2021年4月30日

私が入管法改悪に反対する理由――送還強硬方針からの撤退を!


【ふりがなを つける】(powered by ひらがなめがね)



1.入管法改定で温存されようとしているもの


 国会で審議されている政府提出の入管法改定案に対して、反対の大きな動きが広がっている。なぜ、この法案に反対しなければならないのか。私なりに思うところをすこし書きたい。


 法律を変える、制度を変えると言うとき、私たちの関心は、どのような新しい制度が提案されるのかというところに向きがちだ。今回の政府法案についても、難民申請者などの人権を侵害しその命を危険にさらしかねない「改悪」と呼ぶべき制度変更が多数もりこまれており、そこに多くの人びとが危惧を表明し、反対の声をあげている。


 政府の法案が成立すれば、たとえば、難民認定の申請が3回目以降の人を入管は送還できるようになる。難民認定率が諸外国とくらべてきわめて低く、申請者の99パーセント以上が難民と認定されないような審査のやり方を見直さないまま、このような改悪がなされるのは大問題だ。


 もちろん、私も、こうした政府法案のめざす改悪というべき変更点について危惧を共有している。ただ、この法案が成立した場合に深刻な問題をあらたに生じさせるというだけでなく、それが、強制送還や収容についての今までの方針、古いやり方を温存させることになるだろうということにも注意をむけていきたいと思う。


 送還や収容をめぐる現状を私の理解でざっくりまとめると、以下のとおりである。


  1. 入管は、とりわけ2015年以降、在留特別許可の基準をきびしくするいっぽうで、無期限長期収容を手段にした強硬な送還政策をすすめてきた。
  2. この強引な方針が、入管施設でのハンガーストライキ、自殺をふくむ死亡事件、職員による暴行事件などさまざまな問題をひきおこし、マスコミなどで報じられ、長期収容問題として社会的に問題化されるにいたった。
  3. 他方で、入管の送還業務の観点からも、こうした強硬策は破綻・失敗したことは客観的にあきらかである。


 3については、あとでくわしく述べるが、破綻・失敗した方針は本来であれば断念するしかない。古い方針を断念してあらたな方針をたてるためには、従来の方針が失敗だったことを認めなければならない。ところが、今回、政府は、送還強硬策を今後も継続していくということを前提にした法案を出してきた。となると、この法案が成立してしまった場合、入管自身もこれまで以上に、従来の強硬方針にしばられることになるのではないか。私が危惧しているのは、そういうことであるが、もう少しそこを言葉にしていきたいと思う。




2.入管法改定のねらい


 まず、政府が入管法の改定にのりだした経緯をふりかえっておきたい。


 今回の法案は、法務大臣が設置した「収容・送還に関する専門部会」が2020年6月にまとめた提言[PDF]をもとに作成された。入管庁のウェブサイトでは、この「専門部会」設置の「趣旨」をつぎのように説明している。


 送還忌避者の増加や収容の長期化を防止する方策やその間の収容の在り方を検討することは,出入国在留管理行政にとって喫緊の課題となっています。

 そこで,今後,出入国在留管理庁が採るべき具体的な方策について,専門的知見を有する有識者や実務者の方々に御議論いただくこととし,法務大臣の私的懇談会である「出入国管理政策懇談会」の下に「収容・送還に関する専門部会」を設置しました。

収容・送還に関する専門部会について | 出入国在留管理庁


 「送還忌避者の増加や収容の長期化を防止する方策」などを検討すると言っている。このうち、「収容の長期化」については、現行法のもとでも仮放免制度というものがあり、これを活用することで解決は可能なはずである。そのために法律を改定する必要はかならずしもないが、法律を変えるとすれば、収容期間に上限をさだめて、たとえば6か月をこえて収容はできないことにすれば収容長期化問題は解消する。その気にさえなれば、収容長期化問題を解決するのは簡単なのである。


 ところが入管がそうしないのは、これを解決する意思がないからである。長期収容は、入管にとって「送還忌避者」を痛めつけ、帰国に追い込むための手段だ。このように収容長期化の状況を帰国強要のために意図的に作り出していることは、以下の2つの記事で述べたように、先月になって入管当局自身が公然とみとめるようにさえなっている。


上川法務大臣のおどろくべき発言 拷問を送還の手段にもちいることはゆるされるのか?

公然化されつつある拷問――出国強要の手段としての無期限長期収容


 政府あるいは入管当局が今回の入管法改定をくわだてる目的は、収容長期化問題を解決するためではない。先の「専門部会」設置の趣旨にあった、もういっぽうの問題、「送還忌避者の増加」*1に対処することが、政府が法改定をおこなおうとする理由なのである。




3.「送還忌避者」と送還一本やり方針


 入管庁は、2020年12月末日時点の集計として、以下のとおり示している*2


退去強制令書の発付を受けて収容中の者は942人,仮放免中の者は2217人

収容中の942人のうち,送還を忌避する被収容者は649人(69%)


 このうち、退去強制令書の発付を受けた仮放免者2217人と送還を忌避する被収容者649人を合わせた約3,000人が入管のいうところの「送還忌避者」にあたる。


 人間を収容施設に長期間にわたり監禁し、自由をうばうのは、人権侵害でありゆるされない。また、就労が禁止され社会保障から排除された仮放免の状態に人間を置きつづけることも、同様にゆるされない。「送還忌避者」と入管がよぶような状況は、すみやかに解消されなければならない。


 それを解消するには、2つの方法がある。1つは、退去強制令書(退令)の発付を取り消して、在留資格を認めることである。難民認定制度や、法務大臣にあたえられた権限で人道上の観点から在留をみとめる在留特別許可の制度がある。これらは、現状、適正に運用されていると言えるか、かなり疑問がある。


 「送還忌避」の状況を解消するもうひとつの方法は、送還(退去強制)を執行することである。


 現在、およそ3,000人もの人が、退令発付を受けながら送還にはいたっていないという、宙ぶらりんの状態におかれている。入管当局は、この人たちを「送還忌避者」と呼び、在留を認めるのではなくあくまでも送還の執行によってその人数を減らしていこう方針のもと、今回の法改定へと動いてきた。


 本人の意思に反した送還を強引にすすめていけば、送還された人が命をおとしたり、あるいは、家族や日本できずいてきた社会的な関係をたたれたりという、とりかえしのつかない事態をひきおこしかねない。


 それだけではない。送還一本やりでこの3,000人もの「送還忌避者」をへらしていくという方針自体が、現実的に不可能なのである。入管が不可能な方針に固執することで、問題解決は先送りされ、時間が浪費されていく。「送還忌避者」と呼ばれる人びとは、施設に監禁されて自由をうばわれるか、仮放免という無権利状態におかれつづけることになる。その間も、深刻な人権侵害は継続しているのである。




4.長期収容と護送官付き送還――送還の2つの方法


 「送還忌避者」が3,000人いるということ。入管は、これを送還業務がゆきづまっているというふうに認識している。これを打開するために、難民認定手続き中の送還停止効に例外をもうけるなどして、「送還の障害」をとりのぞきたいというのが、法改定へと政府をかりたてている動機である。


 しかし、「送還忌避者」をほとんどもっぱら送還によって減らしていこうという方針がいかに非現実的であるのか。そこをあきらかにするために、強制送還(退去強制)というものがどのようにおこなわれているのか、ということをみていきたい。


 「強制送還」と言ったときに多くのひとがイメージするのは、つぎのようなものではないだろうか。手錠や腰ひもによって身体を拘束し、大人数の職員によって無理やりに飛行機などに乗せて送還する。これは入管職員(入国警備官)が送還先の国の空港まで付きそうかたちになるので「護送官付き送還」などと呼ばれている。これは、送還を拒否している人を無理やりに送還するときに用いられる。しかし、じつはこの「護送官付き送還」は、数のうえでは、強制送還全体のうち、けっして多いものではない。


 下の図は、2014年から18年までの送還方法別の被送還者数をあらわしている(図は入管庁が公表している『出入国在留管理』から作成した)。



 例年、被送還者数(送還された人の数)全体のうち、93~95パーセントは「自費出国」と呼ばれるかたちで送還されている。「自費出国」とは、航空券代を送還される人が自費で負担するもので、最終的には本人が同意しての送還であるといえる。


 これに対し、全体の5~7パーセントは、「国費送還」といって、航空券代を国が負担する送還である。「国費送還」には、送還される本人が航空券代などを用意できない場合に国費からこれを支出するものも含まれる。送還を拒否している人に対して入国警備官が同行しておこなわれる「護送官付き送還」はさらにその一部(全体の数パーセント)である。


 この「護送官付き送還」の占める割合が小さいのは、それが予算や安全上の制約で簡単には実施できないからであろう。その理由はともかく、事実として、「強制」送還の大部分は、送還される本人が自分のお金で飛行機のチケットを買って、自分の意思で歩いて飛行機に搭乗するという形で、おこなわれている。送還は「自費出国」でおこなうというのが、入管にとっての原則なのだ。したがって、送還の執行をになう入管の職員にとって、どのようにして送還対象者を出国に「同意」させるかということが課題になるわけである。


 入管が送還対象者に「自費出国」をうながすのに主要な手段としているのが、「収容」すなわち施設に閉じこめて自由をうばうことだ。つまり、送還に応じて出国しなければ施設から出ることができないという状況をつくり、それがイヤなら自分の国に帰りなさいというかたちで「説得」をおこなうわけである。もっとも、これは入管の建前では「説得」であっても、客観的にみて「恫喝」や「強要」と言うべきものである。


 では、「護送官付き送還」は、入管の送還業務においてどのような位置づけになるのだろうか。この方法で送還できるのは、人数としてはごく少数である。それでも入管が毎年、なぜこのやり方での送還を一定数つづけているのかと言えば、見せしめの効果を期待しているからであろうと考えられる。


 入管は、この無理やりの送還を、しばしば他の被収容者たちにわざと見せつけるようなしかたでおこなっている。早朝の4時や5時といった多くの被収容者たちが寝ている時刻に、10名ほどの職員で居室に踏み込んで被送還者を連れ出すというやり方をわざととることがあるのだ。ほとんどの被収容者は、数人ごとにひとつの居室に収容されているため、この寝込みを襲うやり方は同室者たちの目前でおこなわれることになる。同室あるいは同じ収容区画の被収容者たちに与える動揺や恐怖をより小さくする方法がほかにあるだろうに、あえてこうした暴力を誇示するようなやり方をするのは、見せしめの効果を期待しているからにほかならない。送還の執行を担当している職員が、送還をこばんでいる被収容者や退令仮放免者に対し、「われわれば無理やりあなたを帰らせることもできる。それがいやだったら自分で飛行機のチケットを買って帰ってください」というようなことを言って送還に応じるよう「説得」することもたびたびある。


 つまり、入管の送還業務において、「護送官付き送還」もまた、「自費出国」をうながすための手段という位置づけだと理解してよい。


 無期限長期の「収容」が被収容者に苦痛を与え、時間をかけて心身を破壊していくものであることは、言うまでもない。もう一方の「護送官付き送還」も、これにより送還される人に対して暴力がふるわれているだけではなく、これを見せつけられる他の被収容者にもはげしい恐怖をあたえる行為だ。このように、苦痛や恐怖をくわえ心身を破壊する暴力が、強制送還の手段としてもちいられているということなのである。


 人間に対してこのような方法をとることが、ゆるされるのだろうか。これは、相手が難民だからゆるされないとか、「犯罪者」でないのにこんな目にあわせてはいけないとか、そういう話ではないと思う。どのような相手にであれ、やってよいことではない。また、こんな行為を「いたしかたない」と許容、あるいは正当化しうる理由があるとは、私にはとうてい思えない。




5.出口のない送還強硬方針からは撤退すべき


 さて、2015年9月18日に法務省入国管理局長は通達「退去強制令書により収容する者の仮放免措置に係る運用と動静監視について」を出して、各地方入管局長などに仮放免許可申請への審査を厳格化することと、仮放免中の人への「動静監視」の強化を指示した。この後、各収容施設では収容が長期化し、すでに仮放免されている人の再収容が激増していった。


 この2015年通達後に強化されたのが、長期収容をおもな手段として「送還忌避者」を徹底して送還していこうという方針である。必要な資料の開示を入管庁がこばんでいるため*3、この方針のもとどれほどの「成果」があったのか、評価するのはむずかしい。しかし、2019年12月末時点で約3,000人の「送還忌避者」が存在しているという事実からは、これをもっぱら送還によって減らしていこうということが、現実的にみて無謀きわまりない愚劣なくわだてだということはあきらかなのだ。


 入管は4年以上にわたって強硬な送還政策をつづけて収容施設で自殺者や餓死者を出し、おびただしい数の人の健康を破壊し、さらに被収容者の家族の生活をもめちゃくちゃにしてきた。それでもまだ数千の人が送還にいたらず、収容施設に閉じ込められ、あるいは仮放免状態におかれている。で、入管は、まだこの送還の強硬方針をつづけるんだと言っている。「送還忌避者」を送還で減らすために法律を変えてほしい、送還のための権力をもっとわれわれに与えてくれ、と。入管は何人ころせば気がすむのか。どれだけ人の人生をめちゃくちゃにすれば気がすむのか。人間の生命と人生をもてあそぶのはたいがいにすべきだ。


 いま国会で審議されている改悪法案が通ってしまえば、入管は送還のための権力をいま以上にふるうことができるようになる。難民申請が却下され、それでも帰国するわけにはいかないからくり返し難民申請せざるをえない人は少なくない。そういうひとが、無理やり飛行機に乗せられ、送還されてしまえば、どのようなことがおこるだろうか。「護送官付き送還」で無理やり送り返されるのはこわいからと、3回目の難民申請をとりさげて、「みずから」飛行機に乗って帰る人も、出てくるかもしれない。その人が迫害を受けたとき、だれがどうやって責任をとるのか。「自分の意思で」帰ったのだから「自己責任」だと、日本の政府や入管は言うのだろうか。


 それだけではない。現在はコロナの感染対策で仮放免されている人も、ワクチンの開発・普及などによって感染が脅威でなくなれば、入管は再収容にのりだしてくる可能性が高い。結局のところ、数千人におよぶ「送還忌避者」をもっぱら送還によって減らそうとするならば、その主要な手段となりうるのは、無期限長期収容でいじめぬく、ということ以外にはなく、「護送官付き送還」など他の方法はあくまでの補助的な手段にとどまるからだ。そのことは政府の法案が成立してもかわらない。


 ところが、長期収容によって送還に追い込むということでは、数千人規模にふくらんだ「送還忌避者」の大部分を送還することなどできるはずがないのである。それは、2015年以降の入管の送還強硬策が「成功」せず、おびただしい人権侵害をまねいたにすぎなかったという事実によって、すでに実証されている。


 この5年あまりのあいだで、長期収容を主要な手段とする送還強硬方針の失敗・破綻はあきらかになった。失敗・破綻のあきらかな方針を入管がいまだ転換せず、これに固執しているのは、少なくない数の入管の役人が、失敗をみとめて責任を問われるのがイヤだと考えているからだとしか考えられない。


 送還一本やりと言うべき従来のやり方で「送還忌避者」を減らしていくのは無理だ。かといって、仮放免の無権利状態に置きつづけたり、施設に監禁していじめて出国を強要しようという今のやりかたを続けることもゆるされない。結局のところ、在留特別許可などの制度を適正に活用し、在留を正規化していくことをもっと広範に検討していくというところにしか、出口はないのだ。


 すでに破綻した方針に固執して問題の解決を先送りにすること自体が、深刻な人権侵害状況を継続させるということであって、ゆるされない。政府が出している入管法改定案はいったん廃案にしたうえで、現行法のもとで可能な施策、人間の命と人権をまもるための施策を検討し、実行していくことからはじめるべきである。






注 

1: もっとも、「送還忌避者の増加」というものの、入管庁は「増加」といえる根拠をデータで示していない。入管は「送還忌避者」を「出入国管理の実務上、退去強制令書の発付を受けたにもかかわらず、自らの意思に基づいて、法律上又は事実上の作為・不作為により本邦からの退去を拒んでいる者」と定義している。退去強制令書の発付を受けて退去を拒んでいる人には、入管施設に収容されている人(送還忌避被収容者)と、仮放免許可を受けて収容を解かれている人(退令仮放免者)の2通りがある。このうち、退令仮放免者については、入管は年ごとに人数を公表しているが、送還忌避被収容者の人数は2020年の6月末と12月末時点での統計を公表しているにすぎない。
 この点について、福島みずほ参議院議員は2013から18年の各年における「送還忌避被収容者」の数を示すよう質問趣意書で求めている。ところが、政府は「集計を行っておらず、お答えすることは困難である」としてこれに回答しなかった。 


3: 注1で述べたとおり。

2021年4月23日

入管収容と「詐病」


【ふりがなを つける】(powered by ひらがなめがね)



1.入管庁調査チームが隠蔽していた事実


 3月6日に名古屋入管に収容されていたスリランカ人女性のウィシュマさんが亡くなった事件について、TBSが以下の報道をしている。


【独自】「仮放免必要」医師が入管に指摘、スリランカ人女性死亡直前に|TBS NEWS(4月22日 11時28分)


 このニュースでは、女性が亡くなる2日前に診察した医師が、彼女を仮放免して収容を解くことの必要性を伝えていたことが、医師本人への取材と医師が名古屋入管に対して提出した文書(「診療情報提供書」)からあきらかにされている。


 この医師に直接取材をしたところ、医師は「実際に外に出してみないと判断できないので、一度出すべきだ」と入管側に仮放免の必要性を伝えたと認めました。出入国在留管理庁が今月9日に出した中間報告書では、この医師から仮放免の必要性を伝える指摘があったことは明らかにされていません。


 このような真相究明にあたって重要な事実が、入管による調査の中間報告書には記載されていない。診察した医師がどのように病状を評価していたのかということは、もっとも念入りに確認されたであろうことがらであって、入管庁の調査チームがうっかり見落とすはずがない。入管にとって都合がわるいから隠蔽しようとしたということだろう。


 ここからあきらかなのは、入管庁の調査に誠実さを期待することはまったくできないということだ。強い権限を与えられた独立した第三者機関が調査しなければ、彼女が命を落とした経緯や責任の所在があきらかになることはない。これは、あたりまえのことだ。




2.「詐病」ならば軽視してよいうという予断


 さて、TBSのこの報道では、医師が結論としては仮放免の必要性を入管に伝えていた一方で、「詐病」の可能性も考えられるとしていたことがあきらかにされている。


 亡くなった女性と継続的に面会していた支援団体のSTARTは、彼女の体調不良のうったえを名古屋入管が「詐病」とみなしていたのではないかと指摘している。


ではなぜ、入管は、応急的な治療さえ、点滴1本さえ投与しなかったのでしょうか。我々は、入管が、女性が仮放免になるために病気のふりをしていると判断していたのではないかと考えています。被収容者に対して疑いの目を向け、信用していなかったということです。実際にスリランカ人女性も、面会時に「(職員は、私が)嘘を言ってると思ってる」と話していました。

スリランカ人女性の死亡事件に関する申し入れ(3/11) | START~外国人労働者・難民と共に歩む会~(2021年3月12日)


 わたし自身、入管施設に収容された人たちと面会するなかで、職員や入管で勤務する医師や看護師に病状をうったえているのに「詐病」あつかいされてちゃんと検査や治療を受けさせてくれないといううったえを聞くことはたびたびある。支援者として、入管に検査・治療を申し入れるさいも、職員が「詐病」をうたがっているのではないかという感触をおぼえることもある。


 しかし、いったい「詐病」とは何だろうか?


 入管の職員は、被収容者が仮放免されたくて病気をいつわることがあると考えているのだろう。そこには、もし「詐病」であるのであれば、ほんとうの病気ではないのだから、深刻に考える必要はないという前提があるだろう。


 だが、「詐病」なのかどうか見分けることは、ときに医師であっても簡単ではないのはもちろん、「詐病ならば深刻ではない、軽視してもよい」という予断が、入管の職員あるいは医師の判断に入り込むのは、危険ではないだろうか。


 たとえば、食道や胃の不調で食事がとれないといった症状をうったえている患者がいるとする。このうったえがウソなのかホントなのか、見分けることにどんな意味があるのだろうか? 「詐病」であろうとなかろうと、食事をとらない(とれない)状態が続けば、健康状態に深刻なダメージをきたすことにはかわりない。


 げんに、食事がとれていない、またそのことによって健康がそこなわれているという状況があるのならば、医療がとりくむべきなのは、いかにしてその患者の健康を回復するかという課題以外にないだろう。


 その意味では、ウィシュマさんを亡くなる2日前に診た医師は、医療従事者としての判断をしたのだと言える。


 医師は血液検査や頭部CTは異常なく、詐病やいわゆるヒステリーも考えられるとしながらも、最後にこう記していました。


 「患者が仮釈放を望んで心身に不調を呈しているなら、仮釈放してあげれば良くなることが期待できる。患者のためを思えば、それが一番良いのだろうがどうしたものだろうか?」

[強調は引用者]


 患者の健康上の最善の利益をあくまでも追求するのが医療であって、そこに「詐病ならば軽視してよい」などという思考が入り込んではならない。




3.おまじないとしての「詐病」


 「詐病」か「ほんとうの病気」なのかを区別しようとし、「詐病」ならば深刻ではないと信じ込もうとする思考は、患者の利益を追求する医療に由来するものではない。それは、収容の継続を正当化したい入管の都合から生じる思考にほかならない。


 被収容者が体調不良をうったえていても、あるいはげんに症状があらわれていても、「詐病」とみなすことで、「収容継続に支障はない」という判断をみちびきたいのだ。それは根拠を欠いた呪術的な思考としか言いようがないものだ。「詐病」はおまじないの言葉である。


 もっとも、「病は気から」とも言うし、他のおまじないならば、それによって患者が病気に立ち向かう前向きな気持ちをもち、治癒へのプラスの効果が生じるということもあるだろう。しかし、「詐病だ!」「詐病がうたがわれる!」というおまじないは、被収容者の健康状態の深刻さと向き合わないための入管にとっての気休めにしかならない。そうして、げんに食事をとれずに体重が激減しあきらかに衰弱していく被収容者をまえに「サビョウガウタガワレル」などとおろかな呪文をとなえているうちに、その病状はとりかえしのつかないところへと悪化していってしまうのではないか。


 すくなくともはっきり言えるのは、「詐病」であれば軽視してもよいのだという思考は、入管収容施設の医療をむしばむ要因になっているということだ。入管が収容の制度と施設を維持しようとするならば、最低限、こうした問題をふまえ、医療の機能不全に対処し被収容者の生命・健康を守るための手立てをとるべきだ。


 たとえば、医師の独立性を確保し、患者との信頼関係をきずきながら診療ができるようにし、入管による医師の判断への介入(医師が必要と判断した治療を入管が「許可」せずさまたげるなど)を排除する仕組みをつくるべきだ。そのうえで、医療上の観点から収容継続が危険な場合に医師の判断で収容を解く仕組みも必要だろう。


 また、収容されている人が、症状をいつわったり(痛くないのに痛いと言うとか)、それどころか症状を意図的に生じさせたり(食事をとらないなど)までするのだとすれば、何がそうさせているのかを考えるべきだろう。この点で、収容期間の上限がさだめられていないなかで、何年間も収容されうるような、被収容者を絶望に追い込む現行の制度はあらためられるべきではないのか。


 いま国会で審議されている政府による入管法の改定案は、2019年6月の大村入管センターでの餓死見殺し事件を契機とし、長期収容問題への対策を講じるということを大義名分のひとつとして出されたものだ。しかし、被収容者の生命・安全を保障するかという手立ては、講じられていない。しかも、あらたに名古屋入管での死亡事件が起きているのに、その真相究明どころか、重要な事実を調査報告書に書かずに姑息に隠蔽しようとしながら、政府は法案成立をめざしている。この点でも、この法案は廃案一択、それ以外にありえないと思う。


2021年4月7日

伊是名夏子氏への不当なバッシングについて


【ふりがなを つける】(powered by ひらがなめがね)



1.車いすユーザーが負担させられている労力と時間


 コラムニストの伊是名夏子(いぜな・なつこ)さんが電車で乗車拒否をされたことをブログに書いている。


JRで車いすは乗車拒否されました : コラムニスト伊是名夏子ブログ


 車椅子ユーザーである伊是名さんが、公共交通機関を使って行きたいところまで移動しようとすると、乗車拒否がなかったとしても、大変な労力と時間をかけなければならないのだということが、わかる。車いすや杖などの補助具を使わずに歩いている私にとって、かけなくてすんでいる労力と時間である。


 事前に目的地の駅の構内図をインターネットで確認する。駅に30分前には着くように早めに家を出る。乗り換え駅や目的地の駅にエレベーターがなければ、駅員に話をして移動の支援を依頼する。こういった負担が、私にはかかっておらず、伊是名さんたち車いすユーザーにはかかっている。


 しかも、この件では伊是名さんは、エレベーターの設置されていない駅での移動支援を当初は鉄道会社から拒否されたため、本来しなくてもよいはずの交渉にも時間と労力をかけなければならず、乗る電車を予定よりも遅らせざるをえなかった。


 そこで伊是名さんがおこなったような、鉄道会社と話をし、マスコミに話をし、ブログを書くことなどもふくめた、現状を問題化して差別をなくしていくための取り組みは、本来は社会全体でになわなければならないことのはずだ。しかし、そうした現状をただすための労力やコストの点でも、差別による不利益をこうむっている伊是名さんたちに大きな負担がかかかっている。それはつまり、車いすユーザーでない人びとの多くが、本来であれば負担しなければならないコストをはらっていないということでもある。




2.膨大な差別リプライ


 さて、この乗車拒否の経緯をブログで公表した伊是名さんのツイッターには、膨大な数の差別的なリプライがよせられている。


https://twitter.com/izenanatsuko/status/1378535246841274371

https://twitter.com/izenanatsuko/status/1378535246841274371/retweets/with_comments


 引用はさけるが、私が読んでいてもかなりしんどく感じる内容のリプライが大量についており、これらの言葉を直接むけられている伊是名さんらの心痛はいかほどかと思う。


 大量のリプライを読んでいくと、つぎのような内容の文句がくりかえし出てくる。


  • (伊是名氏が)感謝の気持ちを述べていないのが気に食わない。
  • 電話などで事前に確認・依頼したうえで駅・電車を利用すべき。
  • 世話されるのが当たり前だと思っているようにみえてむかつく。
  • こんなクレーマーみたいなやり方では伊是名氏や障害者の味方は増えない。
  • 予算や人員にはかぎりがあるのだから、要求がとおらないことがあるのは当たり前。


 こういった内容のリプライ群のなかに、身体障害者だけでなく知的障害者や精神障害者に向けられた差別的文言、あるいは人種差別・民族差別の常套句が多数まじっており、さながらヘドロのような腐臭を発するような状況になっている。


 これらのリプライをのこしていく者たちに共通する感情がどのようなものなのか察するのは、そうむずかしくはない。この人たちには、伊是名さんや障害者が社会から「特別な配慮」を受けているというふうにみえていて、だからそれにふさわしいふるまいをせよと言いたいのである。「特別に」支援してもらっているのだから、それがさも当然であるかのように「感謝しない」のは気に食わないし、「当然ではない」「特別な」ことを駅員などにやってもらうのだから、事前に連絡して相手の都合を確認すべきだ、というわけである。


 また、この人たちの考えでは、障害者が電車に乗って行きたいところに旅行するのは「特別な配慮」によって可能になるものなのだから、それを実現するためには多数者を「味方」につけるようにふるまうのが障害者のとるべき戦略だということになる。それをあたかも「当然の権利」であるかのように主張するのは「クレーマー」とおなじである、と。




3.健常者は自分が「配慮」されていることを意識しない


 しかし、障害者を「特別な配慮」を受けている人、あるいは「特別な配慮」を必要とする人とみる見方は、正しいのだろうか。


 それについて、十何年か前に読んで目からうろこの落ちるような思いをした文章がある。石川准(いしかわ・じゅん)さんの「本を読む権利はみんなにある」(『ケアという思想』岩波書店、2008年)というものだ。2006年に国連総会で採択された「障害者の権利条約」を受けて、視覚障害と情報アクセスの平等について考察されている文章である。


 石川さんは、この条約をつらぬく「合理的な配慮」(reasonable accommodation)という考え方について、つぎのように説明している(93-4ページ)。


 多くの人は「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」と考えている。しかし、「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」というようには言えないだろうか。


 たとえば、駅の階段とエレベーターを比較してみる。階段は当然あるべきものであるのに対して、一般にはエレベーターは車椅子の人や足の悪い人のための特別な配慮と思われている。だが階段がなければ誰も上の階には上がれない。とすれば、エレベーターを配慮と呼ぶなら階段も配慮と呼ばなければならないし、階段を当然あるべきものとするならばエレベータも当然あるべきものとしなければフェアではない。実際、高層ビルではエレベータはだれにとっても必須であり、あるのが当たり前のものである。それを特別な配慮と思う人はだれひとりいない。と同時に、停電かなにかでエレベータの止まった高層ビルの上層階に取り残された人はだれしも一瞬にして移動障害者となる。


 大きな会場でのセミナーではマイクとスピーカーが用意される。配布資料を用意するように求められることも多い。プロジェクタを使ってスライドを見せることも当たり前のこととなってきた。マイクの準備を怠って、聴力レベル〇デシベル周辺のいわゆる健聴の人たちにとっても話が聞こえにくい場合には、主催者の失態とみなされる。配布資料もなく、スライドもないというようなセミナーは手抜きということになる。一方、聴覚障害者やろう者のために要約筆記や手話通訳を用意するシンポジウムや講演会はきわめて例外的だ。点字の資料が出てくることはさらに稀だ。だが、もしそれらが提供されるセミナーであれば、障害者に配慮したセミナーであるとされる。当然あるはずのものがないときと、特別なものがあるときの人々の反応はまったく違う。


 要するに、障害は環境依存的なものだということである。人の多様性への配慮が理想的に行き届いたところには障害者はおらず、だれにも容赦しない過酷な環境には健常者はいない。そして中間的な環境には健常者と障害者がいる。そしてそのような中間的な環境では、多数者への配慮は当然のこととされ、配慮とはいわれないが、少数者への配慮は特別なこととして意識される。だから、障害者の権利条約における合理的配慮とは、配慮の不平等を是正するための「必要かつ適切な変更及び調整」という意味であり、過度な負担とはならないにもかかわらず、配慮の不平等を容認、放置することは差別であると明確に規定しているのである。


 障害者の受けている「配慮」(という言葉が適切かどうかはわからないが)は「特別な配慮」としてことさら強く意識されるいっぽうで、健常者はみずからが「配慮」されていることを自身の意識から消しがちだ。さきにみた伊是名さんへの大量の差別リプライにあらわれていたものこそ、こうした意識のありようだった。




4.予算や人員にはかぎりがあるから?


 伊是名さんの今回の行動やブログでの発言を非難するリプライのなかには、障害者の移動を支援するための予算や人員にはかぎりがあるのだから、声高に主張し要求するのには違和感をおぼえるというようなものもあった。でも、予算も人員もこれまで健常者のためにこそ圧倒的に手あつく割かれてきたのである。車いすでは通れない道路をつくるのにどれほどのコストがかけられてきた(いる)だろうか。ところが、もっぱら健常者だけのためにふんだんにつぎこまれてきた予算や人員は、「ムダなコスト」として意識にのぼることがすくない。反対に、障害者に使われようとする予算や人員ばかりが、レンズで拡大されたように私たちの注意をひきやすいのである。


 予算や人員にかぎりがあることは、配慮の不平等を容認・放置する言いわけにはならない。予算や人員を考える以前に大事なのは、私たちがどのような社会をつくっていこうとするのかという理念なのだと思う。差別・不平等をひとつひとつ解消していき、すべての人の移動の自由、それぞれの人の必要とするものや情報へのアクセスが平等に「配慮」される社会をめざすのか。それとも、いまある差別・不平等をいろいろと口実をつけて放置し容認するのか。私は前者をめざすことをえらびたい。


2021年4月3日

公然化されつつある拷問――出国強要の手段としての無期限長期収容


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  出入国在留管理庁(入管庁)のウェブサイトに「入管法改正案Q&A」なるものが公開されている。


入管法改正案Q&A | 出入国在留管理庁


 政府が今国会に提出している入管法の改定案については、難民申請者や非正規滞在外国人の権利擁護に取り組んできた弁護士たちや支援団体などから強い批判がなされている。入管庁の公開した「Q&A」は、こうした批判的な指摘に対して反論しようとするものだ。


 しかし、その内容は、ウソ、デタラメ、ゴマカシのオンパレードで、人をだまそうとするにしてももう少しまじめに取り組んだらどうかと言いたくなるほどの稚拙さである。そのインチキぶりに対しては、弁護士の児玉晃一さんが徹底的な批判をくわえているので、ぜひ読んでみてください。


「そこが知りたい!入管法改正案」 Q&A Q1・2(収容部分)のいい加減さ・無責任さ|koichi_kodama|note

「そこが知りたい!入管法改正案」 Q&A Q3とQ4(退去強制)について 突っ込みどころ満載|koichi_kodama|note

「そこが知りたい!入管法改正案」 Q&A 「Q5 なぜ,日本からの退去を拒む外国人を退去させられないのですか?」について 制度の一部切り取りはやめましょう|koichi_kodama|note

「そこが知りたい!入管法改正案」 Q&A Q6?Q8 長期収容と難民認定(完)|koichi_kodama|note


 というわけで、私のごときがここでつけくわえて書かなければならないようなことはないのだけれど、入管庁のQ&Aについては、1点だけふれておきたい。


 今回の法案において収容期間に上限を設けなかった理由について、「入管法改正案Q&A」はつぎのように述べている。


●例えば,収容開始から6か月が経過したら必ず収容を解くこととするなど,収容期間に上限を設けた場合には,日本からの退去をかたくなに拒み,収容期間の上限を経過した外国人全員の収容を解かなければならなくなります。

そうすると,結局,日本から退去させるべき外国人全員が日本社会で生活できることになり,外国人の在留管理を適正に行うことは困難になります。

●また,収容を解かれることを期待して退去を拒み続けることを誘発し,本来日本から退去させるべき外国人を退去させることがますます困難になります。

●以上から,収容期間に上限を設けることは適切ではないと考えました。


 これはほんとうにひどいことを言っている。6か月ものあいだ、あるいはたとえ1日であっても、人を閉じ込め自由をうばうということがどれほど重大なことなのか、すこしでもまじめに考えたなら、このような言葉を書きつらねることはできないはずだ。入管庁の役人によると、収容期間に上限をもうけた場合、6か月の収容では外国人にとってチョロすぎるのだそうだ。こんなものでは被収容者にとってラクショーすぎて退去を強要するには不十分なので、無期限で長期間の収容ができる現行制度を維持すべきなのだ、と。


 同様のことは、3月5日の閣議後記者会見で上川陽子法務大臣も述べている。


 2点目の収容期間の上限を設けるということについてでありますが,収容期間の上限を設けますと,送還をかたくなに忌避し,収容期間の上限を経過した者全員の収容を解かざるを得なくなるということになります。また,収容を解かれることを期待しての送還忌避を誘発するおそれもあるということでありまして,適当ではないと考えたところでございます。


 この上川発言は、無期限長期収容を送還(出国強要)の手段として自覚的・戦略的にもちいているのだということを公然と認めたという点で、従来の入管当局の立場をふみこえたものだと思う。それについては、以下の記事でも述べたが、そのふみこえた一歩の重大さについてあらためて指摘しておきたい。


上川法務大臣のおどろくべき発言 拷問を送還の手段にもちいることはゆるされるのか?


 入管が収容を出国強要の手段として利用してきたということは、収容経験のある人たちやその支援者らのなかでは、以前から周知の事実だった。この入管のやり方は、収容(=監禁)によって身体的・精神的な苦しみや恐怖をあたえ、身体・精神を現実に破壊もし、そのことで相手の意思を変更させようとせまるものであって、まさしく拷問と呼ぶにふさわしいものだ。


 しかし、上の記事でも述べたとおり、入管の建前のうえでは、収容が長期化するとすれば、それは入管が意図した結果ではなく、また、回避すべき問題なのだということになっていた。3月の上川発言および「入管法改正案Q&A」は、この建前を脱ぎ捨てようとするものだと言える。つまり、収容期間に上限をもうけないのは、「収容を解かれることを期待して退去を拒み続けることを誘発」しないためなのだということを率直にみとめているのである。収容長期化が帰国を強要するために入管自身によって意図的に作り出された状態なのだということをもはや隠していない。


 こうした入管の姿勢の変化は、どう解釈すべきだろうか? 近年、入管の収容・送還をめぐる問題が批判的に報じられる機会は格段に増えてきた。そのために、事実上の拷問をもちいた送還方法をとってきた(いる)ということをもはや隠しきれなくなったのだと、そう解釈するべきだろうか。隠しきれないから開き直っているのだと。


 それとも、世論対策上それを隠す必要がないという状況判断が、入管の姿勢の変化の背景にあるのだろうか。あけすけにありのままをみせても、世論は入管当局の味方についてくれるだろう、と。


 いずれにしても、無期限長期収容とは、「送還をかたくなに忌避」する者をいじめ痛めつけ、帰国をうながすために意図的に採用している送還の手段なのだということを、入管は隠すのをやめつつあるようにみえる。もちろん、拷問としか言いあらわしようのない送還手法が、外部の人目につきにくいようにこっそりおこなわれていようが、あるいは反対に公然とおこなわれようが、その悪事としての重大さにかわりはない。しかし、無期限長期収容は帰国強要の手段であると入管が公然と認めつつある以上、そのようなことを容認してよいのか、私たちは今までよりいっそう問われることになるのではないか。


 悪事が隠され多くの人に知られていないためにみすごされている状況も救いがないが、悪事が隠されておらず公然とおこなわれているにもかかわらずそれが深刻な問題とみなされずに許容されているような状況は、それ以上に救いがない。後者は、悪事をおさえるための規範自体が死滅しつつあるということだからだ。


 日本国憲法は第36条で「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」とさだめている。自民党はこの「絶対にこれを禁ずる」という規定から「絶対に」を削除し、たんに「禁止する」とする憲法改正草案を発表している。


[PDF]日本国憲法改正草案 Q&A(増補版) | 自由民主党


 さきの上川大臣の発言や「入管法改正案Q&A」は、拷問を禁止する規範を骨ぬきにして死滅させようとする自民党改憲案とも同じ方向をむいたものと考えるべきだと思う。


 上川発言などにみられる入管当局の姿勢の変化は、公務員による拷問を禁止する規範がもはや自明ではなくなりつつあること、拷問はゆるされないのだということをあえて言葉にして主張していかなければならない社会状況が生じつつあることを示しているようにも思える。だとするならば、私たちはそれをくり返し言葉にし、何度でも主張していくまでである。