2020年9月22日

ここにいる「資格」が問われるということ


【ふりがなを つける】(powered by ひらがなめがね)


 入管による強制送還の対象になっているけれどそれぞれ事情があって「帰国」できないという人たちがいる。そうした外国人たちに、半端ながらボランティアの「支援者」というかたちで私がかかわるようになって10年ぐらいになる。

 日本にパートナーや子どもがいるため、国籍国には帰れない人。あるいは、帰国すれば迫害などの危険がある人。そういった人たちが、退去強制処分を取り消され、在留資格を獲得して日本で暮らせるようになることが、支援のゴールだと思って私は活動している。いったん入管から送還の対象とされた人であっても、その後の状況の変化などをくんでこれを救済する制度がある(法務大臣の権限による在留特別許可)。しかし、この救済措置が現在はきわめて限定的にしかもちいられておらず、その運用を変えさせるための運動も必要だ。

 支援であれ運動であれ、こうして在留資格の獲得をめざしていくこと自体は、あくまでもいまの入管制度の枠組みを前提とした取り組みである。また、その枠組みのなかでの「救済」を切実に必要としている人は、まだまだたくさんいる。だから、当分は制度の枠内でやれることをやっていかなければならない。ただ、そうだとしても、その枠組みを批判的に問い返す思考をおこたってはいけないとも思う。



「資格」を問われることがないという特権


 入管法とよばれる法律(正式名称は「出入国管理及び難民認定法」)のもとでは、外国人は在留資格がなければ日本にはいられないことになっている。日本で暮らしていくうえで、在留資格があるかないかということは、文字どおり死活問題というべき切実な問題だ。しかし、在留資格のあるなしにかかわらず、外国人住民は在留に「資格」を問われる身分に置かれているということにはかわりない。

 一方で、日本に在留することに「資格」を問われることのない身分が存在する。日本人1である。入管制度において日本人を外国人とへだてている決定的に重要な差異は、日本人は日本に在留することに「許可」を必要としないということ、「資格」なしに日本で暮らしたり出入りしたりできるということだ。しかし、日本人の多くは、それが特権的なことだと意識することはほとんどないだろう。私もそうだった。

 「資格」を問われることがないという特権性について私自身、問題意識をもつようになったのは、外国人とのかかわりをとおしてであった。

 外国人の知人から、以下のような話を聞いたことがある。彼女は永住者の資格をもつ人であるが、あるとき、入管職員からこう言われたという。「ビザ(在留資格)のない人を知っていたら、教えてください」と。この職員が入管のどの部署の職員なのかはわからないが、入管という組織は、いわゆる「不法滞在者」の摘発をおこなうにあたって、このようにいわば密告をうながし、そうして提供された情報を活用している。

 この入管職員に対してどう切り返したのか、彼女がニコリとしながら教えてくれた。「『ビザがない人ならたくさん知ってる』って言ってやったんだよ。『うちのアパートのとなりの人がビザない人だよ。うちの子の学校の担任の先生も校長先生もビザないよ。日本人はみんなビザないでしょう』って」。



居住が権利として保障されないことの異常さ


 日本国籍をもった日本人住民は「資格」を問われることなく日本で暮らすことができる一方で、外国人住民は「資格」なしに日本にいることができない。そんなことは当然じゃないかと思う人も多いのかもしれない。

 しかし、外国人が外国人であるかぎりつねに在留に「資格」を問われるという、現行の入管制度のありようは、具体的な事例をみていくと、きわめて異様なものだと言わざるをえない。たとえば、日本生まれで、自身の国籍国には行ったこともないというような人でも、「外国人」であるかぎり、在留「資格」が問われることになる。ということは、場合によっては、ほとんど見知らぬ「母国」に強制送還される可能性もあるということだ(実際、私の知っているケースでも、生まれてから一度も日本を出たことがなく、「母国語」を話すことのできない人が、意思に反して送還された例がある)。

 また、外国人が在留「資格」を認められるかぎりでしか日本にいることができないということは、言いかえれば、日本の制度において外国人の永住「権」が存在しないということでもある。たとえば、在日朝鮮人の多くは「特別永住者」という在留資格をもっているが、これはあくまでも日本の入管当局が付与する「資格」であって、永住する「権利」を保障したものではない。日本の制度における「永住者」あるいは「特別永住者」の在留資格とは、3年や5年といった在留期間の制限がなく、その都度期間の更新許可を受ける申請手続きをしなくてすむということにすぎない。在日朝鮮人たちが日本に居住するようになったのは、言うまでもなく、日本による朝鮮半島の侵略・植民地支配に原因がある。そうした経緯をもって4世代5世代にもわたって日本に居住するにいたった人びとにすら、日本の国家は居住を権利として保障するのではなく、あたかも恩恵でもほどこすかのようにその「資格」を「付与」するという立場に居直っているのである。

 日本のいまの入管制度のもとでは、外国人の在留はあくまでも国が与えたりうばったりすることのできる「資格」にすぎず、しかもそこに例外はない。



排外主義を育てる土壌


 どのような経緯があって日本で暮らしているのかにかかわらず、あらゆる外国人について、ここにいてよいのかどうかをもっぱらきめることができるのは国であるという考え方が、日本の入管制度をつらぬいている。こうした制度のありようが、日本人の排外主義を育てる土壌となっている面があるのではないだろうか。

 排外主義の言説は、「日本が嫌いなら(日本に文句があるなら)日本から出ていけ」というかたちをとる。自分たち日本人には、他者としての外国人が日本にいる「資格」があるかどうかを判定してもよいとでもいうような、はなはだしい思いあがりがここにはある。こうした思いあがった思考は、意識のうえで自己を国家と一体化させることで可能になっているのだろう。外国人の在留の「許可」「資格」を与えることができるとする国家と一体化し、あるいはこれを模倣するように、日本人は「日本から出ていけ」「国に帰れ」という排外主義の言葉をはきだす。入管制度は、日本人の排外主義に栄養をあたえ、あるいはその基盤となっている。

 外国人の在留の「資格」のあるなしはつねに国が決めてよいという、現行の入管制度のよってたつ思考への批判的な意識をもっていなければ、日本人は自分たちの排外主義的な思考と行動を克服することはできないだろう。それは、外国人への「支援者」という立場にある者であっても例外ではない。



-------------------


1: 「日本人」という言葉は、通常きわめてあいまいに使われている。とくに「私たち日本人」というように自称としてのこの語が使われる場合は、だれが「日本人」でだれがそうでないのかという境界が、話し手の都合によって伸び縮みすることがしばしばである。この文章では、日本国籍をもっている者(日本国民)という意味で「日本人」の語をもちいる。