2024年9月24日

メ~テレ「入管ドクター」を視聴して / 疑似問題あるいは煙幕としての「医療体制」問題

 

1.はじめに

 少し古い番組で話題にするのがやや遅すぎる感もあるのですが、メ~テレ(名古屋テレビ放送)制作の「入管ドクター」を視聴しました。7月20日にテレビ朝日系列で全国放送された番組のようです。私はユーチューブの以下のリンクでみました。


“ブラックボックス”だった名古屋入管の医療現場に初のカメラ取材 3年前の“ウィシュマさん死亡”は、なぜ起きたのか?医師の診療を通して見えた入管行政の現状と課題【テレメンタリー】 - YouTube


 番組は、ウィシュマさん死亡事件から3年後の名古屋入管に取材したもので、事件後に着任した名古屋入管の局長や常勤医師がインタビューに応じている映像のほか、診療室での診察の様子もうつされています。

 私としては、事件について現名古屋入管局長がどのように語るのかとか、新たに着任した常勤医師の目に入管施設の医療がどのようにうつったのかとか、興味深くみたところはありました。

 しかし、番組は、ウィシュマさん事件を考えるうえでその本質から決定的にずれており、その点でとても残念なものでした。事件後、入管は事件の調査報告書などを通じて、論点を事件の本質からずらすような認識操作をおこなってきました。番組の制作者がその論理に無批判に乗せられてしまったということだと思います。

 番組については、すでに以下の記事で的確な批判がなされており、私が指摘しようとする問題点もここで述べられているところと重なるところが大きいのですが、私なりのしかたで批判を書いてみようと思います。


ウィシュマさんの死は「医療事故」ではなく「殺人事件」 - 猿虎日記(2024-07-28)



2.「入管も反省して真剣に改革に取り組んでいる」というストーリー

 番組は、名古屋入管がその収容場における医療体制の改革に取り組んでいる過程を、とくに2023年4月に常勤医師として着任した間淵則文氏の奮闘に焦点をあてて追いかけています。

 批判的な視点をもたずにぼんやり視聴するならば、「名古屋入管も3年前の悲惨な事件を反省し、これをくり返さないために常勤医師を先頭に懸命に努力しているんだなあ」という感想をもってしまいそうです。

 番組の最初のほうで、2023年9月に着任した名古屋入管の市村信之局長は、つぎのように語っています。


 われわれの収容施設の中でお亡くなりになるというのは、私はありえないと思っているので、その重い責任を認識している。こういう施設で人の命をあずかっているという。で、あとは診療体制も3年間で大きく変わっています。


 ここで市村局長は、ウィシュマさんの死亡について「重い責任」を感じているということと、入管としてその後「診療体制」の改善に取り組んできたのだということを、結び付けて語っています。この2つはおたがいに結び付けて語るのにふさわしいことなのか、という疑問を私は強くいだきますが、それはあとで検討します。

 では、市村氏の言う診療体制が「大きく変わっ」たとは、どういうことなのか。番組では、以下の改善点が紹介されています。


  1. 非常勤しかいなかった名古屋入管の医師に常勤(間淵氏)がくわわった。
  2. 救急車が来て病院に患者を搬送するまでの間の救急救命治療のための医療機器、薬品をそろえた。
  3. 医師と局長ら幹部との医療カンファレンスを平日は毎日おこない、情報共有をしている。


 こうした点が示されることで、視聴者の多くは「名古屋入管も事件を反省して真剣に医療体制の改善に取り組んでいるだなあ」という印象を受けることでしょう。

 もっとも、番組全体としては、入管医療に依然として課題が残っていることにもふれてはいます。たとえば、常勤医師について、入管は全国6施設に合計12人の配置しようとしているところ、現状では4人にとどまっているということなどです。また、番組スタッフが面会した名古屋入管の被収容者から「診察を希望しても1週間程度かかる」「内視鏡の検査をしてくれない」といった声があったことを紹介しています。そういった点で、入管に対してまったく無批判につくられた番組というわけではありません。

 しかし、ウィシュマさん事件への反省のうえに上記の改革がすすめられているということを、番組の制作者はおおむね肯定的にとらえており、そこでの関係者の真剣さ・真摯さについてもとくに疑いをはさまずに報じているようにみえます。

 でも、3はともかく、1と2はウィシュマさん事件となんの関係があるのでしょうか。(3のようなかたちで情報共有の課題をウィシュマさんの死亡と結びつけて語ることにも、私は大きな問題があると考えていますが、その話はとりあえずここではおいておきます)。すくなくとも、1と2は、以下でくわしくみるように、ウィシュマさんの亡くなった経緯とまったく無関係の問題であって、これらを持ち出すのは事件の本質から論点をずらすミスリードと言うべきです。

「診療体制もですね、3年間でお~きく変わっています」と語る名古屋入管局長、市村信之氏。



3.職員に「医療知識がほとんどない」ためにウィシュマさんは放置された?

 それぞれについて、検討していきましょう。

 まず、1の常勤医の配置について。番組では、常勤医である間淵氏の判断により、体調不良で食事のとれない状態になっている被収容者が、外部病院での入院と点滴治療につながった事例が紹介されています。

 間淵医師はつぎのように述べます。


 ウィシュマさんのときとちがって、医師が常駐していて、悪くなっていっているというのをちゃんと評価をしながら、すぐ点滴も始めて、危機的なところは脱したけれども、それでもご飯を食べれないということで入院に持っていった。二度と[ウィシュマさんのときと]同じ失敗をくりかえさないということは、うまくいっていると思います。


 番組で紹介されているこのケースについて言うならば、被収容者の命と健康を守るうえで常勤医の設置がプラスに働いた事例と言えるかもしれません。しかし、ウィシュマさん死亡事件について間淵医師が語る内容には、疑問をいだかずにいられません。


 医療知識がほとんどないような人たちが、ウィシュマさんちょっとやばいのかな、しゃべってるからまだいいのかとか、その程度のことでやってたんだよね。お医者さんがみれば、これは検査するまでもなくこれはうちでみとったらあかんわというところで、おそらく救急車を呼んだり、大きい病院に行きなさいと言ったりするわけですよ。それをここにとめとったというところは、言われてもしゃあないな、と。


 間渕氏は、ウィシュマさんが適切な治療を受けられずに放置されたことに関して、救急車を呼んだり大きな病院に連れて行ったりすべきどうかかの判断が「医療知識がほとんどないような人たち」によって行なわれていたことが問題であったと言っているわけです。このような認識からすれば、常勤医が入管に常駐していることで、同様の事件が起こるリスクは回避できるはずだという話になるのも、たしかに道理ではあります。

 一般論として言えば、医師が常駐していることで、入所者の病状についての評価が適切かつ迅速におこなわれやすいという利点は、たしかにあるでしょう。その意味で、多人数の人が収容されている施設において、常勤医師を置いたほうがよいだろうということは、一般論としては理解できなくはありません*1

 けれども、ウィシュマさん事件の理解としては、この間淵医師の発言は的外れです。というのも、ウィシュマさんが適切な医療を受けられずに死ぬまで放置された原因は、「医療知識がほとんどないような人たち」(名古屋入管の看守職員たち)が、「医療知識がほとんどない」がゆえに、ウィシュマさんの深刻な病状を適切に評価できなかったからなどでは、断じてないからです。

 ウィシュマさんが亡くなって5か月たった2021年8月10日に、入管庁は「名古屋出入国在留管理局被収容者死亡事案に関する調査報告書」(以下「調査報告書」といいます)というものを公開しています。この入管側の文書で明らかにされている事実を、2点示しておきます。


(1)2月15日の尿検査で「飢餓状態」を示すとされる数値(ケトン体3+)を示した。ところが、名古屋入管は3月4日に精神科を受診させたのを除いてはウィシュマさんが3月6日に亡くなるまで病院に連れていくことはせず、「飢餓状態」を改善させるための治療を受けさせることはなかった。

(2)亡くなる前日の5日の朝、看守職員がウィシュマさんのバイタルチェックをおこなったが、脱力のため血圧・脈拍を測定できなかった。


 名古屋入管は、(1)のような状況にあっても、点滴治療を受けさせることは最後までありませんでした。ウィシュマさん本人や支援者から再三の要求があったにもかかわらずです。こうしてウィシュマさんが放置されたのは、なぜでしょうか? その病状を適切に評価できる知識と経験のある医師が常駐していなかったからでしょうか? あるいは看守職員らは「医療知識がほとんどないような人たち」だったからウィシュマさんを放置したのでしょうか?

 また、「調査報告書」には「別添」として、1月15日からウィシュマさんが亡くなる3月6日までの経過等の詳細を記した資料が付けられています。これを読むと、常識的な判断として病院にただちに搬送すべきだろうと思わざるをえない状況にいくども出くわします。(2)もそのひとつです。しかし、結果的に名古屋入管はウィシュマさんが死ぬまで救急車を呼ばなかったのです。たとえば、血圧も脈拍も測定不能な状態にある人間を病院に連れて行かず、居室に寝かしたままに放置したのは、入管職員たちが「医療知識がほとんどないような人たち」だったからでしょうか?

 常識的に考えてみましょう。自力で食事をとるのがむずかしく、衰弱しているとはっきりわかる人をみたとき、間淵医師のいう「医療知識がほとんどないような人たち」(私もそのひとりですが)は普通どうするでしょうか。普通、心配してとても不安になるのではないでしょうか。そして、「医療知識がほとんどない」からこそ、病院に連れて行って医師に診てもらおうとするのではないでしょうか。「医療知識がほとんどないような人たち」は、食事をとれずに衰弱している人をほったらかす、などということを、普通はしません。

 しかも、ウィシュマさんの場合、尿検査をしてその数値が飢餓状態を示していたのですから、なおさらです。周りにいる人間が医療の素人ばかりだったから判断を誤った、などという次元の話ではありません。

 救急車を呼ばなかったということについても、同じです。「医療知識がほとんどないような人たち」は、(2)のような状態の人をみたら、普通あわてて救急車を呼ぶでしょう。

 先ほど言及した、食事をとれない状態になって外部の病院に入院した被収容者がいたという事例がありましたが、この人を支援している友人は、番組スタッフの「ウィシュマさんが死んだときはどう思いましたか?」という質問につぎのように答えています。


 こわくて、いやな気持ちになった。入管、そんなに人間としてなんでそこまで放っておけるのか、わからんかった。今でもわからん。どういう気持ちで人間を放っておけたのか、死ぬまで。


 まさにこれこそ、問うべきことがらでしょう。どうして、名古屋入管の職員たちは普通の(常識的な)行動をとらなかった(とれなかった?)のか、ということ。この問いを回避して、現場職員の医療知識や常勤医の設置がどうのこうのといったことを問題にするのは、まったくのナンセンスです。

「人間としてなんでそこまで放っておけるのか、わからん」という疑問。これが問わずにはいられない疑問なのだということは、理解が難しいことなのだろうか。



4.疑似問題としての「医療体制の不備」

 番組では、上でみたように、名古屋入管が医療体制改革の一環として、救急車が到着するまでの救急救命治療のために必要な医療機器や薬品をそろえたということを紹介しています。もちろん、このこと自体は被収容者の命と健康を守るうえでの重要な改善です。しかし、名古屋入管は救急車を呼ばずにウィシュマさんを見殺しにしたのであって、人命を軽くあつかう人間たちが運営する施設では、救急救命のための医療機器や薬品があったとしても宝の持ち腐れです。

 ウィシュマさんを死にいたらしめのは、救急救命のための医療機器・薬品だとか、常勤医師の設置だとか、そうした医療体制の問題ではないのです。「医療体制はまったく関係がない」と言っても言いすぎではありません。だって、当時(2021年)の名古屋入管の医療体制であっても、職員らが常識的に行動していさえすれば、ウィシュマさんの死は避けられたはずだからです。

 みなさんがびっくりするかもしれない事実を、いくつか指摘してみましょうか。名古屋入管は名古屋市内にあります! 番組でもうつっていましたが、名古屋入管のまわりには自動車の通れるアスファルトの広い道路が通っています。名古屋入管は、車の走れない山道の奥にあるわけでも、救急搬送にヘリの不可欠な離島にあるわけでもありません。救急車を呼べば来ますし、患者を入院させてを受けさせるために車で連れていける病院もあります。それらを名古屋入管がしなかったのは、医療体制に不備があったからではありません。

 常勤医師はいないよりもいたほうがよいことも、場合によってはあるかもしれません。救急救命のための医療機器や薬品も、あるに越したことはないでしょう。しかし、それらがなくても、電話も立派な道路も名古屋入管には通っているのだから救急車を呼べたはずだし、入管の車でウィシュマさんを病院に連れていくこともできたはずです。ウィシュマさんを死なせないために支障となるような「医療体制の不備」など存在しませんでした。

 こうしてみると、ウィシュマさんの事件の背景や原因に「医療体制の不備」をみる見方がいかに見当はずれなものか、わかるのではないでしょうか。名古屋入管はたんにウィシュマさんを見殺しにしたのです。



5.「調査報告書」「提言」の欺瞞性

 さっきもすこしふれたとおり、入管庁は事件後21年8月に「調査報告書」を公表しました。その重要なポイントは2つあります。1つは、死因は特定できなかったとして、ウィシュマさんの死亡について名古屋入管の責任を否定していることです*2。もう1つは、改善すべき課題として、全職員の意識改革や被収容者の健康状態等が適切に把握・共有されるための組織改革などとともに、「医療体制の強化」があげられたことです。

 この「調査報告書」を受けて翌22年2月28日には、法務大臣の設置した有識者会議が「入管施設における医療体制の強化に関する提言」(以下、「提言」と言います)をまとめています。


報告書「入管収容施設における医療体制の強化に関する提言」について | 出入国在留管理庁


 「提言」は、常勤医師の確保などによる診療体制の強化、外部医療機関との連携体制の構築・強化、医療用機器の整備などの必要性を述べています。

 「提言」については、「入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合」による批判が出ていますので、読んでみてください。ウィシュマさんは、医療ネグレクトにより見殺しにされたのであって、その背景には収容・送還を人命よりも優先する入管の政策・方針がある。「提言」は「医療体制」に問題を矮小化することで、こうした政策・方針をすすめてきた者たちの責任をごまかしている。そういった批判です。


「入管収容施設における医療体制の強化に関する提言」に対する見解 | 入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合


 「調査報告書」と「提言」をつうじて、入管庁はつぎのように主張していると言えます。すなわち、ウィシュマさんの死亡事案について、死因を特定できなかったので入管の責任だとはいえない。ただし、その経緯を調査をする過程で、医療体制の不備などの課題がみつかったので、これらを改善すべく取り組んでいくつもりである、と。

 入管は、あきらかに重篤である病人をほったらかして殺したことについて、ぜんぜん反省なんかしてないわけです。「医療体制の不備」などというまったく本質的でない問題を煙幕のように出してきて、その改善に取り組む姿勢をみせることで、自分たちがあたかも人権と人命を尊重しているかのように演出している。

 メ~テレ制作の「入管ドクター」は、こうしたはなはだしく欺瞞的な入管の自己演出・宣伝の論理をそのままなぞる番組になってしまっているのです。



6.入管幹部の責任はどこいった?

 メ~テレの番組「入管ドクター」への批判としては、以上でだいたい書きたいことは書きました。

 あとは、さきほど提起した、「なぜ名古屋入管の職員たちは救急車を呼ぶなどの常識的な行動をとらなかった(とれなかった)のか?」という問いについて、すこし述べておきたいと思います。入管職員たちがウィシュマさんを死ぬまで「放っておけた」ということの意味は、正面から考えなければならない問題のはずです。

 番組のなかで名古屋入管局長の市村氏は、つぎのように語っています。ここでの市村氏の発言は、ウィシュマさん死亡事件について述べているものと思われます*3


いわゆる管理するっていう点ばっかりが入管の仕事っていうふうに強調して教え込まれた方が、何人かおられたのかもしれませんね。

(番組スタッフ:そういう時代があったんですか?)まあずっと……私入ったときからそうでしたね、まさに昭和。やっぱり外国人の管理がわれわれの仕事、送還するのがわれわれの仕事、と。[太字強調は引用者] 


 私は、この市村局長の語りを聞いて「ずるいなあ」と思いました。

 市村氏は、被収容者をもっぱら管理の対象としてみるような「入管の仕事」のありようを問題にしているようにはみえるのですが、しかしここで問題にされるのは、「管理するっていう点ばっかりが入管の仕事っていうふうに強調して教え込まれた方」、つまり現場の看守職員のほうだけなのです。一方で、外国人を管理するのがお前たちの仕事だと教え込んできた側を問題にする気はないみたいです。現場職員(「強調して教え込まれた方」)のうちの、一部の職員が問題だった(「何人かおられたのかもしれませんね」)のであって、入管の組織全体を否定すべきではない、とでも言いたそうです。

 番組の他の場面では市村局長は、3年前にはなかったという「職員心得」の一節を指さし、読み上げながら、こう言います。


「人権と尊厳を尊重し礼節を保つ」。これが最上位の心得だと私は思っています。


 言っていることそれ自体は、もっともなことです。しかし、ここでも、入管の幹部の責任は回避しようという市村氏の姿勢があらわれています。

 この「心得」とは、2022年1月に策定された「出入国管理庁職員の使命と心得」と題された文書で、佐々木聖子入管庁長官(当時)の説明によると、名古屋入管での「死亡事案」を受けて、「全職員がその策定プロセスに主体的に参加して作り上げたものです」とのことです*4。いわば、全職員が参加して作り上げた全職員が胸に刻むべき心得といったところなのでしょうが、こうした構図であいまいにされるのは、幹部の責任です。なんか敗戦直後の卑劣かつ恥知らずなアレとそっくりですね。天皇や政府、軍部、財閥など侵略戦争を主導した者たちの戦争責任を棚上げし、「国民全体」が反省し懺悔すべきだとした皇族首相・東久邇宮による「一億総懺悔」論とよく似ています。

 ウィシュマさん事件について、現場で勤務していた看守職員たちの責任を問えないとはもちろん思いません。しかし、現場の職員たちにばかり責任を押しつけて(といってもきっちり処分をしたわけではないですが)、上司が(部下とのあいだのどのような関係性のもとで)どういう指示を出していたのか、またその指示が組織のどういう方針のもとで出されていたのか、といったところの点検がなされないのであれば、その組織は職員たちにとってもクソとしか言いようがありません。

 上の2でみたように番組では、医師と局長ら名古屋入管幹部による医療カンファレンスが開かれるようになったことが医療体制の改善例としてとりあげられています。こういう取り組みそれ自体は、もちろんよいことです。しかし、ウィシュマさん事件への反省に立ってこれを始めたのだという話になると、やはりそれはおかしいでしょう。だって、現場の重要な情報が幹部のところまで来なかった、つまり現場の職員がきちんと報告しなかったのが悪かったのだという、責任転嫁の論理がその前提にあるのだから。ウィシュマさん事件について言えば、こういう前提でしゃべるのは、より大きな責任を問われるべき幹部を免責しようとする問題のすりかえと言うべきです。

 冒頭の1でリンクしたブログ「猿虎日記」で、永野潤さんはこう書いています。


 しかし、ウィシュマさんの死亡は、現場の職員の「知識」の問題でもないし、ましてや現場の職員の「心」の問題などでは断じてない。現場の職員は、病院に連れて行ってと懇願するウィシュマさんに「ボスに言うけど、連れて行ってあげたいけど、私はパワー(権力)がないから」と言っていたではないか。


 看守職員の「ボスに言うけど、連れて行ってあげたいけど、私はパワー(権力)がないから」という発言は、入管庁が裁判の過程で出してきた、ウィシュマさんが亡くなるまえの過程を記録した監視カメラの映像の一部(弁護団が公表しており、マスコミも報じているので、見たことのあるかたも多いかもしれません)で確認できます。

 パワーがある者の責任をきちんと追及することこそ、報道が大きな役割を果しうるところでしょうし、私たち市民にとっても取り組むべき課題としてあるのではないでしょうか。

 なお、ウィシュマさん見殺し事件が、入管の非正規滞在外国人をめぐるこの20年ほどの政策・方針のどのような推移のもとで起こったのか、以下のパンフレットで分析されております。私も執筆にかかわっているひとりであるので、手前みそになってしまい恐縮ですけれど、ほんとうによく考察されていますので、おすすめです。入管の政策や方針との関連を考察することなしに、名古屋入管の職員らがなぜウィシュマさんを見殺しにできたのかという問題にせまることは絶対にできません。


なぜ入管で人が死ぬのか | 入管の民族差別・人権侵害と闘う全国市民連合


 当然ながら、政策も方針も、人間が決めて人間が実行するものであって、そこには責任がともないますし、その責任には軽重があります。だれが何をどうやって決めてきたのか。あるいは、だれが何をどうやって指示してきたのか。民主的なコントロールの外にある官僚機構でおこなわれてきたこれらは、まだまったく十分にあきらかになっていません。

 入管の「ブラックボックス」と言うなら、そこにこそ真のブラックボックスがあるのではないでしょうか。名古屋入管の診療室にカメラが入ったところで、ウィシュマさん事件でかいまみえた「闇」にどれだけせまることができたでしょうか。(了)



名古屋入管前で抗議行動する人たちの映像。ウィシュマさん事件の真相究明と責任追及をうったえている。事件の再発防止のために不可欠なはずのこの2点こそ、本来はもっと時間をさいて番組であつかうべきテーマだったのではないだろうか。



*1: ただし、入管施設においては、常勤医師を置きさえすれば被収容者にとってよりよい医療が提供されると楽観的に考えることはできません。常勤の医師が、入管の送還業務と癒着して医療従事者として本来もつべき独立性をうしなえば、被収容者はまともな医療を受ける機会からますます疎外されることになるからです。入管施設では、常勤医師の存在が被収容者の医療へのアクセスをさまたげるということすらおこりえます。実際、過去の東日本入管センターでは、こうした理由で多数の被収容者から常勤医の免職要求があがり、2012年に常勤医が辞職するということもありました。 


 *2: ウィシュマさんの死因について、「調査報告書」は以下のように結論づけています。 「A氏[ウィシュマさん]の死亡については、司法解剖結果にもあるとおり『病死』と認められるものの、詳細な死因に関しては、複数の要因が影響した可能性があり、専門医らの見解によっても、各要因が死亡に及ぼした影響の有無・程度や死亡に至った具体的な経過(機序)を特定することは困難であると言わざるを得ないとの結論に至った。」(34-5ページ)。 

 ウィシュマさんの遺族が提起し名古屋地裁でおこなわれている国家賠償請求訴訟においても、被告(国)は、死亡に至った具体的な機序を特定できないから国の責任を問えないという趣旨の主張をしているそうです。医療過誤があったのかどうかを争う裁判であれば、この「機序」の特定が重要になるのも理解できるのですが、ウィシュマさんが命をうばわれた過程において、医療上の判断が適切だったかどうかという問題はさほど重要とは思えません。医療上の判断の適切さ以上に、人命を尊重しているのであれば常識的にとるだろう対処を名古屋入管がとらなかったということこそが、重要な点ではないでしょうか。その意味で、死亡に至った具体的な機序がどうだったかということを、国の責任を問うための条件として設定しようとする国の姿勢には、強い違和感をおぼえます。

  そもそも、機序が特定できないから国の責任は問えないなどという理屈を認めるならば、入管は被収容者になるべく診療を受けさせないほうが自分たちの責任を問われないですむ、ということにもなります。被収容者を受診させなければ、その人が死んでもその機序の特定がむずかしくなるのですから。 


*3: ここでの市村氏の発言がどのような文脈でなされたのか(番組スタッフがこの前にどのような質問をしているのか、など)は、番組の映像からは明示されていません。番組の編集上は、さきにふれた被収容者の友人がウィシュマさん死亡事件について「今でもわからん。どういう気持ちで人間を放っておけたのか、死ぬまで。」と語る場面の直後に、この市村氏の発言の場面がつづくという構成になっています。 


*4: 「出入国在留管理庁職員の使命と心得」について | 出入国在留管理庁



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