武蔵野市議会で審議されていた住民投票条例案が21日、否決され、成立しなかった。
産経新聞によると、国民民主党代表の玉木雄一郎氏は、条例案が外国人住民にも投票権を認めていたことについて、「こういうことが(外国人に対する)地方参政権の容認につながっていく。否決されて安心したというのが率直な思いだ」と述べたそうだ。
国民民主・玉木氏「否決され安心」 武蔵野条例案 - 産経ニュース(2021/12/21 17:40)
産経の同じ記事によると、玉木はこうも言ったのだという(太字での強調は引用者)。
玉木氏は今回の住民投票条例案に関し「外国人の権利の保護を否定するものではないが、極めて慎重な議論が必要だ」と指摘。その上で「憲法に外国人の権利をどうするのかという基本原則が定められておらず、ここが一番の問題」との認識を示した。
さらに、「まずは外国人の人権について憲法上どうするのか議論すべきで、そういう議論がなく拙速に外国人にさまざまな権利を認めるのは、極めて慎重であるべきだ」と強調した。
「外国人の権利の保護を否定するものではない」と言っているが、玉木氏は明確に外国人の権利を否定している。
玉木氏は、「まずは外国人の人権について憲法上どうするのか議論すべきで、そういう議論がなく拙速に外国人にさまざまな権利を認めるのは、極めて慎重であるべきだ」と言っている。なるほど、「議論すべき」だと。なんとなくいいことを言っているようにも聞こえますね。議論することは大事だ、と。なるほど。
しかし、ここで問題になっているのは、「外国人の人権」である。それ、議論が必要なんですか? 「外国人の人権」を認めるべきかどうか、議論しないと決められないんですか? あと憲法がどうのと言ってますけど、憲法で人権をいかに制約するかとか議論するつもりなんですか? おそろしい!
もうすこしわかりやすいよう、親切に説明してみますね。
「玉木雄一郎をぶっ殺そうと思うんだけど、みなさんの意見はどうですか?」と私が議論を提案したとします。玉木氏は「なにおそろしいこと言ってんの!」と思うんじゃないですか。そしたら、私は玉木氏に言うわけです。「おまえに聞いてないよ。あっち行け」。
私はなにも極端なたとえ話をしているわけではない。人権というのは、自分が住んでる国や地域の意思決定への参加の権利もふくめて、その人の生き死ににかかわることがらだからだ。外国人の人権について「議論すべき」だという玉木氏の発言は、それ自体が「外国人の権利の保護を否定するもの」にほかならない。しかも、その議論は、当の外国人住民ぬきでやるというわけでしょう。
「議論があることはよいことだ」ということをおっしゃるかたはよくいる。でも、「議論がある」ということ自体、また「議論の余地があると考えられている」ということ自体が、その社会のマジョリティがマイノリティにむけている暴力性をしめしている、という場合がある。「外国人の人権を認めるべきかどうか」「女性の人権をどの範囲まで認めるべきか」「障害者に人権はあるか」「セクシュアルマイノリティの人権を認めてもよいか」。そういった議論が推奨される社会、そこに議論の余地があると考えられている社会がだれをおびやかしているかということに、マジョリティはなかなか気づきにくい。
これは玉木氏だけの問題ではない。げんに、武蔵野市の住民投票条例案については、外国人住民の投票権を認めるべきかどうかということが、なんと議論の対象になったのである。そしてこうした侮蔑的な暴力的な「議論」がなされてしまうのは、いまに始まったことではない。そのこと自体が深く恥ずべき事態であって、同時に私は強いいきどおりをおぼえる。玉木氏のような差別主義者は「もっと議論を」と言うだろうが、私は「もっと怒りを」と言うところから始めたい。
追記(12月23日、20:29)
外国人の人権享有主体性については様々な意見があります。100%これが正しい、これが間違っているというものではありません。我が党としては、憲法上の位置付けをどうするかも要検討としています。だだ今回は民主的手続きを経て否決された以上、慎重に対応すべきでしょう。
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