2023年6月16日

「ルールを破る者のせいで」と言うまえに


  今回もまた入管法改悪に関係する話ですが。

 山本太郎参議院議員が、8日の参院法務委員会での法案の採決のさい、委員長席のほうに飛びかかるような動作をしたことが問題にされている。

 9日には与党の自民・公明、「ゆ」党の維新・国民民主ばかりか、野党の立憲までもが名をつらねるかたちで、山本氏に対する懲罰動議が共同提出された。採決にいたる法務大臣はじめ政府側の国会審議での不誠実さ(立法事実にいくつもの重大な疑念がつきつけられているのに、逃げまわってまともに応答しなかった)が問われないいっぽうで、これを体を使って阻止しようとした山本氏の行動ばかりが問題にされるのは、ほとんど「あべこべ」と言うしかないほどバランスを欠いている。

 この懲罰動議の動きに対しては、「入管事件を闘う大阪弁護士有志の会」がいち早く批判の声明を出している。

れいわ新選組代表山本太郎議員に対して懲罰しないことを求める声明


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 さて、ここまでが前振り。ここから本題です。

 山本氏の行動に対しては、入管法改悪への反対運動に取り組んできたひとのなかからも、批判が出ている。批判が出ること自体はあたりまえなのだけど、そのなかには「こういう批判はまずいのではないか」と思うものがあった。

 それは、山本氏の行動を「ルールを破る」ものだという点で批判するものである。いわく、ルールを守ってその枠のなかでやってきた多くの地道な活動が、山本氏の「ルールを破る」行動のせいで、これと同一視されレッテル貼りをされ否定されてしまうのだ、と。

 これはほんとうにまずい批判だと思う。そして、同様のロジックによる批判は、今後ともくり返し出てくるのではないかと、危惧している。

 そういうわけで、今回の山本氏の行動についての評価とはべつに、上記のようなロジックでの批判をどうとらえたらよいのか、今後のために少し考察しておきたいと思う。具体的なことはこういう不特定多数の人がアクセスできるところには書きにくいので書きませんが、そこは想像力とかでおぎなって読んでもらえるとありがたいです、すみませんが。


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 さて、この批判者の、自分(たち)はルールの枠内でやりたいという意思はもちろん否定すべきものではないです。私も、できるかぎりルールの中でやりたいと思うし、実際、そう思っていままでやってきました。ルールから外れると、権力からの弾圧も引き起こしやすいだけでなく、自分の身近にいる人たちとのあつれきを生むことも多い。

 でも、入管問題や非正規滞在の人の支援に取り組んでいると(他の取り組みでも多かれ少なかれ同様のことはあるのかもだけど)、ルールの枠内でやろうにも、それだけではどうにもならないという場面は出てきたりもする。いま危機にさらされてる命を守るには、ルールなんか守ってられないということもありうる。ここで私の言っている「ルール」には、違反すると刑罰を科されることもあるような法令もふくむ。警察が社会運動を弾圧しようとするさいには、まったく違法行為などなくても平気でこれをでっち上げることさえするくらいなのだから、支援者をなんらかの口実をつけて違法行為に問うことなど、弾圧する側からしたらいくらでも好きなようにできる。

 しかも、さきの批判者の理屈だと、なにをもって「ルールを破る」行動とするのかは、世間の多数者の見方・評価に依存するということにもなってしまう。入管問題に取り組む者の一部が「ルールを破る」行動をとることで、そうした活動をしている人全体がレッテル貼りをされ、世間から否定的にみられてしまうのが問題だというわけだから。このように世間の見方に依存するかたちで、「ルールを破る」行動はつつしまなければならないということが強く言われるようになれば、運動や支援は萎縮せざるをえないし、それが実現しうる可能性をみずからせばめてしまうことにもなるだろう。そこでは世間(マジョリティ)が反発しそうなことは、なかなかできなくなる。それはマイノリティの権利を獲得していこうとする運動において、自殺行為とすら言えるのではないか。

 それに、ルールそのものがかならずしも公平ではなく、より大きな権力を持った者に有利につくられているということも、しばしばある。力と権利をうばわれている者ほど、生きていくなかでルールを侵犯したとみなされるリスクがあちらこちらに転がっている。これを支援しようとする者も、当事者ほどではもちろんないにせよ、多少はそのリスクをかかえこむことになる。さらに、支援者自身がマイノリティ属性を多分にもつ場合も少なくないのであって、自身より弱い立場にある人を助けようとしたばかりに、自身も「ルール違反」に問われ、のっぴきならない状況に追い込まれてしまうということも、たびたびおこっている。

 今回、国会で成立してしまった改悪入管法は、「送還忌避」を犯罪「化」することで、在留資格を付与されていない外国人はもちろん、さらにその支援者も共犯者として、処罰の網にかけようとするものでもある。「ルールを破る」行動が入管問題に取り組む運動全体への世間のイメージ悪化をもたらし、その足をひっぱっているのだ、というような非難をしているようでは、それこそ「敵の思うつぼ」ではないだろうか。


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 くり返し言いますが、もちろん、ルールを侵犯せずにできるだけ穏当に運動をやりたいという意思は、否定されるべきものではない。自分は比較的安全な場所にいてそこから抗議しようということは、責められるようなことでない。人それぞれおかれている立場・状況はちがうのであって、ルールを侵犯しているとみなされるリスク、そうみなされたときにこうむる損害もちがう。

 しかし、自分たちはルールを守って「地道に」「まっとうに」やっているのに、ルールを破るあいつらのせいで、うちらのイメージも悪くなるじゃあないか、というふうに、自分たちとあいつらを切断してしまうのは、まずいと思う。そこをあっさり切断してしまうのではなく、つながる経路を残しながら連動し、ゆるやかであっても連帯していくことができればなあと、私は思う。そのための知恵と実践を今後、つみかさねていきたいものです。




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