2025年5月29日

「不法滞在天国になってしまう」だって…… 立民・藤岡議員の妄言


「〇〇のくせに」という思考

 差別扇動で商売するゴミクズ新聞のサイトには、あまりリンクをはりたくないのですが。


運転免許証に在留期間記載なく「不法滞在天国に」 外国人の金属盗巡り立民・藤岡氏が指摘 - 産経ニュース(2025/5/23 12:55)


 国会質問などで外国人への嫌悪をあおるのが、議員にとって人気取りの有効な手段になっているということなのだろう。

 それにしても、「不法滞在天国」なんて言葉、よくもまあ口から出てくるものだと、ある意味感心してしまう。立憲民主党の衆議院議員・藤岡隆雄(栃木4区)の発言である。


また、藤岡氏は「不法滞在の人が在留期間を越えていて自動車を運転しても、不法滞在以外はなんの問題もないのか」との疑問をぶつけた。警察庁は「運転という観点では無免許運転には該当しない」と語った。藤岡氏は「不法滞在で運転はオーケーなら、やはり、不法滞在天国になってしまう懸念がある」と指摘した。


 運転免許が取得でき、自動車を運転できるというだけのことがなんで「天国」なのか、さっぱりわからない。

 差別主義の考え方におかされると、たとえば外国人なら外国人が、あるいは女性なら女性が、人間としてあたりまえのことをするのが「分不相応」だとか「生意気」だとかみえるものだ。男がやれば普通とされることでも、同じことを女がやると、「女のくせに」とかそういうことを言い出す。

 こういう差別主義的な考えは、相手になにか責められるような非があるようにみえるときには、いっそう勢いづく。たとえば外国人のなかでも、「不法滞在」というルール違反をおかしている相手だと思えば、ますます「〇〇のくせに」という、まさに差別的としか言いようのない発想をぶつけてもよいのだとなる人間はいるのだ。

 そういうわけで、藤岡とかいう議員のような人間には、「不法滞在のくせに運転免許を取得できるなんて!」「不法滞在で運転がオーケーなのか!」などというばかげたことが、おどろきポイントになってしまうのである。

 この人の「不法滞在天国になってしまう懸念がある」という発言なんて、どうみても誇大妄想としか言いようのないものだけれど、こういう発言が一定の有権者にウケるという計算があるのだろう。実際、産経新聞という排外主義的な連中を読者とする新聞がこうしてくわしく国会質問の様子を記事にして宣伝してくれているわけだし。



「天国」?

 上の産経の記事によると、藤岡が「不法滞在天国になってしまう」として、懸念してみせているのは2点あるようだ。ひとつは、運転免許証に在留期間が書かれていない、また在留期間が切れても免許証としては有効であるため、本人確認のための証明書に使えてしまうこと。もう1点が、さっき引用したように、在留期間が切れても免許証としては有効なので車の運転ができるということ。つまり、(在留期間が切れていることをあかさずに)本人確認ができたり、車の運転が合法的にできたりすることが、「不法滞在天国」だと言っているわけである。

 入管庁が出している入管白書をみると、超過滞在者(在留期間が切れて日本にとどまってる人。入管は「不法残留者」と呼んでいる)は、2024年1月時点で79,000人ほど。

 この人たちの実態を私はくわしく知っているわけではないけれど、「天国」じゃないと思うよ。

 大っぴらに就労できないので仕事みつけるのも大変だし、当然そのぶん条件のよくない仕事ばかり。健康保険に加入できないので病気やケガでも病院に行くのにためらわざるをえない。警察や入管に摘発されると、送還や入管施設への収容の危険がある。このことは、どうしても帰国できないという事情のある人(8万人弱のうちのごく少数だろうけれど)にとっては、非常に深刻な問題だ。なにか困った状況になっても、こわくて警察などをたよるのも難しい。ウィシュマさんだって、DVからのがれようと警察に行ったら、入管送りにされて、しまいには殺されたではないか。運転免許証の交付を受けられるぐらいで「不法滞在天国になってしまう」とか、ばかげた言いぐさにもほどがある。

 入管庁の報道資料によると、退去強制処分を受けて仮放免状態にある人は、2,448人(2024年末現在)だそうだ。こちらは、入管に自主出頭したり超過滞在を摘発されたりなどして、収容は解かれているものの定期的な出頭義務を課して入管が住所などを把握している人の人数。この退令仮放免者と呼ばれる人びとの状況は、私もある程度具体的に知っているけれど、「天国」などと言えるようなハッピーな暮らしをしている人はいない。就労は禁止され、移動の自由は住んでいる都道府県内に制限され、国民健康保険ふくめ社会保障から排除されている。1~2か月ごとの入管への出頭日のたびに、「収容されるかもしれない」「送還されるかもしれない」との恐怖にさらされる。

 仮放免の人なんかは、難民ふくめ国籍国には帰れないという人が多いし、退去強制処分が出てから10年以上という人はぜんぜんめずらしくない。日本での生活が20年とか30年超とかの人もざらにいる。そんな人たちをこれからどうするのかという問題はわきに置くにしても、現に日本に存在し生活している人たちである。車を運転する必要のあるという場合もあるだろうし、本人確認のために運転免許証があると便利だということもあるだろう。そういう生活のささやかな、しかし切実な必要性のあることについて、「不法滞在のくせに運転がオーケーなのか」「不法滞在天国だ」などという理屈にもならない言いがかりをつけるのは、やめてほしい。

 そもそも運転免許というのは、運転の適性のある人に免許を与えることによって道路交通の安全を確保するためのものであるはずで、それを一部の人間から取り上げていじわるすることで人気取りするためのものなんかではない。



「在留活動の禁止」という理屈

 産経新聞がくわしく報じている藤岡議員の国会質問は、入管からの入れ知恵があったのかどうか知らないけれど、その思想が入管っぽいなあという感想を私はいだいた。

 10年近くまえのこと。ある仮放免の人が、役所から紹介されて図書館の蔵書整理のボランティアに参加したことがあった。仮放免には、報酬を受ける活動はしないという条件がつけられているのだけれど、報酬のない活動には参加しても問題ないだろうとその人は判断したのだった。

 ところが、その人が住んでいた地方の入管支局が、これにいちゃもんをつけてきた。仮放免は「在留活動」が禁止されるので、報酬を受け取らないボランティアでもダメなのだという。

 「在留活動の禁止」? 「在留活動」とは何なのか? 道ばたに落ちているゴミを拾うのは「在留活動」か? 来客にお茶を出したり料理をふるまったりするのも「在留活動」か。車を運転して家族を送迎するのは? 息を吸ったりウンコしたりするのも外国人が日本でやれば「在留活動」だろうか?

 結局、図書館ボランティアの件は、入管地方支局に本人と家族・支援者が抗議し、本省(当時の法務省入管)にも問い合わせるなどして、仮放免者がおこなっても問題ないということになったのだと記憶するが、この「在留活動」というのは、その中身をいくらでも拡大して解釈できるところがミソである。

 そして、「在留活動の禁止」うんぬんということは、末端の職員が勝手に言っていることではなく、入管が組織として公式に言っている理屈だ。たとえば、以下の「収容・仮放免に関する現状」と題された入管庁作成の資料*1


収容・仮放免に関する現状[PDF]


 この資料の2枚目で「収容の制度概要」を説明するところに「退去強制手続は,送還の確実な実施,本邦における在留活動の禁止の目的から,身柄を収容して行うのが原則」と書いてある。

 「身柄を収容」する目的として、「送還の確実な実施」とあわせて「本邦における在留活動の禁止」というものがあげられている。これはおそらく、送還の見込みのない人が長期間収容される事例が多々あることを正当化するために言っていることだろうと考えられる。収容は、送還の実施のためだけではなく、「在留活動」をさせないためのものでもあるのだから、当面送還の見込みのない人を継続して収容することがあっても、いたしかたがないのだ、と。

 で、仮放免によって収容を解く場合でも、退去強制手続きにおいては「在留活動の禁止」が原則であるといったところが、図書館でのボランティア活動にいちゃもんをつけた入管職員の理屈であろう。

 このいちゃもん(どうみても嫌がらせ目的の「いちゃもん」でしょ?)にあっては、その理屈は入管の組織で用意しているわけである。その理屈をつかって、末端の職員が仮放免者などにいじわるをする。「在留活動」という言葉はいくらでもその意味を拡大して解釈できるから、職員の悪意しだいで、何でも言える。報酬もらってなくても「活動」だからダメだ、と。

 さすがに食事したり就寝したり子どもが学校に通ったりすることまで「在留活動」だからダメとは言わないかもしれないが、ディズニーランドに遊びに行くとかだったら、底意地のわるい職員だったらダメだとか言いだしかねない。

 「いじわる」とか「嫌がらせ」という言葉を使うと、語弊があるようにみえるかもしれない。しかし、執行部門という部署で働く入国警備官は、退去強制処分を受けた外国人に対して、処分を受け入れて飛行機のチケットを自費で買って帰国するよう「説得」することも職務として課されているのだ。仮放免者の図書館ボランティアにいちゃもんをつけた職員は、むろん職務として「説得」をおこなったものでもあるけれど、それは職務として「いじわる」「嫌がらせ」をしたということでもある。入管は職員に「いじわる」「嫌がらせ」を職務としてやらせているのである。

 図書館ボランティアの事例では、本人たちからの抗議があって、さすがにそこまで禁止するのはやりすぎでしょということに組織としてなったようだが、抗議がなかったり弱かったりすれば、嫌がらせは成功ということになっただろう。警察や役所のような公権力とヤクザなどならず者が、一見ばらばらに行動しているようで役割分担して連携しているのはよくあることだが、入管はそういう連携を組織内でもやっている。職員にもいろんな人がおり、そこは他の集団となんら変わらないと思うけれど、人をいじめるのが好きなひどく性格のわるいやつとか、あるいはある意味きまじめで融通のきかないタイプが、職務としていじわる・嫌がらせをする役目を買ってでているようである。もちろん、職員個々の問題と言うより、組織の問題ではある。



社会の入管化、排外主義天国

 藤岡とかいう議員の国会質問に話をもどそう。

 産経の記事をみるかぎり、この人の一連の国会質問は、まさしく入管の「在留活動の禁止」という発想を体現したものにみえる。この人がもし入国警備官だったら、「仮放免者がボランティア?」「これでは不法滞在天国になってしまうではないか」と意気込んでいじわるにはげむであろう。

 「藤岡議員よく言った」とばかりに記事にする産経の記者とか、その記事読んで「不法滞在でも運転免許が交付されるなんて許せん」などといきどおる読者とかも、入国警備官になったらいや~な仕事するだろうな。

 入管がひっそりとおこなっていたことが、国会質問の場で堂々とおこなわれ、肯定的なかたちで報道もされているのをみると、入管的なものが社会全体に広がりつつあるというか、社会が入管化しつつあるという感をいだいてしまう。「不法滞在天国」というより、「排外主義天国」ですわ。



*1: 「収容・送還に関する専門部会」の第3回会合(2019年11月25日)における入管庁による配布資料。

2025年5月8日

神隠し


  5月の大型連休になると思い出すことがある。

 40年もまえのこと、東北地方にある中学校に入学したてのころだった。

 ちょうどソ連のチェルノブイリで原発事故があった時期*1だが、それは今回の話とは関係がない。学校の規則で、男の生徒は学生帽をかぶって登校しなければならないことになっていたのだが、雨の中かぶらずに歩いていたら、上級生から「おめ、頭ぬらしたら放射能ではげるど。帽子かぶれ」と注意された。その先輩も帽子はかぶっていなかった。学生帽をかぶる規則などほとんどだれも守っていなかった。先輩が言いたかったことは、1年坊主のくせに校則無視するな、ナマイキだぞ、というところだろう。

 今にして思うに、規則とかルールとかいうものについての貴重な知見をこのときに得たのだと思うけれど*2、それは今回書こうとすることとあまり関係はない。

 私が当時くらしていた地域は、例年4月の後半ごろが桜の見ごろで、それは開花時期によって変わるけれど、4月末からの大型連休に街中の公園で敷物をしいて花見をした記憶もある。屋台なども出てにぎやかだった。



 4月下旬のある日、授業時間中の余談としてだったか、教師が話し始めた。連休をむかえるにあたっての注意喚起であった。

 昔その先生の教え子だった女性の話。連休のある日、中学生だった彼女は友人たちといっしょに桜の名所として有名な公園に出かけたそうだ。ところが、その日以来、家に帰ってくることはなかった。いっしょに花見にでかけた友人たちも彼女の行き先は知らず、家族は警察に捜索願を出したが、そのゆくえはついぞわからなかった。

 何年かがすぎ、また桜の咲く季節になった。中学のときの友人がばったりと彼女にでくわした。数年前に彼女の失踪したおなじ公園でのこと。立ち並んだたくさんの屋台のひとつで、彼女はいそがしく働いていた。

 聞くと、数年前ここに花見に来たとき、屋台で働く青年からアルバイト代を払うから少し店を手伝わないかとさそわれたのだという。店の仕事は楽しかったし、青年とも気が合ったので、青年とその家族らについていくことにした。それ以来、各地の縁日や祭りをまわりながら屋台で仕事をしながら暮らしている、と。



 教師がこの話を私たちにしたのは、連休の過ごし方についての注意喚起としてであったと思う。休みになると君たちも心がうわつくものであるし、いろいろな誘惑もあるので、思わぬ大変な目にあうこともあるから注意しなさい、知らない人について行ってはいけませんよ、とか。

 先生がこの教え子の話をしたときに、もっと私たちをこわがらせようとするディテールがそこに盛り込まれていたような気もする。数年ぶりにあらわれた彼女はかわいそうにやつれていたとか、ふけこんでいたとか、不幸そうにみえたとか。そのへんは、もうはっきりおぼえていない。

 ただ、子どもの時期からぬけようとしていた私たちに対し、教師はなにかタブーの存在を伝え、おどかそうという意図をもって話していたのはたしかだと思う。



 このある種の「神隠し譚」を教室で聞いたのは、40年も昔のことである。今やもうずいぶんと年をとった。しかし、なぜか私はそのときの心持ちを――ひんぱんではないものの――くり返し、思い出してきた。

 今いるところにうんざりしていて、そこからふっと消え去ってしまいたい。そういう欲求は当時たしかにいだいていたし、それは切実といえば切実だった。教師の語った物語は、そんな欲求は持つなと禁じようとするものだったけれど、その禁じようとする行為がかえってそれの禁じようとする欲求がそうおかしなものではないということをあかしているようにも思えた。で、その欲求を実現できる可能性もあるのだなと漠然とであれ思えることは、すこし痛快でもあった。

 結果的に私は、当時の家族や学校での人間関係から蒸発するようにいなくなることを選ばなかった。でも、選ぶこともありえたんだよな、私たちは。そこは思いのほか紙一重なのではないだろうか。

 そんなことを思うのは、たんなるノスタルジーのせいでもない。いま私の出会う人たちのなかにも、「この人はかつて生まれ故郷からふらっとゆくえをくらましてきたのかな」と思われるひとも少なくはない。他者というのは、自分のかつて選ばなかった選択肢を選んだ人であったり、あるいは自分の生きなかった可能性をげんに生きているひとであったりもする。そういう他者と出会うことは、よろこばしいことでもある。




*1: 事故発生は1986年4月26日。
*2: たとえばヤフーニュースのコメント欄やSNSなどで、「不法滞在者は犯罪者だ! 強制送還しろ」というような書きこみをしているバカをみかけると、40年まえ私に「おめ、放射能ではげるど」と言ったその上級生を思い出す。上段から人を見下ろして「身のほどを知れ」といばりちらすために規則やルールが都合よく持ち出される例はしばしば観察されるところではある。しかし、そんなふうに人間関係に上下の差別をつけるということは、たんなる規則やルールの「悪用」の結果ということではなく、規則・ルールというものが避けがたくもたされてしまう機能なのではないか。