圏内である資材置場周辺や住宅密集地域などで暴走行為、煽り運転を繰り返し、人身、物損事故を多く発生させ、被害者が保険で対応するという声がある。すでに死亡事故も起こしており、看過できない状況が続いているが、事態が改善しないのは、警察官不足により、適切な対応ができていないものと考えている。

 また、新聞報道にある窃盗、傷害などの犯罪も見過ごすことはできない。

 現在、地域住民の生活は恐怖のレベルに達しており、警察力の強化は地域の治安維持のためにも緊急かつ必要不可欠となっている。このような一部外国人住民の行為は、その他多くの善良な外国人住民に対しても差別と偏見を助長することとなっており、到底見過ごすことはできない。

 このことから、この度、地域の窮状を伝え緊急的に解決を図るため、以下要望する。

1 警察官を増員し、一部外国人の犯罪の取り締まりを強化すること

2 資材置場周辺のパトロールを強化すること

3 暴走行為等の交通違反の取り締まりを強化すること

  以上、地方自治法第99条の規定にもとづき、意見書を提出する。

     令和52023年6月29日

(以下略)


 どうでしょうか。「このような一部外国人住民の行為は、その他多くの善良な外国人住民に対しても差別と偏見を助長することとなっており」というくだりなどは、修正したことで意味不明になってしまっていますが、「外国人」という語を正しく「住民」に置きかえることで、全体として元の意見書にあった差別的な効果はほとんど(「完全に」とは言いませんが)消えているのではないかと思います。

 この修正後のような意見書ならば、わざわざ市議会で議決をとって国や警察などに提出するなどということはなされなかったのではないでしょうか。この意見書を決議した者たちにとっておそらく重要だったのは、「外国人」をトラブルメーカー、善良な住民にとっての脅威として描き出すことであって、添削後のような意見書ではそうした趣旨にはそぐわないのでしょう。



4.「これは差別ではない」との言い訳

 もっとも、差別しようとする対象を指す言葉(「外国人」「クルド人」など)を直接には使わずに表現において差別を遂行するということも、その表現を受け取る者たちが共有する文脈によっては可能です。たとえば、いま問題にしている川口市議会の意見書も、「外国人」という語を使いこそすれ「クルド人」とは言ってないわけですけれど、クルド人住民を念頭において問題にしている文書であることは、文脈上あきらかです。

 読み手は、「住民票をもたない外国人の中には仮放免中の方も相当数いるものと推定され」うんぬんとか「一部の外国人は生活圏内である資材置場周辺や」といったくだりで、意見書がクルド人住民について述べているものだとわかるわけですが、それが「わかる」のは、なぜでしょうか。これまで産経新聞のような差別をあおることを商売にしているゴミ新聞のゴミ記者などがクルド人差別を扇動するゴミ記事を書きちらかしてきたからです。この意見書を読む者も、そうしたゴミがばらまいてきた差別的な言説によって形成された文脈を共有していれば、「外国人」の語がとくに「クルド人」を念頭において使われていることが了解できるわけです。

 これとおなじ理屈で、この意見書も、(上で私が添削し修正したように)「外国人」とは言わずに「住民」などの語を使えば、差別であることをまぬがれられるとは、かならずしもいえません。ある文書が差別的な効果をもたらすかどうかは、その表現がなされる文脈との関係できまるからです。

 また、差別は、「これは差別ではない」という言い訳・弁明をしながら遂行されることがしばしばあります。川口市議会の意見書が「一部の外国人」という言葉をもちいているのも、それです。「多くの外国人は善良に暮らしている」などと、わざわざ書いてもいます。外国人の全体を問題にしているのではない、だからわれわれのやっていることは差別ではない、と言いたいのでしょう。

 しかし、そうした言い訳・弁明をしようと、「住民」といえばすむことをわざわざ「外国人」の問題だとしている点で、意見書がその表現において差別を遂行していることは客観的にあきらかです。そのことをわかりやすく示すために、上のような添削をしてみたわけです。


5.「警察力の強化」のために差別を利用している

 ただし、この添削によって、わたしは「こう書けばよかったのに」という改善案・対案のようなものを示したかったわけではありません。添削といっても、ここでやっているのは、たんに「外国人」を「住民」という言葉に置きかえるという単純な操作にほとんどすぎないわけですが、こうした操作によって元の意見書のおかしさというのが、うかびあがってくるように思います。

 添削後の意見書は、ひどく間抜けな感じがします。警察官を増員しろとか、犯罪の取り締まりを強化しろとかを要求する内容ではあるものの、なぜそうしなければならないのかという必要性・切迫性があまり伝わってこないのです。

 警察権力をもっと強大にする必要があるという言説が説得力をもつのは、われわれの外部にわれわれをおびやかす深刻な脅威が存在していると信じられるときです。外からくる脅威からわれわれを守る警察権力を強化しなければならない、というわけです。こうした思考においては、警察権力がわれわれをおびやかすことはなく、もっぱらその力は外部からくる他者に対してのみもちいられるというフィクションが無邪気に信じられています。

 オリジナルの意見書では、「一部外国人の行為」によって「地域住民の生活は恐怖のレベルに達しており、警察力の強化は地域の治安維持のためにも緊急かつ必要不可欠」だという論理になっています。害をなす「一部外国人」と善良な「地域住民」が対照されて、前者が後者をおびやかすから「警察力の強化」が必要だというわけです。

 ところが、添削後のように「一部外国人」を「一部住民」に置きかえてしまうと、そうした対照・対立の図式がぼやけてしまいます。「住民」のあいだになにかトラブルが生じているというだけの話になり、なんで「警察力の強化」が必要なのか、よくわからなくなります。

 結果的に警察力でもって介入する必要がでてくることもあるかもしれないですが、いきなり一足飛びでそういう話になるのは論理の飛躍もいいとこでしょう。「住民」どうし話し合うことで解決することだってできるかもしれないし、警察力でなくても第三者が仲介してトラブルを解決するという可能性もあるかもしれない。

 こうみてくると、なぜ川口市議会の意見書をつくった人たちが、たんに「住民」のあいだで生じていると言うべき問題を、「外国人」のもたらしている問題であるとして描き出さなければならなかったのか、わかってきます。そうしないと、「警察力の強化」が必要であるという論理をみちびきだすことができないからです。

 今回の川口の意見書は、市の側から国や警察に対して、外国人に対する取り締まり強化と警察力の強化を要求するというものではありました。しかし、国というものは、「外国人」の存在を脅威であるとして描き出し、つまりマジョリティ住民の「外国人」住民に対する差別感情をあおることで、警察権力の強化やその行使を正当化するということをこれまでしてきたのだということを、見落とすわけにいきません*1。川口市議会の意見書は、国がこうしてしばしばおこなってきた、統治のために差別を扇動し、差別を利用するということを是としているという点で、けっして容認できるものではありません。



*1: 一例として、以下の記事で言及した、法務省入国管理局、東京入国管理局、東京都、警視庁の四者による「首都東京における不法滞在外国人対策の強化に関する共同宣言」(2003年10月)をあげておく。 



関連記事


2024年8月13日

【転載】福岡入管死亡事件 8/20裁判傍聴の呼びかけ(大阪地裁)


 2018年11月に福岡入管に収容されていた中国人男性が死亡した事件。その娘さんが国に賠償を求めた裁判が、重要な局面をむかえています。お父さんを亡くした原告、それから当時の福岡入管の職員(統括警備官)の証人尋問がおこなわれます。

 ということで、傍聴がよびかけられています。


【傍聴呼びかけのチラシ(クリックで拡大)】













 以下、画像(↑)の傍聴呼びかけのチラシより。


◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  


福岡入管死亡事件 証人尋問

8月20日(火)

11時~夕方

大阪地裁本館 202号法廷(→地図

大阪メトロ・京阪本線

淀屋橋駅/北浜駅 徒歩10分



訴え

 2018年10月中旬、ルー・ヨンダー、ルー・リーファ父娘は難民として保護を求め、中国から来日しました。ところが、福岡入管は父娘を収容して帰国するようせまりました。収容中にヨンダーさんの持病が悪化、娘のリーファさんはお父さんの治療を求めましたが、入管は適切な診療を受けさせずに放置。11月初旬、ヨンダーさんは死亡しました。

 2020年12月、娘のリーファさんは国に賠償を求め提訴。いま大阪地裁での裁判は大詰めをむかえ、原告のリーファさん、そして福岡入管職員の尋問が開かれます。



難民を追い返す入管行政

 日本は1981年から難民条約に加盟しており、難民を保護する義務があります。

 しかし、福岡入管は、ルーさん父娘に対して当初4日間にわたって申請用紙の交付を拒否して帰国をせまり、難民申請を妨害しました。

 ルーさんたちが粘り強く求めてようやく開始された難民手続きが、短期間かつ収容(監禁)下においておこなわれた点も問題です。リーファさんは難民申請から39日後に難民不認定の通知を受けています。通信の自由がいちじるしく制限された収容場で、しかもこんな短期間で、自分たちの難民性を立証する資料を収集するなど不可能に決まってます。ルーさんたちはUSBメモリで自分たちの難民性を主張する根拠となる多くのデータを持っていましたが、これも収容下のため印刷するなどして提出することができませんでした。

 不当な収容(監禁)によって難民申請者の立証作業を妨害し、保護を求めてやってきた難民を追い返そうとする。ルー・ヨンダーさんの死は、こうしたゆがんだ入管行政の結果でもあります。



《ご案内》

  • 202号法廷は、正面玄関入ったところの階段を上がってすぐです。エレベーターもあります。
  • 裁判所の建物に入る際には、手荷物検査があります。
  • 11時開始ですが、間に合わなくても傍聴できます。傍聴席では着席して傍聴します。
  • 傍聴席の出入りは自由です。


裁判終了後、裁判所敷地南側にて、担当の弁護士から、今日の解説があります(予定)。弁護士をはじめ、原告本人やこの事件にずっとたずさわってきた人たちも集まりますので、質問をしたり交流したりできます。




2024年8月8日

差別主義者の設定した論点であらそわなければならないという不条理


  外国人を生活保護の対象外とした東京高裁判決について。以下、SNSなどでほえてる右翼が言うような、とんでもない言いぐさですが、裁判官なんだそうだ。


 松井英隆裁判長は判決理由で「政治判断により、限られた財源の下で自国民を在留外国人より優先的に扱うことも許容される」と述べ、在留外国人を生活保護法の適用外とする最高裁判例を踏襲。「生活保護法が一定の範囲の外国人に適用される根拠はない」と指摘した。

 原告側は控訴審で「少なくとも住民票を有するなどの一定の外国人には保護を認めるべきだ」と主張したが、判決は「外国人を公的扶助の対象とするかは立法府の幅広い裁量に委ねられる」と退けた。

[生活活保護、また認められず…重病のガーナ人男性落胆 東京高裁「限られた財源で自国民優先は許容される」:東京新聞 TOKYO Web](2024年8月6日 21時08分)


 外国籍の住民にも日本国民同様に納税の義務を課すくせに、「限られた財源」を理由に自国民優先を正当化するのなら、その政府は端的に言ってどろぼうである。どろぼうもそれをやるのが政府ならばお墨つきをあたえてくれるのが、この国の裁判所なのだということらしい。くさりきってますね。

 住民の生活保護申請に対し国籍を理由に却下した自治体(千葉市)の対応が差別であるのは、明白だ。本来ならば、そこに議論の余地などない。

 念のため言っておくと、そうした取り扱いを指示あるいは容認するような法令なり通達なりがあるならば、それらも差別と言うべきであって、そこにも本来ならば議論の余地はない。


◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


 議論すること自体が差別主義にもとづかなければ不可能であったり、議論の余地があるかのようにふるまうことそのものが差別の遂行にほかならなかったり、ということがある。

 たとえば、このブログでもまえに批判したが、国民民主党代表の玉木雄一郎が「まずは外国人の人権について憲法上どうするのか議論すべきで、そういう議論がなく拙速に外国人にさまざまな権利を認めるのは、極めて慎重であるべきだ」と発言したことがあった。

 ここで玉木が言っているのは、外国人の人権を認めるかどうかは自明ではなく、議論の余地があり、議論する必要があるのだということである。

 いやいや、そんなん、議論の余地ないでしょ。外国人に人権があるのは自明だし、自明でなければならない。そんなこと議論しないとわからないとか言う人がいたら、その人の考えがやばいです。

 玉木のような人は、「外国人には人権がある」という自明な、また自明でなければならない命題について、議論の余地があるかのようにほのめかし、これに留保をつけようとする。こうした行為自体が、差別の遂行と言うべきだし、聴衆にむけての差別の扇動でもある。


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 話をもどすと、生活保護をめぐる裁判の控訴審で敗訴した原告が、生存権を保障されるべき存在であること、また国籍を理由にそのことを否定するのは差別であるということは、自明だし、自明でなければならない。そこに議論の余地は本来あってはならない。原告ご本人と弁護団は、この裁判で大変な労力をかけて千葉市の処分が違法だということを裁判で立証してこられたのだと想像するけれども、そうした苦労を原告側が負わなければならないということも、とてつもなく不当なことではないだろうか。

 まあ、そんなことを言ってもしょうがないではないかと言われるかもしれないし、そう言われるとそうかもなとも思うのだけど。ただ、本来はとてもシンプルな話で、「千葉市は差別やめろ」のひと言ですむはずなのだ。その本当は簡単なはずの問題が、なぜか裁判でおびただしい量の書面が原告・被告双方からとびかう、ややこしい話になっているというところに、私たちは異常さをもっと感じ取らなければならないのではないか。差別主義者の設定したバカげた論点であらそわなければならないという不条理。


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 たとえば、つぎのような問題が「問題」として議論されるような世界があるとすれば、その世界は野蛮である。しかし、こうした問いが発せられるということそのものが野蛮であるということを、私たちは自明な常識として共有しているんだろうか。

「外国人の人権を認めるべきかどうか?」「女性の人権をどの範囲まで認めるべきか?」「障害者に人権はあるか?」「セクシュアルマイノリティの人権を認めてもよいか?」。

 これらの問いを議論の余地のある「問題」かのようにあつかうこと自体が恥ずべきことであるのと同じで、つぎのような問いを論じるにあたいするまともな「問題」とすることも恥ずべきことである。

「政治判断により、限られた財源の下で自国民を在留外国人より優先的に扱うことは許容されるか?」

 東京高裁の松井英隆裁判長は恥を知るべきであろう。

 なお、「限られた財源」をこうして口実にすることがゆるされるなら、国籍差別にとどまらず、あらゆる差別的なとりあつかいが許容されることになる。こんな屁理屈が通用してもよいとするなら、どんな差別であれ正当化できることになる。そんな屁理屈を判決文に書きこんでしまうような裁判官の存在が、日本という国の野蛮さをあらわしている。