2022年1月26日

入管庁が人権について現場職員に説教たれる資格があるのか?


【ふりがなを つける】(powered by ひらがなめがね)



 入管庁が職員向けに「使命と心得」なる文書を策定したのだそうだ。失笑するほかない。



 スリランカ国籍のウィシュマ・サンダマリさん(当時33)が昨年3月に収容先の施設で病死した問題を受け、出入国在留管理庁は25日、職員の意識改革のための「使命と心得」を策定したと公表した。「秩序ある共生社会の実現に寄与する」ことを使命に掲げ、「誠心誠意、職務の遂行に当たらなければならない」とした。


 14日付で策定された「使命と心得」は、ウィシュマさんの死亡問題について昨年8月にまとめた調査報告書に盛り込んだ改善策の柱。職員に「人権意識に欠ける」発言があり、体調などの情報共有への取り組みが不十分だったことを踏まえ、使命の実現のため留意が必要な事項として、「人権と尊厳を尊重し礼節を保つ」「風通しの良い組織風土を作る」など8点を挙げた。そのうえで職員に「高い職業倫理」や「絶え間ない自己研鑽(けんさん)」を求めた。

入管庁、職員向け「使命と心得」策定 スリランカ女性の収容死受け:朝日新聞デジタル(伊藤和也 2022年1月25日 10時01分)



 内容だけ読めばもっともらしいことを言っているようだが、問題は「だれが」それを言っているのかということだ。


 「秩序ある共生社会の実現に寄与する」だとか、「人権と尊厳を尊重し礼節を保つ」だとか、まあご立派なことを言っているが、入管幹部は数年前にはこれらとまったく正反対の指示を出しているのである。


 2016年4月7日、法務省入国管理局長(当時)の井上宏は、「安全・安心な社会の実現のための取組について」なる通知を出している。入国者収容所長(牛久と大村の入管センター)と各地方入管局長にむけた通知である。


 この通知のなかで、井上は、「不法滞在者」と「送還忌避者」を「我が国社会に不安を与える外国人」であるとし、これらを「大幅に縮減」するために、「送還忌避者の発生を抑制する適切な処遇」を実施せよとの指示を出している。


 ようするに、収容所でつらいめにあわせ、いびりたおして、「我が国社会」から出ていくようにしむけろ、それが入管収容施設の「適切な処遇」なのだ、と井上は言っているわけだ。


 この2016年通知については、以下の記事に全文を画像で掲載し、批判している。不逞外国人は収容施設で虐待してわが国から追い返せという内容の指示を入管局長がほんとうに文書で出しているのです。ウソだと思うかたは、一読してご自身の目でたしかめてください。


「送還忌避者の発生を抑制する適切な処遇」とはなにか? 国家犯罪としての入管収容(2021年10月28日)


 それにしても、6年前の入管局長通知では、劣悪な処遇で収容することで日本からたたき出せという内容の指示を出しておきながら、その同じ口でよくもまあ「人権と尊厳を尊重し礼節を保」ちなさいなどと現場職員に説教をたれるものだ。ふざけるのもたいがいにすべきである。


 ウィシュマ・サンダマリさんを死亡させた事件を反省し、再発防止に取り組もうとするうえで、入管庁が人権について現場職員に説教するなどまったくのナンセンスである。だって、いびりたおして自国へ追い返せと指示を出してたのは入管の幹部どもなのだから。収容所に閉じ込め拷問して帰国へと追い込むことで「送還忌避者」を「大幅に縮減」すべきだというのは、入管幹部が決めた方針であって、現場職員たちが勝手に判断してやったことではない。


 犯罪組織のボスが、手下に指示して犯罪を実行させておきながら、その責任を問われると「若い衆にはよく言い聞かせておきますから」などと言ったとして、それでだれが納得するだろうか。首謀者をこそ追及し、罪に問うべきだろう。もちろんここで「犯罪組織」うんぬんと書いたのは、比喩でもたとえ話でもないです。


2022年1月10日

「どっちの拷問が人道的か?」強制収容所の処遇改善についての考察


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  かつて大阪府茨木市にあった西日本入国管理センター(2015年に閉鎖)の2001年頃の被収容者に対する処遇について、先輩の支援者から話を聞く機会があった。記録として残すべき重要な歴史の一部分だと思うので、書きとめておきたい。



かつて開放処遇はなかった!

 私が非常におどろいたは、当時は開放処遇というものがなかったということだ。


 現在では、全国のどの入管施設でも、一日のうち一定の時間帯は被収容者が自分の居室から共同スペースに出ることのできる開放処遇が実施されている。開放処遇の時間帯には、被収容者は洗濯機を使用したり、シャワーをあびたり、他の部屋の人と交流したりということができる。


 参考までに、現在の大阪入管での被収容者の一日のスケジュールを紹介しておく。


7:40~ 朝食

9:00 点呼

9:30~11:30 開放処遇

11:30~13:30 施錠

11:40~ 昼食

13:30~16:30 開放処遇

16:30~ 施錠

17:00 点呼

17:10~ 夕食


 開放処遇は、午前2時間と午後3時間のあわせて5時間。のこりの19時間は、居室に施錠されて閉じ込められる。


 それぞれの居室(雑居房)は大阪入管の場合は定員6名。ただし、定員いっぱい収容されるということは、昨今ではほとんどないので、ひとつの部屋に1~4名ぐらい。いまはコロナ禍で入管は被収容者数を減らすようにしているので、ひとりに1部屋がわりあてられていることが多いけれど、1日のほとんどを外からカギのかけられた小さな部屋ですごさなければならない。


 ひどいあつかいである。こんなものが人権を尊重した処遇だと考える人はいないだろう。もしいるならば、その人は自分の倫理観を深刻にうたがったほうがよい。


 ところが、20年前はこのたった5時間の開放処遇すらなかったのだという。1日のうち居室から出られるのは、シャワーや洗濯のための15分だけ。ほかに運動場に30分出ることの許される日があるが、毎日ではない。その何日かに1回の30分の運動時間も、雨がふれば中止。


 外部との通信もきびしく制限されたそうだ。外部に電話をかけるのは事前申し込み制で、弁護士への連絡か、帰国の準備のための家族への連絡か、この2通り以外では許可されなかった。


 このような状況で精神を正常にたもつことは容易でないだろう。実際、弁護士が代理人になって裁判を起こしても、判決が出るまで裁判を維持できるのは非常にまれであったという。裁判の途中でほとんどの人は収容にがまんできなくなって帰国してしまうからだ。



一定程度の「改善」

 こうしたすさまじく劣悪な処遇が、西日本入管センターにおいて「改善」されはじめたのが2003年ごろだったという。


 2001年9月11日、米国の世界貿易センタービルと国防総省がハイジャックされた航空機による自爆攻撃を受けると、米国は「対テロ戦争」と称し、翌月にはNATO軍とともにアフガニスタンへの侵略を開始。


 米軍などによる罪のないアフガニスタンの人びとに対する軍事攻撃・殺戮が始まったおなじ10月に、日本政府はアフガニスタン国籍の難民申請者をつぎつぎと摘発し、入管施設に収容した。この一斉収容事件については、弁護士の児玉晃一氏が当時のことを証言したインタビュー記事がいくつかあるので、ぜひ読んでみてほしい。


日本はアフガニスタンからの難民にどう向き合ってきたのか | Dialogue for People(2021.9.10)

9.11同時多発テロ後、突然収容された日本の難民申請者たち。あれから難民の収容は変わったか? - 認定NPO法人 難民支援協会(2019.7.17)


 さて、この、入管がアフガニスタン人難民申請者を一斉収容した事件をきっかけに、入管収容の実態が報道もされ、社会問題化したのだという。


 こうして入管施設のあり方への社会的な批判が高まったことをおそらくは背景にして、入管は被収容者に対する処遇を一定程度「改善」する取り組みを始める。大阪の西日本入国管理センターでは、2003年の1月から7月にかけて収容所内の改修工事をおこなって各居室の外に被収容者が共同で使えるスペースをつくり、開放処遇を順次開始していったのだという。



どちらの拷問が人道的か?

 入管施設に閉じ込められた人たちにとって、開放処遇があるかないかというのは、たしかに大きなちがいのあることであろう。一日中を歩きまわれるスペースもないような小さな雑居房ですわっているか横になっているかしてすごすのと、わずか5~6時間であってもその小さな房から出ることができるのとでは、心身にあたえる影響はぜんぜんちがってくるだろう。西日本入管センターでも、開放処遇のなかった時代には、6か月をこえるような長期収容の例はごくまれだったのだそうだ。帰国できない事情のある人でも短期間でほとんどの人がまんできずに音をあげるほどに収容が過酷だったからだ。


 でも、そのいっぽうで、「そこに本質的なちがいがあるのだろうか?」ということも問わなければならないと思う。一日のうち何時間かせまい居室から出ることができるといっても、たんにそれは施錠された檻がすこし大きくなるにすぎない。自由がうばわれていることにはかわりがないのだ。


 それだけではない。2003年から西日本入管センターが開放処遇をはじめたといっても、その前後で入管にとっての収容の目的がかわったわけではない。被収容者を精神的肉体的に痛めつけて帰国に追い込むこと。これが入管の一貫した収容の目的である。


 開放処遇の導入によって生じたのは、短期間で急いで帰国に追い込むか、長期収容によって時間をかけて帰国に追い込むかのちがいでしかない*1。社会状況の動向に適応させて拷問のやり方をかえただけのことだ。


 監禁して自由をうばい、心身の健康をおのずとくずすような状況に被収容者を置くことで、日本から出ていくように強要する。これは苦痛や恐怖を与えて相手の意思を変更させようとする行為であって、比喩でも誇張でもなく拷問とよぶべきものだ。相手の心身に激しい苦痛を短期間にたたきこむか、それとも6か月、1年、2年と長い時間をかけて心身に徐々に蓄積していくように苦痛を与えていくか。どちらのほうが人道的だろうかと問うのはナンセンスだ。いずれにしても、拷問であることにちがいはないのだから。



処遇は問題の本質ではない

 ここまで、もっぱら開放処遇のあるなしという一点のみで私は語ってきた。もちろん、この開放処遇の有無やその時間の長さは、被収容者に対する処遇のさまざまにある要素のうちのひとつにすぎない。しかし、医療や食事の質、運動時間や最大限の自由の確保など処遇の他の要素についても、その「改善」というものが、ほんとうに施設に収容された人の人権保障にはつながるものなのかということは、よくよくうたがってかかったほうがよい。とくに当局が処遇問題の改善に取り組もうとしているかのようにみずからを宣伝するときには*2


 入管施設について処遇問題は、重要ではないとは言わないけれども、けっして本質ではない。


 たとえば、2021年3月に名古屋入管でウィシュマさんが見殺しにされた事件は、医療体制などの処遇の不備によっておこったものではない。入管が早期に仮放免を許可するか、外部病院に入院させて点滴治療をするか、あるいは亡くなってしまった日の少しでも前に救急車を呼んでいれば、ウィシュマさんが命をうばわれることはなかった。収容を継続すること、またこれによって送還を遂行するということに固執したことで入管はウィシュマさんの命をうばったのである。


 また、2019年6月に大村入管センターでナイジェリア人被収容者が長期収容に抗議するハンストのすえに餓死した事件も、やはり収容継続に固執するあまり、入管が見殺しにしたというものである。長期収容によって死に追いやったのであって、処遇問題によっておきた事件ではない。


 処遇の改善をはかっても、入管施設内であいついでいる自殺をふくめた死亡事件をふせいだり、人権侵害をなくしたりといった問題解決には、かならずしもつながらない。ある意味での処遇改善が長期収容を可能にしている側面すらあるのだ。問題の本質は、日本政府やそのもとで動いている入管という組織が収容という措置を帰国強要のための拷問としておこなっていることにある。処遇はあくまでも二次的な問題にすぎない。収容期間に上限を設定するなどして長期収容という拷問をやめさせれば、医療をはじめとした処遇の問題の多くは格段に小さくなるはずである。

 



1: 現在、入管が「送還忌避者」を帰国に追い込むために長期収容という手段を自覚的・戦略的にもちいているということ、またそのことを法務大臣や入管庁の広報がもはや隠そうともせず公言していることについては、このブログでも以下の記事などで何度か述べている。
日本社会の問題として考える――入管の人権侵害(その1)(2021.12.5)
公然化されつつある拷問――出国強要の手段としての無期限長期収容(2021.4.3) 

 

2: なお、入管幹部は近年、処遇改善に取り組むどころか、これとまったく反対の指示を全国の収容施設の長にむけて出していることはつけくわえておかなければならない。「送還忌避者の発生を抑制する適切な処遇」に取り組めとの内容をふくむ2016年の法務省入管局長通達である。これはようするに、処遇を劣悪なものにとどめることによって「送還忌避者」を帰国に追い込めと命じていると解釈するほかない。この通達の問題については以下の記事で述べている。

2022年1月5日

ヒステリックな声


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(1)こっちを巻きこまないでほしい

 先日、入管の収容施設の前で30人ほどで抗議行動をおこなっていたときのこと。


 近隣の学校の学生さんたちが苦情を言ってきた。勉強しているところに私たちの抗議の声がうるさくて集中できないのだという。私たちは、拡声器を使って入管の7階と8階の収容場に声が届くように声をあげていた。収容されている人たちからの「ありがとう」「助けてください」とさけぶ声も、聞こえていた。学生さんたちが言うには、自分たちは近く国家試験をひかえているのだけれども、私たちの抗議の声がけっこう声がひびいてしまっており、勉強のさまたげになっているのだということだった。


 公共の場でおこなわれる抗議というのは、他人の生活に介入することになることもしばしばで、その介入のしかたはある意味で暴力的でもありうる。自室や教室などで勉強している人にとって抗議の声はジャマな騒音でしかないだろうし、デモ行進はこれもまた迷惑な交通渋滞をひきおこすことがある。


 抗議をジャマだ迷惑だと言う側からは、「時と場所をえらんでやればいいじゃないか」と言われることがある。でも、時と場所を選んでいられないことだってある。路上で倒れてうごけなくなっている人は、通行人に助けをもとめるのに時と場所をえらんでる余裕はない。自分以外のだれかが助けを必要としているという場合でもおなじだ。危機にひんしているだれかを自分ひとりでは助けられないときは、ほかのだれかに呼びかけて手をかしてもらうしかない。それも時と場所をえらんではいられない。


 私たちが抗議をしているのも、それぐらいせっぱつぱった事情があってのことだ。人の生き死ににかかわることで、声をあげている。


 抗議の声や行動がうっとおしく感じる人は、それぞれの生活があり事情があってそう感じているのだということは、わかっている。国家試験はその人にとっての一大事だろうし、重要な商談があって渋滞にはまってる場合じゃないということだってあるだろう。でも、抗議する者にとって、そんなのかまってられないということだってある。


 そこにはある種の敵対性があるのだということは否定できない。敵対性は、抗議する者とその抗議しようとする相手とのあいだにあるだけではない。抗議者とこれをジャマに思う通行人や近隣住民とのあいだにも、それはたしかにある。


 抗議の声をやかましく感じ、デモを迷惑だと言う人は、試験勉強したり商談にむかおうとしたりしている自分をそこに「巻きこまないでほしい」と思うだろう。そう思うのは、その抗議の内容が自分と無関係だと考えるからだ。そういう人は抗議者に「ヨソでやってくれよ」と言うだろう。でも、この社会の差別や政治の作為・不作為によってだれかが命や生活を破壊されようとしているとき、それと無関係な第三者なんてものは存在しない。だから、抗議者は公共の場所、通行する人たちや職場や学校がそこにある人たちの視界や耳にいやおうなしに入ってくる場所に立ち声をあげる。



(2)だまらせたい、耳をふさぎたい

 さて、国家試験の勉強をしているところに、前の道路で拡声器をつかった抗議行動をされたら、うるさいと感じるのは当然でもある。しかし、抗議の声がうるさく感じられるのは、かならずしもその声の物理的な大きさだけに由来するわけではない。


 自分自身がまさに抗議によって問われているという自覚が多少なりともある人は、それが自分とはまったく無関係だと思って聞いている人以上に抗議の声をうるさく感じることがあるだろう。たとえば、女性があげる性差別への抗議の声を男性はしばしばうるさく粗暴なものとしてあつかう。実際、女性による抗議の声は、男性によってヒステリックなもの、論理性に欠けた感情的なものとして表象されてきた。


 自分自身のあり方が問われているということ、自身があたりまえであると感じてきたことが男性という属性に付与された不当な特権であるということ。そのことが抗議によって自身につきつけられている。そう自覚しつつも、その認識を否認しようとする身ぶりが、抗議の声をヒステリックなものと決めつける男性のふるまいにほかならない。


 他者の声にヒステリーという意味づけをするところには、ひとつには、うるさいから相手をだまらせたいというおもわくがある。と同時に、そこには相手の抗議・批判をまともにとりあう必要のないものとして矮小化しようという意思がはたらいている。相手の言葉を矮小化したいのは、それによって自分が問われているということ、その批判が必ずしもマトはずれなものではないということを、多少なりとも理解しているからだ。無視できないということがわかっているからこそ、それを矮小化しようとするのである。相手の言葉をとるにたらないものと矮小化するのは、相手をだまらせるためというよりも、自分(たち)の耳をふさいで相手の声を聞こえなくしようとする身ぶりである。


 声がヒステリックに聞こえるのは、聞いている側がそう意味づけているからであって、抗議者の声にそう聞こえる原因があると考えるべきではない。また、抗議の声をヒステリックなものとしてあつかおうとするのは、それを向けられた者がこれを拒絶しようとしているということであって、それは同時に声が届いているということのあかしでもある。抗議の声が自分にとって無視できないものだと受け取っているからこそ、これをヒステリックな声であるとして拒絶しようとするのだ。


 だから、抗議をおこなう側にとって、相手がうるさく感じないように、自分の声がヒステリックなものと受け取られないようにするのは、意味がないし、本末転倒ですらある。



(3)小さな声を、聴く力

 岸田首相は、昨年9月の自民党総裁選で「聞く力」が自身のアピール・ポイントだと語っていたようだ。また、連立与党の公明党は、2019年から「小さな声を、聴く力」というキャッチコピーをつけたポスターを街頭などに貼りだしている。


 しかし、権力をもつ者がアピールする「聞く力」などというものを真に受けるべきではない。どの声を聞き、また、どの声を聞かずに無視するのか。それを思うがままに選択できるということが、権力をもつということだからだ。「小さな声を、聴く」などと言っている政治家も、こっちがほんとうに小さな声でうったえたら聞こえないふりをしてくるかもしれない。しかたなく大きな声を出したら「うるさい」と言われて聞いてくれないということもある。聞きたい声だけを聞き、聞きたくない声は聞こえなかったことにする。その選択ができるということが権力なのだ。


 これは首相や与党政治家といった、多数の人間に政治権力を行使できる立場にある者たちだけに関係する話ではない。上司と部下、教師と学生といった非対称な権力関係が生じる場面すべてにあてはまる話である。2人の人間がいて、そこに権力差があるとき、権力の小さい者は相手の声を無視するということがむずかしい。しかし、権力の大きい者にとっては、相手の声を聞いたり聞こえなかったふりをしたりという選択が容易にできる。


 権力の大きい者は、相手が小声でささやくのに対し、聞こえていないふりができる。相手が大声をだせば、さすがに聞こえていないふりをするのはいくらか難しくはなるだろう。しかし、その場合でも権力の大きい者は、相手の声は聞くにあたいしないのだということを言いたてることができる。あなたの言い方はヒステリックだから、粗暴だから、私を傷つけるから、だから聞く必要はないのだ、私が耳をかたむけないのはあなたに原因があるのだ、と。聞いてほしければ、感情的にならずに冷静に話してくれ、と。トーン・ポリシングというやつだ。


 抗議の声をあげようとする者は、こうしたトーン・ポリシングに耳をかす必要はない。自分の声を相手が聞こうとしないのは、それがヒステリックだからではない。粗暴だからではない。冷静さを欠いているからではない。礼儀にかなっていないからでもない。そこに権力差があるからだ。相手が自分の声を無視できる権力をもっているからだ。



(4)いきり立ったヒステリックな人々

 脚本家の太田愛氏のブログ記事が話題になっている。


相棒20元日SPについて(視聴を終えた方々へ) | 脚本家/小説家・太田愛のブログ


 この記事では、元日に放送されたテレビ朝日のドラマ『相棒』に、太田氏の脚本にはなかったシーンが不本意なかたちで入っていたということが、以下のように述べられている。



右京さんと亘さんが、鉄道会社の子会社であるデイリーハピネス本社で、プラカードを掲げた人々に取り囲まれるというシーンは脚本では存在しませんでした。


あの場面は、デイリーハピネス本社の男性平社員二名が、駅売店の店員さんたちが裁判に訴えた経緯を、思いを込めて語るシーンでした。現実にもよくあることですが、デイリーハピネスは親会社の鉄道会社の天下り先で、幹部職員は役員として五十代で入社し、三、四年で再び退職金を得て辞めていく。その一方で、ワンオペで水分を取るのもひかえて働き、それでもいつも笑顔で「いってらっしゃい」と言ってくれる駅売店のおばさんたちは、非正規社員というだけで、正社員と同じ仕事をしても基本給は低いまま、退職金もゼロ。しかも店員の大半が非正規社員という状況の中、子会社の平社員達も、裁判に踏み切った店舗のおばさんたちに肩入れし、大いに応援しているという場面でした。


同一労働をする被雇用者の間に不合理なほどの待遇の格差があってはならないという法律が出来ても、会社に勤めながら声を上げるのは大変に勇気がいることです。また、一日中働いてくたくたな上に裁判となると、さらに大きな時間と労力を割かれます。ですが、自分たちと次の世代の非正規雇用者のために、なんとか、か細いながらも声をあげようとしている人々がおり、それを支えようとしている人々がいます。そのような現実を数々のルポルタージュを読み、当事者の方々のお話を伺いながら執筆しましたので、訴訟を起こした当事者である非正規の店舗のおばさんたちが、あのようにいきり立ったヒステリックな人々として描かれるとは思ってもいませんでした。同時に、今、苦しい立場で闘っておられる方々を傷つけたのではないかと思うと、とても申し訳なく思います。どのような場においても、社会の中で声を上げていく人々に冷笑や揶揄の目が向けられないようにと願います。



 私はこの放送を見ていないのだけれど、声をあげる者、権力にあらがう者を粗暴な存在としておとしめる表現は、この国ではありふれている。「いきり立ったヒステリックな人々として描かれる」のは、たとえばフェミニズムをおとしめるのに定番のイメージとなっている。太田氏のブログは、不公正や差別に立ち向かい声をあげるという行為に対し悪意をもってことさら否定的に描写しようとするドラマ制作者のありようを記録し、これを問題化したという点で、貴重なものだと思う。



(5)ヒステリックでなにがわるい?

 さて、太田氏は「今、苦しい立場で闘っておられる方々を傷つけたのではないかと思うと、とても申し訳なく思います」と書き、また「社会の中で声を上げていく人々に冷笑や揶揄の目が向けられないようにと願います」と書いている。こうした発言は、不公正や差別にあらがい声をあげていこうとする人びとに寄り添っていこうとするものなのだとは思う。


 でも、そうやって寄り添おうとしたり、あるいはともに声をあげようとしたりするときに、「いきり立ったヒステリックな人々」とみられ「冷笑や揶揄の目」を向けられながら、それでも声をあげてきた先人たちへのリスペクトはもち続けていたい。これは私自身のこととしてそう思っている。


 声をあげるときに、相手からそれがヒステリックな声と受け取られないように、いきり立った人たちと自分が同類だとみられないように、あるいは世間からスマートにみられるようにと自己規制したくなったら、それはまちがった方向に進みつつある兆候である。それは、世間の多数者や権力のある者に自分がみばえよくうつるようにありたいという誘惑であって、声のもつ力をそぐものである。