フェイスブックが「過去のこの日」などといって、何年か前の今日の投稿を表示してくれるのですが、そうか、今年も卒業式の季節ですね。子の卒業式に出席した日の投稿をこのブログにも再録しておきます。
子の卒業式に出席してきました。コロナの感染防止ということで、生徒ひとりにつき保護者は1名までの出席ということで、今回は私がひとりで出てきました。
毎度のことなのですが、開始そうそう「ご起立ください」と言われて起立すると突然テンスケをたたえる歌が流れてきたので、着席しました。戦争犯罪者とその地位を後継する一族が千代に八千代につづきますようになどというふざけた内容の歌を、500人ぐらいいる会場で(たぶんひとりだけ)すわって聞かされるという苦行に。
校長は式辞にあたって壇上にあがると高いところにかかげられたクソ丸に真っ先に一礼するなど、なかなかスゴいものを見せられました。
せっかくの祝福の儀式なのにこういうおかしなものを持ち込むのはやめてほしいよね。
ほかにもひどく権威主義的な形式があちこちにみられて、いままでみた入学式・卒業式でもここまでのはみたことないという感じでした。根本には侵略戦争や植民地支配への無反省ということがあるのでしょうが、維新府政が続いていることでの教育の荒廃がすすんでいることのあらわれをみるような思いもしました。
君が代を歌ったり日の丸をかかげたりという行為は、それ自体が侵略国家の国民の居直りとも言うべきで、悪質きわまりないものです。さらに、これを大人たちが権力をもって、さまざまなルーツをもつ子どもたちのいる学校という場所で強制しているということのろくでもなさ。今年もおなじ光景が、全国各地の学校でくり返されているのだろうということを思うに、あらためて慄然(りつぜん)とします。
数年前に出席した卒業式(高校)では、上に書いたとおり、校長は壇上に上がるなり、まず日の丸に一礼をしました。卒業生たちやその保護者たちにではなく、来賓にむかってですらなく、一番先に頭をさげたのが日の丸に対してだったのです。
この人は日々どこを向いて教育をやってるんだろうかと思いました。たかが儀礼的な様式じゃないかと言われれば、まあそうでしょうが、こうした儀礼的なふるまいが象徴している教師の日常や思考というのも、軽くみるべきではないとも思います。
このときの卒業式では、卒業生の読んだ答辞は、内容としては心のこもったすばらしいものだと感じたのですが、儀式の形式がその内容とそぐわない残念なものになってしまっていました。卒業生はステージの下に立ち、壇上の校長にむかって、つまり校長をあおぎみるかっこうで答辞を読み上げる、という形式だったのです。
校長の日の丸拝礼にしても、あおぎみての卒業生答辞にしても、これらは権威主義にほかなりません。だれが上位でだれが下位なのかを決め、その上下関係を目に見える形で表現するという儀式であるわけです。教師は生徒より上位であり、教師のなかでは校長が最上位にあり、しかしその校長より上位に日の丸が位置している。そういう上下関係を、あるべき秩序として維持しなければならない。こんな規範・価値観を儀式として表現する場にさきの卒業式はなっていたということです。
こういう儀式への参加を学校教育の場などでくりかえし強いられると(私自身そういう教育をみっちりと受けてきたわけですけど)、それぞれが平等な立場から組織や共同体に参加し、いわば民主的に合意形成をはかっていく、みたいな能力や意思は破壊されちゃいますよね、と思います。破壊されたものを取り戻していくということを意識的にやらざるをえなくなる。これはなかなか難儀なことです。
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