以下の記事を興味深く読んだ。
「『電波少年』懸賞生活は一種の洗脳。自殺も考えるほど苦悩」なすび激白、イギリスで半生が映画化の今とは | 女子SPA!(2023.09.21)
「懸賞生活」は、「電波少年」という番組(日本テレビ)内のコーナーとして1998年1月から翌年4月まで放送された企画とのこと。
私は当時、テレビのチャンネルを変えるときにこれをちらっと見かけたことはあるような気がするが、ちらっと一瞬だけ見る以上のことはなかったと思う。なので、上の記事を読んで、またネット上を検索して、どういう番組だったのか概要を今になって知ったのだけど、ひどいものですね。
「人は懸賞だけで生きていけるか?」というテーマで、芸人をアパートに監禁し、着ていた衣服もすべて没収し、ハガキを書いて応募して当たった懸賞だけで生活させるというもの。こうした生活を続けることが、懸賞の品物の価格が一定額に達するまで強いられる。
拷問とか虐待と呼ぶほかないような行為をみせものとしてテレビで流すのは、倫理的なタガがはずれているようでこわい。おまけに、撮影されている映像がテレビで放送されていることは本人に知らされていなかったという。放送倫理的にめちゃくちゃにもほどがある。
上の記事は、「懸賞生活」に出演(というのか?)していたなすびさんのインタビューで、当時のつらかった記憶も語られている。つぎのくだりが印象的だった。
――そこまでのレベルで辛い企画だったことを私も今知りました。
「やってることはほぼ拷問(ごうもん)でしょ。スタッフがあの生活を強いて、一人の人間を貶(おとし)めることができるという恐怖を終わった後も感じました。
視聴者から『またやってください』って言われることも怖かった。『あれを笑って見てたの?』『まだ見たいと思うの?』って、正直かなり人間不信にもなりましたね」
あからさまに残虐な行為がおこなわれていることを私たちははっきりと見ていながら、その出来事をみせものとして私たちの世界から切断することができるということ。おそろしいものを目にしながら、それをおそろしいと感じずに笑ってみていられるのだということ。そういった自身の認識や感情の操作を、私たちはとくに意識もせずにやってのけてしまうのだということに、おそろしさを感じる。
ただ、海外ではこれを見てドン引きしている人も多いみたい。「懸賞生活」の映像はネット上にちらばっており、これを見た海外メディアからなすびさんにインタビューや取材のオファーがたびたびあるのだという。なすびさんの半生を追ったドキュメンタリー映画も制作され、トロント国際映画祭で上映されたところだとのこと。
――今こうして海外からの反響を受けて、当時を振り返って改めて思うことは?
「『電波少年的懸賞生活』って今でいうとリアリティーショーやYouTubeの走りなんですよね。掘り下げていくと、あの番組は現在では身近な企画のパイオニアだったんだと思います。
海外との大きな違いとしては、あれは日本ではあくまでもバラエティ番組。面白おかしいものとして受け入れられていた。でも、予備知識のない海外の方からすると、かなりネガティブな意味での衝撃映像だったみたいです」
――お笑いとしては捉(とら)えられていない?
「もの凄く真剣に見てますね。『こんな過酷なことを強いるなんて信じられない』『テレビで放送しちゃいけないもの』『拉致、隔離、これは犯罪だ』なんて言われてますよ。
過去に取材をしてくれた海外メディアも、だいたいが『テレビ局を訴えた方がいい』という切り口なんです。人権侵害だ、と。海外の人たちにとっては相当なカルチャーショックだったみたいですね」
問わなければならないのは、なぜ海外の人にはネガティブな衝撃映像と受けとられるのかということより、反対に、なぜ日本では「バラエティ番組」「面白おかしいもの」として通用してしまう(してしまった)のか、ということだと思う。なぜなんでしょうかね。
海外の人なら「拉致、隔離、これは犯罪だ」と言うような出来事が、なぜ日本では「バラエティ番組」として娯楽の対象となるのか。どうして「人権侵害だ」とはなかなかならないのか。
海外の人びと(ってひとくくりに語ろうとするのはムチャすぎるのだけど)はどうなのか知らないが、日本の人びとには、冗談として受け取られるべき行為は、人権侵害や加害行為とみなさないという不思議な思考がなにか常識のように共有されている。冗談なのだからシリアスに受け取るな、目くじらをたてるなというわけだ。そして、なにが冗談でなにがそうでないのかを決定するのは、その場で大きな権力をもっている者やマジョリティである。
陸上自衛隊郡山駐屯地での強制わいせつ事件の刑事裁判で、被告人の元自衛官のひとりは「(被害者を)押し倒したあと、腰を降るなどの動きをしたが、下半身は接触しておらず、周囲の笑いを取るためでわいせつなことをしようとは思わなかった」と証言し、無罪を主張している*1。弁明として成り立つわけのないバカげた主張だが、この人は(その弁護人も)「笑いを取るため」という動機が、自身の行為の加害性を打ち消す根拠として説得力をもつと考えているからこそ、こんな主張を堂々と法廷でするのだろう。そして残念ながら、ある行為が冗談としておこなわれたのだとその場の多数派が解釈すれば、その行為の加害性が深刻に受け止められなくなるのが、日本社会である。だからこのばかばかしい弁明は、日本社会のコードにしたがったものでもある。
ところで、先のインタビュー記事は「前編」で、そのつづきの「後編」があるのだけど、これが読んでなかなかもやもやする。
懸賞生活を耐え抜いたなすび「『電波少年』の辛い経験があったから…」エベレストに挑み続け4回目で登頂成功、売名と叩かれても | 女子SPA!(2023.09.22)
タイトルのとおり、この後編記事では「『電波少年』の辛い経験」は、その後のなすびさんの「糧」となったできごととして、位置づけられている。そういうふうになすびさん本人が自身の過去と現在を語ることを責めることはもちろんできない。でも、他者である私たち(それもその人権侵害をみせものとして鑑賞する位置にあった者)が、その語りをそのままなぞるように読んでしまってよいのだろうか。
なすびさんにとってその後の「糧」になったのだからと、その受けた被害(と言うべきでしょう)をわれわれがポジティブに意味づけしてしまうのは、人権侵害の加害性を消去することではないのか。
のちのち被害者の「糧」になろうがなるまいが、人権侵害は人権侵害、加害行為は加害行為である。そう認識することをはばむ磁場のような力の働きがある社会だからこそ、無粋(ぶすい)にみえてもいちいち言っていかないといけないのだと思う。
《注》
*1: 「腰を振る動きは笑いを取るため」謝罪から一転、被告3人が無罪主張【五ノ井里奈さん性被害事件・初公判詳報】 | TBS NEWS DIG(2023年6月30日(金) 11:30)
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