2025年8月31日

差別発言の場に居合わせたこと


 先日のこと。とある会食の場で差別発言が出るのに居合わせた。

 その人は、発言するときに口の前に人差し指を立てて、「ここだけの話なんだけど」とでも言いたげなしぐさをした。その直後に地域を差別する言葉がぽんと出てきた。

 会食の場には10人ぐらいいたのだが、その発言を聞いたのは私もふくめて近くにいた4人ぐらいだったと思う。

 差別発言やそれをした人については、ここであれこれ書くつもりはない。ただ、その発言がでたときの私たちの対応がどうだったかというと、反省しなければならない問題があるなと思い、いまこの文章を書いている。



 3人以上の人がいる場で差別発言が出たときにどうすべきか。最優先で考えなければならないのは、その人が差別発言をするのを続けさせないことである。

 その人が自身のやってしまった言動をふり返り、それが差別であることに気づき、「今後」同じような差別をしないようにしようと考えてくれれば、そりゃ一番いいのだろう。だから、まわりにいる人間は、その人がなぜそういう発言したのかを聞き、それが差別であるということをその人に納得させ、今後そうした発言をしないよう説得しようということを、ついつい試みてしまう。

 でも、差別発言が飛び出したときに、まわりの人間が最優先で対処すべきなのは、説得や議論などではなく、「いま」「この場で」おこなわれている差別発言をとにかくストップさせることである。

 ストップさせると一言でいっても、そのやり方にはいろいろと幅があると思う。こわい顔をして「だまれ」と言うものから、もう少しおだやかに話題を無害なものにずらすというやり方もあるだろう。差別発言した人と自分の力関係もあるので、つねに断固とした強い態度で「差別をやめて」と言えるわけではないだろうけれど、いずれにしろ一番の優先課題は「いま」「この場で」の差別発言をなんとかして止めるということだろうと思う。



 先日の会食では、まわりにいた4人ぐらいの人が、差別発言をした人と「議論」をしてしまった。今になって反省してみると、これはまちがいであった。

 私たちはその人に「あなたはなんでそう思ったの?」とか「どういう根拠があってそんなこと言えるの?」とか聞いてしまった。で、その質問に答えるたびに、その人はつぎつぎと新たな差別発言をくり出してくる。そのたびに「それは差別だ」と批判すれば、その人は自己正当化の理屈でまた新たに差別をぶちこんでくる。離れた席にいて当初このやり取りに参加していなかった人たちも、こちらが不穏な雰囲気をかもし出しているものだから、「なんの話してるんですか?」と会話にくわわってくる。こうして、差別発言のとびかう加害的な状況に、本来なら巻きこまなくてもよかった人まで巻きこんでしまった。

 もちろん、差別発言をするその人が全面的にわるいのだが、それをすぐに止めずに差別発言が出てくる状況を継続させてしまった責任は私たちまわりにいた者にもある。差別発言が出だした早い段階で発言を止める、あるいはその場の話題を別のものに転換させるということはできたはず。その人の考えを聞くにしても、その場から離れて別のところで話す(ゾーニング)という方法もあった。

 こうして後から考えてみると、とるべき対処というのはあきらかなのだけれど、その場ではまったく反対のまずい行動をしてしまったな、と。というわけで今後の教訓とします。


2025年8月24日

【韓ドラ感想】愛はビューティフル、人生はワンダフル


 最近みた韓国ドラマについて。


愛はビューティフル、人生はワンダフル | サンテレビ


 ドラマは立体的につくられていて、どの登場人物に注目するかによって、ちがった見え方がするのだろうけれども。私は、過去に加害行為をおこなった2人の人物に注目することで、興味深く見ることができた。

 ひとりは、裁判官のホン・ユラ。彼女は、自分の息子が老婆をひき逃げした証拠を隠滅し、その罪を他の少年におっかぶせる。老婆は亡くなり、息子は罪の意識にたえられずに自殺する。

 しかし、ホン・ユラは、息子の死が自殺によるものであることを知らない。ちょっとややこしい経緯があって、息子の死は川に落ちた少女を助けようとしておぼれた事故死として処理される。ホン・ユラはそこに疑念をいだくのだけれども、息子の死を「義死」として受け入れることにする。

 ここには自己欺瞞がある。彼女は、自身の行為が息子を自死へと追い込んだのではないかという可能性に当然ながら思いいたらずにはいられないのだが、息子の死を名誉の死だと思い込むことで、その可能性を打ち消そうとするわけである。

 このあたり、他国に対する侵略戦争にかりだして殺人と戦死を強(し)いた兵士を「英霊」などといって神格化する日本人の醜悪な姿のカリカチュアを見せられているように思えて、私にはなかなかきつかった。

 ドラマに登場するもうひとりの加害者は、ムン・ヘラン。彼女は高校時代に同級生(このドラマの主人公であるキム・チョンア)をいじめて、自殺未遂に追い込んだ人物である。9年たってムン・ヘランは被害者のキム・チョンアと期せずして再会してしまうが、自身の過去の加害を反省し、被害者に謝罪することができない。



 加害者が自分の罪に向き合ってつぐなおうとしないことで、被害者はもちろんのこと、加害者のまわりの人間も傷ついていくことになる。

 このドラマでは、2人の加害者が最終的には自分のおかした罪と向き合っていこうとするのだが、そこにいたる2人の葛藤・変化とともに、そのコミュニティの人間(家族)が加害者にどう関わっていくべきなのかという課題が提示されている。

 たとえば、裁判官ホン・ユラに対して、もうひとりの息子のク・ジュンフィ(自死した息子の兄にあたる)が寄りそいつつ、罪をつぐなうようにうながす。身内というのは、加害者にとって、自身の罪にふたをして向き合わない口実にもなる存在である(「自分の息子に自分の恥を背負わせたくない」などと言って)。しかし、ク・ジュンフィはそうやって母の共犯者に自身がなることをよしとせず、母が自身の罪を社会的に告白・公表し、被害者(息子のひき逃げの罪をきせた相手)に謝罪することを決意するのを、かたわらで待ち続け、ささえようとする。

 こういうふうに、加害者が時間をかけながらも変化し罪にむきあうことを、周囲の人間が支援していく過程がえがかれていて、娯楽作品としてそんなドラマがつくれるのはすごいなと感心してしまった。というか、現代の日本でこんな作品はだぶん作られることがないよね、というところにあらためて気づかされてしまった。社会全体で自国政府と自国民の加害の歴史にふたをしようと強迫的になっていることが、どれほど深刻にこの社会をこわしてしまっているのか、考えずにはいられない。



 というわけで、トータルな感想としては、とてもいいドラマを見せてもらいました、なのですけれど。ネガティブな感想も2つほど述べておきます。

 ひとつは、恋愛(男と女の)の要素が過剰で、それがドラマにおいてノイズに私には思えたこと。とくに主人公のキム・チョンアについて。彼女はホン・ユラの息子の自死に立ち会ってしまった人物で、それゆえにホン・ユラにとっても、またそのもうひとりの息子であるク・ジュンフィにとっても、のちに重要な役回りを果たすことになる。で、ドラマでは彼女をク・ジュンフィの恋人として登場させているのだけど、そこは恋愛的な要素ぬきの「友人」とかではダメだったわけ? という違和感はおぼえた。ドラマの中で彼女の果たした(果たしうる)役回りは、恋愛的な情緒に回収してしまうべきでない要素が多分にあるように思えたので。

 もうひとつは、高校生時代にそのキム・チョンアをいじめていたムン・ヘランをめぐって。自身の過去の加害行為に向き合おうとしない彼女に対して、その兄と父親がそれぞれビンタをするシーンがある。男性(父・兄)から女性(娘・妹)に対する暴力が、教育的指導的な目的でふるわれているからといって肯定的にえがかれてしまうのは、よくないと思った。


2025年8月6日

大野埼玉県知事、入管庁「ゼロプラン」、そして朝鮮学校排除


 埼玉県の大野元裕知事が法務省に対し、日本とトルコの相互査証免除協定の一時停止を要望したようだ。


埼玉知事「難民申請に課題」「治安悪化のファクトない」 ビザ問題で [埼玉県]:朝日新聞(2025年7月30日 10時30分)

埼玉県の大野元裕知事、外務省にトルコビザ免除協定の一時停止求める [埼玉県]:朝日新聞(2025年8月4日 20時40分)


 リンクした1つめの記事から、引用する(赤字強調はわたし。以下おなじ)。


 埼玉県の大野元裕知事が、日本とトルコとの相互査証(ビザ)免除協定の一時停止を要望する考えを明らかにした。大野知事は29日、難民申請について課題があるとし、「埼玉には難民申請を繰り返しているトルコ国籍の方が多く滞在しており、それに対する不安が(県に)寄せられていることが大きな理由だ」と説明した。

(中略)

大野知事は「治安が不安定化しているファクトはあまりないが、治安に対して不安感を抱いている方が多い」と強調した。


 知事が「トルコ国籍の方」をあからさまにやっかい者あつかいしているのにビビるのだが(思いっきり差別あおってるよね)、そのやっかい者あつかいしてもかまわないのだとこの人が主張する根拠が住民から「不安」の声がよせられているからなんだという。

 なんだそりゃ……。トルコ国籍の人によって引き起こされる治安悪化の「ファクト」はないけど「不安感」をいだく人が住民に多いから「トルコ国籍の方」は入国しにくいようにしろ、と。知事はそう国に「要望」しているのである。論理もなにもあったもんじゃない。。

 しかし、この埼玉県知事の発言、既視感ありまくりである。こういうの今までいくつも見てきたよ。

 最近では5月に入管が「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」なるものを公表した*1。そのプランをどういう経緯で作ることになったのか、入管庁のウェブサイトで説明されている。その入管庁の文章が、埼玉県知事の大野と同質のムチャクチャさなのである。


 これまで、ルールを守る外国人を積極的に受け入れる一方で、我が国の安全・安心を脅かす外国人の入国・在留を阻止し、確実に我が国から退去させることにより、円滑かつ厳格な出入国在留管理制度の実現を目指してきました。

 しかし、昨今、ルールを守らない外国人に係る報道がなされるなど国民の間で不安が高まっている状況を受け、そのような外国人の速やかな送還が強く求められていたところ、法務大臣から、法務大臣政務官に対し、誤用・濫用的な難民認定申請を繰り返している者を含め、ルールを守らない外国人を速やかに我が国から退去させるための対応策をまとめるよう指示がありました。

「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」について | 出入国在留管理庁】(2025年5月23日)


 「ルールを守らない外国人に係る報道」? 産経新聞とかが書き散らしてる差別記事*2のことか? 「ルールを守らない」に日本人も外国人もないのであって、それを「外国人」の問題として語ってる時点で人種差別以外のなにものでもない。そんな差別報道を真に受けてみせて、「外国人の速やかな送還が強く求められ」とかなんとか、めちゃくちゃにもほどがある。

 だいたい、「ルールを守らない」者は送還だ我が国から退去させるのだとか、さすがの入管法でもそんなザツなこと書いてないぞ。ヤフーニュースのコメント欄でわめいてるネトウヨの頭のなかの世界だよ、そんなの。

 「国民の間で不安が高まっている状況を受け」? 埼玉県知事とおなじこと言ってる。「ルールを守らない外国人がいる」などといって「不安」がってる人がいたら、あなたの言ってること差別だぞと指摘してやんないとダメでしょう。あんたの「不安」が外国人のせいで生じてるとみなし、実際にそう口に出して言うのは差別だよと。「国民の間で不安が高まっている」から外国人をどんどん退去させられるように「対応策」が必要だとか、なにをいってるんだか。

 埼玉県知事の大野や、入管庁の幹部役人たちがやっているように、「国民」「住民」の「不安」を口実に差別的な政策を主張していくのって、非常にタチがわるいものだから、なんかパッとわかりやすいような名前をつけられるとよいと思うんだけど。なにかいい呼び方はないだろうか。

 かつて、つねの・ゆうじろう氏が「差別のアウトソーシング」という見事なフレーズを使っていたものだけれど、大野知事らのやってることもその一種ではあろうと思う。


たとえば、岡林信康の「手紙」を思い出してください。

これは、「みつるさん」が「私」を「ヤリ逃げ」するという物語です。重要なのは、直接の当事者である「みつるさん」は差別主義者ではないことになっている点です。ここには、差別のアウトソーシングを見ることができます。差別をするのは自分ではなくて、「おじさん」なのです。「お前が部落だから結婚するのは嫌だ」というのではなくて、「お前が部落だからダメだとおじさんが言ってるからしょうがないでしょ。俺は気にしないんだけどね、そんなこと」というわけです。

手塚プロダクションの歴史主義とアウトソーシングされた差別 - (元)登校拒否系】(2008-01-20)


 みつるさんが「おじさん」にアウトソーシングしながらみずから差別を遂行するように、大野元裕や入管庁は「国民」や「住民」に差別をアウトソーシングしている。そこにみいだせる構造はおんなじである。差別主義者として想定された「国民」「住民」を口実にして、大野や入管は外国人に対する差別を遂行している。もうすこし適切に言いなおせば、「国民」「住民」を差別の共犯者にしたてあげることで、自身が差別を遂行しようとしている。

 そして、日本の行政のこういうやりかたは、「最近の傾向」などではない。日本政府が高校無償化政策から朝鮮学校を排除した差別のやり口を、いまいちど思い出しておこう。

 2010年4月に民主党政権にてスタートした高校無償化。朝鮮学校も明確にその基準をみたしていたが、政府は「審査中」などと称して朝鮮学校への適用を2年半以上にわたり保留しつづけた。

 2012年に自民党の安倍政権が成立すると、下村博文文科相は「朝鮮学校については、拉致問題に進展がないこと、朝鮮総聯と密接な関係にあり、教育内容、人事、財政にその影響が及んでいることなどから、現時点では国民の理解が得られない」と発言。翌13年2月20日、文科省は高校無償化法の施行規則(省令)を改定し、朝鮮学校がみたしていた適用の基準「ハ」をまるごと削除した。

 つまり、「国民の理解が得られない」という口実で、自分たちが作った法をねじまげて朝鮮学校を無償化政策から差別的に排除したのである。

 そのあたりの経緯は、以下のページがまとまっていてわかりやすいので、参考にしてほしい。


〈高校無償化〉朝鮮学校完全排除を狙った「改正案」、文科省が意見公募 | 朝鮮新報(2013年01月05日 16:00)


 そういえば、おなじ2010年代には、都道府県が朝鮮学校への補助金を打ち切る動きがあいついだが、その定番の口実が「県民の理解が得られない」であった。神奈川県も一例である。


 神奈川県の黒岩知事が13日、神奈川朝鮮学園に対して30年以上も続けて支給してきた補助金を突如打ち切るという暴挙に出たが、同学園に子どもを通わせている保護者らの怒りはおさまらず、県庁への要請が続いている。

 県知事は、「朝鮮学校と北朝鮮は関係ないと、県民に理解してもらう自信がない。盾になり続ける気持ちがうせた」(2月18日、神奈川新聞)と説明したが、国籍、出自にかかわらず、自治体首長には子どもを率先して守る責務がある。核実験と子どもたちはまったく関係ない。黒岩知事は最後まで子どもを守る盾になるべきで、打ち切りを撤回しない限り、子どもたちを再度、社会的な差別にさらすことになる。

黒岩知事は盾になったのか - イオWeb】(2013年2月21日)


 この黒岩神奈川県知事、最近では排外主義に対し「大変な違和感」などと言ってこれに反対するかっこうをつけたりしてて、話題になっていた。


 黒岩祐治知事は9日の定例会見で、参院選の街頭演説などで一部の政党や候補が外国人に対する排外主義的な主張を訴えていることについて、「外国人と共に生きる社会をつくることは基本であり、排外する動きには大変な違和感を持っている」と述べた。

(中略)

 県は多文化共生の取り組みを進めてきたとし、「外国人と調和しながら共に生きるのは県の特徴。しっかりと守り通したい」とも話した。

神奈川・黒岩知事「大変な違和感」 参院選、排外主義的な一部主張に懸念 参議院選挙2025 | カナロコ by 神奈川新聞】(2025年7月9日(水) 22:10)


 あれれ? 12年前に「県民に理解してもらう自信がない」といって朝鮮学校の補助金を打ち切った黒岩さんとおなじ黒岩さんだよね? どうなってるの? 「排外する動き」をになってきたのは、あなたもおなじじゃん。参政党と同類じゃないの? どうしてちゃっかり批判する側にまわってるの?

 しかし、おそらくこういう人は自身の言動に矛盾を自覚していない。みつるさんのように、自身の差別を他者にアウトソーシングしているからである。

 それにしても、私たちは、こうして黒岩や大野や文科省や入管庁などが差別の共犯者として期待する「国民」「住民」「県民」であることを拒否しなければならない。



*1: 宇宙広場で考える: 入管庁「国民の安全・安心のための不法滞在者ゼロプラン」がヤバすぎる(2025年6月7日) 

*2: 宇宙広場で考える: 産経新聞がクルド人へのヘイトスピーチを書き散らしている件(2023年7月31日)